
●悲しみは愛情に似ている
好き好んで悲しみを招く人はいない。けれども、悲しみは人間を謙虚にさせ、協調的な人間関係をつくる。
意見の合わない人や自分を傷つけた人に対しては、批判や非難で応酬したくなるが、大きな悲しみを味わったことのある人は、そんな当たりまえのことはしない。
非難する代わりに「神よ、われらをあわれみたまえ!」と言うのである。
私たちはこういった種類の人の前では、その気高さを直観せずにはいられない。悲しみは魂にとっての薬である。悲しみを知らないために、魂の存在にまったく気づいていない人も多い。
悲しみの洗礼を受けずにいたら、いまだに人間も知能の低い動物たちと変わるところがなかったかもしれない。
肉体だけの存在と精神的な可能性との間に立ちはだかる障壁を、悲しみが打ち倒すのである。悲しみは古い習慣を打ちこわして、新しい、よりあ良い習慣をその代わりとする。
このことからわかるのは、悲しみは人間が自己満足の奴隷にならないようにする自然の計画なのである。私は一度だけ大きな悲しみを味わい、そのおかげで私自身の魂へ通じる道を見出した。
この経験がなければ決して得られなかった自由が与えられたのである。そしてこの本の執筆に道を開くことにもなったのである。
悲しみは愛情──すべての感情の中で最高のもの──に、たいへんよく似ている。
災難が起こったときはその間中、悲しみが人々を友情の絆で結ぶ。そして兄弟の保護者になることの喜びを、私たちに教えてくれるのである。
悲しみは貧苦をやわらげ、心を清める!悲しみだけが教えてくれる心の富は、あまりにも素晴らしく、あまりにも多様なので、とても全部を紹介することなどできない。
悲しむことのできる脳力は、それだけで、その人の精神的資質の深さを示している。悪人は悲しむという感情を持ち合わせていない。悲しみを知っていれば悪人ではいられないからだ。
悲しみは自分自身の心の内側を見つめさせる。そして、病気や失望のすべてを癒す素晴らしい力があることに気づかせてくれる。また沈思と黙考の大切さも教えてくれる。
沈思黙考から得られる見えない力は、ある期間あるいはある事態に必要な助力と慰めを与えてくれるのである。
人がわれに返り、自分の心の内側に途方もない力があることに気づくと、愛する者のことや事業の失敗、あるいは自分の力の及ばない肉体上の苦難などの意味が明らかになる。
悲しみが与えられさえすれば、利己的な態度や傲慢、虚栄や自己愛が取り除かれるが、これも自然の企図した心身の鍛練であるように思われてならない。
悲しみも失敗と同じように、恩恵になるか災いになるかは自分の反応次第なのである。腹を立てずに、自分の鍛練に欠かせないものとして受け入れれば、悲しみは大きな恩恵を与えてくれるだろう。
腹を立てるばかりで、何も得られないといえば、災いでしかない。どちらを選ぶのもその人次第である。
悲しみが自己憐憫になることがあるが、自分を哀れんでみたところで、自分を弱めることにしかならない。
他人の気持ちに同情できるようにならなければ、あるいは自分を鍛える手段として歓迎しなければ、悲しみは自分のためにはならないのだ。
深い悲しみにあるときほど、無限の英知と密接になることができる。悲しいときの祈りは最も無限の英知の心を動かすので、明白な結果が表れることが多い。
悲しみが世に送り出した天才も多い。深い悲しみの底で自分自身を深く考察した結果である。
エイブラハム・リンカーンは、最愛の女性アン・ラトリッジを失って深い悲しみに沈んだが、この悲しみが彼の内省を促し、彼の偉大な精神を世に知らせ、時代の求めに応じて彼をアメリカ最大の指導者にしたのである。
報われぬ愛がもたらす挫折感は、人生の転機となることが少なくない。悲しみが大きな成功への導き手となるか、あるいは障害となって完全に破滅させるかというような転機である。どちらになるかは、その人の対応次第だ。
ここでもまた、選択は完全に本人の手にゆだねられているのだ!自分の心を自由に支配し、自分の選んだ目標に進むというその人の特権は、神でさえ奪えないものである。
どんな力であろうが、本人の承諾なしに、この特権を無効にすることはできないのである。
●悲しみの大学
悲しみは、何らかの建設的な行動や人格の形成へと転用すれば、巨大で積極的な力となってくれる。どうしても治らなかったアルコール中毒を、悲しみが治すこともある。
また、悲しみが人間の罪のほとんどを正すことも知られている。「悲しみが力を失えば、悪魔が代わりにやってくる」とも言われる。
悲しいときには、人はいっさいの虚飾をかなぐり捨て、自分をあからさまにする。悲しみとは、謙虚な人にも高慢な人にも、等しくざんげの時間だからである。
もし悲しみという感情がなかったら、人間もトラも区別がつかないほど凶暴になり、それどころか知能に優れるだけに、危険は限りのないものとなろう。
人間に最高の知性を与えた創造の神が、一緒に悲しむという感情を与えて知性が高度になるように計らったのは、さすがである。
人間が優れた脳力を適切に使えるように考えたのである。サディストや重罪人は、高い知力を持ちながら悲しみの感情を持ち合わせていない人間であることが多い。
悲しみを知らない人間とは、悪魔の化身かもしれない。悲しみが深く、耐えられないと思ったら、人生の十字路に立っているのだということを思い起こしていただきたい。
四つの方向から一つを選ぶのである。一つだけが心の平和へと通じている。他の方向へ行っても、他の方法を使っても、心の平和は得られない。
さらに思い起こしていただきたいのは、悲しみの手に触れられたことのない人は、本当に生きたとはいえないのだということである。
悲しみ以外に魂に通じる関門を開ける鍵はない。魂こそは無限の英知という大海原へ船出する港なのである。
悲しみとは、理性の導きに従おうとしない人を保護する、一種の安全弁である。強い心の持ち主には強壮剤であるが、弱い、修練の足りない心の持ち主には棍棒となる。
私は五〇歳のときに、〝悲しみの大学〟を卒業した。生まれてから五〇歳になるまでに、およそ人が経験しうるありとあらゆる悲しみに出合い、どうにかすべてに勝つことができた。
悲しみの川をすべて渡った私だが、一つだけ最後に残ったものがあった。それは最も深く、大きなものであり、私にはまだ免疫のない、新しい種類の悲しみだった。
この悲しみが含んでいたものは、あらゆる感情のうちで最も深く最も危険なもの──愛、であった。私は小道をたどって愛の国へさまよいこんだが、道は迷路になっていて、後戻りが難しかった〔訳注…ヒル博士の離婚のことを指している〕。
それまで、数えきれない教え子たちがこれと同じ誤りを犯すのを見て、彼らの弱さに軽蔑に近いものを感じるのがいつものことだったのだ。
今や、立場はすっかり逆であった。ようやく私は報われぬ愛の悲しみを知った。そして、この経験を何か建設的な行動に変える方法はないものかと考えた。
それまでも苦しいときにいつもしたように、後悔する暇などないように仕事に忙しく取り組んで、気持ちの転換に取りかかった。
運命の手の不思議な招きで、私はサウスカロライナ州のクリントンという小さな町へ赴いた。悲しみを克服し、成功哲学を書き直す──これには一年以上かかった──ために、私はこの町に落ち着いた。
私の独り暮らしのアパートの部屋には一枚の油絵がかけてあった。美しい森の中を広い川がよこぎっているが、川は途中で鋭く向きを変えて、見えなくなっている。
くる夜もくる夜も、私は絵の前に腰かけ、曲がった川の向こう側から希望の船がやってくるのを待っていた。船はこない。何日待っても、何週間、何カ月待っても。それでも私は独りきりだった。
私はそれまで、好ましくない状況からなんとか抜け出してきたが、このときばかりは自分自身の殻に閉じ込められ、身動きがとれないように思われてならなかった。
もうこれ以上は耐えられないほど退屈だった。私はこうした経験から、生涯で最大ともいえる教訓を学ぶことになった。
すなわち、男性は自分の選んだ女性を伴侶にしなければ未完成だということである。この経験がなかったら、私はこの教訓を得られなかったろう。
独り暮らしも一年ほどを過ぎたある夜のこと、約束の夕食に出かけるため、私は着替えをしていた。部屋は薄暗かった。ふと壁の絵に目をやると、不思議なことが起こっていた。
絵に注ぐ淡い光のために、川岸をまわってこちらへやってくる船の姿がはっきりと見えたのである。
「ついに希望の船がきた!」と私は叫んだ。その夜、向かい合って客と夕食を共にしているとき、私はもう一つの発見をした。
私がどうしてクリントンのような小さな町に誘われたのか、その理由をはっきりと教えられた。私は未来の妻を目の前にしていたのである。
なかなか見つけられなかったのに、こんなに身近な存在だったのである。意外であった。こうして、悲しみのどん底にあった私は、人生最高の宝を手にした。
代償という永遠の法則が償ってくれたのである。人生最高の宝、私の妻は、私に残された人生を最後まで手を取り合って歩いていくのに、まったくふさわしい人である。
私はできるだけ多くの人のためになるよう、悲しみを哲学的に明らかにし、仕事の総仕上げをするつもりだが、これは妻との共同作業である。
けれども私が、苦しい状況を建設的な行動へと転換するありがたい方法を身につけていなかったら、こうした代償も得られず、成功哲学も完成しなかったに違いない。
●あなたの支配者はあなたしかいない
この次、歯科医の椅子に座ることがあったら、きっと「転換する」というこの言葉を思い出していただきたい。
何か建設的なことばかり忙しく考えて心を満たし、肉体的な痛みなど感じる暇がないようにするのである。
悲しみに襲われたときも同じように、まだ達成されていない目的のことに考えを切り換えるのだ。
その目的を達成するための手段や方法についてあれこれと考え、自分を哀れむ暇などないようにするのだ。そうすれば自分には隠れた財産があることに気づくはずだ。王様の財産をはるかにしのぐ宝である。
すなわち、自分こそが自分の支配者だと気づくのだから!悲しみが何をもたらすかについては、私も知っている。私は、悲しみのまっただ中に生まれたのだ。
ヴァージニア州南西部の山中にある一部屋しかない丸太小屋が、私の生家である。馬一頭、牛一頭、寝台一つ、トウモロコシのパンを焼くオーブン一台が、生まれたころのわが家の財産だった。
理屈からいえば、私が貧困と縁を切れる見込みなどは露ほどもなかったし、まして世界中の仲間のためになれるなどとは夢にも思えなかった。
両親は貧しく、そのうえ、字が読めなかった。近所の人たちも貧しく、読み書きができないことに変わりはなかった。私の生まれながらの財産といえるのは、健康的な肉体だけだった。
私の生い立ちを手短に述べたが、そんな私がどうして世界でも類のない実践的成功ノウハウを世に問う巡り合わせになったのか、不思議に思われるに違いない。
私自身、今でも首をかしげている。しかし、賢者はこう言っている。
「神は不思議なやり方で不思議を成し遂げる」子どものときの悲しい体験は、他人の悲しみを軽くしたいという熱望になった。この熱意は強く、衰えることがなかった。
そのために私は、成功と失敗の原因を探るという、何の得にもならない研究を二〇年以上も続けることになってしまったのである。
子どもの私に悲しい思いをさせたのは、もしかすると私を世の中に役立つように仕向ける深謀だったのかもしれないのである。
●悲しみは正当に評価しよう
「何の得にもならない研究」と私は言ったが、もちろんこれは、研究の途中ではそれほどの金銭収入が得られなかったという意味である。
ただ後半からは、アンドリュー・カーネギーが予言したとおり、私は文字どおりの大富豪となった。もっとも、これも一九二九年の世界的大恐慌で一時的にはゼロから出直しになったが。
この研究は私にとって何であったかといえば、まず成功の科学の研究に携わっていたこの二〇年間は幸運の連続で、きわめて順調であったということである。
少なくとも著作にかかわりを持つ人で、私の二〇年間にまさる、恵まれた経験をした人がいるだろうかと、私は心から思う。
そしてようやく「得にならない」歳月のおかげで、私は数えきれない人たちの生き方に影響を与えることができたばかりでなく、個人的にもこの世での十全な人間的完成を意味する偉大な富を、これ以上はないほどに自分のものにすることができたのである。
もし私が人生をもう一度やり直せたら、あの悲しかった幼少期を避けて通るのだろうか?いや、絶対にそんなことはない。
あの経験こそ私の心身を鍛え、魂を高め、私を真の人生の課題へと赴かせたのだ。私の悲しい経験が人生の暗い密林を抜け出ようと悪戦苦闘している人たちの役に立ったのである。
ここで私が何を伝えようとしているのか、その意味を十分に汲み取っていただきたい。そうすれば、歯科治療や外科手術の恐怖克服法などはとるに足らないことがわかると思う。
この本が私の書きたいと思ったとおりのものになっていたら、あらゆる苦しい状況を自分に有利に転換させる力の源泉へとご案内できるはずである。
この力の源泉とは、鏡には映らない「もう一人の自分」に働きかけるものだ。悲しみを正当に評価することを一度学んでおけば、いつ悲しみに出会っても、その悲しみが持っている利益に気づくはずだ。
さらに悲しみこそ、人間を動物的なものから区別する自然の根本的な摂理だということがわかるだろう。人間より低い発達段階にある動物は、悲しみという有利な感情を持たない。
ただ犬だけは例外である。長いこと人間の伴侶であった結果、人間ほどではないにせよ、よく似た感情を持っているのである。
悲しみを受け入れる脳力の大きい人は、天才〔訳注…ここでいう天才とは先天的な天才のことではなく、「自分自身を完全に自己コントロールできる人間」といった意味である〕になる大きな可能性を秘めた人でもある。
ただしそのためには、悲しみを自己憐憫に向けるのではなく、訓練の源として歓迎することが必要だ。
奇跡とは、一つひとつが神秘的な潜在力でくっきりと縁どられていて、その潜在力は正しく解決した人に大きな利益となるのだ。偉大な奇跡の谷を旅するにつれて、そのことに気づくだろう。
さらに、心の平和は自然の法則を正しく理解し、正しく対応する人にだけ与えられるということにも気づくはずだ。
もし、あなたがこの点を見落とされるなら、私を本書の執筆に駆りたてた大きな目的に気づかずに過ぎてしまう。
社会でも家庭でも、不幸に襲われたときに悲しみが事態の収拾に貢献するのは普遍的なことである。
仲たがいしたまま何も受け付けなかった夫婦の溝を、悲しみが埋めたのを私は知っているし、何世代も続いてきた深い反目を悲しみが氷解させるのも見てきた。
悲しみという感情は、愛するという感情と同じように、それを体験する人の魂を高め、混迷の世の試練と苦難に立ち向かう勇気と信念を授けてくれる。
そのためには必ず、悲しみを災いとしてではなく、恩恵として受けとめなければならない。悲しみを恨んでいると胃潰瘍や高血圧になりやすいし、対人関係でも摩擦を生じやすい。
どんな悲しいことも、それに見合う喜びの種子を連れてくるのだ!種子を見つけ、芽を出させ、豊かな喜びの果実を味わうことだ。
これができれば、どんな大手術であっても、いつまでも悩んではいられない、ささいな問題になってしまうだろう。
悲しみに出会ったら自分を甘やかさずに周囲を見まわし、自分より深い悲しみを持った人を見つけるのだ。
そして、その人が悲しみを乗り越えられるように援助するのだ。するとどうだろう、悲しみが薄らいでいくではないか。自分の悲しみが、それを癒す特効薬に変換して、心身に作用しているのだ。この種の薬は、他のさまざまな苦しい体験にも効き目を表す妙薬なのである。
エッセンス⑰()
▼悲しみは、人間の最高の感情である愛情とよく似ている。悲しむことのできる脳力は、それだけで、その人の精神的資質の深さを示している。
▼悲しみは、それを建設的な行動や人格の形成へと転用すれば巨大で積極的な力となってくれる。悲しみが力を失えば悪魔が代わりにやってくるのである。
▼悲しみ以外に魂に通じる関門を開ける鍵はない。魂こそは無限の英知という大海原へ船出する港である。
▼悲しみは、人間を動物的なものから区別する自然の根本的な摂理である。どんな悲しみも、それに見合う喜びの種子を含んでいる。
▼悲しみは、その人の魂を高めてくれる。悲しみを災いとしてではなく恩恵として受けとめよ。

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