第四話いかにして師を得るかしかし、こう申し上げると、皆さんの中から、嘆く声が聞こえてきそうです。
「たしかに、師匠が大切だというのは分かりますが、周りにろくな上司がいないのですよ」「師匠にしたくとも、職場には、あまり、たいした先輩がいないのですよ」そうした、嘆き声です。
たしかに、これは、なかなか厳しい意見ですが、そうした意見を持つ方に、敢えて、申し上げたい。
師匠とは、与えられるものではない。
自身が、自ら見つけ出すものです。
これは、どういう意味か。
たしかに、我々ビジネスマンは、自分で選べない職場で、自分で選べない上司に、仕える。
そして、必ずしも、仕えた上司が「師匠」と思える人物とはかぎらない。
むしろ、残念ながら、そう思えないときが多いかもしれない。
しかし、そのとき、謙虚な心で、もう一度、周りを見渡していただきたい。
例えば、隣の課の課長、隣の部の部長。
それらの方々の中に、「師匠」と仰ぎたくなる人物がいるかもしれない。
いや、我々が、本当に謙虚な心を持って見つめるならば、ときに、こちらが仕事を頼む立場の業者の方々の中にさえ、「師匠」と仰ぎたくなる人物がいるかもしれない。
では、問題は、どこにあるか。
自身の心です。
自身の心が、本当に謙虚であるならば、周りに「師匠」と仰ぐべき人物は、必ず、いる。
実は、「師匠」との出会いを妨げているのは、「周りに、ろくな人物がいない」と嘆く、自分自身の驕った心かもしれない。
一度、そう考えてみるべきでしょう。
そして、謙虚な心で周りを見渡せば、やはり、「師匠」と仰ぐべき人物は、いる。
必ず、いる。
なぜなら、目の前の職場は、我々の心が映し出された「鏡」だからです。
「驕った心」という、その「鏡」の曇りを取り除けば、「師匠」と仰ぐべき人物は、必ず、目に入ってきます。
心の中で敬服すべきものを持った人物が、必ず、いる。
たしかに、それは、自分の直属の上司ではないかもしれない。
そのときは、あの古い言葉、しかし、香りに溢れた言葉を、思い起こされるべきでしょう。
「私淑」その言葉です。
この「私淑」という言葉は、香りのある言葉です。
心の中で、「あの方は私の師匠だ」と思い定め、その方を遠く見つめながら、学ぶ。
この「私淑」ということを、されるべきでしょう。
周りに「師匠」と仰ぐべき人物を見出し、心の中で、「私淑」する。
それが大切です。
しかし、周りに「師匠」を見出そうとするとき、忘れてはならない、一つの心得があります。
何か。
「一芸」を学ぶ。
その心得です。
いま、目の前にいる上司。
そして、職場の仲間。
それらの方々を、「ろくな人物がいない」「たいした人材がいない」と切り捨てる前に、もう一度、じっと見つめてみるべきでしょう。
もちろん、すべてに秀でているスーパーマンはいない。
しかし、ビジネスの世界で仕事をしているかぎり、誰にも、「一芸」が、ある。
必ず、学ぶべき素晴らしいものが、一つある。
例えば、目の前の上司。
顧客営業や社内交渉はあまり上手ではないかもしれない。
しかし、なぜか、人の心を遠ざけない。
職場の雰囲気を和やかなものにしていく力がある。
そうであるならば、その上司は、その力を学ぶ「師匠」かもしれない。
だから、「一芸」を学ぶ。
それは、「師匠」を見出すとき、忘れてはならない心得です。
そして、もう一つ、忘れてはならない心得がある。
「反面教師」として学ぶ。
しかし、この言葉の意味を誤解してはならないでしょう。
なぜなら、我々は、この「反面教師」という言葉を、しばしば、「皮肉」の言葉として使ってしまうからです。
「あの人は、何も学ぶべきものがない、欠点だらけの人物だ」「だから、あの人から学ぶとすれば、せいぜい、反面教師として学ぶだけだ」そういった「批判」や「非難」を込めた「皮肉」な意味あいの言葉として使ってしまいます。
しかし、この「反面教師」という言葉の、本来の意味は、そういう意味ではない。
では、何か。
他人の中にある「欠点」は、必ず、自分の中にも、ある。
そのことを教えてくれる言葉なのです。
そして、この言葉を、その本来の意味そのままに解釈したとき、我々は、この言葉を使って他人を「裁く」という過ちから、免れることができる。
そして、この言葉を、自らの姿を映し出す「鏡」として、使うことができるようになる。
この「反面教師」という言葉。
それは、本当は素晴らしい言葉です。
他人の中にある「欠点」は、必ず、自分の中にも、ある。
もし、我々が、このことを素直に受け止めることができたならば、我々は、最高の「師匠」に巡り会うことに、なる。
そうではないでしょうか。
師匠とは、与えられるものではない。
自身が、自ら見つけ出すものです。
そう申し上げました。
この「自ら見つけ出す」という意味が、お分かりいただけたと思います。
それは、職場の外で数多くの人々と出会ってその中から「師匠」を見つけ出す、という意味ではない。
それは、「自らの心の姿勢」を見つめ直すことによって
すでに傍らにいる「師匠」に気がつく、という意味にほかなりません。
問われているのは、「自らの心の姿勢」。
それに気がつくか、否か。
例えば、「謙虚な心」。
それが無ければ、傍らの「師匠」に気がつくことは、ない。
そして、「求める心」。
それが無ければ、「師匠」と巡り会うことは、ない。
先ほど、「師匠とは、与えられるものではない」と述べました。
しかし、最後は、与えられるものです。
自身が、自ら見つけ出す努力を尽くしたとき、そして、切に「師匠」を求める心を抱いたとき、不思議な「縁」が、与えられる。
表面的には、「偶然」としか思えない巡り会い。
しかし、深く見つめれば、それが「必然」と思える。
そうした「巡り会い」を、古人は、何と呼んだか。
「邂逅」です。
されば、我々が求めるべきは、「師匠」との邂逅。
その「師匠」との邂逅を通じて、我々は、職業人としての力を磨いていくことができる。
そして、人間としての力を磨いていくことができる。
そういう意味で、一生懸命に仕事に取り組むことを通じて素晴らしい「師匠」と巡り会ったとき、我々は、すでに、最高の「報酬」を得ているのかもしれません。
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