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「想像力」の極みで死と対峙する/極限

「想像力」の極みで死と対峙するさて、このように「死生観」について話をすると、皆さんから質問が出てきそうです。では、その「死生観」を身につけるには、どうすればよいのか。

その質問です。

この民主主義の国では、戦前のような「投獄」はない。この平和な国では、実際の「戦争」に行くこともない。この健康、長寿の国では、若くして「大病」になることは、稀である。従って、この現代の日本では、若くして「生死」の体験を持つことは、殆どない。

では、どうすれば、若き日から、「死生観」を身につけることができるのか。そうした質問が、出てきそうです。これには、安易な答えや方法はない。

しかし、敢えて、一つの方法を述べましょう。

それは、「想像力」の極みで、死と対峙することです。例えば、「文学」です。人間の生死の限界を描いた文学を、読む。

ただ漫然と読むのではなく、そこで描かれている生死の世界を、「想像力」の極みにおいて、読む。「想像力」の極みにおいて、そこで描かれている「死」と対峙する。

例えば、『静かなノモンハン』という小説があります。吉川英治文学賞を得た、伊藤桂一の小説です。この小説は、戦争を描いていながら、派手な戦闘シーンが出てくるわけではありません。

むしろ、全体を通して、静かな描写です。ただ、淡々と書かれている。しかし、凄まじい重みで、戦争の真実が伝わってきます。

例えば、こうした描写です。

敵軍との銃撃戦の最中に、多くの仲間が撃たれる。腹を撃たれた仲間は、あまりの苦しさに「殺してくれ、殺してくれ」とせがむ。

なかには「スコップで殴り殺してくれ、頼む」とい寄ってくる仲間がいる。しかし、助けることも、殺すこともできない。

そうした情景を淡々と描いています。この小説は。

子供の頃に観た『コンバット』というテレビドラマがある。実際の戦闘は、あんな派手なものではない。

テレビでは、銃撃戦でドイツ兵を撃つと、ばたばたと死んでいく。しかし、実際の戦闘では、あれほど簡単には、死ねない。簡単に死ねたら、むしろ幸せです。

何がつらいかといえば、撃たれてもすぐに死ねないから、つらい。特に、撃たれて死ぬときには、腹を撃たれたときが、いちばん苦しい。そのことは、この小説の別な戦場の描写にもあります。

腹を撃たれ、一晩中苦しみながら泣き叫ぶ、敵兵の声が聞こえてくる。そうした凄まじい世界が、淡々と描かれています。こうした文学を、そこに描かれた生死の世界を、想像力の極みにおいて、読む。

人間の命というものに対する深い思いを持って、読む。それも、一つの方法です。

また、例えば「手記」です。不治の病を体験された方の書かれた手記を、読む。その方の書かれた手記を、その文章と格闘するような思いで読むことです。

生死の体験をされた方の語る言葉を、魂で正対して聴くことです。ここに一冊の本があります。

『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』という本です。

これは、悪性腫瘍で若くして他界された医師の手記です。この方は、大手術をしたにもかかわらず、悪性腫瘍が再発する。検査の結果は、絶望的なものであり、長くは生きられないことを知る。

そして、その方は、自宅に戻ってこられるのです。そのときの描写は、深く、胸を打ちます。マスコミは、しばしば「闘病」という言葉を好みます。

しかし、「病と闘う」という言葉の響き。真実は、それほど格好のよい世界ではありません。人間の真実とは、その真実が深いほど、静かです。

この方は、こう語られています。

検査の結果を知った後、夕刻、自宅に帰ってくる。アパートの駐車場に車をとめながら、不思議な光景を見る。世の中が輝いて見えるのです。スーパーに来る買い物客が輝いている。走りまわる子供たちが輝いている。

犬が、稲穂が、雑草が、小石までもが、美しく輝いて見えるのです。そして、自宅へ戻って見た妻もまた、手を合わせたいほど尊く見えたのです。

そう語られています。それが、人間の真実ではないでしょうか。

これは、体験された方でなければわからないと思います。なぜ、「生死」の淵において、世界が光り輝いて見えるのか。この大いなる逆説。

たしかに、「奈落の底」という言葉があります。この方は、それを体験されたのでしょう。だから、帰り道には、世界が真っ暗に見えたのでしょう。

しかし、人間の真実というのは、不思議です。そういうときに、まったく逆の「光り輝く世界」を見るときも、ある。その不思議を感じます。

このように、文学や手記を通じて「生死」の極限の世界を、想像力の極みにおいて、感じとることです。もとより、「体験」することと、「想像」することの間には、決して越えられない淵がある。

しかし、想像力の極みにおいて、いったい我々は、何を感じとることができるのか。それは、我々の想像力と感性の瑞々しさを、そのままに映し出すのです。

もし、我々に、瑞々しい想像力と感性があるならば、「文学」や「手記」だけでなく、「報道」や「映画」を通じても、大切な何かを感じとることができる。

しかし、現代は、「現実」と「虚構」の倒錯する時代です。

この時代に、我々は、想像力と感性を失いつつある。

例えば、テレビでの湾岸戦争の「報道」。あれは、「デジタル・ウォー」と言われた戦争でした。ハイ・テクノロジーの粋を集めて戦争を行った。

だから、テレビで敵国施設を爆撃するシーンを見ても、コンピュータ・ゲームと同じようにしか見えない。

しかし、あたかもゲームで爆弾を落としているように見えるその場所で、現実に命を落としている方々が、いる。

そのことに、我々は、気がつかなくなっている。これが、想像力や感性を失いつつある、我々の姿です。そうであるならば、たとえテレビの報道を観るときにも、我々の大切な何かが、問われている。そのことの怖さを忘れてはならない。

それは、「映画」を観ても、同じです。映画というものも、それを「虚構」として侮るべきではない。例えば、『ディア・ハンター』という映画があります。観られた方は多いでしょう。

あの映画の中で、俳優のロバート・デ・ニーロ演じる主人公が、ベトナムで捕虜になる。そこで、敵に「ロシアン・ルーレット」をやらされます。現実にそういう歴史的な事実があったかどうかは知りません。

しかし、あのシーンを見て、もし自分がこのシーンに遭遇したら、どうするだろうかと想像してみる。戦争で捕虜として捕まり、自殺ゲームをやらされる。ロシアン・ルーレットをやらされる。それをしなければ、殺される。

しかも、ロシアン・ルーレットは、普通一発の弾が入っているのですが、この主人公は、最後に三発の弾を入れてやるのです。

このぎりぎりの生と死を分ける瞬間を、ロバート・デ・ニーロは、凄まじい鬼気迫る演技で、演じて見せます。

このように、たとえ映画という虚構の世界でも、もし我々が、瑞々しい想像力と感性を持つならば、大切なことを、感じとることができる。

それが、一つの方法です。

「想像力」の極みで、「死」と対峙する。それが、我々が「死生観」を身につけるための、一つの方法です。

そして、そのような「死との対峙」という意味で紹介したいのが、仏教学者の紀野一義師です。いま世の中には仏教の本が溢れ、安易な仏教解説書が溢れています。

しかし、この紀野一義師の書かれた書は、腹が据わっている。そして、この方の仏教講話も、腹が据わっている。その理由を、この方の体験談を読み、理解しました。

この方は、広島の原爆で、父母姉妹を一瞬にして亡くされたのです。あの原爆の爆心地にいたご家族は、一瞬にして蒸発されたのです。

そして、それだけでも言葉にならない体験ですが、戦争中にも、生死の極限の体験をされている。

何か。不発弾の処理です。不発弾の処理と言えば、聞こえは良いですが、これは、処理のやり方を間違ったら、一巻の終わり。

この紀野一義師は、戦争中の台湾で、不発弾処理のため、信管を抜くという仕事をしたのです。

しかし、信管を抜くといっても、やり方を間違ったら、終わり。また、実際、処理に失敗して命を失う方も、いる。そうした状況において、この紀野一義師は、何をしたか。

座禅を組んだのです。不発弾を目の前にして、座禅を組んだのです。座禅を組んで、不発弾を一心に見ている。すると、ふっと信管が見える。その瞬間、さっと立ち上がり、スパナを持って、信管をぱっと外して取る。無心です。

昔から、この紀野一義師の仏教講話は腹が据わっているので不思議に思っていたのですが、この方もまた、そうした「生死」の体験をお持ちでした。

いま、仏教思想を語る方でも、それほどの体験を持たれていない方も多い。仏教関係の本を読むと、著者の体験と力量が、行間から伝わってきます。

実際、仏教を「勉強」した方は多いのですが、それを「体験」「体得」した方は、それほど多くはない。

この紀野一義師は、そういう体験を持ち、何かを体得されています。そして、この紀野一義師が、若き日に行った修行が、これも凄い修行です。

「明日、死ぬ」という修行です。これは、やろうと思えば、誰でもできる修行。ただ、それを本当にやるには、大変な想像力が必要です。

そして、強靭な精神力が求められます。

これは要するに、「自分は、明日、死ぬ」と思い定め、今日を生き切る、という修行です。

この方は、毎日、毎日、生活をしながら、明日死ぬ、明日死ぬ、明日自分は死ぬ、と思い定め、今日を生き切る、という修行をされたのです。

人間の修行には、これほどの世界もあります。これは、人間の精神のぎりぎりを、極限まで究めていく修行です。この修行を、紀野一義師は、自らに課した。

同じことを、皆さん、静かに想像してみていただきたい。明日、自分の命が終わりだとしたら、何を考えるでしょうか。

仮に特攻隊でもいい、死刑囚でもいい、どんな立場でもいい。明日、自分の生が終わるとしたならば、今日という一日を、どのように生きるだろうか。

そのとき、この窓の外の景色が、どう見えるだろうか。いま横にいる職場の仲間が、どのように見えるだろうか。そのことを、静かに想像してみていただきたい。そんなことは想像もつかない、という方もいるでしょう。

しかし、人間の想像力、精神力は凄いものです。

紀野一義師は、その想像力の極みで、死と対峙する修行をされたわけです。そして、運命というのは不思議です。

この方は、若き日に「明日、死ぬ」という修行を行い、何年か後に、実際に命を賭けて、信管を抜くという仕事に取り組むわけです。

もし、この世に、「天の導き」というものがあるならば、それが、この紀野一義師を導いたのでしょう。

そして、この方は、それから後、多くの方々に仏教講話を行うことを使命として、生きてこられました。

それは、おそらく、天が与えられた使命でしょう。さて、お分かりになったでしょうか。「想像力」の極みで、死と対峙する。そのことの意味が、お分かりになったでしょうか。

 

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