「業者」を「業者」扱いしない心のバリアフリー売上を伸ばすオバチャン買わない人も「お客様」
カサ泥棒
武藤信也は、地元の市役所に勤めている。独身、一人暮らし。でも、近く、家庭を持ちたいと思っている。それは、3日前の日曜日、昼前のことだった。
昼飯を買いに出かけようとして、マンションの部屋のドアを開けた。ちょっと雲行きが怪しい。面倒ではあったが、カサを手にして出かけた。
去年の誕生日に彼女からプレゼントされたブランドもののカサだった。5階の部屋からエレベーターで下りると、小雨がパラつき始めた。
「おっ、大正解!」カサを広げてコンビニへ向かった。おにぎりを2つと500ミリリットルのペットボトルのお茶。それに、サバの味噌煮の缶詰をカゴに入れた。
レジへ行きかけて雑誌コーナーに目が留まった。青年向けのマンガ雑誌の最新号が出ていたのだ。いつもは会社の近くの喫茶店で読む。
ついつい連載マンガの続きが気になり立ち読みした。これがいけなかった。気づいたときには、外は土砂降りになっていた。レジでお金を払って外へ出る。帰ろうと思ってカサ立てを見ると……。ない。
つい先ほど、ここへ立てておいたカサがないのだ。「やられた!」辺りを見回したが、信也のカサを差している人は認められなかった。
信也は今まで何度も経験していた。パチンコ屋、居酒屋、学校でも。世間では、カサを忘れたら、そこにあるカサを勝手に持っていくことに抵抗がないらしい。
間違いなく、それは泥棒だ。犯罪だ。盗られた人の気持ちがわからないのか。ひょっとすると、自分も盗られたことがあるからと、仕返しの気持ちで平然と盗るのか。だんだん腹が立ってムカムカしてきた。
言っても無駄だと思いながらも、入口近くで商品棚の整理をしていたバイトの男子学生に訊いた。
「ここに差しておいた私のカサ、知りませんか」「え?」「グリーンとベージュのチェックで、イタリアのブランドの……」「ないんですか?」「ええ、誰かが持っていったみたいで」その店員が、レジを打っていたオバチャンの方を向いて大声で言った。
「水野さ~ん、この人、カサを盗まれちゃったってぇ~」(おいおい、そんなに大きな声で)と思ったが、店内にいた5人くらいの客が信也の方に目を向けた。
「カサをお貸ししますから」
「水野さん」と呼ばれた60過ぎのオバサンは、「あら、たいへん」と言って、入口のところまでやってきた。「どれどれ、どんなカサ?」面倒だったが、もう一度カサのデザインを説明した。
「似たようなカサと誰かが間違えちゃったんじゃないの?よくあることなのよ。私もさ、この前、おじいさんの法事のときにね、靴を間違えて履いてきちゃってね。どうもおかしいと思ったのよお~。なんだか窮屈な感じで。家まで帰ってきて、脱いだときに初めて気づいたの。あら、似てるけどコレ、私のじゃないわって……」
「あのですね。靴の話じゃなくて……それに間違いは絶対ありえません!」「あらあら、ごめんね。でもさ、人間なんだから、間違いはあるものよ」「見てください」信也は、オバチャンを外に連れ出した。
そして、カサ立てに、一本もカサがないことを見せてやった。雨は、ついさっき降り出したばかりなのだ。「……」(そら見ろ)と、信也は「してやったり」という気分でオバチャンの顔を見た。
もっとも、それでカサが返ってくるわけではないが……。
「そうそう、あなた。私の置きガサが奥にあるのよ。折り畳みだけどい~い?それを持ってきてあげる」「そんなの……いいですよ」「遠慮しなくてもいいのよ。そうだ!」と言うと、オバチャンは店の中に戻り、店内にいるお客さんたちに向かって大声で呼びかけた。
「すみませ~ん、みなさん。カサをお貸ししますから、必要な方はレジで声をかけてね~!でも、2本しかないのよ~。早い者勝ちね!後でちゃんと返してくださいね~」オバチャンは奥から3本のカサを手に戻ってきた。
「あなた、これ使いなさい。ちょっと骨が折れてるけど濡れなきゃいいでしょ」「ありがとう」「それからさあ。あなたのケータイ番号教えてよ」「え?」「カサが見つかったらさあ、電話するから」
「そんなの無理ですよ。ありえません」「だからさ、間違ったのかもしれないしさ。私の靴だって……」信也はそこから先の言葉をさえぎるようにして、「わかりました、わかりました。番号をメモしときます」信也は、どこの誰だかわからないカサ泥棒に怒りを込めて、ドアをバンッ!と叩くようにして店を出た。
マニュアルにないことだけど……
そして、3日後の夕方のことだった。仕事中に、あの「水野さん」とかいうオバチャンからケータイに電話が入った。
「カサが返ってきたかもしれないから、ちょっと見に来てもらえない?」まさかとは思ったが、仕事の帰りにコンビニに立ち寄ることにした。
夕飯もついでに買うつもりで。店の前まで来て、入口の脇に大きな貼り紙があるのに気づいた。映画のポスターくらいの大きな白い紙に、マジックで手書きの文字があった。それを見て、信也は立ち尽くした。
「お客様へ間違えてカサをお持ち帰りになられた方がいらっしゃいます。よくあることのようです。グリーンとベージュのチェック柄です。イタリアのブランド、アルパチーノです。
持ち主の思い出のカサとのこと。似たようなカサをお持ちの方は、一度お確かめくださいませ。店主敬白」中から、背の高~い、女性店員が出てきた。
やけにまつ毛が長くて美形。まるで女性雑誌から抜け出たようなスタイルだった。
「ハイ!あなたでしたよね。これ、間違いないでしょうか?」差し出されたカサは、間違いなく信也のものだった。
「よかったですね、見つかって。今日は、水野は早番なんで、ごめんなさいね。よろしく!って言ってたわよ!」信也は、また明日、もう一度お礼に来ようと思った。
ユカリは、オバチャンと、カサを盗まれたというお客さんとのやりとりを、そばで聞いていて、「どうしたらいいのだろう」と悩んでしまった。
以前なら、「そこまでお店では面倒見られません」と言うだろう。エンジェルマート京南大学前店でも、駐車場にはこんな看板が掲げてある。
「当駐車場をご利用のお客様へ当駐車場での盗難、接触事故には十分にご注意ください。万一、トラブルが発生した場合、当店では責任を負いかねます。店主」基本的に、店の外での出来事は、自己責任ということになっている。
念のため、スーパーバイザーの篠山に訊いてみた。あまり話したくはなかったが……。
すると、「そんなの、キリがありませんよ。マニュアルにあるはずがないですよ。そんなことより、問題だなぁ~。ビジネスチャンスじゃないですか。雨が降ってきたんですよ。グッドタイミング!なんで、カサを貸すんですか、店内の人に。うちでも、ビニールガサや折り畳みガサを売っているんですよ。それを売らなきゃ!」とまくし立てられた。
なにか良い解決策はないか。そこで、オバチャンに提案した。「こんな貼り紙をしましょうよ」と。
オバチャンは、「私は、ただのオバチャンだから……そういうことは、副店長さんにお任せするわね」急いで、店内に貼ってあった映画のポスターの裏に、マジックでメッセージを書いた。
ユカリは、「ここからなにができるか」を考えた。今回は、そのマニュアルさえもない。お客様にどうしたら喜んでいただけるか。でも、誰かを疑うわけにはいかない。
その思案の結果が、「店主敬白」の文章だった。カサを、わざわざ返しに来てくれた人がいる。そして、カサが返ってきて、喜んでくれた人がいた。まだ1回だけだが、鉄棒から頭一つ分だけ、クイッと上に出せた気がした。
気づいたら走る!
ある日のランチ時のこと。コンビニが一番にぎわう時間帯。1台の赤いミニワゴンが、コンビニの入口ドアの真正面の場所に停車しようと入ってきた。
他はすべて車が停まっていて、そこしか空いていない。なぜ、そこだけが空いていたのかというと……。身障者用の駐車スペースだったからだ。
ところが、車は身障者用の駐車スペースの手前で一旦停止した。
レジでお客様の対応をしながら、ユカリは、なんとなく気になってチラチラと見ていた。車の運転席のドアが開いた。ドライバーは男性だった。後部座席に手を伸ばして、器用に車椅子を取り出す。
コンパクトに折り畳んであった車椅子を、パッと広げて外へ出す。両腕だけを使って、運転席からサッと車椅子に乗り換えた。
そして、まるで自分の身体の一部のような自然な動きをして、駐車してある車と車の間に車椅子を滑り込ませた。
その瞬間、ユカリはハッとして声を上げてしまった。
「あっ!」目の前のお客さんはみんな(どうしたんだ?)という目つきで、ユカリの視線の先を見た。
車椅子の男性は、身障者用スペースの手前に立ててある赤い三角コーンのそばまで行くと、ヒョイと右手で持ち上げて脇にどかした。
そして、再び、いとも軽やかな動きで車に乗り込む。もちろん、車椅子は車内に仕舞う。
もう一度エンジンをかけ、スルスルッと身障者用の駐車スペースに停めたのだった。ユカリは、胸が苦しくなった。お客さんの前では、オバチャンに倣っていつも笑顔でいようと努めていた。
でも、車椅子の男性のことを思うと、申し訳なくて耐えられなくなった。本来、身障者用の駐車スペースは、そこを「必要とする人」のために空けておかなければならない。多くの場合は、家族や介護者が運転をして、身体の不自由な人と一緒に買い物に来る。
中には、心臓などの内臓疾患で、できるだけ歩く距離を短くしたい人もいるだろう。この男性のように、自分で運転して来ることもある。いずれにしても、身体の不自由な人にとっては、少しの距離を歩くのもシンドイものなのだ。
ユカリは、自分のお婆ちゃんが脳梗塞で倒れたとき、右半身が不自由になってリハビリの散歩に付き合ったことがあった。
それだけに、車椅子の人の気持ちが痛いほどわかった。身障者用の駐車スペースに、健常者が車を停めてしまうことが珍しくない。悪気があるのではなく、無意識に駐車してしまう人も多いのだろう。
それを防止するために、三角コーンを置いておいたのだ。
しかし、そのよかれと思った行動がかえって、そこを「必要とする人」に対して辛い思いをさせることもある。そんな簡単なことに気づかないなんて……。
車椅子の男性は、カゴにペットボトルや弁当、雑誌を詰め込んでユカリのレジにやってきた。「さっきは、ごめんなさい……」「え?」「三角コーンが邪魔で」男性は、笑顔で答えた。
「ああ、そのことね。僕は慣れてるからかまいませんよ。車椅子に乗れば、どこにだって行けちゃう。たまたまね、今日は全部の駐車スペースが埋まってたでしょ。空くのを待っててもいいけど、僕、気が短い方なんでね……」
「でも、身障者用の車のための三角コーンが……反対にその人たちの迷惑になってたなんて気づかなくて……」「ああ、でも、やっぱり三角コーンはあった方がいいかな。僕は自分で運転ができるからいいけど。介助者と一緒に車椅子の人が自動車で来ることもあるでしょ。あと、運転はできるけど、歩くときは杖をついてる人もいるし……。三角コーンが置いてあるだけで、うれしいですよ」
「でも、でも、あんな二度手間で……たいへんな思いをして……」「たしかに、困る人もいるだろうなぁ。やさしいんですね、あなたは。あまり気にしない方がいいですよ」「ありがとうございます」ユカリは、この車椅子の男性の心の広さに頭が下がる思いがした。
「たしかに面倒だけどね。前は三角コーンを車の後ろのバンパーで弾き飛ばして駐車したこともあるんだけど。でも失敗して、車体の下にコーンが入り込んで取れなくなったことがあってから、面倒でもああやってるんですよ。
たしかにね、本当は健常者のみなさんの意識が高まって、身障者用スペースに間違ってでも停めないというような世の中になることが一番なんですけどね」ユカリは、初めて見たこと、初めて耳にすることに心が痛んだ。
「なんとかしなくては」と思いつつレジ打ちを続けた。
マニュアルを超えよ
午後4時。今日のシフトが終わる。ユカリは、コンビニの2階にある事務所に上がった。そこには、オバチャンと父親の豊がいた。
「あの~、三角コーンのことなんだけど……」先に豊が振り向いた。「どうしたの、コーンがなんだって?」ユカリは、昼間の出来事を夢中で話した。
「なぜ、コーンを置くことにしたの?」「ああ、オープン当初にな、本部にクレームがあったんだ。京南大学前店では、せっかく身障者用スペースがあるのに、どう見ても健常者の人が車を停めているって……。
お婆ちゃんが一時、車椅子に乗ってたことがあったろう。だから、決まりではないんだけれど、お父さんもこのスペースだけは確保したくてな……。
ところが、健常者の人がけっこう停めてしまうんだよ」そこで、やむをえず、赤色の三角コーンを置いておくことにしたのだという。
本部からのアドバイスだった。これで、一般の人に駐車されることはない。でも、そこに落とし穴があった。今度は、身障者の人も、停めにくくなっていたのだ。ユカリは提案した。
「あの三角コーン、置くのやめない?」「そんなことをしたら、またクレームが来るぞ」そこへ、オバチャンが口をはさんだ。
「はいはい。私もね、ずっとそう思ってたのよね~。そうしましょうよ~」店長の豊は慌てて、「なに言ってるんですか。あれは、本部と相談して置いたものなんだ。マニュアルではないけど、勝手にやめられないよ。また篠山さんに怒られるぞ」
「でも、お父さん。本来の目的と違っちゃってるでしょ。反対に迷惑になってる」「じゃあ、またクレームが来たらどうするんだよ」ユカリは考え込んでしまった。
(そうだ。マニュアルを超えよう!できないというのは言い訳だ)「こんなの、どうかしら」「なに、副店長さん」とオバチャンが興味深そうに身を乗り出した。
「あのね。そこに車を停めようとする人が来たら、私たちが走って行って、三角コーンをどけてあげるんです」「ああ、いい考えね」とオバチャンが即座に賛成してくれた。
「でしょ!」そこへ豊が割り込んだ。
「おいおい、なにバカなこと言ってるんだよ。そんなこと、できっこないだろう。もしレジが込み合う時間帯だったら、そんなことしてる暇がどこにあるんだよ。お客様を待たせるのか!」オバチャンは、平然と言った。
「いいんじゃない、わかってくださるわよ~」「なんだよ!夢みたいなこと言って!そんなこと俺が許さんゾ。話はここまでだ。ハイハイ、お疲れさま」そう言うと、豊は店に戻ってしまった。
その場に残ったユカリは、オバチャンと目を合わせてニヤリとした。オバチャンも、ニコッと返した。
お客さんが手伝ってくれた
さて、翌日。正午が近づくにつれ、お客さんが押し寄せる。駐車スペースは満杯になった。停められずに、路上に停車して来る人もいる。そのときだった。見覚えのある赤いミニワゴン。
昨日の車椅子の人が運転する車が身障者用のスペースに入ろうとしていた。ユカリの立つレジには、5人ものお客さんが並んでいる。言うのは簡単だ。しかし……。思い切ってユカリは、5人のお客様に向かって言った。
「ごめんなさい、みなさん!ちょっとだけレジを待ってていただけますか?」5人全員が、キョトンとしてユカリの顔を見つめた。
「あの車の方、車椅子なんです。赤いワゴン。ちょっとだけお手伝いしに……」隣のレジのオバチャンが、その先の言葉をさえぎるようにして言った。
「いいわよ、副店長。私が行ってくるから!」ユカリが言い返す。
「なに言ってるのよ、いつものろのろして走れないでしょ」「失礼ねぇ……」ユカリがレジから飛び出そうとした、その瞬間だった。
ユカリのレジに並んでいた5人のうちの3人のお客さんが、店の外へと飛び出して行った。1人は、ユカリと同い年くらいの男性だった。以前、レジで突然、オバチャンの手をギュウ~ッと握りしめた人だ。なぜだか今も、その理由はわからない。
でも、鉄道ファンらしく、食品玩具の「世界の電車シリーズ」をお目当てにいつも買っていくので、その顔をよく覚えていた。そのすぐ後をカップルが走っていく。ユカリにとっては、男子学生の方はけっして忘れることができない顔だった。
この4月のこと、シャケと昆布という彼の好きなおにぎりの具を記憶していたことで、すっかりオバチャンのファンになってしまったという大学生だった。
レジの前で、大声で泣き出した光景が、今も目に浮かぶ。店の中にいる全員が、その3人の方へと目を向けた。先頭のサラリーマンが、三角コーンを手に取った。
男子学生が手招きをして、車に向かってオーライオーライと言いながら「こっちへ」というポーズをして誘導。
そして、もう1人の女子学生は……。
車がエンジンを停止させると、「手伝いますよ」と運転手に挨拶をして、運転席と反対側の後部座席のドアから車椅子を取り出した。
グルッと運転席の方へと回り込み、折り畳み式になっている車椅子をセット。ドライバーに左肩を貸して介助し、車椅子へとやんわり座らせた。それはまるで、あたかも3人が事前に打ち合わせをしていたかのようにスムーズに見えた。
「早くレジをやってくれ!」と言う者はなかった。
拍手こそしなかったが、誰もが「やるねぇ~、あの3人」と称賛の笑みを送った。ユカリには、店内にまるで草原に春風が吹きわたるような気がした。
2人の若い女性が駆け寄り、店のドアを開けて待っていてくれた。
車椅子の男性は、ものすごく照れくさそうだったが、彼らの厚意を受け入れて、「ありがとうございます」と何度も笑顔で言った。
家庭のゴミも、どうぞお持ちください
植木一平は、夕方のこの時間、ドアの方ばかりを気にしていた。もう1週間以上も姿を見ていない。「どうしちゃったのかなぁ。どこか旅行にでも行ってるんだろうか」一平は、京南大学経済学部の1年生。
山陰地方の田舎町から大学に入るために都会に出てきた。親からの仕送りはあったが、町役場に勤めている父親の収入だけではとても足りない。爪の先に火を灯すような暮らしをしてやりくりしている母親のことを思うと、勉強を疎かにはできない。
そこで、大学の近くのコンビニ、アットホームで、最低限のアルバイトをすることにした。午後の講義が終わってから、夜の8時まで。土曜日だけはフルで働く。初めての接客は、人見知りする一平にとっては戸惑うことばかりだった。
ただ、マニュアルに従って、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」を言うのが精一杯だった。
勤めて2日目のことだった。田舎では見たこともないような美人が店に入ってきた。名前を思い出せなかったが、以前、テレビドラマで主役を演じていた女優に似ていた。高校の英語の先生役だった。
レジで「いらっしゃいませ」と言った瞬間に目が合った。その女性は、ニコッと笑い、「あっ新人さんね、ボクは高校生?」と訊いてきた。一平は顔をポッと紅らめた。
「い、いえ大学生です」「あら、純情。真面目ねえ」目を合わせないようにして、ペットボトルのミネラルウォーター、ビタミンとコラーゲンの入った美容ドリンク、ハムとレタスのサンドイッチ、それに女性週刊誌のバーコードを読み取る。
「ねえ、ねえ、ちょっと可愛いじゃないの。ジャニーズ系よね。今度、うちのお店にいらっしゃいよ」「え?お店?」「うん、これ渡しておくからさ」差し出されたのは、名刺だった。
四つ角が丸くなっている。源氏名というのだろうか、いかにも本名ではないと思われる名前が書かれてあった。
「会員制クラブブラックパール一条レイコ」商品をレジ袋に入れて手渡すとき、レイコと名乗る女性は、少し爪先立ちしてカウンターへ乗り出した。
一平と顔が合わさるくらいの距離になり、一平は慌てて身を引いた。
「いやね、逃げないでよ」「あ、いや、そんなつもりじゃ……」再びレイコは身を乗り出して、一平の耳元で言った。
「私の弟ってことにしてあげるから、遊びに来なさい。タダでいいから」「……」一平は、紅い顔が燃えるように熱くなるのを感じた。
いつものお客さんが来なくなった
毎日毎日、午後5時40分が来るのが楽しみになった。レイコは、5分くらい前後することはあったが、決まって同じ時間に現れた。その都度、一平をからかっていく。だんだんと一平も慣れてきて、少しは気の利いた言葉を返せるようになった。
「あっ、美容院に行かれたんですね、キレイだなぁ」「あら、この子、うれしいわぁ」「いえいえ、本当ですよ」「そんなこと言って、なかなかお店に来てくれないじゃないの」「行きますよ、きっと」「ホントよ~」そんなレイコが、もう1週間以上もお店に来ない。
正直言って、バイトを続けていられるのは、彼女のおかげかもしれないと思っていた。友達でもない。もちろん恋人でもない。ただのお客さんだが、一平にとっては憧れの存在だった。
もちろん、キレイだからというのが一番だ。でもそれ以上に憧れを抱かせるものがあった。それは、自分の知らない世界で、バリバリ働いているという煌めきだった。
(病気でもしたのかな。それとも、海外へでも旅行に行ってるんだろうか)一平には、1つ、気掛かりなことがあった。
それはレイコが姿を見せなくなる3日前の出来事だった。コンビニの前で、なにか言い争う声が聞こえた。ガラス越しに目をやると、雑誌棚の向こう側にレイコの上半身が見えた。
店長と向き合って、やりあっている様子。話の中身までは聞こえない。それが5分ほども続いただろうか。レイコは、店には入らず、プイッと行ってしまった。
店長が戻ってきてブツブツ言っている。一平が訊いた。
「どうしたんですか」「腹立つよ、まったく。家のゴミをさ、うちのゴミ箱に捨てていくんだよ」「……」
「たぶん今日だけじゃないぜ、毎日だな、ありゃ」レイコは毎日、同じ時間にやってくる。その都度、ほとんど同じものを買う。その際に、家庭のゴミも捨てていく。一つの生活パターンができ上がっている。(きっと、そのせいだ)と思った。
いつも店長が店にいるわけじゃない。一平は「またレイコが来てくれますように」と心の中で願った。それから、さらに3週間が経った。ずっと、というわけではないが、レイコのことが頭から離れなかった。
たしかに、家庭のゴミをコンビニに持ち込まれては困る。ゴミ箱はすぐに満杯になってしまうのだ。そのゴミ箱の整理も一平の仕事の1つだった。赤ちゃんのおむつや、犬のウンチを捨てていく人もいる。
「ペットボトル」と書いてあるのに、その他のゴミが突っ込んであることなんてザラだった。高速道路のサービスエリアでも、この問題が取り沙汰されていた。
行楽に出かけるとき、家庭ゴミを車に乗せて「わざわざ」捨てていく家族が多いらしい。モラルの低下というか、1つの社会問題である。それだけに、店長の言い分はわかる。
わかるが、もしかすると、そのせいで……。レイコに会えないのは残念だった。一平が、駅前の書店へ出かけた帰り道のことだった。「あっ!」それは、紛れもなくレイコの後ろ姿だった。
右手にはブランドもののバッグ、左手にはゴミ袋を持っていた。姿勢よく、大股でスッスッと歩いていく。(この辺に住んでいるのかな。うちのコンビニへ来てくれるのかも)その日は、田舎から母親がやってくるというので、バイトを休ませてもらっていた。(それなら、休むんじゃなかった)と気落ちした。
でも、一平が勤めるコンビニとは反対方向へ向かっている。(どこへ行くんだろう)気がつくと、一平は後を追いかけていた。まるで刑事が尾行するかのように。
途中で、回り込んで「こんにちは!」とでも声をかけようかと思ったが、そこまでの勇気はなかった。(これじゃあオレ、ストーカーじゃん)と首を横に振る。それでも、距離を置いて後をついて行った。
家庭ゴミを受け入れるコンビニ
しばらくすると、一平が通う大学の正門近くにあるコンビニの前まで来た。一平のバイト先とは200メートルほど離れたライバルのエンジェルマートだ。
レイコはコンビニの入口へと向かう。一平は、駐車場の手前で立ち止まった。そのときだった。店の前でゴミ箱を整理していたオバチャンが、レイコに声をかけた。
「あら、レイコさん、おはよう!」「おはよう!水野さん」「水野さん」と呼ばれたオバチャンは、ユニフォーム姿からして店員らしい。
「はいはい。ゴミね、こっちへちょうだい。ちょうど裏へ回しておこうと思ったところだから」「ありがとう。助かるわ」「なに言ってるのよ、お客様じゃないの」「ありがとう。そう言ってもらえるとうれしいわぁ~。どうしても仕事柄、朝早く起きられないのよね。ゴミを出したいんだけど、うちのマンションは管理組合が厳しくって……。夜のうちに共同のゴミ捨て場に置きに行くと組合長に叱られるのよ。融通が利かないっていうか」
「たいへんな仕事よねぇ~。私なんか、反対に、夕ご飯食べたらバタンキューで。年寄りだから、朝は4時に目が覚めちゃうし」「えー!すごい!4時なんて、私がこれから寝る時間よ」「へえ~そうなんだ」
「ホント助かるわぁ~。こうして家庭のゴミを気軽に持ってこられるなんて夢みたいだもの」「ううん、いいのよ。ああ、そうだ!アセロラの美容ドリンクね、新商品が出たのよ!」
「ええ!ホント!買う買う!!」「売り切れないように、ちゃんと1本取ってあるからね!」「わぁ、水野さん、ありがとう」そう言うと、2人はわいわいとおしゃべりをしながら店の中に入っていった。
一平は、導かれるように店の入口まで近づいた。中では、美容ドリンクを手にして、オバチャン店員とレイコが楽しげに話をしていた。一平は、ふとゴミ箱の上辺りに貼ってある、A4サイズの白い紙に目が留まった。
そこには、あまり上手いとは言えないが、なにやら温もりを感じさせる丸っこい大きな文字で、こう書かれていた。
「家庭のゴミも、どうぞお持ちください店主」
売る人は、買う人でもある
最初は、オーナー店長でもある父親の豊に反対された。
ユカリが、「家庭のゴミも、気軽にうちの店に捨てに来てもらえばいいのよ」と言うと、「そんなことしたら、ゴミの山になるぞ!」「わかってるわよ。みんなで協力すれば……」「いや、わかってない。今だって処分にお金がかかってるんだ」と取り合ってもくれなかった。
コンビニでは毎日、大量のゴミが出る。
ペットボトルなどのリサイクル資源は別にしても、可燃ゴミについては廃棄物処理業者に有料で引き取ってもらっている。
それを「歓迎」などとしたら、どれほど経費が増えるのか。ユカリにも想像がつかなかった。でも、お客様を信じたかった。いつものように、泰造に話を聞いてもらった。
すると、「ワシの店ではないから、なんとも言えん。でもな、ユカリの好きにするといい。なにか起きたら、ワシから豊には話してみよう」半ば強引にというか、豊には相談もせずに決行した。
泰造から与えられた「宿題」を試したかったからだった。それは、「迷わず、安心して、与えなさい」というものだった。
人間の目は、内を見ることができにくい
つい先日のことだ。少しずつだが、売上が上がっていることを報告すると、泰造は上機嫌になり、「これこれ、酒屋をやってた頃に仲の良かった秋田の酒蔵さんから送ってきたんじゃ。ほれっ」「あっ、小町桜の大吟醸じゃないの、おじいちゃん」「一緒に飲むか?」「うん」「ビールもいいが、やっぱり日本酒じゃなぁ~」「ほんとね」ユカリは、ふと思った。
泰造は、豊とも、たまにはこうして酒を酌み交わしているのだろうか。そんな話を両方から聞いたことはない。酒屋をコンビニにして、そして傾かせてしまったことを父は気まずく思っているに違いない。泰造も、しかり。
「あのなぁ、ユカリ」「なあに、おじいちゃん」「そろそろなぁ、次の段階へ行ってもいいかなと思ってなぁ」「え?」「前にな、マニュアルは心の中の鉄棒だと思えと言ったな。
ユカリはようやっとる。カサを盗まれた人の貼り紙のこともそうじゃし、車椅子の人の介助のこともそうじゃ。ずいぶん、懸垂ができるようになった。腕も太くなったんじゃないか」そう言って、泰造はユカリの二の腕をギュッと握った。
「いやだ!おじいちゃん」嫌がるフリをしているだけで、こうしている時間がユカリには幸せに感じられた。
「ねえ、次の段階って?」「あのな、これをユカリに見せたいと思ってな……」泰造は、食卓の上に無造作に置かれてあった1冊の雑誌を差し出した。
ペラペラッとページをめくって指差す。そこには、こんな言葉が書かれてあった。
「人間の目は外を向いてついていますから、外はよく見えるわけです。それだけよほど気をつけないと自分自身の内を見ることが、なかなかできません」それは、奈良の有名な寺院の住職のエッセイだった。
その一文に、赤線が引いてある。表紙を見ると、何年も前のビジネス誌だった。
「わかるかな、ユカリにこの意味が」「うん、なんとなく……人のことはいろいろ批判できるけど、自分の悪いところは見えないってことかな」「うん、それもあるな。
でも、ワシはな、こういうことじゃないかと解釈しておる」「……」「商いとはな、物を売ることじゃ。そこには、当たり前のことじゃが、売る者と買う者の2人がいる。どうして、物が売れないのか。売る人に買う人の心が見えなくなっているからじゃな。ところが……売る人というのは、いつも売ってばかりいるわけじゃない。
売ってばかりいたら、食べていけんからな。お米を売る人は、お米屋さんじゃ。でも、八百屋さんや魚屋さんへ買い物に行く。今度は、買う人になるわけじゃ。つまり、売る人は、買う人でもある。それなのに……」「わかった、こういうことね」と、ユカリが言葉を継いで続けた。
「なぜ、物が売れないかというと、買う人の心が読めないから、見えないからなのね。ところが、売る人は、買う人でもある。売る人は、買う人の気持ちが本当はよくわかっているはず。なのに、売る側になったとき、なぜかそのことを忘れてしまう。このお坊さんは、人の心を知るには、まず、自分の心の内側を見つめなさいって言っているのね」
「なんだ、そんなに早くわかっちゃ、もうワシの出る幕がないじゃないか」そう言いつつ、泰造はうれしそうに盃を傾けた。
「答えは、売る人の内側。つまり自分の心の中にある。自分がもし買う人の立場だったら、なにが欲しいのか。なにを求めているのか。それを与えてあげればいい。ただ、それだけのことじゃ。簡単じゃろう?」
「そう言われると、『商』の国の人になるのも難しくない気がしてきたわ」「みんな、それができんから苦労するんじゃな。外ばかり見ようとする」
- ○お客様が喜んで使ってくださるトイレにする。
- ○顔なじみのお客様の好みの商品を覚える。
- ○道を訊かれたら、そこまで案内する。地図を渡す。
- ○目を見て、笑顔で、心を込めて「ありがとう」を言う。
- ○「待たせてごめんなさいね」と、レジ待ちのお客様のイライラを気遣う。
- ○雨が急に降ってきたら、カサを貸す。
- ○身障者の方に、できるかぎりの配慮をする。
- ○家庭のゴミでも引き受ける。
それらはすべて、もし自分が買う人の立場だったら、求めるものであり、与えられたらうれしいことばかりだ。
「ワシはなぁ、ユカリ……こう思うんじゃ。コンビニってな、便利を売っているよな。スーパーに比べたら、ずいぶん値段も高い」「うん、そうね。バーゲンみたいなことも、ほとんどやらないし」「ワシは、世の中にコンビニが初めてできたとき、こんなもの流行らんと思ったんじゃ。
だから、この前話した源さんにも『そんなもんやめろ』と言ったこともある。でもな、ワシの予想は大外れじゃった。あっという間に、全国に広まった。
便利っていうのが、こんなに力があるとは正直思わんかったんじゃ。でもな、ユカリ。あちこちにコンビニもできすぎたな。
もう便利なだけではお客さんは来んのじゃないか?かといって、安売りするわけにもいかん。ワシはやったことがないが、安売りならインターネットとやらには勝てんじゃろう。
やっぱり、誰になにを言われてもなぁ、物を売るというのは、心を売るということじゃと思うんじゃ」泰造は、いつにも増して饒舌だった。
「でも……」「ユカリの思っていることは、言わんでもわかる。与えるばかりで、ちゃんと還ってくるのかと心配なんじゃろ」「うん」「大丈夫じゃ。物だけを売っていたら、それで終わりじゃ。百円のペットボトルを売ることを、ジュースと百円玉の物々交換だと捉えてしまったら、それでおしまい。でもな、心を売ると考えたら、必ずお客さんはわかってくれるはずじゃ。だからな……迷わず、安心して、与えなさい」
特別な酒を飲んでいるせいだろうか。その言葉の一つひとつが、ユカリの胸に染みていく気がした。ユカリはこのとき、以前から心の中に仕舞っていた、新しい試みを実践してみようと決めた。
そう決めると、いつもより酔いが早く回るような気がした。スーパーバイザーの篠山清志は、同期の同じくスーパーバイザーの田沼雄一郎から、妙な電話を受けていた。
「あのな、キヨシ~」「忙しいんだよ、早く用件を言えよ」「なんだよ、せっかく耳寄りな情報を教えてやろうと思ったのに……」「わかったよ、なんだよ」「この前な、九州・沖縄地区の研修会でな、同じ部屋になった奴から聞いた話なんだけどな……。
そいつの担当している店でな、去年おかしなことが起きたっていうんだ」「なんだよ、もったいぶるなよ」「それがな、熊本市内にスクラップ寸前の店があってな。そこに65歳くらいのオバチャンが突然『バイトさせてほしい』ってやってきたそうだ。年寄りだし、最初は断ったんだが、何度も何度も頼みに来る。
仕方なく、テストってことで採用したら……これが、とんでもないオバチャンでな。店の売上がドカ~ンと上がったんだそうだ」
「ちょっと待て、田沼。そのオバチャンっていうのは、なんて名だ?」京南大学前店の、あの気の合わないオバチャンの顔が目の前に浮かんだ。
「ええっと、加山とかいったな」「え?水野じゃないのか?」「いや、違う……たしか加山雄三の加山だと思った記憶がある」「そうか……」「違うのか、お前がこの前言ってた、気に食わないオバチャンと」清志は、うれしいような、残念なような複雑な気分でいた。
気が合うかどうかは別として。たしかに、あのオバチャンが来てからというもの、京南大学前店の売上は、少しずつではあるが上昇している。だが、依然として危機的な状況であることに違いはなかった。
田沼の言う熊本の店のように、ドカ~ンと伸びればいいのだが。「おい、おい……キヨシ!」ケータイの向こうで、田沼が何度も清志を呼ぶ声がした。
三方よし+ライバルよし
ユカリは、コンビニの仕事を通じて、自分が一回り大きくなったような気がしていた。それまでは、MBAという机の上だけの肩書しかなかった。
しかし、今は、とにかく「やってみる」ことに徹していた。実践だ。泰造に言われた「鉄棒の懸垂」をいつも心にイメージして。
「おじいちゃん、ちょっと聞いてほしいの」2人は、自分の店からこの夏の新商品のビールを何本か買い、試飲を兼ねていつものように酒盛りをしていた。
「あのね、今日ね、こんなことがあったのよ」泰造は、ユカリがまたなにかで悩んでいるな、と察して缶ビールをテーブルに置いた。それは、夕方の4時過ぎのことだった。
ユカリは、30代半ばの主婦らしきお客様に、ラーメンの棚近くで声をかけられた。
「ねえ、アレ置いてないの?」「はい、どの商品でしょうか」ものごとを訊かれるとき、第一声が「アレ」というのには慣れていた。
「ほら、ほら。最近毎日、テレビのCMでやってるでしょ。札幌と長崎が一緒になったラーメン……」「ああ……」そこまで聞いて、ユカリにも理解できた。
2つの有名な観光地のコラボを売りにした商品企画のシリーズだ。第1弾は、横浜中華街のシューマイの入った尾道のラーメンだった。そして、第2弾が、長崎ちゃんぽんのように具だくさんの札幌ラーメン。
テレビで盛んに、この新商品のカップラーメンのCMをやっている。ただ……。
「ごめんなさい、私もテレビで知ってますが、ソレ、製麺会社とアットホームさんが共同で作ったオリジナル商品なんです。
だから……うちには置いてなくて」「あら……そうなの?」ユカリは、そのお客様の恥ずかしそうな、そして残念そうな様子を見て言った。
「あのぉ……この先に、アットホームさんがありますから、そちらには置いてあると思いますよ」「アットホーム?どこにあるの?」この女性は、この近くの住人ではないのだろうか、「どこだろう?」と首を傾げた。
「そうそう!」ユカリは、カウンターに駆け寄り、この前作った地域の地図を渡した。「ココです!」と指を差す。
「あっ、ありがとう」女性客は、そのままなにも買わずに店を出ていった。ユカリは思った。なにか他のカップラーメンを勧めるべきだったのではないか。
自分が好きな「老舗店主シリーズ」の油味ラーメンでも。その様子の一部始終を見ていた豊と目が合った。
「なんでライバル店のことを教えてやるんだよ。バカじゃないか」と言いたそうだった。しかし、なにも言わずに2階の事務所へ上がっていった。
ひょっとすると「バカじゃないの」と思っているのは、自分自身ではないかと思ったユカリだった。
買わない人も「お客様」
泰造は、その話をじっと聞いていて、ポツリと呟いた。
「あのなぁ、ユカリ」「うん」「天使の分け前って聞いたことがあるか?」「え?なにそれ」「昔な、源さんとな、酒屋組合の団体旅行でウイスキー工場を見学したことがあるんじゃ」ユカリは、いきなり話が飛んだので、少し首を傾げた。
「樽に詰められたウイスキーがな、大きな蔵にもう数えきれないくらいに収められていた。そこで、何年も熟成させるんじゃな。知っておるかな、ウイスキーというのはな、最初は無色透明なんじゃ。それがな、ホワイトオークで作った樽で寝かせておくうちにな、その木の色や香りがウイスキーに移るんじゃな。ワインもブランデーも一緒じゃ……酒造りには樽が重要でなぁ」
「……」「おお、悪いのう、ちょっと脱線した。それでな、長い年月、ウイスキーを樽の中で寝かせておくとな、液体の量が少しずつ減っていくんじゃ。
水分やアルコール分が細かい木目から蒸発していく。その減った分のことを、天使の分け前というんじゃ。長く熟成させればさせるほど、良い酒ができる。7年物モルトとか、12年物とか言うじゃろう。あれじゃな。
つまり、長~く寝かせておくと、美味くなる。
それを昔の人は神様のおかげ、自然の恵みだと解釈したわけじゃ。そのお礼というか、代わりにな、天使に分け前として中身のウイスキーを差し上げるということだ」「それと……」「わからんかな、ユカリ。これはな、商いも一緒じゃ。自分だけが儲けようとしても、人には喜んでもらえん。反対に恨みを買うことさえある。お客様に喜んでもらうのは当たり前じゃ。
でもな、もっともっと喜んでもらう人の範囲を広げんと、商いは上手くはいかん。天使の分け前が多ければ多いほど美味いウイスキーができるんじゃからな。お前もウイスキーは好きじゃろ」「うん」「7年寝かせるより、12年。12年よりも17年。
たくさん寝かせて、天使に喜んでもらう。すると、天使は、美味しい酒というご褒美をくださる。
ところが、人間というのはな、なかなか待つことができん動物なんじゃな。すぐに飲みたくなる。その天使というのはな、商いで言ったら、『買ってくれる客』とは限らんということじゃ。だからな……」
「わかったわ、おじいちゃん。私、間違ってなかったのね。近江商人の教えの『三方よし』と同じね」「そうじゃな。売り手よし、買い手よし、世間よし。もう一つ加えて、ライバルよし。ライバルかもしれんがな、そのお客さんに他のコンビニへ行けば買えますよって教えてあげたことで、きっと喜んでくれたじゃろう。ライバルのためではないんじゃ。お客様のためと思えばいい。それで、いいんじゃ。それで」
京南大学前店では、ユカリの指導のもと、宅配便を始めとして、出入りの「業者」さんたちへの「おもてなし」を始めていた。
おしぼりや冷たい麦茶のサービス。さらに、荷物の積み下ろしを店のスタッフが手伝う。「買わない人もお客様」その精神は間違っていなかったんだと、ユカリは意を強くした。
その翌日、昼前のことだった。40歳くらいの、ちょっとオシャレなワンピースを着た女性が店にやってきた。見覚えのある顔だった。(ああ、あのときの……)
以前、幼い男の子を連れてやってきたことのある母親だった。子供が「ジュースが欲しい」と言うのを我慢させ、地震の被災者のための募金箱に百円を入れさせた人だ。サンドイッチの棚を眺めてため息をついた。ユカリは声をかける。
「どうかなさいましたか」「いえ、あの~。私、当番なのを忘れてしまって……」「え?……当番?」「ええ、トールペインティングの教室に通っているんです。毎回、順番でランチを買ってくることになっているの。それを忘れてしまって……慌てて買いに来たんです。サンドイッチが15個いるんです」
棚を見ると、7個しかない。たまたま今日は大学で野球の試合があるらしく、ちょっと前に、おにぎりやサンドイッチがたくさん売れてしまったのだ。
「それは、どんなものでもいいんですか。ミックスとか、ハムチーズとか」「ええ」「ちょっと待ってくださいね」ユカリはケータイを取り出し、電話をかけた。
「恐れ入ります。ちょっとお尋ねしたいんですが……今から買いに行きたいんですけど、お宅の店にサンドイッチが8個ありますか……ええ、そうです。なんでもいいんです」
しばらく時間を置き、「はい、エッグですか。それが3個。ミックスが12個ある。わかりました、ありがとうございます。今から伺います。……え?名前ですか?……ちょっと待ってください」
「すぐ近くのアットホームさんにサンドイッチの在庫があるそうなんです。今から行っていただくことはできますか」「は、はい」「あのぉ~お名前は?」「有馬です」ユカリは、その名前を電話の相手に告げた。
「じゃあ、今から行ってください。別にレジによけておいてくださるそうです」「ありがとうございます」ユカリは、(これで、本当にいいのだろうか)と不安でいっぱいだった。
しかし、何度もお礼を言われて、心底うれしかった。まだまだ迷ってばかりの日々ではあるが、働く元気をもらった気がした。敵に塩を送る行為ではあったが、これも、「天使の分け前」だと思うと、なぜだか心が軽くなった。
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