「知的」であるかどうかは、5つの態度でわかる以前、訪れたある大学の先生から、面白い話をうかがった。それは「知的な人物かどうか」という判断の基準に関するものである。私たちは「頭が悪い」と言われることを極端に嫌う。知性が人間そのものの優劣を決めるかどうかは私が判断するところではないが、実際に「知的」であることは現在の世の中においては有利であるし、組織は「知的」な人物を必要としている。だが、「どのような人物が知的なのか」ということについては、多くの人々の判断が分かれるところではないだろうか。世の中を見渡すと、あらゆる属性、たとえば学歴、職業、資格、言動、経済的状況などが「知的であるかどうか」のモノサシとして使われており、根拠があるものないもの含め、混沌としている。私がこの先生からお聞きした話は、そういった話とは少し異なる。彼は「人間の属性と、知的であるかどうかの関係はよくわかりませんが、少なくとも私が判断をするときは、5つの態度を見ています」と言う。エピソードを交え、さまざまな話をしていただいたのだが、その5つをまとめると、次のようなものになった。1つ目は、異なる意見に対する態度。知的な人は、異なる意見を尊重するが、そうでない人は、異なる意見を「自分への攻撃」とみなす。2つ目は、自分の知らないことに対する態度。知的な人は、わからないことがあることを喜び、恐れない。また、それについて学ぼうとする。そうでない人は、わからないことがあることを恥だと思う。その結果、それを隠し学ばない。3つ目は、人に物を教えるときの態度。知的な人は、教えるためには自分に「教える力」がなくてはいけない、と思っている。そうでない人は、教えるためには相手に「理解する力」がなくてはいけない、と思っている。4つ目は、知識に関する態度。知的な人は、損得抜きに知識を尊重する。そうでない人は、「何のために知識を得るのか」がはっきりしなければ知識を得ようとしないうえ、役に立たない知識を蔑視する。5つ目は、人を批判するときの態度。知的な人は、「相手の持っている知恵を高めるための批判」をする。そうでない人は、「相手の持っている知恵を貶めるための批判」をする。*知的である、というのは頭脳が明晰であるかどうか、という話ではなく、自分自身の弱さとどれだけ向き合えるか、という話であり、大変な忍耐と冷静さを必要とするものなのだと思う。
「知的能力」を活かすには、「コミュニケーション能力」が不可欠知人に、京都大学出身の、極めて知的能力に優れた人物がいる。彼と話すと、「なるほど、頭がいいとはこういうことなのだな」と納得する。だが、まだ彼は社会的に成功しているとはいえない。社会的地位や収入からすれば、よくいって「中の下」というくらいである。彼はいつも半ば自虐的に、「いやー、学歴ばかり無駄にいいよ」と言う。彼は、研究も、就職活動も、まわりの人とのトラブルで中断してしまったのだ。まわりに合わせてうまく立ちまわることができないといえるだろう。話を聞くと、人の話を聞かず、つい自分の我をとおしてしまったり、空気を読めなかったりと、今の職場でも苦労しているようだ。*「1万時間の法則」を提唱したことで知られる、現在、最も著名なジャーナリストのひとり、マルコム・グラッドウェルは著書『天才!』(勝間和代訳/講談社)の中で、いくつかの天才に関するエピソードを紹介しており、その一部を要約したい。クリス・ランガンという男がいる。彼はIQ195という、100万人に1人の並外れた知能の持ち主だ。彼は「全米一頭のいい男」と呼ばれ、16歳でプリンキピア・マテマティカを完読し、クイズ番組で同時に100人の相手と競争して勝利できるほどの頭脳の持ち主である。だが、彼は控えめにいっても、成功とはほど遠い生活を送っている。大学を中退し、建築現場で働き、ハマグリ漁や下級公務員などの職を転々とし、孤独な人生を送っている。スタンフォード大学の心理学教授、ルイス・ターマンは「知能の高い人間の研究」を行っていた。彼は25万人の小中高生の中から高いIQを持つ1400人あまりを選び出し、心理学の研究の調査対象とした。成績や大学の進学実績を記録し、結婚について調べ、昇進や転職も記録していった。ターマンは「彼らこそ、米国の将来を担う人材たちだ」と考えていた。だが、ターマンは間違っていた。彼が発見した天才のうち、全国的に名前が知れ渡るような人物はいなかった。高い年収を得ているが、さほどすごい額ではない。大多数が普通の職業につき、驚くほど多くの者はターマンが期待はずれと考えるような職業についた。ターマンはこう述べた。「知能と成功の間には完璧な相関関係があるというにはほど遠い」いったいなぜ、このようなことが起きるのだろうか。もちろんいくつかの理由がある。クリス・ランガンは家が貧しく、大学の学費を満足に支払うことができなかったために、大学を中退せざるを得ない状況に追い込まれた。ほかの人間にも、同じように「運が悪かった」という状況が十分起こり得たのだ。だが、理由は「運が悪かっただけ」とはいえないかもしれない。*ピーター・ドラッカーは、現代の労働者を「知識労働者」と呼ぶ。そして、知識労働者は、自分の貢献を利用してくれる組織があって、はじめて成果をあげることができるということを述べている(『プロフェッショナルの条件』上田惇生訳/ダイヤモンド社)。仮にそれが正しいとすれば、知識労働者は知的能力だけではなく、自分の知識を売り込む能力、利用してもらうようにアピールする能力を持たなければ満足の行く仕事ができない、ということになる。つまり、それは「コミュニケーション能力が知的能力を十分に活かすうえで不可欠」だということだ。知識労働においては、仕事の成果は「知的能力」×「コミュニケーション能力」で決まる。いくら知的能力が高くても、コミュニケーション能力が低ければ能力は十分に活かされない。もちろん、これは企業の中だけの話ではない。現在は学問の世界も多様化し、1人で大きな成果を成し遂げられることは、ほとんどない。そこでは、多様な専門的能力を持つ人々との協業が不可欠である。「孤高の天才」というイメージは、研究分野においてもすでに過去のものである。現に、最先端の研究分野では数百人のコラボレーションを要するものも少なくない。ひと昔前は、知識やノウハウはクローズし、企業内で閉じた環境に置いたほうが独占という果実を手にすることができた。だが、現代は「オープン化」を進め、利害関係者を増やすことでより高度な仕事ができる。だが、よく知られているとおり「コミュニケーション能力」は、単に目の前に置かれた勉強をしているだけでは伸ばすことができない能力であり、学校で体系的に学ぶこともできない。実際、コミュニケーションとは、他者と共生する中で失敗を繰り返しながら実践的に学ぶものであり、正解の存在しない高度な能力である。*今後の世界は、「知的能力」のみならず、「コミュニケーション能力」を同時に磨かなくてはならない。頭がいいだけの「コミュ障」にはむしろ、生きづらい世の中なのだ。
「リーダーシップ」とは、わかりやすく、魅力的な物語を語る力のことあるところに、チームリーダーがいた。Aさんとしよう。じつに頭がよく、誠実な人柄で、部下の話によく耳を傾け、嘘をつかず、困っている部下にはよく手を貸した。そして「間違ったこと」は決して言わなかった。Aさんの部下からの評価は「いい人」であった。彼と働いていて不快になる人物はまずいないのだ。彼はやわらかな物腰と、人に意見を押しつけないという評判で、どの部下からも嫌われることはなかった。だが、Aさんは、4、5人を束ねるチームリーダーを務めたが、その後、昇進することはなかった。「Aさんについていきたい」と言われることがなかったからだ。Aさんは40歳をすぎると、異動で子会社に飛ばされ、そのまま一社員として定年を迎えた。Aさんの同期で同時期にチームリーダーになった人物がいた。Oさんとする。Oさんは主張が強く、部下から「話を聞かない上司」と思われることもたびたびあった。また、彼の言うことを聞かず、仕事でミスをした人間を厳罰にするなど、容赦のない一面を時折見せた。しかも、Oさんはよく間違えた。彼は間違えるたびに、部下を頼った。部下はよく働かされた。Oさんの部下からの評価は、多くは「話は面白いが、怖い人」であった。そして、社内の彼に関する評価は、賛否両論だった。「アイツは血も涙もない男だ」と批判されることもあったが、Oさんは意にも介さなかった。やがて、Oさんはチームリーダーを務めたあと、10人、20人を束ねるグループのリーダーに抜擢される。一部の社員から、強力な推薦があったためだ。何より「Oさんのもとで働きたい」と言う社員が少なからずいた。Oさんは40代半ばになると、ついに100名を束ねる部長まで昇進した。強烈な性格を持つOさんには敵も多い。だが、Oさんを慕ってくる若手も多く、彼は有能な部下に事欠かなかったのである。*AさんとOさんはこうして、随分と異なった会社員人生を送ることになったのだが、この違いの本質はどこにあるのだろうか。端的にいえば、Aさんはリーダーではない。彼は人から嫌われないが、リーダーシップを発揮してはいない。対して、Oさんはリーダーである。彼は敵をつくりつつも、リーダーの名にふさわしい行動をとっている。ピーター・ドラッカーは、リーダーについて次のように語る。リーダーが真の信奉者をもつか、日和見的な取り巻きをもつにすぎないかも、自らの行為によって範を示しつつ、いくつかの基本的な基準を守りぬけるか、捨てるかによって決まる。(中略)優れたリーダーは、常に厳しい。ことがうまくいかないとき、そして何ごともだいたいにおいてうまくいかないものだが、その失敗を人のせいにしない。(中略)真のリーダーは、他の誰でもなく、自らが最終的に責任を負うべきことを知っているがゆえに、部下を恐れない。(中略)そもそもリーダーに関する唯一の定義は、つき従う者がいるということである。信頼するということは、必ずしもリーダーを好きになることではない。常に同意できるということでもない。リーダーの言うことが真意であると確信を持てることである。(中略)もう一つ、古くから明らかになっていることとして、リーダーシップは賢さに支えられるものではない。一貫性に支えられるものである。(『プロフェッショナルの条件』上田惇生訳/ダイヤモンド社)*Oさんは首尾一貫していた。強烈な自信に裏打ちされた信念が彼を支えていたため、部下やほかの人物からの多少の攻撃に揺らぐことは決してなかった。強い主張があるので、ほかの人物としばしばぶつかったり、基準に満たない部下に対して厳しい仕打ちをしたりすることもしばしばあった。だが、Oさんは「彼ならどう言うか」という質問に対して、誰もが「Oさんなら絶対にこう言うだろう」というわかりやすさを持っていた。この「わかりやすさ」ゆえに、敵も味方も、彼を「一貫している」とみなすことができたのだ。それに引き換え、Aさんは信念よりも部下に配慮し、優先した。「部下がこう言うから、自分はこう思う」「部下に嫌われないように、こう言う」こういった配慮が行きすぎ、Aさんは部下からもまわりからも、「Aさんは何を考えているのか、本心で言っているのかわからない」という評価を受けてしまった。結果的に、Aさんは「やさしい」という評価を受けることはできたが、「信頼できる」「頼れる」という評価を得ることはできなかった。「魅力的な、わかりやすい物語」を語る人物であることが、リーダーであることの最低要件である。人は、物語によって結集するからだ。『サピエンス全史』(柴田裕之訳/河出書房新社)を著した歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリはこのように述べる。
効力を持つような物語を語るのは楽ではない。難しいのは、物語を語ること自体ではなく、あらゆる人を納得させ、誰からも信じてもらうことだ。歴史の大半は、どうやって厖大な数の人を納得させ、神、あるいは国民、あるいは有限責任会社にまつわる特定の物語を彼らに信じてもらうかという問題を軸に展開してきた。とはいえ、この試みが成功すると、サピエンスは途方もない力を得る。なぜなら、そのおかげで無数の見知らぬ人どうしが力を合わせ、共通の目的のために精を出すことが可能になるからだ。実際、いつの世も、支持されるリーダーは、「魅力的なわかりやすい物語」で武装している。もちろん、そのリーダーがよいリーダー足り得るかどうかは別の問題だ。しばしば「物語を語る」リーダーの暴走と、大衆の盲従が、悲惨な結果を招いたのは周知のとおりである。したがって、「魅力的なリーダー」は、「パワハラ上司」と紙一重であることも多い。だが、人々は常にリーダーを欲する。彼らがリーダーとして認められるのは、ひとえに彼らの語る物語に魅力があるから、ということに尽きる。
「おまえのために言っているんだ」って、絶対に言わないほうがいいですよ「おまえのために言っているんだ」この言葉を何回聞いただろうか。さまざまな会社に訪問する中で、けっこうな数の上司がこの言葉を部下に向けていたと思う。期末の評価の時期、成果が出ないとき、失敗をしてしまったとき、指導者はこの言葉とともに「人を傷つける言葉」を言うのである。断っておくが、そういった上司や指導者は、少なからず「本気でその人のことを思っている」のであって、決して冷たい人間ではない。本気で部下の行く末を心配し、指導してあげようとしていることは間違いない。そういう意味で、「おまえのために言っているんだ」と言う人の考え方や思想についてとやかく申し上げることは何もない。おそらく、私などよりもはるかに人格者だろう。だが、それにもかかわらず、「おまえのために言っているんだ」という言葉を使う必要はない。なぜならば、この文言は一種の「自分に対しての免罪符」だからである。「私はこの人を傷つけてよい」という免罪符だ。どういうことか。思想家の内田樹氏は、次のように述べている。「お前のためを思って、言ってるんだ」というのは人を深く傷つけることばを告げるときの常套句ですが、このことばを口にしている人は「私はこの人を傷つけるために、あえて傷つくようなことを言う」という「真実」を決して認めません。(内田樹の研究室「メディア・リテラシーについて」http://blog.tatsuru.com/archives/000938.php)要は、「おまえのために言っているんだ」という言葉を使うことによって、その人が「自分が本当に相手のために言っているのか」、それとも「じつは、自分が相手に対し悪意があって言っているのか」について、自己批判をしなくなることが問題であるということだ。*ある会社の営業部長は、成果があがらなかった部下に対して、「いいか、おまえのために言っているんだ、こんなんじゃどこでも通用しない。おまえのような社会人を雇う会社は、うちよりほかにない。感謝して働け。バカヤロウが」と言った。ある会社の研究主任は、その部下の技術職に対し、「おまえのために言っているんだ。こんなことでミスするから、いつまでたっても論文が発表できないんだ。一生このままだぞ、おまえ。使えねえ」と言った。「おまえのために言っているんだ」と言い続けた人は、そのうち「おまえのためか」それとも「自分のためか」ということについて吟味をしなくなる。自分が免罪符を出しているからだ。ネットでも「あなたのため」と言って、人を傷つける言葉を投げつける人がいる。そういった人に悪人はいない。1人ひとりを見ればとても善良で、常識的な人々である。だが、善意からであっても、「あなたのためだから」と言ってはいけない。多くの愚行も、最初は善意からはじまったのだ。「おまえのために言っているんだ」という言葉は、胸の中にしまっておかなくてはならない。叱るなら、人を傷つけるなら、自分への免罪符なしでやるのだ。部下は決して「免罪符」を持って自分を傷つけてくる人につき従おうとは思わない。
「任せた仕事」を確実にやってもらう4つの方法仕事は、多数の人間の協力関係によって成り立つ。そこには、「任せる」「任せられる」というやりとりが相互に存在し、それを確実に遂行することによって、信頼関係が生まれ、さらに成果が出ることにつながる。ところが、中には「任せたことを確実に遂行しない」、すなわち約束を反故にする人々が存在する。彼らが約束を反故にする理由はさまざまだが、これを放置するわけにはいかない。したがって、「約束を遂行しない者」へ対する処置は、「正直者がバカを見ない」ためには非常に重要である。*だが、私はコンサルタント時代にさまざまな企業に訪れたとき、残念ながら期限までに宿題をやらなかったり、然るべき人に話をしていなかったりなど「約束を守らない人」はじつに多かった。「なぜ約束を守らないのか?」と聞くと、彼らはたいていの場合、次の4種類の釈明をする。1やらなければならないことに不明な点があり、進まなかった2「そもそもやる意味があるのか?」を疑問に思っていた3忙しかった。ほかの仕事が入ってしまった4忘れていた私は当初、あきれるばかりであったのだが、上司から対処する手順を教わった。すると、仕事の進め方が大きく変化し、驚くほど成果があがるようになった。その手順は次のようなものである。前提怒らず、まずは相手の現状を把握する約束を守らなかった人物を怒鳴りつけることは、あまり賢い選択とはいえない。なぜなら、怒ってしまうと余計に約束を遂行する率が下がるからだ。たいていの場合、怒鳴ったり叱ったりすることは感情的なしこりを残し、「怒られないように仕事をしよう」という間違った動機づけにつながる。約束を守らない人物については、まず相手の状況を把握すべきであり、次の1~4のいずれの理由で約束を遂行しなかったのかを聞き出す。1やらなければならないことに不明な点があり、進まなかった「すみません、途中でわからなくなって、止まっていました」と言うような人物への対処として、「なぜもっと早く質問しなかった」「なぜ自分で調べなかった」と言うことはあまり意味がない。仕組みや手続き、ツールでカバーする必要がある。したがって、私が上司から教わったやり方は次のようになる。・締め切りを短く区切る任せた相手が能力の低い人物であればあるほど、長い期限を設定してはいけない。1週間単位など、もってのほかである。せいぜい1日、2日の単位を締め切りとして設定し、最悪でも遅れを1日程度に留める。・質問されたらすぐに対処する質問に対するこちらのレスポンスが遅いと、彼らは怠ける。したがって、質問には最優先で対処する。緊急に対処できず、自分が不在にしているときは、別の人物に質問をするようにあらかじめ設定しておく。・メールではなく「電話せよ」と言う言葉で不明な点を伝えることは、けっこう難しい。「止まっていました」と言うような人物に、メールでの質問をさせることは非常に困難であるため、「基本的に質問は電話でせよ」と言うのがセオリーだ。2「そもそもやる意味があるのか?」を疑問に思っていたこのような人物は反抗的である。こちらの指示や内容はわかっているのだが、「納得をしていないのでできない」と言う人物はどんな組織やプロジェクトにも存在する。また、このような人物は「自分の思うやり方」へのこだわりも非常に強く、あまりアドバイスを聞き入れない。このようなやっかいなタイプの人物の取り扱いは次のとおりだ。・「やる意味」を議論するのは、皆の前でやるようにお願いする「やる意味について議論をするのは、皆の前でのみ受けつける」と厳正に注意する。「上司」や「リーダー」から直接説得を試みるよりも、その場のほかのメンバーから説得を試みたほうがうまくいくケースが多いため、「皆の前でやる」ことのメリットは大きい。だが、相手の態度が頑なな場合、「これを続けるようであれば仕事の放棄とみなし、ペナルティを適用する」と言うときもある。映画や小説では、「ついに彼
らはわかり合った」というハッピーエンドもあるが、現実には、たいていの場合はわかり合えない。・その人物が重要人物である場合は、上に頼んで、プロジェクトや仕事の存続を問い直すその人物が重要人物である場合は、仕事が頓挫する可能性が非常に高い。また、途上で足を引っ張られ、こちらが責任をとらされるケースもある。したがって、まず最初に上に掛け合うのが正解である。この状態で仕事を進めてはならない。・その人とのやりとりをメールにし、上司をCCに入れるなどして、証拠を残す「そもそも論」を持ち出す人物への対処は、上司を利用することのほかに、もう1つ大事なことがある。それは「やりとりの証拠を残すこと」だ。こちらがきちんと依頼の手順を踏んでいることを相手だけではなく、第三者に知らせるようにし、いざというときに調停してもらえるように確保しておくことが非常に重要である。また、この手の人物は「聞いていなかった」と言い逃れをするケースも多いので、注意深く証拠が残るようにする。3忙しかった。ほかの仕事が入ってしまったこの発言は「リソースの管理」ができない人物の発言だ。つまり、ものごとの優先度をつける技術が未熟であり、セルフマネジメント能力に欠けるとみなすことが基本である。したがって、こちらが「リソースの管理」の手伝いをする必要がある。・先に作業時間を確保させる「この仕事をやる時間を確保せよ」と先に依頼し、彼の予定表に入れてもらう。よほどのことがないかぎり、時間を確保させれば仕事はある程度遂行される。仕事を頼んだとき、「これの作業予定はいつ?」とあらかじめ聞いてしまうことも有効だ。・ほかの仕事を入れた人と直接交渉する「ほかの仕事が入ってしまった」と言われたら、彼に「誰から依頼された?」と聞く。その人物を特定し、彼に直接優先度の交渉を行うためだ。これをしないかぎり、再発する可能性が高いので、できるだけ上の人物に動いてもらいリソースを保証してもらう。・一緒に依頼した作業を分割し、タスク管理を手伝うこの人物は「タスク管理」が未熟である可能性が高い。したがって、タスク管理をこちらで手助けする必要がある。依頼した作業をおおまかに分割し、それぞれに締め切りを設定する。また、締め切りを守れなかった場合には、すぐに報告を上げさせる。4忘れていたよほどのことがないかぎり「忘れていた」という返答は失礼にあたるので、言う人は少ないのだが、親しくなってくると正直に言う人もいる。悪気はないが、仕事を忘れるということは、簡単にいうと「その人の中の優先度が低い」、もしくは「自己管理が甘い」ことの証左なので、この2つについて確認を行う必要がある。・仕事の重要性を再認識させる「いいですか、この仕事はとても重要なのです。きちんとお願いします」と、依頼をするだけでもそれなりの効果はある。真剣に言えば、ある程度は向こうもその真剣さを汲みとってくれるものなのだ。また、これは一度ではなく、二度、三度と繰り返し伝えることで、約束が遂行される率は飛躍的に向上する。・「あなたが今後、忘れないようにするには、どうしたらいいですか?」と聞く自己管理が甘い人には、自己管理を手伝ってあげる必要がある。そして、自己管理の技術をその人が自分で編み出さなければ、確実に実行されることはない。したがって、いちばん有効なのは「忘れないようにするには、どうしたらいいですか?」と聞くことだ。「リマインドします」「アラートを設定します」「予定表に書きます」などの返答があるだろう。それを遂行してもらうだけである。なお、これも二度、三度繰り返すことが多いので、そのつど、自己管理のヘルプに入る必要がある。・「次に忘れたら、ほかの人に依頼します」と、信用を失ったことを伝える仕事上、いちばん致命的なのは「信用を失うこと」だと、多くの人は認識しているため、「信用を失いましたよ」という警告は効果が高いケースが多い。事実、「忘れていました」は信用を失っている。そのとおり「二度目はないです」という言葉は伝える必要がある。「忘れていました」に対しては、静かに厳しく接することで怒るよりも相手にすごみが伝わるものなのだ。*じつは「人に仕事をやってもらうこと」は仕事の中でも最も難しく、経験を要する仕事だ。したがって、怒鳴りつけるだけではなく、テクニカルになんとかする、ということも選択肢として持っておくとよいかと思う。
「意見を求められること」をひどく恐れる人がいる多くの人と仕事をしていると、「意見を求められることをひどく恐れる人」としばしば出会う。偏見かもしれないが、とくに大企業の社員に多いかもしれない。たとえば、「あなたの意見を聞かせてください」とお願いすると、「一般的にはこうですよね」「部長はこう言っていました」などと、自分の意見を述べず、意見の表明を回避する人だ。私はとくにこれが悪いとは思っていない。だが、違和感はある。会社で働く人が「自分の意見を言わないようにしている」というのは、「腹の中を読まれないように頑張っている」ように見えるからだ。おそらく、これは一種の職業病だ。つまり、「言質を取られないよう、過剰に自分を防衛することに慣れきってしまっている」状態だ。よくいえば慎重、悪くいえば勇気が出せないのだ。だが、これは本人だけの責任かといえば、そうとはいえないだろう。むしろ、多くは「人の発言の揚げ足を取る」文化の会社で仕事をしてきたため、「それが普通である」と認識をしている可能性が高い。・「人を攻撃することで有能さを示そうとする人」が数多くいる会社・「上司に対して絶対服従」を要求する会社・「仕組みの改善ではなく、犯人探しが好き」な会社・「減点評価」の会社などなど、「自分の意見を表明すること」が圧倒的に損である会社はそれなりにある。意見の表明が命取りになるような会社においては、部下から提案することはないし、自発的な行動もない。責任を持つ、ということが損なのだ。一方で、上司の悩みとして多いのは、次のようなケースである。・部下が意見を言わない・会議で発言がない・部下が意見を持っていない見てわかるとおり、これは部下の責任であることは少ない。たいていの場合は本人の責任ではなく、そのような環境で仕事をしてきたことによるものだ。*本当に何も意見のない人などいない。無力感が彼らを封殺しているだけである。
「代案なしの反対」に存在価値はあるか会社の中に1人くらいいるだろう。「代案は出さないけど反対する人」が。うっとうしいことこのうえない、と思う人が多いのではないかと思う。彼らはしばしば「無能」とみなされる。会社は「発案しない人物」に対して軽蔑の目を向けるからだ。管理職がこのタイプだったりすると、おそらくモチベーションを刈り取る天才として部下から恐れられているだろう。*そんな蛇蝎の如く嫌われている「代案なしの反対」について、先日、ある場所で議論となった。そこでは、数名の方が「代案なしの反対には、存在価値はないよね。腹が立つし」と言っていた。私は「そうだなぁ……」と思いながら、話を聞いていた。ところが、1人の人物が「逆の目線で考えてみると、それなりの価値はあるかも」と言ったのだ。「そりゃ、なんでもかんでも反対する、というやつはダメだけど、『代案なしの反対はすべてダメ』というのも、たしかに何か行きすぎている気がする」と私は思った。まわりの人間は「いやいや、それはないでしょう」とあまりとり合おうとしないが、その場の責任者が「面白いじゃないか、少し考えてみよう」と言った。「代案なしの反対は何が悪いのかね?」とその人物は言う。「話が前に進まないですよ」「そいつが単に反対したい、というだけだったら時間の無駄ではないですか?」「まわりの雰囲気を悪くしますよね」辛辣な意見が続く。責任者は「代案なしの反対に価値がある、という側の意見は?」と聞いた。すると、さきほどの人物が口を開く。「相手がひととおりの思慮深さがあるという前提ではありますが……、少し感じたのは、代案を出すための知識や技術と、違和感を感じるセンスは別物なのではないか、と思ったのです」「それだけだとよくわからない。具体的には?」「たとえば、人事評価制度を変えようと『成果主義の導入』を検討していたとする。でも、今の会社の状態からして成果主義はなじまない。今のままではダメだけれど、成果主義もダメな気がする。そんなとき、おそらく代案はないけれど反対、ということになりそうな気がします」「ふーむ」「でも『代案は?』と聞かれても、誰も人事のプロではないから代案は思いつかない。思いつきようもない。当たり前です。本質的に代案が出せるという状態は、かなり知識を有していて、かつ課題が明確になっているときだと思いますが、けっこうかぎられていると思うんですよ」「なるほど、素人に代案は出せない、ってことか」「当然、最初に案を出した人間は知識がありますよね。でも、それを言われた人は、最初に案を出した人間に比べて知識が少ないのは当然です。だから、『反対するなら代案を出せ』というのは、実際には不公平な取引であり、最初に案を出した人間が『知識を持っている』という有利な立場を濫用しているだけでは、という懸念があります」「逆にいえば、同じくらいの知識を持っているのに、代案を出さないのはダメってことだよね」「そうかもしれません。でも、それはたしかめられないでしょ?」責任者は言った。「なるほど、『代案なしの反対をするな』と相手に言うのは不公平、というのはそれなりに説得力があるな。気をつけよう。たしかに、私も『すぐに言語化できない違和感』を感じることはかなりある。相手の言うことは理路整然としているのだが、何か引っかかる、というやつだな」「そうです」「案を出したほうは、早く話を進めたいからな。たしかに反対のための反対は時間の無駄だが、ちょっと立ち止まる癖をつけてもよいのかもしれないな」*よく言われることが必ずしも真理ではないということを知る、なかなか勉強になった小一時間だった。
知らず知らず「上から目線」になっている人の特徴さまざまな企業を訪問すると、「上から目線」の人に出会う。「上から目線」は嫌われがちではあるが、とくに悪いことか、といえば、私はあまりそうは思っていない。特定の目的で「上から目線」を使っている人は、少なからず存在する。たとえば、多くの独裁的な経営者は「上から目線」の方が多い。これは自然なことで、認知心理学的に、人は「自信にあふれた人」を信用する傾向にあるからだ。したがって、尊大に振る舞うことにより、「社員が経営者に疑いを持たない」ということを彼らは経験的に知っているのだ。また、LINEの執行役員であり、メディアの専門家である田端信太郎氏は著書『MEDIAMAKERS』(宣伝会議)の中で、「上から目線」について次のように述べている。ネット上では、新聞や雑誌といった旧マスメディアに関わる大手企業の社員を指して「上から目線」の「勘違いマスゴミ」などと揶揄し、罵倒するムードがあります。私も、その気持ち自体はよくわかりますが、プロとしてメディアの世界で満足な報酬を得ようとするならば、「ナメられてしまえば、商売はあがったり」であり、一定の「上から目線」はある意味では、当然の前提なのです。「権威」を必要とするマスコミの方々、あるいは専門家、管理職たちが「上から目線」を使うのは意図的であり、とくに批判されるべきことでもない。世の中には「上から目線の専門家」「上から目線の上司」を好ましいと考える方も数多くいる。ただし、不幸なのは「本人が自覚していない状態で、知らず知らず上から目線になっている人」である。なぜなら、ほとんどの人にとって、その人は「単なるコミュニケーションのとりづらい人」になってしまうからだ。友だちや家族に疎まれるばかりか、仕事でかなりの損をしているだろう。本人に明確な悪気がないのに、意図せず嫌われてしまうのであれば、それは気の毒なことでもある。*では、「知らず知らず上から目線になる人」はどのような特徴を持っているのだろう。1「評価」し、賞賛しない「上から目線」と思われがちな行動で最も目立つのは、賞賛すればよいところを、知らず知らずのうちに「評価」してしまうことである。具体的には、次のような発言だ。・「よくやってるんじゃないかな。でも……」・「悪くないよ。でも……」「素晴らしい」のひと言で済むところを、どうしても「素晴らしいけど、◯◯の部分はまだまだだよ」と言いたくなってしまうのだ。とくに中途半端に知識があると、素人が「素晴らしい」と賞賛することを素直に認められない人が多い。嫉妬はとても強い感情であり、それが一種の「上から目線」を生み出す。2「勝ち負け」「序列」にこだわる「私、◯◯が好きなんだけど……」と言うと、「いや、どう考えても◯◯のほうが上でしょ」という発言が多いと、「上から目線」という印象を持たれる。つい先日、ある女性がパートナーからプレゼントしてもらったアクセサリーをまわりの人に見せたところ、「アクセサリーブランドの序列」について語りはじめた人がいた。当然、女性はいい気持ちはしなかっただろう。「勝ち負け」「序列」「格差」といったキーワードに敏感な方は、「上から目線」を生み出しやすい。3「主張したい」けど相手の理解はしたくないある「意識高い系」と言われている男子学生がいた。彼は真面目でよく勉強し、就職活動もそれなりにうまくいっていたので、後輩から就職活動のアドバイスを求められた。だが、アドバイスを求める後輩は日に日に減っていった。なぜなら「あの人、上から目線でムカつく」という噂が立ってしまったからだ。実際、彼は意識が高すぎるあまり、後輩の「相談に乗る」という役割を忘れ、ひたすら自分の主張を後輩に押しつけていた。・「とりあえず、この時期にエントリーシート◯社出してないなんて、ありえないでしょ」・「◯◯の説明会行ってないの?ヤバイよそれ」・「この時期には◯社くらいの内定を持っておかないと、失敗だよ」だが、後輩が求めているのは、彼の主張を話してもらうことではなく、悩みを聞いてもらい、対応策を一緒に考えてもらうことだった。
主張が強すぎると、「上から目線」を生み出しやすい。4「教えたい気持ち」が強い「教えること」は「上から目線」と紙一重であり、勘違いされやすい。学びは「自分が無知である」と仮定しなければ得られないものだからだ。したがって、「教えすぎる人」は、相手に「自分が無知である」と考えることを強制するので、「上から目線」ととらえられやすい。・「◯◯について教えてやろう」・「◯◯は私の言うとおりにやれば大丈夫」・「オレにアドバイスを求めないなんて、間違っている」こういった発言は親切心からであることも多いのだが、相手によっては「上から目線」と見られることもある。5「人を試すこと」が好き質問に質問で返すことや、「◯◯って知っている?」といった人を試すような質問が多いと、「上から目線」という評価を受ける。たとえば、聖書には「神を試してはいけない」という訓戒が述べられているが、それは「試す」という行為自体が人間を神の上位に置く行為であるからだ。もちろん、ちょっとした投げかけや、コミュニケーションのための質問は悪くないが、「この人がどこまで知っているのか」「どの程度のことができるのか」などを試す行為を頻繁にすると、もれなく「上から目線だ」という評価をもらうことができる。*繰り返すが「上から目線」は時と場合によって使い分けが重要だ。意図せざる評価をもらわないために「ちょっと気をつかう」だけでも、かなり印象が変わる。
こんな人は、会議に参加させてはいけないある会社の社内会議に、外部協力者として参加したときのこと。*8名ほどの参加者に対して、議長が「意見はありませんか?」と聞いた。彼らのうち、3名は意見を述べたが、残りの5名は何も言わなかった。「本当に何もないのですか?」と議長が念押ししても、「ありません」と言うばかりだった。会議はその後、つつがなく終わったが、議長は先の意見を述べなかった5名に、「来週からこの会議には出席しなくていい」と告げた。その5名は「今日はたまたま意見を言えなかっただけです」「情報を共有したいので、出席します」と言うのだが、議長は「議事録はあとから送ってあげるから」と言って、とり合わなかった。議長にあとで話を聞くと、「最近無駄な会議が多い」という課題があり、会議を絞り込んでいる最中です」と言う。「だいたい、会議に来てボーっとしている人や、内職をしている人に、会議に出てもらう必要はないですよね」「たしかにそうですね」と私が相づちを打つと、議長はこう言った。「たぶん、彼らも『会議になんて出たくない』と思っていたでしょう。だから、両者にとっていいんです。こういうところから変えていかないと、生産性は向上しないですから」*「集団を賢くする要因は何か」を明らかにするため、マサチューセッツ工科大学(MIT)のアレックス・ペントランドは、数百の小グループを対象に、IQテストを行うなどして、「集団的知性」を検証した(『ソーシャル物理学』小林啓倫訳/草思社)。賢い集団と、愚かな集団にどのような違いがあるのか?組織の中で働くことの多い我々にとって、興味が尽きない分野だろう。そして、この実験結果は意外なものだった。実験によれば、会社で経営者が気にしているような要素、「団結力」「モチベーション」「満足度」などについては、統計学的に有意な効果はなく、集団の知性を予測するのに最も役立つ要素は「会話の参加者が平等に発言しているか」だった。少数の人物が会話を支配しているグループは、皆が発言しているグループよりも集団的知性が低かった。その次に重要な要素は、「グループの構成員の社会的知性」、すなわち相手の声のトーンやジェスチャーで相手の考えを察するなどの「雰囲気を読み取る能力」だった。つまり、会議の生産性を高めたかったら、次のような人を会議に参加させてはならない。1発言しない人2発言しすぎる人3空気の読めない人これは科学的検証に基づいた事実である。*私はコンサルタントの仕事に就いていたとき、「会議での発言を観察すること」は、その人の実力を測るうえでとても重要であった。議事録をレビューし、次のような行動を繰り返す人物は、会議から遠ざけたり、外したりすることを推奨したこともある。・すぐにマウントをとろうとする人・人の話を配慮なくぶった切る人・アイデアを出さない人・自分の意見を述べない人この要件に当てはまる人物は、いくら個人として有能であっても、チームのパフォーマンスを低下させるため、個人で活動させたほうがいい。そう結論づけたのだ。*会議とは、個人のパフォーマンスを見せつける場ではない。個人をはるかに超えるパフォーマンスを出すために「集団で考える場」なのだ。そのルールを理解しない人物に、会議に参加する資格はない。
何より残念なのは、知的に優れているのに「コミュニケーション能力」が低い人企業が、採用面接で「コミュニケーション能力」を最重要視することは正しい。なぜなら今は、「コミュニケーション能力」の高い人物が公私にわたり非常に得をする時代だからだ、という話はした。実際に、顧客との折衝、人脈の獲得、学業におけるコラボレーション、果ては恋愛におけるパートナーの獲得まで、さまざまなところで、相手の気持ちを汲み、適切な発言と行動を選択する「コミュニケーション能力」が必要とされる。人間の三大能力は、身体能力、知力、そしてコミュニケーション能力だ、と言う人もいるくらいだ。だが逆にいえば、「コミュニケーション能力」の低い人にとっては大変厳しい時代ともいえる。「コミュニケーション能力」を駆使して有利に立ち回る人物がいる一方で、頼れる人が少ない、相談できる人がいない、友だちがいない、と人間関係のネットワークから排除され、身動きがとれなくなる人が大勢いる。彼らは助けを求めることもヘタだが、助けてくれようという人とすら、うまくコミュニケーションがとれず、孤立を深めていく。そして、しばしば、「貧困」「失業」あるいは「人間関係の破綻」などの深刻な事態を引き起こす。しかも、これらの状況は、周囲の人々が救ってあげることが非常に難しい。なぜなら「コミュニケーション能力の低さ」は自覚が難しいからだ。言い換えれば、「コミュニケーション能力が低い人は、それを自覚できないからこそ、コミュニケーション能力が低い」ともいえる。*私の知る範囲だけでも、知的能力が高く学歴もよいのだが、著しくコミュニケーション能力の低い人物が数名いる。そして、彼らに共通する課題は「伸び悩み」である。それなりの成果は出すのだが、それらはすべて「まあまあ」という程度に留まってしまう。彼らは知的能力や学歴が高いがゆえに、なおさら「正当な評価を受けることができていない」とギャップに悩む。たとえば、かつて自分を助けてくれた恩人と、必ずトラブルを起こして絶縁していくフリーランスの方がいる。彼とその周辺の人物から話を聞くと、すべての原因は「その人物のコミュニケーション能力の低さ」にあることがよくわかる。サラリーマン時代の上司は、「才能はあるが、まわりに敵を数多くつくる」ことを知っていて、独立しても彼を助けたのだが、彼はたびたびトラブルを引き起こす。「このままだと、たいした仕事ができないよ。もう少し人の指摘に対して、素直にならなきゃダメだ」と彼に言ったところ、「お言葉ですが、あのクオリティの仕事しかできない人たちの指摘は聞いてもしかたありません」と返された。それでも元上司はなんとかもう少し広い視野を持ってほしいと考え、こう諫めた。「それはそうかもしれないが、彼らにもよいところがあるし、前回やった仕事は世間的にも非常に評価されている」すると、彼は「なぜ私の仕事にケチをつけるんですか」と言い、怒って帰ってしまった。その後、彼とは連絡がとれないという。元上司は、こう言った。「彼はもう少し柔軟かと思っていたのですが……。私の言い方がマズかったのでしょう。彼が自分自身のコミュニケーション能力が低い、と自覚さえしてくれていれば、なんとでもやりようがありますが、『コミュニケーション能力が低いのはまわりであって、自分ではない。自分が評価されないのは、彼らのせいだ』と言われると、もういかんともしがたいです」このように、彼らはすべて、自分の「コミュニケーション能力」の低さに関して、ほぼ無自覚である。いや、むしろ「自分は能力が高いのだから、コミュニケーション能力も同じように高い」と信じて疑わない。それに反して、まわりの人物は「あの人、頭はいいけど残念だよね」という評価がほとんどだ。*コミュニケーション能力の本質は「自分自身を俯瞰する能力」である。・自分の発言に対して相手がどのような印象を持つのか・相手の価値観と自分の価値観の相違は何か・自分にとっての正義がどれほど相手にとって受け入れられるのかこれらのようなことに想像が及ばなければ、知的に優れ、合理的な判断を下せる人物であっても、「コミュニケーション能力」はお粗末なものとなってしまう。むしろ、逆説的ではあるが「しょせん、人と人はわかり合えない、そして自分はさらにコミュニケーション能力が低いのだから、相手のことを誤解しているかもしれない」と、常に思える人こそ、本当は最もコミュニケーション能力が高いのである。知的に優れているのにコミュニケーション能力が低い人。彼らこそ、何より残念な人たちだ。いい人と巡り会い、その人物が彼らのコミュニケーション能力の低さを補完してくれることを祈るのみである。
おわりに先日、私はTwitterでこんなつぶやきを見つけました。「『コミュニケーション能力が求められている』というから、企業の面接官に『御社で言うコミュニケーション能力とは、具体的にどのような能力ですか?』と聞いたら、1人もきちんと答えることができなかった。自分でもわからないものを、人に聞くなよ」誠にもっともな意見だと思います。実際に、「コミュニケーション能力」の実体はとても見えにくいものです。本書を読み終わった方でも、「で、結局コミュニケーション能力って何なの?」という疑問を持ち続けている方もいるでしょう。ピーター・ドラッカーは、コミュニケーションについて、非常に優れた洞察をしています。仏教の禅僧、イスラム教のスーフィ教徒、タルムードのラビなどの公案に、「無人の山中で木が倒れたとき、音はするか」との問いがある。今日われわれは、答えがノーであることを知っている。たしかに、音波は発生する。だが、誰かが音を耳にしないかぎり、音はしない。音は知覚されることによって、音となる。ここにいう音こそ、コミュニケーションである。この答えは、新しくはない。神秘家たちも知っていた。「誰も聞かなければ、音はない」と答えた。このむかしからの答えが、今日重要な意味をもつ。この答えは、コミュニケーションを成立させるものは、コミュニケーションの受け手であることを教える。それはコミュニケーションの内容を発する人間、すなわちコミュニケーターではない。彼は発するだけである。聞く者がいなければ、コミュニケーションは成立しない。意味のない音波があるだけである。(『プロフェッショナルの条件』上田惇生訳/ダイヤモンド社)つまり、コミュニケーションとは、「相手の求めることに気づき、それを提供する行為」と言ってよいでしょう。仕事においても、プライベートにおいても、相手が求めていることに気づかないかぎり、相手とのコミュニケーションは成立しません。「コミュニケーション能力」とは、うまく話す能力でもなければ、相手に気に入られるテクニックでもありません。それは、「相手のことをひたすら深く知ろうとする」姿勢のことを指しているのです。2017年8月安達裕哉
安達裕哉(あだちゆうや)1975年東京都生まれ。筑波大学環境科学研究科修了。世界4大会計事務所の1つである、Deloitteに入社し、12年間コンサルティングに従事。在職中、社内ベンチャーであるトーマツイノベーション株式会社の立ち上げに参画し、東京支社長、大阪支社長を歴任。大企業、中小企業あわせて1000社以上に訪問し、8000人以上のビジネスパーソンとともに仕事をする。その後、起業して、仕事、マネジメントに関するメディア「Books&Apps」(読者数150万人、月間PV数200万にのぼる)を運営する一方で、企業の現場でコンサルティング活動を行う。著書『「仕事ができるやつ」になる最短の道』(日本実業出版社)。
この作品は株式会社日本実業出版社『仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?』(2017年9月1日発行)に基づいて制作されました。
仕事で必要な「本当のコミュニケーション能力」はどう身につければいいのか?(電子書籍版)Ver12017年9月10日発行著者安達裕哉Y.Adachi2017発行者吉田啓二発行所株式会社日本実業出版社東京都新宿区市谷本村町3-29〒162-0845http://www.njg.co.jp/制作協力株式会社eNEXTJapan無断転載・複製を禁じます。
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