MENU

感情を、たとえる

感情を、たとえる

驚き上司にサプライズされる。あなたは驚く。上司が訊いてくる。「驚いた?」あなたは答える。「はい、驚きました」サプライズは成功……のはずだ。ところが、あなたのリアクションが上司の予想していたサプライズ成功のラインに達していなかったのか、また訊いてくる。「本当に驚いた?」これはおかしなことではない。サプライズする側は絶対に成功させたいと思っている。それなりの準備もしている。「まあ、失敗してもいいや」と思ってやっている人はいない。かつ、サプライズ成功には相手の驚きが必要不可欠である。「驚きましたよ!」あなたが力強く答えると、上司は「そうだろう」と頷き、サプライズは完了となる。今度は成功の余韻に浸る時間が始まる。サプライズを反芻して己の功績を楽しむ時間だ。「驚いただろ。驚くと思ったんだよ。で、どれくらい驚いた?」きっとこの質問が最後だ。あなたの返答が上司を満足させることができればすべてが終わる。長い長いサプライズから解放される。もしもあなたがサプライズ嫌いだったならば地獄のような時間だっただろう。それももう終わるのだ。「飛び上がるくらい」「心臓が飛び出すかと思ったほど」「気を失うくらい」ありきたりの言葉はどれも嘘っぽく、上司を納得させられそうにない。そこでたとえだ。いくつか例を挙げるので、来るべきサプライズに備えておこう。

浴槽にお湯をはったつもりが水だった時のように驚くチェックアウトが11時かと思ったら10時だったことに気づいた時のように驚くマジシャンに一万円札を貸したのにマジックが終わっても戻ってこない時のように驚く屏風から本当に虎が出てきた時のように驚く軽い気持ちでエサをあげたら予想以上の鯉が集まってきた時のように驚くオダギリジョーが本名と知った時のように驚く「知り合いかも」に父親が表示された時のように驚く信じられない教育現場を見た尾木ママのように驚く

寂しい夏は恋する機会が圧倒的に増える季節である。例えば、夏の暑さから逃れるようにコンビニへと駆け込む。冷気に包まれた店内でアイスを探し、レジへ。代金を払い、お釣りを渡される。その時に店員の女の子が私の手を握るように優しくお釣りを手渡してきたならば、この瞬間、恋だ。夏の夜といえば花火だ。海辺では若者たちが花火を楽しんでいる。だが楽しむのは良いが、後始末がなおざりになっており、きちんと消火されていない火は周りに燃え移り大きくなる。すぐに火を消すためのバケツリレーが始まる。私にバケツを渡す女子と手が触れあう。この瞬間、恋だ。このように夏と恋は切っても切れない関係なのだが、中でも最も恋が生まれる場所といえば海ではないだろうか。たまたま訪れた海の家。バイトの女の子に恋をしてしまう。理由は運んできたラーメンを受け取る時に手が触れあったから。この日から海通いは必須となる。その昔、ラジオ体操も絵日記も毎日続くことはなかったのに今は違う。連日海へ出かけ海の家を訪れる。「漁師でもそこまで海には行かないぞ」と言われるくらい海へ赴く。そして恋の相手がビールケースを持ち上げる姿にさえときめくものだ。しかし、やがて夏は終わる。蝉の声はなくなり、海の色が変わる。コンビニでアイスを買うことは自然となくなり、夜に花火を楽しむ人々の光景を見ることもなくなる。バケツリレーの女の子ともバイトの子とも会わなくなる。夏と共に恋は消えていく。誰もいなくなった海岸にひとり座る。海の家の跡地では海草ととうに遊び終わった花火が絡みあっている。遊び終わった花火のように寂しい寂しさを口に出すことは大変難しい。「寂しいんだよ」とはなかなか言えないものだ。しかし、どうしても口に出したい時はある。そんな時はたとえを交えて言えば良い。この場合のたとえは、寂しさを強調するものではない。むしろそれよりも寂しいという言葉の重さを軽減するたとえである。たとえの部分が遊びとなって、「……なんて、冗談!」と言える逃げ道を作ってくれるだろう。寂しさのたとえは、用意しておくべきかもしれない。

落し物コーナーにある老眼鏡のように寂しい夕立の音で起きた時のように寂しい百貨店のアパレルフロアにぽつんとある喫茶店のように寂しい地下駐車場に放置されている買い物カートのように寂しい掲示物をすべてはがした教室のように寂しいタイヤを盗まれた自転車のように寂しい混雑したフードコートで場所取りをさせられている老人のように寂しい平日のデパートの階段のように寂しい

優しい優しさをたとえるには『かわいそうなぞう』が良い。誰もが一度は読んだことのあるこの話の悲しさは皆が知っている。読み終わった後、その程度は人それぞれだが、確実に優しくなる。よくヤクザ映画を見た後、自分も強くなった気がして歩き方が変わるというような話を聞くが、それと同じだろう。この感情の変化をたとえに利用する。『かわいそうなぞう』を読んですぐのように優しいこれで優しさのたとえがひとつできた。今度はこれを基本形とし、作品を入れ替えていく。①『ごんぎつね』を読んですぐのように優しい②『大造じいさんとガン』を読んですぐのように優しい③『モチモチの木』を読んですぐのように優しい④『泣いた赤鬼』を読んですぐのように優しい⑤『ドラえもん6巻』を読んですぐのように優しい⑥『ドラえもん7巻』を読んですぐのように優しい⑦『ドラえもん4巻』を読んですぐのように優しい①~④は『かわいそうなぞう』同様、絵本や教科書で読んだことがあるだろうから、優しくなるのは手に取るようにわかるだろう。⑤⑥⑦は少々毛色が違うが、ドラえもんの6巻は「さようなら、ドラえもん」が収録されていて、7巻は「帰ってきたドラえもん」が収録されているので、これらもまた優しくなるのだ。そして4巻には「おばあちゃんのおもいで」がある。いつ「優しさ」をたとえることになるかわからない。その時に備えて、読後に優しくなるような本を数多くストックしつつ、それ以外のパターンも考えておこう。

キッズコーナーに置いてあるもののように優しい慣れ親しんだタオルケットのように優しいランチパックを取り出す時のように優しい陶器を包む新聞紙のように優しいたんぽぽの綿毛を手のひらにのせる時のように優しい民家から漂ってくる夕食の香りのように優しい本当は敵なのを隠しているかのように優しい中身がわかるようになっているおにぎりのように優しい

孤独個人経営ではないチェーンの喫茶店へ行く。休日は人でいっぱいだ。私は店内を見渡し、たまたま空いている席をひとつ見つける。店員が忙しなく歩いている。席に座りながら、私はかすかな不安を覚える。店に入ってからここに座るまで、店員に一切気づかれていない気がしたのだ。もう一度よく思い返すと「いらっしゃいませ」と言われていない。この事実が不安を増大させていく。向こうから銀色のお盆に水とおしぼりをのせた店員が近づいてくる。「なんだ、私に気づいていたのか」と思ったのも束の間、店員は別のテーブルへ水とおしぼりを運ぶ。やはり気づかれていない。いや、まだ決めつけてはいけない。次にこのテーブルに運んでくるのかもしれない。再び銀色のお盆に水とおしぼりをのせた店員が近づいてくる。今度こそ私のところだ。しかし店員は私より後に入ってきた客の席へ。順番的に私は飛ばされている。気づかれていないことは決定だ。休日の店内の喧騒の中、私は孤独になる。思い切って手を挙げる。店員は気づかない。店員がこっちを向きそうな時を見計らって手を挙げる。しかしまたしても気づかない。仕方ない。呼ぶしかない。大声を出すのは得意ではないが、そんなことを言っている場合ではない。「すみません」振り絞ったその声は、店員には届かなかった。諦めずにもう一度。「すみません」誰も来ない。周りのテーブルの人たちは「あの人気づかれていない」と思っているだろう。恥ずかしい。これ以上、呼ぶ勇気はない。店員がオーダーを取りに来ないような孤独店のテーブルに呼び出しボタンを必ず設置しなければいけない法律がいますぐ必要だ。

サービスエリアの駐車場に残された靴のような孤独捨てられたタンスに貼られているシールのような孤独雨天中止を知らなかったような孤独樽の中の黒ひげの男のような孤独白い小石しか入っていない水槽のような孤独車椅子の人が店の前で待つような孤独片づけし忘れた人生ゲームの人のような孤独「押すなよ!」と言っているのに押してくれる人がいないような孤独

悲しい郊外を走るバスの窓から外を眺めていた。交差点で止まった時、一軒のコーポが見えた。よくある二階建ての木造のコーポだ。クリーム色の外壁で、ところどころ錆びている階段の下にゴミ集積所がある。ゴミを出す曜日は自分の住んでいる場所とは違う。外観から判断するに、1K以上の間取りがありそうだ。ファミリーで住むタイプだと思われる。その推測を裏付けるようにママチャリがある。前後にチャイルドシートが付いていて、ファミリーを感じさせる。それはごく普通の日常の景色だ。だが、コーポとママチャリの組み合わせをじっと見ていると、なんてことない生活感に溢れていたものが別のものに見えてくる。それはニュースの映像である。例えば殺人事件のニュース。アナウンサーがニュースの概要を読み上げて、事件現場であるコーポが映る。そこに出てくるチャイルドシートが付いたママチャリの映像。その生活感が事件前の幸せだった生活を想像させ、悲しみを生む。ママチャリだけではない。乱雑に脱ぎ捨てられたサンダル空気の抜けた子ども用のボール干しっぱなしのキャラクターのタオル玄関前に置かれた出前の食器窓の向こうに透けて見える大きい焼酎の空き容器育ちまくったアロエ無造作に置かれたホイール倒れた三輪車どれも事件性を感じさせ、風景は悲しみに溢れ始める。倒れた三輪車のように悲しいやがてバスは動き出し、すぐに忘れる。

ダメージジーンズのダメージが広がってしまったように悲しいバッサリと切られて落ちていく髪のように悲しいひっくり返されたリヤカーのように悲しい蹴り続けていた石を見失うように悲しい買ったばかりの本の帯が破れていた時のように悲しいメダルコーナーに老人がずっといるように悲しい本当に全米が号泣してしまうように悲しい猫が使っていたエサの皿を見た時のように悲しい

後悔高校生の時、自転車通学をしていて、朝と夕方、学校と家を往復した。通学路の途中に長い坂があり、登り坂になる行きは己に挑戦するようにムキになって自転車から降りずに漕ぎ続けた。特に同級生の女子がいると、平気な顔をして追い越した。「あの人、この長い坂を自転車で登れてしまうんだ!素敵!」そんな羨望の眼差しが向けられていると信じて漕いだ。そんなものは皆無だったことは、今は十分わかっている。帰りは下り坂が繰り出すスピードに身を任せた。自転車はどんどんと加速し、景色が左右に分かれて流れて行く。それを楽しんでばかりいたために何度か轢かれそうになった。また、坂の上から自転車を走らせ、一度も漕がずにどこまで進めるのかを試したりもした。地面に足をついたら終わりという自分ルールのもと、毎回記録を更新できるよう懲りずに挑戦した。坂の下に一軒のガソリンスタンドがあって、そこの大きな看板を目標にするのだが、一度もそこにたどり着いたことはなかった。ある日、いつものようにやっていても失敗するだろうから、気合いを入れることにした。「あのガソリンの看板のところまで行けなかったら世界が滅亡する!」そう思い込んで、背水の陣を敷いたのだ。まるで子どもの頃に白線からはみ出さないよう歩いた時のように。坂道を下る。やがて徐々にスピードが弱まっていく。私は「ガソリンスタンドまで進め!」「ガソリンスタンドまで進め!」「絶対、ガソリンスタンドまで進め!」と強く願った。しかしとうとう自転車は進まなくなり、バランスを取れなくなった私は足をついた。もしもこの先世界が滅亡したら、それは私の責任かもしれない。白線からはみ出したら世界滅亡と考えてしまった時のような後悔先日帰省した時にその道を通るとガソリンスタンドはもうなくて、その後大きなレンタルDVDショップになったようで、それも潰れていた。風景は変わったが、私は相変わらず後悔している。昨日も4色ボールペンを分解して戻せなくなって後悔した。

スラムダンク全巻を売ってしまったような後悔Tシャツのカスタムに失敗した時のような後悔髪を切った後に鏡を見せられ「大丈夫です」と言ったような後悔お弁当が片寄ってしまった時のような後悔お風呂で「うわーっ」と声を出してしまうような後悔冷蔵庫に入れ忘れていたような後悔秋の風が思い出させるような後悔パチンコ屋を出るや否や襲ってくるような後悔

つまらない小学生の頃、学校から帰宅して迎える午後4時。テレビをつけても見たい番組はやっていない。再放送の時代劇は子どもにとってまったく興味のないものである。大相撲中継もおもしろくない。そもそもNHK自体、子どもにはうれしくない。テレビを見ることは諦める。父親はまだ仕事から帰ってきていない。母親は夕食の準備をしている。近づいても「あっちに行ってなさい」と言われる。新しいマンガもない。あるのは何度も読み返したマンガばかり。外に遊びに行くには中途半端な時間で、出かけたとしてもあっという間に夕方の鐘が鳴るだろう。勉強はするわけがない。何もすることがない。午後4時というのは、そんなつまらない時間だった。10年以上が過ぎ、家を出てひとり暮らしをするようになってから、午後4時はまったく別のものになった。ひとり暮らしの自由を思いっきり履き違えてしまい、生活リズムは完全に乱れて昼夜逆転になったため、起床する時間が午後4時なんてことが多々あった。また、何もせず昼寝して目覚めて迎える時間が午後4時ということもあった。この時間に目覚めると、時折実家で寝ていると錯覚することがあった。台所から夕食を作る音が聞こえてくる気がする。もうすぐ夕食が出来上がり、母親に「ご飯だよ」と呼ばれるなんてことを思ったりした。あるいは、見たばかりの夢を引きずっている状態であるから、もう死んでしまった人が元気に生活していると思ってしまうこともあった。祖父母もそこにいる気になった。やがて意識がはっきりとしてきて、狭く薄暗い部屋が見え、自分はひとりであることに気づく。誰もいない。夕食などない。音もない。もう会えない人がいる現実。すべて幻。午後4時は悲しい時間になった。午後4時のようにつまらないいつの間にかつまらなかったあの頃さえ懐かしむようになっていた。

うまくできた福笑いのようにつまらない日曜の午後のテレビのようにつまらない何ものっていないテーブルクロス引きのようにつまらないあみだくじができない天井の模様のようにつまらない業者が多めのフリマのようにつまらないみかんで満足してしまったわらしべ長者のようにつまらない大きい声で話して笑う大学生のようにつまらないみんな先に寝てしまったようにつまらない

信じられない時間を潰すために入ったファストフード店。スマホは電池が切れていて、暇を持て余しすぎて、目の前にあった興味のない求人誌をめくり始める。『明るく楽しい職場』信じられない。『和気あいあいとした雰囲気』信じられない。『笑顔が絶えない』信じられない。『初めての方大歓迎』信じられない。『丁寧に優しく指導』信じられない。『全員が主役』信じられない。『イベントが多数』これは嘘ではないかもしれないが行きたくない。求人広告の謳い文句のように信じられない求人誌の謳い文句以外でも信じられないことは無数にある。つまり「信じられない」のたとえは信じられないほどあるのだ。その一部を紹介しよう。

「怒らないから言ってごらん」という言葉のように信じられない「私は未来から来たお前だ」と言われた時のように信じられないどう見ても水アメなのに毒だと言われたように信じられない喧嘩上等のステッカーのように信じられない恋人募集中のステッカーのように信じられない砂壁にセロハンテープで貼ったポスターのように信じられない野球選手以外と交わしたホームランの約束のように信じられないお祭りのクジのように信じられない

罪悪感コーラ味のアイス。あたりが出たらもう1本のタイプ。今でもこのタイプのアイスを食べると「当たらないかな」と思う。アイスの棒に書かれた『あたり』の文字のうれしさはいつになっても色褪せない。はたして『あたり』の文字よりうれしい言葉はあるのだろうか?アイスを食べながら私は考える。例えば『大あたり』の文字だったらどうか。これはうれしいだろう。『あたり』だと1本だが、『大あたり』はたくさんアイスをもらえそうだ。ただ『あたり』よりもうれしくないのは「たくさんもらっても食べきれない」と考えてしまう年齢的なものだろうか。他に『合格』なんてどうだろう。何が合格なのかはわからないが、合格と書いてあるとうれしい。特に受験生にはうれしい言葉だ。受験の話が出たところで『100点』はどうだ?アイスの棒に『100点』の文字。これもうれしい。何だか食べ方を褒められた気がする。70点くらいだとそんなうれしくない。綺麗に食べたつもりが70点。どこが悪かったのかメーカーに電話して訊きたくなる。とはいえ、『いつも綺麗に食べていただきありがとうございます』と書かれていてもうれしくない。また、アイスの棒に『ずっと好きでした』の文字。これがうれしくないわけがない。勇気を出してアイスで告白してきたわけだ。秘めた想いが伝わってくる。女性用だと『やせた?』なんてどうだろう。これはうれしいのではないか。『似合うね』なんていう言葉もある。アイスを食べると服やアクセサリーが褒められる。悪い気はしないはずだ。あるいは『髪型変えた?』なんていうのもある。わずか1ミリだけ切った前髪。そんなちょっとした変化にも気づいてくれるアイスだ。人を限定してしまうかもしれないが、『勝訴』もうれしい言葉になるはずだ。判決が出た瞬間、『勝訴』と書かれたアイスの棒をカメラへと走ってくる人の姿が目に浮かぶ。「他には……『王様』って書かれていてもうれしいかもしれない。ひとりで王様ゲーム気分が味わえるぞ!」などといつまでも考えながら、最後まで『あたり』かどうかわからないように、棒の周りのアイスを残すように食べていた。その器用な食べ方はいつも通りだったが、たったひとつだけ私はミスをしていた。今日の暑さを読み違えていたのだ。予想以上に溶けるスピードが速く、アイスはするりと落下してしまった。王様ゲームがどうしたとか、ふざけたことを考えて、ひとりはしゃいだ時間が突如終わる。アイスはやがて溶けてなくなったが、食べ物を落としてしまった罪悪感はいつまでも消えない。

一度トレーにのせてしまったパンを売り場に戻す時のような罪悪感民家と民家の間を通るような罪悪感小さな商店の奥の部屋を見てしまったような罪悪感靴下で友達の肩に乗る時のような罪悪感鬼ごっこで上履きのまま外に逃げた時のような罪悪感紙ナプキンを無駄に多く手にしてしまったような罪悪感悪いことをする夢を見て起きた時のような罪悪感破れている紙幣を使う時のような罪悪感

ありがたい大きな仕事がひとつ終わる。とはいえ、それは決して自分ひとりの力でやり遂げたわけではない。同僚のアドバイスがなければできなかった仕事だ。煮詰まり、自暴自棄になり、投げ出し、挫折していただろう。同僚がさりげなく言ってくれた言葉が大きかったとつくづく思う。同僚に感謝の言葉を伝えたい。「あのアドバイス、ありがたかった」しかしこれでは自分の気持ちを10パーセントも伝えきれない。もっとありがたさの度合いを高め、より相手に伝わるようにしたい。ならばたとえだ。ありがたさをたとえる言葉は様々あるが、お勧めなのは歴史上最もありがたさが伝わってくる逸話を使う方法である。それは上杉謙信の逸話だ。戦国時代、塩がなくて困っている武田信玄に対し、上杉謙信はライバルであるのにもかかわらず塩を送ったのだ。「敵に塩を送る」という言葉の語源になった話である。「あのアドバイス、謙信から送られてきた塩のようにありがたかった」先ほどよりありがたさがグンとアップしたのは明らかだ。これでも「まだ足りない!もっと感謝の気持ちを伝えたい!」という人もいるだろう。たとえはその気持ちにも対応できる。今度は塩の種類を変えるのだ。「あのアドバイス、謙信から送られてきたテレビで紹介されていた塩のようにありがたかった」ただの塩ではない。人気テレビ番組で紹介されていたおいしいと評判の塩だ。元々、知る人ぞ知る塩であり隠れた人気商品であったところにテレビに出たものだから品薄状態になり、最低でも数か月待ちという事態に。それが送られてきたのだ。これはありがたい。塩の種類を変えるとたとえは増える。例を挙げておくので効果を実感してもらいたい。それでも感謝の気持ちが伝わらないというのなら、感謝の言葉とともに金品を送ろう。

謙信から送られてきた世界の珍しい塩のようにありがたい謙信から送られてきたお取り寄せの塩のようにありがたい謙信から送られてきたミネラルが豊富な塩のようにありがたい謙信から送られてきたインテリアとしても使える岩塩のようにありがたい謙信から送られてきた特にパスタに合う塩のようにありがたい謙信から送られてきたマッサージに使える塩のようにありがたい謙信から送られてきた塩とそれを使った簡単なレシピのようにありがたい謙信から送られてきたお風呂に入れて楽しむ塩のようにありがたい

とまどいとまどいをたとえたい。カラオケで歌っていると店員が入ってきた時のようにとまどう知らない町でバスに乗る時のようにとまどうバスが前払いなのか後払いなのかわからない時のようにとまどう頼んだ覚えのないアヒージョが来た時のようにとまどうホテルでどれが部屋の電気のスイッチなのかわからない時のようにとまどうひいたおみくじはどうすればいいのかわからない時のようにとまどう注文時、店員に「いつものですか?」と言われた時のようにとまどうこのように様々なたとえが考えられるが、とまどいをたとえる場合、最も適しているのは『笠地蔵』を使う方法である。みなさんご存知、昔話の『笠地蔵』だ。年の暮れ、おじいさんが笠を売りに町へ出かける。しかし笠は売れず、吹雪の中帰路につく。途中、お地蔵様を見つけ、おじいさんは売り物の傘を被せる。しかし笠が足りなくなり、最後のお地蔵様には自分が使用しているてぬぐいを被せる……。時代や地域によって差はあるだろうが、概ねこのような話であり、その夜お地蔵様が恩返しに来て終わる。この話のどこをとまどいのたとえに使うのかというと、最後のお地蔵様の箇所である。他のお地蔵様が笠を被される中、おじいさんのてぬぐいを被せられどう思ったか。「そこまでしなくても大丈夫です」と遠慮があったかもしれない。申し訳なさもあっただろう。また、他人が身に着けていたものを着用することに抵抗がある性格であったなら、「気持ちはうれしいのですが……」と思っていたかもしれない。「洗って返したほうがいいのかな」などと迷いも生じる。いずれにせよとまどいがあったことはたしかだ。これをたとえに活用してみる。頭にてぬぐいを被せられたお地蔵様のようにとまどうとまどいをさらに強調したい場合はてぬぐいを変えていけばよい。なお、これらはたとえの例であって、実行して恩返しの内容に差が出ても責任は負わない。

頭にキャラクターもののてぬぐいを被せられたお地蔵様のようにとまどう頭にかわいい柄のてぬぐいを被せられたお地蔵様のようにとまどう頭にベースボールキャップを被せられたお地蔵様のようにとまどう頭にハコフグの帽子を被せられたお地蔵様のようにとまどう頭に月桂冠を被せられたお地蔵様のようにとまどう頭にソーラーパネルを設置されたお地蔵様のようにとまどう頭にジョウロを置かれたお地蔵様のようにとまどう

悔しいたとえの作り方で述べた『著名人を使う』方法。そこで登場した織田信長。織田信長のように怒る織田信長は怒っているイメージが強すぎてこのたとえしかあり得なかったわけだが、これをアレンジすることは可能である。イメージを崩すことなく、それを利用するのだ。機嫌の悪い織田信長のように怒る寝起きの織田信長のように怒る寝不足の織田信長のように怒る「怒ってるの?」と何度も訊かれた織田信長のように怒るこの方法は「悔しさ」をたとえる時にも使える。悔しさといえば、お笑いコンビ、ザブングルの加藤氏である。彼のギャグ「悔しいです!」はお茶の間に浸透している。ザブングル加藤=悔しいこのような等式が決して大げさではないほど、彼には悔しがるイメージがある。このイメージから次のようなたとえが作られる。ザブングルの加藤のように悔しいこれを基本形としてあとは織田信長同様、アレンジすれば良い。

僅差で負けたザブングル加藤のように悔しい大差で負けたザブングル加藤のように悔しい前の人でスープが切れてしまったザブングル加藤のように悔しい借り物競争で紙のところまでは一番だったのに、借りるのに手間取って最下位になってしまったザブングル加藤のように悔しい綱引きで負けたザブングル加藤チームのように悔しいザブングル加藤のことを馬鹿にされたファンのように悔しいザブングル加藤の気持ちを一番わかっている親友のように悔しいザブングル加藤のクローンのように悔しい

なお高橋英樹氏もこの方式が使える。高橋氏が出演しているCMのイメージを利用し、アレンジするのだ。おまけとしてこちらも紹介しよう。高橋英樹が「越後製菓」と自信満々に言った時のように正解高橋英樹が「越後製菓」と叫んだ時のように正解高橋英樹が「越後製菓」と落ち着いて言った時のように正解高橋英樹が「越後製菓」と迷いなく言った時のように正解高橋英樹が「越後製菓」と丁寧にゆっくりと言った時のように正解高橋英樹が「越後製菓」と周りの雰囲気に流されずに言った時のように正解高橋英樹が「越後製菓」と悪い奴に屈することなく言った時のように正解高橋英樹が「越後製菓」と娘に教えた答えのように正解

おわりに昔の話。まだ多くの人が雑誌を買って、そこから多くの情報を得ていた頃の話だ。ある日、何もしていなかった私に雑誌の仕事が舞い込んできた。知り合いの編集者が仕事をくれたのだ。それはコラムを書くとかエッセイを連載するとかたいそうなものではなく、キャプションと呼ばれる写真や絵に付けられる短い文を書く仕事だった。理系だった私は文章を書くことを大の苦手としていたが、短いのなら自分でもできるだろうと考え、お金もないことだしと引き受けた。当時はまだ入稿がデータによるものではなかったため、書くべき文字数がきっちりと決められていた。今では原稿を書いてからその文字数に合わせてデザインすることも可能だろうが、そうもいかず、例えば「21文字×4行」と指定されていればその通りに書かなければいけなかった。もちろんすべてを埋める必要はないものの、「21文字×4行」の4行目が1文字しか書かれていないのは美しくなく、半分以上埋めるのが理想であった。この仕事により、私の文字数を調節する能力が格段に上がった。文章力は上がらないのに、その力だけが異常に上達したのだ。文字数がオーバーして削らなければいけない時と、逆に追加しなければいけない時があり、どちらかといえば私は後者の方が苦手だった。先も述べたが少しでも長い文章など書きたくなかったし書けなかったからだ。そんな時役に立ったのが「たとえ」である。例えば、ファッション誌で服の写真が並んでいる。どれも定番の服だ。しかし定番とだけ書いていても文字数が足りない。そこで「たとえ」付けた。フォトコンテストに送られてくる孫の写真のように定番参観日にどれが誰の親か予想する時のように定番のど自慢で陽気な女性二人組がPUFFYを歌うように定番猛犬注意のシールに描かれたブルドッグのイラストのように定番ナポリタンの食品サンプルの浮いたフォークのように定番するとたとえの分だけ文字数を増やすことができた。文字がレイアウト通りに収まり、高揚感を得たものだ。また別のページ。見開き一面にずらりと並ぶボーダー柄の服の写真にキャプションを付けることになった。ボーダーについていくつも書けるほどボーダーが好きなわけでもなく、かといって「流行りのボーダー」一辺倒ではこれまたページは埋まらない。そこで私はまた「たとえ」を使った。横断歩道のようなボーダー柄の服鉄格子のようなボーダー柄の服ウォーリーが喜んで選びそうなボーダー柄の服バーコードバトラーで強そうなボーダー柄の服昼寝の時に顔についた畳の跡のようなボーダー柄の服あっという間にボーダーのバリエーションが広がった。たとえの数だけキャプションが埋まっていった。そうしているうちに、私は気づいた。わずかな文字数の中で自分の個性を出そうとしていることに。最初は文字数の調節のためにやっていたことが、いつしか自分の存在を示すための手段となっていたのだ。他人とは違うたとえを入れることにより、差別化を図り、独自性を出し、「ここは私が書いているんだぞ」とアピールするようになっていたのだ。たとえはその頃の私にとってアイデンティティだった。ちなみに、定番のキャプションもボーダー柄のキャプションもすべてボツになったことを覚えている。この本はもしかしたらあなたにとって『単三電池が必要なのに間違えて単四電池を買ったような本』なのかもしれないが、いつか『「あっ、前に買った単四電池が引き出しにあったはず!」と役に立つような本』になることを願っている。

せきしろ1970年北海道生まれ。主な著書に、映像化された『去年ルノアールで』や、『不戦勝』(共にマガジンハウス)『逡巡』(新潮社)『海辺の週刊大衆』(双葉社)などがある。また、又吉直樹氏との共著『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』(幻冬舎)、西加奈子氏との共著『ダイオウイカは知らないでしょう』(マガジンハウス)では、それぞれ自由律俳句と短歌に挑んでいる。

たとえる技術電子版発行2016年10月18日著者せきしろ装丁小寺練校正株式会社ぷれす編集谷綾子発行者山本周嗣発行所株式会社文響社〒105-0001東京都港区虎ノ門1-11-1ホームページhttp://bunkyosha.com/お問い合わせinfo@bunkyosha.com©2016bySekishiro

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次