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第1章「コミュニケーション能力」の正体

はじめに近年、新卒採用時に企業が学生に求める能力の代表が「コミュニケーション能力」となっています。実際に、2013年の厚生労働省の「厚生労働白書」によれば、1990年代には上位5位にすらランクインしていなかった「コミュニケーション能力」が、2012年時点には大きく順位を伸ばして3位にランクインし、逆に「創造性」などはそのランクを落としています。もちろん、これは新卒にかぎった話ではありません。中途採用においても、まず多くの企業が気にするのは、その人物の「コミュニケーション能力」であり、そのほかの能力は、「コミュニケーション能力」があることを前提として判断しているようにも見えます。しかし、なぜ現代はこれほど「コミュニケーション能力」が重視されるのでしょう。1つには、ますます知識が専門分化しており、「専門家同士の協力」なくして、成果をあげることができない、という現実があげられます。誰もたった1人の知識で、膨大な範囲に及ぶ企業活動を支えることはできません。たとえば、webサービスの開発・運営をとっても、アプリケーションのプログラマー、インフラのエンジニア、デザイナー、マーケター、ビジネス・プロデューサー、それぞれに深い専門知識が求められ、しかも彼らの知識が有機的につながらなければなりません。また、自社だけではなく、広告代理店のメンバーや、フリーランスのエンジニアが出入りしており、彼らのマネジメントを行うマネジャー、法的なリスクについては法務など、携わらなければならない専門家は膨大な人数にのぼります。このように現代は専門知識によって組織に貢献する労働者、「知識労働者」が中心となる世界です。そして、知識労働者はその力を結集するため、「専門知識」と「コミュニケーション能力」の両者を兼ね備えてはじめて業績に貢献できるのです。2つ目には、会社のコアメンバーが行う定型業務の減少があります。高度経済成長時には、企業は「定型的な仕事」を効率よくコストを低く抑えて回す方法が問われていました。ところが、現在は中小零細規模の企業に至るまで、「定型的な業務」はソフトウェアやクラウドソーシング、外部リソースに委託し、付加価値の高い領域に集中して業務を行わなければ、競争に勝ち抜いていくことができません。すると、会社のコアメンバーが行う仕事は必然的に、クリエイティビティが求められる非定型業務です。しかし、非定型業務は本質的に「試行錯誤」を含みます。つまり、「試してみなければわからない」「失敗したら改善してやり直す」というサイクルを回し、徐々に成果が出るように仕事の質を高めていく過程を必ず含みます。そして、この「改善活動」は1人ではできません。改善をする、ということは、さまざまな視点からアイデアを出し、より成果につながるアイデアを求める行為にほかならないからです。したがって、ここにおいても「コミュニケーション能力の有無」は、死活問題なのです。前述した理由から、「コミュニケーション能力」に悩む人は、近年とても増えているといえるでしょう。私も企業のコンサルティングの現場において、適切なコミュニケーションがとられていないばかりに多くのリソースを無駄にしている、たとえば次のようなケースを見てきました。・無駄な会議・上司の指示と部下の行動の食い違いによる摩擦・納得感のない人事評価・職場の人間関係の不和・プロジェクトの崩壊このように「コミュニケーション能力」の不足に端を発するトラブルは、枚挙にいとまがありません。私はそんな「働く人たちのコミュニケーション不全」を解決すべく、Books&Appsというメディアにコラムを数多く書いてきました。本書は、その中でもとくに評判のよかった記事をもとに、加筆修正を加え、編集を行ったものです。本書を読んだ1人でも多くの方が、「コミュニケーション能力」について何らかのヒントが得られることを願ってやみません。

目次はじめに第1章「コミュニケーション能力」の正体人にきちんと「伝わる」ようにするために、知っておくべきこと真のコミュニケーションと、上辺のコミュニケーション、何が本質的に異なるのだろうか「コミュニケーション能力」とは、言ってしまえば「気が利くかどうか」「会話のうまい人」とそうでない人の決定的な差がどこにあるか、ようやくわかったコミュニケーションの要諦は「察してくれ」に甘えないこと

第2章なぜ、企業から「コミュニケーション能力」は求められ続けているのか

人事部が学生に「学校」と「会社」の評価の違いについてホントのところを説明したなぜ、志望動機が「スキルアップしたいから」ではいけないのか就活で「コミュニケーション能力」が重視される理由を簡潔に説明する「企業が採用したい人」は「コミュニケーション能力の高い専門家」に変わってきているという話「コミュニケーション能力」が最も貴重な能力となる時代

第3章どうしたら「コミュニケーション能力」は身につくのか

知っていても、知らないふりをしたほうがコミュニケーションはうまくいく「聞き上手」は要するに「いい人」です「1を聞いて10を知る人」になるためのコミュニケーション術「悩みを相談できる人がいないんです」と言う人は、「相談ベタ」を直すといいですよ「きちんと質問できる人」になるための5つのポイント「話が浅い」とはどういうことか

第4章「コミュニケーション能力」を高めるために、日頃からできること

人にアドバイスをするときに厳守すべき6つのステップ知識レベルに格差がありすぎると、「普通に話しているだけ」なのに相手にとっては「バカにされている」ように感じる自慢話を聞いてもイラつかないで済む方法マウントしてくる人はかわいい人に仕事を依頼するのが上手な人は、こうやって頼んでいる「提案のコンペ」で勝率を劇的に上げる方法「承認欲求の強い人」は認められず、逆に「承認欲求のない人」ほど評価されるという皮肉「よい人間関係」は衝突することを前提としている

第5章「知的能力」と「コミュニケーション能力」を兼ね備えて、はじめて成果を出す能力となる

「知的」であるかどうかは、5つの態度でわかる「知的能力」を活かすには、「コミュニケーション能力」が不可欠「リーダーシップ」とは、わかりやすく、魅力的な物語を語る力のこと「おまえのために言っているんだ」って、絶対に言わないほうがいいですよ「任せた仕事」を確実にやってもらう4つの方法「意見を求められること」をひどく恐れる人がいる「代案なしの反対」に存在価値はあるか知らず知らず「上から目線」になっている人の特徴こんな人は、会議に参加させてはいけない何より残念なのは、知的に優れているのに「コミュニケーション能力」が低い人おわりに

人にきちんと「伝わる」ようにするために、知っておくべきこと「コミュニケーションの本質はなんだろう?」と考えたときに、核となる技術は「伝わる」ことだろう。伝えることは誰でもできる。話せばよい。見せればよい。聞かせればよい。だが、人を動かすことはできない。人を動かすのは、その内容が「伝わった」ときだ。コミュニケーションは、伝わることが難しいのである。「伝わること」の本質を知っている人は、どんな仕事でも成果をあげる。たとえば、・教師・マーケティング・プランナー・営業・エンジニア・芸術家・作家・音楽家・コメディアンなど、多岐にわたる分野で「伝わる」ことは重要だ。現代では「つくる」だけではなく、「伝わる」ことを考えなければならない仕事ばかりである。伝われば、相手は動き、変化し、感動し、感化される。優れた表現者が尊敬を集めるのは、その影響力の大きさゆえである。*では、「伝わる」とはなんだろうか。単に「伝える」だけではなく、「伝わる」表現をものにするためには何をすればよいのだろうか。いくつか知っておくべきことがある。1「伝わる」のは、相手が聞きたい(見たい)と思うものだけである見たくないもの、見ようとしないものは、基本的に見えない。・たとえば、ある会社で「リストラ」があるという話が出るとする。しかし、皆「自分には関係がない」と思う・年金を含む社会保障が破綻寸前だと知らされても「他人事」と思う・40歳にもなれば、あと人生はせいぜい40年であるが、「死ぬのはまだまだ先」と思う古代ローマの政治家ユリウス・カエサルの言うとおり、人間は、自分が見たいと欲するものしか見えない。無理やりそれを見せようとすると、人は反発し、怒る。現実と理想の両方を見ることのできる人は、稀有であるし、それは一種の才能であるから、それを相手に期待してはいけない。したがって、「何を言っても伝わらない人」は存在する。そのようなときは時間をかけなければならない。待つこと、状況が変わることを待たねばならない。そのような意味では「先送り」が正しい判断のときもある。厳しい現実を受け入れてもらうには、時間がかかる。2「感情」抜きには、伝わらない論理によっては伝わらない。論理によって伝わる人は、これもまれである。それを相手に期待してはいけない。人に最もよく伝わるのは、感情であったり、心の動きであったりする。数学者よりも音楽家や画家が伝わる表現に秀でているのは、このためである。感情を喚起しなければ、人には伝わらない。したがって、本当に伝えたいことがあるならば、説得しても無駄である。ストレートに伝えてもあまり効果はない。何かのエピソード、ストーリー、色、音楽、味覚、匂い、視覚表現など、別の形の表現をとる必要がある。たとえば、グルメ漫画で、相手にうまいものを食べさせ、籠絡するストーリーはもはや定番であるが、それが受け入れられるのは、我々が論理ではなく、感覚の生き物であるからだ。・ある会社では、「会社の危機的状況」を知らせるために漫画をつくった。論理ではなく、感情に訴えた・ブログや雑誌などで炎上を意図的に発生させる人があとを絶たないのは、これを知っているからである・アル・カポネは、「やさしい言葉に銃を添えれば、やさしい言葉だけのときよりも多くのものを獲得できる」と言った。恐怖で人を支配する試みがなくならないのは、このためであるあなたのアドバイスが目の前の人に伝わらないのは、論理によって伝えているからだ。熱意を、感情を伝えなければならない。3人は「誰に言われたか」を重視する

同じことを言ったのでも、あなたが言うのと、ビル・ゲイツが言ったのとでは異なる影響力がある。それは不合理ではなく、人間性の本質である。目の前の人が、「誰からの話なら聞くのか」は重要なことである。・CMに芸能人が起用されるのは、このためである・紹介が最高の営業であるのは、このためである・虎の威を借る狐が有効なときもある・有名人のセミナーが好まれるのは、このためであるしたがって、あなたが表現しても「伝わらない」のであれば、あなたが変わらなければならない。あなたが権威を備えなければならない。あるいは、ほかの人に言ってもらわなければならない。

真のコミュニケーションと、上辺のコミュニケーション、何が本質的に異なるのだろうか人間関係は「コミュニケーション能力」によって良好な関係が保たれると思う方がいるかもしれない。たしかに、そういった面もある。人に使う言葉を選んだり、傾聴したり、コミュニケーションを良好に保つために語られることは数多い。しかし、大人にとって、人間関係を長く良好に保つための本質は、「コミュニケーション能力」なのかといえば、実際はそうとも言い切れない。たとえば、場合によっては「上っ面はいいけど、あの人は腹の中が読めないよね」や「あの人とは上辺だけの付き合いだよね」と言われたりする。では、信頼を生み出す「真のコミュニケーション」と、疑念を生み出す「上辺のコミュニケーション」とで、何が異なるのだろうか。*ひと昔前、私はあるシステム開発の会社にお邪魔したことがある。その会社はひと言でいうと「人間関係が良好」であった。何がそう思わせたのかといえば、その議論の様子だ。彼らの会議は常に本音でものごとが語られる。なぜかといえば、その会社では「本音で語ることが義務」とされているからだ。「上辺だけとりつくろっても、時間の無駄ですから」と経営者は言う。経営者の言うとおり、彼らの会議は短い。一般社員であっても上司、ときに経営者にまで遠慮のない物言いがなされる。当然、少数ではあるが感情的になる人も中にはいるのだが、会議が終わると皆ケロっとして、一緒に昼食を食べに行く。「激しくやり合っているように見えたのですが、皆さんよい関係なのですね」と経営者に言った。「違いますよ。関係がいいから、激しくケンカできるのです」とその経営者は返した。さらに、こうも。「上辺だけの関係であったら、決して本気で語ることはできません。そのまま決別してしまいますよ」たしかに一理ある。私はその経営者に尋ねた。「このようにきちんと議論できる人間関係をどのようにつくるのですか?やはり皆さん、コミュニケーション能力が高い人ばかりを採用しているのでしょうか?」その経営者は即答した。「コミュニケーション能力が高い人が好まれる、というのはおそらく最近の悪しき風潮でしょう。私はそれとは反対の立場をとります」予想外の返答だ。経営者は続けた。「敬意をベースに人間関係ができていれば、配慮のある使うべき言葉は自然と生まれます。上辺だけのコミュニケーション能力をベースとした人間関係は逆です。ひと言ひと言は軽く表面的であり、そこに真の連帯はありません。いわば、学生のときのように『面白い人は人気がある』という程度のものでしょう」「敬意をベースとする、ですか?」「そうです。良好な人間関係を保つために、最も重要なのは敬意です。むしろ、真のコミュニケーション能力の源泉は、『敬意』といってよいでしょう。これをなくして、どんなコミュニケーションも本質を伴わず、疲れるだけのむなしいものとなります」「なるほど……」「夫婦でも、友人関係でも、長く続く人間関係は『敬意』をベースに成り立ちます。そして、私たちの会社の経営も同様に敬意をベースにしています。上辺のコミュニケーション能力ではありません。必要なのは、その人に何かしらの強みを見ることができるか、目の前の誰かを敬うということを、自然とできるかです。私たちは『どのような振る舞いをする人物に敬意を持ちますか?』という質問を必ず面接で応募者に聞きます。その理由を聞き、採用の可否を決めることも多いです。人に対して敬意を持てない人物は、要するに未熟なのですよ」「未熟ですか……」「そうです。未熟な人物と議論はできない。そこにあるのは権利の要求と、認められたいという欲望だけです。また、敬意は好き嫌いとは関係がない。嫌いでも敬意があれば、対話できる。これは多様性を持ったチームをつくるためには不可欠です」*この経営者の話は、私が「コミュニケーションの本質」と「敬意」に関して深く考える、とてもよい機会になった。

「コミュニケーション能力」とは、言ってしまえば「気が利くかどうか」ある人事の方が「6月に入ると、新人のあいだの実力差が見えてくる」と言っていた。「そんなに早くわかるものなの?」と思う人もいると思うが、おそらく正しい。この時期、多くの新人の役割は研修の受講と雑用であり、人によりやっていることにあまり差がない。だから、余計に能力の差が目につくのだ。「いちばん差が出るのは、コミュニケーションの部分ですね」と、その人事の方は言う。「コミュニケーション?」「そう」私は思わず笑ってしまった。「コミュニケーション能力のある人を採用したのでは?」「それはそうですけど、面接したのは現場の人、面接の素人だから、結局、人事が研修と雑用をやらせて、もう一度適性を見て、ふるいにかけているのです」「なるほど」「人事をそれなりに長いことやっていると、『面接で人の能力を見抜ける人』なんてまったくいないことがよくわかります(笑)」「へえ~」「ま、話を元に戻すと、コミュニケーション能力がありそうだ、ということで採用した人も、当たり外れがあるんです」彼によれば「コミュニケーション能力が高そうに見える人」には2種類あるそうだ。1つは、「人あたりがよいだけの人」。もう1つは、「真にコミュニケーション能力の高い人」だ。私は「何が違うのですか?」と聞いた。「少し難しい課題を与えたときの反応がまったく違うんです」と彼は言う。「具体的に教えてください」「たとえば、ある新人デザイナーを2人、想像してください。1人は、人あたりだけがよい人。もう1人は、真にコミュニケーション能力の高い人」「想像しました」「そして、彼らに課題を与えます。たとえば、ウチのwebサイトの商品ページのデザインをもっとよくしてほしい、と」「抽象的ですね……」「そのとおりです。あえて抽象的な課題を与えて、どういうふうに行動するか、彼らの反応を見ます」「それで、どうなるのですか?」「人あたりだけがよい人は、『どうすればいいか教えてください』って来る。『何がわからない?』と言っても、『どこから手をつけたらいいかわからない』と言うだけ」「まあ、普通はそうじゃないですか」「そういう人には作業手順を教えてあげる。けれども、その人は『コミュニケーション能力が低い人』に分類される」「では、高いほうの新人はどんな反応なのですか?」「人によって言い方は違いますが、問題点を整理してきます。とても具体的に質問してくるのです」「どんな?」「たとえば、今年の新人で1人、ヒアリングシートを自分でつくってきた人がいました。項目が、『なぜデザインをよくしたいのか?』『今のページで使いにくいところはどこか?』『サンプルになるようなページはあるか?』。あと何だったっけな……」「それはすごい」「もちろん、デザインそのものの腕はまだまだなので、ベテランに比べてクオリティは低いですけれど。でも、こういう人物を、コミュニケーション能力がある、っていうのだと思います」「たしかに……」「たぶん彼、想像したんですよね。『なぜこの仕事をやらされているか』『人事の意図は何か』を。たしかに、その類いの事例を研修で教えましたけど、彼はそれをすぐに実践できている」「すごいですね」「結局、コミュニケーション能力って、言ってしまえば『気が利くかどうか』です。彼はどうすれば相手が楽か、想像できるのですよ」「なるほど」*たしかに、「人あたりのよさ」だけでは仕事はできない。真のコミュニケーション能力とは、すなわち相手の要求を「気を利かせて」読み取る能力なのだ。

「会話のうまい人」とそうでない人の決定的な差がどこにあるか、ようやくわかった公私ともに、会話のうまい人をたくさん見てきた。会話はコミュニケーションの基礎であり、また終着点でもある。上手であることに越したことはない。では、どうすれば「会話がうまい」と言われる人になり得るのだろうか。一説によれば「聞き上手となるべき」と言う人がいる。ウンウンと相手の話をよく聞き、相手に気持ちよくしゃべってもらうことに注力せよ、と言う。しかし最近、それはどうも違うと感じることもある。聞き上手であることは特定のシーンにおいては重要なのだが、必ずしもそうではない。たとえば、私は普段「聞き上手」の人をあまり求めていない。何か観察されているのでは、と勘ぐってしまうからなのだが、むしろ相手の話を聞かない人のほうがコミュニケーションをとりやすく、会話も続く。また、世の中に散らばる「会話のノウハウ」は、いかにもマニュアル的で個別のシーンを扱っていて使い勝手が悪い。だから、最近まで私は「会話に王道なし」と割り切っていた。*ところが最近、ある方とミーティングするにあたって1つ気づいたことがあった。私が「話し上手」だと思っていた方が、ほかの人と話すと「聞き上手」だったのだ。つまり、彼は使い分けていた。それを彼に尋ねると、「会話には、いくつかのパターンがあり、使い分けは当然」と言った。さらにこうも。「『聞き上手』とか『話し上手』とかは、会話のひとつの側面を切り取っただけで、本質はそこにはない」「では、本質はどこにあるの?」「まず、よく言われるとおり会話は『キャッチボール』だ」「それは知っている」「では、キャッチボールが成立するための条件は?」「条件?うーむ……」「たとえば、野球を覚えたての子どもと、プロ野球選手のあいだでもキャッチボールは成立するよね」「まあね……」「でもそのとき、プロ野球選手は手加減するだろう?」「うん……」「じつは、会話もどちらかが『手加減すること』が絶対に必要なんだよ」手加減……と言われても、わかったような、わからないような表現だ。実際、何を手加減すればよいのかよくわからない。「私の言っていることがわからない?」「うん……」「たとえば、ある友だちに自分の好きなゲームの話をするとしよう。自分は詳しいけど、相手はそのゲームをしたことがない」「よくあるね」「ならば自分は、相手がどこまでそれについて知っているのか、をたしかめながら話を進めなくてはならない。格闘ゲームなら、格闘ゲームをやったことがあるか、『コマンド』を理解しているか、格闘ゲームの面白さについて聞いたことがあるか、これらが『手加減』だ。これをしないと、相手はキョトンとしてしまうか、『よくわからない話だ』と思いながら話を我慢して聞くだけになる」「なるほど」「だから会話が面白いのは、じつは『同じ知識レベル』の人同士だよ。手加減しなくていいから。話していて、『つまらないな、この人の話』と感じるときは、知識レベルに隔たりがあるときだね」「なるほど」「それを理解したうえで、次に『3つのモード』を使い分ける」「何それ?」「会話というのは、目的によって3つに類型化される。『議論モード』と、『共感モード』、そして『提供モード』」「はじめて聞いた」「だろうね。私が勝手につけただけだから(笑)。でも、意識するだけでけっこう役に立つ。『議論モード』は、自分と相手の話す割合が5:5になるようにする。これはお互いがきちんと意見を言い合って、よりよい知識を生み出すための会話の方法」「なるほど」「『共感モード』は自分が『聞き役』で、話す割合は自分と相手が2:8くらい。この会話の目的は相手にスッキリしてもらうこと」「それはなんとなく知っていた」「まあ、よく聞くよね。そして『提供モード』は自分が8話して、相手が2くらい質問するイメージ。要するに情報提供」「なるほど」「といっても、あくまでこれらは目安。でも意識すると会話はかなり楽だよ。とはいえ……」「とはいえ?」「本当に会話がうまい人は、こういう分析をいちいちせずとも、会話をうまく成立させてしまうけどね。それが本当のコミュニケーション強者だよ」

コミュニケーションの要諦は「察してくれ」に甘えないことコミュニケーションのコツは何か、と問われれば、「聞くことが大事」「相手の動作を真似よ」「共感しなさい」といった「相手に好かれるためのテクニック」が紹介されることが多い。だが、仕事における、真の意味でのコミュニケーションのコツ、すなわち要諦は、「察してくれ、に甘えないこと」。知人のコミュニケーション・マネジメントの研修講師が、こんな話をしていた。*「新しい働き方で大事なのは『好かれるため』のものではなく、『コラボレーションするため』のコミュニケーションだよ。つまり初対面でも、人間関係がそれほど濃密でなくとも、成果が出せるような」「ふーん……。もう少し具体的に説明してもらえないかな」「コミュニケーションが不調で、お互いに不信感を持ったり、いがみ合ったりしているプロジェクトやスタートアップって、たいてい『察してくれ』が多すぎる」「具体的には?」「たとえば、上司に対して『困っていたら助けてくれるだろう』と思って助けを自分から求めないケース。結果的に締め切り寸前に『すみません、納期を遅らせてもらえませんか』と言ってモメる」「ああっ、そういうこと」「『こっちは困ってるのだから、上司が察してくれよ』に甘えてる、というわけ」「なるほど」「ちなみに、このケースの場合はもちろん上司にも非がある」「なぜ?」「上司の側も同じく『困ったら相談しろって、言わなくてもわかるよな。察してくれよ』って思っているからさ」「ありがちだな」「でも、『常識だったらわかるだろ』は、これからどんどん通用しなくなる。何せ、正社員は減る一方だし、必然的に社外の人や契約社員、場合によってクラウドソーシングを使ったりするからな。皆の背景が違えば、『察し』なんてものは過去のもの」「そうか……」「そのかわり、ルールと契約の重要性が増す。人が人に頼んだり、仕事を一緒にしたりするときには、どんなルールが必要かをきちんと洗い出す必要があるだろうな。で、今そういう研修の依頼が激増中だよ」「たとえば?」「『社員以外の人にうまく仕事を頼むには?』とか、『クラウドソーシングの使い方』とか。『他社との組み方』とか」「なるほど……。わかりやすいね」*コミュニケーション能力の高低は、仕事の成果に顕著に現れることが多い。そして、長らく日本人のコミュニケーション能力は「察し」というハイコンテクスト文化に支えられてきた。だが「察し」に頼りすぎると、ごく小さなチームのうちは生産性が高いが、徐々にプロジェクトが大きくなるにつれて、人間関係の悪化が原因で生産性は下がる。また、同質性の高い集団にしか、ハイコンテクストなコミュニケーションは通用しない。しかし、日本人は多様化した。会社の中にいるのは正社員だけではないし、世代によってもまったく考え方が違うことは、多くの人が痛感しているだろう。そのうちに「みんな、私のことをわかってくれない」という発言や、「上司は私の気持ちをまったくわかってくれない」という発言につながる。そしてついに、「察してくれ」が高じると、それは徐々に憎しみに変わる。なぜ期待に応えてくれない。なぜ何もしてくれない。こんなチームと会社、最悪だ!となるわけだ。*つい先日、自動車免許の更新に行った。その講習の中で、「事故防止のためには、『だろう運転』から『かもしれない運転』になりましょう」と言われた。「多分、大丈夫だろう」と自分に都合よく考えて、一方的に安全だと思い込み運転することを、一般に「だろう運転」と呼んでいます。その結果、「まさか、そうなるとは思わなかった」というような、思わぬ出来事が起きることがあります。~中略~人は一旦「大丈夫」と思い込むと、なかなかその考えから抜け出すことができません。できれば同乗者から指摘してもらい、気づくことが有効な策ですが、常に同乗者がいるわけではありませんし、また同乗者が気づかない場合もあるでしょう。

自分自身で、本当にその判断は正しいかどうか、考えることが必要です。そのためには、「人が出てくるかもしれない」、「前の車が急に止まるかもしれない」など、自分が置かれている状況から、その先のあらゆる「~かもしれない」を考えて、注意を向けるようにしましょう。(思い込みによる運転の危険性~「だろう運転」から「かもしれない運転」へ~東京海上日動火災ホームページ「安全運転ほっとNEWS」より)コミュニケーションもまったく同じ。「だろうコミュニケーション」から「かもしれないコミュニケーション」に。自分に都合よく思い込まず、相手にきちんと言う、聞く。面倒くさいが、それは「多様性を許容すること」のひとつの代償でもある。

 

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