問題を解決できない人の盲点
最近、私は知人の会社員からある相談を受けました。
「給料だけでは生活するお金が足りなくて困っているんです。子どもの学業にはお金がかかるし、妻からはいい車に乗り換えたいのにお金がないじゃないのと散々文句をいわれていまして……」。
そんなことを延々と語るのです。しかし、そんなことをいわれても、どうにもアドバイスのしようがない。彼の給料は、けっして悪くはありません。
「給料の範囲でやるしかないだろう。それができないなら給料のもっといいところを探して転職するしかないよ」といっても、「それはできません」の一点張りです。
奥さんも含めて身の丈に合った生活をすればいい話なのに、それができないというのは、自分たちの「分」というものがわかっていないからでしょう。
果たしてこの相談内容を読んで、皆さんはどう感じられるでしょうか。何でこんなことで悩んでいるんだろう、そう思われる方も少なくないはずです。
しかし、このようなことを問題にして悩むという例は、実はけっこうあるように思います。
私があえてここに書いたのも、彼には悪いけれど、そもそも問題にする必要のないことを問題化してくよくよ悩み、時間を浪費する、そんな典型例だなと感じたからです。
悩むに値しないようなことを問題にする。深刻になる必要がないのに、深刻になる。傍から見ればどこかおかしいと感じますが、当人にはそれがまったく見えていない。
そうならないためには、客観的に自分がどういう状態にあるかを冷静に見て、その上でどうすればいいかを考えるしかありません。それができれば、問題化する手前で、とどまれるはずです。
このようにとるに足りないことで悩んでしまう人がいる一方で、誰がどう見てもやっかいな問題であることを自分一人で抱え込み、深刻に悩んでいるケースがあります。
なぜそこまで深刻になってしまうのかといえば、単にその人に問題を解決する力が備わっていないからです。
ところが、当の本人は解決が難しいとわかりながらも、自分の責任で何とかしなくてはと思っていたり、あるいは自分に解決する力がないのにそのことが認識できず、どこかに正解があるのではないかと悪戦苦闘していることが少なくありません。
問題にぶつかったとき、人はどうすれば解決するか、どこに進めば抜け道が見つかるか、まずは論理的に考えようとします。
論理を組み立てていって解決への道筋が見つかればいいのですが、どうも見つかりそうにない。そんなときは組み立てたものを崩して、もう一度組み立て直す。
そんな作業を何度やってもどうにもならないとき、その問題は、その人の器をはるかに超えているということです。このときに大事なのは、自分には問題を解決する力がないことをはっきり自覚することです。
自覚ができれば、次にすべきことは問題の事柄についてよく知っている人、経験して助言を与えてくれそうな人のところに行って意見を聞くことです。
これはこう動けばいいとか、実はこんな事実があるからそこを拾っていけばいいとか、的確なアドバイスやヒントを授けてくれるかもしれません。
もちろんそれでも解決には結びつかないこともあるでしょうが、長い目で見れば何らかの役に立つはずです。
行き詰まったら力のある人に相談に行けというのは、当たり前すぎるアドバイスと思われるかもしれません。
しかし現実には、それができない人が多いのです。そのことを、ぜひ頭に入れておいてほしいと思います。
頭を整理し、アイデアを生み出すコツ
私はいいことも悪いことも何でも忘れっぽい性質なのですが、これは大事だなと思うことだけは、けっこうちゃんと覚えています。
それは重要だと感じることを、私がいろいろな形でアウトプットしているからなのかもしれません。
人と会って話す、講演会で喋る、ノートにつける、本や雑誌の原稿を書く。
頭の中から忘れてはいけないと思うものを取り出し、反芻することで、脳みそに刻まれているのだと考えています。
このように人間の脳は情報をインプットばかりしていてはダメで、アウトプットも同時に行うことによって記憶を定着させるのです。
アウトプットには、記憶の定着率を高める効果があるだけではありません。
アウトプットの仕方を工夫すれば、頭の中にある情報や知識、あるいは考えといったものを整理してくれる効果もあります。
伊藤忠時代、幹部役員の多くは何かある度に、相談役の瀬島龍三さんのところにアドバイスを仰ぎに行っていました。
その際、検討資料として持っていったりする事業計画書に対し、瀬島さんはよく「 3枚でまとめろ」といわれていました。
忙しいから長々と何十枚にも書かれたものなど読んでいる暇がないというわけです。
かといって無理やり 3枚にまとめた内容を持っていくと、今度は「何がいいたいのかわからん。要点を3つにして 1枚にまとめてみろ」といわれる始末です。
瀬島さんが事業計画書を 3枚や 1枚にまとめろというのは、自分の時間を節約するためにだけいっていたのではありません。
計画書をつくる人がポイントを要約することで、何が大事で何が必要でないかがわかる。つまり頭が整理されるのです。
計画を実行に移して仕事を進めるときに、ちらかった頭では無駄も多く、ことによっては失敗も招きかねません。計画書を長々と 10枚も 20枚も書くのは、自己満足にすぎない。
事業計画を立てるスタートの段階で頭がちゃんと整理されていないと、その計画はうまくいかない。瀬島さんはそう考えていたのだと思います。
また、仕事で新しいことを構想するときは、考えられることをすべてアウトプットしてみるといいでしょう。
何のために行うのか? 最終の目標は何か? 目標へ進むには何がポイントで何が要らないか? 同業他社と比べてどうか? 相手からはどう見えるか? 何がリスクか? そうしたことについて箇条書きでいいので、書き出してみる。アウトプットすることで初めて、自分が考え足りない点が見えてくることも多いのです。
本を読むなど、いくら質のよいインプットをたくさん持っていても、アウトプットをしなければ、知識や思考は整理されないことが多いものです。
一方で、アウトプットによりきれいに整理されていくと、これとあれを組み合わせると面白いものが生まれそうだ、などのアイデアも生まれやすくなるはずです。
人は頭の整理は、頭の中だけで簡単にできると思いがちですが、実際はそうではない。頭の整理にはアウトプットが必要だということを知って実行するだけで、成果に差が出るはずです。ぜひやってみてください。
ものごとの本質はこうしてつかむ
私は、読書は人間をつくる上で欠かせないものであると確信しています。
そんな思いから、もう 40年以上、私は寝床につく前に毎日欠かさず 30分以上、読書をしています。しています。
最近は少しペースが落ちましたが、一頃は週3冊、年間 150冊程度、経済、社会、歴史とさまざまなジャンルの本を片っ端から読んでいました。
読書は世界をより広く知る手がかりを与えてくれます。考える力を鍛え、想像力を伸ばし、人格を陶冶してくれます。
読書によって得た知識は、生きる力になります。ただ知識だけでは十分ではありません。知識という燃料を燃やして人生に生かすには、加えて経験も必要です。
経験したことを、持っている知識に照らしあわせて吟味、検証すると、知識は修正され、それを元にまた新たな行動が生まれます。つまり、知識と経験は相互にフィードバックし合って、その人の血や肉になっていく。要は知恵という結晶になるわけです。
私は身体を使って経験したことと、頭の中にある知識が混じり合って生まれる知恵こそ、人生を力強く切り拓いていくエンジンだと考えています。
仕事において大事なのは、いかなる立場にあろうと、現場をよく知ることです。
経営者が頭の中だけで知識と情報をつなぎ合わせ、組み立てたりするだけでは、それこそ机上の空論になってしまい、まともな経営はできません。
私は会社で駆け出しの頃から、徹底して現場主義を実践してきました。現場主義の重要性を私に最初に説いてくれたのは、当時幹部役員だった瀬島龍三さんです。瀬島さんは太平洋戦争時の大本営陸軍の作戦参謀でした。
11年間のシベリア抑留を経て、 47歳のときに伊藤忠商事に入社し、伊藤忠を総合商社に発展させた功労者です。
入社して間もなくニューヨークに赴くおり、瀬島さんはこうアドバイスしてくれました。
「もし問題が起こったら、何を差し置いてもすぐに現場に飛べ。お金がかかろうと気にするな。それで会社から文句をいわれるなら、私にいってきなさい」 これは「現場にこそ答えはある。迷ったらまず現場に身を置け」という瀬島さんの教訓です。
瀬島さんは戦場という絶対的状況の中で、それをつかんだのでしょう。
商社マンは現場の 1次情報をいち早くつかむことが大事だという教えは、その後、私の仕事人生における重要な指針になりました。
アメリカに行ってすぐ、私は瀬島さんのこの言葉を痛感します。
食料部門で大豆の取引を担当していた私は、現地メディアの情報を鵜吞みにして穀物相場で読みを外し、 500万ドル、当時の日本円に換算して約 15億円もの含み損失を出しました。
今年は大旱魃になるというニューヨーク・タイムズをはじめとする多くの記事をそのまま信じたのが間違いの元でした。
私は、「旱魃が続いて、大豆相場は高騰するに違いない」と大豆の買いに勝負をかけたのですが、予想に反する主産地への慈雨で豊作になったのです。
損失額の大きさに自信を失った私は、会社を辞めることを本気で考えましたが、信頼していた上司に説得され、含み損を解消すべく行動を起こしました。
このときに思い出したのが、「現場にこそ答えがある」という言葉です。メディアを経由したり、人づてに入ってくる情報は、加工され手垢のついた 2次、 3次情報です。
生の 1次情報をつかむことこそ相場を勝ち抜く最善手であると確信した私は、自ら車を運転して広大な畑を何日もかけて見て回り、生産者に会って話を聞くことをしました。
いち早く精細な気象情報を入手するために民間の天気予報会社とも契約したり、データを持った大学や研究機関の専門家に会いに行って話を聞いて回ることもしました。
そうして得た材料を元にした相場の読みが今度は的中し、含み損を解消できたのです。まさに天の恵みという他ありません。
それ以来、私は毎年、収穫期になると中西部のブレッドバスケットと呼ばれる大農業地帯を車で 1週間以上かけて見て回るようになりました。
この経験で現場がいかに大事か身に染みて感じた私は、現場の重要性について部下によく話をしました。後年、中国大使になったおりにも、現場主義の感覚は忘れることはありませんでした。
中国という国の実像は、共産党の上層部や企業のトップたちと大使館や党本部の建物の一室で会って話を聞くだけではわかりません。
中国の人々の実際の暮らしぶりはどのようなものか、経済の発展ぶりはいかなるものか、生の姿に触れたくて、国境近くの僻地も含めて中国全土を歩きました。
中国杭州市にあるアリババグループの本社に、日本の財界人と一緒に見学に訪れたこともあります。新興の I T企業として、その急成長ぶりが注目を集めていたさなかです。
アリババの実質的な経営者、ナンバー2が社内を案内してくれたのですが、ある部屋だけは、経済人と思われなかった私のみが通訳とともに入室を許可されました。
部屋に足を踏み入れて目に飛び込んできたのは、壁一面に大きく電光表示された巨大な世界地図でした。
ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、モスクワ、パリ、東京などの各国際都市に並んだ数種類の数字が慌ただしく変わっていきます。
各地域で販売している自動車などの製品の販売数が、時系列で次々に表示されていました。
世界中に情報網を張りめぐらせ、市場の情勢を時間差なく的確に把握する。
この光景を見て、彼らが仕掛けるビジネスのスケール感、スピード感の凄みを心底感じずにはいられませんでした。そう遠くないうちに、世界的な企業になるかもしれない。
その直感は当たっていましたが、それは核心ともなる現場に触れることができたからに他なりません。
現場主義は、ただ現場で経験して得た情報がすべてではありません。当然ですが、それをフォローする知識がなければ生きてきません。現場における経験と知識は、いわば2つの眼のようなものです。
3 D画像は右眼と左眼の視差を利用して、平面のはずの映像が立体的に見えます。
2つの視線が交差することで、深みや奥行きが出てくるのです。
人間をはじめ多くの生き物が2つの眼を持つのは、 3 D画像の原理と同様、左右の眼の視差によって空間を正しく認識するためです。
経験と知識は2つの眼のように相互に補完し、交わることで焦点が合い、正しく全体像をとらえるのです。
知識がろくにないまま現場を経験しても、そこで得る情報は偏った使われ方になってしまう可能性があります。読書などで得る知識と現場で得た情報や経験が相まって、初めて生きた知恵になる。
生命そのもののような知恵にこそ、仕事やものごとの本質をつかみ、人間の幅を豊かに広げてくれるものが宿っているに違いありません。
最善を尽くすために「力を抜く」
ゴルフや野球を含めスポーツは、いかにうまく力を抜いてできるかが大切だとよくいわれます。
では、仕事においていい力の抜き方をしようと思えば、どうすればいいのか? そんなことをある取材で聞かれたことがあります。
インタビューした人は、「うまく力を抜けば、仕事も軽々とこなせる」といったイメージが頭にあったのかもしれません。実際に、仕事とスポーツは、根底は同じかもしれません。
ただ、身体の動きにおいて力をうまく抜くことはスポーツでは大きなポイントにつながりますが、仕事にはちょっと違う面があるようです。
なぜなら仕事は力がある人でないと、本当に力を抜くことはできないからです。そもそも経験も浅く、力がまだないような人が力を抜けば、仕事が成り立たなくなってしまう。
ですから、仕事は最初のうちは、力が入りまくるくらい頑張ったほうがいいのです。
そうこうしているうちに、力がだんだんついてくる。そして何でも一通り楽にこなせるようになって初めて、「ここはちょっと力を抜いてみよう」という加減ができるわけです。
力を抜くということは、仕事に習熟した人ができることであって、力がまだついていない人がやれば、ただの脱力、すなわち手抜きになりかねません。
力がなければ頑張るあまり、肩に力が入りすぎることもあるでしょう。力が入りすぎて空回りしたり、失敗することもあるかもしれません。でも、それでいいのです。
最初のうちは力が入りすぎるくらい努力すれば、それが確実にその人の力となって蓄えられていくからです。
やがて力がついてくれば、最初の頃は 100の力で必死にしないとできなかったことを、半分の力でできたりするわけです。
そして自分の調子を見て今日は 20抜いて 80の力でいこうとか、この仕事はすみからすみまで知っているから 40抜いて 60でいこうという加減ができるようになるのです。
こういうと、お前はよく最善を尽くせといっているじゃないかと思われるかもしれません。
しかし、「最善を尽くす」ということと「常に全力を出す」ことは、また違う話です。
野球のピッチャーがもし長いイニング、一球一球を渾身の力を込めて投げ続ければ、やがて疲れから球に力がなくなり、自滅してしまうでしょう。
常に全力投球で仕事をするというのも、それに似たところがあります。
いいピッチャーが緩急をつけた巧みな投球術を心得ているように、状況に応じて力を加減することは、いい仕事を続ける上で欠かせません。
よい加減をしながら最善を尽くすマインドは忘れない。このことが大事なのです。
私が課長だったとき、仕事をいつしているのかわからないという勤務態度の本部長がいました。まるでマンガの一場面みたいですが、毎日のように机の上に足を放り出し、腕を組んで寝ているのです。
寝ていないなと思ったら、仕事と関係のない雑誌なんかを読んだりしている。
そして退社の時刻になると、エネルギーを充電し終わったかのように、勢いよく夜の街に繰り出していく。
毎晩遅くまで飲んでいるのでしょう。翌日出社すると、また朝からくたびれた顔で目をつむっている。
ところが、こんなぐうたらで寝てばかりいる先輩が、会社からは高く評価されているのです。
なぜ、こんな人が会社に貢献できるのか? 不思議に感じましたが、実際のところ、彼はとても優れた相場観を持ったトレーダーで、会社に大きな利益をもたらしていました。
俺は一年のうち 3日働けばいいとよくうそぶいていましたが、腕のいいトレーダーは一年に数度しかない大きなチャンスを狙いますから、それはあながち誇張された口吻とはいえなかったかもしれません。
本部長の彼は相場だけではなく、他の面でも独特の仕事力を持っていました。それこそ仕事における力の抜き方が絶妙にうまかったのだと思います。
ある政治家はマイクを向けられると「全力を傾注して……」といったフレーズを何かにつけ使っていましたが、どんなベテランでも毎日毎日、全力で走ることなどできません。
仕事ができれば、常に全力でやろうなどと意気込む必要はありません。
そもそも本当に力があれば、「全力を出す」なんてことは恥ずかしくてなかなかいえない。
仕事に習熟していれば、たとえ 50の力に加減しているつもりでも 80、 90のことができたりします。力を加減することで、丁度いい具合に力を出せたりする。力があって力を抜ける人にとって、力を加減することは単純な足し算、引き算に収まらないのです。
長所を伸ばすか、短所を直すか
ある著名なラグビー選手が、「同じ努力でも、短所を改善すれば、長所を伸ばすより何倍も伸びしろが大きくなる」といっていました。
長所は放っておいても得意なことだから、練習も苦もなくできて、どんどん伸びる。でも短所は、そうはいかない。けれども意識して改善する努力をすれば、プレイヤーとしての総合力がぐんと上がるというのです。
短所はプレイする上で弱点となり、相手に攻撃されるスキを与えることにもなる。短所を改善するか否かは、プレイヤーにとって選手生命を左右しかねない重要なポイントとなるわけです。
たしかに重要な視点です。ただ、この考え方は一般の仕事には当てはまらないところがある。
なぜなら、短所と思えるものも場合によっては長所に変じたり、逆に長所と感じることが短所になることが、仕事ではままあるからです。
たとえば性格上の短所が、仕事では往々にして長所になるケースはたくさんあります。せっかちな性格は仕事を速く進める力になり、臆病さは慎重さにつながり、丁寧でいい仕事を導くかもしれない。
一つのことにとらわれがちな人はいったん仕事に取り組みだすと、凄い集中力を発揮するかもしれない。内気で喋り下手な人はその分、誠実さが相手に伝わって信頼を得るかもしれない。
実際にある大手の住宅メーカーで長年全国トップの成績を収めた営業職の人は、喋り下手であることが最大の武器になったと聞いたことがあります。
反対に、長所が短所になる例もたくさんあります。
決断が速い人は可能性がまだあるのに早々に見切って、折角のチャンスを失するかもしれない。抜きんでて仕事ができると自他ともに認める上司は、部下を信頼せず、人が育たないかもしれない。
細かいことにすぐ気づくのはいいが、いちいちそれを口にする上司の下では、部下は伸びない──。このように仕事においては長所と短所はオセロゲームのように、条件や状況の違いで、いとも簡単にひっくり返ります。
長所や短所をきちんと把握し、その人がもっとも生き生きと働ける場所を見つけるのが適材適所であり、伸びる組織は、適材適所のマネージメントが上手です。
人材マネージメントの難しさは、一人の人間の中で能力や性格の長所、短所が入れ子構造のようになっており、環境や状況の違いによって、それが変じていくところにあります。
同時にそうした面が間違いなく仕事の面白さにもつながっているといえるでしょう。したがって上に立つ人間は、部下の長所と短所がプラスの方向へ働くよう舵取りをする必要があるのです。
人間の器は雑務に表れる
昨今の社会は経済至上主義の風潮が行きすぎたのか、功利や合理性といったことを優先する価値観が重要視される傾向にあります。
そうした価値観を強く求め続けていると、生きることにおいて「役に立たない」ことや「無駄」なことが、排除すべき対象になってしまうことがあります。
しかしながら役に立たなかったり、無駄と思えることは、後から振り返ると、人生に生かされていることに気づくものです。
たほうがいいのです。そうこうしているうちに、力がだんだんついてくる。
そして何でも一通り楽にこなせるようになって初めて、「ここはちょっと力を抜いてみよう」という加減ができるわけです。
力を抜くということは、仕事に習熟した人ができることであって、力がまだついていない人がやれば、ただの脱力、すなわち手抜きになりかねません。
力がなければ頑張るあまり、肩に力が入りすぎることもあるでしょう。
力が入りすぎて空回りしたり、失敗することもあるかもしれません。
でも、それでいいのです。
最初のうちは力が入りすぎるくらい努力すれば、それが確実にその人の力となって蓄えられていくからです。
やがて力がついてくれば、最初の頃は 100の力で必死にしないとできなかったことを、半分の力でできたりするわけです。
そして自分の調子を見て今日は 20抜いて 80の力でいこうとか、この仕事はすみからすみまで知っているから 40抜いて 60でいこうという加減ができるようになるのです。
こういうと、お前はよく最善を尽くせといっているじゃないかと思われるかもしれません。
しかし、「最善を尽くす」ということと「常に全力を出す」ことは、また違う話です。
野球のピッチャーがもし長いイニング、一球一球を渾身の力を込めて投げ続ければ、やがて疲れから球に力がなくなり、自滅してしまうでしょう。
常に全力投球で仕事をするというのも、それに似たところがあります。
いいピッチャーが緩急をつけた巧みな投球術を心得ているように、状況に応じて力を加減することは、いい仕事を続ける上で欠かせません。
よい加減をしながら最善を尽くすマインドは忘れない。
挙句の果てに入社 3カ月目にして「こんな会社辞めてやる」と内心思っていました。
辞めて大学院に入り、司法試験の勉強をしようと考えたのです。
しかし、この作業を繰り返しているうちに、計算が速くなり、仕事の中身もわかるようになりました。
自分がバカにしていた仕事にも、ちゃんと意味はあったのです。
俺にはもっと自分に見合った仕事があるに違いないと思い込んでいたわけで、今思うと、どれほど自分が傲慢だったかがよくわかります。
当時は「朝早く来て、みんなの机を拭いておきなさい」と上司からいわれて、「こんなくだらないことを……」と感じてしまう私には、アリになってがむしゃらに働くことの大切さが、まだよくわかっていませんでした。
アリとトンボにたとえるなら、どんな仕事でも最初はアリの精神で地べたを這うようにコツコツと努力をする時期が必要です。
これが仕事の土台となります。
アリの努力をする時間を経なくては、トンボのように複眼で空から俯瞰して、先を見通しながら仕事をすることはできません。
幸いなことに、私はたくさんの雑務を命じられてこなしていくうちに、アリとして働くことの価値に気づくことができました。
どのような仕事にもそれぞれの奥行きと深さがあって、役に立たないものなど一つもないことを悟ったのです。
誰にでもできそうな仕事でも、仕事に対する真剣さや努力の注ぎ方で、結果はかなり変わります。
たとえば、机をきれいに拭くのでも、たった一枚のコピーをとるのでも、そこには仕事の出来、不出来といった質の差がはっきり表れるものです。
おざなりな気持ちで机を拭けば、端には汚れが残りますが、丁寧に磨くように拭けば、机の輝きそのものも違ってきます。
コピーとりにしても面倒だという気持ちでいやいややれば、曲がったり、はみ出したりするかもしれません。
単純な作業でも真面目に丁寧にコツコツ繰り返しやっていれば、そのうち名人のような完璧な仕事ができるようになるはずです。
細部を見れば、その人がどういう仕事をしているのか、仕事に対してどういう姿勢でいるかが、一瞬にしてわかります。
このとき、面倒に思いながら雑な仕事をしていれば、その人は仕事の本質に触れることなく、終わってしまうかもしれません。
どんな仕事であっても、それを生かし、自分と仕事の器を広げるのは本人の心がけ次第なのです。
評価されることを目標にすると、やがて行き詰まる
仕事がたいへんでストレスだ、仕事がつまらなくて不満がたまっている……このように「仕事 =ストレス」ととらえる人は今の時代、少なくないようです。
仕事がストレスの原因であれば、仕事に関わっている時間が長いほど疲れも当然たまります。では、疲れを残さない仕事などあるのでしょうか? あります。
夢中になって楽しんでやる仕事は疲れません。
もちろん楽しい仕事でも長時間続けてやれば、身体に疲れは残るでしょうが、精神的には疲れを感じないはずです。
好きな本に夢中になると、疲れを感じず何時間でも続けて読むことができます。面白いと感じる仕事は、これと同じです。
私が入社して最初に配属されたのは、油脂部という大豆などの食料を扱う部署でした。私はそこで食料関係の分野のプロフェッショナルになろうと懸命に勉強をしました。
アメリカに駐在していたときは研究機関を訪ね専門家の意見を聞いたり、アメリカの農業に関する書籍や資料を片っ端から集めて読みました。
中でも圧巻だったのが、アメリカの農業の歴史を記した一冊数百頁に及ぶ全 4巻の原書でした。
帰国後も農業関連の専門書や海外の業界紙や専門誌、アメリカ農務省の資料を取り寄せたりするなど、勉強には時間とお金を惜しみませんでした。
専門的な知識を身につけて、食料関係の分野では誰にも負けたくない。
そんな一心で努力を続けているうちに、業界の動向を分析した記事を雑誌や新聞に寄稿するようにもなりました。
そうこうしているうちに「伊藤忠に面白いやつがいる」という評判が立ち、食料に関わる講演に引っ張り出されたり、ラジオ番組に出て世界の食料事情を語ったりするようになっていきました。
こうした過程は自分にとっては何の苦痛もなく、反対に給料をもらいながら、こんなやりがいのあることをやらせてもらっていいのだろうかと思うほどでした。
そして仕事に夢中になれたのは、単に面白く、また自分が成長していくことに楽しさを感じていたからに他なりません。食料関係の分野では、誰もが認めるプロフェッショナルになる。
そんな気概を持って頑張ったわけですが、もっとも、業界で評価される人物になりたいという気持ちだけで、仕事に邁進したわけではありません。
もし私がそのことを目標にして働いていれば、仕事はどこか辛いものになっていたかもしれません。
仕事で結果ばかりを求めると、楽しいものではなくなる可能性があります。
仕事が楽しいと感じている人は、過程を楽しんで打ち込めれば結果は必ずついてくるという感覚があるのだと思います。
仕事には生活や人生そのものがかかっているわけですから、本質的には厳しいものです。
でも、厳しい仕事を厳しい心持ちでやっているだけでは、やはりつまらない。つまらないだけでなく、それこそストレスがたまって長続きしないでしょう。
厳しいものをいかに楽しくするか? 面白くやるか? それには夢中になれる勘所を見出したり、工夫をすることが大事であり、やりがいのある仕事というのは、そうしたところから生まれるのだと思います。
「成功は復讐する」から恐ろしい
スポーツ競技などの勝負事では、あるパターンでもって勝利することを「勝利の方程式」と呼んだりします。
スポーツに「勝利の方程式」があるなら、仕事においては「成功の方程式」ともいうべきものがあるはずだと考える人もいるでしょう。
しかし、そんなものはどこにもありません。
そもそもスポーツにおける「勝利の方程式」にしても、厳密にいえば勝ち方の流れやポイントが似たような感じで繰り返されるケースを、そう呼んでいるだけのことです。
たとえば、あるプレイヤーをチャンスの局面で起用すると、しばしば功を奏する。
ある作戦を試合の中盤で使うと、得点できて勝利につながることが多い。
それを「勝利の方程式」と呼んでいるにすぎません。
もちろん、似た勝ちパターンには対戦相手も対抗策を講じてくるでしょうから、賞味期限はあります。
いつまでも「勝利の方程式」的なものが続くことはありえない。
「耐える時間」に「攻め方」を練る
人生や仕事には、耐えなくてはいけないときが必ずあります。
私にとっては副社長、そして社長時代の、会社がバブルの後遺症で膨大な不良資産を背負い、それをどう処理するかという時期でした。ただ、このような危機においては、ただ耐えているのでは前に進めません。
私は副社長時代に、西友からのファミリーマート株取得という巨額の投資事業を手がけました。
この頃、会社は不良資産処理を進めたことにより、 1998年3月期には 1428億円の特別損失を計上、実に 20年ぶりの大幅赤字に転落するという非常事態下にありました。
片方の手で不良資産処理やリストラを進めるという縮小戦略を、もう片方の手では巨額投資による事業買収という拡大戦略を目指す。
これに対して社内では、「あまりにも矛盾している。一体何を考えているのか?」と厳しい批判に遭いました。
当時、特別顧問だった瀬島龍三さんからも「守りと攻めを一緒にしている君のやり方は、戦術の原則から外れている」といわれました。
しかし、私は商社特有の収益構造を根本から変えなければ未来はないと考えていましたから、ここで一歩も引き下がるわけにはいきません。
商社の中心となる仕事は、市場の変動に左右される農産物や鉄、石炭といった資源を海外から買いつけて販売することです。
しかし、原料や中間財を右から左に動かして利益を得ることを柱にしていては、成長の限界は見えています。
これからの商社は川上から川下まですべてを網羅し、こと川下の消費者とダイレクトにつながる事業に商機を見出すことに、飛躍の鍵があると見込んでいました。
当時、勢いのあったコンビニエンスストアの買収は、まさに新しい方向に舵を切るのに必須の事業だったのです。
不良資産の処理という守りと、新規事業への巨額投資という攻め、この2つはブレーキとアクセルを同時に踏んでいるかのようにも見えますが、ともに会社が前に進むための両輪の役割を果たしているのです。
結果的にファミリーマートの株取得は、巨額の不良資産を一括処理し、膿を出し切った後の伊藤忠を浮揚させる強いエンジンになってくれました。
耐えなければいけないという発想は、ともすれば守りの姿勢に傾きがちです。しかし、会社経営は守りだけでは体力が確実に落ち、組織の活力が失われます。
その間に優秀な人材もどんどん離れていく。あくまでも守りと同時に攻めが必要なのです。
耐え忍んで危機がすぎ去ってから攻勢に転じようと思っても、耐える時間が長ければ、それだけ体力が消耗し、まともに戦う態勢がとれない可能性があります。
守りをしっかりしないといけない時期にあっても、ビジネスチャンスがあれば、準備を進め、それが整えば敢然と打って出る。
「同じチャンスは二度はない」のです。
どれほど守りに徹し、耐え忍ばなくてはいけないときであっても、チャンスをとらえるアンテナはピンと張る。ピンチをチャンスに変えるようなアイデアや戦略を必死になって考える。
それが会社経営の本来のあり方です。
「耐える時間」は、耐えているだけで終わってはいけないのです。耐えながらも前に進む糸口を必死で探す。守りをしっかりしながらも、攻めていく。
耐える時間を終わらせ、前進していくには、2つのことをひるまずにやり続けることが不可欠なのです。
いかに自分を律するか
考えられる策はすべて講じ、しかるべき行動はすべて遂行し、それでも埒が明かない。前に進むための攻めの出口もなかなか見つからない。
危機の際は守りと同時に攻めが必要とはいうものの、守ることに力点を置かざるをえないときもたしかにあります。
こんなとき、出口が見えない中で歯を食いしばって、ともかく耐えるしかないと思うと、重圧に気持ちが折れかねません。
そんなときは「始まりがあれば、終わりが必ずある」と思うことです。終わりのない始まりはないのです。
先に出口があることを想定せず、いつまでもトンネルの中にいると思うから、気持ちが参ってしまうのです。出口のないトンネルなどありません。この苦難も、いつか必ず終わりがある。そう信じて希望と気力をなくさなければ、必ずしのげます。
勝負事で耐えなくてはいけないときは、洗面器の水につけていた顔を我慢できず上げるように、最初に音を上げたほうが負けるのです。
しかし、耐えるということはどのような形であれ、最終的には相手というより、自分自身との闘いです。
こと会社のトップは、己に克つ強さを持っていないといけない。
自分に勝てる人と勝てない人の分かれ目はどこか? それは、ふだんから自分を律しているかどうかの差ではないでしょうか。
人間には動物の血が色濃く流れています。理性でそれを律しなければ、人は欲望の赴くし、また成功する条件や環境、発想や行動といったものの組み合わせがあまりにも複雑で、しかも絶えず変化しているからです。
さまざまな欲に対して「 ~しない」「ほどほどにする」という姿勢を持つことが、自分を律することにつながります。
己の中にある荒ぶる動物の血を手なずけられる人ほど、自分に勝つ力を備えています。
ふだんから自分をいかに律するか。上手な律し方を身につけていれば、それは仕事や人生の危機において必ずや役に立つはずです。
目標は低めに設定する
元メジャーリーガーのイチロー選手が、インタビューで「目標は低く持ったほうがいい」といっていました。
イチロー選手のような傑出したプレイヤーともなれば、当然、志は高いはずです。
ならば、抱く目標もきっと高いだろうと思われるかもしれません。
なぜ目標は高く持つより、低く持ったほうがいいのか? イチロー選手に限らず、トッププレイヤーになるような人は皆、高すぎない目標をコツコツと達成して、トップの位置までのぼりつめるからだと思います。
自分の力がよくわかっていない人ほど、現実的な目標が描けず、身の丈に合わない高い目標を持つ傾向があります。
たとえば、高校球児にいきなりイチロー選手のようなバッティングをしなさいと指導しても、そんなことはできません。
仮にイチロー選手のような高度なバッティングを目指して練習に励めば、何段階ものステップを飛ばすことになり、その練習はおそらく地に足がつかないものになってしまうでしょう。
目標を低めに設定したほうがいいのは、努力を要するものすべてにいえることです。
英語を習いたての人が、ネイティブスピーカーのような流暢な英語をたった半年で話せるようになりたいという目標を立てるとしたら──。
目標設定が間違っていれば、現実的な努力の方法がつかめず、当然ながら挫折するでしょう。
たとえば初級者の実力なのに、高いレベルの英語力を身につけたいからといって、 NHKラジオ講座などの上級者向けのテキストや CDを使って勉強をする人がいます。
でも土台がしっかりしていないのに、難しい言い回しの英文を覚えても、まったく身につきません。
英語の勉強を始めるなら、まずはこれくらいはできるだろうという小さな目標を立てる。
家を建てていくように、土台から一つひとつの材料を組み立てるがごとく、英語を覚えていく。
たとえば使っているテキストの英文を最初から 10頁まで暗記する。
それができたら次に、また 10頁分覚える。
そうやって一冊分覚えていくわけです。
いきなり、ペラペラになるという目標を立てても、いつまでたっても上達が感じられず、早晩投げ出してしまうのは目に見えています。
あくまで力がつくための方法を考え、目標を小さく区切ってコツコツやっていく。
低い目標がクリアできれば、次の目標をまた低めに設定する。
語学の習得には、この繰り返ししかありません。
目標を立てるにあたって最初にすべきことは、自分のレベルがどのあたりなのかを正しく把握することです。
実力以上に高く見積もっても仕方ありません。
自分がどの辺にいるかをつかんだら、それに応じた高すぎない目標を立てる。
それが確実に上達するための第一歩になります。
私の知り合いの女性でかなり英語のできる人がいます。
彼女は高校時代、英語の試験の点数はよくなかったものの、英語の発音だけはすごくよかった。
好きな洋楽の歌詞をたくさん覚えて、よく歌っていたので発音がうまくなったのですが、それをあるときネイティブの外国人から褒められた。
褒められると嬉しいですから、そんなところから英語が好きになり、どんどん上達していったそうです。
このように努力の成果を褒める人が周りにいると、モチベーションはぐんと上がります。
低い目標でも、それをきちんと評価してくれる上司や指導者がいると、確実に上達は速くなる。
上達するには、効率的な方法が必ずあります。
何か大きな目標を掲げて前へ進もうとするときは、まずその目標を小さく分け、一つひとつを着実に達成していくことです。
目標設定がおかしいときは、モチベーションが上がらなかったり、スランプを招いたりしかねません。
目標倒れになりがちな人は、こうしたことを視野に入れ、上達にもっとも効果がありそうな目標設定を冷静に考えることが第一です。
ここぞというときに褒められるか
企業にとって人材は、何よりも尊い宝です。いい人材をとると同時に、いかに人を育てるかは、企業の根幹に関わることです。人は皆、個性も才能もそれぞれに違う。だから人を育てるにはこうすればよいという答えはありません。
それだけに人材育成は難しいものです。
一昔前には、上から押しつける形のスパルタ方式の教育が評価された時期もありましたが、昨今は本人の自主性を重んじ、褒めて育てるやり方がトレンドになっています。
私は本人の個性を無視して、ただ上から押しつけるようなやり方はダメだと思いますが、ときには叱るという厳しさは必要です。
一方で評価すべき点は、褒めて自信をつけさせることが大事です。
私自身、人から褒められたことが自分を成長させるきっかけになった経験を何度かしています。
今でもよく覚えているのは、中学校の遠足の際に書いた作文を国語の先生から褒められたことです。
私はそれまで小学校からずっと全優、無欠席を通してきましたが、とてもおとなしくて目立たない生徒でした。
そんな私が書いた作文を、先生はこう褒めてくれました。
「とてもよく書けています。丹羽君は将来、有名な作家になるかもしれませんよ。皆の前で読んでみてください」
先生のその言葉を聞いて私は無性に嬉しくなり、もっとたくさん本を読んで頑張ろうという気持ちになりました。
うまくおだてられると、人はその気になるものです。
私は自分の文章をもっと多くの人に読んでもらいたいと思い、新聞部に入って学内のちょっとした逸話や、社会の大きな出来事に対する自分の考えを書いたりしました。
そのうち自ら進んで生徒会長をやるなど、非常に活動的な生徒になっていったのです。よいところを評価し、褒めることは、人を育てる上でとても大事なことです。
私は会社で部下を褒めるときは、なるべく皆の前で褒めるようにしていました。人前で褒められると、嬉しさが倍増するからです。
反対に叱るときは、人前では絶対にしないように心がけました。
当人が自分は悪いと自覚していても、人前で叱られるとプライドが傷つき、マイナスに働くことが多いからです。どのような形にせよ、人は褒められるとモチベーションが上がってやる気が出ます。そうなれば、人からいわれなくても自発的にやろうという姿勢になります。
同じ内容を学ぶにしても、自発的な気持ちでするのと、上から強制的にさせられるのとでは、身につく度合いがまったく違ってきます。
脳科学的にも、押しつけられて学んだことより、自発的に学んだことのほうが記憶の定着率がいいそうです。
加えて自発的に学んだことは、そこからさらに興味が広がったりするので、創造力も生まれやすい。押しつけよりも自発的に学ぶことのほうが、伸びしろが断然大きくなるのです。
ここぞというときに褒められるか 企業にとって人材は、何よりも尊い宝です。いい人材をとると同時に、いかに人を育てるかは、企業の根幹に関わることです。
ところで褒めるということは、ある行為に対しての積極的な評価ですが、感謝の気持ちを伝えるのも、褒めることにつながると思います。
褒める言葉でなくても、「ありがとう」といった感謝の気持ちを伝えるのも、相手の仕事のモチベーションを上げるきっかけになりうるのです。
なぜ日本人は自己肯定感が低いのか
自発的にものを考え、自ら伸びていく人は、その過程において自信をつける経験を幾度もしています。
こういう人は、「結果を出す」 →「自分への信頼感が増す」 →「自己肯定感が強くなる」 →「やる気と自発性が生まれる」という好循環をうまくつくっています。
褒めることは、そうした成長をうながすきっかけになります。
ところで、褒めて育てるというやり方がトレンドになってきているにもかかわらず、日本の若者は自信がなく、自己肯定感が低い傾向にあることが教育の専門家からよく指摘されます。
それを裏づけるのが内閣府が 2018年度に行った若者の意識調査です。日本をはじめ、韓国、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンにおける 13 ~ 29歳までの男女が対象です。
その調査結果からは、日本の若者の自己肯定感は各国と比較しても著しく低いのが見て取れます(左ページの図参照)。
褒めることは自発性をうながす、いいきっかけになります。もちろん単純に何でも褒めればいいというものではありません。褒めるときはじっくり観察しながら、ここぞというポイントで評価することが大切です。
面と向かって褒めるのが苦手という人もいます。
プロ野球の監督やコーチには、マスコミや周りのスタッフに褒めたい選手のいい点を話して、それが回りまわって間接的に本人の耳に伝わることを計算して発言する人もいます。
面と向かって褒められるより、間接的に自分への評価が耳に入ってくるほうが、説得力があることはいうまでもありません。
ところで褒めるということは、ある行為に対しての積極的な評価ですが、感謝の気持ちを伝えるのも、褒めることにつながると思います。
最近は新入社員の 3人に 1人が、「会社の雰囲気に馴染めない」「労働時間が長い」「将来に希望を持てない」などの理由で、 3年以内に離職するといわれています。
かくいう私自身も、会社に入って 3カ月で辞めようと思ったことがあることはすでに述べました。与えられた仕事が雑務ばかりで面白くなかったという理由もありました。
ところが、顧客などから「ありがとう」という言葉をもらったり、上司から褒められるというレベルではなくても、仕事ぶりを認めてもらうちょっとした言葉をかけられたりするうちに、仕事の意義に気づき始め、辞めることを思いとどまったのです。
褒める言葉でなくても、「ありがとう」といった感謝の気持ちを伝えるのも、相手の仕事のモチベーションを上げるきっかけになりうるのです。
なぜ日本人は自己肯定感が低いのか 自発的にものを考え、自ら伸びていく人は、その過程において自信をつける経験を幾度もしています。
こういう人は、「結果を出す」 →「自分への信頼感が増す」 →「自己肯定感が強くなる」 →「やる気と自発性が生まれる」という好循環をうまくつくっています。
褒めることは、そうした成長をうながすきっかけになります。
なぜ、日本の若者は自己肯定感が低く、自信がないのか? これは家庭や学校における教育に、何らかの問題があるということでしょう。
大きな理由として考えられるのは、決まった答えを押しつけるばかりで、自由な発想を阻害する教育が行われていることではないでしょうか。
欧米では幼少期から課題を与えて自由に考えさせるという教育を積極的に行いますが、日本ではこうした教え方はあまりされません。
正解が決まっているものを一方的に覚えさせるやり方では、考える力や柔軟な発想は培えませんし、自ら進んで課題に取り組む自発性や自己肯定感も育ちにくいと思います。
褒めることはその人に自信を与え、自己肯定感を高めることにつながりますが、どういう内容や文脈でそうするかによっても意味合いは変わってきます。
単に褒めれば自信がつき、自己肯定感が高まるというものではないでしょう。
試験の点数がよかったから褒めるのか、競争に勝ったから褒めるのか、あるいは人とは違うオリジナリティのある発想やものの考え方をしているから褒めるのか、結果を出さなくてもベストを尽くしたことを褒めるのか……、果たしてどのようなことを重視して評価をするのか、それによって同じ褒めるのでも相手の成長や人格に与える影響はかなり変わってくるはずです。
答えが決まっているような事柄で正解ともいえる結果を出せば褒め、逆に結果が出なければ、その過程でどれほど頑張っても、何の評価もしない人がいます。
それとは対照的に、結果いかんにかかわらず、努力する姿勢そのものを褒める人がいます。
あるいは正解などないようなことに対して、オリジナリティある発想をしたことを褒める人がいます。やる気や自発性を引き出すのは、明らかに後者のほうです。
しっかりとした人間の器をつくるには、何よりも自己肯定感は不可欠です。
自信の大本となる自己肯定感が高いほど器は安定し、知恵と経験を積むほどに、それは大きく広がっていきます。
自己肯定感をいかに高くするか、自信をいかにつけるか、このことが仕事や人生そのものの質を大きく左右する鍵を握っているのは間違いありません。
自発的でなければ、大事なことは身につかない
企業で人が育つには、まず社員が自発的に学び、育つ環境をつくることが重要です。
社員のモチベーションを上げる仕組みや、上から逐一指示されなくても積極的に自ら考え行動していくような状況や条件をつくることが大切です。
私が部下を育てるにあたって重視したことは、本人の自発性をいかにいい形で引き出すかということでした。
部下がすることにいちいち口出しをして、本人の自由な裁量に委ねることをしない上司がいますが、それではいつまでたっても成長も進歩もありません。
私はリスクを伴った大きな仕事でも、ここは信頼して任せたほうがいいと判断したときは「責任は俺が全部とるから」といって、部下の手に全面的に委ねていました。
もちろん、部下の能力を見た上でのことです。まだ未熟な部分はあるけど、こいつの能力ならきっと結果を出してくれる。よし、百パーセント任せてみよう。
任せられたほうは、俺のことをちゃんと認めて信頼してくれているんだと思って頑張ります。結果的にうまくいかなくても、本人には間違いなく大きな成長の節を残すはずです。
私は部下や上司を見るとき、学歴第一での評価・判断を一切しませんでした。優秀な学校を出ていることと仕事の優秀さは、必ずしも一致しないからです。
当然のことながら社長になった際には、学歴や出身大学にかかわりなく、実績や実力を重視して人材を登用するよう努めました。
高卒や専門学校卒の新卒採用を積極的に進めたり、本社での採用は叶わないが、見込みがありそうな人はグループの人材派遣・教育機関でいったん採用し、そこでの仕事ぶりが優秀であれば、改めて本社で働けるよう人事部に指示しました。
また社員教育の一環として、男女問わず新入社員を全員、入社して 4年以内に最長 2年間、海外研修に出すようにしました。
ホームステイしながら大学で語学を学んだり、現地企業でインターンシップをしたりするのです。
海外に派遣させるのは英語を身につけてほしいという理由も無論ありますが、それよりも異文化を体験することで見識を広め、より広い視野でものごとを考える人間になってほしいという思いがありました。
私は部長時代、海外研修の一つとして、部下に仕事一切なしのフリーの状態で、アメリカに半年ほど行かせたこともあります。
渡航費や必要最低限の滞在費は会社持ちでしたが、それくらいの権限を部長は持っていました。
本当に完全な自由でしたが、どんなことをしているか週1回は必ず状況報告をするという条件つきで送り出したのです。
またその頃、会社で初めて女性を海外に出張させることもしました。
女性を一人で海外に行かせるのは危険だという人事部の反対を押し切って、オーストラリアに 1週間ほど出張させたのです。
海外に一人で行けば、日本と違って勝手のわからないことだらけですから、逐一頭を使い、こまめに手と足を動かさなくてはなりません。
何でも自発的に考え、行動しなくては生きていけない環境に身を置くことで学べるものは少なくありません。
下手な社内研修をするより、海外に短い期間でも行かせたほうが余程、本人のためになると思います。
私自身、若い時分にアメリカに約 10年駐在したことが、仕事をする上で大きな財産になっていると強く感じます。
徹底して自分の頭で考え行動するという気概、会社の一翼を担う仕事を果たしたという思いから来る自負、少々のトラブルではへこたれまいという肚と忍耐心……こうしたものは、海外で仕事をすることで強く育まれました。
私にとってこの10年があるのとないのとでは、その後の仕事の考え方や取り組み方において、瞬発力やスケール感が違っていただろうと改めて思います。
美しさと結果は比例する
職人でもスポーツ選手でも、その技に習熟している人ほど、身体の動きがしなやかで美しいものです。
たとえば、料理人や大工で一流といわれる玄人やプロの動きは、包丁での切り方ひとつ、釘の打ち方ひとつとっても、素人とは明らかに違う美しさがあります。
それは想像を絶する訓練をくり返しているからです。
なぜ美しいのか? それは、無駄な力が入っていないからです。すなわち、力がよい加減で抜けている。余計な力みがあると、身体のどこかが強張ったり、バランスが崩れたりします。余計な動きがないから、なめらかでしなやかな強さがある。
ビジネスマンの仕事にも、これと同じようなことがいえます。無駄のない、理に適った仕事の仕方は、傍から見ても美しいものです。
それに対して、力の抜き方がよくわかっていない人の仕事は、どこかぎこちない。すべてに同じような力の入れ方をして、緩急のつけ方がわからない。
ポイントがつかめないため、余計な仕事をして時間もかかってしまう。
見落としがあったり、粗いやり方になったり、次にすべき仕事がぎこちなくなり、スムーズに流れていきません。
仕事の仕方が美しくない人は、問題も起こしやすい。
相手の立場を想像しないゆえに自分勝手な行動をしたり、ポイントを外して周りの人を巻き込んだりと、トラブルの多くは、仕事のやり方がうまくないことから起こるものです。
もっとも、仕事の仕方が美しくなるには、単にやり方がスマートで上手ということだけでは十分ではありません。
テクニックやスキルに熟練しているだけでは不十分です。
仕事で「悟る」などありえない
「丹羽さんは仕事に関しては大ベテランですから、仕事に対して一種の悟りのようなものを持たれているんじゃないですか?」 そんなことを知人からいわれたことがあります。
滅相もありません。人間である限り、悟るなんてことはとてもできないと思います。私は仕事に対しては、ある範囲のことが「わかる」にすぎない。
会社を立ち上げ、大成功させた人が、これだけ大変なことをしてきたんだから経営で学ぶべきことはもうない、俺は悟ったんだというような境地にもしなれば、どれだけ目覚ましい能力を持っていようと、それは人としての未熟さと驕りの現れです。
その人がどれだけ努力を重ね、進歩しようとも、単に「わかる」という部分が増えていくだけにすぎません。
1しかわかっていない人から見れば、 10わかっている人は途方もない存在に感じられて、あたかもすべてを悟っているように思えるかもしれない。
でも、 10わかっている人のさらに上には、 20や 30わかっている人だっていたりするわけです。人はどこまでいっても、「わかる」部分が増えていくだけです。それが成長ということです。
人よりも「わかる」ものが圧倒的に多いから自分は悟った、と思うようなことがあれば、そこで成長がストップしてしまいます。日々、ベストを尽くす。できることを精一杯やる。
生きている限り、そうした努力を続ければ、成長が止まることはありません。一つの山に登ったら、それで終わりではありません。そこから、また目の前にそびえているさらに高い山に登る。登るべき山は、死ぬまで際限なくあるのです。
ポイントがつかめないため、余計な仕事をして時間もかかってしまう。
見落としがあったり、粗いやり方になったり、次にすべき仕事がぎこちなくなり、スムーズに流れていきません。仕事の仕方が美しくない人は、問題も起こしやすい。
相手の立場を想像しないゆえに自分勝手な行動をしたり、ポイントを外して周りの人を巻き込んだりと、トラブルの多くは、仕事のやり方がうまくないことから起こるものです。
もっとも、仕事の仕方が美しくなるには、単にやり方がスマートで上手ということだけでは十分ではありません。
テクニックやスキルに熟練しているだけでは不十分です。
私は常々、仕事においても生きることにおいても「清く、正しく、美しく」あることが大切だといっていますが、この「清く、正しく」というものを含んでこそ、本当に美しい仕事や人生は生まれるのです。
私が敬愛していた上司は、今思えばまさに美しい仕事っぷりでした。
「清く、正しく、美しく」を地でいくようなところがあり、仕事の本質を染み込むように教えてくれた人でした。
私が大豆相場で途方もない損失額を出し、会社を辞めようと思ったとき、その上司は「下手な考えで、隠しごとは一切するな。お前がクビになるくらいなら俺が先にクビになる」と励ますようにいってくれました。
彼は「上司にも部下にも取引先にも妻にも、誰であろうと噓はつかない」という信念の持ち主で、難しい大きな仕事でも百パーセント、部下を信頼して任せてくれた。
「何かあれば責任はすべて俺がとる。思い切って存分にやってこい」と送り出してもくれた。
それくらい器の大きな人でしたから、私も「この人のためなら、どんな厳しい仕事でもやろう」と思っていました。
私が人間として成長できたのも、これまで仕事を続けてこられたのも、この上司のおかげといってもいいくらいです。
日々、ベストを尽くす。できることを精一杯やる。生きている限り、そうした努力を続ければ、成長が止まることはありません。
一つの山に登ったら、それで終わりではありません。そこから、また目の前にそびえているさらに高い山に登る。登るべき山は、死ぬまで際限なくあるのです。
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