この本は○○のような本である。
「たとえる」と一瞬にして目の前の世界が変わる。
それは風景を鮮明にし、
「銀杏並木が」バス停に置かれた古い椅子のスポンジのように黄色い小学1年生のランドセルのカバーのように黄色い毒ガス検知に使われたカナリアのように黄色いダンディ坂野のスーツが並んだクローゼットのように黄色い
感情を際立たせ、
「幸せ」郵便受けの中に自分宛の郵便が入っていた時のような幸せ席替えで窓側になったような幸せソーメンを流してくれる役の人がいるような幸せ札束のお風呂に入るような幸せ
想像力を掻き立て、
「距離」高い椅子に座った子どもの足と床のような距離ドミノが途切れてしまうような距離改札を出ずに柵越しに荷物が受け渡されるような距離太った人がゆっくりジョギングするような距離
そして伝わる。見えるものも見えないものもすべてを変えるのだ。
とはいえ、たとえが万能であるとは思わないし、社会生活を送る上で必要不可欠ではないことはわかっている。しかしたとえは何かのきっかけになる。目の前の世界が変わったように、あなたの何かが変わるはずだ。
本書はそのきっかけを与えたい。それを第一に考えているためたとえに関する難しい話は省き、「~のような」「~のように」というわかりやすい形に特化している。
この本は○○のような本である。
もしも本書を読んでたとえたくなったなら、是非この○○を埋めてもらいたい。
目次たとえないより、たとえたほうがいい理由感情を共有できるオリジナリティを生む伝わりやすい
たとえを作る、いくつかの視点
視点を変える似た形を探す似た色を探す似た動きから作るよくある表現をアレンジする得意分野を利用する学校を使う著名人を使う動物を使う想像力を利用する
状態を、たとえる
広い、狭い大きい、小さい長い、短いアウェー感、ホーム感偶然待つ絶望別世界無関係運命的その場しのぎ流れる
たとえるとできる、いろいろなこと
会話を長くできる時間を潰せる言葉のイメージを変えられる季節の挨拶を作れるコミュニケーションがとりやすくなる人のタイプをたとえるおいしさを伝えられるピンチを切り抜ける1~上司に悪口を聞かれていた時~ピンチを切り抜ける2~お母さん以外をお母さんと呼んでしまった時~ピンチを切り抜ける3~他人にバカだと言ってしまった時~
感情を、たとえる驚き寂しい優しい孤独悲しい後悔つまらない信じられない罪悪感ありがたいとまどい悔しい
おわりに
たとえないより、たとえたほうがいい理由
感情を共有できる喜びをうまく表現できないという人はいないだろうか?実は私もそのひとりである。素直に表現している人を見るたび、いつも羨ましくなる。例えば、プレゼントをもらう。うれしい。うれしいのだが、うまく表現できない。「うれしい」と口に出しても、相手にうまく伝わらない。「この人、本当にそう思っているのか?」と思われるのがオチだ。そこで動作を取り入れてみたこともある。オーバーアクションを交えて「うれしい」と言ってみるが、今度はわざとらしくなってしまう。「もっと自然にやらなければ……」と意識すればするほど、よりぎこちなくなってしまう。慣れないことはすべきではない。それならばやはり言葉で伝えるほうが良い。「うれしい」だけではこちらの気持ちをうまく伝えられないのならば、何か言葉を付けてうれしさをアップさせてみる。とてもうれしい凄くうれしい大変うれしい尋常ではないほどうれしい夢かと思うほどうれしい死ぬほどうれしい「とても」「凄く」「大変」はどこか子どもっぽさを感じさせる。あなたが子どもならば構わないが、そうでないのなら使わないほうが無難だ。「尋常ではない」「夢かと思うほど」「死ぬほど」になると今度は大げさになってしまい、信ぴょう性に欠ける。相手に気持ちが伝わることはない。「ふざけてるのか!」と怒らせてしまう可能性すらある。ではどうするか。たとえである。うれしさをたとえてみるのだ。「この犬、他の人に懐くこと滅多にないのよ」と言われた時のようにうれしい最後の期末テストが終わった時のようにうれしい思っていたより買取額が高かった時のようにうれしい大浴場に自分ひとりだけのようにうれしい二度寝してもオッケーな時間だった時のようにうれしいたとえが感情の輪郭を明確にし、うれしさを鮮明にしてくれる。「『この犬、他の人に懐くこと滅多にないのよ』と言われた時のようにうれしいです!」「なるほど!自分が特別な存在になったようにうれしいんだな!」このように相手とうれしさが共有される。たとえは感情を出すことが苦手な人のサポートもしてくれるのだ。また、友人がかなり落ち込んでいる時。あなたは友人を励まそうとする。どんな言葉が最適だろうか。ただ単に「大丈夫だ」と言っても、相手は「ありがとうございます」と感謝の言葉を口にするだろうが、それは明らかに上辺だけのもので、落ち込み具合に何の影響もない。しかも「大丈夫だ」なる言葉はちょっと言い方を間違えると志村けんのようになってしまって相手を怒らせてしまう。かといって、「いつまでもくよくよするなよ!」と強めに言うのも逆効果になる可能性がある。「気にするな。たいしたことないよ」これも同じこと。ただの慰めにしか聞こえない。ならば励ますことは不可能なのか。「私は人を励ますことができない人間なのだ」と今度はあなたが落ち込む。それを見た他の誰かがあなたを励まそうとする。しかしその人も励ますことができずに落ち込んでしまう。落ち込みの連鎖が延々と続いていく……。そんな流れを断ち切るためにたとえがある。たとえを使ってたいしたことなさを説明し、励ますのだ。
CDの再生に問題のない小さな傷のようにたいしたことない洗濯したズボンのポケットの中に固まったティッシュを見つけた時のようにたいしたことない会計の時伝票をテーブルに忘れたようにたいしたことない一瞬だけ外に出る時に母親のサンダルを履いたようにたいしたことないカップ麺の「お召し上がりの直前に入れてください」と書いてあるスープを先に入れてしまったようにたいしたことない「気にするな。CDの再生に問題のない小さな傷のようにたいしたことない」「たしかに再生に問題ないならたいしたことじゃないか。レンタルCDなんて結構傷だらけだけど問題ない。そうか、たいしたことないな!」こうして「たいしたことなさ」が共有され、ミスがちっぽけなものに思えてくる。いつまでもくよくよしているのが恥ずかしくなり、馬鹿らしくなるはずだ。
オリジナリティを生む次のような一文があったとしよう。燃えるような赤いもみじ今まで何度も耳にした、使い古された表現である。何の抵抗もなくこの表現を使う人は少なくない。長年使われているということは市民権を得ている表現といえるし、「燃えるような」と言われれば私たちは条件反射的に赤いもみじが頭に浮かぶようになっている。ただ、このフレーズを使いたくない人もいるはずだ。それは、使うのが恥ずかしいと感じる人だ。そこで自分の言葉でもみじをたとえる。広島カープのファンで埋め尽くされた球場のような赤いもみじスペインのトマト祭りの後のような赤いもみじ進研ゼミから返ってきた答案のような赤いもみじアントニオ猪木のタオルのような赤いもみじテツandトモのテツが着ているジャージのような赤いもみじ寝不足の目のような赤いもみじシャア専用のような赤いもみじ赤が強すぎたアタック25のパネルのように赤いもみじこれにより良くも悪くも新しいもみじが少なくとも8つ誕生した。どれもオリジナリティに富んでいて、それぞれが別の赤を想起させる。赤ヘルのような赤、街中がトマトで染められたような赤、赤ペン先生のアドバイスが書き込まれた答案のような赤。それは「燃えるような」とたとえられた時の色とは違う。さらにこのオリジナリティは確実に聞き手の記憶に残る。最悪「この人は何を言っているんだ?」と思われたとしても、それはそれで印象に残るということだ。また、次のような流れになることもある。「アントニオ猪木のタオルのような赤いもみじでしたよ」「私が見たのは、こども店長のスーツのような赤いもみじでした」こちらのたとえが相手の表現欲を刺激し、相手のたとえを引き出す。たとえの連鎖が生じ、新たなオリジナリティを生み出すのだ。もうひとつ別の例を挙げてみよう。音楽のライブにて。「盛り上がってますかー?」アーティストが舞台から叫び、客席を煽る。「イエーイ!」観客は声を上げて応える。「盛り上がってますかー?」観客の声の大きさに納得いかなかったのか、アーティストがまた叫ぶ。「イエーイ!」観客はさっきよりも大きな声で応える。ライブでよくある風景だ。ところが最近この「盛り上がってますかー?」というフレーズが多用されまくっている。とにかく盛り上げたいのか、それとも観客を煽る方法をこれしか知らないのか、あるいは間を持たせるためにこれを言っておけば良いと思っているのか、もしかしたらそう台本に書いてあるのかはわからないが、暇があれば「盛り上がってますかー?」と叫ぶのだ。ドアの鍵を締めたのに、「あれ?鍵締めたっけ?」と気になって確認しに帰るようなタイプの人で、本当に盛り上がっているのか気になって仕方ないのかもしれないが、「盛り上がってますかー?」が続くと辟易してしまう。特にアーティストが何組も出てくる形式のライブでは、アーティストが替わるたびに盛り上がっているか確認される。そのため少しでも良いから変化が欲しくなる。すべて別の煽りにしてほしいとまでは言わないが、オリジナリティが欲しくなるのだ。問題はこのオリジナリティをどう出すかということ。これには簡単な方法がある。たとえを使って解決する。『○○のように盛り上がってますかー?』という煽りを作れば良いのだ。さるかに合戦で飛び出してくる栗のように盛り上がってますかー?囲炉裏に身を潜めた栗が、一気に飛び出してくる。弾けるような盛り上がりだ。お湯が沸く寸前の電気ケトルの中のように盛り上がってますかー?温度が上がり、ケトルの中を動き回るお湯。沸騰寸前の盛り上がり。エアー抽選器の中で回っている三角くじのように盛り上がってますかー?舞い上がってぐるぐると回り続ける三角くじ。どこか楽しさが伝わってくる。大浴場の使用済みタオル入れのように盛り上がってますかー?みんな雑に入れていくため、縁に掛かっていたり、はみ出して落ちていたりとやりたい放題。激しい盛り上がりを想像させる。クララが立ち上がった時のように盛り上がってますかー?走り回るペーターのような盛り上がり。地面を行き交う死ぬ間際の蝉のように盛り上がってますかー?動きが予測不可能な盛り上がり。このようにたとえを使えばオリジナリティのある煽りができる。これならうんざりすることはない。「地面を行き交う死ぬ間際の蝉のように盛り上がってますかー?」「イエーイ!」観客がこんな反応をするかどうかはわからないが、もしもあなたがアーティストになった時のためにたとえを使う方法を覚えておいて損はない。私も突然アーティストになった時に困らぬよう、しっかりと頭に叩き込んだ。そして、今夜も楽器ができないのにステージに上がってライブをやらなければいけない夢を見るのだ。
伝わりやすい先ほどの赤いたとえはオリジナリティを生み出したわけだが、オリジナリティはさらなる効果を引きおこす。ありきたりの言葉ではないからそこに引っ掛かりが生まれ、聞き手が「テツandトモのテツが着ているジャージのような赤いもみじ……?」と言葉を反芻させる分、ジャージと赤色を想像してくれるから伝達力がアップするのだ。例えば暗さを伝えたい時。田舎の夜は暗い。住んでる頃は何とも思わなかった。生まれてからずっとそうなのだから、暗さについて考えることなどなかったし、特に不都合はなかった。夜はそういうものだった。上京してきて今度は「都会は明るいなあ」と思ったかといえば、そうではなかった。人混みだとか電車だとかコンビニだとか、初めて知る新鮮なことが多すぎて、明るさどころではなかったせいかもしれない。帰省した時、驚いた。夜が暗かったのだ。建物も少なければ、街灯も少ない。東京という比較対象ができたことにより気づく暗さ。しかしこの話を東京生まれ東京育ちの人にしてもなかなか伝わらなかった。「夜は暗いものだろ」と言われて終わってしまう。「いや、そんなもんじゃないんだよ」と力説しても伝わらない。無理矢理田舎に連れていこうかと思ったが、そんなお金があるわけない。そこで暗さをたとえる。開演後に入った劇場のように暗い頼りになるのは足元のわずかな灯りと、誘導するスタッフの小さなライトくらい。暗い。「ああ、そういう時って座席番号がなかなか確認できないんだよね」と共感が生まれ、暗さを明確にイメージしやすくなるのだ。他にもこんなたとえがある。予告編が終わった時の映画館のように暗い本編が始まるまでのわずかな時間、スクリーンには何も映らず、館内の灯りが完全に消える。そんな暗さ。静寂もまた田舎を彷彿させる。誕生日のサプライズが始まる店内のように暗い不意に店内の照明が消える。その時の暗さ。すぐにケーキのろうそくの灯りが移動しているのが見えて誰かの誕生日だと知る。油断してドライヤーを使った途端ブレーカーが落ちたように暗い夏の夜。テレビも蛍光灯もクーラーも、あらゆるものをつけてのドライヤー。ブレーカーが落ちる音と、突然の暗闇。玄関にあるブレーカーまでたどり着くのも一苦労な暗さ。子どもの頃入った押入れのように暗い小さい頃、親に怒られて押入れに閉じ込められたことがあった。暗くて泣いた。そんな記憶が蘇る暗さだ。やがて閉じ込められても平気になっていつしか進んで入るようになったが。どれも暗さをイメージすることができるから、相手に伝わる。「そんなに暗いんだ!」「そうなんだよ。東京と田舎じゃ夜の暗さが全然違うよ」今度は「違い」をたとえる。若貴兄弟それぞれの人生のように違うマナカナそれぞれの人生のように違う
普段行くスーパーとデパ地下の惣菜コーナーのように違う通常時と正月の番組のように違う夏休み前と後のクラスメイトのように違うビールジョッキを倒す前と後のテンションのように違う部活のOBが言う「俺らの頃の練習」と「お前らの練習」のように違う転校生の習字セットのように違う「田舎の夜は開演後に入った劇場のように暗いんだよ」「そんなに暗いんだ!」「そうなんだよ。東京と田舎じゃ、若貴兄弟それぞれの人生のように違うよ」これにより田舎の暗さがさらに伝わる。
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