まえがき
「人間の器」って何だ?。それを一言でいうのは、難しいかもしれない。性格でいうのか、能力なのか、考え方なのか。もしくは佇まいをさすのか、行動なのか、生き方か……。
会社勤めをしていた頃、この人は細かいことばかりにこだわって森を見ていないなとか、あの人は数百億円の金が絡む仕事でも腹が据わっているなとか、いろいろな人が職場にもいました。
けれども、必要以上に細かいことにこだわる人間が、お金にはとんと執着がなく鷹揚だったり、途轍もないお金が動く仕事を平然とこなす男が、些細な人間関係を気に病んだりもする。
そうなると、器はどっちが大きいといえるのか、判然としなくなります。
ただ、誰が見ても間違いなく、この人は器が大きいと感じた人物はほんの数人ですが、いました。
いずれも私が尊敬する上司や先輩で、仕事の大きな節目となるタイミングには必ず、こうした人たちに会いに行きました。
彼らに共通するのは、いざとなれば自分を犠牲にしてでも他人を救おうという気概の持ち主であったことです。覚悟を決めて仕事に向かうその姿に、私は幾度となく心を打たれたものです。
アフガニスタンで用水路の建設や医療活動などに取り組んできた医師の中村哲さんは、現地の人々のために一生を捧げました。
2019年凶弾に倒れたことは残念極まりないことですが、ああいう無私になれる人の器は限りなく大きいと感じます。
「人を測る真の尺度は、自分に何の利益ももたらせない人を、その人がどう扱うかということである」
これはイギリスの文学者であるサミュエル・ジョンソン氏( 1709 ~ 1784年)が残した言葉ですが、人の器を測る尺度があるとしたら、損得の計算を超えたところで行動できるかどうかにあるような気がします。
人間として生まれてきたからには、自分の命を宿す器は大きくて深いものでありたい。それには、どうすれば自分の心が成長できるのかを考えながら生きていくことが必要です。本書では人間の器に関係することを、さまざまな角度から綴りました。
私の 80年余りの青臭い体験談がところどころ挟まっていますが、「あなたの器はその程度か」と思ってくだされば、幸いです。
常に未完成な人間であるというスタンスでこそ、何事においても努力のしがいがあるというものです。
人間の器の大きさに、限界はありません。
あなたのこれからの生きる力に、本書が少しでもプラスになることを期待して、話を始めたいと思います。
2021年2月丹羽宇一郎
第 1章 「人間力」を高める
人間としての責任を果たす
アメリカの警察官による黒人男性殺害に端を発した「ブラック・ライブズ・マター( Black Lives Matter)」の運動は、 SNSを通じて世界中に広がりました。
この話題について知り合いの編集者と話をしていた際、彼女は、警察の不当な暴力と差別に抗議するデモ参加者の半分以上が白人やアジア人だったことに驚いたといっていました。
日本人の感覚からすると、黒人に対する人種差別は他人事のように感じますが、アメリカで「ブラック・ライブズ・マター」の運動に熱心に関わっている大勢の白人は、黒人差別を自分ごとと感じています。
アメリカは日本と違って多民族国家ですから、人種の相違を個性としてとらえる感覚を社会が持っているからでしょう。
私がニューヨークに駐在していたとき、白人のある友人は子どもが 5人もいる上に、 6番目の子どもを養子として迎えていました。
養子は黒人でした。
私はそれを聞いたとき、失礼にも「何で黒人なんですか?」と尋ねてしまいましたが、彼は「なぜそんなことを聞くの?」と不満げに「僕の家は部屋が 10室あるし、子どもは多いほうがいいんだよ」と冗談を飛ばしました。
友人は子どもが大好きで、 6人どころか、お金さえあれば人種は問わず、何人でも子どもが欲しかったそうです。
アメリカには奴隷制時代の名残を心の中にとどめているような人もまだいますが、彼のように差別意識を抱いていない人もたくさんいます。
「ブラック・ライブズ・マター」の運動は、たしかに多くの日本人にとっては他人事かもしれません。
でも本当に他人事なのかといえば、そうではないと思います。なぜならこの問題は、人種差別問題にとどまるものではないからです。
これは誰しもが持っている、自由に生きる権利に絡む問題なのです。生きる権利を理不尽に侵すことは、何人にも許されることではありません。
「ブラック・ライブズ・マター」の運動の根底には、黒人差別だけにとどまらず、普遍的なこの権利を訴えようとする意志が込められているのではないでしょうか。
そう考えれば、「ブラック・ライブズ・マター」は日本人にとっても、決して他人事ではありません。
日本の社会にも在日外国人に対する制度的な差別や偏見はありますし、家族形態のあり方や障害の有無によって、基本的な人権を毀損する法律や慣習、社会制度は探せばいくらでもあります。
「ブラック・ライブズ・マター」は対岸の火事ではないのです。
「ブラック・ライブズ・マター」の例と同じく、海外で起こる一見無関係に思えるさまざまな事象や出来事は、何らかの形で大なり小なり、日本に暮らす私たちにも関係してきます。
わかりやすいのは環境問題です。
たとえばオーストラリアのグレートバリアリーフでは珊瑚の死滅が大きな問題になっていますが、このことは単にオーストラリアの海の問題ではありません。
これは地球規模で起こっている気候変動と密接な関係があることであり、グレートバリアリーフで起こっているのと同質のことは、日本の海でも起こっています。
近年多発している集中豪雨などの異常気象や不漁といったことは、すべて地球温暖化に伴う気候変動が大きな原因です。
環境問題は目に見える形で地球規模で広がっているので、どこの国で起きていようが、他人事ではないのです。
では、たとえばシリア内戦のような国際紛争は他人事かどうか? シリア内戦には、ロシア、アメリカ、中国といった大国も軍事支援、武器供与などで関わっています。
まさに、そこでは大国のパワーゲームが繰り広げられているわけです。
こうした国際政治の力学の中、アメリカや中国とも深い関わりのある日本が、何の影響も受けないわけはありません。
またシリア難民は欧州で右派ポピュリズムが台頭する要因になっていますが、この現象は世界を覆う大きな流れになっています。
そう考えれば、ニュースで映し出されるシリア情勢やシリア難民の姿はテレビを見ている日本人と、どこかでつながっている。その意味で、やはり他人事ではないのです。
グローバリズムの急速な進展により、遠い国の出来事であっても、それは何らかの形で自分ごとでありうるという事態が、加速度的に増えています。
またたく間に世界中を覆い尽くした新型コロナウイルス感染症は、そのことを端的に表しています。
自分にできることは何かを考え、行動する。これは同じ時代に生まれた人間として行う、必要最低限のことだと思います。
さまざまな問題について何も考えず、行動せず、のほほんと暮らしていると、必ずや足をすくわれる。そういう意識でいることが、同時代に生きる人間としての責任ではないかと思います。
自分にしかできないことを、やる
「人の行く裏に道あり花の山」 これは投資の世界での有名な格言です。
みんながこれは買いだと思って一斉に買いに走ったら売ることを考え、反対に流れが売りに向かい総悲観の様相を見せているときは、買い場を探る。
投資で利益を得るには、人と同じような発想をしていてはダメだという経済の一つの教訓です。
空気を読んで付和雷同することには、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という安心感があります。
集団行動をする上では、それも多少必要なことかもしれませんが、いつもそのような姿勢でいるのは問題です。人は皆、それぞれ顔が違うように、その人にしかない個性を持っています。
個性が違うのだから、もちろん生き方も違ってしかるべきです。
よく考えれば当たり前のことですが、人は易きに流れやすい生き物ですから、つい皆と同じような無難で楽な道を選びがちです。
安心だからといって人と同じような道を選んだり、ことあるごとに人の真似をしたりするような生き方では、その人自身の人生を生きているとはいえないでしょう。
そもそも皆が皆、人と同じことをいつもしていたら、人間に進歩はありません。科学の発明も、新しい文化も、社会を変えるようなビジネスも生まれません。
人とは違うことをやるから、常に新しいことが生まれ、社会は発展していくわけです。人間として生まれたからには、ときには自分にしかできないことを見つけて、実行してみる。
それくらいの気概があってこそ、その人らしい人生になっていくのではないでしょうか。
イギリス在住のコラムニストで保育士のブレイディみかこさんは、保育士の重要な仕事は、子どもが皆と違うことをやり始めたら、それを止めないことだとおっしゃっています。
こうした行動がクリエイティビティの発芽になるからです。
日本人はよく空気を読むといわれますが、空気は読んでも、それに従う必要はない。これは違うと思えば、自分の道を行けばいい。自分を貫くためには、あえて空気を読まないことだって大切です。
人と違うことをするには、ときには勇気が要ります。
いろいろな分野でパイオニアといわれる人は皆、勇気を持って人とは違う道を進んだはずです。最初の頃は結果が出なかろうが、気にしない。
常識や慣行にとらわれていては、新しいものは生まれません。
ソニーを創った盛田昭夫氏も、ホンダの本田宗一郎氏も、誰にも真似のできない、世の中の役に立つことをしようという志を常に持って、仕事をしていたに違いありません。
日本の企業は横並び意識が強く、同業者の出方を見ながら前に進む傾向があります。しかし、業界の慣例や前例にとらわれていては、画期的なビジネスも生まれません。
私が社長になった際に誓ったことは、悪しき慣行や前例は捨て、本当に会社の成長につながることであれば周りが反対しようと、それを実行することでした。
その一つが膨大な不良資産の一括処理でした。旧態依然とした組織の改革も、私が強くやりたかったことです。
たとえば、男性優位の雇用状況を改善するために、女性役員を将来 3割にするという目標を掲げ、有能な女性社員が重要なポストにつけるように人事評価のシステムを変えることもしました。
後任人事に関しては「スキップ・ワン・ジェネレーション」と称して、一世代スキップした年代の幹部から後継社長を選ぶ若返り策を公言しました。
組織全体の若返りを狙ったのです。
これまではトップが後継者を選ぶとき、自分と同年代かそれに近い人たちの中から選ぶことが慣行になっていましたが、これでは評価システムをいくら変えても、必然的に年功序列システムの悪しき部分を温存してしまうことになります。
変化の激しい環境にあって、トップは時代の先を読む若々しい発想と情熱、強い心身がなくては生き抜いていけません。
私の後任には、商社業界の中ではもっとも若い当時 55歳の最年少役員を 7人抜きで抜擢しました。
年功序列を排した人事は、役員、幹部においても断行し、この新人事制度を導入した後の 2004年には 40代の役員も誕生しました。
社長時代、さまざまなことを思い切ってやれたのは、常識や慣行にとらわれて周りと同じことをやっていては、組織もダメになるという強い危機意識があったからです。
こと社長に就任した際は、会社そのものが非常事態にあったので、なおさらそういう気持ちを強く持っていたのだと思います。
企業社会にはダイバーシティ(多様性)が必要ということが昨今、盛んにいわれるようになりました。
年齢、性別、国籍、学歴、職歴などの多様性があるほど、企業組織はポテンシャルを高め、しなやかな強さを持ちえます。
さまざまな「違い」を持つ人間が一つのことを協力してやると、とんでもない力が生まれたりします。違いがあるからこそ互いに刺激を受け、創造的な化学変化が起きるのです。
同じような考え方をしている人や感覚が近い同年代の人とばかりつき合っていては、発想も行動も画一的になっていき、個性もどんどんなくなっていくものです。
人は人と違うからこそ、生きる意味があります。その人にしかない個性を大事にして、人とは違うことをやってみる。
ろくに努力しないうちからオンリーワンを気取っても仕方ありませんが、他でもない自分の人生を生き抜くには、常識や周りの空気にとらわれることのない発想をし、それを行動に変えていくしか方法はありません。
私自身、そんな姿勢を忘れないようにしたいと思っています。
何が起きても「それがベスト」と考える
私の知り合いで、がんになってから病気にまつわる日記を書き始めた人がいます。
どうやって治療をし、がんという病といかに向き合っていくか、ときどきの思いや考えを記録に残すわけです。
「がんの治療が始まって 1カ月、がんという病気に対するイメージは当初と少し違っているな」「もしかしたら転移があるのかもしれない。そのときはどうするか?」など、その日その日に感じたことや気づいたことを丁寧に書く。
命に関わる病気にかかってしまったことは、そこだけを考えれば、理不尽な気持ちにかられると思います。
しかし病気や治療に対する心情や考え方を綴ることで、自分の今の姿をある程度客観的に見ることができる。
それによって気持ちが落ち着いたり、先々についての考えも整理されるかもしれません。病院には自分と同じようながん患者がたくさんいる。
2人に 1人はがんにかかるといわれている時代、がんで悩み、苦しんでいるのは自分だけじゃない。そんなふうに客観的にとらえることが、理不尽だと感じている気持ちを和らげてくれるのでしょう。
何でこんな目に遭うのかと理不尽に感じる出来事は、生きていればいくらでもあります。
しかし、起こってしまったことについて、あのときあそこに出かけなければこんなトラブルに巻き込まれずにすんだのになど、 ifの仮定を想像しても仕方ないし、誰かのせいにしても始まらない。
すでに起きてしまったことに対してジタバタしても、事態は何も変わりません。
たまたま話す機会があったある宗教家の方は、どんなに大変なことが起きても「ありがとう」と感謝するといっていました。
交通事故に遭って大怪我をしても「ありがとう」、仕事で大きな失敗をしても「ありがとう」と思うようにしているのだそうです。
私は大変な出来事に感謝するような気持ちにはなかなかなれませんが、困難と感じる状況でも、それを受け入れることは大切だと思います。
自分の身に起きたことは、すべてその時点でのベストだと思うようにする。ここでいうベストというのは、さまざまな可能性がある中での最善の状態という意味ではありません。
どのような形のものであれ、自分の考えや行動に基づいた結果、起こったことに変わりはありません。
すなわち、やってきた状況は、その時点ではそれしかなかったという意味でのベストということです。
棋士の羽生善治さんと対談をした際、印象的なお話をうかがいました。
対局中、こう指すべきという定跡とは違う手を、どうしても指したくなるときがあるというのです。それが外れた手となって、負けるかもしれない。それでも、羽生さんは指したい手を選ぶといいます。
どうしても指したかった手なのですから、それで負けても「これが実力」と思い定め、悔いることはないという道理です。
しかし定跡通りに指して、負けてしまえば、なぜあのとき自分の考えに従って指さなかったのかと悔いを残すことになります。
羽生さんのお話のように、精一杯考えてそうなったら、その結果は思わしくないものでも、その時点での自分のベストだと思うことです。
では定跡通りのことをしないがゆえに、よくない結果になってしまった場合は? その時点では考えがまとまらなかったか、決断できなかった結果という意味で、やはり自分のベストなのです。
「眼には見えないけれど存在するもの」があると自覚する
人間には、見えるものと見えないものがあります。知っているものと知らないものがあります。
実は自分の眼で見て知っている世界よりも、自分の眼では見えない知らない世界のほうが、水面下に隠れた氷山のように圧倒的に大きな割合を占めているのではないでしょうか。
見えない世界とは何も霊とか超自然現象といったことではなく、私たちが人間や生命や宇宙といったものに関してまだ見たことがなくて知らなかったり、理解できていなかったりするものです。
たとえば、物質の最小単位は素粒子ですが、それによって原子が構成され、宇宙のすべての物質は原子でできていると最近まで思われてきました。
ところが最新の研究では、原子からできている物質は宇宙の約 5%にすぎず、残りの 95%は未知のダークマターとダークエネルギーであることがわかってきた。
それが事実なら、人類は宇宙についてほとんど何もわかっていないことになります。ここ約 1世紀における科学技術の進歩は、すさまじいものがあります。それに伴って、人間が処理する情報量は膨大なものになります。
カリフォルニア大学バークレー校のピーター・ライマン氏は 2003年に、ここ 3年間の全世界の情報量は人類が 30万年かけて貯蔵してきた全情報量以上のものだと語りましたが、その後のデジタル技術の急速な進歩によって、今や人類が持っている全情報量は、さらに想像もつかぬほど爆発的な増加を遂げているはずです。
日々、ネットやテレビ、書物などを通してそのような夥しい情報の一端にふれていると、いろいろなことをたくさん知っているという気持ちになるかもしれません。
しかし、私たち人類がこの世界について知っていることは、やはりごくわずかでしかない。自分たち人間のことですら、大半がまだブラックボックスではないでしょうか。
脳科学が発達して、脳のメカニズムについての解説をよく耳にしますが、専門家にいわせれば脳のことだってまだわかっていないことだらけなのだそうです。脳がわからないということは、心のこともよくわからない。
医学の進歩は著しいものがありますが、身体についてもまだ解明されていない仕組みや機能はごまんとあります。
他の哺乳類や鳥類と比べ、人間の身体はなぜこのような構造と機能を持つようになったのかということも、よくわかっていないことが多い。
人の身体機能や感覚にはさまざまな制約があるため、それによって感知できるのは、世界をある特定のアングルから切り取った一つの断面にすぎません。
たとえば、視覚や聴覚は一定の周波数の光や音しかキャッチできません。
動物には光をとらえる錐体という網膜の中で働く光センサーがあり、人間より錐体の種類が多い爬虫類や鳥類は、人よりたくさんの種類の色調が区別できるといいます。
人間の聴覚ではとらえられない周波数の音を、イルカやコウモリは聴くことができます。人間が知りえない世界像を、自然界の生き物たちはそれぞれに持っているわけです。
人間は優れた脳を持った生き物であり、今やこの世界の多くのことは解明されているんだという感覚がもしあるとすれば、それは大きな錯覚でしかないでしょう。
人は知らないことがあるから、好奇心でもって、その未知なるものを求めるわけです。それが理性を発達させ、文明を進歩させてきました。
世の中は知らないことだらけ、わからないことだらけ。そう考えて謙虚になることは、とても大事だと思います。たくさんのことを知っている。たいがいのことは理解できる──そんなふうに思えば、人間の成長はそこで止まってしまいます。
私は経営者が多く集う講演会で、必ず話すことがあります。
「経営者に必要な条件は、自分は何も知らないという自覚です。無知で未熟な存在だと思えば、学ぶべきことがたくさんあることに気づきます。経営に必須な今の時代の新しい知識や感覚は、そんな自覚があってこそ学べるのです」
トップにいるから偉い。社員は自分より無知で、ものごとをよく理解していない。そんなふうな感覚を持っているトップは経営者失格です。
実際に現場の社員たちと少しでも深い会話をすれば、自分が知らなかったことをたくさん知っていたり、斬新なアイデアを持っていることに気づくはずです。
ときには頭を下げて、社員に教えを乞うことがあってもいいのです。たくさんの人から尊敬され、頭を下げられる立場にいようと、自分はまだまだ未熟者。
人間はちょっとしたことですぐ傲慢になる生き物ですから、そのような自覚は常に持っておくべきです。
まずは「自分は何も知らない」ということを自覚する。そのことが、人間が成長していく上で、もっとも大切なことです。膨大な未知によって、私たちが今立っている世界は支えられている。そんな謙虚な想像力こそが必要なんだと思います。
ベストを尽くすが、反省はしない
「Do your best!」「自分のベストを常に尽くせ!」 私はよくそういいます。日々、その都度、自分にとって最善と思ったことを行う。そう思って、ずっと生きてきました。
年を重ねれば重ねるほどベストを尽くし、仮にそれが不首尾に終わっても、反省しなくてもいい。後悔する必要もない。
あくまでもそのときはベストと思ったわけだから、反省してやり直そうとするよりも、行動した結果をちゃんと受け入れる。結果を自分で引き受けさえすれば、同じことを繰り返すことはない。後悔してぐずぐず気に病んでも、時間の無駄です。
それよりも、自分はベストと思ってやったんだからと気持ちを切り替え、次にまたベストと思うことをやればいいのです。
自ら実行したことを振り返るとき、中途半端なことをしたなと思うと、割り切れない気持ちになりますが、結果はどうあれベストなことをしたと思えば、次もまたベストを尽くそうと思える。
だから、さっと切り替えることが大切です。
取材を受けているおり、これはいう必要がなかったな、ちょっと質問の意図とは違うことを喋ってしまったなと思うときがあります。
でも、私は最善を尽くして喋っているつもりですから、そんなことは気にしません。仕事で失言めいたことを喋ってしまっても、まあ仕方ないやで終わりです。いつまでも気にしたり、わざわざ失言をフォローしようとは思いません。
調子が悪くて、いまひとつ仕事がはかどらないこともあるでしょう。でもその人が今出せるベストはこれしかないと思えば、それが自分のベストなのだから、思い悩んでも意味はない。
あるプロ野球の監督は、「スランプなんていうものはない。スランプといって騒いでいるやつは、ただ下手くそなだけ」といっていたそうです。
つまり、選手がスランプだと思っても、それがその選手の実力だということです。
人は調子がいいときをとらえて自分の実力だと思いたがりますが、不調のときこそがその人の本来の実力でもあるのです。
私がいう「 Do your best!」の文脈でとらえれば、不調もまた、そのときのベストな状態ということになります。
常にベストを尽くして、その結果は引き受ける。結果がよくなくても、それは自分の実力だと潔く引き受ける。「くよくよと反省しない」と決め、常にベストを出したと思えれば、毎日すがすがしい気持ちで眠りにつくことができます。
この繰り返しが人生ともいえる。だから私は、くよくよと反省しないのです。
ときに積極的に諦める
昔、ある高名な経済学者の本を読んでいたとき、何度丁寧に読んでも頭に入ってこないことがありました。
でも、その学者がテレビなんかで喋っているのを聞くと、けっこう易しい言葉でわかりやすい説明をする。ちゃんと理解ができる。
つまり、その人の経済理論そのものは理解できるのに、文章になると途端に理解が難しくなってしまうわけです。これは私の頭に問題があるというより、文章表現に問題があるのだと気づきました。
わかりづらい文章表現をするのは、もしかしたら本人にとって難しくすることが、ある種の権威と思っているせいなのかもしれません。
知り合いにも「あの学者が書いた本、どうだ?」と聞いたら、「あの人の書いたものは難しいから読まないんです」といっていました。
もし 10人が本を読んで半数以上がわからないといえば、読者ではなく、明らかに著者本人が悪いんだと思います。
経済学者としては評価が高い人物ですから、その人の書いた本を理解できないのは読み手が悪いのでは? とつい思ってしまう。偉い先生に問題があるとはおそれ多く、想像もできないのかもしれません。
文章に問題があることに気づいた私は、最初の数十ページでこの本を読むのをやめました。
もしこのとき、理解が思うようにいかないけれど世評の高い学者が書いた本だからきっとためになる内容に違いない、そう考えて私が粘り強く読み続けていれば、最後まで釈然としないまま終わり、結局何時間も無駄にしていたことでしょう。
読書に限らず全般的に、何か問題があれば、このように途中で「見切る」のも大事なことだと思います。「時は金なり」といいますが、時間はお金以上の価値を持っていると考えています。
お金は仕事をすれば対価として得られますが、時間だけは何人も買えませんし、失われた過去の時間は、絶対に取り戻すことはできません。
時間とは、人間の「生命」そのものであり、他に代替のきかないかけがえのないものなのです。
ある事柄が自分にとってあまり意味がなく無駄だと気づけば、どこかでそれを見切らなくてはいけません。
「見切る」というのは、「諦める」ことでもあります。
何事も「諦めるな」ということはよくいわれますが、ときには積極的に諦めることも大事です。
「諦めない」ことが美徳だと思っていると、途中で投げ出すのは敗北だと感じてしまい、時間を無駄にすることになります。
同じ見切るにしても、私の読書体験のように些細なことなら簡単に見切れますが、人生の進路や仕事に関わる重要なことであれば、そう簡単に諦めたり、見切ったりはできないでしょう。
医学部に進んだものの、成績がふるわず、どうも自分は医師に向いていないと感ずれば、そこでどうするか。
ここで医師の道を諦めてしまったら、これまで勉強して努力を積み重ねてきたことはどうなる? 頑張れば、今に道が拓けてくるかもしれない。
とはいっても、どうも医学の勉強は自分にはしっくりこない……。そんな葛藤に陥ることもあるでしょう。そうなったときに進路変更することは、間違いではありません。
仕事は自分の一生を捧げるものですし、そういった違和感は後々大きくなることはあっても、なくなることはあまりない気がします。
仕事で進めているプロジェクトの進行がはかばかしくない。仮にうまく進められても、期待していたほどの結果は得られないかもしれない。
そのような場合に思い切って退却することは、選択肢として十分ありえます。頂上を目指して山に登っているとき、雲行きが怪しくなれば、事故が起きないよう退却する勇気が必要です。
それと同じで、進路でも仕事でも進めていることを途中で見切るのは、そこに関わる人の時間やお金を無駄にしないためには必要なことです。
撤退する勇気や決断は、ギリシャ・ローマ時代からリーダーにとっての重要な要素でもあります。
時間が無駄になったという経験は、関わっているものへの必要以上の執着から生まれることが多いと思います。
もちろん無駄な経験も多少は必要ですが、無駄が多すぎるのは問題です。
繰り返しますが、時間は生命ですから、時間を無駄にするのは、自分の生命を無駄に消費しているのと同じことになります。
そうならないためにも、常に「いい見切り」ができる決断力を培うべきだと思います。
やめられない悪癖を一発で直す方法
アメリカに駐在していた時期、私は一日に 2箱 40本以上煙草を吸うヘビースモーカーだったのですが、 35歳くらいの頃、身体のことを考えて禁煙を思いたったことがあります。
習慣になっている煙草をやめるのは難しいもので、いったん禁煙に成功しても、また何かの拍子で復活することが少なくありません。
それは禁煙の手段が、たいてい吸いたい欲求を抑える方向でなされるからだと思います。吸いたい欲求は抑え込んでも、消えるわけではない。むしろ抑えれば抑えるほど、欲求はバネのようにたわんで反発する力が強くなる。
私も最初は意志の力でコントロールしようと思いましたが、何度試みてもダメでした。同僚と禁煙がうまくいくか否か、お金を賭けるようなこともしましたが、ことごとく失敗しました。
そんなことを繰り返すうちに、欲求を意志でコントロールするやり方には問題があると悟ったのです。私が体験して納得した禁煙方法は、それまでとはまったく正反対のやり方でした。
ある晩、アメリカ人の同僚もまじえ、飲みに出かけたときのことです。私は夜更けまでお酒を飲みながら、友人が持っている分も含め、煙草 5箱を全部吸ったのです。
ところが翌朝、猛烈に気分が悪い。喉がひっくり返ったようで、死ぬほど苦しい。会社に出勤したものの、気持ちが悪くてどうにもしようがない。仕事どころではありません。
それ以来、 45年ほどの間、夢の中で煙草を吸い、反省したことはありますが、現実の世界では一本も煙草は吸っていません。
たまにお酒を飲んでいるとき一本くらいいいかと思うこともありましたが、あの人生最大の苦痛のことを思い出したら、いくらお金を積まれても、とてもじゃないが吸えない。
頭でダメだとわかっているけれど、気分がよくなるものは、なかなかやめられない。
人間にはこうした性質があるならば、私がとった禁煙の方法のように、むしろその気分がよくなることを徹底して死ぬほどやってみるのは一つの手だと思います。
「わかっているけどやめられない」のは結局、頭でダメだとわかっているだけで、身体が納得していないからです。
つまり、本当に腹落ちしていない。
だからこそ私がとった方法みたいに、ダメなことを、死ぬ思いをするほど身体に徹底して刻み込むより他はないでしょう。
たとえば若い世代の中には、仕事や勉強をしなくてはいけないのにゲームが好きでたまらず、日常生活に支障をきたすほどゲーム依存になっている人がいます。
こういう人は、たとえばほとんど寝ずにゲームを何十時間、あるいは何日もぶっ続けでやってみるといい。
頭が朦朧として眩暈がし、体調がおかしくなるくらいまでやってみる。
そこまでいけば、さすがにゲームのやりすぎはまずいと、身体が気づくかもしれません。
たとえがよくないかもしれないが、ダイエットをして痩せようと思っているのに、甘いものが大好きでやめられない。
それならケーキをはじめ、いろいろなお菓子を気持ち悪くなるまで食べまくってみてもいいかもしれません。
一日中、普通の食事はとらずに、もうケーキなんか見たくもないというくらい甘いお菓子ばかり胃に入れてみる。
身体の調子がおかしくなり、気分が悪くなるくらいまで続ければ、甘いものはもう欲しくないという心境が芽生えるかもしれません。
内容によっては過剰に行うことが身体によくない場合もあるでしょうから、そこは気をつけないといけません。
ただ、欲求を意志の力で抑えようとするのに比べれば、ずっと効果があるのではないかと思います。
人は相反する性質を持っている
私は第一印象というものを、けっこう大事にしています。だいたい 7割くらいは当たっている。残りの 3割は外れているわけですが、この 3割は、いい意味で外れていることが少なくない。
つまり、第一印象があまりよくなくて「この人は何なんだ?」と最初は思っていたけれど、実際つき合ってみると真面目で仕事がよくできたりして、いい意味で裏切られたりするのです。
もっとも第一印象が悪いときというのは、こちらの調子がよくないときが多い。
「今日は疲れているな」というときとか、トラブルがあって気持ちがそちらに向いているときなどは、初対面で会う相手にこちらのメンタリティが少なからず投影されているんだと思います。
「この人は何なんだ?」と相手に感じているけれど、実は「何だ?」と思うべきは自分自身に対してなのです。
第一印象が当たるときは、こちらの調子がよくて直感が冴えているときです。ですから調子がよくないときに初めて会う相手への第一印象は、あまり信用しないほうがいいかもしれません。
あの人は実はこういう性格をしている、こんな意外な面がありそうだ、こんな分析を会う人ごとにする人がいます。
私の会社員時代、同僚や上司のことをいろいろと分析して、それを飲み会の席などで披露する人が職場にいました。
相手を分析するという行為は、相手からおかしなことをされないようにするための防衛心理によってなされている気がします。
でも分析したところで、本当にその人のことを理解したことにはならないでしょう。人には実にさまざまな面がありますから、簡単に分析できるものではありません。
自分のことですら、よくわからない部分がたくさんあるのですから、ましてや他人のことがどれだけわかるかは大いに疑問です。
人のわかりにくさは、その多面性にあります。
非常に真面目だと思っていたら、ある面ではひどくズボラだったり、大胆な性格を持ちながら、ある部分では意外なほど小心だったり、相反する要素を持つ人が多い。
ですから、あの人はこういう人間だと断定することは、その人を一面からしか見ていない浅はかな行為になります。
「あの人はこういう人だ」と誰彼なしに言いふらす人は、自分の浅薄さ、浅はかさを吹聴していることになりますから、気をつけたほうがいいと思います。
悪口の言い方に人間性が出る
私は書店の息子ですから、学生時代の一時期、週刊誌を一週間に 10冊以上読んでいました。
週刊誌には世相のさまざまな断面が面白おかしく取り上げられているので、手っ取り早い社会勉強にもなると考えたのです。
しかし、そのうち、「何で俺はこんなバカげたものを隅から隅まで熱心に読んでいるんだろう」と思い始め、その習慣をぱたりとやめました。
週刊誌の中身は、どれも似ています。
企画記事で個性を出したりしますが、そのときどきで話題になっている社会的事件や現象、政治批判、芸能人のスキャンダル、財テク情報など、用意されている引き出しのインデックスはほぼ決まっています。
私は徹底して週刊誌を読んだので、どうやって週刊誌をつくればいいか、そのパターンがすっかりわかりました。
この程度なら自分でも取材してつくれると感じるようになり、以来ほとんど読まなくなりました。
ネット全盛の時代、週刊誌にかつての勢いはありませんが、なぜあれほど週刊誌が好んで読まれてきたのかといえば、人間の中にある、理性に抑えられて普段はおとなしくしている「動物の血」を刺激する事柄が書かれているからだと思います。
週刊誌の主な役割は、大衆の下世話な覗き趣味に応えることです。
芸能人やスポーツ選手の不倫騒動、皇室のゴタゴタ、政治家のスキャンダル……どちらかというと、人の不幸にまつわる記事が売りものになっている。
誰しもが持っている「ねたみ、ひがみ、やっかみ」の感情の受け皿になっているわけです。
つまり大衆を代弁して、週刊誌が有名人の悪口をいいたい放題喋っているようなところが面白いと思われるのでしょう。
先達て私を訪ねてきた知人が「よく行くコーヒーショップに同じ顔ぶれの主婦グループが来ていて、毎回誰かの噂や悪口を楽しそうに喋って、読書に集中できないんですよ」といっていましたが、ことほどさように、人間は他人の悪口が好きな生き物です。
「あの人は人の悪口を一切いわない人だった」と故人を称えることがありますが、「悪口と噓」をいったことがない人は、この世に一人もいないでしょう。
人の悪口をいいたくなるのは、動物の血を持って生まれた人間の業ですから、それを百パーセント抑えることはできないと思います。
ただ悪口には、よい面もあります。
悪口をいうことで悪感情のガス抜きになったり、ときにはそこから建設的な批判に発展したりすることもあるからです。
とはいえ、悪口が多いのは考えものです。
人間の愚かさやくだらなさといった、ドロドロした部分ばかりに感情が引っ張られてしまうと、「理性の血」が薄まっていきます。
悪口というものに対しては、自分が喋るときも人から聞く際も、ある程度距離感を持つといいでしょう。
悪口は、それを話す人の人間性や知的レベルをストレートに伝えてしまうところがあります。誰かの悪口をいうことで、「この人はこの程度なんだな」と評価されてしまう。
いったん口から外に出された悪口は人から人へと伝わり、ブーメランのように自分に思わぬ形で返ってくることもあります。
あまり自覚はないかもしれませんが、悪口をいいたくなる相手の嫌な部分は、実は自分自身に対して嫌だと思っている部分だったりします。
自分の中にあるのと同じ嫌な要素を相手の中に見つけると、自分で否定している部分ですから、余計に嫌悪や怒りを覚えるわけです。
そう考えると、自分が誰かに向けて発する悪口や批判といったものは、自分自身への嫌悪でもあると思っていいかもしれません。
悪口には、そのような性質と構造があるという認識は大事です。
そうすれば悪口をいいたくなる気持ちを多少はコントロールできるはずですし、振り返って自らの戒めとすることもできます。
反対に、人から向けられる悪口は、自分が正しいことをしていると信じているなら放っておけばいいことですが、どうしても気になるのであれば、悪口をいう
お金に執着すると人は離れていく
お金は浮世を渡っていく上でとても大事なものですが、それを目的にしてはいけません。
お金がこの世でもっとも価値があるかのような風潮が続くと、お金をたくさん得ることが人生の目的だと信じる人が多くなります。
しかし、お金はあくまで生きていくための手段にすぎません。あくまで心や生き方を豊かにする手段であって、目的ではない。手段と目的を取り違えてしまってはいけません。
「金は天下の回りもの」という言葉がありますが、皆が皆、お金を得ることが目的になってしまえば、お金はスムーズに回らなくなってしまいます。
よりよい人生を送るための手段と考えてお金を使うことが、お金のめぐりをよくし、社会を豊かにするのです。
今はお金がなくて貧乏かもしれないが、いずれお金が入ってくるからしょぼしょぼするな。反対に今はお金があっても、いずれお金がなくなるときも来る。だから有頂天になったり驕ったりしなさんな。お金があっても謙虚に生きなさい──。
「金は天下の回りもの」とは、こんなことをいっているんだと思います。
50年間、業界でナンバー 1の業績をあげ続けた企業は、これまで世界に一社もありません。企業の浮き沈みは激しいものです。
今はランキングで下のほうにいる中国やインドなどの新興メーカーが 10年後、 20年後にトップになっている可能性だってなくはないでしょう。
お金は人や企業の間を血液のように回り続け、そのときどきで、ある企業や人のところに多く流れ込んだり、少なく流れたりするわけです。
巨視的に眺めると、お金は個人や企業の所有物であると同時に、社会全体の共有物という性格を持っています。
自由な資本主義社会であってもそうです。そうした面にこそ、お金の本質はあるのでしょう。「お金は追いかけると逃げていく」ものです。
これは体験から学んだ私の商売哲学でもあります。いつも損得の計算をしてお金に執着すると、他を考える余裕はなくなります。
貯めることばかりで、社会に還元するなど他人のために使うという発想は生まれません。そうなると、人は次第に離れていきます。
人間とは不思議なもので、お金が嫌いな人はめったにいませんが、いつも「お金、お金」といっている人には、お金はあまり近寄りたくない。
一方で、「金は天下の回りもの」を体現して、人のため、社会のために使っている人にはお金が近づきたくなるし、応援したくもなるはずです。
かつて近江商人が説いた「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の「三方よし」の哲学は、実に理に適ったことをいっているのです。
ことほどさように、お金は特定の人間や企業に偏りすぎず、万遍なく行き渡ったほうが健全といえます。
皆でよりよい社会を築くために、お金を気持ちよく回し合う。そのための工夫や努力を惜しまない。そんな感覚が、幸せな生き方につながっていくのだと思います。
自分を捨てたとき、人間の器は大きくなる
人間の器が広がる瞬間があるとすれば、それは自分を捨てるときではないかと思います。
もちろん、命まで捨ててしまうわけではありませんが、それくらいの覚悟を持って何事かにあたるという意味での「捨てる」です。
私が人生において自分を捨てるという本気の覚悟をしたのは、伊藤忠商事の社長に就任した際です。
当時、私は自分が社長になるとは思っていなかったし、またなりたいとも思っていませんでした。
ところが、そのときの社長から、存亡の危機にあった会社を君が先頭に立って立て直してほしいと白羽の矢が立ったのです。
社長になることの重い意味がわかっていた私は、いったん返事を留保させてもらいました。
理由は2つあり、一つは、私がもっとも信頼を置いている財界の大先輩に相談をしたかったからです。
もう一つは、社長になるには何よりも自分を捨てる覚悟を決めなくてはいけなかったからです。そのための心の準備が必要でした。
就任時の私の最大の役目は、バブルの後遺症で巨額の不良資産を抱え、大幅な赤字に転落していた会社を再建することでした。
そのための最初の大仕事が、社内外の多くの反対を押し切り、 3950億円という途方もない不良資産を一気に処理する決断だったのです。
最終的な決断ができたのは、自分を捨てられたからだと思います。
もし、どこかに私情や欲が絡んでいれば、私は別の途、周囲の多くの意見に従って少しずつ不良資産を処理するという平穏なやり方をとっていたと思います。
しかし、この選択をしていたら、おそらく利益はいつまでも不良資産に吸い取られ、給料は増やせず、新規事業への投資もできず、株主への配当もできなかったはずです。
そして、会社は縮小を余儀なくされ、もっとも貴重な多くの社員まで手放さざるをえなかったでしょう。
リーダーは常に部下のことを第一に考えなくてはいけません。自分のことは最後の最後でいいのです。ゆえに真のリーダーは、いつでも自分を捨てる覚悟を持っている必要があります。
ならば自分を捨てると、どうなるのか? 自分を捨てれば、それまで見えなかったものが見えてきます。
客観的に状況や事態をつかみ、その上で全体にとってよりよい方向へ向かうべく正しい行動がとれます。私情を挟んだり、欲目でものを見ないからです。
いつも自分の利を優先的に考え、行動をするリーダーであれば、その組織には早晩、必ず綻びが出てくるはずです。
リーダーという立場にいなくても、人は長い人生の中で自分を捨てなくてはならないほどの決断を迫られるときがあるものです。
そのとき、自分にとらわれるあまり、何もできない人もいるでしょう。いざというときに、自分を捨てる覚悟をする。それには仕事や組織に対するふだんからの愛情が要ります。
たとえば、常日頃から他人の問題を自分ごととしてとらえ、人のため、社会のためという意識を持って行動する。
そうしたことが、ここぞというときに自分を捨てる覚悟をつくるのだと思います。
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