人間の品性下重暁子
人間の品性目次臈たけたひと一「臈たけたひと」がいなくなった二九條武子と柳原白蓮三ものがたりのある人四大人の遊びを愉しむ人五老いても色気を失わない人洗練の作法六身だしなみについて七さまになる正装について八群れない生き方について大人の流儀九大人の遊び方について十新しいものについて十一管理されない生き方について恋というもの十二初めてに意味はない十三それは恋でも愛でもない十四忘れられない恋愛十五なぜ忘れられないのか十六終わりと再会十七恋愛と結婚は違う十八引き寄せる力おわりに
臈たけたひと
一「臈たけたひと」がいなくなった「紫の君は十八歳になり、匂やかに影ふかい、臈たけた若妻になった」田辺聖子『新源氏物語』「女の白い顔と、細身の臈たけた立ち姿が、胸に喰いこんでくるようだった」藤沢周平『隠し剣孤影抄』文学作品によく登場する「臈たけた」という表現が好きだ。かつては書き言葉だけでなく話し言葉として使われてもいた。しかし今はどうだろう。若い人との間では意味も伝わらず、使わないから当然の事として、死語に近い。なぜ使わなくなったか。「臈たけた」そのものがなくなってしまったからだ。もともと世阿弥の『風姿花伝』などでは、男にも使われたそうだが、その後はほとんど女性を表現する言葉として定着したようだ。臈たけた女と言っただけで、私にはイメージが即座に浮ぶ。広辞苑には「洗練されて上品である」とあり、他の辞書にも必ず品がいいという解釈が出てくる。しかし品がいいというだけでは駄目なのだ。紫の上にしても「匂やかに影ふかい」という部分が大切である。「影ふかい」という所に意味がある。美しく品がいいだけではなく、どこかに愁いがある。その愁いとは何か。心の奥底にある影、哀しみといったものが、いっそうその美しさを際立たせる。「細身の臈たけた立ち姿……」という藤沢周平の表現にも、淋しげな表情が見える。「臈たけた」には、実に奥深い人生を物語る雰囲気があるのだ。それが魅力で多くの文学作品にも登場したのだろうか。確かに存在したものが、現代にあってはほとんど姿を消している。「ものがたり」を持つひと映画やテレビで見かける女優さん達にも臈たけた女を見かけない。みな、はっきり、くっきりした輪郭で、一目見ればすべてがわかってしまうようで、奥深いものを感じさせない。仄かな、あえかな匂やかな、そんなものもなく、たいへんわかりやすい。「臈たけた」とはそうした表面的なものに加味されたものがなければならない。正月番組の「徹子の部屋」のゲストに佐久間良子さんが出ていた。雰囲気や話し方など仕種の一つ一つに今の女優さんにはないものがある。かつては雰囲気のある女がもっと多かった気がする。先日亡くなった八千草薫さんなども「臈たけた」に近いものを漂わせていた。「臈たけた」とは、その人の積み重ねた人生が滲み出てくるようなものでなければならない。紫の上は十八歳とはいいながら、幼くして祖母の許に身を寄せていた身寄りのない心もとなさが影になっている。源氏の君の愛を一身に集めながら、他の多くの女性達との情事を黙認しなければならない。心の底の葛藤も影になる。藤沢周平の描く白い顔と細身の臈たけた立姿からは「ものがたり」を持つ女が匂い立ってくる。臈たけた女には、心に秘めたものがあり、そんな自分との葛藤がある。ただほんわかと優しいだけではない。勁さがなければ品位として成立するはずがない。きりっとした生き方、毅然とした姿勢、自分で自分を律することが出来ねばならぬ。なよなよと人に頼る風情はむしろ臈たけたとは縁遠い。耐える所は耐え、待つ時は待ち、じっと貯め込んだ情熱をある時は爆発させて、自分の人生を作っていく……決して受身ではない女性。古めかしいといわれるかもしれないが、かつて女達が社会の規範にしばられて自由に生きられなかった頃にこそ、臈たけた女性が多く存在したような気がする。何事も思うがままに発言し、行動し、明るい太陽の下で健康に育っていては、臈たけた女は育たない。谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』は日本の美意識を掘り下げた随筆だが、そんな光と影の織りなす中でこそ、臈たけた女も相応しかったであろう。隅々まで光の届いた現代の生活の中では、臈たけた女など幽霊のごとき存在かもしれない。いなくなったからこそ、少なくなったからこそ、私は臈たけた女性に恋い焦がれる。
二九條武子と柳原白蓮身をかばっていては恋はできない私の母は生前、臈たけた女として九條武子と柳原白蓮をあげていた。共に、明治~昭和に生きた佳人であり歌人であった。二人は貴族であったり、やんごとなき血筋につながる女ではないか、といわれそうだが、そうした家柄だけに家と家との結婚に翻弄され、無理やり金持ちの年の離れた夫と結婚させられるケースも多かった。彼女達は教育も受けており、自己表現として短歌の道も究めていた。金のために九州の炭鉱王と結婚し、生活に不自由はないものの会話も成立たぬ夫との間で、耐える暮しを強いられるが、別荘を訪れた大学生と恋に落ち、出奔し、世間から後ろ指をさされつつ、新聞紙上に手記を載せ、多くの反対を押し切って恋を成就させた柳原白蓮。林真理子著『白蓮れんれん』にも詳しいが、世論に負けない強い情熱と行動力を持っていた。九條武子にも恋人はいたが、後に社会運動家としても生きた。恋は反対があればあるだけ燃え上る。江戸時代、死罪になる姦通罪があったからこそ、道行きや心中が流行した。タブーがあればあるほど恋の火がつくが早いか燃え広がり、命を懸けるしか方法がない。「男も女も恋といふもの命を庇ひ、身を庇うてなるものか」とは、近松門左衛門の『娥歌かるた』に出てくる江島生島事件に材をとった作品で、私が大好きな言葉である。身をかばっていては恋など出来ない。恋とは命を懸けてするものだという言葉に感銘を受ける。それがわかっていながら出来なかった身としては……。「臈たけた」とは、そんな修羅場をくぐりぬけても毅然として自分の生き方を貫いた人だけが身につけられるものかもしれない。恋だけとは限らない。人生の大事に自分の人生を懸けて立ち向うことが出来るかどうか。そこをくぐりぬけてこその美しさではないか。美智子上皇后に受け継がれた正田富美子さんの姿勢近い所でいえば、美智子上皇后の母上、正田富美子さんなど、私から見て臈たけた女だったと思うのだ。美智子上皇后の名を上げる人もいるだろうが、私は母上、富美子さんの方がさらに「臈たけた」という言葉にぴったりの存在だと思う。娘が民間で初めて宮中に入り、尋常ではない苦労を見聞きするにつれ、その心中はいかばかりだったか。しかし決して母の許に来る事を許さず、遠くから見守り毅然として憐憫の情を断ち切る勁さを持っていた。すっくと立った優しさを奥に秘めたその立姿の美しかったこと、かつて正田家のあった建物を保存する事を望まれなかった美智子上皇后にもその姿勢は受け継がれている。外に向って自己主張ばかりして、秘めた誇りを失った見苦しさを反省しながら、今や死語となりつつある「臈たけた女」に学びたい。そして再びその表現を取りもどしたいと思うのだ。言葉がもどれば、「臈たけた女」が生きかえるかもしれないではないか。横浜本牧の原三溪の邸であった三溪園に隣りあう隣花苑という女だけでやっている料亭がある。由緒ある古い建物には冷房は無く、昔のままの雨戸とガラス戸があり、雨の音も風の音も自然のままに入り込んでくる。秋の昏れに訪れた時、初めは遠雷だった。闇が深くなり、心のこもった料理が進むにつれて、雷鳴が近くなり、やがて落雷と思えるほど激しく雨に包まれた。秋草が風になびく。衿元をまっすぐに開けた着物の着こなし。潔く粋な佇いの女将にふと臈たけた女を感じた。
三ものがたりのある人旧梨本宮家から李家へ「臈たけた女」に欠かせない条件として、私は「ものがたりのある人」をあげたい。ものがたりのない人は、どんなに美しくても臈たけた女たり得ない。思い出すのは、李方子(一九〇一~一九八九)さんだ。旧梨本宮家に生まれ、韓国最後の王朝となった李朝の、最後の当主となった李垠殿下に嫁がれた方だ。日韓関係は当時も今も難しい。だが、李家に嫁いだ身で韓国に帰化し、かの地で障害児教育に取り組んだ李方子さんを悪く言う韓国の人はいなかったという。その李方子さんがお住まいだったソウルの昌徳宮に、一度だけ伺ったことがある。私を可愛がって下さっていた恩師、暉峻康隆・早稲田大学教授の一行と共に、韓国を旅した時のことだ。郡司正勝・早稲田大学教授もいらした。民俗学の分野からも歌舞音曲を研究されていた郡司先生のおかげで、各地で様々な楽曲や踊りを一緒に見せてもらった。童謡歌手として幼い頃から活躍されていた、小鳩くるみさんもいた。暉峻先生とNHKの川柳の番組の司会をしたのが縁で、一行に加わってくれていたのだ。彼女はその系譜には永井荷風もいるような、学者の家に生まれた人で、のちに自身ロンドン大学に学び、目白大学の教授になったが、当時はまだ時折、舞台に立っていた。その頃、ソウル市内で一番有名だったチマチョゴリの店に行って、二人して美しいチマチョゴリを作ってもらったのだが、くるみさんは白地に花や鳥が飛んでいるものを、舞台でも使えると言って、あつらえていた。私は、上は濃い紫で、下は淡い紫の、それはそれは美しいチマチョゴリを作ってもらった。残念ながら着て行く場所がないのだが、今でも大事にとってある。一九八〇年頃のことである。訪韓する日本人が、まだそれほどいなかったからだろうか。私達一行は、李方子さんから昌徳宮にお招き頂いたのだ。昌徳宮、といっても宮殿にお住まいだったわけではない。大豪邸でもない。昌徳宮の敷地の中にある、伝統的ではあるが、こぢんまりとした、さりげない佇いの建物に起居していらっしゃった。お仕えしている方々も少人数だった。あの時が一番幸せだった初めてお目にかかった李方子さんは、激動の半生を過ごされた激しさを見せることなく、気品ある、それでいてあたたかみを感じさせる方だった。もう相当のお年であったが、まさに臈たけた風情であった。地味な洋服姿の李方子さんと共に、韓国伝統のお茶菓子などをご一緒し、日本の童謡を小鳩さんが何曲も歌って差し上げた。それに、じっと聞き入っておられた。今のように、外国でもNHKが衛星放送で見られたり、テレビ電話やラインなどで互いに気軽に連絡出来るような時代ではなかった。ましてや韓国では、日本のドラマや映画、歌謡曲などが厳しく制限されていた時代が長かったのだ。おそらく、日本語そのものを耳にされる機会も少なかったのではないか。だとしたら、お招き頂いたのも、何となく判る気がする。戦前、日本の陸軍に配属された李垠殿下と共に、李方子さんは宇都宮第十四師団の師団司令部におられたことがあり、陸軍将校として同じ頃、私の父が宇都宮に転勤していたため、将校婦人会に入っていた母は、李方子さんと一緒に撮った集合写真を持っていた。私もそれを母に見せてもらったことがあったので、そのことを軽い気持ちでお話しすると、「まあ!宇都宮……。懐かしいですわ。あの時が、一番幸せだったの……」と、ことのほか喜んで下さった。まさかそんなに宇都宮に思い出がおありとは夢にも思わなかったので、残念ながらその写真を持参してはいなかったのだが、考えてみれば確かに、まだ戦況が激しくなかったその頃が、一番幸せな時代でいらしたのだろう。私が生れたのも宇都宮である。やがて戦況は悪化し、敗戦。戦後、お二人は日本とは国交のない韓国に戻ることもできず、日本で苦しい生活が続いたという。やがて勃発した朝鮮戦争が三年続いた後になっても、日本と韓国の間にはなかなか国交が回復しなかった。ようやく国交正常化の交渉が始まった一九六三年、夫妻で韓国人として帰国が許される。だが、七〇年に李垠殿下は亡くなられた。私は李家に嫁いだ人間ですその後は、韓国人の中に一人、取り残されたことになる。韓国では、今でも日本への恨みは根深い。その地のただなかに、一人置いていかれたのだ。皆に慕われたといっても、仕えている人でさえ、本当のところでは何を考えているのかわからないということもあっただろう。けれども「私は李家に嫁いだ人間です」と、毅然として一生を終えられた。その誇り、矜持が、優しさの中にも感じられた。終始、偉ぶらない、高ぶらない、優し気な方だったが、どこか凜とした勁さがおありだった。それは長い人生から滲み出たものだと思う。李殿下との結婚は、政略結婚であり、戦前の日本の帝国主義の結果、犠牲ともいえるものであったが、夫婦仲はよかったという。どれぐらいお邪魔していたのだろうか。一時間やそこらではなかった。「せっかく来て下さったのだから」と、幾度かお引止め頂いた。ようやく私たちが帰る時は、玄関まで出て、わざわざ見送って下さった。その時の、どこか寂しそうなお姿が、今も忘れられない。李方子さんは一九八九年に亡くなられた。享年八十七。最後の朝鮮王朝皇太子妃として、韓国では準国葬で見送られたという。
四大人の遊びを愉しむ人誤解された「女子大生亡国論」李方子さんにお目にかかった韓国への旅をご一緒した、早稲田大学の暉峻康隆教授は、近世文学、特に井原西鶴が専門で、芭蕉や蕪村など俳諧に詳しく、NHKの「お達者文芸」の選者なども務められていた。一般には「女子大生亡国論」の方で知られているかもしれない。先生は誤解されていた。女に高度な教育は必要ないというものではなく、女子大生がせっかく学んだのに、すぐに嫁に行って、身につけた教養や知性を社会に還元しないというのは何事か、というものだったのだ。だから、私のように働いている教え子には終始優しい方だった。私の他にも、ノンフィクション作家である澤地久枝さんのことも大事にしていらしたし、実践女子専門学校時代の教え子には、脚本家で直木賞作家でもある向田邦子さんもいた。私はさておき、そうそうたるメンバーであることからして、先生の師としての力量が窺えるし、少なくとも女子大生を受け入れないような狭量な方では決してなかった。「女子大生亡国論」で進歩的女性の標的だった頃、作られた句がある。「秋風や獣のごとく傷なめむ」俳号を桐雨という。贈られた著書にさりげなく書かれていた。王羲之の蘭亭で先生はいつも酒の席にいらした。暉峻先生といえば酒、だった。先生とはその後も、いくつかの旅をご一緒した。大体十人前後の一行になったが、「酒」の編集長だった佐々木久子さんなどもいた。楽しいメンバーだった。毎回、旅のテーマは暉峻先生が決めていたのだが、中でも「江南の春を訪ねて」という旅があって、深く印象に残っている。春の季節に、紹興酒で知られる紹興や、水の都と呼ばれる蘇州、きれいな湖があり、美女・西施がいたとされる無錫、山水画そのままの風景が連なる桂林にまで足をのばした。思い出深いのは、旅の終わりに訪れた紹興、王羲之の蘭亭での曲水の宴である。書聖として知られる王羲之(三〇三~三六一)は、役人として紹興に赴任していたことがあった。その赴任時に王羲之が『蘭亭序』を書いたという、蘭亭を訪ねたのだ。竹林にかこまれた小道の奥に、鵞池という石碑があった。王羲之の書が彫られている。王羲之は、なぜだか鵞鳥を好み、幾羽も飼っていたのだという。奥の開けた庭にある池に、その時も鵞鳥が何羽か、ゆうゆうと泳いでいた。暉峻先生が「ここで曲水の宴をやろう」と言い出した。ゆるやかな水の流れは、あちこちの岩場でたゆたってはまた流れていく。その水面に、翼のついた盃を浮かべ、酒をそそぐ。岸辺のあちこちに一人ずつ佇んで、盃が流れてくるまでに句を詠むのだ。それも前の人の句をうけて、続けねばならない。本来は短歌でやるものだが、その時は連句だった。盃はそこに売っていた。石で出来ていたが、非常に軽くて、翼がついているから、コツンと岩にぶつかっても沈まない。水はゆっくりとした流れだが、人の句をうけて詠むのだから大変に難しい。酒を飲みながら、みなで五七五・七七、五七五・七七とつなげていく。暉峻先生はことのほかお喜びだった。古代中国で始まった曲水の宴は、奈良時代から平安時代にかけての日本でも、貴族の間で盛んに行われていた。王羲之の代表作である『蘭亭序』は、王羲之が蘭亭で行った曲水の宴で歌われた詩編の、序文として書かれたものだ。風雅の極みとでもいうべき遊びの、いわば本場、本家本元での曲水の宴だったわけだ。連句への招待私が大学に入学した年の、夏休みを間近にひかえた大教室で、暉峻先生が「芭蕉のふるさとである伊賀上野へ、大学院生を連れて行くので、ついては学部生も来たい人は申し出るように」。私はあまりよい学生ではなかったが、「行こうよ。芭蕉の生家や忍者の里に行ってみたい!」という、活発な友達に誘われて、わけもわからないままに五人ほどでついて行ったことがあった。それまでは、詩は好きだったが、格別に俳句や芭蕉についての興味はなかった。そんな学生の一人を、先生が覚えていて下さったというわけではない。卒業して働きだしてから、後に旅仲間となった佐々木久子編集長の雑誌「酒」で、「酒」と「恋」の入った連句を作るという企画に、常連の暉峻先生の御指名で呼んで頂いた。それはそれは難しかったけれど、おしゃべりの楽しい席で、市ヶ谷にあった料亭「弥生」での連句会に何度も参加した。弥生はその後、神楽坂に場所を移したが、当時は二階は座敷になっていて、そこに上がってしまうと誰も来ないような、静かな場所だった。夜の更けるのも忘れ楽しんだが、弥生の転居によって回数が減っていった。そうした、いわば大人の愉しみを教えて頂いた暉峻先生には本当に感謝している。枯れるような最期暉峻先生は鹿児島の浄土真宗金剛寺の跡継ぎだったのだが、出奔して、近世文学の研究者の道を歩まれた。真山青果の助手として井原西鶴を研究し、やがてその道の第一人者となられた。実は芭蕉よりも蕪村を好まれていたように私は思う。亡くなられたのは二〇〇一年の春のことだ。九十三歳だったが、亡くなる直前まで、私たちと酒を吞んだり、句会を愉しまれていた。まだ肌寒さの残る早春の頃、吟行に出かけて風邪をひき、そのまま自宅で寝つかれてしまったのだ。自分の最期だと覚悟されたのだろう。それから一切、ものを口にせず、時折水だけを飲まれて、枯れるように亡くなられた。あれだけ好きだった酒も、とうとう一滴も口にされなかったという。静かな、まさに自然死と呼ぶにふさわしいものだった。
そしてそれは、先生が出奔したふるさとの寺で、先生ご自身のお父様が亡くなられた際とまったく同じ最期だったと、看取られた先生のお嬢さまに伺った。お嬢さまにお悔やみを申し上げて、先生のお宅をあとにする際、ふと柱にかかった帽子に目がとまった。それはいつも酒の席でご馳走になるお礼として、澤地久枝さんが代表して贈られたものだった。広尾の平田暁夫さんの店であがなったもので、型崩れしないように、大事に飾ってあった。おしゃれな先生によく似合う、黒一色の粋な帽子だった。私は静かに、暇を告げた。
五老いても色気を失わない人宝石がついたアクセサリーの類は、昔から好きではないので、つけない。宝石は見るのは好きだし、きれいだとも思うが、自分が身につけても似合うとは思えないのだ。特に大粒のものは似合わない。昔からそう思っているので、自然、身につけない。アクセサリーをくれるような男も嫌いだ。若い頃にもらっても、「私、こんなもの、つけません」と突っ返していただろう。シンプルで、意味のあるものしか手元に置いておきたくない。持っているのは母がくれた真珠の首飾りや、私が五月生まれなので、私のためにと母が買ってくれたエメラルドの指輪ぐらいだ。だが、一つだけ、大事にしているダイヤの首飾りがある。『純愛エセルと陸奥廣吉』という本を書いた時に、陸奥陽之助さんに頂いたものだ。明治の元勲・陸奥宗光の嫡孫で、旧伯爵家の跡継ぎだった方だ。手紙だけで培った愛陸奥宗光の長男で、外交官だった陸奥廣吉(一八六九~一九四二)には、知り合ってから実に二十年近い歳月を経て結ばれた、イギリス人の妻・エセルがいた。エセルは、廣吉が留学したケンブリッジで世話になった由緒ある家の娘であり、廣吉よりも一つ年上だった。驚くべきことにこの二人は、廣吉が帰国して離れ離れになった後も、膨大な手紙のやりとりだけで互いの愛を確かめあっていたのだ。父親で外務大臣であった陸奥宗光の反対(当時は外交官は外国人と結婚出来なかった)や、新興国日本に馴染めないイギリスの旧家の反対で、船便だと片道二ヶ月、往復四ヶ月かかる、会うこともままならない状況の中、二人は信じあい、結ばれる日をひたすらに待ち続けて、宗光の死後、恋を実らせたのである。愛というより意志と呼ぶ方がふさわしい。二人の間に生まれたのが長男の陽之助さんである。私が執筆した当時、陽之助さんはUP通信、同盟通信の記者を経て、インタナシヨナル映画株式会社代表取締役を務めていらした。陽之助さんの亡くなられた奥様が、私のNHKアナウンサー時代の先輩、本田寿賀さんだった御縁で、陸奥廣吉の五十年にわたる日記をお借り出来たのだ。残念ながら廣吉がエセルに宛てたという手紙は残っていなかったのだが、二人のひたむきな愛は、エセルが鎌倉で亡くなるまで続いていたことが、廣吉の日記に丹念に英語で記されていた。この二人の愛の顚末を描いた『純愛エセルと陸奥廣吉』(講談社)を、陽之助さんは大変喜んでくれた。そしてお礼にと、鹿鳴館の頃接客に使われた銀のカトラリーセットと共に、小粒のダイヤをちりばめた首飾りを下さったのである。伯爵家のダイヤの首飾りそれは陸奥宗光の後妻で、鹿鳴館の華とうたわれた亮子夫人が実際につけていたという首飾りだった。ダイヤの首飾りといっても、シンプルで品のよい小粒のダイヤをちりばめた、さりげないものだ。廣吉を産んだ前妻の蓮子も美しかっただろうが、新橋の一流の芸妓であった亮子夫人は、鹿鳴館のみならず、宗光が赴任したワシントンでも才色兼備として知られた人である。そんな大事なものをと固辞しようとしたが、「亡き父も母も、きっと喜んでくれていることでしょうから」と陽之助さんが仰って下さったので、ありがたく頂くことにした。もててもてて、身がもたない陸奥宗光の嫡孫にあたる陽之助さんは、外交官だった廣吉が当時赴任していたイギリスで生まれ、その後日本へ戻ったのだが、外見はまったく白人にしか見えなかった。廣吉も背の高い美男、エセルもブロンドにブルーの瞳の美女、その子供であるから実に魅力的だった。若い頃はもててもてて、身がもたなかったというが、さもありなんという風情は年をとっても失われなかった。八十どころか九十を過ぎても、頭は明快、話題は豊富、見た目はイギリス紳士でおしゃれだから、一緒に食事などしていると、ときめくものがあった。色気があって、どこへ行っても女性から大人気。陽之助さんが行きつけだったホテルオークラのフロントやレストランの女性でさえ「陸奥さま、陸奥さま」と特別扱いだった。血を受けた者の責任と誇り取材のため、一緒に旧古河庭園を訪ねたのは、陽之助さんが八十七歳の時だ。一万坪近い敷地に、薔薇の咲き乱れる庭園や、都の文化財に指定されているジョサイア・コンドル設計の建物がある旧古河庭園は、もとは陸奥宗光邸だった。宗光の次男が古河家に養子に入っていたのだ。陽之助さんは、現在の建物に建て直される前は、和洋折衷の館があり、温室もあって、そこで苺をとって食べたのだと教えてくれた。「ここに立つと哀しいですね。時計が逆戻りしたような気分です」と、庭に出た陽之助さんが呟いた。「父は私が子供の頃いつも言っていました。お前のお祖父さんは立派な人だ、自分は体が弱かったから、お前がその跡を継がなきゃいけない、と。私が生まれた時は、祖父は亡くなっていましたから、会ったことも見たこともない人ですし、こわくて、プレッシャーもありましたよ。この地に立つと、やはり血を受けた者としての責任と誇りは感じます。父の言うようにいかなかったことを怒られるでしょうし、申し訳ない気がします」背の高い陽之助さんは、少し背をかがめて橋をわたった。冬の陽が早くも木立の向うに隠れて、冷たい風が吹きつけていた。九十歳過ぎての結婚陽之助さんはその後九十二歳で、三十歳近く年下の、六十三歳の女性と結婚された。新聞社の出版局で、陸奥宗光関係の本を作っていた編集者、聖心女子大を出ていて英語はお手の物の才媛だった。自分の亡きあとの宗光関係の資料保存を懸念されていた陽之助さんにとってピッタリのお相手だった。何よりも、お祝いの食事の席で、夫人が陽之助さんを気遣う様子は、実にさりげなく、また陽之助さんも心から嬉しそうな様子だった。「いっそ結婚しよう」と言い出したのも陽之助さんの方からだったという。その潔さにも感服するが、それを受けた女性の側にも勇気がいったことだろう。世の中はいろいろとかまびすしい。陸奥宗光の孫で、かつての伯爵家ときけば噂の種にもなる。陽之助さんは若い頃から数えると、三回目か四回目の結婚だったし、外国にも息子がいた。だが、陽之助さんなら納得である。九十二歳でも十分に魅力的だっ
たし、若い頃の遊びの片鱗も感じられ、不良性も失ってはいなかった。どこか不良の匂いがする男の、なんと魅力的なことか。結婚後、前の奥様の時からのお手伝いさんは来づらくなったという。「彼女も女ですから」という陽之助さんの言葉の端には、ずっと女性にもててきた男性ならではのニュアンスがあった。その後、九十五歳で惜しくも亡くなられたのだが、入院していた病院では、最後まで「陸奥さま、陸奥さま」と若い女性の看護師が会いに来て、その一人一人と握手をしていたと奥様に伺った。「陸奥さま」に頂いたダイヤの首飾りは、私のうちに大事にしまってある。
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