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第五章人格の形成

目次

Ⅰはじめに──「人格」の倫理学的研究の必要性について

1本章は、体系的な人格の哲学(1)の一環として、「人格」概念を倫理学の観点から考察しようとする試みである。

このような試みにたいしては、そもそも「人格」ないし「人格性」は倫理学的概念であって(2)、「人格の哲学」は「人格の倫理学」と実質的に同じものであるから、人格の哲学の構築にさいして、とくに「人格」概念を倫理学の観点から考察する必要はない、という反論が提起されるかもしれない。

たしかに「人格の同一性(3)」が論じられる場合の心理学的「人格」概念、あるいは法学の分野における「人格」概念を別にすれば、われわれの間で「人格」という言葉が用いられるのはほとんど常に道徳的ないし倫理学的な意味、ないし枠組においてであるから(4)、このような反論はごく自然なものと言える。

この反論にたいする私の応答は、第一に「人格」概念の考察を近代哲学だけに限った場合には、「人格」の哲学的概念は倫理学的概念と同一視されるかもしれないが、それ以前の「人格」概念の長い歴史(5)を視野に入れた場合には、形而上学ないし存在論的な「人格」概念の重要性を無視できないので、「人格」概念の倫理学的側面をそれとは別に取り扱う必要がある、というものである。

しかし、第二のそれよりも重要な理由は、近代哲学において倫理学的「人格」概念が中心的位置を占めてきたにもかかわらず、人格をめぐる倫理学的研究に関してはまだ考察すべき重要な問題が多く残っている、ということである。

2たとえば、絶対的価値の担い手である「人格の尊厳」は強調されるが、そのように「尊厳」という価値を有する人格にふさわしい生き方や行為については、人格の尊厳をおとしめてはならないという義務ないし命令が説かれるにとどまって、そうした生き方、行為の在り方について積極的に、また詳細に説かれることは稀である(6)。

また、われわれのすべての行為の根底には何らかの意味での「愛」があると言えるが、われわれはどのように「人格」を愛することができるのか。

パスカルは「人はけっして人格を愛するのではなく、むしろただその性質を愛するのみだ(7)」という言葉を残しているが、このパスカルの言明にたいする明確で説得的な反論を、現実生活においてはもとより、倫理学の書物のなかにさえ見出すのは困難ではないか(8)。

また「人格の形成」は教育の理念としてほとんど極り文句になっており、その意味が問題になることはほとんどないが、あらためて「人格の形成」とは厳密にどのようなことであり、どのようにして実現されるのか、と問われると困惑する教育学者や倫理学者が多いのではないか。

「人格の形成」という表現がふくむ困難とは、もし「人格」が実体ないし自存するもの(subsistens)であり、「存在」であるならば、その「形成」をいかなる意味で語ることができるか、他方、もし「人格」とはいわゆる生の哲学や現象学の立場をとる多くの論者が主張するように、「存在」であるよりはむしろ達成されるべきもの、生成するものであるならば、形成されるべき人格は何らかの性質に還元されてしまうのではないか、というふうに要約できる(9)。

われわれは「人格の形成」という言葉のうちに様々のことを読みこんでいるが、それは「人格」概念の曖昧さのゆえに可能であるにすぎず、人格の倫理学に関して何らかの明確な主張が為されているとは言えない。

このように見てくると、人格の倫理学はこんにちなお、ほとんど未開拓の状態にあると言える。

本章では、人格の倫理学における二、三の重要な問題を考察し、体系的な人格の哲学の構築の試みを先に進めることにしたい。

Ⅱ人格と個人

1最初に、本章の「人格」理解の基礎であり、またこの後の議論の理解のためにも不可欠と思われる重要な区別について述べておきたい。

それは多くの場合看過されており、とくにわが国における人格をめぐる議論においては無視され、さらには斥けられることの多い区別である。

私が言いたいのは「人格」と「個人」ないし「個体」(individuum(ラ)、individual(英))とは明確に区別しなければならないということであり、この区別をすることなしには、「人格」の概念を適切に理解することはできない、ということである(10)。

このように「人格」と「個人」の区別の重要性を主張することにたいしては多くの反論が予想できる。

たとえば、これら二者の間の違いは単に言葉の問題であって、それらを区別することは「人格」理解に何ら寄与するものではない、という反論があろう(11)。

さらに、「人格」という言葉ないし概念は、神学的論争の長い、そしてこんにちでは無意味なものとなった歴史をひきずっており、哲学や倫理学のヴォキャブラリーから除いた方がよいという反論もありうるであろう。

たしかに実践の場面では、行為するこの特定の主体、つまり私を、「人格」と呼んでも、「個人」と呼んでも、その違いはとくに問題にはならないと思われる。

そこからさらに進んで、他の何者でもないこの私自身は「一」なる者であることを確認し、この「一」を意味するかぎりで「人格」および「個人」という言葉が用いられるのであれば(12)、「人格」と「個人」は実質的に同じものと解することができる。

しかし「個人」を存在論的「一」という広い意味においてではなく、「人間」あるいは「ヒト」「ホモ・サピエンス」という種に属する他のすべての人間から区別された「この人間」という意味に解した場合には(13)、そのような「個人」「個別者」の概念と「人格」の概念との間には重大な違いがあることを認めなければならない。

その場合、いかに「この人間」「個人」は、人間という種に属する他のすべての者から区別された、唯一の、かけがえのない存在である、と主張しても、そのことによって、「人格」の概念にふくまれている、人格に固有の価値を、「個人」に賦与することはできないのである(14)。

2人格に固有の価値(Wert)、すなわち何らかの等価物によって置き換えられるような価格(Preis)という価値ではなく、絶対的で内的な価値としての尊厳(15)(Würde,dignitas)は、けっして、個体性、すなわち同じ種に属する他のすべての個体から区別される唯一のものである、ということにもとづいては基礎づけられない。

いかに唯一であっても、個体は他のすべての個体と同一レベルに位置づけられており、他のすべての個体と共に全体を構成している部分にすぎない。

そして、そのような部分であるかぎり、いつでも他の(等価物である)部分によって置きかえられることができるのである。

このような「個体」観にたいしては、人間である個体は種という全体、あるいは社会という全体を構成する部分であっても、機械の部品とは違うから、簡単に他の個体によって置きかえられることはできない、と抗議されるかもしれない。

それはその通りであるが、この抗議が正当であるのは人間はたんに個体あるいは個人であるにとどまらない、という理由によるものである。

つまり、われわれがヒトあるいは人間について認めている「人格」としての尊厳は、個体性によっては基礎づけられない、というのがここでの私の論点であり、それはこの抗議によってはくつがえされない。

では個々の人間が唯一、独自のこの個的存在であることに加えて、「絶対的」とも言える価値を有する「人格」であるのはいかなる根拠にもとづいてであるか。

それは人間が精神的・霊的存在であることによってである(16)。

精神的・霊的存在である、ということは、知性的あるいは理性的本性を有すること、と言いかえることができる(17)。

人間の精神を「思考するもの」(rescogitans)として、「拡がりをもつもの」(resextensa)としての物体の領域から切り離すことは

できないが(18)、人間がその精神によって物体の領域を根元的に超え出ること(19)、そしてそのことによって人格としての価値を有する、ということは明確に理解する必要がある。

3「精神」および「理性的本性」という言葉によって表示されている対象あるいは実在を適切に理解するためには(つまり「精神」あるいは「理性的本性」の概念にその本来の意味を回復するためには)、実は、一種の知的「回心」(conversio)とも言うべき思考の転回ないし「飛躍」が必要とされるのである(20)。

たしかに、われわれは現実に精神として思考し、認識しているが、思考し・認識している精神それ自体、その本質ないし本性に立ち帰ること、つまり自己認識(21)を遂行することは容易ではなく、理論的に精神そのものの認識としての自己認識に到達する者は、哲学者の間ですらむしろ稀である(22)、と言わざるをえない。

アリストテレスは、「霊魂は或る意味ではあるものどものすべてである(23)」(animaestquodammodoomnia)と述べているが、われわれが人間の精神ないし理性的本性の本質に関して到達することのできる洞察は、アリストテレスがここで言明していること、すなわち、存在するもののすべて、あるいはすべての存在するものの第一の根源と合一しうる能力(capacitas)、として言いあらわすことができる(24)。

別の言い方をすると、精神はすべての存在するものの第一根源であり、すべての存在するものの究極目的であるところのもの(25)に直接的に秩序づけられている。

このようなすべての存在するものの第一根源であって究極目的であるものへの直接的な秩序づけ(26)が理性的本性と呼ばれるものの中核であり、本質なのである。

そしてこの直接的な秩序づけが、精神であり、理性的本性を有する人格を、何らかの全体を構成する「部分」であることにとどまらず、むしろ「全体」たらしめる(27)。

そして、そのように単なる「部分」ではなく、或る意味で「全体」であることが、人格に固有の価値、すなわち人格の尊厳を客観的に基礎づけるのである。

4ここで「すべての存在するものの第一根源であって究極目的であるもの」とは、すべての人が「神」と呼んでいる存在である(28)。

私はこのような「神」の理解は、およそ理性を働かせて思考し、認識を行うすべての人のうちに、すくなくとも一般的で、漠然とした仕方で見出されると考えているが、その問題にここで立ち入る必要はない。

ここで確認しなければならないのは、「人格」概念を理解するためには──このことを「人格」の経験(29)が成立するためには、と言い換えてもよい──さきに「知的回心」と呼んだ、人間が精神であり、理性的本性を有することの洞察が必要・不可欠である、ということである。

個人の唯一・独自の存在としてのかけがえのない価値について語る人々が、実際に理解しているのは、実は人間が精神であること、理性的本性を有することであるのかもしれない(30)。

そうであるとすれば、「個人」と「人格」の本来的な、正しい意味を再発見して、それらの間の決定的な違いを確認し、尊重するべきである。

つまり「個人」と「人格」という言葉を使いわけなければならない。

人格をめぐる実りある討論はそこから始まることができる。

Ⅲ「交わり」としての人格

1人格を人格たらしめるのは、ひとりの人間が他のすべての個的存在、とりわけ人間という種に属する他のすべての個人から区別された、この個的存在、個人であるということではなくて、個々の人間が精神であり、理性的本性を有することである、という「人格」理解は、人格についての極めて重要な洞察への道を開く。

それは、人格は交わり(communicatio,communio)において存在し、生きる存在である、という洞察である。

さきに、人格はたんに何らかの全体(論理学的、生物学的あるいは社会的全体)の部分ではなく、それ自体、何らかの、しかし真実の意味で(単に比喩的ではなく)「全体」であることを強調した。

人格が「全体」であることは、その精神的・理性的能力(認識と意志)が、あれこれの特殊的なもの(particulare)ではなく、すべての存在するものをふくむ全的(31)なもの(universale)、つまり全的存在(ensuniversale)や全的善(bonumuniversale)を対象とすることに対応する(32)。

そのような「全的なもの」とは無限に多数のものによって共有されうるものであり(33)、ここからして人格の交わりの可能性が帰結する。

人格は「全的なもの」に関わるその固有の働きにおいて、自らを無限な交わりへと開くのである(34)。

われわれは通常交わり(communication)を「伝達」「通信」などの意味に解しているが、その本来の意味は、何かを共にすること、とりわけ真実に価値あるものの共有、わかち合いである(35)。

そして真の厳密な意味でわれわれが共有できる価値あるもの、他者とわかち合い、共に享受することのできる価値あるものとは、物質的な価値あるもの、たとえば金銭、土地やその他の財産、あるいは様々の快適で役に立つもの、たとえば才能、性質、名声……(36)などではなく、精神的価値としての真理、善、美、そして最終的にはわれわれ自身の存在である(37)。

そして、人格が交わりにおいて存在し、生きる存在であるのは、人格が人格として営む固有の働き、すなわち知的で精神的な認識と愛が、無限に共有されることの可能な精神的な価値を対象とするものであることによる。

人間は生物としては、この目に見える自然界に環境との関わりのなかで生きているが、人格としては精神的な価値を共同で探究し、わかち合い、共有する交わりの世界で生きているのである(38)。

2人格が交わりにおいて存在し、生きる存在であると言うことは、人格は根本的に社会的あるいは共同体的な存在である、と言うことに等しい。

そして実際に交わりにおいて在ることは社会において在ることにほかならない。

しかし、現実の人間社会において個々の人間の権利や利害はしばしば社会全体(とくに政治社会ないし国家)の福祉や利害と対立し、そのため個々の人間が人格としての生き方を実現することが困難になることは否定できない(39)。

この問題はあらためて人格の形成の問題として考察しなければならないが、ここでは社会を構成する個々の人間が人格として追求する善、すなわち人格に対応する善は、個人に固有の私的善ではなく、すべての人格が共同的に追求し、またすべての人格に還流される善、その意味ですべての人格によって共有される善としての共通善(40)(bonumcommune)であることを強調したい。

人格が追求する善は、本来的に言って共通善である、という真理は、こんにちわれわれが「人格とは何か」という問いを探究するさいに第一に確認すべき真理である。

人格は人格であるかぎり共通善を追求すべきである、ということにとどまらず、人格が人格であるかぎり自然本性的にそれの追求へと傾かしめられる善、それが共通善である(41)。

そして人間は生まれながらに社会的動物である(42)、というアリストテレスの言葉は、根本的に、人間は人格として共通善を追求する存在である、という真理にもとづいて解釈すべきである(43)。

3交わりにおいて存在し、生きる存在としての人格、あるいは存在することがそのまま交わりである人格について考えを進めてゆくと、われわれは最終的には神的なペルソナの神秘、つまり三つのペルソナにおいて一である神、という聖書の神、イエス・キリストの神──パスカルのいう「哲学者や知者の神(44)」ではなく──に行きつく。

神は最高に「一」なる神であるが、交わりを拒否する孤独な神ではなく、豊かな、生ける交わりの神であり、自らの知恵と愛といのちの交わりのなかにわれわれ人間を招き入れる神である、というのが聖書の教える神である。

かつて神はモーセにたいして自らを「在る者」として啓示したが(45)、その「存在そのもの」である神は、自らの存在をおしみなくわかち与え、万物を創造する愛の神であることは旧約においてすでにあきらかにされていた。

そして、そのような愛である神(46)は、イエス・キリストによって、御父なる神、御父から生まれる知恵と言葉である御子なる神、御父と御父から出てくる愛である聖霊なる神、という三つのペルソナの交わりにおいて「一」なる神であることが啓示された(47)。

三つのペルソナのそれぞれは関わり・関係(relatio)そのものであり(48)、神はまさしく知恵と愛の交わりであり、神においては存在はそのまま交わりなのである。

御父、御子、聖霊なる神はそれぞれ真実の神であるから、三者を合わせた全体がそのいずれかよりも大きいということはなく、この交わりにおいて

は各々のペルソナが真実に全体であり、そこには何の対立もない(49)。

これこそ、われわれが思いえがくことのできる最高の交わりであり、「社会」である、と言えるのではないか。

4神的ペルソナについて右に述べたことは、言うまでもなく信仰の神秘についての一つの理解の試みにすぎず、そこから交わりとしての人格についての哲学的理論を導き出すことはできない。

しかし、聖書が教えるように、人間が「神の像に向かって」(adimaginemDei)創造されたのであるなら(50)、人間はたしかに「三一なる神の像」(imagoTrinitatis)である、と言うことができる(51)。

人格とは何か、と問い、人格にふさわしい生き方を探究してゆくにあたって、「三一なる神の像」としての人間という神秘は、豊かなインスピレーションの泉となりうるのである。

Ⅳ人格の形成について

1人格の倫理学が取り扱うべき問題は、人格の尊厳を傷つけ、おとしめることのないように行為せよ、という義務あるいは命令の考察(52)のみに限定されるべきではないとしたら、第一に浮かび上がってくる問題は、より積極的に、人格の尊厳にふさわしい生き方、行為とはどのようなものか、ということであろう。

それは言いかえると、人格の尊厳がより明確に表現される生き方、あるいは人格の尊厳がより大きな輝きを見せるような生き方をめぐる問題である。

「人格の形成」は一般にそのような問題を指すものと言えるであろう。

「人格の形成」が人格と呼ばれる存在それ自体について語られ、人格そのものが生成すると見なされることの問題性についてはすでに指摘した。

人格の存在論的身分を「実体(53)」(substantia)あるいは「自存するもの(54)」(subsistens)と規定することに躊躇する者も、人格そのもの、あるいは「人格であること」の全体を生成ないし成長過程に還元できないことは認めるにちがいない。

人間はたしかに様々の意味で成長し、変化する存在であるが、人間であることの全体が生成・変化するのではない。

同じように、人格が人格として生きることを通じて何らかの意味で成長し、変化することは確かであるが、人格それ自体、つまり人格であることの全体が生成や変化の過程のうちにある、と言うことはできない。

人格の「存在」は、自らにおいて存在するという自存性(subsistentia)と、他者との関わりにおいて存在するという関係性(relatio)の統一であり(55)、完全に把握することは極めて困難であるが、根源的な意味で「存在するもの」であることは疑う余地がない。

したがって、人格の形成をめぐる問題は、人格が存在論的にそれで「ある」ところのものに、どのように行為を通じて「なる」べきか、また「なる」ことができるのか、という問題であると言うことができるであろう(56)。

2前述したように(57)、人格を人格として存在論的に成立させるのは理性的本性であるから、人格の形成、すなわち、人間が実践・行為を通じて、彼があるところのものにならねばならぬということは、何らかの仕方で理性的本性を実現し、完成することに関わる、と言えるであろう。

ところで、理性的本性の実現・完成とは人間の究極目的にほかならず(58)、人間をその究極目的へと導く道は徳(virtus)と呼ばれる善い習慣(habitus)なのであるから(59)、人格の形成の問題は徳の形成の問題として考察することが可能である。

そして実際に、人々が人格の形成について語るとき、多くの場合そこで理解されているのは人格の道徳的な完成、すなわち徳の形成にほかならないと思われる。

したがって、次の問題は、様々の人間的徳のうち、いずれの徳が人格の形成において中心的な位置を占めるか、ということである。

人格の形成は理性的本性の実現と完成を通じて達成されるものであるかぎり、或る意味ですべての人間的徳が関わってくるとも考えられる。

しかし、人格とは交わりにおける存在であり、人間を社会的・共同体的存在たらしめるものであることに注目するとき、人間を他者との関係・交わりにおいて善い者たらしめる徳としての正義(60)(justitia)が人格の形成において中心的な位置を占める、という見通しが浮かび上がってくる(61)。

3ここでわれわれは正義を道徳的感情あるいは道徳的義務ないし掟としてではなく、徳として考察していることを強調しておきたい。

たとえばカントの有名な実践的命法「汝の人格やほかのあらゆるひとの人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決してたんに手段としてのみ扱わないように行為せよ(62)」は、人格の尊厳に関するわれわれの道徳的義務を明確に規定しており、われわれが人格として行為するさいに守るべき正義の原則であると言えるが、徳としての正義を適切に言いあらわしているとは言えない。

正義の徳の古典的な定義はローマ法の「正義は各人にかれの権利を帰属させようとする不動にして恒久的な意志である(63)」(justitiaestconstansetperpetuavoluntasjussuumunicuiquetribuens)である。

ところで、この定義は「各人に彼のものを与える」という正義の根本とも言える行為を適切に言いあらわしているが、徳としての正義の定義としては不十分である。

この定義をトマスが『神学大全』のうちで試みているように、「正義はそれによって或る人が不動かつ恒久的な意志をもって各人にかれの権利を帰属させるところの習慣である(64)」と形式的に整えるだけでは、徳としての正義の本質をあきらかにしたとは言えない。

むしろ正義の徳の本質に迫るためには、トマス自身が『神学大全』のなかで徳としての正義を考察するさいにとっている方法が適当であると思われる。

それは、近代ではライプニッツ以後、哲学的な正義理論から姿を消してしまった(65)、徳の全体をふくむとの意味で一般的徳(virtusgeneralis)と呼ばれる正義の徳、すなわち一般的正義(justitiageneralis)を中心に置き、その基礎の上に正義理論を構築する方法である(66)。

キケロが『義務について』のなかで「人々が善い者と名づけられるのはとりわけ正義のゆえにである(67)」と述べ、さらに「正義において徳の光輝は最大である(68)」と言明するときの正義とは、徳の全体をふくむ一般的徳としての正義にほかならない。

4「各人に彼のものを帰属させる(69)」(reddereunicuiquequodsuumest)という正義の行為が厳格で、しかもなんびとにも容易に理解されうる仕方で実行されるのは、犯罪にたいして刑罰が科せられ、労働にたいして賃金が支払われる場合の、また一般に売買において守られるべき正義としての交換的正義(70)(justitiacommutativa)においてである。

この種の正義の特徴は、たとえば犯罪と刑罰の場合、あらかじめしかじかの犯罪にたいしてはかくかくの刑罰が科せられるべきことが規則ないし法によって定められており、当の規則ないし法を厳格かつ一様に適用することによって正義は実現される、というところに認められる。

極端な例をあげると、「目には目を、歯には歯を(71)」という同害刑法(lextalionis)は、目を傷つけられた者にたいしては報復として加害者の目を傷つける権利(それ以上でも以下でもなく)のみが認められており、その権利を行使することによって正義は実現されるのである(72)。

ところで、このような交換的正義はなんびとにも容易に「各人に彼のものを帰属させる」行為であることが理解されるところから、多くの場合正義の基本、時としては正義の徳そのものであるかのように受けとられている。

しかし、実際には交換的正義は正義の最も特殊化された形態であり、正義の徳の本質を示すものではない。

そのことは、たとえばしかじかの犯罪にたいしてはかくかくの刑罰が正義にかなっていると定めた規則ないし法について、その法は正しいのか、正しいとしたらどのような根拠にもとづいてか、と尋ねることで直ちにあきらかになる。

交換的正義は、交換的正義であるかぎり規則・法の厳格かつ一様な適用によって正義を実現することに専念し、法そのものが正義にかなうものであるかを問うことはしない。

しかし、そのことは規則ないし法が正義にかなうものであるか否かを問うことは不必要であるとか、無意味であることを意味するのではない。

むしろ、規則や法自体の正しさを考慮することなく、ただ規則と法の厳格な適用を正義そのものと見なすときには、「最高の正しさは極度の不正(73)」(summumjus,summainjuria)というキケロの有名な言葉が適中するような事態が起こりかねない

のである(74)。

では規則や法の正義についてはどう考えたらよいのか。

いったい「法の正義」、あるいは「正しい法」について語ることができるのか。

法が各人の「彼のもの」を確定するということは、政治社会全体に属するものを各人に配分することであり(75)、そのような配分は各人の価値を考慮して為されるべきであろう。

ところで、各人の価値は、多くの場合、当の政治社会において支配的な価値観にもとづいて確定される(76)。

このように、或る政治社会において支配的な価値観にもとづいて、各人の「彼のもの」を確定するところの規則ないし法の制定に関わるのが、もう一つの特殊的正義としての配分的正義(77)(justitiadistributiva)である。

ところで、配分的正義は、すでに規則や法によって確定された「彼のもの」を各人に公正に配分する行為に関わる正義であるかのように説明されることがあるが、それは誤解である。

むしろ、配分的正義に固有の働きは、各人に帰属させられるべき「彼のもの」を正しく確定する規則・法の制定である。

他方、このような規則・法の制定は何らかの価値観にもとづくものであるから、価値に関して主観主義ないし情緒主義の立場をとる論者は、配分的正義という正義をまったく認めないか、あるいは恣意にもとづく正義にすぎないと主張する(78)。

たしかに徳としての正義の探究を配分的正義で終結させた場合には、「正義」の名にもとづく要求は何らかの恣意性ないし相対性を免れないと思われる(79)。

しかし、配分的正義は、共通善を固有の対象とする一般的正義(justitiageneralis)によって──規則や法が共通善へと適切に秩序づけられることを通じて──完成されることにより、そうした恣意性ないし相対性を克服することが可能である(80)。

このように一般的正義は、徳としての正義の究極に位置し、正義の徳の本質を示すものである(81)。

トマスは一般的正義の固有の対象が、法の目的である共通善であるところから、それを専ら法的正義(justitialegalis)と呼んでいる(82)。

アリストテレスは一般的正義について、「政治共同体のために幸福あるいはその部分を作りだし、保持する(83)」正義であると述べており、これこそ「究極・最善の徳(84)」であって「夕の星も暁の星も(85)」この徳ほどに讃嘆すべきものではない、とその光輝を強調している。

5一般的正義が「一般的」(generalis)と呼ばれるのは、類(genus)がそれにふくまれる諸々の種(species)にたいして「一般的(類的)」であると言われるような意味においてではなく、むしろちから(virtus)において卓越している太陽が照明や熱、およびその他の種々の結果を生ずる普遍的原因(causauniversalis)であるがゆえに「一般的」と呼ばれるような意味においてである(86)。

そして、共通善を固有の対象とするかぎりにおいては一般的正義も特殊的なのであるが、すべての徳の行為を共通善へと秩序づける──個々の人間が行う剛毅や節制にもとづく行為は、政治共同体を構成するすべての人間の善ないし幸福であるところの共通善にふくまれるのである(87)──かぎりにおいて一般的徳であり、「一般的」正義と呼ばれるのである(88)。

ではどのような理由で一般的正義が正義の徳の本質を示すものであると言えるのか。

古典的な「徳」理解によると、徳とは「人間的行為を善いものとし、また人間自身を善い者たらしめる(89)」ものであるが、特殊的正義、たとえば交換的正義の行為は徳によることなしにも、強制の下で、あるいは刑罰のおそれから為されることも可能である。

そうした行為は善いものではあるが、それを為す人間がよい者であることを保証するものではない。

それにくらべると、配分的正義の行為は、立法や司法の分野において経験や修練を積んだ者に見られるような知慮や技能を必要とするものであり、徳の本質側面をより多くそなえているといえるが、必ずしもそれを為す人間を端的に善い者たらしめるものではない。

これにたいして、一般的正義は共通善、つまり政治共同体を構成するすべての人間の幸福を固有の対象とする徳であり、このような他者の幸福を追求し、推進する徳がそれを身につけた人間を端的に善い者たらしめることは確実である。

そして、その意味で、一般的正義は正義の徳の本質を示すものといえるのである(90)。

アリストテレスは『政治学』のなかで「善い人間の徳と、善い市民の徳とは端的に同一であるのではない(91)」と述べている。

ところで、共通善を固有の対象とする一般的正義はあきらかに善い市民の徳であるが、そのことは一般的正義が善い人間の徳であることを否定するものではなく、むしろ一般的正義は優れて善い人間の徳であると言うべきであろう。

なぜなら、一般的正義の対象である共通善が真の意味での共通善であるかぎり、一般的正義は政治共同体を構成するすべての人間の、人間としての真の幸福の実現を推進する徳でなければならないからである。

6これまでの考察によって、人格の倫理学の主要課題である人格の形成は、何よりも徳としての正義の追求として理解するのが適切である、との見通しが開かれた。

そして、徳としての正義に関しては、われわれにとってはより容易に理解されるが、徳としての性格はむしろ稀薄な交換正義、および相対性や恣意性の欠陥を蒙むることの可能な配分正義などの特殊的正義に考察を限定することなく、共通善を固有の対象とする一般的正義を徳としての正義の考察の中心に置くべきことが示された。

ところで、「各人に彼のものを」という正義の原則は、人格の尊厳を傷つけるような行為を禁止する義務として解することが可能であり、そのようないわば正義の最小限とも言うべきものは、前述のように、徳としての正義なしにも果たすことが可能である。

これにたいして、徳としての正義は、人格としての各人に彼のものを積極的に、人格にふさわしい仕方で帰属させることをめざすのであって、その究極にあるものが共通善を固有の対象とするところの一般的正義ないし法的正義の徳である。

一般的正義が共通善を固有の対象とするということは、政治共同体を構成するすべての人間の善、つまりすべての人間の幸福の実現をめざし、そのための努力を惜しまないということであり(92)、それは政治共同体を構成するすべての人間を欲望や利得の対象としてではなく、友愛(93)(amicitia)の愛でもって、つまり人格として愛することである、と言えるであろう。

一般的正義をこのように共通善「正義」というよりは、むしろ共通善「愛」として解することは、正義と愛を混同する誤りとして非難されるかもしれない。

しかし、正義の徳は、その究極において、政治共同体を構成するすべての人間を人格として愛する、という意味での共通善愛に行きつくのであって、それがまさしく正義の徳を徳たらしめるものなのである。

しかも、このような「究極・最善の徳」である一般的正義は、各人に、彼の人格としての「彼のもの」を最大限に豊かに帰属させようとする徳なのであるから、厳密な意味で正義の徳である。

そして、一般的正義は、このように人格をまさしく人格として愛することを可能にする徳であるかぎりにおいて、それを有する者の人格を形成するのに最もちからある徳である、と言えるのではなかろうか。

Ⅴ人格と愛

1前節では、人格の形成を厳密に倫理学の問題として考察した場合、人格の尊厳がより大きな輝きを見せるような生き方とは正義の徳、とくに一般的正義の徳にもとづく生き方であり、そして一般的正義は他者をまさしく人格として愛することを可能にする徳である、という見通しが開かれた。

しかし、これまでのところでは、他者を人格として愛するということは、各人に人格としての「彼のもの」を最大限に豊かに帰属させることである、と言い直されるにとどまり、「人はけっして人格を愛するのではなく、むしろただその性質を愛するのみだ」というパスカルの警句にたいする明確で説得的な反論は提示されていない。

いったい、われわれは他者を、われわれを悦ばせ、和ませ、またわれわれを助け、支えてくれる、という理由だけによってではなく、他者の存在そのものを、つまり他者を人格として愛することができるのか。

この問いに適切に答えるためには、まず他者を人格として愛するという場合の「愛」の意味をあきらかにする必要がある。

さきに共通善を固有の対象とする正義の徳、つまり一般的正義は、政治共同体を構成するすべての人間を人格として愛するという意味での共通善「愛」である、と述べたが、その言明は多少修正しなければならない。

そこでの「愛」はかぎりなく愛に接近している正義を指すのに用いられた言葉であって、厳密な意味での「愛」ではない。

他方、トマスによると、真実の意味での共通善「愛」であって、それこそ他者を人格として愛する「愛」であると言えるような「愛」が存在する。

それは信仰(fides)、希望

(spes)と共に、人間をその最高善ないし究極目的である至福(beatitudo)へと直接かつ最終的に秩序づける対神徳(94)(virtustheologica)の一つに数えられる愛徳(95)(caritas)である。

「神は愛(caritas)である(96)」と聖書に記されているその「愛(徳)」が、どのような意味で一般的正義と並んで人間を人格として完成する徳、しかも共通善「愛」という社会的徳でありうるのか(97)。

人間を神と最も親密に、それこそ友として合一させる愛徳がどうして共通善に関係づけられるのか。

いったい神を共通善として愛する、という言明が意味をもちうるのか(98)。

このような疑問は一見極めて強力であり、愛徳は共通善「愛」であり、それゆえに他者を人格として愛する「愛」であるという主張はまったく根拠がないように思われるかもしれない。

しかし、それはわれわれが「愛(99)」(caritas)、「共通善」、「人格」という言葉と結びつけがちな誤ったイメージによって惑わされているからであって、実は一般的正義と愛徳との二者を、人間の社会的徳として総合的に理解することは理論的に完全に整合的なのである。

トマスの言葉をかりると、「一般的正義が政治共同体を構成する市民の徳であるように、愛徳は神の恵みによって天上的至福に与ることを許され、『至福なる社会』(beatasocietas)、いわば天上のエルサレムの構成員となった限りでの人間の徳である(100)」。

この至福なる社会において人は最高善である神を、(暴君がその王国の善を欲求する場合のように)専有的・排他的な仕方で欲求してはならず、むしろ善良な市民が政治共同体の共通善をそれ自体において、その維持と推進のために愛するような仕方で、まさしく共通善として愛しなければならない(101)。

このように、われわれは人格として、最高善である神を愛徳(それは友愛(amicitia)の一種である(102))によって、まさしく「至福なる社会」の共通善として愛しなければならない、という洞察において、人間の人格性と社会的本性とは最終的に何ら矛盾することなく、同時に完成可能であることが示されており、そこに他者を人格として愛することの可能性も示唆されている、と言えるであろう。

2たしかに他者を愛徳によって愛することは、他者を自己の欲望、快楽、利得のためにではなく、他者と最善のものを共有しようとする愛としての友愛によって愛することであり、他者を人格にふさわしい仕方で愛することである。

そのことを明らかにしたことで、他者を人格として愛することができるか、という問いにたいする答えはひとまず与えられた、と言えるであろう。

しかし、他者をまさしく人格として、すなわちわれわれを悦ばせ、ひきつける魅力や利得といった性質ではなく、その存在そのものを愛することはいかにして可能か、という問題はまだ十分に明らかにされてはいない。

そのためには、そもそも他者を愛徳によって愛することがいかにして成立するのか、をつきとめなければならないのである。

「隣人を愛せよ(103)」という掟があるのだから、隣人、つまり他者を愛することは可能であるはずである。

不可能なことを命令するのは不条理だからである。

しかし、他者を、その存在そのものにおいて愛することはいかにして可能なのか。

ここでわれわれは決定的に重要であるが、ほとんど常に見過ごされ、あるいは偏見と誤解にさらされているひとつのことに注意を向ける必要がある。

それは真実の自己愛がここでの問題において中心的な役割を果たすものだ、ということである。

真実の自己愛はけっして自己中心的あるいは利己的な愛ではない。

また、真実の自己愛は人間にとって自然本性的なものであるが、人間は近代において、たとえばヒュームの著作(104)の影響の下に広く信じこまれているところに反して、けっして生まれながらに利己的であるのではない。

3真実の自己愛とは、自己を愛徳によって愛することである(105)。

ところで愛徳は友愛の一種であり、友愛(amicitia)は何らかの合一(unio)を含意しているが(106)、自己が自己を愛するとき、愛する者と愛される者は合一によって結ばれるというよりは、それ以上に「一」(unitas)なのであるから、自己愛は友愛よりも何かより大いなるものである(107)。

実に、「人がそれでもってかれ自身を愛するところの愛が友愛の形相にして根元である(108)」。

言いかえると、真実の自己愛を有しない者は、他者を愛徳ないし友愛によって愛することはできないのである。

したがって、人は隣人よりも自己を──愛徳によって──より愛すべきである(109)、という帰結になる。

この言明は多くの人を驚かせるかもしれないが、聖書が教える隣人愛の掟(110)とも完全に合致するのであって、人は自己を愛するように、そのように隣人を愛しなければならないのである。

このように真実の自己愛にもとづいて他者にたいする愛を理解することによって、他者を人格として、すなわちその存在そのものを愛することの可能性が明らかに示される。

なぜなら、真実の自己愛とは、私が自己そのもの、すなわち私の存在そのものを愛することだからである。

そして私が私の存在そのものを愛するとは、私の存在が善いものであることを直観して、それを全面的に肯定することにほかならない。

私の存在が善いものであるという直観は、私の存在が神の創造の働きにもとづくものであり、創造の働きは、神自身が善そのものであることにもとづいて善いものなのであるが、ここでその議論に立ち入る必要はない。

ここでは私の存在が善いものであるとの肯定は、当の存在の第一根源である神の善性の根源的な肯定を前提とするものであり、この根源的肯定はさきに述べた共通善としての神の愛にほかならないことを指摘するにとどめる。

他者を人格として愛することの可能性を明らかにする根拠は、真実の自己愛のうちに見出されるのであり、他者を人格として愛する愛は、自己愛の拡大として理解すべきである、という洞察は人格の倫理学の中心課題の一つとしての人格と愛の関わりについての明確な理解に寄与するものと言えるであろう。

言うまでもなく、自己愛の拡大とは自我の肥大ではなく、むしろ真実の自己愛にもとづいて他者を愛するとは、他者の存在そのものの全面的肯定であるかぎり、むしろ或る意味で自己そのもの、自己の存在を他者に与えることにほかならない。

それはたしかに或る意味で自己否定であるが、それによって自己の存在が消滅し、虚無化されるのではない。

善は自らをおしひろげることをその本質とする(111)、と言われるように、善いものであるところの存在は自らを与えることによって、かえって自らの完全性を示すのである。

しかし、この議論に立ち入ることは人格の形而上学に属することであって、人格の倫理学の領域をふみ超えるものであろう。

 

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