われわれを人間にするのは、選択する能力である。──マデレイン・レングル(作家)
私はまばたきも忘れ、手にした1枚の紙をじっと見つめていた。
夕暮れどきのオフィスビルのロビーは閑散として、帰宅する人の姿もすでに少なくなっている。
言葉と矢印を書きなぐったその紙は、20分間のブレインストーミングの成果だった。
自分はいったい何がしたいのか、それを一から考えてみたのだ。
私はそこにない言葉に驚いていた。法律やロースクールに関する言葉がひとつもない。
半年前にイギリスのロースクールに入学し、法律の勉強に明け暮れる日々だったというのに。法律を学ぶことにしたのは、「つぶしが利く」と周囲に言われたからだった。
卒業すれば弁護士として開業できるし、法律関連の書籍執筆や教師という選択肢もある。
企業向けに法務コンサルティングをやってもいい。何だって思いのままだ、と言われていた。
入学後は自分の進む道がイメージできないまま、選択肢を広げるためだけにすべてをこなした。
日中はずっと法律の勉強をし、夜には経営の本を読み、時間があれば文章を書く。
すべてを同時にやろうとしていたのだ。その結果、どれも中途半端になっていった。とくに駄目でもないが、とりたてて良くもない。
このまま選択肢を広げてどうするのかと、だんだん不安になってきた。そうした混乱のなか、一本の電話がかかってきた。アメリカに住む友人からで、結婚式に来てほしいという誘いだった。
なんと航空券もすでに送ってくれたらしい。私は喜んで招待に応じ、予想外のアメリカ旅行に出発した。
アメリカ滞在中は時間の許すかぎり、教育や執筆関連の仕事をしている人びとに会いに行った。
そのなかで、ある教育系NPOの代表が、帰りぎわにふとこんなことを口にした。
「もしアメリカに住むことにしたら、うちのコンサルティングチームにぜひ力を貸してくださいね」その何気ないひとことが、私の心をとらえた。
問題は仕事の誘いではなく、その仮定のほうだった。
「もしアメリカに住むことにしたら」と彼は言った。しかも、現実的な選択肢として。そうだ、今いるところにこだわる必要はないのだ。
私はエレベーターに乗ってロビーに降り、そこにあった紙とペンを拝借してひとつの問いにとりかかった。
「もしもたったひとつのことしかできないとしたら、自分は今、何をやるのか?」その結果、「法律」の文字はどこにもなかったというわけだ。
別に法律に縛られる必要はないと、頭ではわかっていた。だが実際には、法律以外の選択肢なんてないのだと思い込んでいた。
選択肢を否定することによって、消極的な選択を引き受けていたのだ。ロースクール以外の選択肢を締め出すことは、ロースクールを選ぶことと同じだ。
ただし、前向きな理由からではなく、仕方なく選ぶだけ。そのことに気づいたとき、私は初めて理解した。
もしも選択の自由を投げ出すなら、あとは人の言いなりになるしかないのだ。2週間後、私はロースクールを辞めた。
故国イギリスを出てアメリカに渡り、執筆と教育のキャリアを歩み出した。この本が存在しているのも、そのおかげだ。
このときの選択は私の人生を大きく変えた。何よりも「選ぶ」という行為に対する見方が大きく変わった。選択とは、行動なのだ。
与えられるものではなく、つかみとるものだ。選択肢はかぎられているかもしれない。それでも、選択肢のなかから何を選ぶかは、いつだって自分次第だ。
あなたは「もうどうしようもない、何の選択肢もない」と感じたことがあるだろうか。「できる」せいで「やらなくては」が増えていくストレスを抱えていないだろうか。
自分で選ぶことを少しずつ放棄して、いつのまにか誰かの言いなりになっていないだろうか?大丈夫、まだあきらめる必要はない。
「選ぶ」ことを選ぶ
私たちは長いあいだ、選択の外的側面(どんな選択肢があるか)にばかり目を向けて、選択の内的側面(選ぶ能力)を見過ごしてきた。この違いは重要だ。
選択肢(物)を奪うことはできても、選ぶ能力(自由意志)を奪うことは不可能である。選ぶ能力は誰にも奪えない。ただ、本人が手放してしまうだけだ。
人はなぜ選ぶ力を手放してしまうのか
選ぶ力を手放してしまうのは、なぜだろうか?これについては、心理学者のマーティン・セリグマンとスティーブン・マイヤーによる有名な実験が参考になる。
彼らは犬を使った実験で、「学習性無力感」という現象を発見した。セリグマンとマイヤーは、犬を3つのグループに分けた。
最初のグループの犬たちは、逃げられないようにつながれた状態で、電気ショックを与えられた。ただし、あるパネルを踏むと電気ショックが止まるようになっていた。
2つめのグループの犬たちにも同じように電気ショックが与えられたが、パネルを踏んでも電気ショックを止めることはできないようになっていた。
3つめのグループの犬たちはつながれていただけで、電気ショックは与えられなかった(1)。さて、肝心なのはそのあとだ。
セリグマンとマイヤーは、3つのグループの犬たちをある小部屋に連れてきた。
小部屋は低い障壁で2つに仕切られ、一方の床だけ電気ショックが発生するようになっていた。低い障壁を飛び越せば、電気ショックから逃れられる。
もともと電気ショックを与えられなかったグループと、電気ショックを止めるパネルがあったグループの犬たちは、すぐに壁を飛び越えて部屋の反対側に逃げることを覚えた。
ところが、電気ショックを止める方法がなかったグループの犬たちは、壁を飛び越えようとしなかった。電気ショックから逃れる方法を、探そうともしなかったのだ。
なぜか?なすすべもなく電気ショックを受けていた犬たちは、そこから逃れるという選択肢があることを忘れていた。
それまでの経験によって、どうしようもない無力感を身につけてしまったのだ。この犬たちと同様に、人にも学習性無力感はある。
たとえば算数の初歩でつまずき、どうやっても解けない問題に苦しんだ子供は、算数を理解しようという努力を投げ出してしまう。何をしても無駄だと思い込むからだ。
私が仕事で出会ったクライアントのなかにも、同じような状態に陥っている人が少なくなかった。
仕事でいくら努力しても無駄だという経験をした場合、反応は大きく2つに分かれる。まず、努力をすっかりやめてしまう人。算数が苦手な子供と同じように、投げ出してしまう。
もうひとつは、ちょっとわかりにくい反応だ。彼らは投げ出すのではなく、逆に働きすぎる。あらゆる仕事を引き受け、どんな難題もあきらめない。何もかもをやろうとしている。
一見すると学習性無力感とは無縁のようだが、よく話を聞いてみると、その活発さは単なる見せかけだということがわかる。
自分では何ひとつ選べないから、すべてを引き受けているだけなのだ。彼らは選択肢を考えようとしない。
言われたことをやるしかないと思い込んでいる。選ぶという行動は、難しいものだ。何かを選べば、必然的に何かを捨てることになる。
手に入ったかもしれない何かをあきらめるということだ。仕事にかぎったことではない。店に行けば、素敵な商品やおいしそうな食べ物が並んでいて、どれも捨てがたい。
義理の母親から電話で用事を頼まれると、ノーを言う権利なんて絶対にないと感じる。日々そうした状況に置かれていれば、選ぶことを放棄してしまうのも無理はない。
だが、選ぶという行動を自分のものにしないかぎり、エッセンシャル思考は身につかない。
エッセンシャル思考を身につけるためには、選ぶという行為に自覚的でなくてはならない。
選ぶ力は自分だけのものであり、何者にも奪えないということを理解しなくてはならない。
哲学者のウィリアム・ジェイムズは、「自由意志の最初の一歩は、自由意志を信じることだ」と述べた(2)。
エッセンシャル思考の最初の一歩は、「選ぶ」ことを選ぶことだ。
自分自身の選択を取り戻したとき、初めてエッセンシャル思考は可能になる。選ぶことを忘れた人は、無力感にとらわれる。
だんだん自分の意志がなくなり、他人の選択(あるいは、自分自身の過去の選択)を黙々と実行するだけになる。
せっかくの選ぶ力を、すっかり手放してしまうのだ。これが非エッセンシャル思考の生き方である。
エッセンシャル思考の人は、選ぶ力を無駄にしない。その価値を理解し、大切に実行する。
選ぶ権利を手放すことは、他人に自分の人生を決めさせることだと知っているからだ。
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