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第5の習慣まず理解に徹し、そして理解される

目次

共感によるコミュニケーションの原則

心には理性ではわからない理屈がある。──パスカル

視力が落ちてきたので眼科に行ったとしよう。

医者は、あなたの話をしばらく聞いてから、自分の眼鏡を外し、あなたに手渡してこう言う。

「かけてごらんなさい。かれこれ一〇年もこの眼鏡をかけていますが、本当にいい眼鏡ですよ。自宅に同じものがもう一つありますから、これはあなたに差し上げましょう」

あなたはその眼鏡をかけるが、ますます見えない。

「だめですよ。全然見えません!」とあなたは訴える。

「おかしいなあ。私はその眼鏡でよく見えるのだから、もっと頑張ってごらんなさい」と医者は言う。

「頑張ってますよ。でも何もかもぼやけて見えるんです」「困った患者さんだ。前向きに考えてみなさい」「前向きに考えても何も見えません」「まったく、何という人だ!私がこんなにもあなたの力になろうとしているのに」と医者はあなたを責める。

あなたは、もうこの医者に診てもらう気にはならないだろう。診断もせずに処方箋を出す医者など信頼できるわけがない。

ところが、私たちのコミュニケーションはどうだろう。診断せずに処方箋を出すようなまねをどれだけしているだろうか。

「ねえ、どうしたの。悩み事があるのならお母さんに話してごらんなさい。話しにくいかもしれないけど、お母さんね、あなたのことをわかってあげたいのよ」

「どうかな。お母さんは、きっと馬鹿みたいな話だって言うに決まってる」

「そんなことないわよ。話してちょうだいよ。お母さんほどあなたのことを大切に思っている人はいないんだから。本当にあなたのことを心配しているのよ。なぜそんなに落ち込んでいるの?」

「別に」「いいから、お母さんに話してごらんなさい」「本当のこと言うと、もう学校がいやになったんだ」「何ですって?!」そこで母親は急に声を荒げる。

「学校がいやって、どういうことなの?あなたの教育のためにどれだけ犠牲を払ってきたかわかってるの?教育はあなたの将来の土台を築くのよ。前にも身を入れなさいと言ったでしょ。お姉ちゃんのように勉強すれば成績も上がるし、そうすれば学校だって好きになるわ。何回言えばわかるの、あなたはね、やればできる子なの。やらないだけなの。もっと頑張りなさい。前向きにならなくちゃ」

少し間をおいて、母親がまた言う。「さあ、お母さんに話してごらんなさい」

私たちはえてして、問題が起きると慌ててしまい、その場で何か良いアドバイスをしてすぐに解決しようとする。

しかし、その際私たちはしばしば診断するのを怠ってしまう。まず、問題をきちんと理解せずに解決しようとするのである。

私がこれまでに人間関係について学んだもっとも重要な原則を一言で言うなら、「まず理解に徹し、そして理解される」ということだ。この原則が効果的な人間関係におけるコミュニケーションの鍵なのである。

人格とコミュニケーション

あなたは今、私が書いた本を読んでいる。読むことも書くこともコミュニケーションの手段である。話すことも聴くこともそうである。

読む、書く、話す、聴く、これらはコミュニケーションの四つの基本である。

あなたはこれら四つのうち、どれにどのくらいの時間を費やしているだろうか。効果的な人生を生きるためには、コミュニケーションの四つの基本をうまく行える能力が不可欠なのである。

コミュニケーションは人生においてもっとも重要なスキルである。私たちは、起きている時間のほとんどをコミュニケーションに使っている。

しかし、ここで考えてみてほしい。あなたは学校で何年も読み書きを習い、話し方を学んできたはずだ。だが聴くことはどうだろう。

あなたは相手の立場になって、その人を深く理解できる聴き方を身につけるために、これまでにどのような訓練や教育を受けただろうか。

聴き方のトレーニングを受けたことのある人は、そう多くはいないはずだ。

たとえ訓練を受けたことがあっても、ほとんどは個性主義のテクニックであり、それらのテクニックは相手を本当に理解するために不可欠な人格と人間関係を土台としているものではない。

あなたが、配偶者、子ども、隣人、上司、同僚、友人、誰とでも他者とうまく付き合い、影響を与えたいと思うなら、まずその人を理解しなければならない。しかし、それはテクニックだけでは絶対にできない。

あなたがテクニックを使っていると感じたら、相手はあなたの二面性、操ろうとする気持ちをかぎとるだろう。

「何でそんなことをするのだろう、動機は何だろう」と詮索するだろう。そして、あなたには心を開いて話をしないほうがいい、と身構えることになる。

相手に自分をわかってもらえるかどうかは、あなたの日頃の行い次第である。あなた自身が模範になっているかどうかだ。

常日頃の行いは、あなたが本当はどのような人間なのか、つまりあなたの人格から自然と流れ出てくるものである。

他の人たちがあなたをこういう人間だと言っているとか、あなたが人にこう見られたいと思っているといったものではない。実際にあなたと接して相手がどう感じるか、それがすべてである。

あなたの人格は、たえず周囲に放たれ、あなたがどのような人間であるかを伝えている。それをある程度感じていれば、長期的にあなたが信頼できる人間かどうか、その人に対する態度が本心からなのかどうか、相手は直観的にわかるようになる。

あなたが熱しやすく冷めやすい人だったら、激怒したかと思うと優しくなるような人だったら、とりわけ人が見ているときと見ていないときとではまるで態度の違う人だったら、相手はあなたに心を開いて話をする気にはなれないだろう。

どんなにあなたの愛情が欲しくとも、あなたの助けが必要でも、自分の意見や体験したこと、心の機微を安心して打ち明けることはできない。その後どんなことになるか、わからないからだ。

私があなたに心を開かない限り、あなたが私という人間のことも、私が置かれた状況や私の気持ちも理解できない限り、私の相談に乗ることもアドバイスしようにも無理だということである。

あなたの言うことがいくら立派でも、私の悩みとは関係ないアドバイスになってしまう。

あなたは私のことを大切に思っていると言うかもしれない。私のことを気にかけ、価値を認めていると言うかもしれない。私だってその言葉をぜひ信じたい。

でも、私のことがわかってもいないのに、どうしてそんなことが言えるのだろうか。それは単に言葉だけにすぎないのだから、信じるわけにはいかない。

私はあなたの影響を受けることに対し怒りを覚え身構える。もしかすると罪悪感や恐怖感かもしれない。たとえ心の中ではあなたに力になってほしいと思っていてもだ。

私の独自性をあなたが深く理解し、心を動かされない限り、私があなたのアドバイスに心を動かされ、素直に受け止めて従うことはないだろう。

だから、人と人とのコミュニケーションの習慣を本当の意味で身につけたいなら、テクニックだけではだめなのだ。

相手が心を開き信頼してくれるような人格を土台にして、相手に共感して話を聴くスキルを積み上げていかなくてはならない。

心と心の交流を始めるために、まずは信頼口座を開き、そこにたっぷりと預け入れをしなければならないのである。

共感による傾聴

「まず理解に徹する」ためには、大きなパラダイムシフトが必要である。私たちはたいていまず自分を理解してもらおうとする。

ほとんどの人は、相手の話を聴くときも、理解しようとして聴いているわけではない。次に自分が何を話そうか考えながら聞いている。

話しているか、話す準備をしているかのどちらかなのである。すべての物事を自分のパラダイムのフィルターに通し、自分のそれまでの経験、いわば自叙伝(自分の経験に照らし合わせ)を相手の経験に重ね合わせて理解したつもりになっている。

「そうそう、その気持ち、よくわかるわ!」とか「ぼくも同じ経験をしたんだ、それはね……」これでは、自分のホームビデオを相手の行動に投影しているだけである。

自分がかけている眼鏡を誰にでもかけさせようとするのと同じだ。こういう人たちは、息子や娘、配偶者、同僚など身近な人との関係に問題が起きると必ず、「向こうが理解していない」と思うものである。

ある父親が私にこう言った。

「息子のことが理解できない。私の言うことをまったく聴こうとしないんですよ」「今あなたがおっしゃったことを繰り返すと、あなたは息子さんを理解していない、息子さんがあなたの話を聴かないからだ、ということですね?」と私は尋ねた。

「そのとおりです」「もう一度言いますよ。息子さんがあなたの話を聴かないから、あなたは息子さんを理解できないのですね?」「そう言ったはずですが」と彼は苛立たしげに答えた。

「誰かを理解するには、その人の話を聴かなければならないものだと思っていましたが」「あなたは息子さんの話を聴く必要があるのです」と私は示唆してみた。

「そうか」と彼は言った。しばらく間をおいてから、「そうか」とまた言った。霧が晴れたようだった。

「そうですよね。でも私は息子を理解してはいるんです。息子の今の状況をよくわかっているんです。私も昔同じような経験をしましたから。理解できないのは、なぜ彼が私の話を聴こうとしないのかということなんです」

この父親は息子の頭の中で何が起きているのかまったく見ていなかった。彼は自分の頭の中を見て、そこに息子の世界も見えているものだと思い込んでいたのである。

ほとんどの人がこれと同じようなことをしている。自分が正しいのだと思い、自分の自叙伝を押しつけようとする。まず自分が理解されたいのである。

会話しているようで実は独り言を言っているだけなのである。だから、相手の内面で起きていることを理解できずに終わってしまう。

相手が話しているとき、私たちの「聞く」姿勢はたいてい次の四つのレベルのどれかである。

一番低いレベルは、相手を無視して話をまったく聞かない。次のレベルは、聞くふりをすること。「うん、うん」とあいづちは打つが、話の中身はまったく耳に入っていない。

三番目のレベルは、選択的に聞く態度である。話の部分部分だけを耳に入れる。三~四歳くらいの子どものとりとめもなく続くおしゃべりには、大人はたいていこんなふうにして付き合う。

四番目のレベルは、注意して聞く。神経を集中して、相手が話すことに注意を払う。ほとんどの人は四番目のレベルが最高なのだが、実はもう一段上、五番目のレベルがある。

これができる人はそういないのだが、相手の身になって聴く、共感による傾聴である。

ここでいう共感による傾聴とは、「積極的傾聴」とか「振り返りの傾聴」といったテクニックではない。

これらのテクニックは、単に相手の言葉をオウム返しにするだけで、人格や人間関係の土台から切り離された小手先のテクニックにすぎない。

テクニックを駆使して人の話を聞くのは、相手を侮辱することにもなる。

それに、テクニックを使ったところで、相手の立場ではなく自分の立場で聞き、自分の自叙伝を押しつけようとすることに変わりはない。

実際に自分の経験は話さないまでも、話を聞こうとする動機がどうしても自叙伝になってしまうからである。

神経を集中して熱心に聞いているかもしれないが、頭の中は、次はどう返事しようか、どう言えば相手をコントロールできるかと考えを巡らせているのである。

共感による傾聴とは、まず相手を理解しようと聴くことであり、相手の身になって聴くことである。

相手を理解しよう、本当に理解したいという気持ちで聴くことである。パラダイムがまったく違うのだ。共感とは、相手の視点に立ってみることである。

相手の目で物事を眺め、相手の見ている世界を見ることである。それによって、相手のパラダイム、相手の気持ちを理解することである。共感は同情とは違う。

同情は一種の同意であり、価値判断である。たしかに、共感よりも同情してあげるほうが適切な場合もある。

しかし同情されてばかりいたら、人は同情を当てにするようになり、依存心が強くなってしまう。

共感の本質は、誰かに同情することではない。感情的にも知的にも、相手を深く理解することなのである。

共感による傾聴は、記憶し、反映し、理解する以上のものだ。

コミュニケーションの専門家によれば、口から出る言葉は人間のコミュニケーションの一〇%足らずで、三〇%は音や声のトーンによるコミュニケーション、残りの六〇%がボディランゲージである。

共感して聴くには、耳だけではなく、もっと大切なのは、目と心も使うことである。相手の気持ちを聴きとる。言葉の裏にある本当の意味を聴きとる。行動を聴きとる。

左脳だけでなく右脳も使って、察し、読みとり、感じとるのである。共感による傾聴の大きな強みは、正確なデータを得られることである。

相手の考え、感情、動機を自分の自叙伝に沿って勝手に解釈するのではなく、相手の頭と心の中にある現実そのものに対応できるのである。

相手を理解しようと思って聴く。

自分ではない人間の魂が発する声をしっかりと受け止めるために、集中して聴くのである。

共感して聴くことは、信頼口座に預け入れできるかどうかの鍵も握っている。

預け入れになるためには、あなたがすることを相手が預け入れだと思わなければならない。

どんなに身を粉にしても、その人にとって本当に大切なことを理解していなければ、あなたの努力はただの自己満足ととられるかもしれないし、操ろうとしている、脅している、見下している、そんなふうに受け止められるかもしれない。

これでは預け入れどころか残高を減らすことになってしまう。だから、共感して聴くことができれば、それ自体が大きな預け入れになるのだ。

相手に心理的な空気を送り込んで、心を深く癒す力を持つのである。

あなたが今いる部屋の空気が突然どんどん吸い出されていったら、この本への興味を持ち続けられるだろうか。本のことなどどうでもよくなるだろう。

どうにかして空気を取り込もうと、生き延びることがあなたの最大の動機になる。

しかし今、空気はある。だから、あなたにとって空気は少しの動機づけにもならない。

満たされている欲求は動機づけにはならないのだ。これは人間の動機づけに関するもっとも的確な洞察の一つである。人の動機になるのは、満たされていない欲求だけなのである。

人間にとって肉体の生存の次に大きな欲求は、心理的な生存である。理解され、認められ、必要とされ、感謝されることである。

共感して話を聴いているとき、あなたは相手に心理的な空気を送り込んでいる。

心理的な生存のための欲求を満たしてあげることによって初めて、相手に影響を与え、問題の解決へと向かえるのである。

誰しも心理的な空気を必要としている。この大きな欲求こそが、人と人とのあらゆるコミュニケーションで大きな鍵を握っているのである。

あるとき、シカゴで開かれたセミナーでこの考え方を教えたことがあった。セミナーの参加者に、「今晩、共感して話を聴く練習をしてみてください」と宿題を出した。

翌朝、ある男性が私のところにやってきた。一刻も早く報告したくてたまらないようすだった。「昨晩起きたことを聞いてください」と彼は言った。

「実はですね、シカゴにいる間にどうしてもまとめたい大きな不動産の取引がありましてね。夕べ、取引相手とその弁護士に会いに行きましたら、他の不動産業者も来ていたんですよ。

別の条件を出してきたらしくて。どうも私のほうが分が悪く、その業者に持っていかれそうでした。この案件は半年以上も前から取り組んでいましたし、はっきり言って、すべてをこの取引に賭けていました。すべてです。

だからもうパニックでしたよ。できる限りのことをしました。思いつく限りの手を打って、セールステクニックも駆使しました。そして、最後の手段で『結論を出すのはもう少し先に延ばしてもらえませんか』と頼みました。

しかし話はどんどん進んでいましたし、これ以上交渉を続けるのはうんざりだっていう感じでした。

ここで話をまとめてしまいたい、という様子がありありで。そこで私は自分に言い聞かせたんです。

『あれを試してみよう。今日教わったことをここでやってみようじゃないか。まず理解に徹する、それから自分を理解してもらう。そう教わったんだ。もう失うものは何もないんだし』とね。お客さんにこう言ったんです。

『お客様のお考えを私がきちんと理解できているか、確認させてくださいませんか。私の案のどこに引っかかっておられるのか、もう一度教えてください。

私がちゃんと理解できているとお客様が思われたら、私の案が適当かどうか改めてご検討いただければ……』私は本気でお客さんの身になって考えようとしました。

お客さんのニーズや関心を言葉にしようと努力しました。すると、お客さんのほうもだんだんと打ち解けてくれましてね。

お客さんがどんなことを心配しているのか、どんな結果を予測しているのかを察して言葉にすると、向こうも心を開いてくれたんです。そのうち会話の途中でお客さんは立ち上がって、奥さんに電話をかけたんです。

しばらくして受話器を手で覆い、私の方を見て、『君にお願いすることにしたよ』と言ったんです。それはもう、びっくりですよ。今でも信じられないですよ」

この男性は、相手に心理的な空気を送り込むことができたから、信頼口座に大きな預け入れができたのである。

結局のところ、このような商取引では、他の条件がだいたい同じならば、テクニックよりも人間性のほうが決め手になるのである。

まず理解に徹すること、処方箋を書く前に診断をすることは、実はとても難しい。自分が何年も具合よく使ってきた眼鏡を押しつけるほうがはるかに簡単なのだ。

しかし、そんなことを長く続けていたら、PとPCの両方をひどく消耗させる。相手の内面にあるものを本当に理解できなければ、その人と相互依存の関係は築かれず、したがって大きな成果も生まれない。

そして相手が本当に理解されたと感じない限り、高い信頼残高という人間関係のPCを育てることはできないのだ。しかし同時に、共感による傾聴にはリスクもある。

相手の話を深く聴くには、強い安定性が必要になる。自分自身が心を開くことによって、相手から影響を受けるからだ。傷つくこともあるだろう。

それでも相手に影響を与えようと思ったら、自分もその人から影響を受けなければならない。それが本当に相手を理解することなのである。

だからこそ第1、第2、第3の習慣が基礎となるのである。

それによって自分の中に変わらざる核、原則の中心が根づき、傷つきやすい部分を外にさらけ出しても、気持ちは少しも揺らがず、深く安心していられるのである。

処方する前に診断する

まず理解に徹すること、つまり処方する前に診断することは、難しいことだし、リスクもある。

しかしこれが正しい原則であることは、人生のあらゆる場面に表れている。プロと呼ばれる人たちは、この原則を必ず守っている。

医者が患者に処方する前に必ず診断するのと同じである。医者の診断を信用できなければ、その処方も信用できないだろう。

娘のジェニーが生後二ヵ月目に病気になった。

具合が悪くなったのは土曜日で、その日はちょうど、私たちが住んでいる地域でアメリカンフットボールの大きな試合が行われており、ほぼすべての住民の頭の中は試合のことでいっぱいだった。

大一番を観ようと六万人もの人々がスタジアムに足を運んだ。私も妻も行きたかったが、幼いジェニーを置いていくわけにはいかなかった。

そのうち、吐いたり下痢をしたりしているジェニーの容態が心配になり、医者に診せようと電話した。ところが医者も試合を観に行っていた。

その医者はわが家の主治医ではなかったが、彼を呼び出すしかなかった。ジェニーの容態が悪化し、ぜひとも医療的なアドバイスが必要となったのだ。

妻はスタジアムに電話し、医者を呼び出してもらった。試合が山場を迎えたところで、医者は迷惑そうな声で応じた。

「はい?どうしました?」とそっけない。

「コヴィーと申します。実は娘のジェニーの具合がひどくて……」「どんな様子ですか?」妻がジェニーの症状を説明すると、医者は「わかりました。薬局に処方を伝えましょう」と言った。

妻は受話器を置くと、「慌てていたからちゃんと説明できたか不安だわ。でも、たぶん大丈夫」と言った。

「ジェニーが生まれたばかりだということは言ったのか?」と私は聞いた。

「わかっていると思うけど……」「でもいつもの医者じゃない。この子を診たことはないんだろ?」「でも、きっと知っていると思うわ」「はっきり確信が持てないのに、その医者が処方した薬を飲ませるつもりなのか?」妻は黙りこみ、少し間をおいてから「どうしよう?」と言った。

「もう一度電話したほうがいい」と私は言った。「今度はあなたが電話してちょうだい」と妻が言うので、私が電話した。試合の途中にまたも医者を呼び出すことになった。

「先生、先ほど妻が娘の件でお電話しましたが、娘が生後二ヵ月の赤ん坊だということはご存じでしたか?」「なんですって」と医者は叫んだ。

「知りませんでした。電話してくれてよかった。すぐに処方を変えます」診断を信用できなければ、処方も信用できないのである。

この原則はセールスにも当てはまる。有能なセールス・パーソンは、まず顧客のニーズと関心事を突きとめ、顧客の立場を理解しようとする。

素人のセールス・パーソンは商品を売り、プロはニーズを満たし問題点を解決する方法を売るのである。

アプローチの仕方がまったく異なるのだ。プロは、どうすれば診断できるか、どうすれば理解できるかを知っている。顧客のニーズを商品とサービスに結びつける方法も研究している。

しかしそれに加えて本物のプロなら、ニーズに合わなければ「私どもの商品(サービス)は、お客様のご要望にはそぐわないのではないでしょうか」と正直に言う誠実さも持っている。

処方する前に診断を下す原則は、法律の基礎でもある。プロの弁護士は、まず事実を集めて状況を理解する。関係する法律と判例を確認してから、裁判をどう進めるか準備する。

腕の良い弁護士は、自分の陳述書を書く前に相手方の陳述書が書けるくらいまで、綿密な準備をするものである。

商品開発も同じである。開発担当の社員が「ユーザーのニーズ調査なんかどうだっていいよ。さっさと開発にとりかかろう」などと言うだろうか。

消費者の購買習慣や購買動機を理解せずに商品を開発しても、うまくいくわけがない。

優秀なエンジニアなら、橋を設計する前に、どれくらいの力がどのようにかかるかを理解するはずだ。

良い教師は、教える前にクラスの生徒の学力を把握しておくだろう。真面目な生徒なら、応用する前に基礎を理解するだろう。

賢い親なら、子どもを評価したり判断したりする前に、まず子どもを理解しようとするだろう。

正しい判断をするための鍵は、まず理解することである。最初に判断してしまうと、その人をきちんと理解することは決してできない。まず理解に徹する。

これが正しい原則であることは、人生のあらゆる場面で証明されている。

それはすべての物事に当てはまる普遍的な原則だが、もっとも力を発揮する分野は、やはり人間関係だろう。

四つの自叙伝的反応

私たちはえてして、自分の過去の経験、いわば「自叙伝」を相手の話に重ね合わせてしまうため、人の話を聞く際に次の四つの反応をしがちになる。

  • 評価する──同意するか反対するか
  • 探る──自分の視点から質問する
  • 助言する──自分の経験から助言する
  • 解釈する──自分の動機や行動を基にして相手の動機や行動を説明する

これら四つの反応は、自然に出てくるものである。ほとんどの人はこれらの反応にすっかり脚本づけされている。周りを見ても、その実例だらけだ。

しかし、こうした反応で相手を本当に理解できるだろうか。

私が息子と話をするとき、息子が話し終らないうちに息子の話を評価しだしたら、心を開いて自分の本当の気持ちを話そうとするだろうか。

私は息子に心理的な空気を送っているだろうか。あるいは、私が根ほり葉ほり質問して詮索したらどうだろう。

探るというのは、自分が求める答えを引き出すまで何度でも質問することだ。子どもをコントロールし、自分の経験、自叙伝を押しつけ、子どもの心の中に入り込んでいく。

たとえ言葉のうえで論理的であったとしても、相手の気持ちや感情に届かないこともある。一日中質問攻めにしたところで、相手にとって本当に大切なものはわからないだろう。

多くの親が子どもとの距離を感じ、子どもが考えていることを理解できずにいるのは、いつもこうして探っていることも大きな原因なのである。

「最近、調子はどうだ?」「いいよ」「最近、何か変わったことは?」「何も」「学校で面白いことは?」「別に」「週末はどうするんだい?」「さあ」友だちとは長電話するのに、親の質問には一言で片づけてしまう。

子どもにとって家は寝泊りするだけのホテルと変わりない。決して心を開かず悩みを打ち明けることはないのだ。

しかしよく考えてみれば、正直なところそれも当然といえば当然なのである。

子どもは傷つきやすい柔らかな内面を見せるたびに、親から一方的に自叙伝を聞かせられ、「だから言っただろう」などと頭ごなしの言葉で踏みにじられてきたのだ。

親には絶対に心を開くまいと思うのも無理はない。私たちはこうした反応の脚本にすっかり染まっているから、意識せずにその脚本を使っている。

私はこれまで共感による傾聴の概念をセミナーなどで大勢の人たちに教えてきたが、参加者に実際にロールプレーイングさせると、全員が必ず衝撃を受ける。いつもの自分が自叙伝的な反応をしていることに気づくからだ。

しかし自分が普段どのような聞き方をしているかがわかり、相手に共感して聴くことを学ぶと、コミュニケーションに劇的な変化が生まれることに気づくのである。

多くの人にとって、「まず理解に徹し、そして理解される」習慣は「7つの習慣」の中でもっともエキサイティングな習慣であり、すぐに実生活で応用できるものである。

ここで、父親とティーンエイジャーの息子の典型的な会話をのぞいてみよう。父親の言葉が四つの反応のどれに当てはまるか考えながら読んでほしい。

「父さん、学校なんてもういやだよ。くだらないよ」「何かあったのか?」(探る)「全然現実的じゃない。何の役にも立たないよ」「まだ学校の大切さがわかっていないだけなんだ。父さんもおまえの年頃にはそんなふうに思っていたものさ。こんなのは時間の無駄だと決めつけていた授業もあった。だがな、その授業が今一番役に立っているんだ。だから頑張れよ。もう少し時間をかけてみないと」(助言する)

「もう一〇年も学校に行ってるんだ。XプラスYなんかやったって、自動車の整備士になるのに何の役に立つわけ?」「自動車整備士になるだって?冗談だろ」(評価する)

「冗談なんかじゃない。ジョーだってそうだよ。学校をやめて整備士になったんだ。結構稼いでるんだぜ。そのほうが現実的だと思うけどね」

「今はそう思えるかもしれないが、あと何年か経てば、ジョーだって学校に行っていればよかったと後悔するに決まっている。おまえだって本気で自動車整備士になりたいと思っているわけじゃないだろう。ちゃんと勉強してもっといい仕事を探さなくちゃだめだろう」(助言する)

「そうかなあ。ジョーはちゃんと将来のことを考えて決めたみたいだけど」「おまえ、学校で本当に努力したのか?」(探る、評価する)

「高校に入ってもう二年だよ。努力はしてきたさ。でも高校なんて無駄だね」「立派な高校じゃないか。もっと学校を信用しなさい」(助言する、評価する)

「他のやつだってぼくと同じ気持ちだよ」「おまえを今の高校に行かせるために、父さんも母さんもどれだけ大変な思いをしたかわかってるのか。せっかくここまで来て、やめるなんて絶対に許さないぞ」(評価する)

「いろいろ大変だったのはわかってる。だけど、ほんとに無駄なんだ」「テレビばかり見ていないでもっと宿題をしたらどうなんだ」(助言する、評価する)

「もういいよ、父さん。これ以上話したくない」もちろん、父親は息子によかれと思って言っている。息子の力になってやりたいと思って言っているのである。

しかし、この父親は息子のことを少しでも理解しようとしただろうか。今度は息子のほうに注目してみよう。

彼の言葉だけでなく、考えや気持ち、自叙伝的な父親の反応が息子にどんな影響を与えているか、()に書いていることに注意しながら読んでほしい。

「父さん、学校なんてもういやだよ。くだらないよ」(父さんと話がしたい。ぼくの話を聴いてほしいんだ)「何かあったのか?」(関心を持ってくれた。いいぞ!)

「全然現実的じゃない。何の役にも立たないよ」(学校のことで悩んでいる。落ち込んでるんだ)「まだ学校の大切さがわかっていないだけなんだ。父さんもおまえの年頃にはそんなふうに思っていたものさ」(あーあ、また父さんの自叙伝第三章だ。ぼくはそんな話をしたいんじゃない。長靴も買ってもらえずに雪の日に何マイルも学校まで歩いたって話、ぼくには関係ないんだ。ぼくの問題を話したいんだ)

「こんなのは時間の無駄だと決めつけていた授業もあった。だがな、その授業が今一番役に立っているんだ。だから頑張れよ。もう少し時間をかけてみないと」(時間で解決する問題じゃないんだ。父さんに話せたらなあ。洗いざらい話してしまいたいのに)

「もう一〇年も学校に行ってるんだ。XプラスYなんかやったって、自動車の整備士になるのに何の役に立つわけ?」「自動車整備士になるだって?冗談だろ」(ぼくが自動車整備士になるのは、父さんは気に入らないんだ。高校を中退するのも気に入らないんだ。今言ったことを何としても認めさせないと)

「冗談なんかじゃない。ジョーだってそうだよ。学校をやめて整備士になったんだ。結構稼いでるんだぜ。そのほうが現実的だと思うけどね」

「今はそう思えるかもしれないが、あと何年か経てば、ジョーだって学校に行っていればよかったと後悔するに決まっている」(『教育の価値を巡る考察』の第一六回講義を聞かされる)

「おまえだって本気で自動車整備士になりたいと思っているわけじゃないだろう」(何で父さんにわかるわけ?ぼくの本当の気持ちなんかわからないくせに)「ちゃんと勉強してもっといい仕事を探さなくちゃだめだろう」「そうかなあ。ジョーはちゃんと将来のことを考えて決めたみたいだけど」(ジョーは落ちこぼれじゃない。学校は中退したけど、落ちこぼれなんかじゃない)

「おまえ、学校で本当に努力したのか?」(これじゃ堂々巡りじゃないか。父さんがちゃんと聴いてくれさえすれば、本当に大切なことを話せるのに)「高校に入ってもう二年だよ。努力はしてきたさ。でも高校なんて無駄だね」「立派な高校じゃないか。有名校だぞ。もっと学校を信用しなさい」(これはこれは、今度は信用の話か。何でぼくが話したいことを話させてくれないんだ!)

「他のやつだってぼくと同じ気持ちだよ」(ぼくの言うことだって信じろよ。低能じゃないんだから)「おまえを今の高校に行かせるために、父さんも母さんもどれだけ大変な思いをしたかわかってるのか」(おやおや、今度は罪悪感で責める気か。はいはい、ぼくは馬鹿なんでしょう。学校は立派、父さんも母さんも立派。そしてぼくは馬鹿息子ですよ)

「せっかくここまで来て、やめるなんて絶対に許さないぞ」「いろいろ大変だったのはわかってる。だけど、ほんとに無駄なんだ」(父さんにはわからないだろうね)「おい、テレビばかり見ていないでもっと宿題をしたらどうなんだ。そんなふうだから……」(父さん、そういう問題じゃないんだよ!そんなんじゃないんだ!もう父さんには何も話さない。父さんなんかに相談しようとしたぼくが馬鹿だった)

「もういいよ、父さん。これ以上話したくない」

言葉だけで人を理解しようとしてもうまくいかないことがわかっただろうか。自分の眼鏡を通して相手を見ていたら、なおさらである。

何とか自分のことをわかってもらおうとしている人にとって、相手の自叙伝的な反応がどれだけコミュニケーションを妨げているだろうか。

相手と同じ視点に立って、相手が見ているのと同じ世界を見られるようになるには、人格を磨き、本当に理解したいという純粋な気持ちになり、相手との高い信頼残高、共感による傾聴のスキルを育てることが必要である。

共感による傾聴の全体を氷山にたとえるなら、スキルは海面に突き出た一角、いわば表に出る部分である。

このスキルには四つの段階がある。

一番効果の低い第一段階は、相手の言葉をそのまま繰り返すことである。これは「積極的傾聴」とか「振り返りの傾聴」などと言われる。

人格ができておらず、相手との信頼関係がないと、こういう聴き方は失礼になり、相手はかえって心を閉ざしてしまう。

しかし、相手の話を注意して真剣に聴こうとする姿勢を持つという意味で、これが第一段階になる。言葉をそのまま繰り返すのは簡単である。

相手の口から出る言葉をよく聴いて、オウム返しにすればいい。頭を使う必要もないくらいだ。

「父さん、学校なんてもういやだよ」「学校がいやなんだね」父親は息子の言葉を繰り返しているだけである。

何の評価もしていないし、質問して探っているわけでも、助言しているわけでも、自分勝手な解釈もしていない。

オウム返しにするだけでも、息子の言葉に注意を向けている姿勢は伝わる。しかし本当に理解しようとするなら、これでは不十分だ。

共感して聴くスキルの第二段階は、相手の言葉を自分の言葉に置き換えることである。

ただオウム返しにするよりも少しは効果的になるが、まだ言葉だけのコミュニケーションの域を出ていない。

「父さん、学校なんてもういやだよ」「そうか、学校に行きたくないんだ」今度は、父親は息子の話したことを自分の言葉で言い直している。

息子はどういう意味で今の言葉を口にしたのだろうと考えている。ここではほとんど、理性と論理をつかさどる左脳だけを働かせている。

第三段階に入ると、右脳を使い始める。相手の気持ちを言葉にするのである。

「父さん、学校なんてもういやだよ。くだらないよ」「なんだかイライラしているようだね」父親は、息子の言葉よりも、その言葉を口にした息子の気持ちに関心を向けている。

最後の第四段階は、二番目と三番目を組み合わせたものになる。相手の言葉を自分の言葉に置き換えると同時に、相手の気持ちも言葉にするのである。

「父さん、学校なんてもういやだよ。くだらないよ」

「学校に行きたくなくて、なんだかイライラしているようだね」「学校に行きたくなくて」の部分が話の内容、「イライラしているようだね」の部分が気持ちである。

ここでは左脳と右脳の両方を使って、相手が伝えようとしている言葉と気持ちの両方を理解しようとしている。

共感して聴くスキルの第四段階まで身につければ、信じられないような効果がある。

本心から理解したいと思って相手の言葉を自分の言葉に置き換え、相手の気持ちも言葉にできれば、その人の心に心理的な空気を送り込むことができる。

相手が自分の考えや感情を整理する手助けもできる。

あなたが話を真剣に聴こうとしている誠意が伝われば、相手の心の中で思っていることと、実際に口から出てくる言葉の間の壁が消えていく。

こうして、魂と魂の交流が始まる。考え、感じていることとコミュニケーションしていることが一致するのだ。

相手はあなたを信頼し、胸の奥底の傷つきやすい感情や考えをあなたに見せても大丈夫だと思うようになる。

「父さん、学校なんてもういやだよ。くだらないよ」(父さんと話がしたい。ぼくの話を聴いてほしいんだ)「学校のことでずいぶん不満があるみたいだな」(そうなんだ。そんなふうに感じているんだ)

「そうなんだ。まるっきり現実味がないし、何も役に立たないよ」「学校には何の価値もないと思っているんだな」(ちょっと待って──ぼくは本当にそう思っているんだっけ?)「まあ、そういうことかな。本当に役に立つことなんか何も教えてくれないよ。ジョーなんかさ、学校をやめて自動車の整備士になったんだ。結構稼いでいるんだよ。そのほうが現実的なんじゃないかな」

「ジョーは正しい道を選んだと思っているんだね」(どうだろ……)「まあ、ある意味ではそうかな……実際、もうお金を稼いでいるんだし。でも何年かしたら、後悔するんじゃないかな」「ジョーは間違っていたと感じると思うんだね」「きっとそうだよ。だってさ、ジョーが投げ出したものはすごく大きいんじゃないかな。ちゃんと勉強しとかないと社会に出て困るだろう?」

「そうだな、教育は大切だと考えているんだね」「そうだよ。高校も出てなくて、就職もできない、大学にも行けないことになったらどうすりゃいいのさ。やっぱりちゃんと勉強しなきゃだめなんだよ」

「教育はおまえの将来に重要だと考えてるんだ」「うん、そうなんだ。それでね……ぼく今すごく困っているんだ。ねえ、母さんには言わないでくれるかな?」「母さんに知られたくないんだね?」

「うーん、そういうわけでも……まあ、話してもいいよ。どうせばれるだろうし。今日さ、テストがあったんだ。読解力のテスト。そしたらさ、ぼくの成績じゃ小学四年生のレベルらしいんだ。四年生だぜ、高校二年生なのに!」

本心から理解しようと思って聴くと、こんなにも違ってくる。

本当の問題を見誤っていたら、相手によかれと思っていくら助言したところで何の意味もない。

そして、自分の自叙伝とパラダイムを通してしか物事を見られない人は、本当の問題を突き止めることはできない。

相手の視点に立って、相手が見ている世界を見ようとするなら、自分の眼鏡をしばし外さなくてはならないのだ。

「父さん、ぼく落第しちゃうよ。落第するくらいなら中退したほうがマシだよ。でも学校をやめたくはないんだ」

「つらいな。どうしていいかわからないんだね」「父さん、どうしたらいい?」

父親がまず息子を理解することに徹したから、息子との会話は単なる言葉のやりとりではなく、親子の絆を深める機会となったのである。

それは、表面をなぞるだけで手っ取り早く解決してしまえばいいというようなコミュニケーションではなく、息子にも、そして親子関係にも大きな影響を与える機会をつくり出した。

自分の経験談、自分の自叙伝を得々と聞かせるのではなく、息子を本当に理解しようという姿勢によって信頼口座にたくさんの預け入れをしたから、息子も心を開き、少しずつ掘り下げ、ようやく本当の問題を打ち明ける勇気を持てたのである。

今、父親と息子はテーブルの同じ側に並んで座り、同じ視点から問題を見つめている。テーブルを挟んで睨み合っているのとは正反対の状況である。

息子には、父親の自叙伝を聴いてアドバイスを求める心の余裕が生まれている。ここで注意してほしいことがある。

助言をする段階に入ってからも、父親は息子とのコミュニケーションに細やかに気を配らなければならない。息子が論理的に反応している間は、効果的に質問し、助言を与えることができる。

しかし感情的な反応を見せたら、共感して聴く姿勢に戻らなければならない。

「そうだなあ。こういうことを考えてみたらどうだろう、というようなことはいくつかあると思うが」「たとえば?」「読解力をつけるために塾に行くとか。あそこの塾ならそのようなコースがあるんじゃないか?」「それならもう調べたんだ。夜の授業が週に二日、それに土曜日は一日中なんだ。時間がとられすぎる」

息子の返事が少し感情的になったのを察知して、父親は共感して聴く姿勢に戻る。

「負担が大きいよなあ……」「それもそうだけど、六年生の子たちにコーチになってあげるって約束したんだ」「その子たちをがっかりさせたくないもんな」「でもね、読解力のコースが本当にためになるんだったら、毎晩でも行くよ。コーチは誰かに代わってもらってもいいんだし」

「勉強はしなくちゃと思ってるけど、そのコースが本当に役立つかどうかわからない、だから迷っているんだな?」「父さん、どう思う?」息子は再び心を開き、論理的な反応をし始めた。

ここでもう一度、父親の自叙伝を聴く気になっている。父親が息子に影響を与え、二人の関係を大きく変化させる機会が再び巡ってきたのである。私たちは多くの場合、外部の助言がなくとも自分をコントロールできる。

心を開くチャンスさえ与えられれば、あとは自分の力で自分の問題を解きほぐしていける。すると解決策がその過程ではっきり見えてくるものである。

もちろん、他者のものの見方や助力がどうしても必要な場合もある。

そのようなときは、その人のためになることを本気で考え、その人の身になって話を聴き、その人が自分のペースで、自分の力で問題を突きとめ、解決できるように促すことが大切である。

タマネギの皮を一枚一枚むくように少しずつ、その人の柔らかい内面の核に近づいていくのである。

人が本当に傷つき、深い痛みを抱えているとき、心から理解したいという純粋な気持ちで話を聴いてやれば、驚くほどすぐに相手は心を開く。

その人だって胸の中にあることを話したいのである。とりわけ子どもは、心を開いて自分の思いを打ち明けたい気持ちでいっぱいなのだ。

そしてその切実な思いは、友だちよりも、実は親に対して向けられている。

親は自分を無条件に愛している、悩みを打ち明けたら必ず味方になってくれる、自分の悩みを馬鹿にしたり、批判したりしない。

そう確信できれば、子どもは親に何でも包み隠さず話すものだ。

偽善や下心からではなく、純粋に相手を理解しようと努力すれば、相手のあるがままの想い、理解が流れ出てきて、聴いているほうは文字どおり言葉を失うことがあるはずだ。

相手の身になって共感するのに、言葉など要らないこともある。むしろ言葉が邪魔になることさえある。だからテクニックだけではうまくいかないのだ。

このような深い理解には、テクニックではとても到達できるものではない。テクニックだけに頼っていたら、かえって理解を妨げてしまう。

共感による傾聴のスキルを詳しく見てきたのは、どんな習慣においてもスキルは大切な部分だからである。スキルは必要である。

しかしここでもう一度言っておきたいのだが、本当に理解したいという真摯な望みがなければ、いくらスキルを使っても役には立たない。

あなたの態度に偽善や下心を少しでも感じとったら、相手は絶対に心を開かないし、逆に反発するだろう。

相手が親しい間柄の人なら、話を聴く前に、次のようなこと話しておくのもよいだろう。

「私はこの本を読んで、共感して聴くことを知った。そしてあなたとの関係について考えてみて、今まであなたの話を本当の意味では聴いていなかったことに気づいた。でも、これからはあなたの身になって話を聴きたい。簡単にできることではないだろう。うまくできないときもあるかもしれない。でも頑張ってみようと思う。私はあなたのことを大切に思っている。だからあなたを理解したい。あなたにも協力してほしい」

こうしてあなたの動機を相手に対して宣言するのは、大きな預け入れになる。しかし、あなたに誠意がなかったら、相手を傷つけるだけである。

このような宣言をして相手に話をするよう促し、相手が心を開いて傷つきやすい心の中を見せてから、実はあなたに誠意がないとわかったら、その人は弱い部分をさらけ出したまま放り出され、傷はいっそう深くなる。

氷山の一角であるテクニックは、その下にある人格という巨大な土台から生まれたものでなければならないのだ。

相手の身になり共感して話を聴くといっても、時間がかかってまどろっこしいと反発する人もいるだろう。

たしかに最初は時間がかかるかもしれない。しかし先々まで考えれば、大きな時間の節約になる。

仮にあなたが医者で、確実な治療を施したいと思えば、時間をかけてでも正確な診断を下すことが一番効率的である。

医者が「今日は忙しくて診断を下す時間がないんです。この薬でも飲んでてください」と言わないだろう。

あるとき、ハワイのオアフ島で原稿を書いていた。涼しいそよ風を入れようと、机の前と脇の窓を開けていた。私は原稿を章ごとに分けて大きな机の上に並べた。すると突然、風が強くなり、原稿を吹き飛ばした。

原稿は部屋中に散らばり、まだページ番号を入れていない原稿も多かったので、私はすっかり慌ててしまった。私は必死にすぐに原稿を集めてまわった。

ここでようやく、最初に一〇秒かけて窓を閉めたほうがよかったのだと気づいたのである。

共感して話を聴くのはたしかに時間がかかる。しかし、相手に心理的な空気を送らず未解決の問題を抱えたまま、ずっと先に進んでから誤解を正したり、やり直したりすることに比べれば、たいした時間ではない。

洞察力があり、共感して話を聴ける人は、相手の心の奥底で何が起きているかをいち早く察し、相手を受け入れ、理解してあげることができる。

だから相手も安心して心を開き、薄皮を一枚ずつ剥いでいき、やがて柔らかく傷つきやすい心の核を見せ、そこにある本当の問題を打ち明けられるのである。

人は誰でも、自分のことをわかってもらいたいと思っている。

だから、相手を理解することにどんなに長い時間を投資したとしても、必ず大きな成果となって戻ってくる。

なぜなら問題や課題が正しく理解されたと感じたとき、人が深く理解されていると感じたときに増える信頼口座の残高があれば、解決に向かって進めるようになるからだ。

理解ととらえ方

人の話を深く聴けるようになると、とらえ方は人によって大きく異なることがわかってくる。

そしてその違いこそが、相互依存の状態において他者と力を合わせて何かをするときにポジティブな効果を与えることもわかってくる。

同じ一枚の絵が、あなたには若い女性に見える。私には老婆に見える。その両方が正しい、そう思えるようになるのだ。

あなたは配偶者中心の眼鏡で世の中を見ているかもしれない。私は経済やお金中心の眼鏡で見ているかもしれない。

あなたは豊かさマインドに脚本づけられているかもしれない。私は欠乏マインドに脚本づけられているかもしれない。

あなたは、視覚的、直観的、全体的に物事をとらえる右脳タイプで、私は分析的に系統立てて考え、論理的に物事をとらえる左脳タイプかもしれない。あなたと私とでは、これほどもののとらえ方が違うかもしれないのである。

それでも、あなたも私もそれぞれのパラダイムで何年も生きてきて、自分に見えていることが「事実」だと思い、その事実が見えない人は人格や知的能力に欠点があるんじゃないかと疑ってしまう。

人はそれぞれ違いがあるのに、家庭でも会社でも、地域社会の奉仕活動でも、決められたリソースをうまく使って結果を出すために力を合わせなくてはならない。

そのためにはどうすればいいのだろうか。

自分のもののとらえ方の限界を超え、他者と深いコミュニケーションをとって協力して問題に取り組み、Win-Winの解決策に到達するには、どうすればいいのだろうか。

第5の習慣がその答えである。

それが、Win-Winに至るプロセスの第一歩である。

たとえ相手がWin-Winのパラダイムを持っていなくとも、むしろそのような相手であればこそ、こちらがまず相手を理解する努力をすることが大切なのである。

ある会社の重役の体験談を紹介しよう。この原則の力強さを知ることができる。うちはほんの小さな会社なのですが、ある大手銀行と契約の話が進んでいました。

銀行側は、サンフランシスコから弁護士をわざわざ飛行機で呼び寄せ、オハイオからは交渉担当者もかけつけ、大きい支店の支店長二人まで加わり、総勢八人の交渉団でやってきたのです。

私たちは、Win-WinorNoDealで交渉を進めることにしていました。

こちらはサービス水準を大幅に引き上げ、コスト面でもかなりいい条件を提示していたのですが、銀行側はそれをはるかに上回る要求を出してきたのです。

うちの社長は交渉の席に着くと、こう切り出しました。

『まずはお客様のほうで納得のいくように契約書を書いていただけますか。そうすれば、私どももお客様のご要望をよく理解できます。それに従って交渉を進めさせていただきたいと思います。値段についてはその後で交渉することにしましょう』と。

これには銀行の交渉団も度肝を抜かれたようでした。自分たちが契約書を書くことになるとは思ってもいなかったでしょうからね。銀行側はそれから三日後に契約書の文面を持ってきました。

契約書が提示されると、うちの社長は「まずお客様の望んでいることを、こちらが理解しているかどうか確認させてください」と言って契約書を読み始めました。

条項を一つずつ追いながら自分の言葉に置き換え、相手の気持ちを察し、銀行側にとって重要なことを自分がちゃんと理解しているか確認しながら、最後まで目を通しました。

社長は銀行側の考えをすっかり理解すると、今度は私たちから見た問題点を説明し始めました。銀行の交渉団はきちんと聴いてくれましたよ。こちらの話を聴く気になっていたんですね。戦闘的な気配は微塵もありませんでした。

交渉が始まったときは形式ばっていて、疑心暗鬼で、まるで敵同士みたいな感じでしたが、力を合わせて良い結果を出そうという空気になっていました。

こちらの説明が終わると、銀行の交渉団は、『御社にお願いしたい。そちらの言い値でサインしましょう』と言ってきましたよ。

そして理解される

まず理解に徹し、そして理解される。理解されることが第5の習慣の後半だ。

同様にWin-Winの結果に到達するためにも不可欠である。第4の習慣のところで、成熟さとは勇気と思いやりのバランスであると定義した。

相手を理解するには、思いやりが要る。そして自分を理解してもらうには、勇気が要る。

Win-Winを実現するには、思いやりと勇気の両方が高いレベルで必要だ。

相互依存の関係においては、自分をわかってもらうことも重要なのである。古代ギリシャには素晴らしい哲学があった。

それは、エトス、パトス、ロゴスという三つの言葉のまとまりで表される哲学である。

この三つの言葉には、まず理解に徹し、それから自分を理解してもらうこと、効果的に自分を表現することの本質が含まれていると私は思う。

エトスは個人の信頼性を意味する。

他者があなたという個人の誠実さと能力をどれだけ信頼しているか、つまりあなたが与える信頼であり、信頼残高である。

パトスは感情、気持ちのことである。

相手の身になってコミュニケーションをとることだ。

ロゴスは論理を意味し、自分のことを筋道立てて表現し、相手にプレゼンテーションすることである。

エトス、パトス、ロゴス。この順番に注意してほしい。

まず人格があり、次に人間関係があり、それから自分の言いたいことを表現する。

これもまた大きなパラダイムシフトである。

自分の考えを相手に伝えようとするとき、ほとんどの人は真っ先にロゴスに飛びつき、左脳を使っていきなり理屈で攻めようとする。

エトスとパトスには見向きもせずに、自分の論理がいかに正しいかを述べ立てるのである。ひどくストレスを抱えている知人がいた。

上司が非生産的なリーダーシップ・スタイルを曲げようとしないからだという。

「なぜ変わろうとしないのだろう?」と、知人は私に聞いてきた。「話し合いを持ち、彼はわかったと言った。それなのに何もしようとしない」「君が効果的なプレゼンテーションをすればいいじゃないか」と私は言った。

「したさ」と彼。

「効果的という言葉の意味をどうとらえている?セールス・パーソンの成績が振るわないのは、誰のせいだろう?お客さんではないはずだ。効果的というのは、PとPC両方のことなんだ。君は自分が望んでいた変化を起こしたかい?その過程で信頼関係を築いただろうか?君のプレゼンテーションの結果はどうだった?」「僕が言っているのは、上司のことだ。彼は何もしない。聞く耳を持たないんだよ」

「それなら、君の考えを効果的なプレゼンテーションで伝えることだ。まず彼の身になって考えてみる。自分の言いたいことを簡潔にまとめて、目で見えるかたちでプレゼンする。

相手が望んでいることを相手よりもうまく説明しなくちゃいけない。ある程度の準備が要るよ。やれるかい?」

「なぜそこまでしなくちゃいけないんだ?」と彼は納得しない。

「つまり、君は上司にはリーダーシップ・スタイルを変えてほしいと思っていながら、自分のプレゼンテーションのスタイルは変えようとしないのかい?」「そういうことかな……」と彼は答えた。

「なら、笑顔で今の状況を我慢するしかないね」「我慢なんかできるものか。そんなことをしたら自分に嘘をつくようなものだ」「それなら、効果的なプレゼンテーションをするしかないよ。それは君の影響の輪の中にあることだよ」

結局、知人は何もしなかった。あまりに投資が大きすぎると思ったのだろうか。大学教授である別の知人のほうは、しかるべき努力をした。

ある日、彼は私のところに来て、こう言った。

「私の研究分野はこの学部の主流じゃないから、予算をもらおうにもこちらの話を聴いてくれないんだ。困ったよ」

私は、彼が置かれた状況をしばらく聴いてから、エトス、パトス、ロゴスのプロセスで効果的なプレゼンテーションを行ってはどうかとアドバイスした。

「君が誠実な人間であることはよくわかっているし、君の研究に大きな価値があることもわかった。相手が望むような代替案を相手よりもうまく説明するんだ。

君が相手を深く理解していることが伝わるようにする。それから、君の要求を論理的に説明する」「わかった。やってみるよ」「私を相手に練習してみるかい?」と持ちかけると、彼は喜び、リハーサルしてみた。

本番のプレゼンテーションで、彼はこう切り出したそうだ。

「まず、学部の現在の研究目標が何か、私の予算申請に対して学部が何を懸念しているのか、私自身がきちんと理解しているか確認させてください。

それから私の提案をお話しさせていただきます」彼は時間をかけ、丁寧に話した。

彼が学部側の事情と立場を深く理解し、尊重していることが伝わると、主任教授は他の教授に向かってうなずき、彼の方を向いてこう言った。

「研究費を出そう」相手のパラダイムや関心事を最初に深く理解し、その理解に沿って、自分の考えをはっきりとわかりやすく、目に見えるかたちで表現すれば、あなたのアイデアに対する相手の信頼は格段に上がる。

あなたは自分の立場から離れないわけでもなく、虚飾の言葉を弄して自分勝手な理屈を並べ立てているわけでもない。あなたは本当に理解している。

あなたのプレゼンテーションは、最初に考えていたものとは違ってくるかもしれない。相手を理解しようと努力するうちに、自分でも何かを学ぶからである。

第5の習慣が身につくと、自分の考えをより正確に、誠実な態度で表現できるようになる。それは周りの人たちにも伝わる。

知りうるすべての事実、関係者全員のものの見方を考慮して、全員のためになる案を誠意を持って提示していることが、周りの人たちにもわかるようになるのだ。

一対一

第5の習慣の効果が大きいのは、あなたが自分の「影響の輪」の中心に働きかけるからである。

他者と関わり合いを持つ相互依存の状況では、自分の力では解決できない問題や対立、自分には変えることのできない事情や他人の行動など、影響の輪の外のことが多くなる。

輪の外にエネルギーを注いでいても、ほとんど何の成果もあげられず、ただ消耗するだけである。

しかし、まず相手を理解する努力なら、いつでもできる。これならば、あなたの力でどうにかできる。

自分の影響の輪にエネルギーを注いでいれば、だんだんと他者を深く理解できるようになる。

相手の正確な情報に基づいて問題の核心を素早くつかめる。信頼口座の残高を増やし、相手の心に心理的な空気を送り込める。

そうして、一緒に問題を効果的に解決できる。これはまさにインサイド・アウトのアプローチである。

内から外への努力を続けていくと、影響の輪にどのような変化が起こるのだろうか。相手を本気で理解しようと思って聴くから、あなた自身も相手から影響を受ける。

しかし、自分も心を開いて他者から影響を受けるからこそ、他者に影響を与えることもできるのである。

こうしてあなたの影響の輪は広がり、やがて関心の輪の中にあるさまざまなことにまで影響を及ぼすようになっていく。

あなた自身に起こる変化にも注目してほしい。周りの人たちへの理解が深まるにつれ、その人たちの人間的価値が見え、敬虔な気持ちを抱くようになる。

他者を理解し、その人の魂に触れることは、神聖な場所に足を踏み入れるのと同じなのである。

第5の習慣は、今すぐにでも実行に移すことができる。

今度誰かと話をするとき、自分の自叙伝を持ち出すのはやめて、その人を本気で理解する努力をしてみる。

その人が心を開いて悩みを打ち明けなくとも、その人の身になり、共感することはできる。

その人の気持ちを察し、心の痛みを感じとって、「今日は元気がないね」と言ってあげる。

その人は何も言わないかもしれない。それでもいい。あなたのほうから、その人を理解しようとし、その人を思いやる気持ちを表したのだから。

無理強いしてはいけない。辛抱強く、相手を尊重する気持ちを忘れずに。その人が口を開かなくとも、共感することはできる。表情やしぐさを見ることによって相手に共感することができる。

その人の胸のうちを敏感に察してあげられれば、自分の経験談を話さずとも、寄り添うことはできるのだ。

主体性の高い人なら、問題が起こる前に手立てを講じる機会をつくるだろう。息子や娘が学校で大きな問題にぶつかるまで手をこまねいている必要はないのだ。

あるいは、商談が行き詰まってから手を打つのではなく、次の商談からすぐにでも、まず相手を理解する努力をしてみる。

早速、子どもと一対一で話す時間をつくってみよう。子どもを本気で理解するつもりで、真剣に耳を傾ける。

家庭のこと、学校のこと、あるいは子どもが直面している人生の試練や問題を、子どもの目を通して見る。

信頼口座の残高を増やす努力をし、子どもの心に空気を送り込むのである。あるいは、配偶者と定期的にデートしてみる。

食事に行くのもいいだろうし、二人で楽しめることをするのもいいだろう。お互いの話に耳を傾け、わかり合う努力をする。お互いの目を通して、人生を見つめてみる。

妻のサンドラと過ごす毎日の時間は、私にとってかけがえのないものである。

お互いを理解する努力はもちろんだが、子どもたちときちんとコミュニケーションをとれるように、共感して聴くスキルの練習をすることもある。

お互いのもののとらえ方を話し合ったり、より効果的に家族の難しい人間関係へのアプローチをロールプレイで練習したりもする。

たとえば私が息子か娘の役をやり、家族の一員としての基本的な義務を果たしていないのに、何かの権利を要求する。妻はどう対処すればよいか練習するのである。

私と妻が手本となって子どもたちに正しい原則を教えられるように、さまざまな状況を思い描き、役を交替しながらロールプレイをするわけである。

子どものことで両親のどちらかがうまく対応できなかったり、しくじったりした状況を再現し、ロールプレイで練習しておけば、後々役に立つ。

愛する人たちを深く理解するために投資した時間は、開かれた心と心のコミュニケーションという大きな配当になって返ってくる。

家庭生活や結婚生活に影を落とす問題の多くは、深刻な問題に発展する前に解決できるものである。

家庭の中に何でも話し合えるオープンな雰囲気があれば、問題になりそうな芽はすぐに摘み取れる。

たとえ大きな問題が持ち上がっても、家族同士の信頼口座の残高がたっぷりあれば、対処できるのである。

ビジネスにおいても、部下と一対一で向かい合う時間をつくり、話を聴いて、理解しようと努力する。

人事関係の問題に対処する窓口やステークホルダーから情報を集めるシステムを確立して、顧客や仕入れ先、スタッフから率直で正確なフィードバックを受ける仕組みを社内に設置することもできる。資金や技術と同じくらい、それ以上に人を大切にする。

会社のあらゆるレベルの人の力を引き出すことができれば、時間もエネルギーも資金も大幅に節約できるだろう。

自分の部下や同僚の話を真剣に聴き、彼らから学び、そして彼らの心に心理的な空気を送り込む。

そのような会社であれば、九時から五時までの勤務時間の枠を超えて一生懸命に働く忠誠心も育つのである。

まず理解に徹する。

問題が起こる前に、評価したり処方したりする前に、自分の考えを主張する前に、まず理解するよう努力する。

それは、人と人とが力を合わせる相互依存に必要不可欠な習慣である。

お互いに本当に深く理解し合えたとき、創造的な解決策、第3の案に通じる扉が開かれる。

私たちの相違点が、コミュニケーションや進歩を妨げることはなくなる。それどころか、違いが踏み台になって、シナジーを創り出すことができるのである。

第5の習慣:まず理解に徹し、そして理解される実践編

1信頼口座が赤字になっていると思うような相手を一人選ぶ。

その人の視点に立って現状を眺め、気づいたことを書き留めておく。今度その人と話す機会があったら、本気で理解するつもりで話を聴き、書き留めておいた内容と比べてみる。相手の視点に立って考えたことと合っていただろうか。その人の考えを本当に理解していただろうか。

2共感とはどういうことか、身近な人と共有する。

その人に、「共感して話を聴く練習をしたいから、私の様子を一週間観察して、フィードバックしてくれないか」と頼んでみる。どんなフィードバックをもらっただろうか。その人はあなたの態度にどんな印象を持っただろうか。

3人々が話をしている様子を観察する機会があったら、両耳をふさいで数分間眺めてみる。

言葉だけでは伝わらない感情を読みとることができるだろうか。

4今度誰かの話を聴いていて、つい自分の経験談、自叙伝を持ち出し、質問して探ったり、自分勝手な評価や助言、解釈をしてしまったら、素直にそれを認めて謝る(「ごめんね。君の話を本当に理解するつもりで聴いていないことに気づいた。最初からやり直してもいいかな?」)。

このような態度は信頼口座への預け入れになる。

5今度自分の意見を述べるとき、共感したうえで行ってみる。

相手の考え、立場を相手以上にうまく説明する。それから、相手の視点に立って自分の考え、立場を説明し、理解してもらう。

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