なぜ人類は労働から解放されないのか日々、楽しく、気の赴くままに暮らしていると言うと、よく「すごい」「なかなかできることじゃない」なんて言われるのですが、それが僕には不思議です。
労働者の時間が最も搾取されていたのは、19世紀半ばごろじゃないかと言われています。
産業革命によってさまざまな技術革新が起こり、工場や機械を持つ資本家が労働者を雇い、モノを作って売るという資本主義が生まれて、人間の労働時間は劇的に長くなりました。
一説によれば、1840年ごろのイギリスの労働者は、年に3500時間くらい働いていたらしいですね。
これを単純に365日で割ると、土日も含めて1日あたり10時間近くの労働時間ですから、かなりブラックです。
この時期をピークとして、さすがに労働者を働かせすぎだということで、その後、1919年に制定されたILO第1号条約により、「8時間労働」が世界に浸透しました。
そして、ご存知のとおり8時間労働は現代まで続いているわけですが、それが僕には腑に落ちません。
現代の技術の効率性をもってすれば、昔と同じ仕事量をわずかな時間でこなせるはずです。それなのに、なぜか人類は、1世紀以上前と変わらず1日8時間働いているのです。
僕は、たくさん働きたい人は働けばいいという考えです。
ただ、電通などの一般企業や、覚せい剤を使って月300時間の残業を乗り切っていたエリート官僚とかのニュースを見ると、それほど働きたくないのに働かされている人が多いことがわかります。
エリート官僚の彼は、平均しても月150時間の残業をしていたそうなので、単純計算したら年に3800時間くらい働いていたことになります。
好きで残業しているわけでもないのに、人類の長時間労働記録を更新しちゃうってどうなの?と思うわけです。
つまり、本当なら大して働かなくても生きられるようになっていてもおかしくないのに、なぜか多くの人がまだまだ労働に追われているのです。
僕が気ままに暮らしていることなんかよりも、こっちのほうが、ずっと不思議なことではないでしょうか。
おそらく、生活も仕事も便利で効率的になる一方で、多くの人が必要ないものを買ったり、お金がかかることに楽しみを見出したりするようになったため、「もっとお金を稼がなくてはいけない」というループにはまっているのだと思います。
そういう頑張り方も、そろそろやめたほうがいいのではないか。
多くの人が、「一生懸命、頑張る」ということの方向性を、じつは間違えているように感じます。
一生懸命には頑張っていない僕みたいな人間が、一般的な会社員よりたくさんお金を持っていたりするわけで、ひょっとしたら「頑張る」ということ自体、現代ではあまり必要ないことなんじゃないか、とすら思うのです。
やたらと「仕事時間」を確保したい人たちより効率的に仕事をこなすには、タクシーに乗って移動時間も仕事時間に変えよう、タクシー代は移動オフィス代なのだ──みたいな話が、ビジネス書によく書いてあります。
それでうまくいっている人もいるだろうから否定はしませんが、僕自身は、あまりタクシーに乗りません。
むしろ電車移動のほうが自分に合っていると思います。電車の中には、不特定多数の人が発する情報が、絶えず飛び交っているからです。
電車に乗ると、「以前はスマホでゲームをしている人が多かったけど、今はそうでもないな」「タッチパネル式の自販機が増えてきたのは、スマホの普及で人がようやくタッチパネルに慣れてきたからだろうな」などと気づいたりできます。
加えて、周りで交わされている会話をぼんやり聞いたりできるというのも、僕にとってはメリットです。
改めて考えてみると、電車ほどバリエーション豊かに他人の雑談を聞ける場所は、他にないかもしれません。
居酒屋だと酔った大人しかいないし、ファミレスだとママ友くらいでしょうか。
その点、電車なら、わざわざ意識しなくても、移動しながら高校生とか大学生の会話が耳に入ってきます。
最近、どんな言葉をしゃべって、どんなことを面白いと思っているのかが飛び込んできて、「へえ~」とか思ったりします。
といっても、有益な情報が聞こえてくることは稀ですよ。
たいていは、くたびれた大人の愚痴で、「こういうしょうもない愚痴を言っているから、いい年こいてこんな感じなんだろうな」と思うことが多いです。
あとは、僕が苦手な「女子トーク」とかも聞こえてきます。目的もなく、ただ話題が移ろうに任せて話すので「なんなんだ?」とは思いますが、ハタから聞いているぶんには面白いです。自分が参加するのは願い下げですけどね。
まあ、そういうのも含めて、電車移動は、人間観察が趣味の僕にとってひとつのエンタメみたいなものだと思います。
「働けば働くほどエラい」は本当か?それに、そもそもタクシーに乗ってまで時間を確保しなくても、仕事ってなんとかなるんじゃないでしょうか。
自分の手を動かして物事をプラスにしていくというのは、どちらかというと、見えている結果に向かって「進んでいく」ということだと思うんですが、仕事で一番重要な部分は、そこじゃなくて「思いつく」ことです。
つまり、僕がしているのは、「こうしたらうまくいくよね」というアイデアを出すことであって、「あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ」と作業に追われることではないわけですね。
人間の脳は、あれこれといろんなことに頭を使っていないときのほうが思考しやすくできています。
だから、うまくいく方法を思いつくのには、かえって電車移動中とか入浴中とかにボーッと考えるほうが適しているんじゃないでしょうか。
で、うまくいく方法さえ思いつけば、あとは僕が頑張らなくても、人に振ることで勝手に回り始めます。だから僕は、タクシーに乗ってまで仕事時間を確保する必要がないのです。
そもそも、やたらと仕事時間を確保したがる人が、すごくうまくいっているという話を、あまり聞いたことがありません。
「仕事にかける時間は、あればあるほどいい」というのは、要するに、時間を確保するほどに成果が上がるということです。
でも、しょせん時間には限りがあるわけだから、その中で得られる成果には限界があります。
本当は、できるだけ時間をかけずに、より多くの成果を上げたほうがいいわけで、時間と成果を比例関係で捉えていること自体が間違っているんじゃないか。
僕はそう思いますね。
自分が動くより、人に動いてもらうたとえば、僕の会社のプロジェクトで緊急事態が起きたとします。
もし僕しか対処できなかったら、すぐに会社に戻って、自分で作業するなり判断するなりしなくてはいけません。
当然、時間的コストがかかります。
でも、最初から現場の判断で対処できるように仕組みを作っておけば、必要以上に時間をとられずにすむわけです。
大して動いていない僕と、5分おきにスケジュールを入れて動きまくっている人とでは、一見、後者のほうが成果を上げているように見えるかもしれません。
だけど実際のところは、おそらく僕のほうが、ずっと大きな成果を得ているんじゃないかと思います。
時間というコストに対する成果の大きさを見れば、僕の考え方のほうが、はるかにコスパがいいはずなのです。
もうひとつ例を挙げると、僕はプログラムを書くことができますが、今は、必要があればプログラマーを雇っています。
プログラミングにはパズル的な一面があって、パズル好きの僕としては、たまにやるぶんには楽しめるのですが、今となっては他にやることもあるし、すべて自分でやる必要性を感じないのです。
だいたいプログラミングのことはわかっているので「もう、いいかな」という気持ちもあるし、自分が手を動かすよりも人を雇って手を動かしてもらったほうが、結果的にはコスパがいいというのもあります。
もちろん人を雇うコストはかかりますが、そのせいで損をするようなプロジェクトなら、最初からやらなければいい話です。
たとえば、プログラマーを雇うのに20万円かかるとして、そのお金を惜しんで自分でプログラムを書いたとします。
これだとたしかに20万円は浮きますが、そうしたところで、そもそも20万円程度の売上しか見込めないようなプロジェクトだったら、そんなのやる意味なくない?と思うわけです。
人を雇うコストを補って余りある利益が見込めるのなら、人を雇ってでもやるし、その程度の利益も見込めないのなら、自分ひとりでもやらない。
仮に1000万円の売上が見込めるプロジェクトだったら、20万円をケチる必要はないわけです。
人に20万円払って手を動かしてもらえば、その間に、僕はまた、僕にしか考えられない別のことを考えられます。
つまり、これはコストをかけるかどうかではなく、最初の設計をどうするかという問題なのです。
それが誰にも任せたくないほど楽しくてたまらないことだったら、時間をかけて自分ひとりでやるのもいいと思いますけどね。
「努力」属性ではない僕の闘い方とにかくがむしゃらに頑張るとか、無理をどうにか通そうというのは、そもそも「負け」が確定している中での努力なので、そこは早々に諦めて、さっさと別の勝利条件をそろえたほうがいいんじゃないでしょうか。
僕はそう考えるほうなのですが、自分の能力に自信がある人ほど、とっくに詰んでいる盤面をひっくり返せると思いがちです。
東京オリンピックでも、一時期マラソンのルートに水をまくとか、うちわであおぐとか、付け焼き刃的な案が出されましたが、「そもそも猛暑の東京でマラソンをするのは無理だよね。じゃあ、どこでやろうか」と考えるのが問題解決の近道でしょう。
どうして国際オリンピック委員会の偉い人に言われるまで、札幌開催の話が出なかったのか、僕は不思議でしょうがないのです。
努力を全否定しているのではありません。
たとえば、営業の仕事をする人の中には、飛び込みで「買ってくれるまで帰りません」と熱烈に売り込むみたいに、努力で売上を立てる才能がある人も、一定数いるとは思います。
さらに、負けが確定しているような状況から、力技で形勢逆転できる人もいるでしょう。
まさに少年マンガの主人公が、努力に努力を重ねた末に、はるかに格上の敵を打ち負かすみたいなことです。ただ、そういう努力をする才能が僕にはありません。
「直接戦闘」とか「ど根性」系の能力値は低いと自分でわかっているので、努力して売れる商品じゃなくて、放っておいても売れる商品を作って並べておいたほうがラクじゃないかと考えるほうです。
「2ちゃんねる」や「ニコニコ動画」を作ったときも、そうでした。
ガンガン広告宣伝費をかけて知ってもらおうという意識は全然なくて、「面白ければ自然に人は集まるでしょ」というアイデアで勝負するスタンスだったから、面白いものを作ることに注力しました。
努力属性の人は、たぶん頑張ること自体を楽しめるのだと思います。
自分が動きまくって営業成績の数字が伸びていくことが喜び、みたいなスポーツ的な楽しみが、きっとあるのでしょう。
僕からしたら、時間も体力も使うので「嫌だなぁ」としか思いません。
そこは性格によるので、何が正しいという話ではないのですが。
「できない自分」を前提とする以前、ある人が「仕事で20個くらいキャッチコピーを考えなくてはいけなくて、時間はかかったけれど、なんとか捻り出せました」なんて話していたのを聞いて、驚いたことがあります。
どれだけ自分の才能を信じているんだろう、けっこうムダな時間を使ってるなと思いました。
僕だったら、自分のボキャブラリーが限られていることを前提にして「じゃあ、どうしようか」と考えるでしょう。
たとえば、同じ表現しか思い浮かばなかったら、類語辞典で調べて表現のバリエーションを増やすとか、売れているもののキャッチコピーをネットで検索するとか、あらゆる手段を活用して手を抜きます。
自分の能力に自信がある人ほど、自分の頭でなんとかしようとするものです。
でも、じつは、自分の頭でなんとかしようとしないほうが、むしろ時間的にも内容的にも、うまくいくことが多い気がします。
自分の能力だけでなんとかしようとするのが、まず基本的に間違っているんじゃないかと思うわけです。
同様に、自分自身のセンスや経験値に頼りすぎるのも危険だと思います。
たとえば、若い女性向け商品の開発会議で「この新商品はピンク色にしたい」とプレゼンするとします。
その場合、「私の経験と直感です」という主観的根拠で主張するのと「原宿の写真をたくさん並べてみたら、ピンク色の洋服を着た女性が一番多かったからです」という客観的根拠で主張するのでは、圧倒的に後者のほうが説得力は強いでしょう。
自分の中にあるセンスや経験だけ持ってきても、他人を説得することはできないのです。自分の能力に自信がある人ほど、陥りがちなところですね。
人間、努力ではどうにもならない件ずっと前に『銃・病原菌・鉄』(草思社)という本で読んだのですが、なぜ、数では圧倒的に劣る白人(スペイン人)がインカ帝国を征服できたのかというと、ひと言で言えば、「スペイン人が、東西に長いユーラシア大陸にいたから」だそうです。
ちょっと聞くと、わけがわからないと思いますが、物事って、努力よりも環境や条件の影響が大きいってことです。
インカ帝国は、現在の南アメリカ大陸の北西部に興った国ですが、そのころのアメリカ大陸にはなかった銃や鉄製の武器が、ユーラシア大陸にはあった。
だから白人は数で圧倒的に劣っていても勝つことができました。ただし、それは白人が特別に有能だったからとか、勤勉だったからではありません。
詳しい説明は省きますが、気候差が激しい南北より、東西のほうが人や作物や技術の移動、伝播のスピードが速いため、東西に長いユーラシア大陸では生産性が上がりやすく、そのぶん早く文明が発達したからだそうです。
要するに、白人が銃などの文明の利器によって圧倒的な強さを持てたのは、東西に長いというユーラシア大陸の地理的条件の為せる業だったのです。
努力の差ではなく、地理的条件の違いによってスペックに大差が生まれてしまったため、南北に細長いエリアで発達したインカ文明は敗れた。
いくら努力しようと、ユーラシア大陸で発展してきた技術を持つ白人に対して勝ち目はなかったわけです。
こんなふうに、「人間、努力ではどうにもならん」というのは、遺伝子的な違いを見ても同様に感じます。
たとえば、100メートル走の勝者にアフリカをルーツに持つ選手が多い理由には、彼らの努力量にも増して、彼らが「遺伝子的に走るのが速い」という要因がありますよね。
言ってしまえば数万年以上前から勝負はついてしまっているわけで、その差を努力で覆そうとしても、ほとんど無理じゃないかと思ってしまうのです。
まあ、僕からすると、100メートル走でコンマ何秒の記録更新とかは本当にどうでもよくて、それ自体、かなり意味のない戦いに見えるのですが。
ともあれ勝負は、環境や遺伝子による違いで決まってしまうことが大半だから、やっぱり人間、努力ではどうにもならんよな、と思うわけです。
優れるよりも、いい波に乗れそう考えると、重要なのは個人が優秀かどうか、どれだけ努力できるかどうかではなくて、いかに勝てる波に乗れるかどうかだと思います。
たとえば僕は、たまたまプログラミングに出会ったときに、「これは会社に出勤しなくていいタイプの仕事だ」と直感して続けました。
結果、今ではだいぶお金が入ってくるようになっています。
でも、もし僕が編み物業界でむちゃくちゃ努力して、「編み物の達人」みたいになっても、今の収入には及ばないでしょう。
つまり、僕が現在、たくさんお金を稼げているのは、僕という個人が優秀で努力家だからではなくて、ひとつ大きな要因として、ITという波に乗ったからに過ぎない。
個人が優秀かどうか、どれだけ努力できるかどうかは二の次なのです。
もちろん、編み物が大好きで、努力もまったく苦にならなくて、頑張って能力を磨いて食えるようになれれば幸せ、というなら最高ですが、しっかりお金を稼ぎたいのなら、僕だったら編み物は選ばないよね、という話です。
極端な例を出せば、経済的に恵まれている日本に生まれるのと、内戦が絶えない国に生まれるのとでは、人生のスタートラインがまったく違いますよね。
貧しい国に生まれた人は気の毒だし、まず先進国がなんとかすべき悲しい現実ですが、ともかく、個人の努力だけでどうにかしようとすることだけが問題の解決方法じゃないと思うわけです。
でも、最近の日本って、「努力は必ず報われる」とかいうパワーワードに縛られて、努力ではどうにもならん世界で、努力を強いられて苦しい思いをしている人が多い気がします。
いっそ僕みたいに、主人公キャラとしての自分の能力値は見切ったらどうでしょうか。
「自分の努力スキル」には頼らないようにしたほうが、だいぶラクに生きられるようになりますよ。
「労働=美徳」という呪縛フランスはキリスト教圏なので「労働=贖罪」という価値観がベースにあります。神に対する罪を償うために働かなくてはいけない。
こう言うと、死に物狂いで働くイメージを持つかもしれませんが、そういうわけでもないのです。
罪を背負っているというのは、そもそも、よからぬ状況です。
そして、労働が償いを意味するならば、労働しなくてはいけないというのも、同様によからぬ状況なわけです。
つまり、キリスト教圏の人たちにとって労働は、誰もが進んでやるべき美しきことではなく、できればやりたくない、解放されたい責務とも言えます。
現に、人々は働いて日々の糧を得なくてはいけないけれど、神に近い位置にいる聖職者たちは、神に祈ることで生きていけるのです。
あそこまで「上がった」ら、労働から解放されるんだということですね。
もちろん「過労死」とか「サービス残業」なんて概念自体もないので、実際、「過労死」は英語では「deathfromoverwork」とも訳されますが、そのまま「karoshi」でも通用するくらいです。
おまけにフランス人は権利意識が強いので、労働環境や労働条件に少しでも気に入らないところがあると、すぐにストライキを起こします。
こうした点で、日本人の労働に対する価値観とはずいぶん違うと思います。
日本人にとって労働は美徳であり、少しくらい条件が悪くても、頑張って働くこと自体に価値を見出します。
その思想の裏側には、頑張って結果を出せば報われるのだという淡い期待があるような気がします。
自分たちの努力によって業績が上がれば、きっと自分たちの給料も上がるに違いないと、雇用主の善意をどこか信じているところがある。
でも、フランスの人たちには、そんな期待も信用もありません。
だから、気に入らないことがあるとストライキをして、雇用主にもお客さんにも、ものすごい迷惑をかける。
「ほら困るでしょう。戻ってほしかったら条件をよくしてくださいよ」と、実力行使で権利を勝ち取るわけです。
嫌いな人とつるむ「謎の文化」日本でも近年は転職する人が増えているようですが、まだ欧米の比ではありません。
欧米だと、よりよい条件の会社に移るというのは当たり前のことですが、日本人の間では、まだまだ組織に縛られる意識が根強いのではないでしょうか。
この背景にあるのは、おそらく陸続きの国と島国との違いです。陸続きの国だと、絶えず人が出ていったり入ってきたりする。
それに、たいていの人はマルチリンガルだから、母国を出ることにもあまり抵抗がありません。日本で言うと東京から名古屋に行くくらいの感覚です。
そんなこんなで、人間関係が開放的かつ流動的だから、「ここが気に入らなければ、別のところに行けばいい」という価値観が普通なのです。
会社の飲み会なんかも、フランスではあまり聞きません。社員がそろって飲んだりするのは、歓迎会や送別会くらいです。
仲のいい同僚と仕事終わりにバーに寄るとかはありますが、仕事後は「完全にプライベートな時間」という意識が強い。
そしてプライベートはパートナーや家族と過ごすのが当たり前だから、みんな数杯飲んだらさっさと帰ります。
それより規模の大きいパーティーとかになると、今度はパートナーと一緒に参加します。もしパートナーが参加したがらなかったら、行くのをやめます。
日本人の感覚からすると、パートナーに断るという選択肢があるのかと不思議に思うかもしれませんが、フランスでは「プライベートの時間に、あんたの会社のやつに会いたくない」とかって平気で言います。
そこで「会社の人間関係が最優先だ」なんて言い返したら、すぐさま別れを告げられるんじゃないですかね。
一方、島国は海に囲まれているので、以前は簡単には外の世界に行けなかったし、外からもあまり人が入ってこなかった。
帰属する集団から逃げられないでいると、「限られた人間関係の中でうまくやることが大事」という価値観が生まれて、ひとつの組織に対するこだわりや帰属意識も強くなります。
飲み会がやたらと多いのも、結局はそこから来ているんでしょうね。
実際、帰国中に居酒屋とかに行くと、なんでこんなに会社員グループが多いんだろうと思います。それも、仲がいい同僚と帰りに一杯やっているわけじゃなさそうです。
好きな人じゃないならつき合わなければいいのに、日本人って、なぜか嫌いな人とでも長い時間を一緒に過ごしている気がします。
日ごろフランスで、親しげな人たちが、お酒を飲みながら楽しくおしゃべりしている風景ばかり見ているから、余計にそう感じるのかもしれませんが。
「生涯バイト」もアリの人生人間は社会的な動物だから、もちろん帰属意識は必要です。欧米の人たちにも帰属意識はあります。
ただ、それは家族や地域社会や国への帰属意識であって、会社への帰属意識はほとんどないように見えます。
なぜかと言えば、会社は仕事をする場所であり、仕事は生活の糧を得る手段に過ぎないからです。手段ならば、帰属意識なんて大して必要ありませんよね。
会社はあくまでお金を得る場所であって、友だちを作る場所ではない。だから言いたいことはハッキリ言うし、嫌いな人がいても、たいていは割り切って仕事をします。
もちろん、ときには人間関係のトラブルも起こりますが、割とさっぱりしている印象です。そして、仕事は生活するための手段である以上、合理的で効率的なほうがいい。
自分に対して、より合理的で効率的な条件を提示してくれる組織があれば、躊躇なく移るし、それの何がいけないわけ?という感じなのです。
たとえば学生にとって、アルバイトはお金を稼ぐ手段ですよね。
バイト先で友だちや恋人に出会うことで、愛着がわくことはあるかもしれませんが、帰属意識は大して生まれないでしょう。
店長がムカつくやつだったり、もっと時給が高いバイト先を見つけたりしたら、躊躇なく移るはずです。
フランス人の仕事意識って、日本で言うと、こうした学生アルバイトの意識に近い気がします。
そういうフランス人を見ていると、日本人は、帰属意識をちょっと履き違えているように思えるのです。
「社員はみな家族」みたいな会社のあり方は、それはそれで、ポジティブに機能する場合もあるのかもしれません。
でもそれ以上に、社員を組織に縛りつける窮屈なものに僕には見えてしまうのです。
「苦しい」より、「楽しい」時間を過ごす「若いときの苦労は買ってでもしろ」という言葉がありますが、たとえば指に針を刺し続けるとか、ただ単に苦しい思いをしてひたすら耐えて時間を過ごすことに、意味はないですよね。
耐えるだけ耐えた挙句、何の役にも立たなければ、苦しみ損ではないかと思います。
先ほどの話にも通ずるところがありますが、たぶん日本人にとっては「苦労そのものに意味がある」「苦労するのは正しい」ということなんでしょう。
動物は、目の前に食べものが並んでいると、自分の体に必要な栄養素を含んだ食べものを自然と選んで食べるそうです。じつは、これは人間の赤ちゃんも同じだと言います。
糖分の甘みを「おいしい」と感じる前の発達段階では、「体に必要なもの=おいしいもの」だから、おいしいものを選ぶことが体にとっても正解というわけです。
これを生き方に当てはめてみると、自分が好きで「楽しい」と感じられることをやっていくのが正しいという場合が、本質的には多い気がします。
それがいつのまにか、学校や会社から「砂糖は甘い」「甘いものはおいしい」みたいなおかしな洗脳をされて、自分にとって正しいものを選べなくなってしまう。
その洗脳とは、特に日本人で言えば「頑張ることは美しい」「努力がすべて」みたいな思想に染まることなんじゃないかと思います。
前にも言ったように、努力は必ずしも報われるわけではありません。
苦労すること自体が楽しいんだったらいいのですが、苦しいだけで地獄のような時間を過ごしているなら、そろそろそこに気づいて抜け出したらどうですかね。
「好きを仕事に」は万能のスローガンじゃない自分に向いた仕事をしている人や自分の好きなことを仕事にしている人は、ひと昔前よりずっと増えているのでしょうが、やっぱり絶対数的には、まだ圧倒的に少ないと思います。
僕だって、今の仕事は趣味の延長ですが、今の仕事が一番向いているのかと言われたら、それはわかりません。
たとえば、プログラミングはパズルと一緒で必ず「正解」があります。やり方さえ間違えなければ絶対に動く。そういう点で、正解がないことも多い営業職とかよりは僕の性に合っているとは思います。
でも、今まで経験したことがないことをやってみたら、今の仕事より、もっと向いていると感じる可能性もゼロではないのです。
それに、好きなことを仕事にしようと決めた途端に、いきなり挫折してしまう場合なんかもあると知っておいたほうがいいと思います。
以前、食べることが好きな友人が、飲食店をやりたいと言って、いろいろと調べていたことがあります。
ところが、食べることが好きなだけに、食材にこだわりすぎて原価率が大変なことになってしまい、結局、やめることにしたみたいです。
こう言ってはなんですが、「それなりに好き」くらいの人が、原価率を抑えた「それなりにおいしいもの」を出せたほうが儲けもきちんと出るし、成功しやすいのではないでしょうか。
僕も、ゲーム好きだから向いているかと思って、ゲーム会社で働いたことがあります。
でも、そこら中にゲームがあると、「飽きたら次、飽きたら次」ということが延々とできてしまいます。
すると、逆にどのゲームにも没頭できず、ゲームをやっても楽しくないみたいな状況に陥り、会社も割とすぐに辞めてしまいました。
そう考えると、「好きなこと」と「仕事として向いていること」「仕事として成り立つこと」は、両立しない場合も多い気がするのです。
幸せな時間を確保するために、仕事を選ぶというわけで、好きじゃないことを仕事にしている人はいまだに多いし、好きなことを仕事にする方向を探ることが、必ずしもうまく機能するわけではないのです。
だとしたら、なおのこと、自分の自由な時間を確保することが本当に重要だと思います。
自分は何に幸せを感じているのか。
これがわかっている人は、逆算的に「じゃあ、それをする時間を確保するために、どんな仕事をしたほうがいいのか」を考えるのが得策でしょうね。
そうすれば、大して好きな仕事じゃなくても、「仕事は仕事、趣味は趣味」と割り切って、仕事以外の時間に、思いっきり趣味に没頭することができますよね。
そして、むしろそういう人のほうが、自分が何に幸せを感じるのかもわからずに「仕事が好きになれない」なんて悶々と悩んでいる人より、ずっとラクで幸せに生きられるんじゃないかと思うのです。
僕の知り合いにも、建設会社に就職した後に「自分は夕方以降は遊びたいんだ。そのためには〝9時5時〟の公務員になるしかない」と一念発起して、公務員試験に受かってしまった人がいます。
公務員試験はかなり難しいはずですが、いきなり合格していました。「夕方以降は確実に遊べるライフスタイル」を手に入れたい一心で頑張ったのでしょう。
一方で、自分は何が好きで、何をしていると楽しいのかということすら、自分で把握できていない人も多い気がするのです。
そういう人は、いろいろやってみる時間を確保して、「あ、これは面白いな」と思えるものと出会うタイミングを逃さないようにすることが大事ですね。
さらには誘ってくれる友だちとか、誘われたら「とりあえず乗ってみるマインド」なんかを持ってみるのも、おすすめです。
趣味を仕事にしてたくさん稼げる人もいれば、仕事と趣味を完全に切り分け、趣味に使える時間をきちんと確保する人もいる。
はたまた、薄給だけど好きな仕事を「お金がもらえる趣味」と考えて、ダブルワークしたっていい。
まあ、副業解禁が進んでいるとは言われつつも、副業を公式に認めている日本企業は、実際まだまだ少ないとは思いますが。
ともかく、働き方って、唯一無二の正解のある話ではない気がするのです。
「自分にとってどんな状態が一番楽しいのか」は人それぞれ違うのだから、まず、その一番大事なところを、自分でしっかり見つめてみたらいいのではないでしょうか。
そうやって自分目線で時間を扱えるようになるだけでも、幸福度はだいぶ上がると思いますよ。
「権限」は分配するほどコスパがいい仕事で重要なのは「あなたがいなくては止まってしまう」というボトルネックをなるべく減らして、現場の判断でどんどん回せるようにすることです。
僕が一兵卒だったらいいのですが、トップに立つ僕が権限をすべて握っていると、僕の判断待ちで動けないということが必ず発生してしまいます。
もちろん、いつもトップが会社にいるとか、いつでも部下がトップの判断を仰げる状態にすればボトルネックは解決します。
実際、そうしている経営者なども多いと聞きますし、上から命令を下すという行為自体にやりがいを感じる人もいるそうですが、僕はあまり好きではありません。
基本的に、振れる仕事はすべて人に振るようにしています。
そうすることで、そのつど現場が判断するので、僕の拘束時間が減るというメリットもあります。
だけど何より、現場が自分たちで判断基準を持って決めたほうが、即座に最適解が出る場合が多いのです。
たとえば、そのときどきの仕事相手との関係性とか、短期的に見てどうか、長期的に見てどうかとか、いろんなことを総合して判断しなければいけない場合、僕ひとりで状況をすべて聞き出して判断するのでは、時間がかかりすぎるし、見誤ることもあります。
もし僕だったら「断る」と判断するところを、現場の担当者が「長期的に見て利益があるから引き受ける」と判断したなら、その判断に乗って任せてみたほうがいい。
もちろん担当の人間が見誤ったり間違えたりということもありますが、それならば、なぜ間違えたかを考えて判断基準を修正すればいいだけだし、そのほうが、会社としてのメリットはデカいわけです。
寝過ごして行けなかった会議が、ちゃんと回っている1年くらいで会社をたたむつもりなら人を育てる必要はないけど、僕は基本、長期的に続けるつもりで考えている。
だから、判断を間違えた場合は「判断基準を更新して成長するいい機会」と捉えているのです。
もちろん、そうやって現場が育ち、より精度の高い判断ができるようになってくれれば、僕としても、会社にあまり縛りつけられないですみますしね。
たとえば、僕が寝過ごして行けなかった会議が、僕ナシでも滞りなくすめば、「こういう会議には僕は出なくていいんだな」とわかる、そんなこともあります。
ボトルネックが減れば減るほど、僕が同時多発的に関われるプロジェクトが多くなります。
だから、「自分がいなくても事足りること」に気づけるのは、ビジネス的にとてもコスパがいいことなのです。
これって別に、会社経営のことだけじゃないと思いますよ。
たとえば事務の仕事とかだと、上司の「承認サイン」をもらわないことには、いかなる仕事も進められないなんて話を聞きます。
備品のティッシュひとつ頼むのにも承認が必要で、上司ももはや書類を見ずにサインするような状況だそうです。
そんなの、頼むほうもサインするほうもバカらしいから、もう権限をあげちゃいなよ、と思いますが。
すべての人間は「パーツ」である
「自分がいなくても事足りる」というのは、なんだか必要とされていない感じがして傷つくという人もいるかもしれませんが、いなくても事足りるぶん、自分は他の楽しいことに時間を費やせるわけです。
そう考えれば、休暇だってもっと堂々と取れるようになるだろうし、電話で急に呼び出されるなんてこともなくなって、休みをフルに楽しめるようになるのではないでしょうか。
それに、こんなふうに自分を「パーツ」として捉えていると、チームを組むスキルなども上がると思います。
先ほど、寝過ごして行けなかった会議の話をしましたが、人を部品として捉えると「あえて外してみる」という見方がしやすくなります。
すると、人の本質的な能力が浮き彫りになることがけっこうあるのです。
「こいつは使えないな」と思っていたやつが、じつはムードメーカーで、いなくなったら会議の雰囲気がギスギスしたり、逆にさっきの僕みたいに、割と重要人物と思われている人が来れなくても特に問題なく会議が進んで「あれ?この人ってじつはいらないのかも」というのがわかったりすることもあります。
「いなくなって初めてわかる親のありがたみ」じゃないですけど、誰かを抜いた状況を想像したり試したりするっていうのをやると、より物事が見えることもあるのです。
だからといって、僕がわざと遅刻してるわけではないんですけどね。
自分や周囲の人のパーツとしての強み、弱みがわかると、仲間には、どういう人が必要か、そのプロジェクトで起こりうることを予測して、どういう人をメンバーに任命したら、最も効率的なチームになるかが見えてきます。
自分も含めて人を「パーツ」として捉えることで、ムダがなくて、かつハイパフォーマンスなチームができる。
自分も、不得意なことで無理やり戦うよりも、ずっと省エネで効率的な仕事ができるわけです。
「ズル休み」はサラリーマンの当然の権利
先日、ある人と話していたら、有給休暇を取ろうとすると、上司から理由をしつこく聞かれたり、いい顔をされなかったりするから、結局は誰も有給休暇を申請しない、そんな企業に勤めていたことがあると言っていました。
ここで僕が驚いたのは2つ。
「有給休暇は社員の権利のはずなのに、その権利を平気で侵害する日本企業があるんだな」というのがひとつ。
そしてもうひとつが、「理由を聞かれたら『おじいちゃんが倒れた』とかなんとかウソつけばいいのに……!」です。
権利であるはずの休みを取れないなんて理不尽だし、そうやって社員に無理させることで回っている企業だと、利益構造なんかもヤバい状況になっているはずです。
そして、その理不尽なルールに縛られて、ウソひとつつけない人も、ヤバいとまでは言わないけれど、マジメすぎて生きづらいだろうなと思ったのです。
「ウソも方便」って言いますよね。もちろん、ウソをついて悪いことをするのは、よくないですよ。
でも、自分の当然の権利を行使するためのウソだったら、それは「手段」として、完全にアリじゃないでしょうか。
そもそも、組織の規範や暗黙のルールなんて、しょせんは狭い世界のものです。
「ウソをついてまで、ズル休みをしたくない」という志を持って働くのも立派な生き方だと思います。
でも、そんなものに縛られて、満足にやりたいこともやれずに人生終わってしまうくらいだったら、ウソをついてでも自分の時間を確保することに力を注いだほうが、人生、はるかに楽しくなるはずです。
「休み方」を忘れてしまった日本人「海外旅行に行きたいけど、なかなか行けないんですよね」という話をよく聞きますが、どうして行けないんでしょうね。
会社員は、お正月、ゴールデンウィーク、夏休みと、最低でも3回は連休があるわけだから、最大で年に3回、10年で30カ国。
「3回のうち1回は海外旅行に行く」と決めたとしても、10年で10カ国は行けるはずです。そういう僕は、かつて毎年、旅行基準で1年のスケジュールを立てていました。
年末になると、旅行会社のサイトに、「新春安売りセール」という感じで安いパック旅行がたくさん出るのです。
そこから「トルコ7泊、ヒルトンホテルの宿泊費・食費込みで7万円」みたいなのをピックアップして、何月はどこの国、何月はどこの国、と予定を立てていたんで、かなり安く何カ国も行けました。
僕が暮らしているフランスでは、みんな1カ月くらいバカンスを取ります。その間、お金がある人は海外旅行に行くし、お金がない人は国内でのんびり過ごします。
いずれにせよ、丸1カ月も仕事もせずに、自分の好きなことをして過ごすというのを、彼らは毎年やっているわけです。
自分がバカンスに入ってしまうと、当然、自分の担当案件は回らなくなります。
そこでフランス人は、「職場に迷惑がかかる」「自分がいなくては回らない」などと考えてバカンスを諦めたりはせず、「自分がいなくても回るように」と周りの同僚に仕事を引き継いだり、「この案件は自分が帰ってくるまで保留に」と周囲に伝えておいたりします。
職場のみんながお互いにそうしているから、誰かの担当案件のフォローを頼まれても、誰もイヤな顔をしません。
「バカンスのために1カ月くらいいなくなる」ということが、仕事の仕組みの中にちゃんと組み込まれているのです。日本人だって、子どものころは、誰しも夏休みが大好きだったはずです。
でも大人になると、まとまった休暇はお正月、ゴールデンウィーク、夏休みと、トータルで15日ぐらいでしょうか。まとめて休めるのは年に15日程度で、それが20歳過ぎから60歳くらいまで続く。
そんなシステムの中で、「仕事がない日に何をしたらいいのかわからない」「自分の自由な時間をどう使ったらいいのかわからない」なんていう人が量産されている気がします。
「定年後の膨大な時間をどう過ごせばいいのかわからない」と悩んでいる人が、大量発生していますからね。
日本で1カ月もまとめて休めるような企業は稀でしょうから、いきなりフランス人の真似をするのは、さすがに難しいでしょう。
自分だけ自由を行使するのは勇気がいる、という人も多いと思います。
でも、フランスと日本を行き来していると、日本人は「休む」こと自体に遠慮を感じすぎているように見えます。
もっと貪欲に自分の自由な時間を確保してもいいんじゃないかと思うのです。
まともな会社なら、旅行から帰ってきてもちゃんと仕事は回っているはずだし、みんな、休んだ人間のことをいちいち恨むほどヒマじゃありませんよね。
「自分本位」の何が悪いの?自由な時間を作ろうと考え始めると、たぶん、自分目線で優先順位をつけるクセがつきます。
「自分はどうしたいのか」という思考のフィルターを通すことで、「これは自分にとって有意義な時間か、ムダな時間か」がハッキリ見えてくるからです。
これまでは、上司がいい顔をしないことはやらない、やれと言われたことはなんの疑問も持たずにやる、今の仕事をずっと続ける、が当たり前だったかもしれません。
そこに自分目線の優先順位ができると、自分はこうしたいからする、あるいは、したくないからしない、自分の能力はこれだから、こういう仕事をしてみたい、などと行動の選択肢が広がるのです。
これは何も、独立するとか起業するとかいった大きな話に限りません。
たとえば、日本はやたらと飲み会が多いという話をしましたが、僕は、会社の行きたくない飲み会に行くっていうのが、まったく理解できません。
自分の自由な時間を確保することを意識していれば、行きたくない飲み会の優先順位なんて、かなり低くなるでしょう。
それこそウソのひとつでもついて行かないようにすれば、その飲み会の時間が丸々自分の時間になるわけです。
ただ、最初から無条件で拒否するのではなく、あえて参加してみて「どれくらいイヤなのか」を確認するという作業も僕は必要だと思っています。
それがわかれば対処法もわかるし、参加してみることで、「思っていたほどイヤじゃなかった」と気づく可能性もあります。
僕は「何ごとも経験」という考え方を持っていて、だから、言葉が通じない海外にも、わざわざ行きます。
海外旅行なんて面倒だと思う人もいるだろうし、実際、厄介な目に遭うこともある。
でも、やっぱり海外に行くと、新しいものの見方が得られたりするし、現地の匂いを嗅いで、現地のものを食べて、現地の人たちと接して……というのは、悪くないもんですよ。
面倒な思いをしてでも行くメリットは大きいのです。
とりあえず「ごちそうさまです」基本的にそういうスタンスなので、飲み会でもなんでも、機会があったら、ひとまず参加してみるほうです。
楽しかったらずっといればいいし、つまらなかったら、急用で呼び出されたふりでもして少しお金を置いて、さっさと帰ってしまえばいいという考えですね。
ただ、ゴルフは打ちっ放しに行って、これは向いてないなと思ったきり、コースに誘われても「いや、できないっす」と断り続けています。
ゴルフ好きな人って、やたらゴルフに連れ出そうとしますけど、早朝6時とかに起きて1日拘束なんて絶対イヤだし、遅刻して行けなくなったら、たぶん超怒るじゃないですか。
これは確実に罠だなと思うので、早い時点で見切りをつけて本当にトクしたなと思っています。
会社の飲み会なども根っこは同じで、「このメンツだとあまり楽しくない」と、すでにわかっている場合は、自分の時間を確保するという大義名分で堂々と断ればいいと思いますよ。
気まずかったら、「お酒が飲めないんです」とか言っておけばいいのです。そう言われると、大人の人って誘い方がわからなくなるみたいですよ。
じゃあ、ラーメンを食いに行けばいいじゃん、って話なんですけどね。
あとは、「奢りだったら行ってもいいんだけどな」っていうときは、誘われた時点で「ごちそうさまです」と返答しておくのがおすすめです。
言われた側は言葉の呪縛に捕らわれるので、会計のときにしれっと請求してくることもなくなるはずです。
そういうことができなくて、やたらと時間とお金を食い潰される冠婚葬祭は、もう長いこと「基本、行きません」というスタンスを取っています。
まあ、こういうイヤな理由がハッキリしているときは別として、食わず嫌いで一概に「行かない」と決めてしまうと、新しい経験の機会を棒に振ることにもなりますよね。
それはやっぱり、自分にとってよくないんじゃないかと思います。
「こんなことが?」が仕事になる時代
僕の知り合いに、ブライスっていう人形の洋服作りが趣味という人がいます。あるとき、その洋服をネットオークションに出品したら、あっというまに高値がついたそうです。
その人は会社員として働く一方、趣味だったブライスの服作りが、今では相当な収入源になっていて、どちらが本業で副業かわからないと話していました。
ただ、今の仕事も嫌いではないから、会社勤めで定期収入を得つつ、帰宅後に好きでやっていることもお金になるという状態だそうです。
また、前に何かの記事で、プラモデル作りが趣味の人の話を読んだことがあります。
プラモデルって、作るのが好きな人もいれば、作ることはどうでもよくて、ただ完成品を並べたいっていう人もいるんですよね。
そこで、その人はプラモデルの完成品をネットで売るようになったわけです。
1000円くらいで買ったプラモデルを組み立てて塗装すると、3万円くらいで売れるそうなので、かなり儲けていることになります。
その儲けの一部で新しいプラモデルを買い、その完成品がまた高値で売れて……ということを繰り返しているので、言わば「ゼロリスク・ハイリターン」のおいしいビジネスになってしまっているのです。
今はネットを使えば、割と誰でも簡単に、自分の作品やコンテンツを商品として売り出すことができます。
それが本当に売れるかどうかは、時の運や、世の中のニーズを捉えているかによるでしょう。
ただ、ショーケースに並ぶチャンスは、以前よりはるかに多くなっている。
そこでは、今まで誰も考えなかったようなことが仕事になることもありうるのです。
失敗しても暮らしていける28歳で離婚した銀行員の女性が、ひとりで生きていくのに銀行員では不安だからと、必死で資格の勉強をしている。
そんな話を聞いたことがあります。
資格を取りたいなら勉強すればいいとは思いますが、資格を取る理由が「将来、不安だから」というのが、僕にはよくわからなかったのです。
というのも、日本でちゃんと働く能力があるのに、仕事にあぶれる人なんて、いないんじゃないかと思うからです。
万が一、仕事にあぶれて食えなくなったとしても、生活保護があります。実際、僕には生活保護を受けている知り合いが何人かいます。こう言うと誤解されるかもしれませんが、僕の友人たちはみんな楽しそうですよ。
たぶん一番気になるのは世間体で、それさえ乗り越えてしまえば楽勝です。
生活するのに最低限のお金はもらえるし、医療費も本人負担はなくタダなので、不安を感じる必要はありません。
そうやって暮らしている人を見てきたから、いざとなったら、それでいいんじゃないか、と思います。
それに、先の銀行員の女性は、20代にして将来に不安を感じてしまったようですが、今では、たとえば「ただ、みんなから奢られているだけの人」だって、立派に奢られるプロとして生きていける世の中になっています。
要するに「誰もやっていないこと」をやるだけで価値があって、人に面白がってもらえればお金が発生するわけです。
今、僕たちが生きている社会とは、みんながみんな、農作物を育てなくては食べるものがなくて餓死してしまうという世界ではありません。
お金があるところにはあるし、食べものもふんだんにある。そんな余裕のある社会に、僕たちは今、生きているわけです。
その中で「面白いことをするならお金出すよ」という人も少なからずいて、クラウドファンディングをはじめ、実際にお金を払ったり受け取ったりする仕組みもできています。
ありもしない不安に駆られて、大して興味もない資格を取るくらいなら、自分の好きなことでどうにかする方向を探るほうが、楽しいんじゃないですかね。
贅沢三昧の生活をしたいなら話は別ですが、誰もやっていないことをやって目立ったりすると、それだけでもけっこう収入になったりするのです。
誰もやっていないことをやっていて、それが楽しいっていう人は、結果的に自分の心地いい居場所を見つけられる──。
その結果として、お金がついてくることも多いという話です。
そしてもう一度言いますが、万が一、自分で食えなくなっても国が生活保護で支えてくれます。
いつもそう考えているだけで、誰も失敗なんて恐れなくなるのではないでしょうか。
「自由な時間」がない限り、「自分の価値」はつくれないまずは「自分の自由な時間」を作らない限り、他にはない自分だけの価値なんてものをつくり出すことはできないだろうと思います。
何より、好きなことがあるのなら、それをする時間が長いほうが生きていて楽しいですよね。
ブラック企業に勤めていて、そんなことすら考えられない人は大変だろうなと思います。
早くその状況の異常さに気づいて、自分は何が好きなのか、何をしているときに楽しいのかを考えることから始め、1日に数時間でも自由な時間を確保することを意識したほうがいいでしょうね。
コメント