「それが普通」だと思っていた
僕の遅刻グセは今に始まったことではなく、小学校のころからしょっちゅう遅刻していました。とにかく朝、起きられなかったのです。
ずぼらなのは時間だけに限らず、忘れものとかも多かった記憶があります。ただ、正直、「なんとかしなきゃ」って思ったことが一度もありません。
小学校のころの僕は、遅刻や忘れものが多いとか、宿題をやってこない、授業中に騒いだとか、いつも何かしらの理由で先生に怒られていたのですが、怒られているのは自分だけじゃなくて、みんなも似たようなものだろうと思っていました。
だから、小学校3年生のときだったかに、僕の姉が1回も学校で怒られたことがないって聞いて、ものすごく驚きました。
それでも「ヤバい、なんとかしなくちゃ」とは思わなかったんですけどね。そもそも怒られることが当たり前だったので、「怒られないようにする」っていう発想がありません。
だから「遅刻したらマズい」という考えも、もちろん浮かばないわけです。
人間って基本的に自分が普通だと思っているものなので、「僕がしょっちゅう寝坊をするんだから、世の中の人もしょっちゅう寝坊しているはずだ」という認識だったのです。
実際はどうだったかを知ろうとも思いませんでしたし、他人と比べようともしませんでした。他人にあんまり興味がなかったからかもしれません。
通知表には遅刻回数や先生のコメントが書かれていたはずですけど、覚えていないので、たぶんまったく見ていなかったんでしょう。
母親から注意された覚えなんかもありませんね。覚えていないだけかもしれませんが。
「遅刻して困る」ってどういうこと?
そんな僕でも、中学校に入るとようやく「僕は遅刻が多いのかもしれない」と気づき始めました。
というのも、朝一緒に学校に行っていた友だちが、僕が起きるまで待っていると遅れるから先に行ってしまう、ということがよくあったからです。
まあ、それでも僕は「なんとかしなきゃ」なんて思わなかったし、高校生になっても遅刻の常習犯だったのですが。
こんな話をすると、よく「遅刻が多すぎて卒業が危うくなることはなかったのか」と聞かれますけど、それは問題ありませんでした。
高校では、3回遅刻すると欠席1回にカウントされて、1年の3分の1を超えて欠席すると単位を落とされるシステムでした。
逆に考えれば、1回も欠席しなければ毎日遅刻しても大丈夫ということです。
僕は、授業中はたいてい寝ていましたが、学校が嫌いだったわけではなくて、学校で友だちと話したり遊んだりするのは好きなほうでした。
ただ朝が苦手で、始業時間に間に合わなかっただけで、学校には毎日行っていましたから、卒業は問題なくできたわけです。
こんなふうに、僕が遅刻をはじめ、なまけものな生活を変えないのは、それで「困ったことがないから」なのです。
多くの人は、遅刻や忘れものを親とか学校の先生に怒られると、「なんとかしなくちゃ」みたいに思うのでしょう。
だけど僕にとっては、怒られるといっても、ただ目の前の人が大きな声でワアワアしゃべっているくらいにしか見えませんでした。
廊下に立たされたりとかしても、まったく大したことだとは思っていませんでしたね。
万事こんな感じで、時間管理ができなくても、だいたいなんとかなるから困らなかったです。困らないから「なんとかしなくちゃ」みたいにも思いません。
そもそも時間管理が苦手という意識すらなかったわけですから。僕が遅刻すると、僕以外の人は困ることもあるとは思いますが、僕自身は別に困りません。まあ、ちょっと申し訳ない話ではありますけどね。
飛行機に乗る日は何も食べない
唯一、遅刻で困ると言えば、飛行機に乗り遅れると、せっかく買ったチケットがムダになることくらいでしょうか。
過去に3回ほど、やらかしたことがあるのですが、そうなると次の便のチケットを購入するのに20万円かかったりする。
これは、さすがに損失がデカいから、空港のラウンジで食べ放題、飲み放題できる「プライオリティ・パス」の会員になって、早めに空港に行くようにしました。
ラウンジだとネットもつながるので、映画を観たりマンガを読んだり、家でやっていたことの続きができます。
そのうえ、飯が食えるし、酒も飲めるし、トクなことだらけです。
飛行機に乗り遅れたら大きな損失が出るから、「よし、今度は間に合うように家を出よう」と決めてみても、僕は実行できませんでした。
だったら、早めに行くメリットを作ってしまえばいいと考えたわけです。
今は、飛行機に乗る日はほとんど何も食べずに、「お腹が空いたら空港に行って食べよう」という感じです。
お腹が空くから早く空港に着いて、楽しい時間を過ごしています。
これで、家でギリギリの時間まで(というかギリギリを過ぎても)パソコンで楽しいことをしてしまう、というのは避けられるようになりました。
今では空港に関しては、早めに行くことがけっこう好きだったりします。
鍛錬すると目標は実現できるのか?
時間の使い方というと、「忙しい中で、いかに時間を捻出するか」みたいな話になりがちですが、ムダな時間を減らすだけで、自分のために使える時間は、けっこう増えるはずです。
日本では美徳とされがちな「自己鍛錬」とかも、僕は時間のムダなんじゃないかと思います。
鍛錬を目標にして、やみくもに努力するのって、どんな意味があるんですかね。もっと手っ取り早い方法を取ったほうがよくないですか。
たとえば本当に英語が話せるようになりたいのだったら、日本で文法書を読むより、英会話教室に通うより、英語圏で暮らしてしまうのが一番早いに決まっています。
プログラミングでも、入門書を最初から読む人ほど、一向にできるようにならない。
それよりかは、「こういうゲームを作りたい」っていう目標があって、それに必要なスキルから学んでいく人のほうが、ずっと上達が早いのです。
コツコツと鍛錬を積むよりも、最初に体験してみたほうがもの覚えはよくなるし、続きやすいというのが人間の習性です。
いろんな事情があるとか、時間もないからとか言って鍛錬に逃げていても時間はどんどん経っていきますからね。
まあ、鍛錬を楽しんで人生が過ぎていくのも、それはそれで充実した時間の過ごし方なのかもしれませんが。
資格試験の「スピード勉強法」資格の勉強なども同じです。
教科書を1ページ目から読むなんて人もいるかもしれませんが、まず過去問を解いてみて、解けなかったところを勉強したほうが手っ取り早いでしょうね。
資格は、つきたい仕事につくための手段です。
目的は「試験に受かって、資格を手に入れること」であって、「教科書に書かれていることを隅々まで覚えること」ではありません。
だから「いかに時間と手間を省いて試験に受かるか」を考えることが必要だと思います(まあ、資格マニアの人たちは考え方が逆なのかもしれませんが)。
7、8年前に僕は「旅行業務取扱管理者」の資格を取ったのですが、そのときも、まず過去問を解いてみました。
友人から、この資格があると旅行代理店を経営できて、タダで海外旅行に行けるようになると聞いて、「マジで!取るしかないじゃん」みたいな軽い気持ちで取ろうと思ったのです。
試験は英語の他に、国内外の観光事情や切符のとり方、旅費の算出みたいな、実務面の知識で構成されています。
過去問を解いてみたら、国内の観光事情は覚えることが多すぎて大変そうでした。
一方、英語は基礎力があれば大丈夫そうで、海外の観光知識は一般常識でだいたい解ける印象でした。
だから、国内の観光事情は60点ぐらい取れればいいと見切って、英語と海外観光事情は大して勉強しなくてもイケるだろうと踏みました。
となると、まず勉強しなくてはいけないのは、旅費の算出です。
これは一見すると複雑に見えますが、電車賃とホテル代に保険料を何%かける、みたいな計算式さえ覚えてしまえば、絶対に解けます。
過去問を4冊買って、計算のところだけをひたすら解きました。
そんなこんなで、教科書を最初から読むなんてことはせずに案外ラクに合格できました。
ただし、これには後日談があります。
旅行代理店を開くには、国に7000万円も預けなくちゃいけない、あるいは同業の5社から推薦をもらって協会に毎月何十万円払わなくちゃいけないと、かなりお金がかかることが判明したのです。
だったら、旅行代理店を開いてタダで旅行するより、自分で旅行代を払ったほうが安いと考え直して、旅行代理店の話は一瞬でナシになりました。
それなりに時間を使いましたけど、旅行業に関する最低限の知識を得たことで、仕事で旅行の話になったりしたときにハッタリはきくようになったので、まあ、よしとしていますが。
「試行錯誤」をしない
「自己鍛錬」が時間のムダと言いましたけど、「試行錯誤」もやっぱりムダだと思います。
世間では、会社などでもPDCAとか、試行錯誤的な発想がもてはやされていますよね。
試しては修正して、どんどん精度を上げていくっていうやり方はたしかに理屈には合っているように見えますけど、個人でコツコツやっていても、僕にとっては時間のムダにしか思えません。
それよりも、できる人に頼んでしまうのが、一番ムダがなくていいんじゃないでしょうか。たとえば、ある仕事を振られたとします。取り掛かってみたら、うまくできないところや、わからないことが出てきました。
ここで、自分ひとりで試行錯誤するか、周囲の人に助けを求めるか考えたとき、明らかに後者のほうがトクです。
誰もやったことがないことに取り組んでいて、それにかけては自分が一番詳しい、という状況だったら、「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤することにも意味があるでしょう。
でも会社の仕事だったら、間違いなく、自分より経験を積んでいる先輩がいます。経験を積んでいるということは、仕事に関して、自分より多くの情報を持っているということ。
その情報を利用させてもらったほうが、仕事は早くすむわけです。
「忙しそうだから申し訳ない」とか「自分に振られたのだから自分ひとりでやるべきだ」なんて思う人も多いのかもしれませんが、より早く、より正確に仕事をするに越したことはありません。
会社としても、そのほうが人件費的にもコスパがいいのだから、より多くの情報を持っている周囲の人はできるだけ活用させてもらえばいいのです。
「一番安いの」で、だいたいイケる
僕は基本的に思ったとおりに行動していて、計画性などはあまり考えていませんが、「迷う必要がないところで迷わない」というのは、無意識のうちに仕組み化してきた気がします。
たとえば、洗剤ひとつ、歯磨き粉ひとつ買うのにも迷う人がいますが、「たくさん並んでいるから迷って当たり前」というのは、知らないうちに敵から攻撃を受けて気づいたときには傷だらけだった、みたいなことです。
いちいち迷うのって、第一に時間のムダだし、しかもそれだけでけっこうなストレスじゃないかと思うのです。
だから、特にこだわりがなければ、僕は、ひとまず一番安いのを選びます。
それで不具合を感じたら、もう1レベル上のものを試せばいいし、不具合を感じなかったら、その後も一番安いのを買い続けることでムダな出費が抑えられます。
たしかに商品ごとにいろいろとメリットが謳われていますから、人間の心理として、一度迷い出したら、なかなか決められなくなってしまいます。
でも、「洗剤」だとしたら、最低限、それに何を求めているのか。洗剤ですから「洗えること」ですよね。で、「洗剤」として売られている以上は、絶対に「洗う」という機能はあるに決まっています。
どれを買っても、ちゃんと使えるんです。最初から悩み抜いて選ぶのは、無用のストレスを自分に与えることにしかならない。
特にこだわりがないのなら、最安値から試していくのが一番ラクだし、手っ取り早いんじゃないかと思います。
パンツがダサくても、損はしない
靴下とかパンツも、一番安いのを買うと決めておけば、迷う必要はありません。
実際にこの前、飛行機に預けていた荷物が届かなかったときなども、ユニクロで地味な色のパンツを適当にたくさん買いました。
下着なんて基本的に自分しか見ないものですし、時間をかけて選んだところで、なんのトクにもなりませんよね。
もちろん人に見られるシチュエーションもないとは言いませんけど、「かっこいいパンツを履いているから素敵!」って言われている人を見たことがないし、「そういう関係」ならば、今さらパンツごときで嫌いになるなんてこともないはずですよね。
靴下だったら、一番安いのを同じデザインでいくつかそろえておきます。
違うデザインだと、ペアの片方に穴が空いたら、穴が空いていないほうも捨てなくてはいけませんけど、同じデザインなら、穴が空いていない片割れ同士を組み合わせて最後まで履き回せますからね。
もちろん、「かっこいい下着じゃないとテンションが上がらない」「デザインが気に入った靴下じゃないと履きたくない」っていう人は、存分にこだわればいいと思いますが。
最適解を出さないと自分が不幸になるとか、大きなトラブルになるといったものは、当然ですが、できるだけ情報を集めて入念に選ばなくてはいけません。
だけど、最適解を探す必要がないものや、最適解でなくても別に困らないものは、一番安いものでいいと思います。
だいたいにおいて僕はこんな感じだから、生活用品も食品もすぐに選べて、かなり安上がりです。
こんな僕でも、すべてを安いものですませているわけではありません。
たとえば、ちょっとおかしな話ですけど、コーン缶なんかは、例によって一番安いのを買ったら食感が気に入らなくて、今は、もう少し高いのを買っています。
あとはパスタなんかも、ゆで時間の長さで選んでいます。ゆで時間が長いパスタって、1週間とかかけてガチガチに乾燥させてるんですよ。だから、芯が残っていて食べ応えがあるので、僕は好きです。
商品の謳い文句に踊らされると迷いっぱなしですが、一番安いものから試せば、事前に調べたり悩んだりする時間が浮くし、コストも低く抑えられます。
しかも世の中、意外とそれですんでしまうことが、ほとんどなんじゃないかと思うのです。
「選ばない」ほうがトクできる
映画を観るときなんかも、僕は迷いません。そもそも「観たい映画を選んで観る」ことがほとんどないから、迷いようがないのです。
以前はフランスの映画館のパスを持っていたので、街中を歩いていて目についた映画を観るという感じでした。
選んでいないのだから当然、つまらない映画にもたくさん当たります。
でも、それは「選んでないんだから仕方ない」と諦めがつくし、つまらなすぎて寝たとしても「映画館のいいシートでぐっすり眠れたな」と思うだけです。
逆に、面白い映画に当たると「トクした」と思えます。
しかも、最近の映画は予告編で内容を見せすぎる傾向があるので、下手に事前情報を得てから観る映画は、感動が小さかったりします。
というわけで、事前情報がないまま行き当たりばったりで観る映画のほうが、面白かったときに純粋に楽しめて、超トクした気分になれるのです。
選択肢がありすぎる時代
今は、映画は動画配信サービスで観ていますが、やっぱり大して選びません。
「観たい映画を選んで観る」「映画は最初から最後まで観るものだ」というのが世間の常識なのかもしれませんが、途中から観たり巻き戻したりできるから、動画配信サービスって超便利ですよね。
倍速再生なんかすると、つまらない映画がものすごい速さで流れていきます。
いろいろ観ているうちに、映画館で公開されていないような知られざる名作や、マニアックすぎて大衆受けはしないけど自分の趣味には合う、みたいな作品に出会える可能性もあります。
これだけ手軽に観られるのだから、人は観たいものを「選ぶ」というストレスからも解放されてもいいのではないでしょうか。
時間ができたから映画を観ようと思ったのに、何を観ようかさんざん迷った挙句に、立派なウォッチリストが出来上がっただけで、結局、何も選べなかった……なんて話もよく聞きます。
これなんかも、迷うストレスに時間を費やしてしまった典型例じゃないでしょうか。
じつは僕にも膨大なウォッチリストを作った過去があるのですが、今だったら大して迷わず、目についたものから再生しますね。
ちなみに、僕が役員をしている「未来検索ブラジル」っていう会社の社名は、『未来世紀ブラジル』という映画のタイトルをパクって付けたもので、テリー・ギリアム監督も公認だったりします。
ただ、僕はこの映画を、最初から最後までちゃんと観たことが一度もないのです。
こう言ってはなんですが、僕的にはあまり面白くない映画なんで、4回ぐらい観て、全部途中で寝てしまいました。
そして、僕が寝ている間に社名が決まっていたわけです。まあ、映画はそれくらい気軽に観てもいいんじゃないの、という話です。とにかく、僕は迷う時間、選ぶ時間は極力減らしたいのです。
生活用品や食品は安いのから試すのも、映画は目についたものから観るのも、僕にとっては、根っこは同じです。
同様に、なるべく迷わないように、選ばないようにと考えてみると、最低限のこだわりだけが残るので、人それぞれのマイルールが出来上がって、よりストレスから解放されると思いますよ。
悩みごとの99%は、どうにもならない
自分の力では、どうにもならないことで悩むのも、時間の浪費とストレスにしかなりませんね。
だって、悩んだところで、どうにもならないんですから。
にもかかわらず、「どうしよう」とか「どうにかしてやろう」なんて葛藤している人も、けっこう多いんじゃないかと思います。
たとえば、他人を変えようとする人。
正義感の強い人ほど、自分の常識と食い違うことをする人を「改心させよう」と頑張ったりしますが、だいたいは徒労に終わります。
自分だけがストレスを抱え込んで、大損こくわけです。
日本とフランスを行き来していると、あちらの常識がこちらの非常識だとか、逆にこちらの常識があちらの非常識ということにたくさん遭遇します。
それもあってか、僕は「えっ、おかしいじゃん」と思うような状況でも、ひと呼吸置いて考えることがクセのようになっています。
そうしているうちに、日本人のおかしな行動を見ても「へえ、こういうところも違うんだな」と思うだけで、あまり腹が立たなくなりました。
よく言われることですが、他人を変えることなんて、そう簡単にはできませんよ。
人には主観というものがあるのだから、感覚も常識も何もかも違って当たり前だし、そこに正解や不正解はありません。
ということは、本質的に説得は不可能です。
そこでストレスを溜め込むよりも、一歩引いて相手を眺めて、「へえ、こういう人もいるんだな……」「もう勝手にしてくれ、知ったこっちゃないわ!」と捉えたほうがラクなのです。
まあ、仕事面や金銭面で実害を被る可能性がある場合は、別の対処法を考えなくてはいけませんが。
自分の力では、どうにもならないことで悩む人。もっと壮大なところで言うと、国や世界のことを憂える人もいます。でも、そんなことより自分自身の心配をしたほうが、ずっと健康的だし建設的です。
こう言うと、「自分のことしか考えないのはよくない」なんて思うかもしれませんが、それの何がいけないのかと思いますね。
まずは自分本位の優先順位で、できるだけラクに楽しくできるように生活を設計していく。
それ以外の、自分の力の及ばないところで決まることは、ハッキリ言って心配しても時間のムダとストレスになるだけで、意味がないと思います。
SNSというメンタル破壊ツール
そしてもうひとつ、ここで最後に挙げておきたいのは、SNSを見ることで、じつは多くの人がメンタルにダメージを負っているんじゃないか、という件です。
自分の作品を投稿して、ビジネスにつなげている人などは別として、一般の人は、SNSなんて見ないほうがいいと僕は思っているのです。
SNSに自分のカッコ悪いところを載せる人って、あまりいませんよね。
SNSばかり見ていると、つながっている人たちがみんな、自分とは違うキラキラした人生を送っているように錯覚して落ち込みやすくなります。
アップされているのは、他人のキラキラした一瞬に過ぎません。だけど、そればかり見ているうちに、それが普通だと錯覚してしまう。
そして、普通に暮らしている自分が、普通以下の底辺の人間に思えてくる。
こんなふうに、じつは自分を落ち込ませるものを見ることにせっせと時間を費やしているとしたら、かなりバカげていると思いませんか。
1日にトータルで30分や1時間ほどSNSを見ているとして、それをずっと続けた場合、自分にストレスを与えることに、どれほどの時間を費やすんだろうと思ってしまいます。
暇つぶしのためにSNSを見て、心底、楽しめるなら否定はしませんが、そもそも誰がどこに行ったとか、何を食べたとか、どんな気持ちになったとかなんて、ぶっちぎりで「知らなくていいことナンバーワン」ですよ。
クソ野郎が、最低な瞬間だけを載せるSNSとかがあれば、僕としては興味本位でちょっと見てみたいですけどね。
フォローリストこそ断捨離すべし
ただ、SNSには情報収集という一面もあります。SNSならではの、面白いネタや役立つネタが転がっていたりもします。
テレビだけだと情報が圧倒的に足りなすぎたり、偏っていたりすることも併せれば、海外のニュースの日本語版とか、気になる識者や有名人だけをフォローして、情報収集のために使う、というのが賢いSNSとのつき合い方でしょうね。
僕もSNSは情報収集のための手段だと思っているので、じつは友だちのアカウントはほとんどフォローしていません。
いいネタをシェアしてくれることが多い友人はフォローを続けますが、「行った場所、食べたもの、感じたこと」ばかりアップしている人は、ソッコーでフォローを外します。
僕は、人のキラキラした瞬間を見たところでメンタルは傷つきませんが、いらない情報を見るのに時間を潰されるのがイヤなのです。
「経験は買ってでもしろ」はマジ
僕は、経験したことがないものは「とりあえずやってみる派」です。
たとえば、基本的に引きこもりの僕は、クラブイベントとかにはあまり行かないほうだったのですが、奥さんが割と好きなので、ちょこちょこ彼女に誘われて行くようになりました。
スペインに、イビサ島というクラブ好きの人が集まる島があります。そこで開催される「泡パーティー」というイベントにも、奥さんと友だちと行きました。
もともと行きたかった「トマト祭り」のついでに行ったのですが、泡まみれになりながら朝まで踊りまくるというので、どんなにすごいんだろうと思っていたら、実際に体験してみると、それほど大したことはないなと感じました。
こういう体験があると、仕事でイベントの話になったりしたときに、「クラブイベントのレベルって、世界的に見ると、じつは日本がけっこう高い」というようなことが語れるようになります。
1回やってみてイヤだったら二度とやらなければいいのですが、そんなにイヤじゃなかった場合、経験が重なるたびに情報が増えていきます。
それが、ひょんなところで役立つこともあるわけです。
ちなみにトマト祭りっていうのは、スペインのブニョールっていう街で行われる、収穫したトマトをぶつけ合うお祭りなんですけど、これも実際に参加してみて、「楽しかったけど1回でいいや」と思いました。
ヨーロッパって、公衆トイレがすごく少ないんですけど、トマト祭りでは、早い時間にいい場所を取ってから、昼ごろに祭りが始まって夕方に終わるまで、トータルで6~7時間くらいトイレに行けません。
正直、きつかったですが、それも含めて、現地に行かなくては味わえない貴重な体験をしたことは確かですね。
「他業界の頭脳」をインストール
僕は、自分が知らない人がいる場なんかにも、けっこう行ってみるほうです。
事前に「この会は自分にとって有意義だろうか」とかはあまり考えず、「つまらなかったら途中で帰ればいいか」くらいの軽い気持ちで参加してみます。
特に、自分が知らない業界の人と話すのは面白い。
その道のプロの判断基準や考え方を自分なりにモデル化しておくと、あとあと、同じような業界の判断基準や考え方が必要なときにハッタリがきいたり、役立ったりもします。
アプリの簡易版をインストールしておく感じと言ったらいいですかね。
だから、初めて会う人が、ある業界のプロとか会社の偉い人だったりすると、つい質問攻めにしてしまいます。
あれこれと興味の赴くまま聞いて、その人の判断基準や考え方をインストールしておく。
すると、業界によって判断するポイントが違うなんていうのも、なんとなく理解できるようになるのです。
たとえば以前、IT企業の知人が、こんなことを話していました。
マンガで有名な某出版社にコラボ話を提案しようとしたとき、最初にIT専門の人が話しに行ったら相手にされなかったんですが、もともとマンガ家のアシスタントをやっていたという人が行ったら、トントン拍子で話が進んだそうです。
話の内容でいったら、ITの人のほうが利益構造とかもちゃんと説明できていて充実していたはずです。
だからその知人は不思議がっていたのですが、僕は「それはそうだろうな」と納得がいきました。
その出版社はマンガで大きく儲けていますから、今さら「このコラボ話で儲かりますよ」なんて言われても、大して魅力的には感じられないでしょう。
しかも出版社の担当者は会社員ですから、その話で儲けが出たって自分の給料が上がるわけでもありません。当然モチベーションも上がりませんよね。
でも、「じつは昔、マンガ家のアシスタントやってました」という人が来たら、マンガを作っている出版社の人間としては、そのほうが話も合うし、共通の知人なんかもいたりするかもしれません。
で、「じゃあ、ひとつ協力してやってみようか」となるわけです。
彼らとしては、個人的に興味のないITの専門家よりも、自分たちの専門領域のクリエイターと仕事がしたかっただけではないでしょうか。
もちろんすべての出版社に当てはまる話ではないでしょうが、この話を聞いたときは、なんとなくそんな実情が見通せました。
初対面より「2回目」に訪れる沈黙
そんなわけで、僕は初対面の人と会うときには、いろいろな話をします。
「こういう業界の人は、こういう考え方をする」という感じでモデル化するように頭が働くから、割と楽しく過ごせている感じです。
むしろ2回目以降のほうが、沈黙が多くなったり、「土日、ヒマなときに何してます?」といったしょうもない質問をしてしまったりと、つまらなく感じてしまうことが多いくらいです。
ときには2回目以降でも「え、そんな趣味あったんすか?」「そんな仕事もやってたんすか?」なんて、相手の新たな一面を発見することもありますけどね。
「時は金なりだから、目的がわからない会には参加しない」とか考える人も、なかにはいるようですけど、もう少しオープンであったほうが、面白いことに出会える確率は高くなるんじゃないか。
僕はそう考えているのです。
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