chapter3「常識や世間体」に時間を溶かすな13「無常」こそが体感時間を無限にする14行動量は情報量に比例する15自分のリズムを狂わされるな169割が「仕事をつくるための仕事」にすぎない17ぼくはずっとたのしい仕事しかするつもりがない18食欲・性欲・睡眠欲は「幸福を感じるためのツール」19「年齢」とは幻想である20「作業」を受け入れるから身動きが取れなくなる
勉強家であるのはけっこうだが、「学ぶ」ことが好きな人ほど、時間貧乏になりやすい。
東大の同級生などを見ていても、官僚になったような優秀な人ほど、同い年とは思えないくらい老け込んでいたりする。
なぜこうなるかといえば、彼らは世の中に存在している常識についても、あまりにもうまく〝学んで(Learn)〟しまうからだ。
「これがあたりまえだ」「そんなの常識だよ」というのが口癖になっている人は、注意したほうがいい。
既存の仕組みや制度を「あたりまえのもの」と受け止めた瞬間に、あなたの自分時間はものすごいスピードで手元からこぼれ落ちていくようになる。ぼくはいろんなところで「バカになれ」と語ってきた。
これは勉強ができるとかできないとかいった話ではない。むしろ、一度学んでしまった常識をどれだけ〝忘れる(Unlearn)〟ことができるかが大事なのだ。別に、わざと非常識な振る舞いをする必要はない。
しかし、常識からどれだけ距離を取れるかは、時間の感じ方を大きく左右する。子どもの頃を思い出せばわかることだ。
世の中の「あたりまえ」をインストールしていないうちは、1日、1カ月、1年がものすごく長く感じられる。
そもそも「常識=あたりまえのこと、自然なこと、不変のこと」というのは、ひどい思い込みである。
変わらないものこそが自然だなんてとんでもない。常識なんて、その時代や文化しだいでいくらでも変わる。よくよく振り返れば、「変わること」こそが自然の摂理なのだ。
それなのに、変化の一部だけを切り取って、「不変の真理」であるかのように扱ってしまう――どうやら人間にはそういう勘違いのクセがあるらしい。
こういう観点で言えば、「自然保護」というのは、どこまでも「不自然」な行為だ。
過去からの変化のプロセスにすぎないものを、勝手に「不変のもの」であるかのように見立てて、変化を人為的に妨げているからだ(ただ、これはこれで面白いし、自然保護活動までを否定するつもりはないが)。
同様に、「美しい伝統的な日本語を守ろう」などという話も、バカげている。言葉がどれくらい移ろいやすいものかは、誰もが「古典」の授業などでよくわかっているはずだ。
厳密に言えば、彼らが「正しい日本語」などとありがたがっているのは、たかだか100年くらいの歴史があるものにすぎない。
ぼくがいつも言っている「バカになれ」というメッセージを、人類史上最もシンプルな言葉にするならば、「無常」である。
仏教の祖であるブッダがわざわざ「諸行無常」を主張したり、ヘラクレイトスという古代ギリシャの哲人が「万物は流転する」と語ったりしたところを見ると、人間はずっと昔からこの勘違いを繰り返しているのだろう。
そういうわけで、ぼくの根本的な価値観は、どうやら仏教のそれにけっこう近いらしい。実際、博識な人と話していると、よくそんな指摘をされることがある。
ちなみにこれは、東大時代に宗教学科に所属していたのとはまったく関係ない。麻雀と酒浸りの毎日を送っていたせいで、そこしか受け入れ先がないくらい成績が悪かっただけだ。
その後、大学は中退してしまったので、仏教のことはほとんど知らないし、1ミリたりとも信仰心のようなものはない。
「常識」から「無常」へ――思いきって「時間の捉え方」を変えることが、時間革命への最短ルートなのだ。
□10年前にあったが、いまは消えた「常識」を1つ思い出してみよう
「常識」から抜け出すと言っても、多くの人にとって、それはなかなか容易ではないことのようだ。
「おっ!この人はわかってるな……」と思った人でも、よくよく話してみると、意外とくだらない常識にとらわれていたりする。常識の呪縛というのはけっこう強固なのだ。
そこから解放されるために必要なのは、「動き続けること」――これに尽きる。よく「行動が大事だってのはわかっているんですが、私、行動力がなくて……」などと相談してくる人がいる。
まず断っておくが、ぼくは実際のところ、「行動力」などというものは存在しないと思っている。
「行動力」をより多く持っている人はたくさん行動し、その「力」がない人はなかなか動けない――そんなふうに考えていないだろうか。行動力などというものは、見ることも触れることもできない。単なる空想の産物である。
存在するのは「個々の行動」だけだ。
そして、たくさんの行動を起こしている人を見て、ぼくたちは「あの人には行動力があるね」などという言い方をする。
これはすべての「○○力」について言えることだが、「力」というのは、人間が後づけで考えただけのフィクションであり、思考停止の産物でしかない。
では、なぜすぐに行動できる人とそうでない人がいるのか?その違いを生み出しているのは「情報量」の差である。
行動力などという得体の知れないものが、フットワークの良し悪しを決めているわけではない。
その人がどれだけの情報を持っているか、何をどれくらい知っているかによって、人間の行動量は規定されているのだ。
だから、「動き続けられる人」になりたければ、情報量を増やしさえすればいい。
ごくごく単純な話だ。
「現代は情報過多の時代。情報が多すぎて逆に動けなくなる」などというのも、都市伝説の類だと思ったほうがいい。
そういうことを言っている人にかぎって、大した情報を持っていない。
「情報洪水」どころか、中途半端な量の情報に触れて満足しているので、かえって身動きが取れなくなっているのだ。
ぼくに飛び抜けたところがあるとすれば、それは圧倒的な量の情報に触れて、それを処理していることだろう。
ふつうの人と比べると、ぼくが浴びている情報シャワーの量は、桁が1つか2つ分くらいは違うと思う。
これを続けていれば、この世には「変わらないもの」など存在せず、すべてが「無常」だと思わざるを得なくなる。
情報のソースや質はどうでもいい。情報収集に使っているツールだって、誰もが知っているふつうのニュースアプリでしかない。
暇さえあれば、LINEニュース、スマートニュース、NewsPicks、グノシー、antenna、ツイッターなどをひととおり巡回して、膨大な量の情報に触れる。
時事やビジネス・経済だけでなく、グルメだろうがファッションだろうが、食わず嫌いはしない。ぼくは全部のニュースを記憶しろと言っているわけではない。
シャワーのように〝浴びる〟だけで十分だ。目にしたニュースをすべて覚える必要などまったくない。
ぼく自身、9割以上のニュースは、読んだそばからもう忘れていると思う。さらに意識するといいのが、単なるインプットで終わらないこと。
ぼくはNewsPicksなどのコメント機能を使って、気になったニュースにひと言コメントを加えるようにしている。
このアクションを挟むと、脳内に情報がしっかり残って、ちょっとした会話などでも、そのことを思い出しやすくなる。
□いますぐニュースアプリを3つダウンロードしよう
大量の情報に触れるためにはリズムが大事だ。昔なら情報を得る手段と言えば、新聞やテレビしかなかった。
しかし、テレビは途中にCMが入ったりするし、興味のない情報をスキップできない。何より、テレビの前に座っていないといけないというのがアホらしい。
新聞も速報性がないし、サイズが大きくてめくりづらい。リズムよく情報に触れるには、不向きなメディアなのだ。その点、スマホは情報摂取のリズムづくりにはもってこいである。
短時間でより多くの情報を得られるようなアプリがあれば、どんどんそちらに乗り換えるべきだ。なるべくまとめて多くの情報に触れられるプラットフォームをおさえておくのがいい。
NewsPicksのようなキュレーションメディアならば、いつも有益なニュースを取り上げてくれる人をフォローすることで、より効率的に情報を取ることができる。
必ずしもデジタルデバイスに限定しなくてもいい。人に会って話を聞くのも、立派な情報シャワーだ。
このとき注意が必要なのは、いつも同じような人とつるむのではなく、なるべくいろいろな人と時間を過ごすようにすることだろう。
そのほか、カフェで聞こえてくる会話、街を移動しているときの景色などなど、「情報シャワーのためのメディア」は、そこらじゅうに転がっている。
こうやって情報をかき集める習慣を身につけると、自分のなかにも一定のリズムが刻まれてくる。
すると、自分のアウトプットにもリズムが生まれてきて、仕事をこなすのがグッとラクになる。
ぼくはこれまで、メルマガの連載を休んだこともないし、原稿の締め切りなどにも遅れたことがない。
驚かれることも多いが、歯を食いしばりながらスケジュールを厳守しているのかというと、全然そんなことはない。
「自分のなかにある決まったリズムに従った結果、すべてが予定どおりに進んでいる」というのが感覚的には近い。
どんなに仕事の処理能力が高くても、リズムとか間が悪い人は何をやってもダメだ。
そういう人は、相手の都合もかまわずに変な時間に電話をかけてきたり、土壇場のタイミングで過大なリクエストを送ってきたり、用件のわかりづらい長文メールを送ってきたりする。
遠目から見るとものすごく優秀に見えていても、実際にはリズムの悪さのツケを周囲に押しつけているだけなので、とても仕事がやりづらい。
そんな人が決まって口にするのが、「バタバタしていまして……」という言葉だ。
こういう人には本当にイライラさせられるが、彼らは決まって「優先順位がつけられない」「仕事をまとめて片づけようとする」という2点で共通している。
災害や大事故の現場に、あなたが医師として派遣されたとしよう。そのとき、目の前で骨折して苦しむ人を思わず助けてしまう人は、優秀な医者とは言えない。
必要なのは、命の危険がある人、その次に重傷を負った人、最後に軽傷の人というように治療の優先順位の仕分け作業を行うことだ。これをトリアージという。
かぎられた時間のなかでより高いパフォーマンスを上げる(より多くの命を救う)ためには、順序づけが効果的なのである。
また、1つの仕事をまとめてやろうとするのもNGだ。
大きな仕事ほど、できるかぎり細切れにして、すきま時間を使いながら少しずつ進めていくべきである。
「今週いっぱいで片づけよう」とか「よし、来月には終わらせるぞ」などと、仕事を塊のまま放置し、塊のまま片づけようとすると、絶対に予定どおりにいかない。
「優先順位+細切れ」を心がければ、自分のペースをつくりながら仕事を進めていけるはずだ。
そのリズムを乱す人とは、なるべく距離を取るのがいちばんだろう。
□遅刻、ムダな呼び止めなど、他人のリズムを壊していないか?
現代人は、1日の大部分を仕事に費やしている。
しかし、そんなに働く必要があるだろうか?食べていくためには仕方がない?本当にそうだろうか?贅沢さえ言わなければ、いまの日本でただ食って生活していくのは、それほど難しいことではない。
わざわざしんどい仕事を選ぶ必要もないし、最低限のお金でそこそこの生活ができるだけのインフラが日本にはある。
どうしても働けないなら、生活保護という手段もあるし、農業技術も発達しているから、自給自足の生活だって不可能ではないだろう。
つまり、現代では、食べるために働いている人など、ほとんどいないのだ。では何のために働いているか?単純に言えば、「暇つぶし」である。本当はみんなわかっているはずだ。
現代社会では、ほとんどの人は、もはや「趣味的な仕事」しかしていない。「次の仕事」をつくるために仕事をしているようなものであり、やらなくても誰も困らないようなものが大半を占めている。
かつては、家族やコミュニティが食い扶持に困らないように、全員が汗水を垂らして働く必要があった。
しかし、技術革新の結果、すべての人が働かなくても、食べるには困らない社会はとっくに実現している。
仕事がありすぎて自殺してしまう人は数万人いるが、仕事がなさすぎて餓死する人はほとんどいない。
今後、ロボティクスやAI(人工知能)が発達していけば、ぼくたちの労働からは「食べるため」とか「稼ぐため」と言った意味は、ギリギリまで剝ぎ取られていくだろう。
そうなると、仕事するのがイヤな人、もっとほかにやりたいことがある人は、働かなくてもいい社会がやってくるかもしれない。
それを実現するための1つのオプションが「ベーシック・インカム」だ。
これは、赤ん坊だろうと老人だろうと、貧乏人だろうと金持ちだろうと関係なく、全員一律にお金を配る社会制度だ。
「貧困をなくすセーフティネット」という文脈で語られることが多いが、実際には、「人の時間の使い方」に革命を起こすインパクトがあると思う。
「生活費のため」とか「クビになりたくないから」とかいった理由で、ストレスを抱えながら嫌いな上司の下で働いたり、退社時間を気にしながらつまらない仕事をこなしている人はけっこういるだろう。
最低限の生活費が配られるようになれば、そうやって仕方なく仕事をしている人たちは全員、労働時間から解放される。
そうなれば、国家レベルで「時間の使い方」がガラリと変わることになる。
もちろん、一律にお金が配られるようになっても、「仕事をしたい人」「もっと稼ぎたい人」は働き続ければいい。
ただし、その仕事は、趣味やゲームのようなものであり、もっと気楽にたのしめるものであるはずだ。
ベーシック・インカムのような制度が、すぐに導入されるかはわからないが、1つの思考実験としては意味があるだろう。
膨大な業務に追われて汲々としている人、真面目に考えすぎて心の病気になりかけている人は、よく考えてみてほしい。
あなたがいまやっている仕事が消えたとしても、誰かがお腹を空かせて死んだりするだろうか?しないはずだ。
だから、そんなに真剣になる必要はないし、一生懸命になりすぎてもしょうがない。
「納期までに終わらせなきゃいけない!仕事の時間が足りない!」などというのは、集団の思い込みにすぎない。
たしかなのはただ1つ、あなたの時間にはかぎりがあるということだけだ。
□「仕事=本当はしなくていいもの」と考え直してみよう
ぼくはいつもスケジュールを詰め込めるだけ詰め込んで、朝から晩まで動き続けている。ぼーっと休んだり、くよくよと悩んだりしている暇がない。
いつも目の前のことに夢中で、「いま、ここ」の自分しかいない状態だ。だからといって、自分は「立派だ」とか「偉い」などとは1ミリも思わない。
なぜなら、ぼくは主観的には「ただ遊んでいる」だけだからだ。別に「社会をよりよくしたい」と願いながら、歯を食いしばって激務をこなしているわけではない。
そもそも「労働=つらいけど尊いこと」などというのは、前時代的な考えでしかない。
たしかに、もし食糧をつくったり獲ったりする人がいなくなれば、人間の命が続かなくなってしまうから、これはぼくたちにとって貴重な労働だとは言えるかもしれない。
しかし、こうしたいわゆる第一次産業(農業や水産業など)を除けば、ほとんどの労働は尊いものだとは言えないだろう。
「労働は尊いもの」とか「働かざる者、食うべからず」といった固定観念は、おそらく農耕社会に由来している。
江戸時代の日本は8~9割が農民だったはずだし、戦前にも半分くらいが農業従事者だったはずだ。
そういう社会では、「どれだけつらくても我慢して、協力しながら働くことが善」という職業倫理がまかり通ることになる。しかしいまや、専業農家なんて人口のごく一部だ。
農業技術にもイノベーションが起きたから、わずかな人が働きさえすれば、ほとんどの人の食べ物には困らないし、外国から輸入もできる。
もはや「労働=尊い」の根拠はとっくに消滅しているのだ。
それにもかかわらず、いまだに多くの人が働くことに「意味」を求めているのは、長年の〝刷り込み〟があるからだろう。
「身体がボロボロになるまで深夜残業して、圧倒的な結果を出しました!」「血の滲むような努力をして、社内№1のトップセールスに登りつめました!」「勇気を出して起業して、膨大な利潤を手にしました!」それがどうしたというのだろう?「どれだけがんばったか」「どれだけ結果を出したか」「どれだけ儲かったか」――それらは、あなたの仕事の価値を左右しない。
努力、成果、お金……そんなものに「働く意味」を求めているかぎり、あなたの人生は「他人時間」に食い荒らされて終わっていくだけだ。
現代においては、仕事はどこまでも趣味的なもの、自己満足でしかない。だからこそ、その価値はただ1つの点――「たのしいか、たのしくないか」にしかない。
ぼくはこれからもずっと、「たのしい仕事」しかするつもりがない。「イヤな仕事」「苦しい仕事」はやらないと決めている。
なぜなら、すべての仕事は本来、「やらなくていいもの」だから――。ごくあたりまえの話ではないだろうか。
ただ、各人が好き勝手に振る舞ったとしても、結果が同じになるわけではない。個人の能力には当然ながら差があるし、「運」や「巡り合わせ」の作用も大きい。
ちょっと古い言い方をすれば、「勝ち組」と「負け組」はどうしても出ることになるはずだ。それでも問題はない。
みんなの目的が、「勝つこと」ではなく、「たのしむこと」になっていれば、「負けた人たち」も決して不満は持たないはずだ。
必要なのは、結果の差そのものを無くして、「悪しき平等」をつくることではない。現代の問題の本質はむしろ、「イヤな仕事をして、負けている人」がいることなのだ。
誰もが「たのしい仕事」をするようになれば、たとえ結果がいまひとつであっても、そこには確固たる満足感が残るはずだ。
「負けても満足できる競争社会」をつくるためには、何よりもまず「仕事=つらいけど尊いもの」という思い込みが邪魔なのだ。
□仕事に伴う「努力・成果・お金」に意味を見出していないか?
「たのしい仕事しかしない」という話をすると、「苦労した末にやりがいや達成感を得られる仕事だってある」「長期スパンで考えたほうが、より大きな幸福を得られるはずだ。
目先のたのしさを追うだけではなく、我慢や努力だって必要だ」という反発を覚える人もいるだろう。たくさんの人が、幸福について誤解していると思う。
だいたいみんな、幸せというものを、何か高尚なものだと思いすぎなのだ。幸福というのは、努力や成長を積み上げた先にある「点」などではない。
日々のあらゆる時間のなかに横たわっている「線」だ。つまり、グーッと我慢を重ねて、あるときポンッといきなり幸せに「なる」のではない。
ぼくたちはいつでも幸せで「ある」ことができる。幸福は0か1かの世界ではなく、無限の「度合い」があるものなのである。つまり、100%の幸福なんてものはない。
あるのは、「ちょっと幸せ」とか「まあまあ幸せ」とか「めちゃくちゃ幸せ」といった「度合い」だけだ。
それをわかっておくだけでも、ムダな努力に時間を費やしてしまわなくなるのではないかと思う。
そう考えてみると、「できるかぎりの幸福を目指してがんばる」というのは、じつは矛盾している。
より大きな幸せを追求してがんばるということは、そのプロセスにおいて苦労や苦痛も大きくなることを意味するからだ。
だから本当に大切なのは、幸福量と苦痛量の「分岐点」をしっかりと見定めることだ。
最終的に得られる幸福と、途中プロセスで味わう苦痛とを比較したとき、あまりにもがんばりすぎて、結果的に苦痛のほうが多くなってしまっては元も子もない。
逆説的に聞こえるかもしれないが、人間は幸福を最大化しようと躍起になるほど、じつは不幸になるようにできているのだ。
では、「より多く」幸せになるために、何が必要なのだろうか?それは「食欲・性欲・睡眠欲を満たすこと」――これに尽きる。
地球上に生きている人間は、1日サイクルで欲望がリセットされるようにできている。
眠りは1日サイクルの欲望の最たるものだが、食欲や性欲だって考えてみれば、似たようなものだ。
おいしいものを食べて、「う~ん、これは最高にうまい!幸せだなあ!」と感じても、次の日になれば、またしっかりとお腹が減って、おいしいものを食べたくなる。空腹でありさえすれば、だいたい何を食べてもおいしくて、幸せになれる。
セックスもそうだ。1回セックスしたら、次の日はもう気持ちよくないなんてことはない。地球がまた1回転してからセックスをすれば、やっぱりちゃんと気持ちいいし、幸せになれる。そのまま朝までぐっすり眠れば、こんないい気分はない。
すばらしいと思わないだろうか?ぼくたちには、毎日つねに幸福を感じられるように、「食欲・性欲・睡眠欲」という最高のツールが用意されているわけである。
幸せというのは本来、こういう手近なものだ。そして、それをいつでも手軽に得るための機能が、人間にはもともと実装されている。
それらのツールを使うことなく、睡眠時間を削って仕事をしたり、まずいものばかりを食べたり、セックスのない日常を送ったりしているのは、本当にもったいない。不満がゼロになることはないだろう。
しかし、この3つの本能を満たしさえすれば、ぼくたちは〝そこそこ〟幸せにはなれるのだ。それでいいではないかと思う。
□本能を満たすことをおろそかにしていないか?
「たのしいことだけやれ」「本能を満たせ」という話をしても、「いやあ、自分はもう若くないですし……」などと苦笑いをする人がいる。まったくバカげているとしか言いようがない。
ぼくは現時点で46歳だから、世の中では中年と言われる年齢だ。外見的には歳をとったと思うし、肉体的な衰えがまったくないと言えばウソになる。
しかしぼくには、「老いた」という実感がほとんどない。東大で麻雀と酒に溺れる毎日を過ごしていた自分、寝食を忘れてビジネスにのめり込んでいた自分、ライブドアの経営者としてたくさんの社員に囲まれていた自分、長野刑務所で「衛生係」をやっていた自分……。
人から見ればものすごい振り幅の人生かもしれないが、じつのところ、ぼくの内面では変化らしい変化は起きていない。
誇張でもなんでもなく、久留米で少年時代を過ごしていた頃と大差ないのだ。そもそも年齢なんて、脳が感じた幻想にすぎない。
本人が「自分はもう年寄りだ」と思えば、その人は実際に老いていくだろうし、年齢に無自覚なまま、たのしいことに夢中になっていれば、老いなんてものを感じないで済む。
だから、肉体的変化を言い訳にして、「自分はもう若くないので、たのしめません」なんて諦めてしまうのは、愚の極みである。
ちょっと歳をとったくらいでは、人間なんて大して変わらない。何歳になっても、たのしいことはたのしいものだ。
その一方で、ぼくがいつも意識しているのは、「変わらないものはない」ということだ。あらゆるものはいつかバラバラになる。
ずっと続くものなんてないし、「長続きすること」それ自体には、何の意味もない。お金もモノも、人間関係も会社も、いつかは壊れる。
これは「ゆく川の流れは絶えずして……」(『方丈記』)とか「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」(『平家物語』)みたいな「無常」の世界だ。
どういうわけか、ぼくは中学のときの卒業文集でも「諸行無常」をテーマにしていたくらいなので、こういう価値観がずっと根っこにあるらしい。
熱力学の第二法則、いわゆる「エントロピー増大の法則」なんかも、これに近いだろう。
たとえ秩序がつくられていても、エントロピー(乱雑さ)はたえず増大し、すべての物事は拡散・崩壊に向かっていく。それが世界の理なのだ。
しかし、いっさいが無常で、現れては消える「泡」のようなものであるにしても、「何をしてもムダ」とか「すべてを諦めたほうがいい」と思っているわけではない。
忘れてはならないのは、ぼくたちは本質的に、そういう1個1個のくだらない「泡」に、幸せを感じられてしまう存在だということだ。
所詮は「泡」なのだから、割れないように大事にしすぎても仕方がないし、たとえ消えてしまっても打ちひしがれる必要もない。
ただ、次から次へと現れる「泡」をたのしめばいい。ぼくはいつも目の前のことに夢中になりながらも、頭のどこかではずっと「無常」のことを考えている。
というよりも、「この世には常なるものなど存在しない」と心から信じているからこそ、目の前の「たのしいこと」に集中できる。
あなたが文句を言っている会社も上司も仕事も家族も、いつかは存在しなくなる。だとしたら、そんなものに時間を割いている暇はないはずだ。
もっとたのしいことに手を伸ばさないでどうする?「すべては無常」だと思って生きると、くだらないこだわりが消えて、ずいぶんとラクになれる。
□いまこの瞬間、「泡」をたのしめているか?
人類発展の歴史は、技術革新の歴史だ。
狩猟・採集をして生きていた人類が、農耕・定住のライフスタイルを手に入れられたのは、農業革命のおかげにほかならない。
これにより飢餓による死者が減り、1つのコミュニティが抱えられる人口が、飛躍的に増大することになった。
ここで生まれたのが、短期的なたのしみをなるべく我慢して、多少の苦労をしてでも、より大きな成果を得ようとする発想である。
毎日働くのがつらいからといって、農作業をサボっていると、半年後には収穫できる作物がなく痛い目を見ることになる。
また、食べたいときに食べてしまえば、将来的に食い扶持に困るのは自分たちだ。
その結果、人類は1日ごとにリセットされる食欲・性欲・睡眠欲という本能を手放し、「我慢すること」を覚えるようになった。
「自分の時間」を犠牲にし、集団の規律に合わせて動くようになった。
その後も小さなイノベーションは起きていたが、農業革命に匹敵するインパクトをもたらしたのは、18世紀イギリスからはじまった産業革命だろう。
そのなかでも顕著なのが、ワットが発明した蒸気機関だ。これが機械工業による大量生産につながった。
つまり、人類が自ら手を動かさなくても、モノを生み出すことができるようになったのだ。この頃あたりから、人類の「余暇」の時間は、爆発的に増えることになった。また、電球の発明も大きいだろう。
電気の灯りを手に入れる以前、夜というのは寝る以外にはすることがない時間帯だった。
しかし、仕事を終えて家に帰ってきたあとも、電球をつければ部屋を明るく保つことができる。本を読むこともできるし、酒を飲んでもいい。電球も「余暇」の増大に寄与したはずだ。
その証拠に、時間をつぶすための遊びの多くは、産業革命の起きたイギリスが発祥である。
サッカー、テニス、ゴルフといったスポーツもそうだし、近代ギャンブルやカードゲームなどもイギリスで生まれたものが少なくない。
近代以降の人類は、いかに暇をつぶすかに必死で向き合ってきたとも言える。
これに続く情報革命や人工知能、オートメーションがさらに進めば、ますます「労働」に時間を割く人は減っていくだろう。
そういう時代であるにもかかわらず、「自分の好きなこと」に夢中になれない人は、いまだにどこかで「農業的なマインド」に縛られている。
いや、いまだって本当は、ぼくたちは暇で仕方がないのだ。
「毎日のように残業続きです……」「有休も取れないから、余暇なんてとんでもない!」果たして本当だろうか?口では「忙しい、忙しい」と言ってはいても、実際のところ、その忙しさに見合うだけのパフォーマンスを本当に上げているだろうか?
もちろん、自分の希望とは関係なく、他人からどんどん仕事を振られるのに任せていれば、忙しいように〝感じる〟のは間違いない。
しかし、結局それは、暇を「作業」で埋めているだけではないのか。その作業がなかったとして、あなたはそれを埋められるだけの「やりたいこと」を持っているだろうか?暇は十分にある。
本当の問題は、それを埋めるための「やりたいこと」があなたにはっきり見えていないことなのだ。
□3年働かなくていいなら、明日から何をする?
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