何としても宿題を終わらせて海に行きたかった
2章では「時間を制する者が世界を制する」ということで、時間術があなたの仕事にどんな恩恵をもたらすかを見ていきました。
その恩恵とは、
①リスクを測定できる
②目に見える形のもの(プロトタイプ)を素早く作ることができる
③誤差に対応できる
の3つでした。
また、私がこの3つの恩恵のおかげで、マイクロソフトで大きな成功を収められたというお話もしました。
本章では、私が現在に至るまでにどのような経験をしてきたのかをお伝えしたいと思います。
ロケットスタート時間術はいかにして生み出されたか?さらに、ロケットスタート時間術は、どのような場面に応用できるのか?についてのお話です。
少し戻りすぎでは?と思われるかもしれませんが、まずはマイクロソフト時代よりももっと昔、私が小学生だった時代の話から始めなければなりません。
なぜなら、私が時間の使い方について生涯をかけて考えることになったきっかけが、この時代にあるからです。
あれは忘れもしない、小学3年生の夏休みのことでした。
小学生の夏休みといえば、学校のプール、家族旅行、自由研究など、楽しいことはたくさんあります。そしてもちろん、学校の宿題も。
きっとみなさんも苦しまれた記憶があるように、私も宿題がとてつもなく嫌でした。絵日記は毎日つけていたものの、漢字の書き取りや読書感想文なんかは、ずっとほったらかしにしていました。
そんな風に宿題を残したまま、遊んで暮らしていた小学3年生の夏休みが終わる3日前のこと。
私が必死に漢字の書き取りをしていると、親戚のおじさんから家に電話がかかってきました。内容は「海に遊びに行かないか?」。
電話を取った母親は「宿題も終わってないのに、海に遊びに行ったりしてる場合じゃないから」と、私を外に出してはくれませんでした。
私はその瞬間、果てしない後悔を覚えました。もし漢字の書き取りを早く終わらせていたら。もし読書感想文を早く書いていれば。もし宿題を早めに終わらせていれば、海に遊びに行くことができたのに。
行けるかもしれなかった海を想像しながら宿題をするのは、とてもつらかったことを覚えています。
1年後、私のマインドセットは去年とはまったく違っていました。また海に行けなかった、という事態になってはいけない。宿題をほったらかしにしてはいけない。
そう決意した私は、夏休みが始まったその日から、漢字の書き取りに着手しました。算数のドリルなんかは、もともと理科に興味があったということもあり、すらすらと終わっていきました。
小学校の成績は理科と算数が4か5で、あとは2か3。小学生のときから正真正銘の理系だったのです。ただ読書感想文は、かなり辛かったのを覚えています。
本を読むのはいいけれど、その感想をわざわざ作文にして人に読ませるということの意味が理解できなかったからです。
私の「意味がわからないことはやりたくない」という性格はこのころからできていたのだと思います。
子どもにとって、目標を立てて自分を律するのは難しいことです。私も去年「宿題が終わっていなかったせいで海に行けなかった」という後悔がなければ、一人で淡々と宿題をやり続けることはできなかったと思います。
母親は、宿題を早めに終わらせようと奮闘する私を見て、呆れたような顔をしていました。そうして苦しみながらも、夏休みが始まって約2週間で、宿題は終わりました。
もちろん、2週間一切遊ばなかったわけじゃありません。ただ、小学生って一日中ずっと予定があるわけではないですよね。
そんな、何もすることがない時間に宿題をやるようにしていました。
夏休みは全部で5週間くらいあるので、残りの3週間は遊んですごせることになります。自分の好きなように予定を立てることができるわけです。
もちろん、おじさんに海に誘われたとしても行くことができます。ただし日記は2週間で終わらせられなかったので、残りの3週間もずっと書き続けていました。
さすがに7月中に夏休みの終わりまで予想して日記をつけるわけにはいかないですからね。いずれにしても、私が初めて課題を前倒しで終わらせたのは、この小学4年の夏休みのことでした。
大げさではなく、私の人生が変わった瞬間でした。
予習は、最強の時短になる
そうして小4、小5、小6と、夏休みの宿題は、いつも前倒しで終わらせるようにしました。
あの小3のときの失敗と、小4のときにそれを乗り越えた経験のおかげで、私はとにかく前倒しでやる習慣が身に付いたのです。
その習慣は中学に入ってからも続きます。
中学になって初めての定期試験で、私は試験の前日に慌てて勉強してしまいました。
とはいえ、試験のために勉強するという行為自体が初めてだったので、たいした勉強はできなかったのですが。結果は、あまりよくありませんでした。
そんなにダメというわけではなかったのですが、小学校のときのように、すらすら解けなかった。これは1週間前からコツコツと勉強をしないと次からは失敗するぞ、と悟りました。
当時、クラスメイトのF君が「徹夜で勉強をしてきた」と、試験日に言っていました。
彼は試験はまったくできず(ひょっとしたら私よりも点数が悪かったかもしれません)、私は詰込みの勉強法では試験に太刀打ちできない、ということを彼に学びました。
寝ないと頭が働かない。そうすると本来発揮できるはずのパフォーマンスさえも発揮できなくなる。だから試験前はなるべくたくさん寝ていく。
これは中学の試験から現在まで貫き通している私のポリシーです。毎日勉強していれば、試験前に慌てて時間を取る必要もない。そのことに気づいたのです。
中学と小学校との違いといえば、やはり英語という新たな科目を勉強しなくてはならないところです。
私はもともと国語はからっきしでしたが、英語は勉強しなくてはと思っていました。理系の研究者になるからには、英語は必須、と子どもながらに考えていたからです。
とはいえ、やはり最初から英語の才能があったというわけではありません。
まったく理解できなかったし、わからないからますます勉強をしたくなくなる、という負の循環がありました。
その循環を断ち切るために、私はある勉強の仕方を始めることにしました。それは授業の前に、その日の分の教科書の英文を、全部訳しておくという方法です。
言葉にしてみると何ということもないかもしれませんが、やろうとすると意外と大変です。今でこそ英語を読むのは簡単なことですが、当時はそもそも英語に触れること自体がほとんどなかったのですから。
しかし、自分が何もわかっていないことを、授業で初めて教わってその場で理解していくという勉強過程も、なかなかハードなことだと当時の私は感じていました。
それよりも事前に予習をしておいて、授業でその答え合わせをしていく、といったやり方のほうが頭にすっきり入ってくるのです。
ここで、みなさんに一つ質問です。
授業前に毎回頑張って予習をして、試験には余裕でのぞむ。予習をせずに、試験前に苦労して寝不足の頭で当日を迎える。
どちらがいいでしょうか?私は前者のほうが時間も節約できるし、何より勉強内容が頭に入ってくると考えました。ただそれだけのことです。
予習の段階ではとにかく、わからないところは飛ばして全部訳していく。そうして授業を受けると、わからなかったところが埋まっていきます。
授業でも理解できなかったら、先生に質問する。英語の勉強はそれで終わりです。試験前も勉強という勉強はせず、ノートを読み返す程度でした。
予習そのものも勉強になりますが、もっと重要なのは、授業そのものです。予習は自分がわからないところを明確にするための準備にすぎません。本当の勉強は授業中にするのです。
授業で自分がわからなかったところを解決すれば、それが勉強になります。その意味で、板書をノートにとることに授業の大半を費やしている人ばかりだと思いますが、これほど膨大な無駄に私はいまだかつて出会ったことがないと言えるほど、無駄中の無駄です。
あなたの授業での仕事は、ノートを取ることではありません。わからないことを理解することです。
もし予習をしなければ、自分の理解できているところ、理解できていないところがあやふやなまま授業を受けることになります。
そんな状態で受けた授業は、ただ先生の話を耳に入れるだけで終わり、本当の勉強にはなりません。
ですから授業を真に実のある時間にするためには、予習こそが肝なのです。予習をするメリットは授業の内容を適切に理解できるという点だけではありません。
授業を最大限に活用することで、復習や試験前の勉強の時間などを削ることができます。すなわち、時間の節約になるのです。
授業では、予習で理解できなかったところに注目して勉強すればいいだけです。逆に言えば、予習で理解できたところは勉強しなくてもいいのです。
中学にもなると授業中に居眠りをする生徒も出てきますが、私に言わせればそれも時間の無駄。授業で聞いていなかったところを、また後でわざわざ勉強しなくてはならないのですから。
この英語の勉強法も、「前倒し」の精神が生み出した時間術のプロトタイプなのだ、と今では思います。
本当は受験勉強さえ効率化できる
私は高校受験を控え、早稲田大学の付属高校を受験することに決めました。理由は単純で、東京大学に進むためには国語と社会科目を勉強しないといけなかったからです。
いい大学には行きたい。けれども一番の大学である東大に入るには、自分の嫌いな科目を受けなくてはならない。
さすがに国語と社会科目を捨てて受かるほど東大は甘くない。ならば東大にはもうこだわらなくていいけど、次くらいにレベルの高い大学に入りたい。私立なら早稲田だな、ということで早稲田を選びました。
そして早稲田大学に入ることが目標なら、もういっそ付属高校から入ってしまえというシンプルな考えでした。
付属高校に入れば、普段の成績さえ良ければ、受験なしのエスカレーター式で早稲田大学に入ることができます。
わざわざ高校受験を通過したのに、またそこから3年間大学受験のための勉強をしなければいけないというのが、なんとも時間の無駄のように感じたのです。高校受験に際しては効率を重視して作戦を立てました。
試験の成績に加味される内申点については授業中に質問していたおかげで先生から高評価を受けていましたし、英語と数学は日々の勉強のなかで十分に理解していました。
ちゃんと予習をして授業を受けていれば、受験勉強さえ効率化できるというわけです。
受験勉強が無駄というわけではありませんが、私はとくに勉強が好きな子どもというわけでもなかったので、嫌いな勉強はできるだけしないようにしていました。
つまりこの時間術は、嫌なことをなるべくしないで済む、すなわち、好きなことだけに目一杯時間を使うためにも活用できるのです。
早稲田付属高校の受験科目は英語と数学と国語でした。私の受験年のボーダーラインは167点。数学は80点取る自信がありました。国語は嫌いな科目でしたが、しょせんは日本語なので勉強しなくても40点は取れる。
というわけで、合格するために英語で50点取るという目標が自動的に成り立ったのです。
タイムマシンを作るのに漢字は要らない
勉強がよっぽど好きな人なら、こんな目標を立てずにとにかく勉強をするでしょう。でも正直なところ、勉強はできるだけしたくないですよね。
私もそうでした。勉強よりも、好きなこと、やりたいことがある。だからそのためにいかに効率よく、楽に試練を乗り越えるかということばかり考えていました。
早稲田の付属高校を受けたのも、言ってしまえば高校で社会科目を勉強したくなかったからです。社会科目はとにかく暗記勝負です。
歴史上の人物も地名も、覚えていなければ答案は埋められません。その点数学は楽です。
暗記することはほとんどなく、方程式をもとに論理的な思考を心がけさえすれば絶対に答えが導き出せます。
言いかえると、数学は挽回の可能性があるのです。しかし社会科目には挽回の可能性がありません。覚えていないことはどうあがいても答えられない。
私が社会科目が嫌だったのは、そういった理由があるからでした。国語が嫌だった理由も同じです。国語は、読解はともかく、漢字を覚える必要があります。
でも私は漢字を覚えなければならない、ということにまったく納得できませんでした。それにはこんな理由があります。
中学に入ってから私は物理学の本を読み、物理学の世界にハマッていきました。大学では物理学の勉強をして、タイムマシンを作りたいとも考えていました。
でも、タイムマシンを作るために漢字は必要ありません。
それよりもむしろ、英語の研究論文を読んだりする必要はあると思っていたので、英語の成績ばかり伸びていきました。
とにかく自分で納得できないもの、自分に必要ないと思っていたものは、やらない方向で生きていたのです。
余った時間で、好きなことに打ち込む
無事、受験に合格し、早稲田大学高等学院に入学した私は、相変わらず予習をして授業を受けていました。
そうすることで授業の内容がすっきり頭に入るだけでなく、無駄な勉強の時間を削り、効率的な学習ができるからです。これは高校でも通用する勉強法でした。
そうして遊ぶ時間を確保したものの、何をしたらいいかわからず時間を持て余していた私に転機が訪れました。
それは高校2年生の時。親からコンピューターを買ってもらったのです。
1977年当時のコンピューターといえば、たくさんの基盤を自分ではんだづけして組み立てるような、とても原始的なものでした。
私は初め、コンピューターは人間の「脳」のようなものだと思っていました。人間の脳にたくさんの情報が入っているように、コンピューターもたくさんの情報を詰め込んでいる。
そして外からの反応に対して何かを考え、適切な情報を一つ、あるいは複合的に出力する。そういったところが、脳とコンピューターは似ているなと思っていました。けれどもじつは脳とコンピューターは決定的に違っていました。
それは、脳が複数の出来事を同時に考えられるのに対して、コンピューターは一度に一つのことしか考えられないという点です。
人間は、話している相手の言葉だけではなく、表情や今まで話してきた文脈など様々な要素を考慮したうえで言葉を解釈します。
たとえば「君はバカだなあ」と相手に言われたとしても、相手が笑っているのか真剣な顔をしているのか、世間話で盛り上がる飲み会の場なのか、仕事でミスをしたときのことなのか……。そういった外部の要素によって言葉の意味がまるっきり変わります。
一方、コンピューターは入力された言葉そのものにしか反応しません。コンピュータープログラムとはまさにそういうもので、入力されたことを一つひとつ順番に実行しているだけなのです。
それが脳とコンピューターの大きな違いです。私はその違いに大きな魅力を感じました。数学や物理のように、与えられた方程式によって答えが一意に定まるからです。
私はコンピューターを使い、さっそくプログラミングを始めました。今のパソコンとは違い、コンピューター上で何をするにもプログラムを入力する必要がありました。
まだマウスすら存在しない時代です。雑誌に載っていたゲームのプログラムを打ち込んで、コンピューターで遊んでいました。
プログラムは長く、一つのゲームをプレイするのに2、3時間費やさねばなりませんでした。途中で電源が落ちて、最初からやり直しになったりと、楽しい時代だったものです。
プログラミング言語に関しては、最初はまったく意味がわかりませんでした。けれども雑誌に載っているプログラムをただひたすら、幾度も幾度も書き写していると、ある日突然プログラムの意味がわかるようになったのです。
不思議な感覚でした。
これは英語も似たようなものだと思います。わからなくてもいいから何回も書き続けたりしゃべり続けたりする。そうしているうちに、ある日突然「悟る」のです。
私はプログラムを「悟った」あの瞬間の興奮を今でも忘れません。そしてその瞬間こそが、私がプログラムの世界に足を踏み入れた瞬間なのです。プログラミングを習得して以来、私は自分でプログラムを作成するようになりました。
アセンブラ(コンピューター動作を直接的に記述したプログラムを、コンピューターが理解できる数字の羅列に変換するソフト)やデータベース(たとえば住所録などの様々な情報を格納するためのソフト)などのプログラムなどを書きました。
ただプログラムを作るだけではおもしろくないので、その完成品を、企業向けコンピューター雑誌を刊行していたアスキー出版に持ち込みに行きました。
今でこそアスキーは角川グループのアスキー・メディアワークスとしての総合出版社というイメージですが、当時のアスキーはとにかくコンピューター系情報を発信する会社という立ち位置でした。
具体的には、NECが新型のコンピューターを出すときのデモプログラムを作ったり、コンピューターを売るためにおもしろいゲームを作ったり。
「パソコン業界全体のための広告会社」といったイメージです。広告とはいえ、内部は完全にIT技術者集団がソフトウェアを開発していたわけですが。そのような背景があり、1978年にはマイクロソフトと代理店契約を結び、「アスキーマイクロソフト」となりました。
しかし1986年にはマイクロソフトが自社で日本支社を作ることになり、アスキーとの契約が終わります。
その後はよく知られているとおり、2008年にメディアワークスに吸収合併、2013年にはKADOKAWAに吸収合併され、今に至ります。
私がアスキーで仕事をしていたのは77年から82年にかけてのあいだです。
アスキー出版に持ち込みをする高校生というのはとてもめずらしかったようです。
そもそも『アスキー』は企業向けの雑誌なのであまり学生は読んでいないですし、読んでいても高校生は学業があるので、プログラミングしている時間などふつうありません。
けれども私は、普段から無駄な勉強をしないように効率化を図っていましたし、何よりも付属高校なのであまり受験を意識した勉強をする必要がなく、のびのびと自分の好きなことに打ち込めたのです。
無意識のうちに大きなスラックを獲得していたのです。そうしてアスキー出版に自分のプログラムを持ち込みました。
一つ目の作品はボツを食らいました。
ただそのとき、「こういうプログラムならおもしろいから載せるよ」というアドバイスを編集者にもらい、私はそれに従って2作目を作りました。
2作目は編集者の言うとおりのものを作ったのですんなり通過し、雑誌掲載が決定しました。
こうして今後数年間にわたる、私とアスキーの関係が始まりました。
嫌なことをやりたくなければ効率化するしかない
『アスキー』に私の作ったプログラムが載ったことをきっかけに、私はアスキー出版でアルバイトをすることにしました。
毎日学校が終わったらすぐ南青山にあるオフィスに行き、ひたすらプログラミングをしていました。
とにかくプログラミングは楽しかったので、ときには終電を逃して会社の人に車で家まで送ってもらったこともありました。
一番働いたときは月140時間も働いていました。
異常な労働時間だったので、学生にしては生意気な額の給料をもらってもいました。
付属高校だから受験勉強をしなくてもいいとはいえ、定期試験の成績が良くないと好きな学部に進学できないという制約もありました。
私はプログラムを始めてから、大学でもコンピューターの勉強をしたいと思っていたので、早稲田の理工学部に入るために成績は上位をキープしておく必要がありました。
勉強もしなければいけないけれど、アルバイトも忙しい。中学のときももちろん勉強の効率化には尽力していましたが、アルバイトを始めてからは、さらにそれを先鋭化させました。
国語と社会科目は捨てていたので、もはや国語と社会科目の時間に英語の勉強をするといったことまでしていました(もちろん先生には怒られましたが……)。
すべては大好きなプログラミングの時間を取るため。やりたいことをやるためには、やりたくないことを速攻で終わらせるしかないのです。
試験前もアルバイトはやりたかったので、中学のときと同様に、普段から予習をまじめにすることで、試験前の重点的な勉強を省くようにしました。
勉強量は少なく、成績は高く。嫌いな勉強を倒すために、とにかく効率化しました。
試験前の学校の授業は、先生が自習の時間を作ってくれたり、試験範囲が終わって授業が早めに切り上げられたりして、時間に余裕が生まれます。
その余裕に全力で試験のための復習をしていました。余った時間に何もしないんじゃ、もったいないです。
当時私が一番ハマッていたことはプログラミングでしたが、学校じゃプログラミングはできない。じゃあその時間は勉強しよう。そういう簡単なロジックで勉強していました。
社会や国語の勉強は本当に嫌いでしたが、やらないと好きなこともできなくなるので、とにかく嫌いなことをする時間を減らそうと努力しました。
でも嫌いなことには集中できない。集中できないなら効率を上げるしかない。それだけを信じて突き進んでいました。
言葉で説明できなければ、先に形にしてしまえ
早稲田大学に入学してからもアスキーで仕事をしながら学業を続けるというスタンスは変わりませんでした。しかし、ある時に事件が起こります。
アスキーの著者の一人が、私の書いたプログラムを別のパソコンに移植し、そのロイヤリティー(権利への対価)として多くのお金をもらっていたのです。
プログラム自体は私が書いたのにもかかわらず、私はいちアルバイトにすぎなかったため、労働への対価は支払われませんでした。
それに憤りを感じた私はアスキーのアルバイトを辞めました。
しかしプログラミングは好きで続けたかったので、フリーのエンジニアとしてアスキーにソフトを売るという形で仕事を続けることになりました。それならばロイヤリティが支払われるからです。
ところでソフトウェアの世界では、得てしてハードウェアの進化に追随して新しいものが生まれていきます。
なぜなら、ハードウェアの性能が上がらないと以前よりも優れた性能のものを作ろうとしても限界が来るからです。
そのときちょうど、日本電気(NEC)がPC-9800というパソコンを発売しました。これはパソコンに初めてマウスが付いた画期的な製品でした。
私はこれを見て、「もしかしたら新しいことができるのではないか」と思いました。それで私が作ったのが「CANDY」というソフトです。
機械や電気機器の設計図を作るためのソフトです。設計図を作るソフトはCAD(キャド)といい、今までは大きなコンピューター専用のソフトだったのですが、それを家庭用のパーソナルコンピューターで世界で初めて使えるようにしたのがCANDYです。
CANDYを開発している間はその過程をいつもアスキーの人に見てもらっていました。そのときに気づいたことがあります。
それは、アイデアをなるべく早く目に見える形にすると、フィードバックを早く得られるということです。
CANDYは完成するまでに6か月かかりましたが、じつは最初の2週間で私は「なんちゃってCANDY」を作っていました。
2章でお話ししたプロトタイプです。なぜそんなことをしたのかというと、やはりCANDYが前例のないソフトだったからです。
先に言ったように、パーソナルコンピューター上で動作するCADのソフトというのはそれまで存在しませんでした。
そんなソフトの企画書を作って見せても、アスキーの人が理解してくれないのは明白でした。
だから私はプロトタイプを作ったのです。
これがこうなってこんなものができますよ、というコンセプトを見せることで、アスキーの人も納得してくれるだろうと考えたのです。
結果、プロトタイプに対して様々なアドバイスをもらうことができ、開発も順調に進めることができました。
百聞は一見に如かずで、言葉で説明することが難しいときは形にして見せてしまうのが一番いいのです。これはどの仕事でも同じです。
企画を形にする前に、「そもそもどういうものなのか想像できない」とか「予算はあるのか」とか「商品になる保証はあるのか」とか、そういったことを言われて仕事を中断するのはもったいない話です。
企画はとりあえず形にしないとゴーサインをもらえませんし、予算は付きませんし、商品になる保証もされません。
だからプロトタイプを作ることが必要なのです。もしプロトタイプを作っている時点でダメだったら捨てるだけです。それで無駄になるのはせいぜい2週間程度のものですから、大したダメージにはなりません。
そうして完成したCANDYですが、史上初のパソコン上で動くCADのソフトということで大きな人気を博しました。
そのおかげで学生の身でありながら1億円を超えるロイヤリティーを受け取りました。
そのお金をどうしたの?と思う方もいるかもしれませんが、私は当時からお金に興味がまったくなかったので、ほぼ全額を貯金しました。
結婚してからそのことを妻に明かしたのはNTTを辞めてマンションを買うときだったので、「NTT時代に(妻がやりくりをして)節約して生活していたのは何だったのか」と怒られました。
妻には申し訳なかったですが、私にとっては、お金を得ることもいい暮らしをすることも重要なことでは一切なく、好きなことを目一杯できることのほうが、よほど大切なことだったのです。だからそのお金のことは長らく忘れていたのです。
「まず作ってみる」が、未来を変える
大学卒業後は、早稲田の大学院で相変わらずコンピューターのソフトを開発していました。大学院の修士課程を修了した後は、NTTの研究所に就職しました。
自分は実務より研究のほうが向いていると思ったからです。NTTを選んだのは、当時、通信研究の日本最大手だったから、という理由です。
しかし、入社して14か月後のことです。
アスキーがマイクロソフトと結んでいた代理店契約が切れ、マイクロソフトが日本法人を作るというニュースが私の耳に飛び込んできました。
さらにそのニュースによると、私がアスキーでアルバイトをしているときにお世話になっていた15人の方が、マイクロソフトに移ったということでした。
私はマイクロソフトの社長に就任が決まった古川享さん(現・慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授)に電話をしました。
「なんでマイクロソフトに誘ってくれないんですか。水臭いじゃないですか。僕がやりたくないわけないじゃないですか」と。
そうして私もCANDYを開発したという実績を買ってもらい、NTTを辞め、日本法人のマイクロソフト株式会社に移りました。
マイクロソフトでは、主にアメリカのソフトの日本版を作る仕事をしていました。縦書きができるようにしたり、漢字変換ができるようにしたりなどです。
漢字変換といえば、ジャストシステムが作っているATOKがよく知られています。ですから、漢字変換はジャストシステムに作ってもらおうとしました。
あとはOSにATOKを装備するための仕組みを作る必要がありました。しかし、仕組みだけを提供するというのはなかなか難しいのです。こちらがATOKのデザインを想像して仕組みを作ってもうまくいく保証はありません。
「ここがこうなっていないとできません」「じゃあここはこうします」といったやり取りが必ず行われます。
しかしそうしていては納期に間に合わない。そこで私は最初に「なんちゃってATOK」を作りました。
単語は10個程度しか変換できないのですが、それでもOS上でちゃんと動作する仕組みを作ったのです。
そしてその仕組みをジャストシステムに渡し、充実した漢字変換の実装を依頼しました。
これもCANDY開発の際に気づいた、「まずプロトタイプを作る」という仕事法が生きた結果です。
3年半日本法人で働いた後、ついに1985年にアメリカのマイクロソフト本社へ移ることになりました。そこで私はマイクロソフトの次世代OSの開発を任されました。
次世代OSの開発グループはなんと6、7人しかいませんでした。私はそのなかの一人だったのですが、英語があまり得意ではなかったので、どうも会話についていけませんでした。
それを見た上司は私に「何か考えてることがあるなら、プロトタイプを作ってみたら」と言いました。そうして私は相変わらずプロトタイプを作ることにしました。
本物ではなくてあくまでプロトタイプでいいということで、デザイナーに近い仕事をしていました。
具体的にいうと見た目や操作性などの基本設計(アーキテクチャ)を生み出す仕事です。
開発グループでは次世代OSのベースになるソフトウェアモジュールを作っていましたが、私はそこから外れ、一人プロトタイプの作成にいそしんでいました。
半年後、完成したプロトタイプを上司に見せると大喜びで、さらにその上司にもプロトタイプを見せることになりました。
私が緊張しながら片言の英語で説明をしていると、上司の上司は「やはり目に見える形にするのは良い。これからいろいろな人にデモしてもらうことになると思う。よろしく頼むよ」と言いました。
それは私にとって最高の褒め言葉でした。
ろくに英語もしゃべれないままシアトルに来た私にとって、「会社のために何か役に立つことができた」と実感できた最初の経験でした。
その後も、上司やいろんな部署の人が私の部屋に来るたび、私は喜んでプロトタイプのデモをしていました。
そんなある日「来月の頭に、もう少しちゃんとした場所で、プロトタイプのプレゼンをしてほしい。30分ほど時間をあげるから、用意しておくように」と言われました。
「ミーティングの席ですらまともに話せないのに、英語でプレゼンなんて無理」という私に、上司は「何とかなるよ。君が作ったプロトタイプなんだから、君がプレゼンして当然だ。プロトタイプが良くできているんだから心配ないよ」と気楽に笑うのです。
こんな経緯で、英語でプレゼンをすることになってしまった私は、とにかく恥をかかないようにするにはどうすれば良いかという作戦を立て始めました。
最初に決めたことは、スライドは一切使わず、プロトタイプのデモだけに専念することでした。
プロトタイプのデモを命じられたのだから、細かい技術の話はせずに、とにかく見ている人に「次世代のユーザー体験はどうあるべきか」をわかってもらうことが一番です。
そのためには、それだけで30分飽きさせないデモをする必要があります。
そこで、「次世代OSを入手したユーザーが、ユーザー登録をし、ワープロをインストールし、文章を作成し、プリンターを接続し、書いた文書をプリントする」という一連のユーザー・シナリオを30分かけてデモすることにしました。
プロトタイプ上のデモを斬新で魅力的なものにすれば、見ている人の意識はほとんどそちらに行くし、私自身は「これからワープロをインストールします」などの補足的なことを言うだけで十分です。
企画を早く形にした者がチャンスをつかめる
当日、会議室まで上司に連れられていった私は、「場所を間違った」と思いました。それは単なる会議室ではなく、1000人近く人が入れる大ホールだったのです。それも、観客席にはぎっしりと人が座っています。
「まさかこの会場でプレゼンするわけじゃないですよね?」「ここだよ。マイクロソフトが毎年開催しているカンファレンスなんだ。パソコンメーカーやソフトウェアメーカーの重役たちが来ているから、マイクロソフトがどんなものを開発しているかをデモする絶好の機会なんだ」
せいぜい十数人くらいの、それもマイクロソフト社内の人たちに向かってプレゼンするものとばかり思い込んでいた私の背中に冷や汗が流れました。
まさか、1000人近い観客の見ている前でプレゼンをすることになるとは夢にも思っていなかったわけですが、いまさら断るわけにはいきません。
「やるだけやってみるしかない」と自分に言い聞かせるしかありませんでした。
少しすると上司が壇上に立ち、「これからマイクロソフトが開発している次世代OSのデモをご覧いただく。まだ開発中のものだが、社外の人たちに見せるのは今日が初めてだ」とアナウンスし、私に目配せをしました。
私の頭の中に「プロトタイプって言わなかったけどいいのかな」という疑問が浮かびましたが、とにかくこのプレゼンを無事にこなすことだけに全神経を集中していた私にとっては、どうでもいいことでした。
壇上に上がると、数百人の観客の目が私にそそがれます。深呼吸をして、デモをスタートさせます。
「これがユーザーがOSをインストールしたばかりの状態です。最初にすることはユーザー登録です」練習しておいたシナリオどおりにデモを進めます。
ほとんどが画面上の操作を見てもらえればわかるように作っておいたので、言葉を挟むのは要所要所だけでいいのです。
プロトタイプも順調に動作してくれています。観客はとても静かでした。
私のデモを期待を込めて見ているようにも思えましたが、「なんてつまらないデモをしているんだ」とあきれているようにも思えました。その静けさが、私の緊張感を一層強めました。
ワープロをインストールし、文書を作り、プリンターの文書をドラッグ&ドロップしてプリントさせます。デモはすべて順調に動いてくれました。
「以上で、デモは終わりです」私がデモを終了すると一瞬の間の後に、会場から大きな拍手がわき上がりました。デモは大成功でした。
日本から出てきたばかりで英語が片言しか話せないからこそコアの開発チームから外れて、一人でプロトタイプを作っていた私のプログラムが、世界に向かって「次世代のOS」として発表されてしまったのです。
私自身だけでなく上司もその上司もこれが単なるプロトタイプにすぎないことは十分承知していたはずですが、それがプロトタイプだということを知らない観客から見れば、本当の次世代OSに見えたことだと思います。
余談になりますが、マイクロソフトはベーパーウェアという戦略が得意です。まだ完成してもいないものを発表して、競合他社のやる気を削ぐという戦略です。
私はそれを知らなかったので、上司にまんまと乗せられたということになります。時期は、1990年の中頃。Windows95リリースの5年も前の話でした。
私はこうやって、Windows95のアーキテクト(基本設計者)というリーダーに任命されました。これもプロトタイプを率先して作ったことが認められたからでした。
そうしてこのプロトタイプこそが、2章でお話しした、私がシカゴに移る前からカイロで開発することになる、後にWindows95として結実することになる次世代OSの種だったのです。
どんな仕事でも、企画をアイデアのままではなく形にした人がその企画の推進者になることができます。
私のような日本から渡米したばかりのいちエンジニアがマイクロソフトで活躍できたのは、まさに限られた時間を濃密に使いこなし、プロトタイプを先に作ったからなのです。
インターネットという概念に熱狂する
1995年当時のインターネットといえば、ネットスケープコミュニケーションズという会社が作っていたネットスケープナビゲーター(以下ネットスケープ)というウェブブラウザを使うのが主流でした。
今でこそウェブブラウザというのは無料で手に入れられます。
Windowsにはインターネットエクスプローラーが、Macintoshにはサファリが標準装備されており、ファイアフォックスやGoogleクロームなどもネット経由でダウンロードできます。
しかし当時はウェブブラウザというのは店頭でパッケージを買って導入するものでした。
ウェブサイトを閲覧するためにはネットスケープというソフトを買わなければならなかったのです。
マイクロソフトでもブラウザを作っているということを知ったのは、Windows95の開発も最終局面にさしかかっていた1995年の前半のことでした。
Windows95のリリースと同時に、「プラスパック」というパッケージソフトを小売り販売し、その中にインターネットエクスプローラーというブラウザを含めることになったことを知らされました。
インターネットという言葉すらちゃんと理解していなかった私は、マイクロソフトがブラウザを開発することの意味もよく考えずに、それ以降もインターネットのことはあまり考えずにWindows95の開発に専念していました。
Windows95がようやく完成したのは7月の中旬でしたが、Windows95の出荷パーティーの余韻も収まらない時期に、たまたまインターネットエクスプローラーの開発に関わっている知り合いと昼食を取る機会がありました。
そこで、それまで頭の中に渦巻いていた「ブラウザとは何か?インターネットの何が良いのか?なぜマイクロソフトがブラウザを作る必要があるのか?」という質問を投げかけてみました。
すると、「シリコンバレーにネットスケープというすごい会社があるので、とりあえずその会社のホームページを見てみるといい」という返事が返ってきました。
現在ならばどの会社でもホームページを持っているのが当たり前ですが、1995年の時点でホームページを持っている企業はまれでした。
しかし、このネットスケープという会社は、単にホームページを持っているだけでなく、そのホームページに会社のビジョン・戦略からブラウザの仕様まで、何もかもを公開していたのです。
これは私にとっては大きなカルチャーショックでした。
「なぜこの会社はこんなにオープンなんだろうか?ブラウザの仕様は企業秘密ではないのか?会社としての企業戦略をこんなにおおっぴらに書いていいのか?」というのが私の第一印象でした。
しかし、本当のショックはその中身でした。
要は、パソコンにアプリをインストールする時代はもう終わり、これからはブラウザ上ですべてのアプリを動かす時代が来るのだということでした。
私がアメリカに来て以来、丸々5年間苦労して作ってきて、ようやくリリースしたばかりのWindows95のやっていることを完全否定しているのです。
「こいつは何をバカげたことを言っているんだ」と思いながら、ホームページで公開されている、HTTP(ブラウザとサーバーの間の通信規約)とHTML(ウェブページを作るためのプログラム言語)の仕様を読み進めるうちに、まさに「カミナリに打たれたような」ショックが私を襲いました。
インターネットのことをまったく知らなかった私が、わずか1、2時間でインターネットの仕組みをすべて理解できてしまったのです。こんなにシンプルで美しい仕組みは見たことがない。
Windows95は複雑すぎる。これからはインターネットの時代だ。そう直感的に感じました。
誰もが、この時間術を使えるようにするために
インターネットが、じつはとても単純な仕組みでできていることに気がついた私は、さっそく何か作りたくなりました。
ちょうど長いトンネルを抜けてWindows95を出荷したばかりなので、自由になる時間はたっぷりとあります。
多くの仲間たちはバケーションを取っているので、会社もとても静かでした。
1995年は、パソコン業界にとっても、マイクロソフトにとっても非常に興味深い時期でした。
Windows95のリリースにより、マイクロソフトの「パソコン業界の覇者」としての地位は確実なものとなりつつありました。
しかし同時にネットスケープの誕生とその普及により、「インターネットの時代」がまさに幕開けしようとしていた時期でもあったのです。
つまり、「パソコン・ビジネス」がWindows95のリリースにより全盛期を迎えたその瞬間に、パソコンは単なる「ネットに繋がる箱」に格下げされ、OSをコモディティ化(ありふれた、何でもないもの化)してしまう「インターネットの時代」が始まっていたわけです。
その当時、インターネットがパソコン・ビジネスにとって脅威であることに気がついていた人はまだ少なかったのですが、幸いビル・ゲイツを含めたマイクロソフトの中核のメンバーは、そのことにいち早く気づいていました。
有名な「TheInternettidalwave」というメモをビルが書いたのは、Windows95リリース前夜の、1995年の5月のことでした。
「インターネットの波が来た」とでも訳せるこのメモは、当時のIT技術者たちの期待を的確に表していました。
そういうわけで、私はインターネットブラウザの開発をしたくなり、頼まれてもいないのにインターネットエクスプローラーの開発グループに参加して、新しいプロジェクトを勝手に始めました。
それが、のちのWindows98へと繋がる、「OSとブラウザを合体させる」という野望でした。
自分たちが出したWindows95が市場で大成功を収め、それがマイクロソフトの株価を大幅に押し上げていました。そして続く戦いはネットスケープとのブラウザ戦争。
Windowsチームのモチベーションは究極にまで高まっていました。
Windows98では、インターネットエクスプローラーというネットブラウザが、最初からOSに付属されてリリースされました。
具体的には、Windowsエクスプローラーとインターネットエクスプローラーを合体させたのです。どういうことでしょうか。
Windowsエクスプローラーというのは、みなさんが普段、画像や音楽やワードやエクセルのデータを管理しているときに使っている機能です。
「ドキュメント」「ピクチャ」「ビデオ」「ミュージック」「ダウンロード」などにフォルダ分けされている、あれです。
あれを表示しているところに、インターネットのホームページを表示できるようにしました。
たとえば、Windowsエクスプローラーの上のバーに表示されている「ドキュメント」というところにヤフーのURLを入力すると、フォルダが表示されていたところにヤフーのホームページが表示されます。
逆に、インターネットエクスプローラーのURLのバーの部分に「ドキュメント」と入力すると、ドキュメントフォルダの中身が表示されます。
このように、いちいちネットスケープなどの他社のネットブラウザを購入しなくても、インターネットを閲覧することができるようになったのです。
私は当初からこれが革新的なことであると確信していました。
そこから私は一気に、OSとウェブブラウザの統合を会社に進言し、開発へとひた走りました。
かくして、Windowsエクスプローラーにインターネットエクスプローラーの機能を統合させる形で1998年6月25日に発売されたWindows98はすばらしい成果を挙げました。
もともとウェブブラウザのシェアはネットスケープが80%以上を占めていたのですが、Windows98のリリース以降、その値が逆転しました。
すなわち、インターネットエクスプローラーのシェアが80%まで上昇したのです。マイクロソフトが名実ともに世界一のインターネットカンパニーへと変貌を遂げた瞬間でした。
しかしそのおかげで、マイクロソフトは公正取引委員会に独占禁止法で訴えられることになりました。
なぜって、それはOSとウェブブラウザの抱き合わせ販売に相当すると判断されたからです。
コンビニにおにぎりを買いに行って「おにぎりはこちらの週刊誌と合わせて120円になります」と言われたら、その週刊誌、たとえば『週刊マイクロソフト』の売り上げは急上昇するでしょう。
『週刊ネットスケープ』は、そのせいで商売あがったりです。まさか私のアイデアが法律に抵触するとは思っていませんでした。
ただこうしたらおもしろいんじゃないかと思ってやってみただけですから。
とはいえ結果としてインターネットエクスプローラーは市民権を得たことですし、良かったのではないかと解釈しています。
私はそうしてWindows98にソフトウェアアーキテクトとして携わった後は、マイクロソフト・オフィスの次世代モデルを作っていましたが、既存のオフィス開発チームと折り合いが合わず、頓挫してしまいました。
そのころちょうど、元の上司が投資会社を立ち上げていたため、これをきっかけにしてマイクロソフトを辞めました。
2000年のことです。
余談になりますが、マイクロソフトはそんな私を引き留めるために、当時4億円相当のストックオプションを提示してくれました。
株価が上がらなければ一銭にもなりませんが、もし10%上昇したとしたら4千万円の利益が得られるというものでした。
時間術を極めれば、一人の人間でもここまでのことが可能になるのです。そうして私はベンチャー企業・UIEvolutionを創業することになりました。
じつは私が、こうして時間の使い方や仕事の仕方について考えるようになったのは、この起業がきっかけでした。今まで私は自分と他人の仕事の仕方について、比較検討したことがありませんでした。
基本的に個別の部屋で黙々とプログラムを書き続けていたマイクロソフトでは、あまり他人の仕事を観察することはなかったからです。
しかし会社を経営するとなると、どうしても社員の仕事は観察しなければなりません。そこで気づいたのです。自分の働き方はほかの人とは違うのだと。
そして、自分の働き方を教えることで、誰もが秘めていた大きな実力を発揮できるのだということを。
いよいよ次章では、私が生涯をかけて練り上げてきた時間術のすべてを公開していきます。
ここまでなぜくどくどと前置き的な話をしてきたか、その意味をご想像いただきながら読み進めていただければと思います。
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