はじめに
星野リゾートは旅館・ホテルの運営会社である。
長野県軽井沢町で創業し、4代目の経営者である星野佳路社長は、顧客満足度アップと収益力向上の両立を掲げ、会社を成長させてきた。
この10年で、軽井沢の老舗企業から、全国でリゾート施設を運営する企業へと変身を遂げた。
日本各地でリゾートの運営を引き受け、業績を向上させていると同時に、軽井沢や京都では高級旅館「星のや」の展開を進めている。
星野社長の打ち出す経営戦略は、時として常識破りに見える。
カレーライスに「おいしさ保証」をつけたり、旅館で働いたことがない社員をいきなり高級旅館の総支配人に抜擢したりする。
「話題を作ろうとしているだけではないか」と感じる人もいるだろう。
だが、そうではない。
星野社長の経営は、どれを取っても「教科書通り」なのである。
社員のモチベーションアップやサービス向上策は、すべて経営学の理論に裏打ちされている。
星野リゾートの事業展開の背後には常に「教科書」が存在している。
一流の経営学者が緻密な研究によって導き出した理論に基づいて考え抜き、確信を持ってビジネスを実践する。
それが星野社長の経営である。「経営に教科書なんて役立たない」と疑問を持つ人もいるだろう。
しかし、星野社長は、「教科書に書かれていることは正しい」と断言する。
「教科書通り」でうまくいかないとしたら、それは理解が不十分で、取り組みが徹底されていないからに違いないと指摘する。
星野社長は、経営上の課題に直面すると、その解決に役立つ本を自分で探し、深く読み込み、理論の教えるところを完全に実践する。
その姿勢は社員にも伝播している。では、星野社長は、どんな教科書から学んで、どんな成果を上げてきたのか。
そのとき現場はどう動いたのか。
本書では、その具体的な事例を取り上げ、教科書を経営に生かすためのポイントを明らかにする。
本書は1冊丸ごと星野リゾートのケーススタディーだが、その内容はさまざまな分野の課題に応用できる。
業種や職種、企業規模などを超えて、多くのビジネスリーダーに参考にしていただければ幸いである。
星野リゾートが運営する施設は、北海道のアルファリゾート・トマムから沖縄の統合予約センターまで全国に散らばっている。
本書は、そのすべての施設を2年間かけて取材した成果に基づく。
日経BP社発行の経営誌「日経トップリーダー」に連載した記事に加筆した。
登場する人物の肩書などは雑誌連載時のままである。
取材に当たって、星野リゾートのみなさまには多大な協力をいただいた。
改めて謝意をお伝えしたい。
本書の姉妹編として『星野リゾートの事件簿』(日経BP社)がある。
こちらの本では、お客様からのクレームや社員同士の対立など、星野リゾートで実際に起きた「事件」をテーマにしている。
事件解決のために星野社長がどう発想し、現場のスタッフがどう動いたかを具体的に記している。
ぜひ、本書と併せてお読みいただきたい。
2010年4月日経トップリーダー副編集長中沢康彦
第部星野佳路社長が語る教科書の生かし方──定石を知り、判断ミスのリスクを最小にする
私は1991年に星野リゾートの社長に就任して以来、経営学の専門家が書いた「教科書」に学び、その通りに経営してきた。
社員のモチベーションアップも、サービスの改善も、旅館やホテルのコンセプトメイクも、私が経営者として実践してきたことはすべて教科書で学んだ理論に基づいている。
「教科書の理論なんて机の上でしか通用しない」「本当にビジネスの現場で役に立つのか?」と思う人がいるかもしれない。
実際に教科書通りに経営している人は、周りを見渡しても多くはない。
しかし、私はこれまでの経験から「教科書に書かれていることは正しく、実践で使える」と確信している。
課題に直面するたびに、私は教科書を探し、読み、解決する方法を考えてきた。それは今も変わらない。
星野リゾートの経営は「教科書通り」である。
根拠や基準となる理論があれば、ぶれがなくなる私が教科書通りの経営を実践しているのは、経営判断を誤るリスクを最小にしたいからである。
私が参考にする教科書の多くは、米国のビジネススクールで教える教授陣が書いたものだ。
彼らは「ビジネスを科学する」という思想の下、数多くの企業を対象に手間と時間をかけて事例を調査し、そこから“〝法則”〟を見つけ出し、理論として体系化している。
その内容は学問的に証明され、一定条件のもとでの正しさはお墨付きなのだ。
囲碁や将棋の世界に定石があるのと同じように、教科書に書かれている理論は「経営の定石」である。
何も知らないで経営するのと、定石を知って経営するのでは、おのずと正しい判断の確率に差が出る。それは会社の長期的な業績に直結するはずだ。
経営判断の根拠や基準となる理論があれば、行動のぶれも少なくなる。
自分の下した決断に自信を持てるようになり、社員に対して判断の理由を明快に説明できる。
ところが基準を持たない経営判断では、すぐに良い結果が出ないと、「自分の判断が間違っていたのではないか」と疑心暗鬼になってしまう。
もう少し辛抱すべき時でも、何とかして短期的に改善したくなり、それが経営のぶれを生む。教科書通りに判断したにも関わらず成果が出ない時もある。
しかし、それでも最初の一歩としては正しく、そこから戦術を調整すればいい。
何の方法論も持たずに飛び出すのに比べて、教科書に従えばはるかにリスクは減らせるのだから、まず教科書通りやってみる。
それが大切だと思う。
企業経営は、経営者個人の資質に基づく「アート」の部分と、論理に基づく「サイエンス」の部分がある。
私は経営職に就いた当初から、自分にアーティステックな経営判断を行う資質があるとは思っていない。
どんな時にも自分の直感を信じることができず、それはあまりにもリスクが大きいと感じてしまう。
私は自分の経営手法の中でサイエンスを取り入れる必要性を感じ、教科書を根拠とする経営を始めた。
思い切った経営判断に踏み切れる教科書にある定石を理解していることのもう1つの利点は、思い切った経営判断に勇気を持って踏み切るきっかけを与えてくれる点だ。
現状を打破するには経営判断の方向転換が必要である状況も多々ある。
そういう時に理論的な根拠がないと打ち手にリスクを感じてしまい、結果として何も判断せずに現状維持になってしまう。
何も変えられないことが実は最も大きなリスクであることが多い。
教科書から理論を学ぶことによって、状況改善に必要な思い切った経営判断を最低限のリスクで実行することができる。
教科書に沿って自社の打ち手を考えることによって、自分にとって納得できる経営判断に達することができる。だから成果が出るまでしつこく努力することができるのだ。
小さな会社ほど「教科書通り」の意味が大きい経営学の教科書というと、グローバルに事業を展開する大企業のためのものであり、「そんなに難しい本は、自分たちには関係がない」と思う人がいるかもしれない。
しかし、それは余りにももったいない。
私は、小さな会社の経営にこそ、教科書の理論を生かす意味が大きいと感じている。
星野リゾートは、1904年、軽井沢の温泉旅館から出発した。
私が4代目の社長に就任した91年当時は軽井沢だけで事業を営む中小企業だった。
その経営改革に取り組んできた私の実感として、2つの点で、教科書が中小企業の経営に役立つと考えている。
1つは、教科書の内容を社内に浸透させやすく、理論に沿った方向転換もしやすい点だ。
中小企業は規模が小さい分、小回りが利く。
社長が「この教科書通りにやってみよう」と方針を決めたら、その方向に向かって会社全体を動かすことができる。
もう1つは、経営リスクを減らす意義が大きい点だ。中小企業は大企業に比べて体力が乏しく、経営環境の変化に影響を受けやすい。
経営判断にミスがあったとき、大企業ならば組織全体で吸収できるかもしれない。
しかし、規模の小さい会社では、経営判断のミスによって経営はたちまち不安定になる。
それだけに中小企業の経営者はリスクに対して常に敏感であるべきだ。教科書を経営に生かし、誤った経営判断をするリスクを減らすことは有益である。
【ステップ1】本を探す書店に1冊しかないような古典的な本ほど役に立つ
経営に関する本と一口に言っても、その数は膨大であり、教科書として参考にするのにふさわしい本と、そうでない本がある。
教科書として役立つかどうかは、規模、業界、そして企業が置かれている環境などによって違う面もある。
企業の成長段階によって、今は役立たなくても数年後に生かせる本もある。だから教科書通りの経営の第一歩は、どの本が経営に役立つかを見極めることだ。
自分の目で確かめながら教科書を探すことが大切だ。
私の場合は教科書を見つけるために、書店に足を運ぶことが多い。
インターネット経由で注文することもあるが、良い教科書に出合うのはやはり書店だ。
手に取ってページをめくることによって初めて分かることや気づくことがあるからだ。
「何となく役立ちそうな本を探してみようか」とフラッと行くこともあるが、自社が抱える課題を持って、「解決に役立つ教科書はないか」と探しに行くことのほうが多い。
書店内での歩き方には気を使いたい。平積みになっている本はよく目立つ。
「なぜあの商品が売れたのか」といった話題のテーマも取り扱っている。
しかし、私の経験では、新しい本はまだ教科書とするには早過ぎることが多い。
むしろ私が注目するのは、書棚に1冊ずつだけ置いてあるような本だ。
こうした本は流行の波を乗り越えて、体系化された理論として生き残り、定石として一般的に認知されたことを示している。
私はこういう古典的な理論の中にこそ、経営に役立つメッセージがあると実感している。だから棚に差された本をじっくりと見る。
定石となった理論を扱う本は、どこの書店でも普通に扱っていて、誰でも気軽に買うことができるが、誰からも注目されずほこりをかぶっていることが多い。
そうした本を経営に生かそうという人は多くはないかもしれない。だが私にとっては、そうした本こそ役に立ってきた。
学問と実践を行き来した研究者の本を探す本を選ぶときの基準として、私は、著者の研究者としての知名度を重視する。
例えば米国の著名な大学教授には、コンサルタントを兼ねて学問と実践の間を行き来し、膨大な調査によって理論を実証している人が多い。
私が教科書として注目するのは、こうした研究者が書いている本だ。企業のバックグラウンドを十分調査している本こそが教科書として役に立つ。
ビジネス書の中には、経営者が「自分はこうして成功した」と単に経験を語る本も多くある。
しかし、このタイプの本は素晴らしく直感的な経営センスの話であることが多く、それは私にとっては教科書にならない。
教科書になりそうな本を棚から見つけたら、目次に目を通し、1章目の最初の数ページをざっと読んでみる。
特に海外の教科書的な本は、最初にエッセンスを記し、そこから内容を詳しく記述する構成になっている。
冒頭の数ページを読むことによって、その本が自分の教科書になる可能性があるかどうか判断できる。
書かれている内容が少々難しそうでも、自分の会社が置かれている状況や自分の悩みに対する「フィット感」があれば、教科書として役立つ。
「当社の置かれている環境はまさにこの通りだ」と思える本ならば、ピタッとくる。自分にとっての分かりやすさは非常に大切だ。
逆に、数ページ読んでも「ピンとこない」という場合もある。
これは「理論が難解すぎて手に負えない」というケースと、「本がテーマとして扱っている課題が自社の課題と合致しない」という2つの理由が考えられる。
私の経験から、役に立つ教科書は、「今、自分が直面している課題を扱うシンプルな理論」であることが多い。
【ステップ2】読む1行ずつ理解し、分からない部分を残さず、何度でも読む教科書にする
本が決まったら、さっそく読み始める。選んだ本を教科書として生かすにはしっかり読み、内容をすべて理解しておく必要がある。
1行ずつきちんと理解しながら読み、分からない部分を残さない。だから私が教科書を読むスピードは速くない。
内容を正しく理解するために、同じページを何度も読み返すことは頻繁にある。
「分からない点があっても、全体で何となくつじつまが合えばそれでいい」という読み物的な読み方では、教科書の内容を経営に生かすことはできない。
書かれている理論を理解すると同時に、「自社にどのように当てはめればいいのか」「どこを変える必要があるのか」と考えながら読む。
自社の具体的な悩みを考えながら読んでいると、頭の中が次第に整理されていき、やがて打つべき対策が見えてくる。1回読んだら終わり、という読み方ではいけない。この点も読み物とは違う。
せっかく見つけた教科書は、実践するためのマニュアルとして、何度でも読む。分からないことがあったときには、必ず読み返す。
「自分への宿題」を課して持ち歩き熟読する重要な個所や大切なステップは、すぐに参照できるようにしておく。
私は、読んでいて気になることを見つけたら、線を引いたり付せんを張ったりする。気づいたことを直接本に書き込むこともある。
思いつく自社の打ち手を思いついた時にそのページに書き込むことも重要だ。ただし読書メモは作らない。メモは本と離れてしまうことが多いからだ。
読書をする時間についても一言触れたい。私は教科書を見つけたら、常に持って歩いて読むことが多い。
時には数カ月間どこに行くにも携帯し、読みながらそこにアイデアをどんどん書き込んでいく。
そして教科書から離れる時には、本に書かれた自分のアイデアをパソコンのプレゼンテーションソフトで一気に書き込んでいく。
【ステップ3】実践する理論をつまみ食いしないで、100%教科書通りにやってみる
教科書の内容を理解したら、いよいよその理論を実際の経営に当てはめることになる。このときに大切なのは、100%教科書通りにやってみることだ。
教科書に書かれていることをすべて忠実に実行することである。
例えば、ある戦略を実践するには「3つの対策が必要だ」と書かれていたら、1つや2つでなく、3つすべてに徹底的に取り組む。そうすることによって初めて教科書の理論が効果を生む。
これまでの経験から私はそう断言できる。
教科書から学んだ人でも、実践の段階になると、理論の中から「導入しやすい部分」「都合のいい部分」だけを使おうとすることが多い。
「3つの対策が必要だ」と求められているのに、「1つならできるから、それをやってみよう」と理論をつまみ食いしたり、「当社はこのうちの2つはやっているから大丈夫だ」と理論を言い訳の材料にしたりするケースが目立つ。
書かれている内容の一部を実行するだけでは教科書の理論を実践していることにはならない。
それでは成果がすぐに出なかった時に調整すべき方向が見えてこない。
「教科書通り」なら苦しいときも耐えられる繰り返しになるが、教科書で学んだことを実践するときに大切なのは、すべてをきちんとやってみることだ。
大変そうに思う人がいるかもしれないが、それは難しいことではない。経営者が覚悟を持って、教科書通りに取り組めばいいだけである。
もちろん社員にも教科書の内容を説明していく。
新しい戦略の理論的な背景を伝えることで、仕事の中身ややり方に対する社員の納得感は高まり、改革が進みやすくなる。
教科書通りの戦略を打っても、なかなか成果が出ないこともある。私は何度もそんな経験をしてきたが、苦しいときでも教科書通りだという自信があれば耐えられる。
うまくいかないときには戦略を微調整することを考えるが、その判断は慎重にする必要がある。
「効果が出るには時間がまだ不足している」「きちんと教科書通りにしていない」という理由で成果が出ていない場合は、戦略を変える必要はない。
そんなときに作戦変更することは深い霧の中に入っていくようなものだ。
微調整する前に、教科書の戦略を1つずつ確認し、なぜ成果が出ないのか、しっかり考える。何度も教科書を読み返して、それをマニュアルとして忠実に実践する。
微調整をするのは、すべてを教科書通りにやり切ってからである。
教科書に沿って経営判断した結果、すぐに良い結果が出始めた時もあれば、成果が現れるまで工夫を繰り返し、時間を必要としたケースもあったが、私が過去に選んだすべての教科書は道しるべとして役に立った。
自分の直感力を信じられない時に、教科書は自らの経営判断の根拠となり、自信を持って頑張る勇気を与えてくれるのである。
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