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日本のリアル 農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う

日本のリアル農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う養老孟司

まえがき養老孟司仕事とはなんだろう。大学に勤めている頃、よくそれを考えることがあった。大学での仕事はいわば抽象的で、たとえば早い話が、自分の給料と働きの関係がよくわからない。さんざん働いたからといって給料が増すわけでもなく、怠けたからといってとりあえず給料が減るわけでもない。そういう仕事をしていると、経済というものが具体的にはよく理解できない。そんな疑問を持ち続けて、人生の後半からは給料取りを辞めて、自分で働くようになった。それでもわからないのは相変わらずである。そういうなかで、一次産業に関わっている人の話を聞くと、たいへん興味深いことに気がついた。私の仕事とはまったく違うけれども、似た面もある。どこが似ているかというと、結局はお金とは直接には関係がないところである。もちろん田んぼを耕して、米を作って、それを売るなら経済だが、でもやっている人にはあまりそういうつもりがないらしい。その善し悪しはともかく、仕事に「入れ込んでいる」。研究も同じで、要するに入れ込むしかない。そういう仕事が本当の仕事じゃないか。そのうちそう思うようになった。もともと私は虫が好きで、虫を採っていれば幸せである。これはもちろんまったく経済にならない。不経済といえば、これほどの不経済はない。でも一次産業は虫採りとは違って、世の中の役に立つ。虫採りよりずっとすごいなあ。そう思うようになった。もう一つ、私は敗戦時に小学校二年生だった。この本の中でも話しているが、あの社会的な価値の転換を見てしまうと、モノに直接携わることの大切さがしみじみとわかる。モノに関わらないと、むしろ不安でしょうがない。お金のやりとりだけでは、自分が宙に浮くような気がする。その気分に拍車をかけているのは、インターネットの普及である。こういう時代に、モノに携わったり、ごくふつうの日常を研究している人に出会うと、ホッとする。そういう人たちを選んで、対談をさせてもらったのが本書になった。最初は岩村暢子さんで、この方の食卓の研究は、日本社会の変化を着実に見つめるという意味で、きわめて重要だと思った。食卓の変化だけを見ても、これだけのことがわかるのかという驚きがあった。一週間、食卓の写真をとり続けてもらうことで、見えてくることがたくさんある。これは事実の迫力というべきであろう。続いて農業では、不耕起栽培の岩澤信夫さんにお願いした。対談が済んで本書が出版されるまでの間に、残念ながら亡くなられてしまった。ご冥福を祈ると同時に、今年から私も及ばずながら不耕起の田んぼで、田植えのお手伝いをさせてもらうことにした。邪魔になるだけだと思うが。それからカキの養殖で有名な畠山重篤さんから、まだ津波の跡が痛々しい気仙沼のご自宅でお話をうかがった。最後に全国で間伐の指導をされている鋸谷茂さんに、林業全体のお話をうかがうことができた。まだまだお会いしたい人がたくさんある。でもとりあえずの印象を述べると、日本にはすばらしい人たちがいるということである。モノとのつきあい方について、日本の文化は優れた伝統を持っていることがわかる。これを絶やさず、将来につなげていく。本書がその一助になれば望外の幸いである。

日本のリアル目次

まえがき第一章現代人の日常には、現実がない養老孟司×岩村暢子進む食の「個化」「ご馳走」の意味合いが変わった震災後、家族の絆は回復したか絆をお金に換えてきた日本人アポがなければ集まれない家族生活保護は経済問題ではなく、家族の問題「嫁姑問題」の中身がすっかり変わったサラリーマン育成の教育容易に物事が信じられない世代新宗教ブームはなぜ起きたか「そんなに言うなら、実際にやってみろ」「ミーフェチ世代」の登場「人生の意味は自分の中にはない」日常から消えた「現実」第二章田んぼには肥料も農薬もいらない養老孟司×岩澤信夫田んぼを耕さないコメ栽培天啓を受けて篤農技術は伝承されない冷害に打ち勝った不耕起冬期湛水で無農薬・無肥料を実現なぜ虫は消えたのか現代の田んぼでは耕すことに意味はない農業で成功したかったら国のやり方に従うな肥料不足による食糧危機に備えよ都会の人が農業に取り組むべき理由マンションのベランダでコメが採れる!?田んぼで飲み水を浄化する将来のタンパク源?大豆の栽培に取り組む仕事は守りに入ったら終わり第三章山と川に手を入れれば、漁業は復活する養老孟司×畠山重篤海は生きていた赤い海を青く漁師が森に木を植える広葉樹林と鉄分が海の生物を育てる最初に助けてくれたのはフランスだった「フォレストヒーローズ」アジア代表に選ばれるかつてニューヨークは世界一のカキの産地だった国連が認めてくれたウナギも戻ってきた!ダムをつくったことにすればいい気仙沼ユートピア計画日本の漁業の問題点震災後、しばらくカキとジャガイモばかり食べていた自然災害とのつき合い方第四章「林学がない国」の森林を救う養老孟司×鋸谷茂川と森がつくってきた歴史山から材木をどう運ぶか「日本には林学がなかった」健全な森とはどのような森か健全な森をつくる密度管理人はもともと自然を見る目をもっている伐らずに枯らす間伐法山に人間はいらないなぜ昔の林業はもうかったのか戦後の林業には技術がなかった山を個人に任せていいのか日本の森林は外材輸入で守られている日本の自然林は一〇〇〇年ぶりに豊かさを取り戻した林業は採算が合う

進む食の「個化」養老岩村さんの『変わる家族変わる食卓』(勁草書房、中公文庫)を最初に読んだときの衝撃はよくおぼえています。その次に出された『〈現代家族〉の誕生』(勁草書房、文庫版は『「親の顔が見てみたい!」調査』中公文庫)では、前作での調査対象である主婦たちの親世代、つまり僕たちの世代が無意識にやってきたことが、現代家族の「食」に表れていると指摘されており、その分析にはいちいち思い当たることがありました。三作目の『普通の家族がいちばん怖い』(新潮社)においても、日本の家族の崩れゆく状況が、食のあり方を通じて考察されています。一作目の文庫解説にも書かせていただいたのですが、僕はこの三部作を現代批判の書として読みました。岩村ありがとうございます。私は一九九八年から毎年、〈食DRIVE〉という調査を実施してきました。対象は、一九六〇年以降に生まれた子どもをもつ主婦たち(首都圏在住)ですが、同じ人に三ステップで行われる念入りな調査です。第一ステップは、食事づくりや食生活などに関するアンケート。第二ステップは、一日三食一週間分の食卓を写真と日記で記録してもらいます。食べたものだけでなく、そのメニューになった背景やつくり方、食べた人や食べ方まで、詳しく記録し写真に撮ってもらいます。第三ステップでは、第一ステップで記述された回答、つまり「言ってること」と、第二ステップの記録、つまり「やってること」を突き合わせて、その矛盾点や疑問点について個別面接で詳細に尋ねるんです。アンケートだけでも、写真や日記記録だけでもわからなかったことが、ここでたくさん出てきます。だから〈食DRIVE〉調査では、この三ステップ目で得られる情報がもっとも重要です。〈食DRIVE〉調査では、二〇一二年七月までに、総計三三三世帯、六九九三食卓を見てきました。食卓写真は一万数千枚になっています。この調査を始めてから、朝起きなくて小さい子どもの食事を自分で用意させるお母さんや、お菓子を朝食にする家族、昼食を一つのコンビニ弁当ですませる母と幼児、夕食にそれぞれが好きな惣菜や弁当を買ってきて食べる家族など、それまでテレビも新聞もあまり取り上げることのなかった、ごく普通の家庭の日常の食卓実態が明らかになり注目されるようになりました。――〈食DRIVE〉を始められたきっかけは何だったのですか。岩村私は広告会社でマーケティングの仕事をしていたのですが、一九九〇年代初頭に「主婦」や「お母さん」が大きく変わったと気づいたのです。一昔前のように、自分の事はさておき家族に尽すお母さんではなくなって、「自分が大切」とはっきり言うようになっていた。ちょうどその頃「個化する日本人」ということも言われ始めて、単身者の意識や行動を調べる調査も増えていたんです。私は、「個化する日本人」を調べたいのなら、最も「個化」しにくい集団である家族を調べるべきだと思ったのです。「お母さん」でさえ個として「自分」を優先するようになってきている実態を、家族の中で見つめるべきだと。そうすれば「個化する日本人」の変容ぶりが捉えられると思ったんですね。だから、〈食DRIVE〉調査は食卓の調査ではなくて、実は家族や家庭の変容、日本人の変容を見つめようとして始まった調査なんです。「食卓」は、その定点観測の絶好の場だと考えたわけです。十数年調査してきて、やはり家族それぞれがますます「自分」を大切にし、個を優先するようになっていると感じています。食卓にもそれははっきりと表れていて、家族が家にいても同時に食卓に着かず、たとえ一緒に食卓を囲んでも違う物を食べる「バラバラ食」、さらには一日三食も崩れて、みんな自分のペースで好きな時間に勝手に食べる「勝手食い」も増えています。「バラバラ食」や「勝手食い」の家では、親は子どもが何を食べたのかも知らなかったり、無関心になっている。同じ家を一〇年くらい後に追跡調査すると、子どもはもっと自分ペースになっているし、お母さんも「自由」を謳歌している。そして、お父さんは、「メタボ」「生活習慣病」を指摘される年齢になっていますが、「食事の健康管理は自分でして」と言われている。医師が妻を呼んで夫の食事指導をするなんて、もう時代遅れのことになっていると最近は感じています。「ご馳走」の意味合いが変わった岩村じゃあ、家族のためにご馳走をつくったり、家族そろって食べる喜びはないのか、とよく言われるんですが、「ご馳走」の意味も変わってきていると思います。以前は、ステーキやお刺身など高価なものがご馳走だったかもしれませんが、今はそれぞれが好きな物だけでお腹いっぱいにできること、いやな物は食べなくていいことが「ご馳走」のように言われています。自分があまり好まないものを一汁三菜のように並べられると、「いろいろ食べなければならなくて面倒くさい」「うっとうしい」なんて言うお父さんまで出てきている。ビュッフェや回転ずしも好きなものだけでお腹いっぱいにできるから喜ばれている。だから主婦も、あれこれつくって並べるよりも「食べたい」と言うものだけを用意するようになっているんです。そして、つくったモノを子どもに「残してはいけません」とも言わなくなっている。そのような「しつけ」は、「押しつけ」や「強制」とほぼ同義で語られるようになっていて、食卓のような「楽しい場」で、してはいけないとさえ考えられています。やんわりと「嫌いな物も少しは食べてみようよ」と言う親は少数いるけれど、「残してはいけない」と言う親は、私の調査では見たことがありません。モノが豊かになっただけでなく、家族それぞれの好みや自由を大切にする時代になって「ご馳走」の意味も変わってきたのでしょうね。

養老僕らの世代は、食べ物は残してはいけないと教えられたし、かつての医学部の栄養学の講義では、いかにして足りない栄養素を摂るかということを教わりました。それがやはり六〇年代ぐらいに逆転して、摂りすぎる栄養素をどうするかが問題になった。岩村確かに、一九七〇年代からでしょうか、栄養が足りなくて健康を害する時代から、食べ過ぎで病気になる時代に変わりましたものね。養老実際、日本の食料は余りすぎでしょう。日本では年間約一九〇〇万トンの食料を廃棄しており、これは世界の食料援助量の約三倍に当たると聞いたことがあります。日本における食料問題は、欠乏の問題ではなく、過剰の問題になっているんですね。岩村そうですね。私も実際に食べられている量と、販売量の違いをよく感じます。震災後、家族の絆は回復したか岩村二〇一一年は夏に、震災後の臨時調査をしました。新聞やテレビでは、しきりに「震災後家族の絆が見直された。そのため内食(家庭で食事をつくって食べること)が増えた」と言われていたので、それを確かめたかったのです。でも調べてみるとずいぶん違いました。外食は確かに一時的に減っていたけれど、それは外食というものが「出かけたついでに食べて帰る」「出かけていたから外で食べた」と外出に付随することが多いのに、「余震などが怖くて外出が減った」ためだった。また、内食になっていたのも「家族の絆」や「手づくり」を見直したわけではなかったのです。「計画停電」や「余震」があったためつくる気がしなくて、インスタントや出来合いが増え、食卓はむしろ簡単化していたのです。「家族の絆」についても、一般論としてはどの人も「家族の絆は大事」と語り、「(日本人は)今こそ見直した方がいい」と言うのに、「お宅ではどうですか」と問うと違った。「我が家には別に絆は必要ない」「ウチはこのままで特に見直すつもりはない」などと言う。直接被災された方々は全く違ったと思いますが、少なくとも私が調査した人たちは、メディアの語るようではなかったんです。それは「これを機に、そうなってほしい」というメディアの願望の投影だったのではないかと思います。主婦たちが、我が家は別として「日本人は今こそ見直した方がいい」と言ったのとも似ている。でも「家族の絆」も「手づくりの内食」も、そんなに簡単に復活するようなものではなくなっていたのではないか、と調査結果を見ながら思いました。絆をお金に換えてきた日本人養老そもそも、高度成長期に若い世代の多くが地方から東京に出てきたのは、「絆」というややこしい人間関係を断ち切るためでもありました。戦後、民法改正で家制度がなくなりましたが、その影響が残っていたときは、人々はまだ理屈抜きで故郷と結びついていました。大学で解剖をするときは、必ず後でお骨をその方の故郷に返します。僕が現役の頃、都市部で亡くなった高齢者を解剖し、そのお骨をはるか遠くの田舎へお届けしたことが何度かありました。日本人は戦後、このような生き方をしてきたのかとつくづく実感したものです。ところが、今ではお盆や正月に帰る故郷がない人が増えています。それはどういうことかというと、結局のところ、日本人は戦後、絆をお金に換えてきたんですね。昔は、仕事もしないでブラブラしている人間が親戚にいても、みんなで助け合ってなんとか食わせていました。それが今では、親戚を頼れなくなったので、それぞれが保険に入ったり、行政の福祉サービスを受けたり、あるいは生活保護を受けるしかなくなっています。そのような社会の中で、途方に暮れている人もいるはずですよ。社会はどんどん個にバラけていきましたが、日本にはアメリカ風の自助の精神はありません。戦後の新憲法は、独立した家族が集まって集団をつくり、国家を運営していくという理想像を描きましたが、日本人の中では自助の精神はあまり育たず、伝統的な「長いものには巻かれろ」式の考え方でやってきたのですから、「これからは個として生きろ」といきなり言われても、どう生きてよいのかわからない人は多いはずなんです。岩村「個を大切にする」という意味が親にも本当はよくわかっていない……。ましてや「自分で考えて、自分の身を自分で処す」など、日本人にとって大変難しいことですね。養老しかし、じゃあ、このままでは暮らせないかというと、本当に困っている人は別にして、多くの人は案外、平気で暮らしていけたりもする。今よりももっと厳しい世の中になったら、そうはいかないんでしょうけれども、日本はまだ多くの人にとって楽な世の中だったりするんですよね。アポがなければ集まれない家族岩村一九六一年、日本の家族の約七割が核家族になりましたが、このあたりから養老先生がおっしゃる「ややこしい人間関係を断ち切った人たち」の時代になってきたのではないでしょうか。ただ、その頃の核家族にはまだ求心性があったような気がするんです。「昔ながらの家長中心の封建的な家ではなく、子ども中心の明るく楽しいファミリーをつくろう」という新世代の思いが、六〇年代の核家族には反映されていたような気がする。ところが今の核家族は、「子ども中心」というのでもない。みんなそれぞれが中心の、バラバラの「個」の集まりのようになってきて、その「個」が侵害されると、家族でいることが危うくなって壊れやすくなっている。「個」が侵害されるといっても、権利や自由のことではなくて、自分の好みや都合、ペースを侵されたくない、というような感覚。それが

叶ってこそ一緒に居られる家族だから、つながりはとても緩やかになってきている。養老ご著書にも、現代の家族はクリスマスなどのイベントでかろうじて結びついている、とありましたね。〇四年~〇五年の調査では、クリスマスのときに家庭内で平均五・九カ所に飾り付けを行っていたそうで(『普通の家族がいちばん怖い』)。岩村そうなんです。そういうイベントで家族が一緒に盛り上がれることで、つながりを感じあったりしているんです。クリスマスはその絶好の機会です。ただ、そんなクリスマスイベントさえ、最近はやや低調になってきているような気がするんですよ。去年(二〇一一年)のクリスマス時の調査結果を見ると、以前に比べて「レストランで集合、食べ終わったら解散」というような、他人同士みたいな楽しみ方が目につくようになってきました。普段の外食でも、「アポを取り合わないと、なかなか家族一緒に集まれない」という話を聞くようになっています。特に、子どもが一三歳、中学生になるあたりから家族の結びつきが変わってくるようです。親子の役割があいまいになって、むきだしの「個」と「個」の関係になってくるような気がします。生活保護は経済問題ではなく、家族の問題岩村先ほど「昔は、仕事もしないでブラブラしてる人が親戚にいても、周りが何とか食わせてきた」とおっしゃっていましたね。私も近年の生活保護世帯急増の背景には、このような家族関係の変化があるような気がしているんです。経済学者が言うような不況のせいだけでなく、家族が崩れてきて、かつてなら一緒に住めたはずの人が一緒に居られなくなっている。「年寄と同居するのはイヤ」とか「うるさい親とは離れて暮らしたい」と言って、十分な収入のない高齢者や単身者が生活保護世帯になっている。それは経済問題ではなく、「家族問題」と見るべきかもしれないと思うんです。養老国民が保険の掛け金として払った税金を行政が代わりに使ってくれている、というのが今の日本の状況です。先日、ヨーロッパに行って、ようやくわかったのですが、ユダヤ人は、いったんユダヤ人になったらずっとユダヤ人なんです。永久にユダヤ人であるとは、死んでも共同体のメンバーであり続けるという意味です。だから、ユダヤ人は絶対に墓を壊しません。ヨーロッパにはユダヤ人の墓が多く残っています。プラハの礼拝堂の壁には、強制収容所で死んだ何万人ものユダヤ人の名前と亡くなった日が書いてあります。日本人は死んだら来世に行くために、戒名をつけて名前を変えますが、ユダヤ人は「来世はありません」と言います。そして、彼らが共同体のメンバーであり続けるのは、他のメンバーの役に立ち、貢献するためです。人間にはそういう共同体が必要なのだと思います。中国人社会にも華僑会のような相互扶助組織があるでしょう。一種、マフィア的でもありますが、構成員に対しては、保険会社や銀行がしてくれないようなこともしてくれる。岩村日本では、サラリーマン化とともに古くからの共同体が壊れた後、「会社」がその肩代わりをしてきた面もあるのではないでしょうか。私の会社でも、子どもの入学金や病気の入院費も貸したり支援してくれる。社員が亡くなると遺児の養育費も出してくれる……。社員はそこに雇用されている限り安心と思うわけです。でも終身雇用ではなくなってきたから、それも危うくなっている。「嫁姑問題」の中身がすっかり変わった岩村嫁姑問題にも、家族の関係の変化が表れてきています。ひと昔前までは、姑が嫁に「その家のやり方」を伝えようとして、その伝え方や伝える中身に関係して様々な軋轢が生じて、それを嫁姑問題と言うことが多かったと思います。でも今は、正月のお節料理についても子育てについても、そんな話は聞きません。お節なんか姑につくってもらってお客さんになるし、つくり方を伝えようとする姑もいない。今は「嫁姑問題」と言っても、夫婦それぞれの親が子どもたちの家庭に対して「してくれることの種類や量の多寡」をめぐって起きていることが多いのです。たとえば、「実家の親は子どもの入学費や塾代も払ってくれたのに、夫の親は何もしてくれない」とか、「姑には子どもを預かってほしいのに、土つきの大根とか持ってきたりして迷惑」といった具合です。かつて親と子は、何かを「教え、伝える」ことと、それを「受け継ぐ」ことでつながっていたから、新旧世代間でそこにぶつかり合いも起きた。でも今は、親は子に何かを「してあげる」存在になっているから、して欲しいことをしてくれない親や、迷惑なことをしてくれる親、わずかばかりしかしてくれない親との間によくトラブルが起きて、それを「嫁姑問題」と言うようになってきているのです。しまいには、「子どもから親への縁切り宣言」も出てきています。言葉は昔と変わらず「嫁姑問題」と言うのですが、よく中身を聞くとこんなふうにすっかり様変わりしてきている。これも、今の若い夫婦が育った家庭の親子関係が、すでにそのように変わっていたことの表れだと、私は思います。養老家制度が機能していた時代には、「各家庭はそれぞれ違う」ということが大前提でした。家の中はあくまでもプライベートな空間であり、ある家のルールが他家でも通用するとは限りませんでした。したがって、嫁の実家の習慣と嫁ぎ先のルールは違っていて当然でした。嫁を教育するのが姑だったのは、姑自身もかつて他家から嫁いできて、先代の姑から教育を受けてきた経験をもっていたからです。だから教育として成り立つんです。しかし、家制度がなくなれば、そういう嫁姑の関係もなくなります。ですから、今、新しく現れているのは「嫁姑問題」とは別の問題であって、それをまだ「嫁姑問題」と呼んでいるだけなのでしょう。岩村そうですね。嫁姑問題とは別の問題になっているのに、同じ言葉で語るからわかりにくくなっているんですね。そして、各家庭のプライベートな空間は「それぞれ違うのが当然」と考える人も少なくなってきたんでしょうね。一九六〇年前後に、地方から都市周辺に働く若い世代がたくさん流入してきて新しい家庭をつくり始めたとき、自分たちの故

郷の家のやり方を恥ずかしいことのように思って、「ふつう、どうするの?」と周りを見回して合わせようとし始めたと聞きます。ちょうどテレビや雑誌も、これからの「新しい家庭像」を語り始めたから、プライベートな各家庭の中のことまで、「各家それぞれ」ではなくなってきた。だから、各家のやり方やルールなど、子どもやお嫁さんに伝えるものもなくなったのでしょうかね。養老世間という公共空間と、家庭というプライベート空間を一緒にしてしまっているんですね。これは一種の公私混同ですよ。サラリーマン育成の教育岩村一九五〇年代後半から日本は第一次産業を他産業に振り分ける政策をとってきて、六〇年代には「サラリーマン化」が大きく進みましたよね。一九六〇年以降に生まれた人たちが受けてきた教育をみると、それはサラリーマン育成の教育だし、消費者育成の教育でもあると感じます。人や自然と向き合って、人と協力してものをつくりだす人の教育ではなくなって、単独で自律的なサラリーマンを育成し、賢い消費者を育成する教育になってきた、と。だから「サラリーマン化した」と言うのは、単に産業構造が変わっただけでなく、第一次産業に生きる人たちの培ってきたものも、教育から落としてきたということなんだと思います。そういう教育を受けた人たちが、もう五〇代になっているのですから、いろんなことが変わってくるんですよね。養老消費者教育をやってきた結果、教育の現場においてさえ、子どもたちは消費者行動をとるようになっていますよね。今の子どもたちは授業を商品として見ています。だから、教師が教えようとすると、「その価値を説明してみろ」という態度に出る。授業中、ずっと後ろを向いてしゃべっている小学生は、先生の話を無視することで値切り行動に出ているんですよ。価値のわからないものを買うときは徹底的に値切るというのは、完全に消費者としての振る舞いです。以前は大学の教員はシラバス(講義概要)なんて書きませんでしたが、いつからか、書くのが当たり前になり、強制されるようになりました。あれは、大学側が学生を消費者と見て、教員に対して「商品見本」を出せと命じているんです。いつのまにか、それが当たり前になりましたね。まあ、僕は知らないよってソッポ向きましたけどね。教えることって、毎日、いつ変わるかわからないから。容易に物事が信じられない世代岩村講義なんて、内容が確定しているものでもないし、あらかじめ取引価値が判定できるはずのものでもないのに……。私の時代にはシラバスなんてなかったですよ。ところで、時代が変わると言えば、先生は一九三〇年代のお生まれですよね?養老一九三七年生まれです。岩村先生の世代は、一九六〇年以降に生まれた私の調査対象の主婦たちの、ちょうど親世代に当たるんです。それでこの親世代の人々にも、前にずいぶんインタビューをしました。食べ物の話で言えば、一九三〇年代の半ば以降に生まれた人々は戦中・戦後の食料難時代に成長期を過ごしていて「昔ながらの家庭の食」を食べずに育った、歴史的に特異な世代ですよね。だから、戦争が終わっても回帰すべき家庭食の原点を持たない人々だと気付かされたんです。そこで、大人になって家庭をもっても、自分の親がしてきたことに学ぶより、テレビや雑誌の新情報に注目して、肉料理やインスタントの素やルーを活用した新しい日本の家庭料理を率先してつくり始めた人たちでした。でも、それは食べ物だけじゃなかったんです。ほかのことについても、日本の昔からの古いものや古いやり方を意識的、無意識的に絶ち切って、子ども世代に伝えようとしない親たちだということが、私にはとても印象的でした。「何事も時代時代で変わるから」と言って、子どもに自分のやり方や価値観も伝えようとしない。聞かれても「こうすべきだ」とは言わず、「いろいろな考え方があっていいから、あなたのしたいようにしなさい」と言うんですよね。養老僕たちの世代が受けた最も大きな影響は、やはり「一九四五年八月一五日」でしょうね。大人の世界が一八〇度引っくり返るのを幼くして目の当たりにし、そのときの敗戦ショックをひきずっているんです。だから、世の中のことはほとんど何も信用できないといった感覚が、心の奥のどこかにあるのでしょう。「価値観は時代時代で変わるものだ」という見方はよくわかりますね。相手を判断するときも、言葉ではなく、実際の行動を見てしまいます。一口に「戦前生まれ」と言っても、何歳で終戦を迎えたかによって、受けた衝撃はまったく違います。僕は終戦時、小学二年生でしたが、たとえば、五歳上の石原慎太郎さんは中学生で、僕らから見ると、どこか「戦前っぽさ」が入っていて折り目正しい。僕より下の世代は、幼すぎてあまり終戦の影響を受けていない。つまり、僕ら世代が一番ひねくれているんです。幼い頃に目の前で起こったことがあまりにも大きかったから、世の中はどうしようもない方向に動いていくんだということを、物心ついたときから考えているんです。岩村最もナイーブな年齢で価値の大転換を経験されているんですものね。「国民学校」に入って軍国主義教育を受け、戦争中は疎開した子どもたち。でも戦争が終わると、教科書の「墨塗り」をさせられ、この前まで軍国主義だった先生から「戦争放棄」の「新憲法」を教わり、今日から「民主主義」「自由平等」で、中等教育も「男女共学」になった。義務教育期間中にこんな価値の大転換を経験した日本人は、歴史的に見てもそうはいないでしょう。当事者としてさぞかし思うところも多い方々ではないかと想像しますが、しかし、そのこともあまり語られていないんですね。養老この世代は容易に物事が信じられないんですよ。何を言ったって状況次第で変わってしまう、という気持ちがどこ

かにあるからでしょう。相手が強く主張するほど疑わしく思ってしまうし、自分で何かを言うときも同じです。大事なことほど強くは言わない。それに、自分たちが子育てをしている時期は、そういうことを客観的に見る余裕もありませんでしたから。この年になって、ふと立ち止まってみて、あれ、おかしかったかなと考えるわけです。明治時代に北里柴三郎や高峰譲吉などの優れた自然科学者が出たでしょう。北里や高峰は、明治維新を成し遂げた人たちの次の世代です。壊れるわけがないと思っていたものが維新で壊れてしまうのを少年時代に見ていたから、何も信じられないというところから始めなくてはならなかったのです。「世間で起きていることは信用できないけど、菌なら信用できる」と思ったのでしょう。僕たちの世代もそれに似たところがあります。僕らの世代は、「モノ」を信じる、つまり「五感でとらえられるもの」を信じることで生きてきましたが、その裏には常に「信じられるものは何なのか」という思いがありました。だから、同世代の多くが工学系や技術系の道に進みましたし、その結果、戦後の日本は技術大国になったのだと思うんです。よく「日本人はモノづくりが得意」と言われますが、たぶんそれは間違いです。「モノを信じる世代」がいたから、たまたま技術大国になれたんでしょう。その後の世代にはそういう動機がなくなったのだから、今はモノづくりがうまくいかなくなって当然です。新宗教ブームはなぜ起きたか岩村何も信じられない世代が「信じられるもの」をそこに求めたから、技術大国になったなんて、初めて知りました。「信じられるもの」といえば、一九六〇年以降生まれの世代が一〇代後半から大学生になる頃、一九七五年から一九八〇年にかけて、日本では歴史的な若者の新宗教ブームが起きていますよね。あの頃、あちこちの大学に新宗教系のサークルもできた。養老巷では、「スプーン曲げ」のユリ・ゲラーがもてはやされたように超能力ブームも起きましたよね。あんなものが流行するなんて、僕にはまったく理解できなかったけど。岩村実は、当時私はいろいろな新宗教教団に潜入して、青少年信者の入信動機などを調査していたんです。そこで何回も聞いた言葉の一つに、「人や社会についての(信じられる)明快な指針や答えが欲しかった」というのがあったんです。親の世代は価値観を語ってくれない。学校の教師もちょうど親たちと同じ世代で、やはり「いろいろな考えがあっていいんだ」とか、「君たちの好きなように生きたらいい」などと言うばかりで、自分の体験に根差した価値観や指針を語ろうとしない、と。それに対して、初めてはっきり答えてくれたのが、新宗教教団だったと言うのです。自分はなぜ生まれたのか。何のために生きているのか。何が善で悪なのか。どう考えるのが正しいのか。新宗教はそういうことに対して「答え」を言ってくれた。だから、信じられると思い、入信したと。もう一つの入信動機が「ここでは私の話を聞いてくれる」だったことも、人間関係が希薄化していたことを示していて興味深いのですが。養老僕は中学・高校とカトリックの学校に行ったので、「旧宗教は何をさぼっているんだ」と思っていました。岩村旧宗教に行っても、「答え」を教えてくれないんですよ。自分でよく見つめ考えなさいとか、座禅を組みなさいとか言われるだけで。そう言われても、一九六〇年以降生まれの世代は、マークシート方式で、まる暗記式の試験に対応した勉強をしてきた第一世代ですから、「答え」は自分で探すものでなく教えられるもの。待てないんです。その頃、新宗教に入信した学生に理工系が多かったことも、不思議に思ったものです。後にオウム真理教の事件が起きたとき、教団の中心メンバーに理工系出身者が多いことを知って、改めて、やはりそうだったかと思いました。養老その世代の理工系出身で新宗教に入っていった人たちは、必然性があったから理工系に進んだわけではありませんよね。岩村そうでしょうね。一九六〇年以降生まれの人たちは、受験方式も変わり、大学の選び方も変わっていく中で進学した世代です。「信じられるもの」を求めて理工系に進んだわけでもなく、理工系でやりたいことがあったわけでもなく。偏差値の見合うところを文系・理系問わず受けたら、たまたま理工系の学部に受かったけれど、何をしたいのか、どう生きたいのかがわからない、という話もよく彼らから聞きました。血を見るのが苦手なのに、成績がよかったから医学部を受けて入ってしまったとか。養老それは、まさに僕が現役で教えていた頃に問題になったことですよ。八〇年代から九〇年代にかけて、そういった学生が多くて本当に困りました。成績がよければ、高校の先生は医学部進学を勧めるんですよね。そうやって入ってきては、うまくいかなくて転科した学生が何人もいました。「そんなに言うなら、実際にやってみろ」岩村偏差値が高い、成績が優秀っていうのも、記憶された知識で測られるようになりましたものね。具体的な実践力などはマークシート方式じゃ測れないから。食に関していえば家庭科教育だって変わったんです。一九六〇年以降生まれの人たちが受けた家庭科教育は、たとえば栄養素を覚えて、それを網羅的に組み合わせるような「献立て」の立て方だったりする。そこでは、焼き魚とミカンと牛乳なんていう奇妙な献立ても「摂りたい栄養バランス」にかなっていればマルがつくようになっていたんです。そして、実際に食べて美味しいか、それを上手につくれるかは、軽視されるようになってしまった。知識、情報に重きが置かれるようになって教育現場で行われる「体験教育」も一日体験的な「情報」のように変わってきたんだと思います。身につける体験教育ではない。

養老以前は、そういうことを修正するシステムみたいなものがありました。知識ばかりを頭に詰め込んだ若者が生意気なことを言うと、「そんなに言うなら、実際にやってみろ」と叱りつける大人が周りにいたものです。そういう意味での教育が機能していた頃は、世の中はまだまともだったんでしょう。岩村若者にそう言ってくれる大人が本当に少なくなりましたね。今は家庭でも学校でも、実際にできたかどうかよりも、前向きな「姿勢」を重視し、評価するようになっていると思います。二〇年以上前から学校でも、何かがちゃんとわかったかどうかよりも「関心や意欲」を学力として評価しようとするように変わりましたし。私の調査のアンケートや日記にも、「今度からもっと料理を手づくりしたいと思います」とか、「次回からは野菜をたくさん摂りたいと思います」といった前向きな記述をよく見かけます。でも、インタビュー時に、その後そうしたのかと尋ねると、「書いただけで、やるつもりはなかった」などと言ったりする。中には「前向きな姿勢を示すことは良いことなのに、その結果を指摘するなんて」と、憤慨する人もいる。「ミーフェチ世代」の登場岩村私は、六〇年以降生まれの人たちの、その子どもたちの調査もしたことがあるんです。だいたい一九八五年前後から後に生まれた人たちですが、大卒なら、近年ちょうど会社に入ってきている世代です。この子どもたちは、小学校に入ったときに立ち歩いたりして授業が成立しないなどの学級崩壊を起こしたり、中学入学のときには「今年の生徒は例年より子どもっぽい生徒が多い」などと話題になっているんです。私はこの世代を、「ミーフェチ世代」と呼んでいるんですが、その意味はミー(私)に対するフェティシズムが濃厚ということです。「私が大好き」で「私」に関心が高い。お気に入りの写真やマスコット、音楽や香りなどを身の周りに集め、持ち歩いたりして、自分の内的世界の心地よさにこだわるのに、外界や他者にはあまり関心を持たないという特徴もあります。この世代が入社し始めた、もう四、五年前からですか、新入社員教育でも「あまり厳しくしてはいけない」「叱ってはいけない」と言われるようになりましたね。養老怒るとどうなるの。岩村へこみやすい。「私の世界」が崩されたようになって、立ち直りに時間がかかるのだそうです。自分のお気に入りの世界に籠って、傷を癒さなければならない。でも、この世代から小学校の「生活科」で環境教育を受けているんですよ。だから、「エコロジー」「環境問題」に対する意識がとても高くて、電車の中などで外界や他者への関心が低いのに、ゴミの分別や節電などを気にかけたりするんです。養老それは興味深いですね。いや、僕、最近言うのですが、環境省ができたことで、「自己」が政府公認になったんですよ。そもそも実体としての「環境」など存在しません。本来、環境とは「自分の周り」のことであり、もっと正しく言えば「自分そのもの」なんです。僕たち日本人は田んぼでつくられたコメを食べて生きている。つまり田んぼは自分の一部であり、自分自身と言ってもいいのですが、現代人は田んぼを「環境」と呼んで、自分から切り離してしまいました。空気も同じです。空気がない状態では人は一瞬たりとも生きられないのですから、空気は自分自身です。それなのに、今は空気を「環境」と呼んで、自分から切り離してしまっています。江戸時代の人は誰も「環境」など語らなかったはずです。我々は土からもらったものを食べて、土に返している。だから田んぼは自分自身だし、田んぼを大事にするのは自分を大事にすることと同じでした。同様に、魚を食べるのは海を食べることでしたから、海も「環境」ではなく、自分自身でした。フランス革命において、「自由・平等・博愛」とわざわざ言葉で主張したのは、それがもともと「ないもの」だったからです。言葉にはそういうふうに、「ないもの」を立てて存在させる機能もあるのですが、そこには怖さもあって、本来、存在しないものを、言葉を立てて、あるというふうにとらえてしまうと、まさかと思うようなところに「裏」が発生します。「環境」を立てた裏にできたのは、そこから切り離された「自己」です。本当は世界と自分はつながっていて当たり前なのに、「環境」と言った途端、「自己」が発生してしまう。政府が「環境省」をつくって自己を公認したとはそういうことです。だから、「自分探し」なんかが始まったのでしょうし、ミーフェチになったのも当然ですね。岩村まぁ、それは今まで気づきませんでした。「環境」を「自分」と切り離して考えるようになったから意識が内側にだけ向いて「ミーフェチ」になり、それでは当然のことながら「自分」がとらえられなくなってしまった。だから「自分探し」をするようになった、ということですか。環境教育を小学校から受け始めた第一世代と「ミーフェチ世代」が一致するのは、偶然ではなかったということですね。養老もっとも、今の田んぼを見て、自分とのつながりを意識しろというのは無理な話かもしれません。農業の機械化を進めるためにきれいに圃場整備をした田んぼを見ても、自分とつながっているとは思えませんからね。昔の田んぼは一つひとつが小さかったり、よくこんな不便な場所につくったと思うような棚田があったりして、そこから人の愛情が感じられました。だから、「環境」ではなく「自分そのもの」だと感じやすかったんだと思います。「人生の意味は自分の中にはない」養老それと、僕は現代の若い人が陥りがちな「自分探し」に意味はないと思っています。いくら「自分探し」を続けても、「自分」などどこにもないのです。

二〇世紀に、ヴィクトール・エミール・フランクルというユダヤ系オーストリア人の精神科医がいました。収容所体験を基に『夜と霧』を書いたことで有名です。彼は、自分が何のために生きるかについて一切述べず、果ては「人生の意味は自分の中にはない」と言っています。この言葉を日本の若者に言ってやりたいですね。フランクルは、第二次世界大戦でナチスのユダヤ人迫害が激しくなってきた頃、アメリカに留学するチャンスを得ました。留学すればナチスから逃げることができる。しかし、彼は思い悩みつつ、「たとえ行き先が死の収容所であっても、両親とともにいよう」と決めるのです。自分の人生を自分以外の人間に預けるといったことは、現代人はまずしないでしょうね。でもこれって、ある意味ではすごく楽になるんです。岩村そのような生き方は、ある意味で「楽」なのかもしれませんが、現代人には自分をなくしてしまうような厳しいこととも言えますね。自分の個性や自分らしさを大切にするようにと、家庭でも学校でも言われて育ってきたんです。そして「自分らしさ」「自己」は周りとの関係抜きで見出せると思っているし、私らしく生きることが自己実現だと思って、悩んでいるんですから。養老僕が心配しているのは、今の若い人は案外頭が固いのではないかということです。僕は若い頃、周りの年配者の頭が固いものだから、自分も年をとれば頭が固くなるものだと信じ込んでいました。ところが、最近の若者を見ると、僕らよりも頭が固い。ルールにこだわるし、杓子定規だし、不自由な生き方をしているように僕の目には映ります。これだけ自由な世の中になったから、かえって不自由を欲しがるのでしょうか。それとも、安定した状態が壊れるのを見たことがないから、今の不自由な状態でもいいのだと思ってきたのでしょうか。日常から消えた「現実」岩村震災後の調査では、ある家庭の大学生の男の子が、東北の被災地にボランティアに行っていたんです。母親に聞いた話では、その男の子は「(人に感謝される)ボランティア体験が前からしてみたかった」そうで、被災地では「テレビで見た映像を実感してみたかった」と陸前高田の一本松を見に行ったりもしているんですね。その話を聞いたとき、男の子の言葉は少し不思議な言葉だと思いました。養老確かに不思議な言葉ですね。その子どもたちは、家の中で自分の食事ぐらいはつくったりするのですか。岩村それは、お母さんがしています。たとえ母親が風邪を引いて熱を出しても、今は子どもたちが代わりに料理をしたりはしないんですよ。家で母親に「感謝される体験」をしてもよさそうなものですが、友達と飲み会に行ったりしてしまいます。よく母の日などにプレゼントを買ってきて喜ばせる子どもたちはいるけれど、具合悪いお母さんに変わって食事をつくってくれるような子どもは、ほとんど見ないですね。養老食事は、家庭の中の第一次産業のようなもので、まさに日常ですが、現代においては、日常が変質してしまったのでしょう。僕らが育ってきた時代には、まだ日常がありました。「現実」という言い方をしていましたが、結局のところ人間は現実の中で生きていくのだということがはっきりしていたんです。しかし、考えてみると、テレビやゲームがこれだけ普及した時点で、現実は必要なくなったんでしょうね。もともと現実は面倒くさいものですから。それで、現実から離れた「体験」を求めているのでしょう。岩村日常は、都合のいいところだけ切り取って「体験」するというわけにいかない、厄介なものですからね。大自然は味わいたいけど、ちゃんと虫除けして、シャワーもトイレも完備してね、とリゾート地で「自然体験」を求める気持ちも同じで。養老それだけ楽に暮らせるようになったということなのかもしれません。僕は幼い頃、母親が仕事をしていたので家中が忙しく、自分で薪を割って火をおこしてコメを炊かなければご飯が食べられなかったし、姉から「皿を洗うのはお前の役目」と言われて皿を洗っていました。それが当たり前だったので、家事をやるかどうかといった抽象的なことは考えませんでした。そのような必然性が、豊かになった現代では剥奪されてしまったんでしょう。岩村私も子どもの頃そうでした。母が肋膜炎だったので、幼稚園のときから茶碗を洗ったり、水仕事を手伝ったりが日常でした。おかげで、中学生になった頃には、来客時に食事がつくれるようになっていたのですが、そのことを若い料理の先生に話したら、「だから、現代の母親を批判するような本を書いちゃうのね」と言われました。料理を日常の暮らしの必然の中で身につけたことを、悲惨だと思ったのでしょうね。今では、日常と切り離れた料理教室で教わるものです。「お料理をさせられないで育ちました」と言うのは、昔と違って恥ずかしいことではなく、親から大切に育てられたことを意味する自慢ですからね。養老先生のような、自分がしないと御飯が食べられなかったという日常の必然が無いのですよね。食事づくりの原体験が日常に発していないんです。主婦のインタビューをしていると、日常の食事づくりはできるだけ簡単にこなしたいもので、「手づくり」は非日常の趣味やイベントとして楽しむこと、そんなふうに分化しきていると感じます。「手づくり」しなくなっているというより、「手づくり」自体が非日常の趣味やイベントに変化してきているんです。――ひとり暮らしの人たちはどうなのですか。岩村最近は単身者に「内食」をする人が増えてきたとよく言われていますよ。そう聞くとすぐ、人は手づくり料理を楽しむ単身者を想像するでしょうね。もちろん、特に最近は若い男性に料理上手な人たちが増えているんですが、単身者の「内食化」がそのせいで広がっているわけではないんです。むしろ、「外食するのも、最近は面倒くさくなってきた」という声が増えていることに私は注目しています。日常の食事に対する関心が低下して、とりあえずお腹が足りればいいや、というような投げやりな「内食」が相当増えていると見ているんです。

それは単身者だけでなく、家庭の食事も同じです。特に震災後「外食に出かけるのも面倒」とか「楽な格好で好きなことしながら、気楽に食べたい」という声が増えて、より簡単に済ませるための内食が増えてきているんです。また、若い男性に料理自慢の人や、料理好きの人が増えているのは、男性にとって料理はまだ「非日常」だからではないかと思っています。女性にとって料理はまだまだ「やって当たり前」の仕事ですから、日常の料理はやっても楽しくない、むなしいと感じることなのでしょう。だから、非日常のお菓子づくりやパンづくり、味噌づくりなんかだと、今日の男性の料理と一緒で、「すごいね」と褒められたり驚かれたりするから、率先して楽しくできるんだと思います。それにしても、家族という共同体と言うか、もっとも密接な人間関係が内側から怪しくなってきているし、家庭生活や家庭の食事という日常そのものに現実がなくなってきている、ということなんですね。今日はそれを改めて感じました。養老ブータンやラオスによく行くんですが、女の子が夜、カエルをバケツ一杯分つかまえて、川で洗ってるんですよ。「あれ、晩ご飯のおかずにするんだよなあ」と思って見ていたんですが、そういうことをさせれば、日常性が少し身についてくるんだろうなあ(笑)。ともかく、家族というものがリアリティを失ったのならば、日常の中に少しずつ「現実」を取り戻すことが、大切なことではないかなと思いますね。まずはそこからですよ。

田んぼを耕さないコメ栽培養老不耕起栽培、つまり耕さない農法について知ったのは、アメリカの科学雑誌の日本語版を読んだのがきっかけでした。当時アメリカでは、農業の一割がすでに不耕起になっていたそうです。耕さなくてすむなら、じゃあ今までの農業は何だったんだ、という……。岩澤今ではアメリカは全耕地の五〇%以上が不耕起栽培のようですね。アメリカの農業に大型機械が導入されたことで、畑の表土が失われてしまったのですが、耕さなければ土に粘性を与えるグロマリンが働くことがわかって、この農法が広まったそうです。養老今はそこまで普及しているのですね。自動車などの工業製品をつくるのであれば、人間がすべてを考えて製造工程を管理できますし、不具合があれば、つくり直すこともできます。けれども、田んぼはそうはいきませんね。基本的にコメをつくれるのは一年に一回ですから、あまり冒険もできない。でも一生のうちに経験できる回数は限られていますから、あまりのんびりと構えてもいられない。新しい栽培技術を試行錯誤しつつ取り入れていくのは、農家にとってなかなか難しいのではないかと思っているんです。岩澤私が不耕起栽培に取り組むようになったのは、オーストラリアで行われている「乾燥地農法(ドライ・ファーミング)」について書かれた論文を読んだのが、一つのきっかけでした。あちらに帰化した日本人が考え出した農法なのですが、これをやると、一〇アール当たり八〇〇~一〇〇〇キログラムのコメが採れると書いてありました。この農法では、降水量の少ない砂地に地力をつけるために、前年にクローバーを栽培します。クローバーなどマメ科の植物の根には根粒菌という菌がいて、空気中の窒素を地中に固定するので、窒素肥料を与えるのと同じ効果をもたらすからです。その後、ディスクという円盤状のカッターで地面に切り込みを入れながら、その溝に種もみを播き、二〇~三〇センチの高さに水を張ります。これでイネが育つというのです。日本のふつうの稲作では、秋にイネ刈りが終わると、秋起こしといって、まず一度耕します。それから冬起こし、春起こしをやり、荒代をかいて、本代をかく、というふうに五回も耕すわけです。篤農家はその間にもう二回ぐらい耕します。そんなに何回も耕して、一〇アール当たり五〇〇キログラムぐらいしかコメが採れない年もあります。これは一体どういうことだと思いました。そんな折に、たまたま福岡正信先生が書かれた『自然農法』(時事通信社)と出会いました。この本を読んで目からうろこが落ち、初めて不耕起栽培は可能だということを知りました。そこで、愛媛県に住んでおられた福岡先生のところに飛んでいってお話をうかがったのですが、イネづくりの話は二〇分ぐらいで、あとは哲学的、宗教的な話が延々と二時間ぐらい続きまして、私にはちょっと理解しかねました。その後は、福岡先生の農法を実践している香川県丸亀市の農家を何度も訪ねました。それでだいたいのアウトラインをつかんだのです。福岡農法でもクローバーを利用しています。毎年一一月に、水を抜いた耕さない田んぼの切り株と切り株の間に、粘土団子にクローバーの種と種もみを練り込んだものを落としていって、足で踏みつけます。そうすると、最初は、低温で発芽するクローバーの芽が出てクローバー畑になります。これにより、田んぼは全体がクローバーに覆われるため、雑草が抑制されます。翌年の五~六月になると、クローバーの間からイネが伸びてきます。そこで水をガバッと入れて、クローバーを水没させて枯れさせ、イネを残します。耕さず、無肥料、無農薬、これが自然農法だというのが福岡先生の考え方です。福岡先生のこの農法は、種もみを直に田んぼに播くため、「不耕起直播栽培」に当たります。とても理にかなったやり方なのですが、東北地方などの寒冷地には向かないと私は思いました。ジャポニカ種のイネは、地面の温度が一〇度以上にならないと発芽しません。このため、寒冷地で直播きをすると、発芽が遅れ、冷害に遭うおそれがあるのです。その頃、私は東北のほうに行って、イネづくりの冷害対策を目の色を変えてやっていましたから、福岡農法をそのまま実践するわけにはいきませんでした。そこで私は発想を変え、不耕起ではありますが、直播きではなく、苗を育てて田植えをする移植栽培に取り組むことになったのです。天啓を受けて――そういった農業技術革新に取り組まれるようになったのは、どういう経緯からだったのですか。岩澤私は一九三二(昭和七)年に、千葉県成田市の百姓の長男として生まれました。千葉県はスイカの産地として知られています。私の家ではつくっていませんでしたが、ある年の五月下旬、東京の築地市場を訪ねたのがきっかけで、私はスイカづくりにのめり込んでいきました。築地市場に行きましたら、引き込み線の貨物列車からスイカが下ろされて並べられていました。そのスイカは熊本産で、値段を聞くと、千葉産の倍以上でした。千葉では、竹ひごにポリエチレンフィルムをかけたトンネルで畝を覆ってスイカをつくり、六月下旬~七月に出荷していましたが、熊本は暖かいため、早く出荷でき、そのためとても高い値段がついていたんです。それを見て、スイカで熊本産とケンカするにはどうしたらいいのだろうと私は考えました。そして試しに、竹ひごのトンネルの外側に、鉄パイプを組んでビニールをかけ、トンネルを二重にしてみました。このやり方では、大型のトンネルの中をはって歩いてスイカの手入れをするので、「ベトコン栽培」と名づけました。当時はベトナム戦争が激しい頃だっ

たんです。幸い、このベトコン栽培は大当たりしました。千葉でも五月にスイカを出荷できるようになったのです。しかも、千葉から東京までは近いので、鮮度も抜群です。その頃、スイカの売り上げは、一〇アール当たり一二万円ぐらいでしたが、ベトコン栽培でつくると、一〇アール当たり五〇万円前後を売り上げることができました。一万円札がまだあまり使われていなかった頃のことです。手で持てないぐらいの札束を受け取り、びっくりして神棚に載せたのをおぼえています。これが転機となり、私はスイカづくりの「大先生」にされてしまいました。日本中から問い合わせや講演依頼が舞い込んでくるようになり、各地を訪ねて話をするようになりました。ある年の秋、青森県の木造町(現・つがる市)に講演に行きました。ちょうどコメの収穫時期にさしかかった頃で、飛行機の窓から下を眺めると、稲穂が黄金色に輝く田んぼが広がっていました。田んぼの向こう側には山があり、その先はまた黄金色に染まっていました。どこまで行っても黄金色なんです。そのとき、私は天の啓示を受けたような気がしました。スイカのトンネル栽培の畑は、いくらうまくいっていても、飛行機からは見えません。上空からもはっきり見えるのは、イネが育っている田んぼだけなんです。そのことを目の当たりにしたとき、農業をやるなら、スイカではなく、やはりコメだと私は思いました。帰りには、イネづくりの本を買い込んで、一人で勉強を始めました。篤農技術は伝承されない岩澤いろいろと文献を読みあさっていると、一九六六年までに日本一の多収穫を実現したイネづくりの名人が、秋田県に一一人いることがわかりました。私はすぐに秋田に飛んでいきました。話を聞いて、千葉で多収穫のイネづくりをやってみようと思い立ったのです。しかし、秋田で名人を一軒ずつ訪ねて回ったのですが、残念ながら篤農技術というのは勘の世界なんです。言わば職人芸であり、文字にして説明するのは難しいし、誰でも簡単に習得できるような技術ではないのです。また、そういう名人から直接、イネづくりの技術を教わった人でも、収量にはばらつきがあって、ある年はたくさん採れても、翌年はさっぱり採れないことがあります。名人の息子さんたちが、朝昼晩ずっと父親と一緒に農業をやってきたはずなのに、イネづくりのイの字も知らないということを知って驚いたこともありました。技術がまったく伝承されていないのです。そういうこともあって、私は多収技術の追究はあきらめ、東北に通い続けながら、誰にでもできて、文字で表せるイネづくりの研究に取り組むようになりました。そして、一九八〇年と翌八一年、東北冷害に直面したんです。千葉出身の私は、こんなにきつい冷害をそれまで見たことがありませんでした。秋になっても、イネの穂が真っ青で上を向いて立っているんです。一本の穂の中にコメが一粒か二粒しか入っていない。異様な光景でした。ところが、そういう異様な光景の中に、ぽつんぽつんと、稲穂がこうべを垂れている不思議な田んぼがあるんですよ。どういうことかなと思って、そういう田んぼの持ち主に当たると、共通点がありました。まず、それらはみな、お年寄りがやっている田んぼでした。息子さんは都会に出てしまって、後を継ぐ人がいない。面積が小さくて機械化農業もできない。だから昔ながらの手植えをしてつくっていました。苗も昔ながらのやり方で植えていました。昔ながらの田植えでは、葉が五・五葉の成苗を水苗代で育てて、田んぼに手で植えます。これに対し、現在の機械化農業では、葉が二・五葉の稚苗を田植え機で植えるのが一般的です。そうすれば、苗代に仮植えする必要がないからです。しかし、稚苗の段階で植えると、イネ本来の生命力が弱ってしまいます。さらに、このやり方では、機械で植えやすいように、稚苗の段階から、茎の部分を無理に伸ばすため、イネの老化が進みやすく、冷害に弱くなってしまったと考えられるのです。その後、私は東北で協力してくれる農家に声をかけ、「機械が入りにくい田んぼの四隅だけでいいから、耕さないで、そこに成苗を植えてみてほしい」とお願いしてみました。快諾してくれた農家は二〇〇戸を超えました。その年の秋、収穫時期を迎えると、四隅のイネは、他のイネよりも茎も根も立派で、穂も大きく垂れていました。刈り取ってみると、しっかりと種子(コメ)の詰まった登熟米が採れました。田んぼを耕して肥料をやって育てたコメよりも、はるかにいいコメが採れたんです。これだと思いました。冷害に打ち勝った不耕起養老それから、まだ相当な時間がかかったんでしょう。岩澤かかりましたね。試行錯誤の繰り返しでした。本格的に不耕起栽培を広めていくためには、やはり農業機械が必要となります。毎年、田んぼの全面に手植えをするのは現実的ではありませんから、どうしても専用の田植え機がいるんです。なぜ専用でなければならないかというと、耕さない田んぼは土が硬くて粘りがないため、ふつうの田植え機を使って田植えをすると、翌日には苗が流れてしまうんです。そこで、いろいろな農機メーカーに当たってみたのですが、話は聞いてくれても、なかなかつくってくれませんでした。不耕起栽培が普及したら、田んぼを耕す必要がなくなりますから、耕運機が売れなくなります。そうなると農機メーカーとしては困るため、どこへ行っても答えは「ノー」でした。最後に三菱農機の本社工場(島根県松江市)を訪ねました。こっちはもうやぶれかぶれでしたから、生産ラインを見せてもらった後、こう言いました。「このままだと、いずれはこのラインもつぶれて、ペンペン草が生えますよ」。多くの農家は過剰な設備投資をしています。借金をして機械を買っているため、コメをつくってももうからない農家が

多いんです。農家がもうからなければ、やがては農機メーカーもつぶれます。だから、農家がもうかるような農法を普及させたいんだと、あえて失礼なことを言ったわけです。しかし、三菱農機の開発担当者は怒りませんでしたね。面白い男だと思ってくれたようで、協力してくれることになりました。それが一九八八年でした。耕さず、切り株と切り株の間に溝をつけて苗を植えていく田植え機を目指し、開発を進めました。ただ、水田の土壌は毎年、条件が少しずつ違いますから、一つのメカニズムで対応するのはとても難しいんです。結局、時間と予算がかかりすぎてしまい、三菱農機は残念ながら、開発から撤退しました。そんな中、一九九三年、大冷害の年がやってきました。私は井関農機の開発部長を福島県猪苗代町に連れていき、不耕起の田んぼを見てもらいました。周囲の田んぼでは収穫がほぼゼロだったのに、不耕起の田んぼだけが黄金色だったからです。それを見た井関の部長は、不耕起専用田植え機の開発を引き継いでくれることになりました。養老九三年の大冷害のときの田んぼの様子は、岩澤さんの著書『究極の田んぼ』(日本経済新聞出版社)に掲載された写真で見ました。あぜ道を挟んで、不耕起の田んぼと慣行農法の田んぼがあって、違いがはっきりわかります(写真2-|1)。岩澤あのときは、「おてんとう様が顔を出さないから冷害が起きた」と農家も学者も口をそろえて言いました。しかし、私たちの田んぼでは完全に穂に実が入ったのですから、おてんとう様のせいではないんです。やり方を変えれば、天候が悪くてもコメはちゃんと採れます。あの年でも、収量の多い田んぼでは、一〇アール当たり一二俵(一俵は六〇キログラム)も採れました。これがきっかけで、「不耕起」という言葉は農業界に広まり、農業用語として認められました。私たちは日本不耕起栽培普及会を設立し、九七年には、念願の不耕起専用の田植え機が完成しました(写真2-|2)。不耕起栽培を提唱して活動を始めたのが八五年でしたから、ずいぶん時間がかかりました。

冬期湛水で無農薬・無肥料を実現岩澤私の不耕起栽培は、冬期湛水という農法とセットになっています。冬期湛水とは、冬に田んぼに水を張っておく農法なのですが、これを始めたのは、宮城県田尻町(現・大崎市)の峯浦耘蔵町長に招かれて、冷害に強いイネづくりについて講演したのがきっかけでした。田尻町から北へ一〇キロ行くと、栗原市と登米市にまたがる伊豆沼という沼があります。ここはマガン(真雁)の飛来地で、湿地の保全を目的とするラムサール条約にも登録されている有名な場所です。冬の朝早く、伊豆沼のマガンは田尻町の田んぼに飛んできてえさを食べ、夕方になると、また伊豆沼に帰ります。当時、田尻町では、国の補助金でグリーンツーリズム事業を進めようとしており、ロマン館という宿泊施設を建てているところでした。しかし、そんな立派な施設を建てても、雪の降る冬はどうするんだろうと私は疑問を感じ、峯浦町長にそう尋ねると、町長はモゴモゴと言葉を濁していました。峯浦町長はハコモノがお好きな人で、ほかにもいろいろつくっていたんです。私は町長に、「人を呼ぶグリーンツーリズムではなく、マガンを呼ぶグリーンツーリズムをやったらどうですか」と勧めてみました。冬にマガンが田尻町まで南下し、田んぼをねぐらにするようになれば、それを目当てに町に観光客もやってくるようになるし、ロマン館もにぎわうのではないかと思ったのです。マガンを呼ぶためには、田んぼに水を張ればいいと提案しました。専門家からは、マガンが人工の水たまりに来るわけがないと反対の声が上がったようですが、私も町長も鳥類については素人ですから、怖いものはありません。よし、やってみようということになりました。その結果、田尻町にマガンはやってきました。冬期に一〇センチ程度に浅く水を張った田んぼはマガンのねぐらになったのです。今では毎年、四万羽が飛来します。ロマン館も冬のマガンを見る人でにぎわっています。それだけではなく、大発見もありました。マガンが来た田んぼには草が生えないことがわかったのです。初めは、マガンはベジタリアンだから、雑草をみんな食べてしまうのだろうと考えました。しかし、彼らが三月にシベリアに飛び去ってから、五月の田植えまでの間も雑草は生えないのです。その理由がわからず、いろいろな専門家の意見も聞いたのですが、答えはなかなか見つかりませんでした。そんなとき、東北大学名誉教授の栗原康先生が書いた『エコロジーとテクノロジー』(岩波書店)を読みました。その中で、栗原先生はイトミミズの働きに言及していました。イトミミズの多い水田では、その糞が雑草の生育を抑制する効果があるというのです。私はすぐに日本不耕起栽培普及会の会報でそのことを知らせ、会員の田んぼを冬期湛水にしてもらって、生き物調査を実施しました。そうすると、イトミミズが一〇アール当たり一五〇〇万匹もいる田んぼがあることがわかりました。そういう田んぼでは、イトミミズの糞がトロトロの層になって積み重なり、雑草の種を覆ってしまいます。もっとすごいのは、このトロトロ層に膨大な肥料分が含まれていることです。そのため、ふつうに施肥をすると、窒素過剰になってイネが倒伏するほどです。だから、肥料は一切使わなくていいんです。生き物の活動だけでお米ができてし

まいます。養老肥料は植物にとってどういう意味をもっているのかということを考えさせられますね。木を育てる際、早くから肥料を与えてしまうと、根がしっかり伸びず、大きな木に育たないという話を聞いたことがあります。ちょっと乱暴な話かもしれませんが、僕は子どもの育ち方についても、同じように考えているんです。今の子どもたちは、作物で言うなら、肥料をたっぷり与えられて育っている状態です。でも、根がしっかり伸びていない。岩澤さんの著書には、不耕起冬期湛水で栽培したイネの根っこの写真も載っていますが、とても太く長く伸びていますよね(写真2-|3)。岩澤硬い土壌に植えたイネは、なかなか根を張れません。そうすると、イネの根っこの先にストレスがかかり、エチレンという物質が放出されます。このエチレンは抑制ホルモンの役割を果たし、根を太く丈夫にします。これがいわゆるエチレン効果で、通常のイネの二倍から三倍の太さに育った根は、硬い土壌を突き破ります。だから、イネの強さが違います。不耕起冬期湛水の田んぼでは、いもち病にもかかりにくい。台風にも強く、冷害にも干ばつにも強いイネが育ちます。言ってみれば、イネが「野生化」するんです。なぜ虫は消えたのか養老不耕起冬期湛水農法は、植物としてのイネの強さを生かす農法なのですね。岩澤不耕起冬期湛水の田んぼからは、何万匹というアキアカネが飛び出します。地面には、すき間がないほどタニシが棲みつきます。ドジョウもメダカもものすごく増えます。田んぼが生き物だらけになるんです。それは、大型の植物プランクトンであるサヤミドロという藻類が繁殖するためです。ふつうの田んぼは、土を耕すため、イネ刈りが終わった後のワラは土の中で分解されてしまいます。けれども、不耕起冬期湛水の田んぼでは、ワラは水の中で分解されます。ワラから出た栄養分は藻類がとり、藻類が光合成をすることにより、田んぼの中は滝壺と同じくらい酸素量の多い状態になります。そのため、生き物が大発生するんです。植物プランクトン、動物プランクトン、原生動物、昆虫、魚、という具合にいくらでも増えていきます。養老それはいいですね。僕は虫をとりますが、ふつうの田んぼや畑のそばには近寄らないようにしているんです。農薬をまく田んぼや畑には虫がいないとわかっているからです。世間の人はあまり気づいていないけれど、日本では虫は本当に少なくなりました。自動車が高速走行していると、運転席の窓に大量の虫がぶつかって死にます。一台の車が廃車になるまでに一〇〇〇万匹の虫が死ぬという試算もあるといいます。それぐらい死んでも、自然界全体としては数が減らないのが、虫というものだったんですね。それが、今はすっかりいなくなった。消えたという感じです。それは、環境の変化によって、虫が発生する土壌そのものが消えたからなんですね。岩澤今から二〇年ぐらい前までは、袋網を持って農道をオートバイで走ると、すぐに網の中はイナゴでいっぱいになり

ました。今はイナゴはいませんし、だからスズメもいません。それから、クリとかシイの実の中にも虫がいなくなりました。クリやシイの実は、一〇個拾ったら、そのうち八個には虫が入っているものなんです。それが今は、虫が入っていないクリやシイの実のほうが多いくらいです。どうなっちゃったんだろうと思いますよ。養老ミツバチも消えましたね。岩澤それは、ネオニコチノイド系の農薬が原因だと私は見ています。ネオニコチノイドは、有機リン製剤に耐性をもつ害虫に効くとされ、すでに世界の殺虫剤の相当な部分を占めています。水溶性の物質なので、動物の体内に入っても吸収されずに排出されるため、動物には安全な農薬だというのが、日本の農水省や厚労省の見解です。今、私たちがスーパーで買ってくる野菜で、このネオニコチノイドがかかっていないものを探すのは困難なほど、この農薬は普及しています。しかも、ふつうの農薬はせいぜい四〇〇~五〇〇メートルぐらいしか飛散しませんが、ネオニコチノイド系の殺虫剤は水溶性ですから、水蒸気に含まれて四キロも五キロも飛散します。近年、世界で起きているミツバチの大量死は、巣箱の中の女王蜂と、子どものハチの世話をする働き蜂数百匹を残し、蜜をとりに行った働き蜂がすべて帰ってこなくなるという事態です。それは、働き蜂にネオニコチノイド系農薬がかかってしまうからではないかと私たちは見ています。ネオニコチノイドは神経毒です。ミツバチにかかってしまうと、ミツバチは神経が侵されて巣に帰れなくなり、どこかで死んでしまいます。フランスでは、養蜂業者が裁判を起こし、最高裁がミツバチ大量死の原因はネオニコチノイド系農薬だと断定しています。養老そのことは僕も非常に気になっていました。去年(二〇一一年)、木曽の山中で虫をとったんですが、足をひきずっている虫がいました。昔はそういう虫は見ませんでした。あれはやはり神経毒の影響でしょう。人間が自然に対してやってきたことが、最近になってボディブローのように効いてきたように思います。海の中も相当な影響を受けており、沿岸漁業の衰退につながっています。いい加減にしたらと思いますね。日本はもともと自然が豊かな国です。しかし、オーストラリアという国はもともと自然に余裕がなく、ちょっとした環境の変化が生物界に大きな影響を与えてしまいます。この違いは面白いことに、両国の生物学の違いにつながります。日本の生物学では有名な「棲み分け理論」が生まれた。環境が豊かで幅広いものだから、その中でお互いが損をしないように、どう棲み分けるかということがテーマになる。でもオーストラリアの生物は厳しい条件で暮らしているから、環境は生き物にどのような影響を与えるか、というテーマになるんです。日本では幸いそういうことはなく、植物が繁茂しやすく、田んぼもつくりやすい。ところが、ここ五〇年で、そのような環境を積極的に壊してきたわけです。現代の田んぼでは耕すことに意味はない――これまでの日本の稲作では、なぜ田んぼを耕してきたのでしょうか。岩澤一つには乾土効果があるからです。水田土壌は酸素が入らない還元的な場所ですが、耕して土を空気にさらすと、有機物の無機化が進みます。これによってイネを育てるというのが、昔ながらの稲作です。明治の時代までは、肥料らしい肥料がありませんでしたから、コメをたくさんとるためには耕すしかなかったのです。そのため、土壌肥料学の研究者たちはいまだに、耕せ、耕せと言っているわけです。また、日本では「耕すこと」が農家の勤勉さの証と見られてきました。よく耕し、まじめに作物を栽培する農家は「精農」と言われてきましたし、不耕起栽培なんていうのは横着者がすることだという見方は今もあります。私たち日本人は「農耕民族」と言われます。だから「耕すこと」は当たり前だとつい考えがちですし、奈良時代にたたら製法で鉄がつくられるようになり、鉄器の農具が広まって以来ずっと先祖が田んぼを耕してきたのは歴史的事実ですので、もしかすると、日本人は遺伝子レベルで「田んぼは耕すもの」と思い込んでいるのかもしれません。しかし、この地上では、コンクリートで覆われているところは別として、道端でも原野でも山でも、土を反転させたところなどありません。自然界の植物はすべて、耕していない地面に根を下ろし、子孫を繁栄させています。そういう仕組みをもつ植物しか、地球上には生き残ってないんです。つまり、田んぼを耕すというのは、自然とは反対のことをやっているんです。そうやって、わざわざイネを弱くつくり、化学肥料と農薬に頼って育てているのですから、うがった見方をすると、そういう農業をするように誰かに仕組まれているんじゃないかとさえ思えます。特に農協は、不耕起冬期湛水栽培が普及すると困るでしょう。農薬も肥料も売れなくなりますから。養老もし農協がそう考えているのだとしたら、それは既成組織が抱えている最大の問題ですね。組織は巨大になればなるほど、自分たちの仕事を変えられなくなります。いつだって物事は動いている、自分たちはいつも途上にあるという気持ちをもてればいいのですが、なかなかそうなりません。既成の考えにとらわれ、縄張り意識を働かせ、自分たちがつぶされると思って守りに入る。安定した状態が続かなくなるという不安が大きいんでしょうね。世間ではよく官僚がよくないと言いますが、そうではなくて、どんな組織でも官僚化する危険性をはらんでいるんです。やっぱり実際に仕事をするならば、「いつも途上」という気持ちをもたないと。岩澤農協が悪いわけではないのだと思います。時代に合わなくなってきているんです。もともとは農家が集まってつくった協同組合なんですから、農家と農協の利害は一致していなければいけないのに、最近はどうも逆になっていて、農協が農家に寄生する形です。農協がもうけるために農家が損をするということになれば、それはもう協同組合ではありません。このままでは、農協の流通に頼っている農家もつぶれていきます。農協の役目はもう終わったのではないかと私は思っています。

農家が自立していくためには、自前の流通をつくり、自分で値決めしなくてはなりません。かつての農家は生産にほぼ特化し、あとはすべて農協におんぶにだっこでしたが、これからはマーケティング五〇%、経営三〇%、生産二〇%ぐらいの比率でやっていくべきです。農業で成功したかったら国のやり方に従うな養老今、日本不耕起栽培普及会のメンバーはどのくらいいるのですか。岩澤北海道から九州まで、全国で三〇〇人くらいです。会員のつくったコメは、一俵三万~四万円の高値で売れています。東京・渋谷の東急百貨店本店では、一俵二二万円の値がついています。べつに二二万円で売ることが目的ではないのですが、田んぼにたくさんメダカがいるというだけで、お米の価値が上がる時代になったのだとつくづく思います。私たちの農法でイネを育てると、田んぼがホタルだらけになります。ホタルが二〇〇〇匹になると、人が二〇〇〇人集まるというのですが、そのうち何十人かは「そのお米を食べたい」と言ってくれます。そういう消費者の声を今まで農家の人たちは聞いてきませんでした。流通を他人任せにしてきたからです。その点、産地直送をやれば、消費者の声を直に聞くことができ、要望に応えることができます。消費者が食の安全を求めているのであれば、安全性を追求した農業をやればいいんです。その結果、自分たちのコメが差別化できれば、高く売れます。コメが安い値段でしか売れないのは、安いコメしかつくっていないからなんです。農業では、何一つ完成されたものはありません。すべてが未完成であるがゆえに、無限の可能性があるとも言えます。農村は宝の山です。でも、その宝は原石であって、磨かなければ光りません。それを磨くのが農家です。これからが勝負どころです。逆風に帆を上げてこそ、勝機は見いだせます。私たちの会では、今後は野菜づくりにも乗り出し、農家を元気にしていこうと思っています。養老今、日本の政府が一番お金を出している生物学の研究は、京都大学の山中伸弥教授がやっているiPS細胞(人工多能性幹細胞)の研究でしょう。あの研究は何をやっているかというと、あえて乱暴なたとえをすれば、競走馬を育てるのと同じことをやっているんです。イネを育てたり、品種を改良したりするのとも根本は似ています。つまり、ロケットや自動車を製造するのとは違う。世間では、農業をもっと工業化させるべきだと言う人もいますが、農業は工業化させるべきではないし、そんなことができるはずがないんです。農業に何より求められるのは多様性だと思います。千葉の農業と東北の農業は違っていて当然であり、農業は個々でいいし、バラバラでいい。それを行政や農協が無理に一律にしようとし、まとめようとして干渉し続けてきたから、うまくいかなくなったんでしょう。岩澤残念ながら日本のイネづくりは、国が実質的に栽培方法や栽培面積を管理してきました。私たちはこれを変えようと、農家に働きかけたり行政機関にお願いに通ったりといろいろなことをやってきましたが、変えるのはなかなか難しいんですね。農家の意識にも問題はあります。国家が将来にわたって農家の面倒を見てくれるはずがないのに、まだ国家に頼ろうとしている。実際のところ、農業で成功した人は、国の言うことの逆をやって自立していった人たちです。補助金に頼って農業をやって財産を築いた人は、日本中どこを探してもいません。補助金のもらい癖がつくと、補助金がつかない事業に手を出さなくなるからです。養老林業でもまったく同じ意見が多いですね。まともな人は補助金なんかもらっちゃいけないって、必ず言うんですよ。第一次産業とは一番折り合わないでしょうね、ああいうものは。おそらく枠を決めて、お金の額を決めて、必要な人が申請して取るような形がいいのではないですかね。そうすれば、少なくとも何かしますからね、自分でポジティブに。肥料不足による食糧危機に備えよ岩澤私が日本の農業を変えなければいけないと切実に思うのは、農家の懐具合だけを気にしているわけではありません。日本は将来の食糧危機に備えなければならないと危惧しているのです。化学肥料の原料になるリン鉱石はやがて枯渇しますが、日本にはその鉱山がありません。カリもしかりです。将来、化学肥料の囲い込みが行われたときに、日本に農家がいなくなっていたら、国民は飢餓に苦しむことになるでしょう。さらに、政府は環太平洋パートナーシップ(TPP)協定に加わり、農産物を自由化する方針のようです。これは国家が農家にあいくちを突きつけているようなものです。対応策を急いで考えなくてはいけないのですが、時間がありません。養老僕は、食料問題はエネルギー問題だととらえています。食料は水を含んでいて重たいので、流通に最もエネルギーがかかります。僕は疎開世代だからよくわかるんですが、流通が止まってしまうと、地方にいくら食料があっても都会に運んでこられなくなります。だいたい食料というものは、ある程度以上遠くに運ぶものではないと思うんですね。食べ物を遠くから持ってくるのはぜいたくです。だから禁止しろとまでは言うつもりはありませんが、本来、必要のないことです。人間のほうが動けばいい。現状では、日本人の食の流通は、外国産のエネルギーでまかなわれています。われわれは一生懸命に働いて外国からエネルギーを買い、それで外国産の食べ物を運んできて食べているわけです。東京都なんて、食料自給率は一%程度ですから、流通がないと成り立たない。でも、多くの人は流通のエネルギーが膨大なことに気づかない。エネルギーが膨大ということは、そのエネルギーをまかなうために一生懸命働いているということです。それって、よく考えると、無駄ですよね。輸入が必要なものもあるでしょうが、日本は環境の面で農業に向いている国ですし、食料を輸入しなければ立ち行かな

いような国ではないんですから。『古事記』や『日本書紀』で最も頻繁に使われる言葉は、「なる」なんです。「実がなる」の「なる」なんです。それくらい恵まれた国なんですよ。岩澤農業には向いている国だと思いますが、日本の農業就業者の平均年齢は六六歳です。なんせ、私の兄の世代がまだトラクターに乗っているんですから。ということは、あと四、五年もしたら、農業をする人がいなくなります。養老そのことを僕はあまり心配していないんですよ。お年寄りの先輩方が頑張っているから、若い人が入ってこないんじゃありませんか。岩澤日本のコメ農家は、自分の田んぼでやるのだから土地代はかからない、自分で働くのだから人件費はかからないといった単純な発想でコメをつくり、田んぼを維持してきました。その一方で、家に帰れば「農業はしんどい」「コメづくりはもうからない」と愚痴をこぼしてきたわけですから、そんな親の背中を見た子どもたちが後継者になろうとしなかったのは当然だったのかもしれません。サラリーマンの方が聞いたら驚かれるかもしれませんが、農林統計をみると、一キロのコメをつくるのに、原価はだいたい三〇〇円以上かかっています。そして、農協に納めているのは一キロ二〇〇円。だから一キロつくるごとに、一〇〇円ずつ損するのです。でも農家は損しているとは思っていない。なぜかというと、原価を計算せず、自分の「人件費」という概念がないからです。そういうどんぶり勘定をしているから、日本の田んぼはもっているんですよ。ですから、数年後には、農民不在の農村が見られるようになるかもしれません。私が心配しているのは、そのとき、耕作地を維持するのは誰なのかということです。国は、平地で二〇~三〇ヘクタール、中山間地で一〇~二〇ヘクタールの規模の経営体を育成するといっていますが、そんなのは絵空事です。中山間地で一〇ヘクタールもやっていたら、あぜの草刈りばかりに追われて、とてもイネづくりなどやっていられません。都会の人が農業に取り組むべき理由養老農業を成り立たせるためには、消費する側の農業を育てる努力も必要なのかもしれませんね。そうすれば、日本の農業にももっと可能性が見えてくるのではないかと思うのですが。岩澤農村では、すばらしい演劇が上演されています。舞台装置は田畑で、監督は農家、役者はイネやメダカやタニシです。ところが、肝心の観客がこれまでいませんでした。だからいかにこの舞台に観客を呼び込むのかが課題です。私たちも田んぼの市民農園をやろうとしています。そのため、千葉県の神崎町を拠点に自然耕塾という農業の塾を開いているのですが、最初に参加を希望してきたのは、定年後に農的暮らしをしてみたいと考えている人たちが中心でした。今では、高校生や大学生も多く集まってきます。そうやって、都市から人をどんどん農村に入れていくことが大切だと私は思っているんです。この塾の参加者たちの中に、自分たちでつくるコメの値段を計算する人は一人もいません。無農薬無肥料の田んぼに裸足で入って作業するのが気持ちいい、癒されると言うんです。価値の求め方が違うんでしょうし、やはり自然には、私たちが想像できないような魅力があるんですね。養老都会人にとって農業は楽しいはずですよ。農作業はつらいかもしれないけど、つらいのがまた楽しいという感覚でやれるんでしょう。そういう農業との相性をもっている人が日本には多いはずです。もともと九割ぐらいが農民の子孫なんですから。農民の遺伝子をもっている人々を都会のビルに押し込んで働かせていることのほうがどこかおかしいんです。日本人の多くが農村を離れたのは、ここわずか半世紀のことです。一九五五年の時点で日本人の四〇%は第一次産業に従事していたんです。それが、第一次産業ではお金がもうからないからと言って、多くが都市に出てきて働くようになった。しかし、そうやって稼いだお金はみんな銀行に預金して、それを政府が借りて代わりに使っているというのが、現代の日本の姿です。人間って、やはりあまり利口じゃないんですよ。部分合理性と全体合理性を合わせることができないんです。僕はずっと前から「参勤交代を復活させるべき。都会の人は、たとえば一年のうち三カ月は田舎で暮らす、という制度をつくったらどうか」と主張してきました。都会は、食料や木材などあらゆるものを供給する田舎がなければ成り立ちません。それはちょうど、身体がなければ頭が成り立たないのと同じことです。しかし頭はそうは考えたがりません。だから、身体という自然を使うことを覚え、外の自然に触れる機会をつくることが大切なんです。また、田舎に別荘をもつというのはおかしな話で、田舎で暮らすのがよいことならば、ふつうの人もそうできるようにしたらいいんです。これは不真面目な話でも何でもなくて、ヨーロッパにはちゃんと先行例があります。ロシアでは、多くの人々がダーチャという住居つきの家庭菜園をもっているし、ドイツでも、クラインガルテンという農地の賃借制度が普及しています。都市化がある程度進めば、そうなっていくのが当たり前なんです。問題はそれをどうやって日常の暮らしに組み込んでいくかであって、そのためには、参勤交代を義務づければいいと僕は言い続けているんですね。それに今、過疎地は土地が余って大変なことになっています。森林では、週に一度くらいのペースで事故が起こっているらしい。林業に携わるお年寄りの事故なんです。参勤交代を義務づければ、休むことが都市で働く人たちの権利になります。すべての企業人が、一年一二カ月、会社に通って必死で働かなくてはいけないほど、日本は困っているわけではない。PHPだってそうでしょう?(笑)田んぼを

耕すことと一緒で、よく考えたら無駄なことに必死に労力を費やしているのかもしれませんよ。農業のような仕事は、日常的にやらないと続きません。特別な体験としてやるのではなく、毎年毎年、当たり前のこととしてやったほうがいいんです。そのためにはやはり、二地域居住の実現が必要で、これができれば、地方の過疎も改善されるし、第一次産業の担い手も確保できる。都市住民は精神の健康を取り戻せるし、子どもの教育にもきっといいでしょう。ですから、全員、一年のうち三カ月は田舎に行くようにしなさいと政府は言えばいいんです。本来、政治がやらなくてはいけないのは、そういうことだと思うんですね。政治家は選挙区と東京を往復して生活しているから、二地域居住の重要性はよくわかっているはずなんですが、なぜこれを政策にしないのか、不思議でなりません。政治家がやっているのは、お金の配分のことばかりです。本来政治が行わないといけないのは、枠、制度をつくることです。ただし、その中で何をするかは自由、というあり方にすることが肝要です。そうすれば、創意工夫が生まれるのです。岩澤都会の方が農業を始めるに当たって、化学肥料や農薬を使う農業を行っても体を壊すだけです。「食の安全」どころではありませんよ。そうではなくて、完全に無肥料、無農薬の不耕起栽培に取り組んでもらいたい。それで今、必死に普及に取り組んでいるんです。養老社長が休日にゴルフをやるような感覚で取り組めばいい。面白がってやることが、一番いい結果を生むわけですから。マンションのベランダでコメが採れる!?岩澤私が市民農園などで一般の方に行ってもらえたらと思っているのは、マダガスカルで発明されたSRI農法というものです。まず種を播いて、水がけも何もしない。苗が出て一週間経ったら、三〇センチ×三〇センチ程度のスペースに植える農法です。この三〇センチ×三〇センチのスペースを確保するのがポイントです。仮に五月の初めに田植えをすれば、暖かいから田んぼの水分を保ちさえすればあとは何もいりません。マンションのベランダで二反歩、三反歩の苗ができてしまいます。参勤交代をしなくていい、ということになりますが……(笑)。マダガスカルでは一〇アール当たりの単収は一トンから一・五トンにのぼり、インドでは二トンも採れるそうです。二トンも採れたら、一〇アール当たり三〇俵以上のコメになって、飢餓なんてなくなってしまいます。いま東南アジアで普及していまして、現在三十数カ国で採用されているんです。私もいま挑戦しているのですが、残念ながら雑草に食われて、なかなかうまくいきません。今年は三年目に入りますから、何とかものにしてやろうと思っているのですが。この農法が確立されると、実は都市で週末農業で稲づくりができてしまうんです。もし飢餓が来て、さらに石油まで入手困難になったら、化学肥料も機械も使えなくなります。その中で稲づくりをといったら、こんな農法しかないんです。将来に備える対策を今から練らなくちゃダメだろうということで、市民農園もみんなのために勉強しているところです。田んぼで飲み水を浄化する岩澤さらに私たちは、市民レベルの農業で田んぼに浄水場の機能をもたせる計画にも取り組んでいます。千葉県には印旛沼という汚染度が日本でワースト2の水源があります。そこからの水を千葉県の人間は飲まされているのですが、利根川の水を何十キロも先から引き込んで汚れた水に混ぜ、何とか水道水にしているんです。印旛沼には約二〇〇〇万トンの水があります。その周りには、約六〇〇〇ヘクタールの田んぼがあります。そこで、これらの田んぼを不耕起冬期湛水栽培に切りかえれば、印旛沼の水を「緩速ろ過」できるのです。緩速ろ過とは、川からの水をろ過池にゆっくりと流し、水を浄化することです。ろ過池の中には太陽光が入るのでメロシラという珪藻類が発生します。メロシラは水中で光合成をして酸素を出し、この酸素によってろ過池では土壌生物や微生物が発生します。これらが有害菌をすべて食べてしまうので、水は浄化されるのです。日本でも戦前の水道は緩速ろ過でした。不耕起冬期湛水栽培の田んぼは、こうした浄水池と同じ浄水機能をもっています。六〇〇〇ヘクタールの広さがあれば、二億四〇〇〇万トンの水を浄化でき、印旛沼の水は一年間に一〇回転以上も浄化される計算になります。おそらく印旛沼は、ニジマスなどが年間を通じて生息できる沼に一変するはずです。ところが、この計画にはネックがあって、行政の縦割りが問題として立ちふさがってくるんです。まず水資源に関することですので、国土交通省が出てきます。水をきれいにするのだと言うと、環境省も出てくるでしょう。田んぼを使いますから、農水省にもお伺いを立てなければいけません。それらをすべてクリアし、活動の許可を取りつけたとしても、さらに県が出てきますし、周辺市町村や土地改良区にも話を通さなければいけません。これでは到底、計画は実行できません。ですから、私たちはこの計画を市民レベルで進めていこうとしているんです。田んぼの市民農園をやるだけでなく、排水路にダムをつくって釣り堀をやってみたり、山菜採りを企画したりして、都会から人が集まる環境をつくることで、この活動を広めていこうとしています。将来のタンパク源?大豆の栽培に取り組む――岩澤さんは大豆の多収穫栽培技術にも取り組んでおられます。岩澤それも飢餓の時代に備えてのことです。もし、日本が食料を輸入できなくなれば、コメはあっても、タンパク質が

足りません。これを補うために、「畑の肉」である大豆をたくさんつくれるようにしておこうと考えました。大豆はきわめて低収穫の作物で、平均で一〇アール当たり三俵(一八〇キログラム)ほどしか採れません。値段は一俵六〇〇〇円とか七〇〇〇円ぐらいしかつきません。しかし輸入大豆はさらに安く、一俵五〇〇〇円もしませんから、日本の農家は大豆をつくりたがらないんです。政府は膨大な奨励金をつけて大豆生産を進めようとしていますが、国内生産量は年間二二万トンで、全体の消費量の一割にも満たない状態です。私たちの農法では、大豆のツル化を防ぐために種子根を切断します。そして挿し木にして育苗し、不耕起の畑に移植して育てます。そうすると、虫もつきませんし、病気も出ず、さやの数が四〇〇ぐらい、最大で八〇〇ぐらいある大きな大豆が育ちます。収量は一〇アール当たり五俵にも六俵にもなります。私たちは、市民の人たちにこの農法で大豆を栽培してもらい、採れた大豆で味噌をつくってもらう実験を進めています。今、日本人が一年間に消費する味噌の量は一〇キログラムほどに減っています。一〇キロの味噌をつくるためには、大豆は二・五キロあれば十分で、株の数で言えば、二〇株ほどです。ですから、大豆を五〇株ぐらいつくってもらい、そのうち二〇株ぐらいは枝豆にして食べていただいて、残りの三〇株で味噌をつくってもらいます。だいたい一〇万円ぐらいのコストで、無農薬で安全なおいしい味噌がつくれます。この農法は機械化には向きません。あまりにも大豆の茎が太くなるので、収穫機では切れないんです。しかし、家庭菜園でならやることができます。市民の方々に「味噌がつくれますよ」と呼びかけているのは、とにかく大豆をたくさんつくって採ってもらいたいからです。仕事は守りに入ったら終わり養老岩澤さんは一九三二年のお生まれなので、終戦時のことをよくご存じですよね。世の中のすべてがひっくり返ったあの時代を知っているからこそ、保守的な姿勢に陥ることなく、現在のような活動が続けられているのではありませんか。岩澤当時は、何しろ食べるものがありませんでしたから、悲惨でしたね。よその家の庭のカキやモモをかっぱらって食べたものです。ああいう時代がもう一度やってきたら、今の人たちは果たして生きていけるのだろうかと思います。養老僕は、人間って、案外、大丈夫なものだと思っているんです。ダメな人はダメですが、生きていける人は、どんなにぜいたくに育っていても生きていける。大正デモクラシーのよい時代に育っていながら、戦後の混乱期をしっかり生き抜いた人もいるわけでしょう。だから、その点はあまり心配ないんじゃないかという気がしているんですね。ただ、世の中がきわめて保守的になっていることには驚いていますし、そういった風潮には懸念を覚えます。どういう意味かと言いますと、たとえば、東日本大震災の後、NHKが岩手県の小学生に取材した映像を見ると、「将来、何になりたい?」と聞かれた子が「会社に入ってお金をもうけたい」と答えたりしているんです。岩手県は第一次産業の盛んな土地柄でしょう。そこの子どもが、あれだけの震災の後に「お金をもうけたい」と言う。それはたぶん、親がそういうふうに育てているからなんでしょうけれども、教育が間違っていると感じました。まともに生きるとはどういうことかっていうことが教えられていないんですね。これ、僕らの子どもの頃に、大人になったら何になる?って聞かれたら、「兵隊さん」って言っていたのと同じですよ。先ほど、農家に後継者がいないと言われました。これも根っこは同じで、日本中どこでも、「会社に勤めて働いてお金を稼ぐのが一番安心」というふうに教えられているからでしょう。本当は、自分で田畑をもって食べ物をつくって暮らすのが一番安心なはずなのに、そうは教えられていない。なぜそうなったかと言うと、戦後になってずっと社会が変化せず、安定していたからです。その結果、日本人はきわめて保守的な国民になったのだと思います。でも本来、仕事は守りに入った途端に終わりなんです。現状は安定均衡点なんです。世の中のさまざまな力のバランスがとれたところに現在の状態がある。その状態を変えるためには、余分な力を必要とします。よくあるのは外圧がかかるパターンです。外圧がかかった結果、安定均衡点が移動し、バランスがとれたところでスッと収まる。これに対し、自分たちで力をつくり出して安定均衡点を移動させるのは、とても難しいんですね。日本人にはそれができなくなっています。そんなことをしていいのかどうかもわからなくなっている人がほとんどではないでしょうか。岩澤私の最大の失敗は、時間がかかりすぎたことです。田植えの前に、箱の中で苗を育てる「育苗」を行います。先ほども述べましたが、今の日本の農業が二・五葉の苗を育苗して田植えを行うのに対し、不耕起栽培ではさらに五・五葉まで生長させてから植えます。この、昔ながらの五・五葉の育苗技術を確立するのにも、二〇年かかりました。このように、不耕起栽培を確立するのに、われを忘れて日本中を駆け回っているうちに、いつの間にか年をとってしまいました。私はがん患者で胃袋も左の腎臓も切っています。だから、本当はもう隠居したほうがいいのでしょうが、神様から「まだやり残している。頑張れ」と言われているような気がして、活動を続けているんです。先ほど、農業には無限の可能性が秘められていると言いました。これは間違いのない事実です。だけど、それをみんな、追求し尽くしていないんですよ。われわれ人間の知識は、まだその世界の入り口にいるだけで、わかっていないことが多い。農業はまだまだ手つかずの領域と言ってもいいぐらいです。せめてそのことだけでも伝えていきたいと思っています。

海は生きていた養老今日(二〇一二年四月一〇日)、畠山さんがカキとホタテの養殖を営んでいる気仙沼市唐桑町西舞根の海を初めて見ました(写真3-|1)。津波の影響で海の中が大きく引っかき回されて、プランクトンが増えているようですね。畠山東日本大震災の直後は、海辺から生き物がすっかり姿を消しました。あれだけの大津波が押し寄せたのですから、全部流されてもっていかれたという感じでしょうか。海はもう死んだのかと思って、一時はかなり落ち込みました。しかし、一カ月ぐらい経って、次第に水が澄んでくると、プランクトンが増えてきて、やがて小魚が現れ始め、その後は、あっという間に魚が増えました。それで安心して、何とかもう一回やってみようと、海に養殖用のいかだを浮かべて、仕事を再開しました。私は一九六〇年のチリ地震津波を経験しており、「津波の後はカキの成長が倍ぐらいよくなる」と父親から聞いたことを覚えています。確かにその通りで、今、ここの海では、平年の倍ぐらいのスピードで生き物が育っています。それは、津波で海の中がかき回されて、海底の栄養源が海面近くまで上がってきたからでもありますし、現在はまだ養殖用のいかだの台数が通常の半分以下なので、海の生き物がえさをたくさん食べられるからでもあります。山に木を植える「森は海の恋人」の活動を二十数年続けてきた身として思うのは、海辺の人間がつくったものは、津波によって壊れてしまったり、流されてしまったりしましたけれども、海の背後にある川と山は何も変わらなかったということですね。山からの養分はちゃんと川を通って海に下りてきています。私は今、京都大学フィールド科学教育研究センターで社会連携教授という役職に就いています。その関係で、京大の海洋生物の先生方に調べてもらったところ、震災後の海は生物が育つ条件を十分に保っているそうです。食物連鎖の底辺となる珪藻類という植物プランクトンが優勢種になっていますし、だからバクテリアも、ベントスという泥の中の生き物も、もちろん魚も生きていけます。そのことが確認できて、ずいぶん安心しました。赤い海を青く――「森は海の恋人」運動について、改めて伺いたいと思います。畠山うちは父親の代にカキの養殖を始めまして、私は二代目です。水産高校を卒業して、一八歳のときからずっと海で働いてきました。カキの養殖は魚の養殖と違って、えさを必要としません。魚の場合は、売り上げの六割がえさ代として消えますが、カキはそういうことがないんです。種カキを海に入れると、プランクトンをえさにして自分で成長します。これはすごいことなんです。しかし、東京オリンピック(一九六四年)の頃ぐらいから、気仙沼の海は少しずつおかしくなりました。海藻や魚が獲れなくなり、成長の悪いカキや、水揚げする前に死んでしまうカキが見られるようになりました。赤潮も発生しました。カキは呼吸のために一日二〇〇リットルもの海水を吸っていますから、水と一緒に赤潮プランク

トンを吸ったカキの身は赤く染まってしまいます。そういうカキは市場に出荷しても、気持ち悪がられて売り物にならず、廃棄せざるをえませんでした。昭和四〇年代から五〇年代にかけて、カキ養殖は苦難の時代でした。多くの人が海に見切りをつけて陸に上がりました。ただ、私は根っからカキが好きなんですよね。なんであんなゴツゴツしたものが好きなんだと聞かれても困るのですが、とにかく好きだからやめられない。養老先生も虫がお好きでしょう?養老好きだからやめられないという気持ちはよくわかります。しょうがないんですよね。畠山気仙沼の海の環境が悪化した原因はさまざまです。水産加工場から垂れ流される汚水、一般家庭からの雑排水、農業現場で使用されている農薬、手入れのされていない針葉樹林からの赤土の流出。私たちはそれまで太平洋の方ばかりを向いて働いてきましたが、問題は海の反対側、つまり、ここの海に注ぐ大川流域にあったんです。転機は、一九八四年、フランスのカキ研究者に招かれて行った視察旅行でした。フランス最長の川、ロワール川河口の養殖場を訪れ、見事に育っているカキと出合ったんです。その辺りの干潟の潮だまりに棲む生物群の豊かさにも驚かされました。海が豊かであるということは川が健全であることの証拠です。ロワール川の上流には、ブナ、ミズナラ、クルミ、クリなどの広葉樹の大森林地帯が広がっています。その様子を見て、私は広葉樹の森が、海の生き物を育てているのだと直感しました。帰国後、仲間の漁師たちに、豊かな海に戻すためには森と川が大切なのだと話したところ、七〇人ぐらいの集まりができました。しかし、川の流域にはさまざまな人々の生活が横たわっています。先ほども言った通り、川が汚れた原因はさまざまです。大川を守りたいといっても、漁師の小さな集まりがすぐに解決策を導き出せるような生易しい状況ではありませんでした。行政にも相談しましたが、川の流域全体をなんとかしてほしいと頼んでもダメなんですね。この辺りは宮城県と岩手県の県境なので、海は宮城県なんですが、山の方は岩手県なんですよ。そんな中、大川の河口からわずか八キロの地点に「新月ダム」を建設する計画までがもち上がりました。大川は二級河川なので、宮城県がつくろうとしていたのですが、環境アセスメントは河口から陸側の範囲だけで行うというんです。海の環境アセスメントはやらないんです。これは大変なことになると思って、大学の先生にも当たってみると、これがまたダメなんです。海は水産学、川は河川生態学、農業は農学、山は林学というふうにそれぞれ専門が分かれていて、川の流域をトータルでとらえて研究している学問がない。養老日本は専門家が幅をきかせる国です。専門家は、人に口出しさせないことで自分の存在意義を確認しようとします。学者は自分の専門領域を守ることで、自分の地位を守ろうとしているんです。だから僕は「学界」とは呼ばずに、意地悪く「業界」と呼ぶんですが。畠山「原子力ムラ」もその典型でしょう。養老学生が学ぶべきは方法であって、対象じゃないんです。方法をちゃんと学べば、対象は何にでも使えるんです。解剖学は珍しく、対象ではなく方法が名前になっています。解剖の方法を学べば、何でも解剖できる。昆虫もヒトも、解剖できますし、机や椅子も解剖できます。川の解剖だってできないことはない(笑)。そんなふうに、やり方を教えれば、学校の教育も役に立つんですよ。法学部で法律を教えても、役に立たない。法律なんて、六法全書をみれば載っています。人文系の学問の場合には、言葉を使った論理の扱い方を徹底的に訓練すべきなんですよ。でもそれをやっていないでしょう。漁師が森に木を植える畠山私も、その専門家たちに頼ることができず、木を植えることが海にとってなぜいいのか、科学的にわからないまま活動を始めました。私たちが植林運動を始めたのは一九八九年からです。気仙沼湾に森の養分を運んでくる大川の上流にある室根山で、落葉広葉樹を植え始めました。山の人が木を植えてもニュースにはならないだろうけど、海の人が山に入って木を植えたら、それも商売にならないナラやブナを植えたら、ニュースになるかもしれないし、そうすれば世の中の人が関心をもってくれるのではないかという不純な動機で始めたことなんです。幸い、気仙沼の歌人、熊谷龍子さんの短歌から生まれた「森は海の恋人」という合い言葉がよかったこともあって、この運動はマスコミで取り上げられました。世の中の多くの人も関心をもってくれました。日本の国土は、真ん中に山脈があって、日本海側と太平洋側に、二級河川を含めると計三万五〇〇〇本の川が流れています。ですから、人が暮らしている場所の事情はだいたいどこも同じであり、私たちの活動は普遍性を備えているという感触は得ていました。ただ、森と川と海がどうつながっているかという科学的な裏づけがないと、行政に対する力にはなりません。その頃、世間では長良川河口堰の問題が注目されていました。著名人や市民が盛んに反対運動を展開し、話題になっていました。しかし、実際に現場に行って運動の様子を見て、これは負けると私は思いました。長良川河口堰の反対運動は、河口堰をつくると、サツキマスが遡上できなくなるという主張を繰り返していました。これでは勝てないんです。長良川の河川水が伊勢湾の生物生産とどうかかわっているのかというデータを提示すべきだったんです。もしそういうデータがあれば、行政は河口堰を建設するに当たって、漁業関係者への膨大な補償を検討しなくて

はならなくなります。しかも、同じことは日本中の河川で起きる可能性があるわけですから、行政は慎重にならざるをえなかったでしょう。しかし、残念ながら、そういった動きはなかったため、長良川河口堰の建設は強行されました。広葉樹林と鉄分が海の生物を育てる畠山私たちの活動の転機になったのは、たまたま見たNHKの番組でした。北海道の日本海側で起きていた、海藻が枯れて岩肌が真っ白になってしまう「磯焼け」は、海水中の鉄分濃度が低下することによって起きると、北海道大学の松永勝彦教授(現名誉教授、四日市大学特任教授)が解説されていたのです。それを見た私は、すぐにNHKに問い合わせて松永先生に連絡をとり、その晩の寝台列車に飛び乗って北海道に向かいました。松永教授によると、海の食物連鎖の基となっている植物プランクトンや海藻の生育には、陸上の木や草と同じように肥料分(窒素、リン、ケイ素)が必要で、そのほかにも、ごく微量のミネラルが必要です。その中でも鉄分が特に海水中では不足していて、湧昇流という、海の深層の水で窒素やリンなどの栄養塩類を高濃度に含んだ海流がわき上がっている水域でも、鉄分が不足しているためにプランクトンが増殖できない海域があるといいます。植物は先に鉄分を体内に取り入れないと、窒素を取り込むことができない構造になっています。海水中の鉄分と生物はそのぐらい重要な関係にあるんです。では、鉄分はどうやって海に運ばれるのかというと、もともと川の流域の森の土や岩石の中に含まれていたものが雨によって海に運ばれるんです。ただ、これにも条件があります。水の中では鉄は粒子鉄という状態で存在し、そのままでは大きすぎて植物の細胞膜を通過できず、吸収されません。粒子鉄から少しずつ鉄イオンの形で溶け出していくと、植物はこれを吸収できるようになるんです。しかし、溶けるスピードが非常に遅いため、鉄分が高濃度に供給されない海では、たちまち鉄不足になります。また、鉄は酸素と出合うと酸化して、海の底に落ちていってしまいます。ところが、木の葉が落ち、堆積して腐食が進むと、その分解過程でフルボ酸という物質ができ、これが鉄イオンと結びつくと、フルボ酸鉄になります。この形でなら、植物は直接吸収できるんです。広葉樹林では、毎年、たくさんの葉が落ち、腐葉土層ができます。このことが、沿岸の植物プランクトンや海藻の生育に重要な働きをしていると、松永教授は解説してくれました。そして、「よいカキを養殖するために山に広葉樹を植えるという活動はとても理にかなっている」と励ましてくれたのです。その後、松永先生に気仙沼の海の調査をしていただきました。気仙沼湾ではカキ、ホタテ、ワカメ、コンブなどを養殖しており、だいたい年間で二〇億円ぐらいの生産高があるのですが、そうやって生産されるものの九割方、つまり一八億円に相当するものは、森からもたらされる養分によって育てられているといいます。太平洋の力は一割にすぎません。そのぐらい川の力はすごかったんです。この研究成果は、新月ダムが海の生物生産に大きな打撃を与えることを証明しました。そもそも、人口が減少していた気仙沼市に新たな多目的ダムをつくる緊急性も乏しく、新月ダム計画は凍結され、やがて中止となりました。今では赤潮が発生することもほとんどなくなり、気仙沼湾はかつての豊饒さを取り戻しました。わが三陸沖は世界三大漁場の一つと呼ばれてきました。日本全国で獲れる魚介類の実に五割が牡鹿半島から北の海で獲れています。これについて、一般的には親潮と黒潮がぶつかり合っているから、優良な漁場になっているといった説明がなされます。海流がぶつかり合うことによって、魚がたまるとか、海底の栄養源がわき上がってくる、としか語られてこなかったんです。ところが、一昨年(二〇一〇年)、ロシアと中国の国境を流れるアムール川の鉄分がオホーツク海を縦断し、千島列島のブッソル海峡を通って、太平洋の三陸沖まで届いているということがわかりました。今、日本の水産学の研究者たちは大あわてです。何しろ、何千キロもの距離を超えて、フルボ酸鉄が三陸沖に届けられ、それによって優良な漁場ができているというメカニズムがわかったんですから。ですが、昨年(二〇一一年)三月の東日本大震災で、三陸の水揚げは大きく落ち込んでしまいました。気仙沼港では、冷凍施設などが使えないなど、港湾としての機能が回復せず、二〇一一年四月~一一月の気仙沼の水揚げ量は、前年同時期の四割程度だったそうです。最初に助けてくれたのはフランスだった養老畠山さんご自身も、震災後、体調を崩されたそうですが。畠山昨年の夏あたりに、ちょっと体調がおかしくなり、肺炎をこじらせたりしましたが、三人の息子たちが役割分担して仕事を回してくれています。昨年の夏から秋にかけて仕込んだカキとホタテはほぼ一年ですべて収穫できそうです。ふつうは二年かかるのですが、やはり成長が速いんですね。しかし震災直後は、復旧しようにもとにかくお金がなくて困りました。家は高いところにあるため大丈夫でしたが、養殖場の施設は全壊でした。しかし、政府の支援に頼ろうとしても、なかなかお金は出てこないし、使用目的が細かく定められていたりして、使いづらいんですよ。私たちは季節に従って仕事をします。種カキ(カキの幼生)を海に入れるのは夏と秋と決まっているんですが、これは

お金がないとできません。必要なときにお金がなければ、作業が一年遅れてしまいます。養老本来、金融というものは、そんなふうに困ったときのためにあったんですけどね。今の社会では、銀行も保険会社も手続きだけにこだわって仕事をするようになっています。インチキをする人が銀行や保険会社をだますからという理由だからでしょうが、そいつを叩けばいいのであって、まじめな人まで困る必要はない。そういう現代の日本人の常識はおかしいと僕は思っているんです。余ったお金をため込んでいるのが、銀行や保険会社なのだから、こういうときは、信用できる人にポンと出せばいいじゃないかと思うんです。政府がずっと機能していないラオスでは、まさかのときに助けてくれるのは華僑会です。マフィアもそうだと思います。マフィアっていうと悪いものだと、みんな思っているけれど、政権が安定していない社会では、地元民はしょっちゅう入れ代わるトップではなく、マフィアを頼って政府とは関係のないシステムをつくってしまうんですね。実は僕、それが今日本に足りないんじゃないかと思っているんです、正直言って。こういうことが起こったときに、政府に頼ってもしかたない。畠山私の場合も、最初に支援を申し出てくれたのは政府ではなかったですね。実はフランス料理のコックさんたちの集まりだったんです。アラン・デュカスという世界的に有名なシェフがパリでチャリティパーティを開き、そこで集めたお金を寄付してくれました。今、フランスで養殖されているカキの先祖は、宮城県で生産されている「宮城種」という種カキが輸出されたものです。フランスでは、かつてポルトガル産の種カキを輸入していましたが、病気が発生して、一九七一年以降は輸入が停止されました。以後、日本の宮城種を盛んに輸入するようになり、現在に至っているのです。私はフランスに渡ってカキ生産の実情を見てきたことがありますが、現地でカキ生産者に「日本の宮城県から来ました」と言うと、「フランスのカキ生産を救ってくれたのは、宮城県産のカキです」と握手を求められました。それぐらい向こうの人は恩義を感じてくれていて、だから今回の震災に際しても、フランス料理のコックさんたちが「宮城のカキを助けよう」と立ち上がってくれたんです。いただいたお金はこっちの生産者に配り、それで昨年は資材や種を買うことができました。次に支援の手を差し伸べてくれたのは、高級ブランドのルイ・ヴィトンでした。津波から一カ月ぐらい経った頃、支援の話をいただき、一瞬、「なぜ?」と思いましたが、やはり宮城種がフランスのカキを救い、フランスの食文化を守ったという話をされました。それと、ルイ・ヴィトンは、創業者がスイス国境に近いジュラ山脈の辺りの出身で、伝統的にトランクの骨格にポプラ材を使っているんですね。そのため、現在でも創業者一族は山を所有しているそうです。そうしたこともあって、私がやってきた「森は海の恋人」の活動もご存じで、支援してくれることになったのです。六月には、本国のえらい方々がここに来て、カキパーティを開く予定です。また、津波では船もすべて流されてしまいましたが、これも助けてくれる人が現れて、再び手に入れることができました。以前、京大の先生が奄美大島で開いた環境教育のプログラムに行ったとき、奄美出身で香港でビジネスを起こして成功している人と知り合ったのですが、その人が津波の後の四月にひょっこりここにお見えになったんです。その人から「何か困っていることはありませんか」と聞かれたので、正直に「船がなくて困っています」と言いました。すると、「私がプレゼントしましょう」とおっしゃって、中古の性能のいい船を買ってくれました。「フォレストヒーローズ」アジア代表に選ばれる畠山私たちが暮らす西舞根地区では、五二戸のうち四四戸が流されました。肉親を失い、心が折れてしまって、もう養殖はやめると言う人もいました。仮設住宅に入った人の中には、一日中やることがなくて、このままでは頭がおかしくなりそうだと苦しんでいる人もいました。これはいけないと思い、私の会社(有限会社水山養殖場)では、地域の人たちとの協業体制をつくりました。各方面からの支援も受けたことですし、そうしたお金で地域の人たちを雇用して養殖を復活させようとしています。それと、震災復興の後押しのためだと思うのですが、昨年大きな賞をいただきました。二〇一一年は国際森林年でした。それで国連森林フォーラム事務局が森林保全に貢献した民間人を「フォレストヒーロー」として世界の五地域から選んだのですが、なんと私がアジア代表に選ばれたのです。森林を保全している人なんか、いくらでもいるのに、林野庁が漁師の私を日本代表に選んでくれたわけですよ。いいカキをつくるために、二十数年間山に木を植えてきたことを評価していただいたんです。その後アジア代表にも選出され、今年(二〇一二年)の二月九日、初めてニューヨークというところに行って、国連本部でメダルをもらってきました。何か手土産があったほうがいいだろうと思って、以前書いた童話『カキじいさんとしげぼう』(畠山重篤・文/徳田秀雄・絵、講談社)の英語版(『GrandfatherOysterandShigebo』)をつくって持っていきました。この本では、カキのおじいさんが少年の“〝しげぼう”〟に森、川、海のことを語りかけます。その内容が向こうで喜ばれ、各国語に訳す計画がもち上がっています。フランス語版はルイ・ヴィトンが出してくれるようですし、ロシア語版、ドイツ語版も出せそうです。すでに、私たちの水山養殖場では「カキの森書房」という出版部門を立ち上げて、この英語版を売っていますが、日本語版より英語版のほうが売れ行きがいいんですよ。養老学術書もそうですが、本は英語で出したほうが売れるんですよ。世界中の人が読みますから、マーケットが広がるんです。畠山是非ロシア語、それから中国語で翻訳したいですね。三陸の漁場を守るためには、四三六八キロもあるアムール川

流域を守らなくてはいけないんですから。それから、揚子江や黄河など、中国の川にも問題があります。養老黄河なんかは断流を起こしています。畠山水が海まで来ていないんですね。養老だから東シナ海が死んでいるでしょう。畠山黄河は長さ五四六四キロメートル。その流域全体を、なるべくきれいにするためには、結局は教育しかないと思うんです。ですから、私のこの本をどんどん広めていきたいんですよ。かつてニューヨークは世界一のカキの産地だった畠山ちなみに、表彰式が行われたニューヨークは、カキとは浅からぬ縁がある都市なんですよ。私は今年の一月から読売新聞の書評委員をやっておりまして、最近、『牡蠣と紐育』(マーク・カーランスキー著/山本光伸訳、扶桑社)という本の書評を書きました。それがちょうど、フォレストヒーローズの表彰式に行くタイミングと重なったものですから、ニューヨークに向かう飛行機の中でこの本をむさぼるように読んだんです。その本で知って驚いたのですが、一八世紀の中頃まで、ニューヨークは世界一のカキの産地だったんですね。マンハッタンの貧しい人々はカキとパンだけを食べて暮らしていたそうです。現在では近代文明の象徴である摩天楼がそびえ立つあの街が、白人が足を踏み入れるまでは生物の宝庫で、自然の恵み豊かなエデンの園のような場所だったというんです。ハドソン川の水が流れ込むニューヨーク湾はカキの楽園で、カキの貝塚も見つかっているそうです。だから、アメリカ建国後は、カキの養殖が盛んになり、酢漬けの日持ちするカキが輸出品として生産されていました。それで得たお金で奴隷を買っていたというあたりが、アメリカの歴史の一端をよく表しているのですが。ニューヨークの人たちは今でもカキが好きです。グランドセントラル駅の地下には有名なオイスターバーもあります。私も行って食べてみました。けれども、ニューヨーク産のカキは一つもありません。森が摩天楼に変わり、カキはすべて消えました。文明とは一体何なのだろうと考えてしまいます。国連が認めてくれた畠山養老先生は胸に「2011国際森林年」のバッジをつけておられますね(写真3-|2)。養老国内委員会の委員を務めていたものですから、たくさん持っています。畠山私もフォレストヒーローとして表彰されたとき、同じデザインのメダルをいただいたのですが、このデザインにはカキが描かれていません。森がどれだけ多くの生き物を育てているのかを表すデザインなのですが、残念なことに、海の生物は一つも描かれていないんです。これは象徴的なデザインだと私は思っていまして、森と海を両方見ることの大切さはまだまだ世界に伝えきれていないんです。一部の研究者は、川を上ったり下ったりするサケを見て研究を進めていますが。養老サケの研究は有名です。カナダの学者が、サケの行動から窒素循環の研究をしていますね。畠山ええ。サケが川を上ってくれば、北の海の情報が川にもたらされます。ウナギが川を上ってくれば、南の海の情報

が川にもたらされます。では、カキはどうかというと、ずっと河口付近にいますので、流域に暮らす人間のことを含めすべてを知っているんですね。そういうことを童話の外国語版などを通じて世界に伝えたいと私は思っているんです。今回私をフォレストヒーローに選出したのは、国連が「森林のことを考えるときには海まで視野に入れて考えよう」という姿勢を打ち出したかったからではないかと思うのです。ウナギも戻ってきた!畠山もちろん国内でも、そのように視野を広げる必要性は高まっています。かつて、神奈川県の小田原ではブリが大量に獲れたといいます。一九五四年頃までは、年間約六〇万匹もの水揚げがあったそうです。だからその頃は、東京の人は冬に箱根にブリを食べるために行ったものでした。それが今では、小田原のブリの漁獲量は年間六〇〇匹にまで減っています。それはなぜかと言うと、丹沢の山から相模湾に流れ込む三本の川が、すべてダムで止められてしまったからです。横浜市や川崎市に水を供給するためという理由で、森と川と海の関係を断ち切ってしまった結果、相模湾はえさがわいてこない海になり、魚が寄りつきにくくなったわけです。最近、小田原では地域の方々が、再びブリを呼び戻したい、せめて年間一〇万匹は獲れるようにしたいと思い立って、活動を進めており、私もいろいろと相談を受けています。他方、室根山の植林活動では、この二三年間で約三万本の木を植えました。また、川の流域で暮らす子どもたちへの環境教育も大切だと考えて、九〇年からは体験学習を始め、二十数年で約一万人の子どもたちに森と川と海の大切さを学んでもらいました。「森は海の恋人」運動は、小中学校の教科書でも取り上げられ、全国に広がっています。その間、気仙沼の海も、とてもよい状態に戻っていきました。川では水生昆虫も増えてきましたし、海ではスズキやアナゴも見られるようになりました。メバルも釣れるようになりました。メバルは何十年もいなかったため、私は息子たちに釣り方を教えられなかったんですが、今は孫に教えられます。それからウナギも戻ってきました。海と川のつながりがよくなっていることを示す指標となる生物はウナギなんですよ。サケは川で産卵して海で育ちますが、ウナギは海で産卵して川で育ちますから、川の環境がよくならないと戻ってこないんです。ここのところ、ウナギの稚魚のシラスウナギが不漁で、価格が一キロ当たり二〇〇万円を超すという大変なことになっていますよね。各研究機関では人工授精でウナギを育てようと躍起になっています。しかし、そんなことに予算をつけるなら、川の流域をきれいにするほうが効果的ではないかと私は思います。行政も学問の世界も、そういうふうに発想を変えられないんですね。ダムをつくったことにすればいい養老慶應義塾大学の岸由二教授が、神奈川県・三浦半島のリアスの湾を囲む小網代という一帯の保全活動に取り組んでいます。小網代は、畠山さんが暮らすこの湾よりもっと小さな谷ですが、源流から干潟までの流域が完全に自然のままで残っています。全国的にも稀有な場所です。畠山それはぜひ見に行きたいものです。養老二〇一〇年には、神奈川県が小網代の森七〇ヘクタールを保全するための用地を確保し、二〇一一年には、三浦市の都市計画も大規模に変更され、流域の全面保全が決まっています。ですから、あそこはもう問題ないんです。二五年間にわたって活動に取り組んできた岸君たちの成果です。その岸君が提唱しているのが、「流域思考」という考え方です。流域という大地の枠組みで安全や環境や文化を実践的に考える。以前この流域思考をテーマにして岸君と対談をしたことがあるのですが(養老孟司・岸由二『環境を知るとはどういうことか』PHPサイエンス・ワールド新書)、彼はこの流域思考に則って、小網代に加え、神奈川県・鶴見川流域の保全にも取り組んでいます。思えば、戦後の高度経済成長は、流域横断型、流域無視型の発展を目指してきました。新幹線は象徴的です。いくつもの河川をまたいで列島を横断して走っています。畠山古来日本人は川の流域で暮らしてきたのに、高速道路と新幹線で横に移動する生活に変わると、思考もそのように切り替えてしまったんですね。森から川を経て海へという縦の思考がないがしろになってしまいました。養老横の移動がすべて悪いわけではない。でも、縦はどうするんだということも考えなければいけないのに、そこが抜け落ちてしまっているんです。先ほど長良川河口堰の話をされましたが、あの反対運動でも、流域全体が一緒になって取り組んだわけではありませんでした。僕が暮らしている鎌倉には海水浴場があり、夏にはたくさんの人が訪れます。それなのに、相模川にダムをつくってしまいました。山の方は砂防ダムだらけです。そうすると何が起こるかと言うと、海岸に砂がなくなるんです。それで、よそから砂を運んできて浜に入れている。バカみたいな話でしょ。畠山ダムは森の養分も止めてしまいます。以前、大雨が降ったためダムを全開したら、その先の海では、キハダマグロが定置網で大量にとれたという話を聞きました。森の養分が海に一気に流れ込んだことで、キハダマグロがやってきたのでしょう。私は、どうしてもダムをつくるのであれば、海までを視野に入れた設計思想でつくってはどうかと思うんです。森と川と海のつながりを保全できるダムのつくり方を日本人が生み出せれば、すごい技術革新でしょう。世界中どこの河川の流域でも事情は同じなのですから、ダム建設を環境産業として成り立たせることができれば、日本は世界に貢献できるかもしれません。しかし、現状のダムでは、魚道をきちんとつくる技術も確立されていません。

実は、昨年、とんでもないものを見ました。世界遺産の白神山地に行ったのですが、あそこの岩木川(青森県)をずっと遡っていくと、だんだんブナが多くなって、ああ、きれいだなと思ってさらに進んでいくと、その奥の方で津軽ダムという巨大なダムをつくっているんです。白神山地の喉仏に当たるような場所にです。白神山地は世界遺産として守ると言いつつ、その奥ではダムをつくって森の養分を止めてしまう。この国はそういう国だったのかと思いました。養老ダム建設の反対運動が起きると、「ダムをつくらないと、地元にお金が下りない」と言う人がよくいるでしょう。だったら、つくったことにして、お金をまいたらいいじゃないかと僕は思うんですね(笑)。そのほうがコンクリートも鉄も使わないから、安く上がりますし、無駄になりません。東京でどうしてあんなにどんどんビルが建つのかって建築会社の人に聞くと、「あれをやらないと会社がつぶれちゃうんです」と。ビルが要るから工事しているんじゃないんです。だったら建てたことにして、金を回してもらえばいいだろうと。そういう知恵を働かせないと、国土はめちゃくちゃになっていきますよ。畠山ここにも、津波の防波堤をつくるという計画があったんですよ。最初、十数メートルのものをつくろうという計画があったそうです。だったら、つくることにして、お金をくれと(笑)。養老そうするとコンクリートや鉄の分だけもうかるじゃないですか。津波はいつ来るんですか、そんなのつくって。畠山一〇〇〇年後ですよ(笑)。養老ねぇ(笑)。気仙沼ユートピア計画畠山結局、地域の人たちへの聞き取り調査で、「防波堤はいらない」という意見が多数だったようで、防波堤をつくる計画はなくなりました。低地には家を建てないということになりましたから、妥当な判断でしょう。その代わり、海から山までを自然の状態で残してユートピアにできないかと思って、計画を進めているところです。養老先生もおっしゃったように、森から海までが手つかずの自然の状態で保全されている流域は、国内ではほとんどありません。ですから、先ほどの小網代の話をうかがってとても興味深かったのですが、実は、私たちも、ここをそういう場所にしたいと思っているんです。今、環境省でも被災地を国立公園のような形にして、自然を保全しようという構想をもっています。そこに外から人を呼び込んで、すばらしい森と川と海を見てもらうことができれば、地域の活性化にもつながりますし、自然が守られているおかげでおいしいカキが養殖できれば、漁師の生活も助かります。自然をきれいにすればお金がもうかるということを私は証明してみたいんです。うまくいくかどうかは、まだちょっとわかりませんが。舞根川流域には、サンショウウオの仲間がたくさんいるらしいと聞きました。今までは、どちらかというと海のほうを見てきましたから、そういう動物もいるのかと改めて驚きました。そうした動物も、国立公園の中で保護できればうれしいですね。養老非常にいいことですね。日本の漁業の問題点畠山「自然をきれいにすればお金がもうかる」のは、もちろん、沿岸漁業でも同じことです。先ほどから話していますように、早くみんなが目覚めて、山のほうにコストをかけていけば、それが海の恵みとなるんです。昔から、私たちはアサリやシジミが現れることを、「わく」と言ってきました。アサリがわく。シジミがわく。えさも肥料もやらなくても、わいてくる。自然とはそういうものだと思うんです。養老虫もわくものだったんですよね。それが最近はわかなくなりました。畠山虫もわかなくなりましたか。養老少なくなっています。あまり言いたくないんだけれど、危機的です。畠山漁業の場合は、網に引っかかっても捨ててしまう魚が結構あります。定置網に引っかかったけど、売ってもタダ同然だから捨てるとか、巻き網でザーッと獲って、大きな魚以外は捨てるとか、それも問題です。養老漁業そのものが、必要なものを必要なだけ獲るという選択的なやり方になっていないんですね。しかも、技術が進歩しているから、みな殺し状態になっている。畠山そうです。潜水艦が探知できるようなソナーとか、そういった精密な機器を漁船が搭載していますから。海のどこに何がどれだけいるかがわかってしまいます。だから、効率だけはものすごく上がってしまっているんです。現在、日本の漁業では、総漁獲量をあらかじめ決めておき、その中で漁師が早い者勝ちで魚を獲る「オリンピック方式」が採用されています。やはりこのやり方には問題があります。腕のいい漁師は獲れるだけ獲れと言っているようなものですから。それよりは、総枠を決めて、さらに、それぞれの船にとっていい量を割り振っていくほうがいいと思います。そうすれば漁業資源はずいぶん保護されます。あとは、遠洋漁業の問題ですね。缶詰用の魚を獲るような外国の大型巻き網船は、はるか遠くまで行って、ごっそり獲ります。三〇年ぐらい前までは日本の船もそうやって世界中の海で魚を獲り尽くしたんですが。養老将来的には、食用になる魚は決まってくるのではありませんか。陸上の動物では、ウシやブタやニワトリを食べると決まっていますよね。それと同じように、魚はこれを食べるというふうに決めて、人間が育てて大きくするやり方に変わるのではないかと思うんです。本当はそれでもいいんですよね。ありとあらゆる野生の海洋生物を獲って食べる必要はないんですから。

今、われわれがふつうに獲って食べてきた魚が減って、深海魚の方に移っているそうですね。それでも人間が獲ろうとすると、あっという間に枯渇していくそうです。そう考えると、人間ってあまり常識がないんですよね。畠山さんみたいに考える人は少数でしょう。ほとんどの人は考えないでやっている。しかも、そういう人に向かって、「もっと考えましょうよ」と言うと、怒りだしたりします。「そんな頭があったら、俺はここにいないよ」と言って怒るんです。困ったものです。震災後、しばらくカキとジャガイモばかり食べていた――日本はもともと自然災害の多い国であり、そういう国で私たちの先祖は生きてきましたし、だからわれわれも今ここにいるわけですが、これから自然とどう向き合っていけばよいのかということについて、改めてお二人からお話し願えますか。畠山震災の後、食べるものがなくなりました。この辺りは道路も寸断され、通信もストップしました。そんな中、わが家にはたまたまジャガイモの買い置きがあったんですよ。ところが、電力会社に勧められてオール電化にしてしまっていたので、台所はIHになっていて使えない。そこで海から薪ストーブを拾ってきて、山から木を持ってきて、火をおこしてジャガイモをゆでたんです。ジャガイモはゆでればすぐに食べられますから。また、震災当日は金曜日でカキの注文が多い日でした。だから、箱にカキをいっぱい入れてパレットに積んで置いておいたんです。そこに津波警報が鳴りましたから、パレットをフォークリフトでうちの庭に運んでおいた。つまり、何千個というカキが庭にあったんです。そんなわけで、震災後しばらくは、毎日毎食、カキとジャガイモを食べ続けました。そのせいか、家族の中の誰一人、病気にはなりませんでした。冬の時期のカキにはグリコーゲンがいっぱい含まれているからでしょう。養老江戸時代に書かれた『医道日用綱目』という『家庭の医学』の江戸版のような書物があります。それにもカキのことが書いてありますよ。畠山入っているんですか。やっぱり。母が「寝汗をかいたら、寒のカキを食え」と言っていたのを思い出しました。カキは薬みたいなものなんですね。自然災害とのつき合い方畠山実は、その母を、今回の津波で失いました。そうしたこともあって、私にとっては大変な経験でしたが、息子や孫たちには、もしかするとこの震災は、貴重な経験だったのかもしれません。一〇〇〇年に一度の災害は、一〇〇〇年に一度しか経験できないわけですから、これだけの災害をくぐり抜けられれば、今後どんなことがあっても大丈夫なような気がします。養老僕自身も終戦後に育ちましたので、今になってみれば、それがずいぶん力になっているように思います。空襲とか食料難といったひどい状態をくぐると、たいていのことは実は何ともないんだということがわかります。畠山今回、感じたのは、命さえあれば、何とかなるということですかね。命をなんとかつないでしのぐこと、命を取り留めることの大切さを感じました。一方で、私もこの辺りの人たちもみんな、震災そのものについては、わりと淡々と受け止めているんですよ。津波はしょうがないと思っている。海を恨むというような感覚はないんです。やっぱり受け入れざるをえない。養老津波とはすごいものだな、と思うしかないですよね。畠山そういう環境の中で、何とか代々生き抜いてきたのでしょうね。よく言われますよ。「なんで、こんな危ないところで暮らすんだ?」って。養老そんなこと言ったら、日本人すべてが引っ越さなくてはならないでしょう。いっそ、オーストラリアに行くべきだということになりますよ。あそこなら、干ばつを除けばほとんど自然災害はありませんから。畠山でも、オーストラリアに行ってカンガルーの肉を食べて暮らすのも味気ないでしょうね。私は今の活動を始めてしばらくするまで、うかつなことに、リアス式海岸という言葉の本当の意味を理解していませんでした。三陸海岸で生まれ育ったにもかかわらず、「リアスとは複雑に入り組んだ湾のこと」と覚えていた程度で、湾はてっきり海の波が削ってできたものだとばかり思っていたんです。「リアス」の「リア」の語源はスペイン語の「リオ(川)」であり、「リアス」とは「潮入り川」という意味です。つまり、この湾はもともと川が削ってできた地形であって、海は後から入ってきたんです。そのことが今回の震災では改めてよくわかりました。津波が川なりに上がっていくんですよ。北上川では波が五〇キロも遡りました。アマゾン川に潮が逆流していくポロロッカのようでした。川の近くに住んでいる限りは、洪水だけでなく、津波にも注意しておかなくてはいけないと気づいた人がきっと多かったはずです。養老ここで暮らすにしても、多少は高い場所に家を建てたほうがいいということはお考えになったでしょう。畠山近くに縄文時代の貝塚がありますが、その辺りには津波は到達していません。やっぱり、昔からそういうことはわかっていたんでしょうか。養老縄文海進といって、当時は今よりも海面が高かったので、あの時代の人たちはかなり高い所に住んでいました。そのため、当時の地形を表した地図を見ると、日本列島はずいぶんやせているんです。東京湾が大きくて、私が暮らす鎌倉はほとんど海でした。縄文海進の理由はよくわかっていないのですが、日本という国は、海面がちょっと上がっただけでも大変なことになります。そのうえ、現代の都市はすべて危ないところに築いてあります。東京も名古屋も大阪もそうです。畠山みんな水辺ですね。養老そうです。だから海面がちょっとでも上がったら、全部アウトです。二〇メートルも上がったら、東京はほとんど

消えるでしょう。大阪にも天井川がずいぶんあります。自動車で走っていると、道路の脇に川の土手があって、地面より上を水が流れているんです。これは危ないと思わないほうがおかしいんですよ。われわれはたまたま生き残っているのだという感覚を、ふつうに暮らしていると、つい忘れてしまいます。最近、自殺が増えているのは、平和な時代があまりにも長く続いてきたからなのかもしれません。自然とのつき合い方について、僕が思うのは、逃げないことの大切さです。人生、何でもそうですけれども、災害が起きても、それに正面から向き合っていれば、だいたい悪いことはないですね。もちろん、津波が襲ってきたときは逃げなくちゃいけないんですけども、起きたことに対しては正面からぶつかるしかないんです。逃げたらろくなことはありません。

川と森がつくってきた歴史養老鋸谷さんの住んでいらっしゃる福井県高浜町には、青葉山というきれいな姿の独立峰があります。実は去年(二〇一一年)、行ってきました。日本はあの辺りが一番開けていなくて、面白いですね。鋸谷福井県から京都府、兵庫県にかけての日本海側、昔の地名で言うと、若狭、丹後、丹波、但馬の辺りは秘境なんですよ。養老天橋立(京都府宮津市)は日本三景の一つだけど、行ったことがある日本人は案外少ないんです。京都の人でもあまり行かないし、東京の人はなおさら行かない。それくらいあの辺りは不便なんです。僕が鋸谷さんと初めてお会いしたのは、僕が委員長を務めている「日本に健全な森をつくり直す委員会」(二〇〇八年七月設立)の会合にお招きしたときでしたか。鋸谷はい。東京の六本木で開かれた会合に呼ばれてうかがいました。養老鋸谷さんが間伐の指導をした高知県大川村を訪ねたこともありました。そのとき、八〇歳ぐらいのおじいさんが、家の裏山に生えている一年生の木を三一種類も抜いておいてくれて、根っこの違いを見せてくれました。御高齢の方が裏山で三〇種類以上の木を抜いてこられるぐらいですから、大川村は元来、木の種類の多いところで、奥の方の自然林に入れば、新緑の頃はまるで万華鏡のような美しさです。しかし、それでも村全体としては、やはりスギ・ヒノキの林が多くなっています。ああいうふうに、自然の山をことごとくスギとヒノキの人工林に変えてしまった人たちの神経というのは、ものすごいものだなと思います。鋸谷しかも、高知県の山はとても急峻なんです。養老県西部は四国カルストで石灰岩質ですしね。あんなゴツゴツした山によくあれだけの木を植えたものだと驚きます。大川村では村長さんが山を案内してくれたんですが、間伐が行われていない人工林では、木がヒョロっと伸びてしまっており、幹の下の方には葉もついていなくて、生きているのが精いっぱいという感じですよね。高知は台風銀座ですから、下手に間伐をすれば、台風で木がすべて倒れてしまう。しかたがないから、放っておかざるをえないという状態でした。鋸谷それで困っていた地元の人に頼まれて、伐るべき木を立ち枯れにする「巻き枯らし間伐」を指導したのを記憶しています。養老そうでしたか。高知県は森林がとても多い県ですが、その八割がスギ・ヒノキの人工林になってしまっています。和歌山県や奈良県の山が人工林になっているのは、歴史的に見ても理解できるんですよ。平安京や平城京に近い場所ですから。奈良の十津川村の辺りでは平安時代にすでに植林が行われていたという記録もあります。鋸谷それは何か災害に見舞われたとか、燃料用に伐り尽くしてしまったといった弊害があったからではないでしょうか。そもそも都を平安京に移したのも、平城京周辺の木を燃料用に伐り尽くしたからでしょう。養老そうだと思います。森林資源が枯渇したから遷都を余儀なくされたんですね。それと、奈良盆地には大きな川がない。だから、琵琶湖・淀川水系の利用を考えて京都に都を移し、一〇〇〇年もたせたんです。日本の歴史は川で動いていると見ていいでしょう。戦国時代になってからは、尾張と美濃を拠点とした織田信長が木曽川・長良川水系をうまく使いましたし、江戸に幕府を開いた徳川家康は利根川水系を使いました。都市も川によって成り立っていますよね。仙台は北上川水系だし、札幌は石狩川水系です。川のない所に大都市はできないんです。鋸谷数十年前までは、材木は川を利用して運んでいましたからね。私の友人に「勇上」という苗字の人がいるのですが、これは川を使って上流から下流へ材木を流す仕事をしていた先祖が殿様から拝領した苗字なんです。福井にも足羽川という川があって、伝統的に林業を営む人たちがいました。山から材木をどう運ぶか養老そう、材木を山からどう運ぶか、というのがなかなか大きな問題で。鋸谷数十年前までは、いわゆる木馬というそりのようなものを引く方法が用いられていましたね。線路のレールのようなものを山中に張り巡らして、枕木を敷いて、伐った木をその木馬に載せて、人が引いて出していたんです。山から出した木は川を使って運びました。水をせき止めておいたところに木を浮かべておいてから、堰を切って、木を一気に流していました。その後、索道という方法が採られるようになりました。ワイヤーの架線を山に張って、どんどん木を出すやり方です。この索道方式は一九七〇年代から八〇年代まで行われましたが、経費がかかるため、近年では、山に簡単な道(作業路)をつけ、クローラー式の運搬機で運び出す方法が採られるようになっています。ただし、この方法で木を出せるのは、道の上三〇メートル、道の下一〇メートルぐらいまでです。そこから外れた場所では採算が合いません。養老つまり作業路の上下四〇メートルの範囲にだけ、植林をしてくれればいいんですよね。鋸谷そうなんです。でも、日本人は根が真面目なせいか、無理して広い範囲から木を出そうとするんですよ。そのうえ、道がつけられないような場所にまで、無理して道をつけようとしている。それには理由もあって、二〇一一年から、間伐材を出さないと国の補助金がつかないという制度が始まったんです。そのため、どこもかしこも道をつけようという動きが出てきています。おそらくここ数年のうちに、あちこちの山が崩れると思います。道をつけるのにも技術が必要なんですが、そういう技

術的な判断ができる人があまりにも少ないことが問題なんです。養老雨期のブータンに行くと、あちこちの幹線道路が崩れている様子を見かけます。あの国ではヒマラヤ山脈の山腹を切って道を通しているんですが、雨期にものすごい雨が降るため、道路がズタズタに寸断されてしまうんです。日本でもそういうことが起きるかもしれないわけですね。「日本には林学がなかった」鋸谷ええ。日本の人工林の現状を考えると、はなはだ心許ないですね。現在、日本の森林の四割は人工林になっており、約一〇〇〇万ヘクタールにスギやヒノキが植えられています。その多くでは、間伐が適切に行われておらず、先ほど養老先生がおっしゃったように、木がヒョロヒョロと細く育ってしまっています。間伐が遅れた森では、木と木の枝葉がぶつかり合ってしまうため、それぞれの木の光合成量が少なくなるうえ、地中の養分の奪い合いが起き、木は太ることができません。木の上部は枝葉で密閉され、林の中は暗くなり、下草も生えません。その状態を「死の森」と表現することもあります。下草が生えない状態は、日本の山のような急峻な地形では、きわめて深刻な問題をはらんでいます。雨が降るたびに森の表土が流出するからです。表土は、長い年月をかけて森林の植物や昆虫や動物や微生物がつくり上げたもので、木が成長するための養分として欠かせないものですが、下草や落ち葉がない場所では、雨が直接地面を叩くため、表土がどんどん流されていきます。日本の人工林をどうするかというのは、切実な問題です。しかしながら、戦後の日本では、大量に木材を採るための間伐の必要性は語られてきましたが、健全な山をつくるということは考えてきませんでした。忘れがたいのは、先ほどの「日本に健全な森をつくり直す委員会」での、林学者の一言ですね。養老先生が「健全な森林、健全な木はどのようなものですか」と質問されたとき、林学界には健全な森林や木に対する定説がなく、林学者の一人が「日本には林学がなかったと言わざるを得ません」とおっしゃいました。養老あれはまさに象徴的な一言でしたね。健全な森とはどのような森か――では、健全な森とはどういうイメージなのでしょうか。鋸谷木は一本だけで生きているわけではありません。他のいろいろな植物や動物や土中の微生物と一緒に生きているんです。菌根菌などはまさに木と共生しているわけですし、それなくしては生きていけない木もたくさんあります。養老たとえば、マツタケもたぶんアカマツにつきものの生物なんでしょう。つまり、マツタケとアカマツは「共生する対のもの」としてとらえるべきなのですが、従来の生物学ではそういう考え方をしてこなかったんです。生物学の根底には、西洋の思想が反映されています。その思想とは、個が先にあり、世界は個の集合であるという考え方です。けれども、本当の生態系はそうなっていないんです。先に生態系があって、それから部分としての生き物が存在している。ダーウィンの『種の起源』に唯一載っている挿絵は、系統樹の絵です。これは一本の幹から生物が枝分かれして進化したことを表しており、西洋発祥の生物学の考え方を象徴的に示すものです。しかし、この考え方では不具合が生まれることがすでにわかっています。生物は枝分かれで進化したのではなく、網の目状につながり合いながら進化したんです。たとえば、生物の細胞の中にあるミトコンドリアは、外から細胞の中に入ってきて棲みついた別の生物です。光合成するときに働く葉緑体も外から細胞の中に入ってきて棲みついたものです。だから、ミドリムシという植物なのか動物なのかわからないけど光合成をする変わった単細胞生物がいる。人間も混成の生き物です。精子にべん毛が生えているでしょう。あれはもともと別の生物で、発疹チフスの病原体が一番近いと言われています。べん毛の根元にはミトコンドリアがついています。つまり精子は三位一体なんですよ。話を戻せば、鋸谷さんの言う健全な森とは、健全につながり合った生態系ということですよね。その中に部分としての木がある。ところが、林業においては、スギの木は一本だけで生きていける生命だと考えてしまったんですね。農業も同じでしょう。一本一本のイネが生命だと考えてしまった。生命についての厳密な定義は誰にもできませんが、むしろ生態系こそ生命だと考えるべきなんでしょうね。鋸谷人工林の間伐は、まさにその健全な生態系を保つために行うことです。だから、他の植生が発生できるようになるまで間伐をやらないのなら、やる意味がないんですよ。枯れた木とか、枯れる寸前の木だけを倒して、間伐したと言い、それに対して補助金が出たりする。これは労力とお金の無駄です。そのあたりのことが、まだまだ林業界の人たちには理解してもらえていません。そうではなく、下草が生えてくるような間伐を行えば、木の合間合間から「中層木」や「下層木」となる広葉樹が生えてきます。この広葉樹の落ち葉は腐葉土になって上層木の養分となり、また上層木を伐採した後の空間を補充してくれます。さらに植物が豊かになれば、昆虫も増えますし、キツネやタヌキなども見られるようになります。天然の針葉樹林がまさにこのような姿になっていますが、こうした生態系を確保してこそ健全な森といえるのではないでしょうか。私が考案した科学的な間伐法も、こうした森を目指しています(写真4-|1)。

健全な森をつくる密度管理――鋸谷さんの間伐法について、改めて説明していただきましょう。鋸谷まず、間伐のあり方を本気で考えるきっかけとなったのは、一九八〇年から八一年(昭和五五年から五六年)にかけての冬に北陸地方を襲った「五六豪雪」でした。このとき、福井県では、越前平野周辺の山の木がすべて折れたと言われるほどの大きな森林被害が出ました。私も県の林業改良指導員として調査に当たりましたが、雪の中に折れた白い木が立っている景色がずっと続いているのを目の当たりにしました。しかし、そうした中に、被害率の少ないスギやヒノキがあったんです。木の高さを太さで割った比率を形状比と言うのですが、この形状比が七〇より小さい木、つまり幹が太い「ずんぐり型」の木は、大雪害にもかかわらず、被害が少なかったのです。さらに、形状比七〇以下のスギやヒノキはどういう木なのかを調べていくと、枝のついている部分の長さ(樹冠長率)が五〇%以上確保されていました。そういう木は光合成量が多く、そのため根もしっかり張っており、バランスのよい育ち方をしていたんです。また、こうした木がそろっている林では、下草も豊かでした。下層植生が豊かな森には、土壌生物や微生物が多く棲み、土に養分が供給されます。雨による表土の流出も防げます。では、そういう森をどうやって育てればいいのか。先ほども申しましたが、人工林では、間伐を怠ると、四方の枝が触れ合い、木々の成長が阻まれます。森の木をすべて集めて胸の高さで伐って断面積を合計した値を、胸高断面積合計と言いますが、スギやヒノキの場合は、胸高断面積合計が一ヘクタール当たり一〇〇平方メートルに近づくと、木の成長は止まり、枝が枯れ下がり、不健全な森になっていきます。ということは、この「一ヘクタール当たりの胸高断面積合計」という数値を目安にして、一ヘクタール当たりの木の本数を管理していけばいいというのが、私の密度管理の基本的な考え方です。もっとも、胸高断面積合計が一〇〇平方メートルというのは、込み合いの限界値であり、私の調査だと、スギ・ヒノキの人工林では胸高断面積合計が五〇平方メートル以下のときに樹冠長率五〇%が実現します。この五〇平方メートルを上限とし、間伐を繰り返して密度管理していけば、風雪に強い健全な山づくりができるんです。ただし、あまり疎に伐りすぎると、成長の速い中層木が旺盛に育ちすぎ、上層木となるスギ・ヒノキを脅かしてしまうため、胸高断面積合計が三〇~三五平方メートルを下回らないように気をつけなくてはなりません。あるとき、この間伐法について果樹農家の人に話しました。「果樹園は、果樹の幹断面の何倍の広さがあれば、果樹の最適生産ができるのですか」と聞いたのですが、その人は一五分ぐらい頭の中で計算して「二〇〇倍です」と答えをポンと出したんです。スギやヒノキの胸高断面積合計が一ヘクタール当たり五〇平方メートルになるように木を育てた場合が、その二〇〇倍と同じですから、私の計算とぴったり一致します。考えてみれば、これは当然のことで、果樹農家さんは、健康に育っていく木の太さをイメージし、あらかじめちょうどいい間隔になるように植えているんです。だから、幹の太さの断面の二〇〇倍ぐらいの農地が果樹園には必要だということが、計算すればすぐにわかるんです。養老茶畑もそうなっているのではありませんか。お茶の木はわざわざ小さく育てていますから、たぶん同じようなことが成り立っているのではないかと思います。鋸谷きっとそうだと思います。人はもともと自然を見る目をもっている

鋸谷こうした密度管理についての考え方は、これまで林業界にはなかったものでした。果樹農家の人に聞いた質問を林業界の人にしても、答えはまず返ってきません。大学の先生からも返ってきません。養老森は数値的に密度管理するものではないと思い込んでいるんでしょうね。鋸谷わかっておられるのは、京都大学の竹内典之先生(名誉教授)ぐらいでしょう。養老先生に「日本には林学がなかったと言わざるを得ません」とおっしゃった先生ですね。教え子の方が私のところに二年ほど来ていましたから、竹内先生は数値的な密度管理についてよく理解してくださっています。もっとも、最近、私は数値をあまり言わないようにしているんです。間伐後の最適密度について、平均的な太さの木を基準に一定面積に何本残せばいいかを早見表にしているのですが、平均的な太さの木を選べない人がかなり多く、同じ林の中で最も太い木を基準にする人や、かなり細い木を基準にする人がいて、間伐後の適性本数になっていないことがよくあるのです。ですから、間伐の仕方を指導する講習会に呼ばれたときは、林業家の方に「この山では将来性のある木で、あなたが残したいと思う木だけに印をつけてください」とだけ言います。そうやって印をつけてもらってから、私がいつも持っている四メートルの釣り竿を使って、半径四メートルの円の中にそういう木が何本生えているかを数えると、適正な本数プラスマイナス一本の範囲内に収まります。これはどういうことかというと、人間の生き物としての感覚、この木は好きか嫌いかという感覚をもって森を見れば、自ずと木々の適正な密度がわかるということです。養老それはすごく面白いご指摘ですね。虫の分類をするとき、よく似た種類の虫の区別がつきにくいことがあるんです。たとえば、だいたい四角い形をした虫がいて、その四角が、正方形なのか長方形なのか、そのギリギリの違いは、目で見てもなかなかわからないんです。どのくらいまでの違いなら目で見てわかるかと言うと、一割までです。縦より横が一割長ければ、長方形だとわかる。それより違いが小さければ、正方形なのか長方形なのか、区別がつきません。じゃあ、目で見てわからない違いが、機械で丁寧に測定すればわかるかと言うと、そういうことでもなくて、目で見てわからないものは、測ってもわからないんです。つまり、一割以下の違いで虫を分類することはできないんですね。ジャレド・ダイアモンドというアメリカの生物学者がいます。この人はニューギニアで鳥の研究をしたことでも知られているのですが、現地で専門家としてゴクラクチョウを分類する調査をした後、ニューギニアの人たちから話を聞いてみたところ、彼らも自分とまったく同じ分類をしていたのでびっくりしたと言っています。考えてみたら、それも当たり前の話で、人はもともと自然を見る目をもっているんです。でなければ、太古の人類は生きていけなかったはずで、この果実は食べられるけど、これは食べられない、というふうに種の違いを判断する能力を人類はもっていたからこそ、滅びずに生き残ってきたんです。現代人にだって同じことはできると思いますよ。自然界をよく見れば。鋸谷木に将来性があるかないかは、だいたい誰でも見分けがつきます。素人が選んでも、プロが選んでも、答えはほぼ一緒なんです。むしろ、生半可な知識がある人のほうが間違えます。「年輪が込んでいる木はいい」といった余分な知識が邪魔するからでしょう。だから、講習会では「みなさんの生き物としての感覚で、残す木を選んでください」と言うようにしています。養老都会生活をしていると、生き物としての感覚を忘れてしまいますからね。だから、僕は、もっと外へ出て歩こうと言い続けているんですが。鋸谷林学の研究者たちも、書物に書いてあることを学生に教え込むばかりで、現場のモノを見て判断するということをやっていません。養老それは教育の大弊害ですよ。昔は、モノを見て判断している人間を学校に集めて教育していたからよかったのだけれど、今はモノを見ていない人間を学校に集めているから、教育をすると、かえってよくないんですね。僕は逆にすべきだとよく思うんです。今はインターネットもあるし、知識は学校以外の場でもいくらでも吸収できるのだから、学校では現物に触れさせたほうがいい。それが学校教育の意味なのだというふうに、頭を切り替えるべきなんです。それと、先日、教育に関するシンポジウムに呼ばれたのですが、僕は冒頭に「教育のシンポジウムなんてやったってしょうがない。この場に呼ばれてしゃべっているパネラーは、みんな独学をやってきた人たちでしょう」と言いました。学問とは本来は独学です。学校に行けば、学ぶ時間は短縮できますが、本当にものになるかどうかは本人次第です。日本では教育制度が整備されているだけに、そういう考え方がなさすぎるんですよね。学生には、自分で学ばなければ身につかないのだということを教えなくてはいけないんですが。日本は教育制度が行き届いているだけに、その考え方がない。自分でやらなきゃダメなんだよっていうことを、どこかで教えなきゃいけない。昔はそれを態度ということで教えていました。今は先生も態度という言葉を誤解していて、「態度が悪い」というともっぱら行儀が悪いという意味になっていますが、本当は、「学ぶ態度がない」ということなんです。学ぶ態度っていうのは、見ていればわかるんですよ、教師が。必要なのはそれだけで。鋸谷勉強は、嫌いな人でも必要に迫られれば身につきますしね。私は勉強はあまりできなかったのですが、必要なことは勉強しましたし、理解できるようになりました。不思議なものです。養老勉強が嫌いな人ほど、独学に向いているんですよ。伐らずに枯らす間伐法鋸谷密度管理の手法とともに、私は木を伐らずに枯らせる間伐法「巻き枯らし間伐」も開発しました。

先ほどもお話ししたように、今の日本には、幹の細いスギ・ヒノキがびっしり並び、「死の森」と化した人工林が多くあります。こうした林で、木を多く伐る間伐をすると、風雪時に、残した木が、開いた空間に向かってなぎ倒されるおそれがあります。かといって、間伐をしなければ、さらに木々の形状比が悪化し、それでまた風雪害を受けやすくなります。言ってみれば、お手上げの状態であり、実際、多くの人工林はそういう状態のまま放置されています。巻き枯らし間伐は、そんな状態の人工林を回復させるための方法です。間伐の対象となる木を伐り倒さずに、立ち枯れにします。具体的には、幹に切り込みをぐるりと入れて木の形成層を切断したり、樹皮を剥いで形成層をむき出しにしたりして、成長を断ち切り、対象木を枯らすんです。立ち枯れになった木の枝張りは萎縮します。そうすると周囲の空間が広がり、残った木はその開いた空間に徐々に枝張りを広げていき、葉の量を増やし、光合成を旺盛にして幹を太らせます。その間、立ち枯れの木の水分は抜けていきますが、木そのものは風雪にさらされても立ったままで、周囲の木をガードする支柱の役割を果たします。巻き枯らしにした後、一〇年を過ぎる頃から自然に倒れますが、その頃には、残した木の形状比が回復し、しっかり成長しています。これが巻き枯らし間伐の原理です。枯らした木はただ腐るのではなく、最後は朽ち果てて養分になりますから、生態系の回復にも役立ちます。従来のスギやヒノキの人工林は、畑でのダイコンづくりと同じ発想で管理されてきました。畑でダイコンを栽培する場合、雑草を丁寧にとり、種を播き、ダイコンが芽を出して太ってきたら、少しずつ間引いて、形のそろったものを育てます。畑には肥料を施し、定期的に水もやります。一方人工林は、苗木を植え、下刈りや除伐を行い、木が生長してきたら、間伐して密度を調整し、場合によっては肥料も施して、太くて長さのそろった木を伐り出す。人工林は「木の畑」のように管理されてきたんです。特に戦後になって各地にできた人工林では、単位面積当たりに多くのスギやヒノキを植えたため、一層細やかな密度管理が必要となりました。間伐は五年に一回というこまめなスパンで繰り返され、五〇年前後で伐採して再造林するというやり方が採られてきました。しかし、五年に一回の間伐だと、本数率で一〇~二〇%しか伐りませんので、現在のように過密になりすぎた人工林ではもはや効果はありません。中層・下層の植生を回復させるという観点から言えば、効果はゼロに近いでしょう。数年でまた元の暗い森に戻ってしまいます。これでは何のための間伐かわからず、山主は徒労を感じるばかりです。そんな状態がずっと続き、林業関係者はお互いに、何とかなる、何とかなると言い合いながら、逃げてきたんです。私のやり方では、間伐が手遅れになった人工林では、本数率で五〇%程度を伐ります。ここまでしないと効果は上がりませんし、こうすれば、次の間伐まで一〇年はそのまま放っておいても大丈夫だからです。そして、間伐材は無理して搬出せずに伐り置きにします。手間をかけて搬出してもたいしたもうけにならないような間伐材を搬出する必要はありませんし、伐り置きにするのであれば、倒したい方向に伐れるので、作業の効率も安全性も高まります。伐り置きした間伐材は、自然に土留め効果をもたらし、下層植生の回復に役立ちますし、シカやカモシカなどの野生動物の侵入を防ぐ柵にもなります。山に人間はいらない養老鋸谷式の間伐法は、怠け者に向いたやり方なんですよね。鋸谷そうです。自然の力を借りればいいわけです。日本の林業は、人間が無理にコントロールしようとした結果、無駄な労力とお金を投資してきました。田んぼや畑と同じように、手をかければかけるほどよくなるという考え方でやってきました。しかし、森は田んぼや畑とは違います。人工林でも、一五年とか二〇年に一回の間伐で十分にやっていけるんです。また、戦後の植林で、スギやヒノキの人工林が日本の森林全体の四割を占めるまでになったのは、スギ・ヒノキの日本の山に対する適応性が強いことの表れでもあります。適応性が強いということは、そこで生きていくのに何の不自由もないということです。だったら、自然に合うように育てて、いい木だけを残せばいいわけなんです。養老その意味では、増えたのがスギやヒノキだったのはまだよかったのかもしれませんね。いずれも日本の固有種ですから。これが外来種だったら、事態はまた違っていたかもしれません。インドのダージリンに行くと、立派なスギ林があるんですよ。たぶん、イギリス人が持っていって植えたんでしょう。イギリス人はああいうことが大好きで、至るところへあらゆる種類の植物を持っていきます。サンディエゴなどアメリカ西海岸はユーカリだらけです。あれはオーストラリアから持っていったんです。日本人の観光客は現地の木だと思っているかもしれませんが、ああいう木がアメリカに生えているわけがありません。鋸谷温暖で湿潤な日本は、もともと動植物の種類が豊富で、森の生命力が豊かな国です。だから、人工林でも、正しく間伐を行えば、森の空気が一変します。光が入るようになるだけで、下草が生え、広葉樹が生えてきます。そして森の植生の豊かさが増してくるにしたがって昆虫や動物が寄ってきます。そのようにして、人工林で樹齢八〇年以上、胸高直径六〇センチ以上の大きな木を育てることが私のやり方の最終目標です。日本の林業では、これまでは五〇年とか四〇年で伐採することが奨励されてきたため、大径木(直径の長い木)を育てる技術はあまり普及していませんでしたが、最初から大径木を育てることを目標にしておけば、健全な山がつくれるだけでなく、育林コストも下がります。本質的な話をすると、山という場所に、人間は必要ないんです。山と川と海に人間はいらない。なぜなら、自然がそれらをつくってくれているからです。そこへ私たちは関与しなければならないわけですが、関与する以上は、自然のシステムを壊さない範囲で関与するしかありません。自然の生産力を阻害しない程度に木をいただくという考え方をもたなくて

はなりません。よく「雑木」といいますが、その場で必要な木だから自然に生えてくるんです。山の言葉で「トチを伐るバカ、植えるバカ」というものがあります。昔は非常時に備えて栃の実がなるトチを大切に管理してきました。しかしトチはどこにでも育つわけではない。自然に生えたものを切らないで育てるのが一番なんです。無理に植えてもしかたがないんですよ。なぜ昔の林業はもうかったのか養老自然に生えたものといっても、今の都会の人は、人工林と、本来の森の姿を保っている自然林の区別がつきませんからね。人工林のど真ん中に立って、「ああ、自然は素晴らしい」って言ったりする。鋸谷林業家の人の中にもそういう人はいますよ。十数年前、東京の奥多摩・西多摩で頻繁に間伐の講習会を開いていたのですが、参加者のある有名な林業家は、自分の名刺に、真っ暗で下草も生えていない人工林の写真を入れていて、「これが私の山です」と誇らしげでした。確かに、そういう人工林を持っていることが自慢できる時代も過去にはあったのですが。養老戦後の復興特需の時代ですね。今の人はそれを忘れている。鋸谷もともと林業は、経済的に成り立ちにくい産業です。昔から林業が盛んだったのは、いわゆる有名林業地、つまり材木の大消費地が近くにある限られた地域だけでした。京都の北山とか、奈良の吉野、和歌山県などがその代表格です。そういった有名林業地は、強い風が吹かない、雪の害が少ないといった自然条件がそろっていたんです。林業のために選ばれたエリアだったからこそ、林業が成り立ったんです。ところが、戦後の特需のときに、日本全国で木を植えました。みんな、もうかるはずだと考えて、スギ・ヒノキの人工林をどんどんつくっていきました。養老住宅が決定的に不足していたからですよね。何しろ外地からの引揚者が三二〇万人、兵隊にとられていて復員してきた人もほぼ同数いました。その人たちが住む家が必要となり、しかも、日本国内はがれきの山でした。家を建てるためには、どんどん木を伐るしかなかった。鋸谷昭和二〇年代の後半から三〇年代の初めにかけては、大型の台風も次々にやってきて、これも木材の特需を生み出しました。そのため、日本中の山から木材を供給しなくてはならなくなり、単位面積当たりの蓄積量を大きくするという林業が一般的となりました。こうした林業の前提となっていたのは、植林して五〇年経ったら伐るという考え方です。その五〇年が今はもう過ぎてしまったわけですよ。だから、当時の考え方からすれば、現時点で残っている人工林はいったんすべて伐り、山を裸にしなくてはならないんです。ところが実際には、木を切って売りに出しても高く売れないし、再度、植林する経費も捻出できないということで、林業関係者は途方に暮れている状態です。しかし、林業は特殊な産業で、農業と違って収穫期を延ばせます。農産物は実ったらすぐに収穫しなくてはなりませんが、木は五〇年でも一〇〇年でも収穫期を先延ばしできるんです。そういうふうに考え方を変えなくてはいけないんですが。養老伊勢神宮の心柱にしようと思ったら、樹齢二〇〇年の木を育てる必要がありますからね。亡くなった作家の立松和平さんも「樹齢四〇〇年の巨木を育てる」という活動を計画していました。鋸谷四〇〇年生きられる木は、人間にたとえれば、一〇〇歳まで生きるような長寿の人に当たりますね。養老江戸時代には「御留林」という伐採を禁じた山があったでしょう。函南町(静岡県)に一つあったことは知っているんですけど。鋸谷木曽にもありました。それと、福井県と岐阜県の県境に半原杉という天然林がかつてありました。ここは、一〇〇〇年昔から、胸高直径(地上一・二メートルの高さでの幹の直径)が七寸(約二一センチ)以上になった木だけを伐るということをずっと繰り返してきた森でした。そうすると、二〇~三〇年に一度伐るというサイクルになります。私が初めて半原杉の林に行ったのは四〇年ほど前でしたけれども、それはもう見事な天然林でした。福井県側には、それほどの大径木はなく、せいぜいひと抱えぐらいのものでしたが、岐阜県側では御料林だったので、大径木がありました。ああいう森では、ブナとスギは恋人同士のように共生します。新緑の季節に行って見ると、ブナ林のように見えるんです。ところが、冬に行くと、ブナは葉を落としますから、スギ林のように見える。あれほど顕著に表情を変える山はありませんでした。しかし、そういう管理ノウハウは、戦後の乱伐期になくなりました。半原杉も、有名なスーパーが投資目的で買い占めたり、いつの間にかブローカーが入ってきたりして、三〇〇ヘクタールあったブナとスギの混交林も裸になってしまいました。やはり経済優先で山を見ると、取り返しのつかないことになりますね。もともと山はもうからないわけで、林業はもうかるところだけでやっていればいいんですけど、どこもかしこもがやろうとした結果、われわれが祖先から受け継いでいくべきだった遺産が失われてしまったんです。戦後の林業には技術がなかった鋸谷戦後、これだけたくさんの人工林ができたのは、林業は誰にでもできる仕事だと見られてきたからでもあります。とにかくスギ・ヒノキをたくさん植えて、五〇年経ったら伐る、という考え方だけでやってきた。五〇年伐期の林は技術や知識を必要としなかったんです。山に木を植えると、周りに草が生えます。そうすると、下刈りを行わなくてはなりません。雪が多く降る所では、木が倒れますから、雪起こしをやります。それから、ある程度、木が大きくなると、除伐と言って、周りに生えてくる広葉樹

を伐ります。これらはいずれも技術は必要ありません。素人でもできる作業です。一方、枝打ち(注)や間伐は技術や知識がなければできません。枝打ちでは、木の幹がどの太さのとき、枝のどの位置で伐るのかがとても重要で、一カ所間違えて枝打ちをしただけで、木材は台無しになってしまいます。間伐も密度管理に関する技術や知識が欠かせません。こういった技術や知識は、先ほど挙げたような有名林業地では連綿と受け継がれていたのですが、門外不出で外には出しませんでした。自分たちだけがもっているノウハウを外に出してしまったら、自分たちの木材産地としての存在意義がなくなりますから、それは当然だったのかもしれません。他方、戦後になって後発で出てきた林業地では、技術や知識をまったくもたないまま、ひたすらスギやヒノキを植えるだけの林業をやってきました。その結果、今のような手がつけられない人工林があちこちにできてしまったわけです。養老戦後はまず食料難があり、地方の人たちは山奥まで開墾して田畑をつくりましたよね。食料難が解消されると、そういう田畑にまでスギを植えてスギ林にしてしまいました。鋸谷それで間違いなくもうかった時代もあったんです。養老そうですよね。一九七〇年頃までは、国産の材木は国際価格の三倍の値段だったんですから。だから、アメリカに押されて関税が撤廃された。おそらく、あの時代が日本の林業のピークだったんでしょうね。今でも林業家の中には、あの時代のことを懐かしがっている人がたくさんいます。そういう人が生きているうちは、日本の林業はダメだと僕は言っているんだけど。たとえば、日吉町森林組合(京都府南丹市)の湯浅勲さんなんかは、あの時代のことを知らないでゼロから林業を始めているでしょう。昔の記憶がないから、今の状況でどうやったらもうけられるかということを考えている。そういう姿勢はとても健全だと思います。山を個人に任せていいのか養老ですが一般の山林所有者となると、そもそも自分が山林を所有しているかどうかさえ知らない人もかなりいるでしょう。鋸谷山を相続した人の中には、役所から課税明細が送られてきて初めて、「ああ、うちには山があるんだ」と気づく人もいるぐらいです。ですから、地域の森林組合にもっとしっかりと機能してほしいところなんですが、森林組合もまたいろいろと問題を抱えています。旧態依然のやり方で、ああやれ、こうやれと言うばかりで、肝心の技術を持ち合わせていません。まともな森林組合は全国で数%しかないでしょう。養老多くの森林組合は「税金の消化機関」になってしまっている感はありますね。鋸谷農協が農家を食い物にしているのと同じように、森林組合は林家を食い物にしています。養老日本中になぜ森林組合がたくさんあるのかというと、現場の事情がそれぞれ違うからでしょう。それを一般的なルールで縛ろうとするのが間違いの始まりで、そういうことをする組織は腐っていくんです。本当の問題は、森をどうするかということなんですが、そのことになかなか気づかない。もちろん、中にはわかっている人もいるんだけれども、「自分のせいじゃない」と思ってしまう。鋸谷そうなると、責任逃れの仕事しかしなくなりますね。養老そういう人を育ててしまうシステムなんです。結局、森をどのくらい大事にするかということは、庭をどれくらい大事にするかということと同じだと僕は思っています。オーストラリアで一軒家を借りたことがありますが、契約のとき、向こうの不動産屋さんに「庭の手入れは自分でやりますか。それとも家主にやってもらいますか」と聞かれました。そういうことが契約条項の中に入っていて、庭の手入れが悪いと近所から苦情が寄せられるんです。ドイツもそうで、庭の手入れが悪いと、近所の人が警察に通報します。鋸谷私は、日本は土地に対する個人の所有権が強すぎるんじゃないかと思っているんですが。養老土地は公共のものだという観念が薄いんです。所有権は認めてもいいんだけれども、公共のためには制限されなければならないときもある。先ほど、鋸谷さんは作業路の話をされました。今、山に作業路を通そうにも、土地の所有者の所在がわからなくて通せないということが問題になっていますよね。それが理由で間伐が一向に進まないケースもあります。そういう場合は、自治体が融通をきかせて先に道を通し、後で所有者を見つけて承諾をとればいいようにすればいいんです。鋸谷健全な森を守るためには、もう個人の所有者に任せてはいられないといった意見も出てきています。というのも、農地の場合はまがりなりにも農業委員会が管理していますが、山の場合はそうではないんですよね。所有権は自由に動かせます。公共の目的のために伐採や開発を制限する保安林の制度もありますが、指定の境界が曖昧になっているところがたくさんあります。養老だから、外国資本に山が買われるという問題が起きているんですよね。鋸谷マスコミは、外国資本は水源を目当てに日本の山を買っていると言っていますが、彼らの目的は水源に限らないと私は見ています。なぜなら、山には使用制限がなくて、一万平方メートル(一ヘクタール)未満であれば、持ち主は何をしてもいいんです。買った人は自由にできます。地域によっては、一万平方メートル以上を買う場合は、行政への届け出が必要になりますが、それも届け出ればいいだけの話です。このことは外国人にはとても魅力的に映るはずです。九九九九平方メートルまでであれば、木を伐ろうと、井戸を掘ろうと、やりたい放題なわけです。

今年三月に鎌倉の円覚寺に寄らせてもらいました。あそこのお坊さんは「寺の周りの山を買いたい」とおっしゃっています。個人に山を持たせていたら、周りの環境が変わってしまい、お寺の雰囲気が損なわれるからだそうです。いい考え方だなと思うんですが。養老もともと都市近郊の自然は、そうやって寺社が維持してきた側面がありますね。奈良の春日山もそうだし、東京の高尾山もそうでしょう。鋸谷広葉樹林であれば、そうやって寺社などに所有してもらって、そのまま放っておけば、自然といい山になりますよ。養老公共性ということで言うと、僕は山のゴミも気になっているんです。山の中の道路の脇に自動車を止められるようになっているスペースがあるでしょう。そういうところを通りかかったとき、僕は必ず車を降りて周囲を見るようにしているんですが、付近はゴミ溜めのようになっていますよね。古くなった電気製品や家具が放り込んであったりします。「ゴミを捨てるな」という看板も立っているんですが、これがまた美観を損ねる。鋸谷県で働いていたとき、よくパトロールをしました。実は、たいてい地元の人がゴミを山に捨てているんです。だから、ゴミを見れば、誰が捨てたのかもおおよそわかるんですが、なぜか捨てるんですよね。日本の森林は外材輸入で守られている鋸谷やはり日本の山林の所有形態は特殊な様相を呈していると思いますが、林業そのものも、きわめて特殊な産業です。まず、林業は金利計算が成り立たない産業です。ふつうの産業では、いくら投資すれば、いくら回収できるといった見込みを立てますが、林業の経営は一〇〇年のスパンで見なくてはならないため、投資したお金が回収できるかどうかわからないんです。日本はかつて、明治維新で一度ご破算になり、戦争でまたご破算になりました。このように、一〇〇年に一度は転換期が訪れるわけで、一〇〇年分の金利を計算したところで意味がないのです。昭和四〇年ぐらいから、分収造林という取り組みが全国で大々的に行われました。これは自治体や公社が山の所有者から土地を借りてスギやヒノキを植え、木が育ったら売って利益を得て、所有者と分け合う制度です。けれども、成功例は一つもありません。金利計算が成り立たないにもかかわらず、こういう制度をつくってしまったものだから、結局、行き詰まり、各地で問題になっています。その一方で、林業は、在庫があればあるほど健全経営になるという特異な産業でもあります。ふつうの会社なら、在庫は抱えてはならないものですが、林業では、将来商品になる大径木が山にたくさんあるほど、経営的にはよい状態なんです。もちろん、そのためには適正な間伐が欠かせませんが、よい商品がそろってさえいれば、山に生やしておけば、いつか売れるときが来ます。養老きちんと森をつくる仕事をしていれば、もうけは後から来るということなんでしょうね。鋸谷林業界では、一九六四年の木材輸入の完全自由化によって、日本の林業はダメになったと言われ続けています。けれども、それは言い訳にすぎません。外材輸入がなければ、日本の山はことごとく裸になっていたでしょう。養老あの当時すでに過伐でしたからね。伐りすぎの結果として国産材に高値がつき、供給できる資源がなくなりかけていたんです。鋸谷そもそも、戦後になって植えた国産材だけで家を建てようとしても、建つはずがないんです。大径木が少ない国産材からは小さな柱材しかとれません。家を建てるためには、太い梁・桁材を大量に必要とします。そのためのベイマツなどの外材が輸入されたおかげで、国産の柱材も併せて売れるようになり、日本の林業は成り立っていたんです。国産材と外材は共存共栄だったんですよ。にもかかわらず、外材輸入によって自分たちは追い詰められたと林業界は言い、弱者のふりをし続けてきたんです。それから、外材に価格で勝てないから、日本の林業は産業として成り立たないというのも、まったくのうそです。ここ一〇年ぐらいで、国産材の値段はかつての三分の一にまで下がっており、今や国際価格と同じになりました。それだけ安くなったら、よけいコスト面で見合わないから、山から材を切り出せないと考える人がいるかもしれませんが、事実は違うんですよ。安くなった途端にどんどん材が市場に出るようになったんです。なぜかと言うと、買う人がいるからです。合板や集成材の業界が国産材をどんどん買って使っています。集成材とは、かまぼこの板のように小さく切った板材を糊でくっつけてつくる材のことです。養老スウェーデンでは集成材だけで八階建てのビルを建てています。どうして北欧で集成材の利用が進んでいるのかというと、一つには、林業が盛んだからですが、集成材の断熱性の高さが認められているからでもあります。集成材は寒冷地の家に向いているし、火事にも強いんです。向こうの実験の映像を見ましたが、集成材でつくった家の部屋に火をつけて焼くと、火が噴き出すまでに一時間半かかります。そのとき隣の部屋はまだ常温なんです。鋸谷集成材を利用した大型の建物の火災実験は、国内でもようやく行われるようになりました。養老集成材で家が建てられるようになれば、間伐材の用途も広がりますね。そういう意味でも、僕は日本の林業には可能性があると思っています。これからはバイオマスの使用も進んでいくでしょうから、国産材の用途はもっと拡大していくでしょう。鋸谷ただし、どこもかしこも伐ってしまうようになると困ります。伐ってもいいところと、そうでないところを分けて伐らなくてはいけません。とかく日本人は、一つの方向に突き進んでしまう傾向があります。集成材がいいと言われると、集成材だけに突き進みかねません。養老まさにそこなんです。ちゃんとしたルールを今のうちにつくっておくことが大事です。

日本の自然林は一〇〇〇年ぶりに豊かさを取り戻した鋸谷日本で集成材の業界が伸びてきたのは、実は外材の輸入がしにくくなったからでもありますよね。近年は、ロシアもアメリカもあまり木材を輸出したがらなくなりましたから。養老アメリカなんて、日本が木材の関税を撤廃して間もなく、マツ材の保護を始めたくらいですよ。鋸谷ドイツにしても、山はすべて人工林になっていますしね。養老だからこそ、彼らは木材に対して強い思い入れをもっているのでしょう。僕が高校生だった頃の世界史の教科書には、「ヨーロッパにおける森林の後退」という地図が載っていました。昔のヨーロッパは森林が広がっていて、アルプス山脈より北はほぼすべて森でした。今、僕たちが見ているヨーロッパの風景は「森の跡」です。最初に森がなくなったのが島国のイギリスで、それで石炭を燃料として使うようになり、産業革命が起きました。では、戦後の日本はどうだったかというと、外材輸入によって暗黙のうちに国内の森林を保護してきたんですよ。日本の木材需要はすごく大きいにもかかわらず、木材自給率は二七%にすぎず、七割を海外からの輸入でまかなっているんですから。外国人の中には「世界の森を荒らしているのは日本人だ」と言う人もいます。鋸谷まさにそうです。「日本の山は荒れている」とよく言われますが、事実は逆です。日本の自然林に関して言えば、一〇〇〇年ぶりぐらいに緑の豊かさを取り戻した状態になっています。植生的にも復活しています。養老だから、シカが増えているんですよ。鋸谷昔の日本では燃料として山の木を伐っていましたから、里山の多くは裸山でした。神戸市の六甲山などはその最たるもので、あらかた木を伐ってしまって、種子すら飛んでこないような状態でした。養老昔の写真を見ると、よくわかりますよね。今は新幹線の新神戸駅のホームまで枝が伸びてきていますが、以前の六甲山はひどいはげ山でした。鎌倉も、僕が育った頃はマツが一番多かったけど、そこへ松枯れ病が入って、一時、太いマツはほとんどなくなりました。鎌倉の森がこんなに豊かになったのは戦後になってからですよ。子どもの頃はもっとスカスカでした。鋸谷観光地のお城に行くと、よく明治時代の写真が展示されています。それらを見ると、お城の周りにはほとんど木が生えていないことがわかります。遠景に映っている山々にもほとんど木が生えていません。当時は、それぐらい燃料用に木を伐っていたんです。養老今の人たちは信じられないかもしれないけど、その通りですよね。鋸谷それが今のように復活したのは、経済力のおかげなんです。グーグルマップの写真を見ると、よくわかりますよ。北朝鮮の山は裸山です。韓国の山には二〇年生から三〇年生の木が生えています。日本の山には五〇年生、六〇年生の木。このことは、それぞれの国が経済発展を遂げて何年経ったかということを表しています。経済力と山の木の多さは比例するんです。私が県に就職した頃、韓国に視察に行った先輩たちも、「韓国の山には木がまったくない」と言っていました。日本とそんなに気候風土が違うのかなと思ったのですが、そうではないんですね。伐り尽くしていたんです。養老逆に緑が残っているのはロシアの沿海州でしょう。あそこは人が入っていないから、森が残っています。旧満州も同じで、大興安嶺の辺りは完全な森林地帯でした。今は中国も木材の輸出制限をしているぐらいだから、かなり伐ってしまっているんでしょうが。林業は採算が合う鋸谷林業の現場で働いている人は、しばしば、林業は採算が合わない、経済的に成り立たないと言います。しかし、私はこれも違うと思っています。私は県庁をやめてから、「森と木の研究所」を設立し、社員を雇用して林業現場の仕事に当たっています。社員には、公務員の給与に相当する額を払っています。それでも採算は十分に合います。作業効率を高め、正しく無駄のない仕事をすれば、経営はちゃんと成り立ちます。私たちは今、間伐して木材を出す仕事を中心にやっていますが、下刈り、雪起こし、枝打ちなどの作業でも効率化は図れます。一五年ほど前、ある地域の森林組合で、一〇人の作業員に指導をしたことがありました。その人たちは、森林組合の作業員としてはかなりのエリートで、年収は平均五〇〇万円でした。しかし、指導を通じて、私はもっと作業を効率化できると感じ、私流のやり方に変えてもらいました。すると、一年で彼らの平均年収は一〇〇万円上がりました。二年目も一〇〇万円上がり、三年目もまた一〇〇万円上がりました。三年で年収が八〇〇万円になったんです。見方を変えれば、これは、林業の現場ではいかに効率の悪い作業をしているかということの表れです。もちろん、私は手抜き仕事をするように勧めたわけではありません。以前よりも仕事の質を格段に上げつつ、効率性を高めたんです。私のやり方では、まず年の初めに作業計画をすべて立てます。その中では、たとえば同じ山でも、南斜面だけは冬場の仕事に回すといった工夫をしていきます。南斜面は冬場でも直射日光が当たるので暖かく、木に登って枝打ちすることも可能だからです。そういう具体的なちょっとした工夫で作業効率は大幅にアップします。そうすると、作業員の人たちの年収も増えるんです。現にその一〇人のうち三人が家を建てました。養老これまではそういう発想がなく、林業の作業現場では機械も十分に使いこなせていなかったんでしょうね。それこそ、さっきおっしゃったグーグルマップのような最先端の技術を使いこなせばいいんですよ。グーグルマップを使えば基本的に一本一本わかりますからね。鋸谷グーグルマップを使えば施業の境界管理もきちんとできるようになります。長野市森林組合なんかはコンピュータで管理していますね。

養老そんなふうに、今までのやり方に漫然と従うのではなく、現場で本気で考えれば、林業はさらに合理化されていくのだろうと思います。

(注)枝打ち……枝がついている部分を製材すると「節」となって表れる。「節」は木材の引っ張り強度を下げ、美観も損なう。さらに枝が腐って節穴となると「死節」となり、さらに疎まれる。無節の良材をつくるため、枝を落とすことを「枝打ち」という。

著者紹介養老孟司[ようろう・たけし]1937年、鎌倉市生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。95年、東京大学医学部教授を退官し、同大学名誉教授に。89年、『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞を受賞。著書に、『唯脳論』(青土社、ちくま学芸文庫)、『バカの壁』(新潮新書)、『読まない力』『本質を見抜く力――環境・食料・エネルギー』(竹村公太郎との共著)(以上、PHP新書)、『環境を知るとはどういうことか』(岸由二との共著、PHPサイエンス・ワールド新書)など多数。

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