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chapter1「他人の時間」を生きてはいけない

はじめに

ぼくにとってお金より大切なもの「時は金なり」ということわざがある。ぼくに言わせれば、こんなバカな考え方はない。この言葉は、時間とお金を「同等に価値があるもの」だとしているからだ。

人間にとって、何より尊いのは「時間」である。お金など比べものにならない。

ぼくにとって、時間ほどかけがえのないものはない。

これまでぼくがいろいろなところで語ってきたことを振り返れば、そんなことはとっくに伝わっていると思っていたが、どうやらそうでもないらしい。

かつて「拝金主義の権化」のように見られていたぼくが、「お金よりも大切なものがある」と言うと、いまだに「意外だ」と感じる人もいるようだ。そこでまとめたのが本書『時間革命』だ。

この本は、ぼくが何よりも大切にしているもの――「時間」だけをテーマにした初の著書である。

「タイムイズマネー」ではなく「タイムイズライフ」「時間ほどかけがえのないものはない」もう一度、繰り返しておこう。

誇張でもなんでもなく、これさえ理解してもらえれば、本書の目的の半分は果たしたも同じなのだ。

いまの時代、お金がなくてもそれほど困ることはない。もしお金がないのなら、自分で働くなり、起業するなりしてお金を稼げばいい。1万円にしろ1億円にしろ、どう稼ごうがやはり同じ1万円、1億円だ。

しかし、時間はそういうわけにはいかない。一度ムダになった時間、流れ去ってしまった時間は、もう戻ってこないからだ。

そういう意味で「TimeisMoney.」というのは真っ赤なウソである。「TimeisLife.」――時間は人生そのものだ。

ぼくたちの人生の価値が湧き出てくる源泉なのだ。時間がなくなるのは、お金がなくなるのとはわけが違うのである。

すべては時間の質を上げるため何か特別に変わったことを言っているつもりはない。ぼくたちの時間は、ぼくたちの人生そのものだ。

時間の質を高めれば、人生の質も高くなる。ようはハッピーになれるってことだ。だからぼくは、これまでずっと「時間の質」を上げることだけを考えてきた。

たくさんのお金も、膨大な仕事も、おいしい食事も、人づき合いも、遊びも――すべては「よりよい時間」を生むための手段でしかない。

これはぼくにとって、このうえなくシンプルで確実な真理だ。

しかし、世間を見てみると、それをわかっていない(あるいは、わかっているのに行動に移せない)人がけっこういるようだ。

典型的なのが「アルバイト」――。

バイトというのは、本質的には「時間(人生)を切り売りし、換金する行為」にほかならない。

どれだけ努力しようが、どれだけパフォーマンスを上げようが、バイトで得られる報酬は、本人のキャパシティを超えることはない。「分の悪い取引」なのだ。

かく言うぼくも、東大時代にはアルバイトに没頭し、月30万~40万円を稼いでいた。学生からすれば少なくない金額だ。

当時はホクホクとした気分になっていたが、いま冷静に考えれば、間違いなくぼくは「搾取」されていた。

バイト先の会社が、ぼくにそれだけの報酬を支払っていたのは、それ以上に価値がある「時間」が手に入るからだ。

ぼくはそれに気づかないまま、20歳前後の貴重な時間を「切り売り」して、お金に換えていたのである。たのしい時間を過ごすためにお金があるあらためて考えてみてほしい。

「時給1000円で働く人の1時間」には、本当に「1000円分の価値」しかないのだろうか?もちろん、アルバイトだけを問題にしたいわけではない。

通勤に1時間をかけ、8時間を会社のPCの前で過ごし、2時間を会議や商談に費やし、また1時間をかけて帰宅する――そんな人も「時間(=人生)の切り売り」をしている点では一緒だ。

そうやって他人のために時間を割いて得られる月給は、「時間」の視点で見直したとき、本当に「割りに合ったもの」だろうか?ぼくたちの「時間=人生」は、他人に売り渡すためにあるのではない。

さまざまな思い込みや呪縛から自由になれば、これ以上に正しいことはないはずだ。時間こそは、誰もが平等に手にできる、唯一の「資産」なのである。

ぼくたちは、その「投資先」をたえず判断し、その価値を最大化することに、すべてを注がなければならない。

なぜなら、その資産は「有限」であり、「あるとき急になくなる」から。仕事や会社、上司、家族など、「他人の時間」に振り回されている場合ではない。

すべては「自分の時間」を起点にするべきなのだ。

ぼくがこれから語る時間観に馴染みがない人は、おそらくある種の衝撃を受けるだろう。

しかしそれは、あなたがこれまでの思い込みから解放され、よりたのしい時間を歩みはじめる分岐点になると信じている。

ぜひ本書を通じて、あなたの日常にも「時間革命」を起こしてほしい。

時間革命目次はじめにぼくにとってお金より大切なもの

chapter1「他人の時間」を生きてはいけない

1きみは「自分の時間」を生きているか?2懲役1年9カ月の刑務所生活でも「自分の時間」を過ごした3「多忙」と「暇」は同義である4恨みや妬みという有害無益な時間

 

時間には2種類しかない。「自分のための時間」と「他人のための時間」である。

「自分時間」とは、好きな仕事、趣味、やりたいこと、たのしいイベント、気の合う仲間との飲み会などである。

一方、「他人時間」とは、やらされている仕事、通勤、したくもない電話やメール、気を遣う飲み会といったところだろうか。

当然ながら「自分時間」が多ければ多いほど、あなたの人生の質は高くなる。逆に、「他人時間」ばかりを過ごしている人が、自分の人生に満足できていることはまずない。

「自分時間を増やす+他人時間を減らす→人生の質が高くなる」ぼくが語りたいことの核心は、このシンプルきわまりない事実にある。これこそが時間を支配するための、たった1つの方法なのだ。

まず、あなた自身の1日を振り返ってみてほしい。

目覚めて活動している時間のうち、本当の意味で「自分時間」だと言えるのは、どれくらいあるだろうか?16時間?8時間?……そんなにない?2時間?1時間?……ひょっとして……30分未満?いずれにしろ、おそらくかなり少ない割合なのではないかと思う。

何よりもまず深刻なのは、ほとんどの人は、自分の人生が「他人のための時間」で埋め尽くされていると気づかずに生きているということだ。

あるいは、気づいていても、見て見ぬ振りをしているのかもしれない。

たとえばいま、あなたの部屋に凶暴そうな猛獣が入ってきて、こちらを見ながら唸り声をあげているとしよう。

あなたはきっとその状況から逃れるための方法を必死で考えるだろうし、猛獣が襲いかかってくれば全身をバタつかせて抵抗するはずだ。

死んでしまえば、自分に残された時間は、一瞬にしてすべて奪い去られてしまう。そんなのはごめんだ。だから、頭をフル回転させて、その危機を回避しようとする。当然のことである。

一方で、「他人時間」に対して同じような脅威を感じる人は、どういうわけかほとんどいない。

ぼくにしてみれば、他人のせいで時間が奪われている状態というのは、「生きながら猛獣にゆっくりと食い殺されている」のと同じだと言っても過言ではない。

それなのになぜ気づかない?なぜ平気でいられる?ぼくには不思議でならない。

ぼくは手元にある時間を少しでも「自分時間」として確保したいし、人の時間を奪うことに無頓着な行動に対しては、言いようのない不快感を抱く。

実際、変な人とは距離を置いて、なるべくつき合わないようにしているし、時間を奪おうとする人には声を荒らげてキレることもある。

いろんなところで語ってきたことだが、典型的なのは、「平気で電話をかけてくる人」だ。

本人は何気なく電話をかけているだけでも、ぼくからすると、いきなり人生に割り込んできて、「他人時間」をねじ込もうする行為にしか見えない。

だからぼくはよっぽどのことがないかぎり、スマホに着信があっても、電話に出ない。これは決して非難されることではないはずだ。

猛獣が部屋に入ってきたときと同様、ぼくは自分の人生を守っているだけなのだから。だからぼく自身も、誰かほかの人にとっての「時間泥棒」にはなりたくない。

この本だって、「堀江の言いたいことはだいたいわかった」と思えば、最後まで読む必要はない、いますぐ投げ捨ててくれ。

「時間=人生」を突き詰めて考えれば、そういうことになる。まずは日頃から「これは自分時間?それとも、他人時間?」と習慣的に自問してみるといいだろう。

そうすれば、1日のほとんどが「他人時間」で埋め尽くされていることに愕然とするはずだ。最初はそれでいい。すべてはそこからはじまるからだ。

□1日のうち、「自分時間」を「棚卸し」してみよう

ぼくが「他人時間」「自分時間」の違いをはっきりと意識するようになったのは、刑務所での経験が大きい。

かつてぼくは証券取引法違反の疑いで東京地検特捜部に逮捕され、裁判の結果、懲役の実刑判決を言い渡された。

そして、東日本大震災から数カ月後の2011年6月20日から、1年9カ月にわたって刑務所に収監された。刑務所というのは、「他人時間の極致」のような場所だ。

「時間を取り上げることが刑罰になる」という発想の背後には、すぐれた人間的洞察があると思う。

時間を削り取られるというのは、人間にとって決定的なペナルティなのだ。

これを上回る刑罰は、その人間の残り時間そのものを根こそぎ消し去ってしまうこと、つまり死刑しかない。

長野刑務所でぼくが配属されたのはいわゆる養護工場であり、受刑者の大半が、認知症の老人や身体障害者で占められていた。ぼくはそこで衛生係という役割を与えられた。ようするに、介護士さんのような仕事である。

一人でお風呂に入れない、うまく排泄できない、身のまわりのことが自分でできない――そんな受刑者たちの介助をしなければならないのだ。

「えっ?あのホリエモンが……他人の介助!?」と驚く人もいるだろう。しかし、いちばん面食らったのは、誰よりもぼく自身だ。

自分のやりたいことをやれず、一日中を他人のために費やさねばならない懲役生活がはじまったとき、「これまでのぼくは本当に『自分のための時間』だけを生きていたのだな」と実感させられた。衛生係の仕事だけではない。

一緒にいたくもない人間たちと生活をともにし、他人が決めた献立の食事を摂り、誰のためになるのかわからない単純作業をやり、氷点下の部屋で震えながら眠る――。

自分のための時間がない!メンタルは決して弱いほうではないが、このときばかりはかなり堪えた。

しかし、同時に悟ったことがある。

「会社がイヤだ」「仕事が忙しすぎる」「上司に腹が立つ」「家族が嫌いだ」――そんな不平を口にしながら、いまの場所から一歩も動かない人の存在が、かつてのぼくにはまったく理解できなかった。

いったい何がそんなにつらいのか、なぜ動き出さないのかと思っていた。

けれども、刑務所に入ったことで「ああ、彼らはちょうどこんな心持ちなのか」と腑に落ちたのである。

「他人時間を生きる」というのは、監獄に入っている状態によく似ている。

とはいえ不思議でならないのは、世の中の大半の人が、自分からその〝監獄〟に入ったくせに、そこから出てこようとしないことだ。

扉には鍵などかかっていない。いつでも外に飛び出せる。

にもかかわらず、他人時間の〝牢屋〟のなかで、「ここは自由がない!」「退屈でつまらない!」と文句を垂れているのである。皮肉なものだなと思った。

刑務所に入れられて、物理的な自由を奪われているぼくのほうが、「他人時間の牢屋」から抜け出す方法を知っており、シャバの空気を吸っている世間の人たちのほうが、かえって〝牢屋〟に閉じこもっているのだから……。

実際、つらい状況はそれほど長く続かなかった。

服役中にもぼくは、文章を手紙でやり取りしてメルマガの更新も休むことなく続け、少しずつ「自分時間」を増やす行動を起こしていったからだ。

自分の興味がおもむくままに、1000冊以上の本を読破し、それまでの人生とは比べものにならないくらい多くの映画も観た。

結局、時間を自分のために使えるかどうかは、あなたしだいだ。刑務所にいたぼくが言うのだから間違いない。

□「時間がない」のを「他人や環境のせい」にしていないか?

ぼくが長野刑務所で入れられた独房には、時計がなかった。いつから次の食事なのか、いつから作業がはじまるのか、外から呼びかけられないとわからない。

これもまた、受刑者から「自分時間」を奪うための巧妙な仕掛けである。

こうなると、何やらとても「退屈」なのだが、かといって、自分で何かをする気にもなれないという中途半端な状態になる。

このとき確信したのが、「暇=悪」ということだ。暇を感じているとき、あなたは時間資産をドブに捨て続けているのに等しい。また、退屈な時間には、頭のなかに「ロクでもない考え」が湧いてくる。

それがストレスを生み出したり、人をバカな行動へと駆り立てたりする。ツイッターでぼくに粘着気味に絡んでくる人、とんでもない主張を繰り返し発信している人がいる。

彼らに共通しているのは、つねに「退屈」していることだ。他人に食ってかかることで、なんとかそれを埋め合わせようとしているのである。

その意味で、やはり予定はしっかり詰まっているのに越したことはないのだが、同時に、じつは「どれだけ忙しいか、どれだけ暇があるか」は本質的な問題ではない。

たとえスケジュールがびっしり埋まっていても、人は「退屈」を感じるからだ。

これは、「多忙」と「多動」の違いだと言い換えてもいい。朝早くからオフィスに出社して、息つく暇がないくらいアポや会議をこなし、深夜まで残業している人がいる。

睡眠や食事の時間も惜しんで、あくせくと働いている人がいる。そんな日常がたのしいのなら、とやかく言うつもりはない。しかし、大半の人はそうではないはずだ。

そういう人に共通しているのは、あくまで「他人を喜ばせる仕事」しかしていないということだ。だから彼らは「忙しい」と口にする。

気づけば、いつでも合言葉のように、「最近、ちょっとバタバタしていまして……」などと言っている。

他方で、ぼくも毎日、朝から晩までびっしりとスケジュールが詰まっている。しかし、その9割以上は自分のやりたいことで埋め尽くされている。

「堀江さんはいつもお忙しいですよね?」などと言われるが、正直なところ、ぼくはこれまで自分が「多忙」だと感じたことがない。

だってそうではないだろうか?たくさんのオモチャが並べられた部屋に子どもを投げ込むと、彼らは次から次へと目まぐるしく遊びを変えながら、どれだけでも遊んでいようとする。

しかし彼らは「忙しい」などとは感じない。ぼくもこういう子どもと大して変わらない。これが「多動」の状態である。

時間の価値を高めたいとき、注意するべきは「多忙」と「多動」を勘違いしないことだ。多忙な状態が続いていると、なんとなく毎日が充実しているような錯覚に陥ってしまう。

しかし、どれだけがんばっても、なぜかまったくハッピーになれないという人がいる。

あたりまえだ。

あなたの心はじつは1ミリも動いておらず、他人のために駆り出されっぱなしになっているのだから。

「多忙」な人というのは、ものすごく忙しいにもかかわらず、心のどこかでは「退屈」しきっている。

膨大な仕事を次から次へと処理しながらも、どこかでそれを冷めきった目で見ていて、本当はそれに飽き飽きしている。

「多忙」と「暇」というのは、真逆のようでいて、じつはそっくりな状態なのである。目指すべきは「多動」だ。

余計なことを考える暇がないくらいに、自分の心が踊る予定だけで、時間をしっかりと埋め尽くし、無我夢中で動き回るのだ。

□「忙しさ」を充実感だと取り違えていないだろうか?

「自分時間を増やそうにも、仕事が忙しくて時間が取れません!」そんなことを言う人がときどきいるが、これは時間についての言い訳のなかでも、最もくだらない部類に入るのではないかと思う。

他人のために時間を使いすぎているなら、まずやるべきは「他人時間を削ること」だ。

いま他人のために使っている時間はそのままキープしつつ、同時に自分の時間も増やしたい?そんな虫のいい話はない。

人間に与えられているのは同じ「1日24時間」だ。一方を増やしたいなら、もう一方を減らすしかない。

それにもかかわらず、なぜ多くの人は、「他人の期待を満たす生き方」をやめられないのか?以前はこの理由がぼくにはずっとつかめなかった。

しかし最近、ようやくわかってきたことがある。端的に言えば、人から嫌われるのが怖いのである。

他人の期待を満たすことをやめた途端、人から見放されることになるのを恐れているのだ。実際、「自分時間」と「他人時間」はトレードオフの関係にある。

だから、前者を優先するようになれば、周囲の反応はさまざまに変化するだろう。

たとえば、「着信があっても電話には出ません!」と宣言すれば、上司から叱責されるかもしれないし、同僚からバカにされるかもしれない。

下手をすれば、会社をクビになることもあるだろうし、家族との関係が悪化することもあるだろう。

しかし、そうした「反応」は、あなたの問題ではない。あなたの行動に対して、どんな感情を抱くかは、上司や同僚、家族の側の問題である。

あなたを罵倒したり、見下したりして気分がよくなるなら、勝手にそうさせておけばいい。他人から嫌われようと、どう思われようと、それはあなたの人生には関係のないことなのだ。

すべては「自分時間をどう増やすか」である。

「相手が自分をどう思うか」なんてことを思い煩って、自分の人生をおざなりにするなど、本当にもったいない。

「他人」という存在は、あなたの時間を奪う最たるものだ。「時間=人生」を本当に大切にするなら、人間関係も「自分」を起点に考え直すべきなのだ。

ずいぶんと冷たい考え方だと思われるかもしれないが、これにはいい面もあると思う。

たとえば、ぼくは人に対してカッとなることはあるが、ずっと憎んでいる人、恨んでいる人は一人もいない。スッキリしたものである。

いわゆるライブドア事件で逮捕され、かつての仕事仲間のうちの何人かがぼくに不利な発言をしはじめたとき、マスコミからよくこんな質問をされた。

「仕事仲間に裏切られたと思いますか?かなりショックですよね?」しかし、当時のぼくには、「裏切られた」という気持ちは微塵もなかった。これは強がりでもなんでもない。

もちろん、自分たちの立場を守ろうとする〝ウソ〟にはイライラさせられたが、ぼくを陥れようとした人たちのことを「許せない!」とは思わなかった。

いまでもそれは変わらないし、あえて言葉にしようとすれば、「人間ってそういうものだよね」としか言いようがない。

なぜなら、人のことを恨んだり妬んだりするのも、やはり「他人のために時間を使っている」という点では変わりないからだ。

過ぎたことや他人のことを考えて、負の感情を再燃させる――ぼくに言わせれば、こんな無益なことはないのだ。

□「頭のなかの〝他人〟」に、「自分時間」を奪われていないか?

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