まえがき
「社長専門コンサルタント」を生涯貫いた一倉定
「世の中に、良い会社とか悪い会社なんてない。あるのは、良い社長か悪い社長だけである。会社は社長次第でどうにでもなるんだ」と断言した。
この一言こそ、〝社長の教祖〟の異名を持つ一倉定の信念だった。
「事業経営とは何であるか?」を探求し続け、社長に「正しい姿勢」「正しい経営のあり方」を説くことだけに専念した。
そして、1999(平成11)年3月に亡くなる直前、病床においてさえも鬼気迫る形相で社長を叱り飛ばしていた。
最期は教え子であるT社長の運営する施設に入られたのだが、社長の計らいで富士山を望める特別室が用意された。
しかし、部屋に入るや否や「社長を呼んで来い!」と一喝。
「君は富士山が綺麗に見えると言ったが、いったいどこに見えるんだ!」確かに窓からは雄大な富士山が正面に見えてはいるが、ベッドに横になると壁と青い空しか視界に入ってこないのである。
「君はこのベッドに寝たことがないだろう」「一晩も泊まったことはないはずだ」あれほど、「お客様の立場になって」「お客様第一主義」と教え、経営計画書に書いてあっても、「君はまだ全然わかっていない」と大目玉である。
会社の繁盛も長い事業の継続も「全てはお客様がお買い求めになられ、満足し、また購入していただけることでしか実現できない」。
「この当たり前すぎるほど当たり前のことが、なぜわからないんだ」と常に社長に「喝」を入れ続けていた。
実際、多くの社長は商売上手であり、今現在、お客様のニーズを満たす商品・サービスを開発できているし、リーダーシップもある。
しかし、経営が順調になればなるほど自信に溢れ、やがて慢心し傲慢になり、自分都合が中心となりお客様を忘れた社長がそこにはいる。
社員、現場からの意見は耳に入らなくなり、さらに「お客様は日々変化し、目が肥え、新しいサービスを体験し、歳もとっていく」現実を、社長自身が自分の足と耳と目で実感しない限り、次代を担う商品もサービスも生み出せるものではない。
「社長の居場所は常に市場、お客様のところになければならない」とした一倉社長学の原則は、時代を超え不変の哲理なのである。
あるときは、大手メーカーの下請けで赤字に転落したA社長からのSOSを受け、「工場のコストダウン政策では潰れてしまう!」と檄を飛ばし、嫌がる社長とともに販売店の店頭訪問を繰り返し、高級ラインの商品開発と値上げ要請、自主販売の具体策を講じた。
また、不渡り事故で資金難に陥りそうになった社長と経理部長を川崎の自宅に呼び、休日を返上し深夜に及ぶまで資金対策や銀行対策に心血を注ぎ、何としても会社を守り抜くための手立てを考え、実行させ続けた。
全ての権限を社長に集中させ、怯懦になる社長の背中を押し、強烈なトップダウンで血が流れようと幹部が反対しようと、会社存続のためには泣いて馬謖を斬ることも断行させたのである。
同族、オーナー社長の悩みを知り尽くすオーナー社長が圧倒的に多い中小企業の経営は、大手企業とは根本的に違う。
社長の在任期間も20~30年と長く絶対的な権力を持ち、ナンバー2、後継者、経営幹部といえども反対意見は言いづらく、社長が暴走し始めたら止められないのである。
派手な遊興や政治活動、名誉職、情実人事などは論外だが、大型の設備投資や新規事業への資金投入、衰退事業への固執やテコ入れなど、社長が陥りやすい経営戦略の決断ミスは致命傷になりかねない。
ましてや危機に陥ったときには、実際のところ金融機関の支援は期待できない。
親族といえども雲散霧消し、社長が全財産、全人生を賭して生き残る道を探ろうにも、誰一人相談に乗ってくれる人もいなくなってしまう。
だからこそ常日頃から絶対に倒産しない会社にするために、一倉先生は溢れんばかりの愛情をもって、社長を叱り飛ばし、ときには鉄拳を辞さない覚悟で「正しい社長の姿勢」を生涯説き続けたのである。
なぜ、今でも「一倉定」が注目されるのか?ネットやアマゾンのお陰で社長が勉強する環境はこの20年で激変した。
国内はもとより、アメリカの最新情報だろうが、アジアの流行だろうが、瞬時にアクセスできるため、かえって社長自身が混乱し経営の軸を見失っているように見える。
どんなに正論の経営書であっても売れなければ出版社にとって事業は成立しないので、マーケティングの原則通り、エッジの効いたタイトル、内容、さらには超レアな成功事例を「これこそが最新の経営手法」とばかりに囃し立てる。
読めば確かに面白いし、知識が増え、自分自身が成長しているように思えてくる。
特にカタカナのビジネス用語、アルファベット3文字~4文字の略語がくせもので、いかにも最先端のように感じるが、そのほとんどは10年、20年前にも同じような内容で、しかし別の言葉・概念で語られていたことが手を変え品を変え登場している。
若い社長にしてみれば、アメリカの最新ビジネススキルや憧れの社長が語る成功ストーリーであるため、自社に取り入れIPOに突き進みたい衝動に駆られるのはわからないでもない。
しかし、冷静に考えてほしい。サッカーであれば県大会、国体に出るチームが、ワールドカップの優勝チームに挑むようなものである。練習方法さえ参考にならないこともある。
だから私は、勉強会に出席する社長、特に高学歴の若手社長にはいつも、本やベンチマーク企業を見るときの方法論を次のように説明している。
縦軸に海外と日本、横軸に大企業と中小、ファミリー企業と置き、4つの象限マトリックスを書く。そして、今の勉強対象がどの象限であるかを確認するように、と伝えている。
『一倉定の社長学全集』(日本経営合理化協会出版局)を改めて読んでみると事業経営の原理原則とともに、会社で働く人間そのものについても説かれており、社長が陥りやすい判断ミス、あるべき姿が多くの体験と指導事例を通して書いてある。
だから、日本の中堅企業、中小企業における同族企業のオーナー社長としての原理原則をしっかり身に付け、自分自身の考え方、経営の軸をしっかり持った後に応用として最新手法を取り入れることを私は勧めている。
基本動作の反復練習の大切さについては、一流のアスリートならば誰もが認めるところであり、事業経営もまたしかりである。
一代で1兆円を超える成長企業を築かれた社長が、若い時期に一倉門下生として勉強しておられたのを私たちは見ている。
基礎を固めてその後、多くの勉強で自身の器を大きくし、事業を育て、次世代にバトンを託す時期を迎えたら、『一倉定の社長学全集』を後継者に渡すオーナー社長は今でもたくさんいらっしゃる。
原則はいつの時代にも通用するから原則なのである。
スタートアップ時点でイグジット(出口)を考え経営することも否定はしないが、経営の主流になることはない。新しい古いの問題ではない。
資本主義、経営に対する多くの日本人の哲学の違いであるからだ。
40年前の衝撃から今日の経営へ私がはじめて一倉先生にお会いしたのは、1979(昭和54)年である。
その頃の一倉先生は東京・大阪・福岡の公開セミナー(年間8コース)と個別企業の相談指導、そして経営計画を作成する7泊8日の合宿指導を年2回という超ハードスケジュールでまさに全国を飛び回わっておられた。
60歳を過ぎたあたりだから、まさに脂が乗り切った時期で、獲物を狙うような眼光の鋭さが印象的だった。
私はそのとき大学3年で経営学、会計学を専攻していた。当然ではあるが、一倉先生の講義が大学の講義とあまりにも違うことにショックを覚え、さらに社長がこれほど熱心に勉強する姿に触れ、意味もわからず感動したことだけは鮮明に記憶している。
7泊8日の経営計画作成ゼミでは、今のようにインターネットもユーチューブもない時代だから、本と講義と黒板、さらにパソコンもないから経営数字1つ作るのに電卓とエンピツで深夜、徹夜もザラの超ハードな合宿だった。
そのとき、参加していた若い社長の方は現在でも現役経営者として活躍していて、非常に親しくさせていただいている。私にとって最大の財産である。
それから私は15年間にわたり毎回7泊8日の一倉先生の合宿ゼミに同行し、全国の社長、それもあらゆる業界、事業の栄枯盛衰を間近で見させていただいたことも極めて貴重な体験となっている。
一倉先生とのはじめての出会いから40年間。
技術の急速な進化、日本全体の高度成長期、そしてバブル最盛期、1990(平成2)年のバブル崩壊から、グローバル化、円高、今日に至るまでの低成長とデフレ環境下の経営、人口減少、リーマンショックという経済環境の激変を乗り越え、事業を成長させた社長の行動とは「変転する市場に沿っての事業変革」の連続であった。
新規事業の開拓、赤字部門からの撤退、新工場への投資、M&A、人材育成、海外進出を成功させた最大要因は「徹底したお客様第一主義」と「強い財務基盤づくり」の両立であり、社長自らが自社の未来を切り拓く「長期事業構想書」「経営計画書」の作成・発表を愚直に繰り返していた成果だと確信できた。
私自身40歳、50歳と経験を重ねるうちに、1999年に一倉先生が亡くなられた後、親交のあった社長から相談が持ち込まれることが多くなってきた。
会社によっては創業者から息子さんへ事業承継をする時期にあたり、「後継社長の相談相手になってほしい」という要請や「経営計画の作成を手伝ってほしい」「新事業の立ち上げを手伝ってくれ」「どうしても無借金経営を実現したい」など、社長のリクエストは多岐にわたった。
ときには、経営危機を乗り越えるために経営戦略を抜本的に見直すという難題の相談やコンサルティングもあったが、資金不足の悩みほど社長を苦しめるものはないことを改めて痛感させられた。
会社が大きくなれば後継者選定の苦悩、相続問題、親子間の確執、兄弟経営など同族企業特有の相談も多くなり、人間の崇高な部分と心の闇、愛憎、人生観や使命感など、社長として、親として、人としての領域が経営にとっていかに大切かを考えさせられることが多くなった。
深夜に電話で延々と堂々巡りの相談・愚痴が続くことも珍しくない。
先日も、10年以上一緒に勉強会を続けている50代の社長が興奮した様子で、会長との経営方針の対立で大ゲンカになった経緯をぶちまけてきた。
冷静に議論すれば「オヤジはインフレ育ち、売上至上主義」ⅤS「セガレはデフレ育ち、粗利至上主義」の戦いである。
行司としての私の軍配は明快である。
「どちらがお客様からの信頼が厚いか」「どちらが会社が強くなり潰れないか」「どちらが会社にお金を残せるか」「社員はどちらが幸せか」「どちらが時代の流れに合っているか」等である。
原理原則の多くは一倉先生に教わったが、残念ながら先生の時代には、長いデフレ経済の環境はなく、右肩上がりの市場が基本条件だった。
さらには後継社長の立場からの社長学の記述もほとんどないので、社長といえども全権を行使できない会長との対立の悩みを、一倉社長学に求めづらいのも事実である。
不易流行という言葉があるが、同族企業の中堅・中小企業が長く繁栄していくには、親から子へ、子から孫へと伝えていくべき経営の原理原則とともに、その時代時代で社長の「捨てる」勇気と覚悟が極めて重要になることを実感している。
自社株、事業、商品、暖簾は確かに引き継げるのであるが、親子、兄弟といえどもオーナー社長にしか体得し得ない実学を引き継ぐことは難しい。
さらに、大きなお金と権力、名誉、失うことの恐怖、親族への愛憎が表裏一体で絡んでくるのが中堅・中小企業の経営であり、当事者の社長には「観念論」「一般論」が通用しない非情の世界である。
「一倉社長学」の継承こそ我が使命一倉先生を師と仰ぐ多くの社長が集う「一倉社長会」が発足し、異業種間の勉強会も増え、社長学の実践はもとより、家族ぐるみの交流も活発になっていった。
そんな中で、後継候補がまだ学生の頃から私自身も付き合いがあり、彼らの成長とともに事業承継の現実を20年、30年の時間軸で見てきた。
誰もが順風満帆に行くわけではない。経営環境の好不調もある中で、後継者の悩みを聞く機会が増えてきた。
そんな時期に、「一倉社長会」発足メンバーの会長、社長から一倉先生亡き後の後継世代の教育を託された。
一倉会の全国組織の会長を長年務めていただいた田中久夫氏(故人・名糖運輸元社長)の教育指導のお手伝いをしていたことも指名された理由の1つかもしれない。
あれから10年以上の月日が経っている。
全国からさまざまな相談や、ときには嬉しい報告が届く毎日である。
私は1983(昭和58)年に、日本経営合理化協会に入協し、協会の創業者・牟田學現会長の薫陶を受け、一倉定先生の教えを学びつつ、全国の中堅・中小企業の経営相談に携ってきた。
現在も、先代と後継社長の間に立ち、互いの悩み不満や愚痴、親子だからこそ照れくさくて言えない尊敬と感謝の念を聞き、両者の顔を立てつつ後継社長が立派に事業を引き継げるよう黒子に徹している。
良い会社にしたい思いは皆同じだが、社長の日常には多くの人生が懸かっている。社長の親族はもちろん、全社員の家族と取引先、お客様への責任も1人の双肩にかかっている。
そのために一倉社長学が説く「正しい社長の考え方、行動」「事業経営の原理原則」を後世に伝え続けることこそ私の使命だと考えている。
第1章「社長の教祖」一倉定
ホテルの会場を埋め尽くす社長
東京駅から徒歩5分、皇居前のパレスホテル、地下1階のゴールデンルーム。
350名を超える異業種の社長が一堂に集い、大きな声で互いに近況や市場、お客様の情報交換で一種独特の熱気に包まれている。
特に前列は10年、20年と通い続けている常連組。
親子で机を並べ、家族ぐるみの付き合いをしているオーナー一族も多く、さながら同窓会の雰囲気である。
午前10時きっかりに、ざわついていた会場が一倉先生の登場とともに、ピーンと張りつめた空気に変わり、社長を叱り飛ばすような、教え諭すような一倉節が午後4時まで続き、初日の夕方、希望者の個別相談の長蛇の列が続くのである。
私の手元には、当時、一倉先生が講義で使用していた受講用テキストが8冊(2月から始まって年間8コース各2日間、東京・大阪・福岡)あるが、今でもページをめくっていくと、行間から先生の声が聞こえてくるようだ。
「いったい、社長はどっちを向いて経営をしているんだ!」「業績不振を社員のせいにするとは、社長の怠慢以外何物でもない」と睨むように怒鳴る声が響いてくるのである。
10年、20年と通い続ける社長の心境
当時、若かった私は、毎年毎年同じように聞こえる話を、多くの社長がなぜ高いお金を払ってまで聞いているのか不思議に思っていた。親しくさせていただいた社長に尋ねたことがある。
「傘屋さんの事例の次は、千葉の食品工場の商品開発で……、と次の冗談まで覚えているほどなのに、なぜ出席されるのですか」と。
K社長はニヤッと笑って「同じ話でも、聞くこっちの聴き方で、営業方針を変えなきゃとか、新事業の糸口が少し見えて腹が据わったなど、気づきが毎回違ってくるんだよ」と話してくれた。
また、富山から来られているA社長は一倉先生に、「とにかく3年間は私の講義を聴き続けなさい」「それと、なるほどと思ったことはとにかく決めて実行しなさいと諭され、素直に従ったんだよ」と。
社長のあり方に悩んでいた当時の自分には、考え方の違いに驚くばかりで、3年のうちに会社がみるみる良くなり、「いつの間にか、一倉教の信者になっていた」と懐かしそうに話されたのである。
そして、初日が終われば、あちこちの仲間が夕食を兼ねて集い、経営論を肴に自分の体験や考え方を戦わせて2日目の朝を迎えるのが、毎回の講義風景であった。
夜の宴会も実際には勉強の貴重な場で、「他業種では当たり前にやっていることが、自社の問題解決の決定的なヒントになったり」「先輩社長の体験談が、今の自社の兄弟経営の参考になったり」と、なかなか地元や同業の集まりでは相談しづらいことも実学ベースで活発に議論されていたのである。
身一つで会社を起し、売上を10億、30億、100億と伸ばして今日を築いた人たちは、幹部の造反、取引先の倒産、値崩れ価格競争や親族争いなど皆、同様の経験を乗り越えてきているので、そこには社長にしかわからない苦労があり、本音で語り合える「同じ価値観を持った仲間こそが最高の財産」である、とも教わった。
本質の力~流行の経営、不変の経営~
大阪の金属加工業の社長は、一倉先生の教えを「背中にズドーンと太い柱が建ったようだ」と表現された。お陰で迷いが吹っ切れたとも。
もちろん、その柱は人によって「お客様第一主義」であったり、「環境整備」であったりする。
有名になった「電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのも社長の責任」「経営計画書」「事業の定義づけ」など、社長の生涯を通して変わることのない信念を形作っているのである。
先年亡くなられたユニ・チャームの創業者、高原慶一朗社長(当時)もそのお1人で、大変勉強熱心な方であり、東部一倉社長会の主要メンバーを長年務めていただいた。
ご自身の著書の中でも「原因自分論」という独特の表現で社長の覚悟を表明し、言い訳をせずお客様である女性の満足・不平不満の解消に経営資源を集中され、社業発展に尽力されておられた。
一倉先生は、何年経っても「変わらない事業経営の根幹」を社長に叩き込むとともに、事業の繁栄は進化、複雑化するお客様の要求を満たすために「我社を作り変え続ける社長の姿勢」こそ大事であるという教えは、いかなる業種でもいつの時代にも通用するのである。
しかしながら昨今気になるのは、欧米から直輸入したカタカナの経営用語の氾濫であり、この概念こそが新しい経営であるという風潮である。
しかし、新しい経営概念も5年もすれば誰も口にしなくなり、また新しい用語が取って代わるのである。
言葉は魂であり、長く生き続ける言葉こそ本質であり、それを見抜く力を社長は持たなければならないのである。
一倉先生の「一喝」で1年は大丈夫だ!
そんな社長が毎月集う勉強会でも、特に2月の年最初のコースは特別な光景が見られる。
自分の予約した席にも座らず会場の外の前室で、天井スピーカーから伝わる先生の肉声を聴いている社長が数人いるのである。
テキストは一応広げているがメモは取らない。
コーヒーは飲み放題だったのでコーヒー片手に、ときにはタバコを吸いにどこかへ行ってしまう。
「あの~S社長、いったい、何やってるんですか?講義も聞かないで……」と聞くと、「いいんだよ!ここで一倉先生に怒られてれば身が引き締まって、1年間ぐらいは油断しないから」と。
続けて、「お陰様で業績も順調になったら、ヨイショを言いに来る人はいても誰も文句を言ったり、叱りに来る人がいないんだよ」「どんなに気をつけているつもりでも、ついつい調子に乗って傲慢になるのが一番怖いからなぁ」と。
10時間の講義の中で、「あ~、あれやってないな~というのが1つあれば充分なんだよ」「いっぱいメモ取ってもそんなにいっぱいできないし」。
確かに会場の後方で熱心に一言一句聞き漏らすまい、また頭も上げずびっしりノートを取っている社長ははじめてに近い方が多く、ベテラン組は中空を見つめながら、たまにボールペンで何か単語を書いている。
今ならその聴き方も理解しているが、私も初年兵に近かった当時は不思議な光景であった。
会社、お客様の現場、工場内、営業マンの商談風景など、社長の頭の中には映像としてくっきりイメージができており、一倉先生の言葉が「これではダメだよ!」と聞こえていたのだろう。
その一番の姿が「社長自身が満足し、わがまま、傲慢になってお客様を見ていない姿」なのである。
S社長はお約束通り翌年2月にも、1杯2万~3万円になるコーヒーを飲みに来て、怒られている自分の姿を思い浮かべ、また1年間走り続けるのである。
机上の「べき論」を嫌い、徹底した現場・現実主義の指導
一倉先生が最も嫌ったのが、経営学と称し実質は内部管理学でしかない観念論と人間関係論である。
会社の内部にあるものは全て経費であり、経費をどう扱おうが業績は伸びない。競合の動きも営業最前戦の苦悩もない人間関係論に至っては「会社が潰れないことを前提にした平和な春の野のピクニック理論」と手厳しい。
売上利益の向上は、会社の外におられるお客様を訪ね、欲求、不平をつかみ、満足する商品・サービスを提供することでしか実現しない。
この当たり前の現実が、先生自身の幹部社員時代の倒産体験と数多くの指導現場で血を吐くような努力で体得した根本思想である。
だから社長への指導は、資金の確認を早急に終えると、お客様を訪問し自身の目で見て、お客様の声を直接聞き、ご要望を実現するために、社内がどんなに混乱しようともできる方法を考えさせ実行させたのである。
そこで社長が、営業からの報告をそのまま話そうものなら、たちまちカミナリが落ちる。
自分の目と足でつかんだお客様のことと聞いた話の違いを、たちどころに先生に見抜かれてしまい、会社の存亡に関わることを社長自らやろうとせず、社員任せにする性根を徹底的に叩き直されることになるのである。
キレイな理屈通りに社員は動かない
社長であっても多くの場合、口ではお客様第一と言いながら実際には自社の都合第一、会社の目先の利益重視で行動するのであるから、社員はなおさらである。
私も実際にレストラン経営の社長と一緒に店舗回りをしていたときに、こんな事件に遭遇したことがある。
社長と2人で昼食を兼ねて試食をしていると、社長が首をひねり始めた。「どうしたんですか?」と聞いてみると、不安そうな顔で答えるのである。
「いや~、スープの味がちょっと違うような感じがしてね」と社長が言い出し、さっそく、店長にテーブルに来てもらった。
社長が「スープ、何か変えた?」と聞くと、「いいえ、何も!」と店長がもじもじ答える。
社長は何か感じ取ったようで「○○店長、怒らないからどうしたのよ?」と聞き出す
と、店長がうつむきながら「最近、お客さんが少なく赤字が続き、社長にこれ以上迷惑をかけられません」と話し出した。
コストを下げ原価率を守り、利益を確保するためにスープの素材を安い材料に変えたとのことであった。
決して悪気があってのことではなく、利益責任を感じて店長は店長なりに考え、結果的にお客様を失う努力を一生懸命やっていたのである。
多くの経営学者が「モチベーションを上げ、業績を伸ばすために社員の自主性を重んじなければならない」「権限をもっと与えなければヤル気を出さない」など、もっともらしいご高説を最新のマネジメント論として指導している。
確かにごく一部の社員にとっては有効だろうが、中堅・中小企業の現場で起こる数々の信じられないトラブルを見ている一倉先生は「机上の空論」「社員とはお客様に対して責任を持たない人種と知れ」とまで言い切り、マネジメントこそ経営であるという議論を「百害あって一利なし」と断じている。
今ネット上で問題になっているバイトテロにしても決して他人事ではなく、いつ我社で起こっても不思議ではない。
一倉先生は40年も前の書籍、『人間社長学』(産能大出版部・1971年)の中で、今日を予言するかのように、
「社長が『社員は僕の思う通りに動いてくれない』と思うのは、明らかに社長の誤りである。自然の成り行きに任せたら、社長の目の届かないところで勝手な判断が横行し、お客様の信用をなくし業績を落としていく」と書き残しているほどである。
社長の人材待望論を徹底的に排す
では、「社員に何を期待するのか?」、また「社員の役割とはいったい何か?」について考える。
この根本的な、かつ抽象的ではあるが重要な問いに一倉先生は一言、「社長が決めた方針を確実に実行する」ことと定義している。
業績の結果責任は全て社長が負い、社員は決めたことに対しての行動責任が全てである。
そして、社長と社員の間にいる管理職の役割は、部下の行動を管理することではなく「社長の意図を実現する」ことである。
そのために「社長方針の理解」が一番大事であり、意図・方針を実現するために、社員一人ひとりへの徹底を図ることこそが管理職の仕事である。こうした意識改革もまた社長の仕事なのである。一倉先生は、社長と社員の役割を明確に示されている。
この原則を理解せずに、マネジメント論中心の管理職教育をやればやるほど、管理職の関心は部下のほうに向く。業績、それも全社視点での業績に目がいかなくなり、社長の方針とは相当にずれた行動が繰り返されてしまうのである。
そして、社長は原因がわからずイライラして、一倉先生の前で決して口に出してはいけ
ない一言、「ウチには有能な幹部、社員がいなくて~」とつい言い訳をし、人材待望論を語ってしまうのである。この後は、皆さんの想像通りの結末が待っている。
一倉先生は、社員に期待していないわけでもなく信用していないわけでもなく、むしろ若手の積極的な抜擢人事を勧めている。
しかし、社長が絶対にやらなければならないのは、経営計画書に「方針の決定」や「どんな会社を目指すのか?」、「○○年後のビジョン」等を文章に表し、全社員の前で発表することだ。これこそが、最重要業務なのだが、忘れがちになる。
「社員に期待をする」という耳にやさしい人材待望論にすり替える思考を許さず、社長の徹底した意識改革を迫っていたのである。
実際、目の前で叱られている社長を、周りの社長が心配するほどの怒鳴りようだった。
後に詳しく出てくる「天動説の経営」と「地動説の経営」の違いも、社長個人の意識レベルで腹落ちすると、全ては「社長の責任」と言い切っている先生の言葉が「人材待望論を排す」意図と同じであることを悟り、ますます一倉教の信者となるのである。
この気づきに至らず、1~2回の勉強で表層的に聞いて、先生の真の愛情を感じ取れなかった社長は少なからずおられ、袂を分かっていった。こればかりは仕方がない。
目の前で起きている事実に基づく戦術立案
社長の意識が変わっていくにつれ、見えている風景は昨日と同じでも、徐々に違って見えてくる。
社長自身がお客様訪問を繰り返していくと、直接お叱りを受けることも、また気がついたサービス不足もたくさん出てくる。
中小企業の社長の凄いところは、思ったらすぐやる実行力である。ただし、百発百中とはいかない。ここでの社長の決断が繁盛と衰退の分岐点になる。
熟慮して会議にかけ意見を聞くと、リスク面が強調され、結局現状維持に戻ってしまう。
組織も社員も変化することを極端に嫌うのはパーキンソンの法則を学ぶまでもなく、官僚や社歴の長い大企業を見ているだけでわかるはずだ。
上手くいかなかったときの責任を誰もが恐れ、不況や競合他社との価格競争、人口減少など言い訳を山のように用意する。
だから、結果責任は全て社長、徹底的な実施責任は社員で走り、結果が出なければ朝令暮改、朝礼朝改も辞さない覚悟で、新戦術を強引に進めなければならないのである。何もしないよりは確実に業績に反映する。
たとえそれが僅かな利益増であっても業績向上への第一歩を踏み出すのである。社員は誰でも売上を伸ばしたい、利益を上げたい、お客様からありがとうと言われたい、人の役に立ちたい、自分の仕事に誇りを持ちたいと思っている。
そして、こうした社員たちの気持ちに応える環境を整えることが社長の役割であり、業績が上がって誰よりも社長自身が喜ぶのである。
万が一結果が出なくても、決して社員を犯人にしてはいけない。もうわかっているとは思うが、「業績責任は全て社長」なのである。ここで、ベテラン社長が犯しやすい失敗例がある。
全ての出発点はお客様・市場の要求であり、まだ顕在化していない不平不満であると聞いて、さっそくお客様訪問をするのであるが、久しぶりに来られた社長にズケズケ文句を言う人はめったにいない。
社長からすれば、今の商品政策、営業体制で問題なしとして、もう市場がわかったつもりになり、自信をさらに強めてしまう。
もともと商売上手なわけだから、成功体験も豊富で、上層部の人脈も活きている。仕入れ担当の責任者も多くは年下だから、なかなか言いたい本音を漏らさない。
サラリーマン社会では肩書の上下は相当に力を持っているから、当然、業績不振の真の原因は暗闇の中に埋もれてしまうのである。
ただ社長が本気になれば何でもできる。
前出の有名社長は、名刺を営業本部長に変え全国の販売店を1人で訪問し、店頭の声にひたすら耳を傾け販売戦略を再構築していた。
社長だと直接言いづらい話も、営業本部長には直球が飛んでくる。だからいいのである。
東京観光で有名な「はとバス」の苦境を見事Ⅴ字回復させた宮端清次社長は、日曜ごとに自腹を切ってバスに乗り込み、お客様と一緒に観光地やレストランを巡る中で口々に出てくる不満の声を集め、一つひとつ解決し人気を戻した。
宮端社長が社長を退任された後、私はいろいろ教わった。
たとえば、「同じバスに家内と乗っていると、誰も社長とは知らないので、お茶がまずい、ご飯が冷たい、あれはダメだ、これはダメだと宿題を山のようにいただいた」と。
そして社に戻り、「会議で問題点をただすと、やれコストが上がる、時間が読めない、それは業者の問題でウチには関係ない、とやれない意見ばかりで一向に改善が進まない」。
そのうち「うちのバスに社長が乗っているらしい」という噂が流れ、あるとき、東京駅に帰着すると、幹部2人が出迎えに待っていた。
さすがに頭にきて「そんな時間があったら自分で乗れ!どっち向いて仕事してるんだ!」と声を荒らげたという。
一倉先生の指摘通り、社長自らが本気で動き、正しい姿勢を貫けば会社は変わっていく。
「少なくとも3年間は聴き続けなさい」「そしてすぐ実行しなさい」と指導している真意がここにある。
一つひとつは小さなことであるが積み重なれば大きな差となって、お客様に支持され、利益に跳ね返ってくるのである。
魔法の書と呼ばれる「経営計画書」作成合宿、7泊8日
先に紹介した通り一倉先生の講座は東京・大阪・福岡の3会場を基本に年間8コースで組まれていたが、特別コースとして「経営計画作成合宿」が年に2回開催されていた。
期間は7泊8日の長丁場であり、全国から8コースを終えた社長が60~70名参加されていた記憶がある。
私自身、はじめて合宿を覗いたのは20歳、大学3年の頃だ。アルバイトの使い走りとして、宮崎フェニックスに連れて行ってもらった。数えてみれば、40年も前である。予備知識は当然ゼロ。
大学の20年先輩にあたる日本経営合理化協会の石井義隆企画部長(当時・後に専務理事)に、「美味いモノ食わしてやるし、飛行機にも乗れるぞ」とおだてられて2つ返事で、野獣のような人たちが集まっていることも知らずにルンルン気分のまま会場へ向かった。
ありがたいことに、当時若手社長として参加しておられた方が、今は会長になられてはいるが現役で頑張っておられ、息子さんたち後継社長のことでお電話をいただいたりする。ご縁とは本当に不思議なものである。
一倉先生の意外な、開講の第一声
ホテルの広い会議室は人数分の机でびっしり埋まっていて、テーブル1つに社長が1人ずつ座っている。窓の外は見渡す限りの太平洋、眼下には有名なゴルフ場。
リゾートホテルには不似合いの机の上には経営資料、ファイルがど~んと積んであった。今のようにパソコンはないので当然である。
会議室内には、掟がどうもあったらしく「先輩社長」(合宿経験者)と「初年兵」という区分があり年齢に関係なく、先輩が相当威張っていた。さながら映画で見る軍隊である。
いよいよ先生の講義開始となり、アルバイト君の私も一番後ろの事務局机でボ~っとしていた。
先生は開口一番「さあ、同じ釜のメシを喰う仲間ができた!勉強はそこそこに大いに先輩と同期と遊べ!」と語り出した。
肝心の計画書は「なかなか書けないと思ったら先輩の計画書を見せてもらえ」。極端に言えば、「糊とハサミで経営計画書を作れ!」と言っているようなものである。
もともと野獣の集団であるから、夕方近くになると会議室に人の姿はなく、こちらがそろそろ部屋に帰って寝ようとする頃に、酔って帰ってきて机に向かい始めるのである。
そして、方針書を書いてはみたもののまとまらず、できたと思って先輩に見せると「本気で書いてないだろう!」とボロクソに言われてまた書き直しとなってしまい、いつしか会場は不夜城となる。
「これで、社員の皆が理解でき、同じように動けるか?」「現場ちゃんと回ってないでしょ?」と先輩社長は初年兵社長に、自分の経営計画書を見せながら、具体的に書くとはどういうことか、先輩も苦労した点をアドバイスしていたのである。
だから、通常の2日間講座が全国どこであろうと、会場に行けば10年来の知己のごとく語り合える仲間がいるのである。まさに同じ釜のメシ、戦友である。
自らの手で書くことの奥深さ
一倉先生の指導する「経営計画書」は当然のごとく「数字と文章」からできているが、社長にとっては二大鬼門である。
数字嫌いと文章下手の社長が多いからである。
しかし、社長は本来人一倍、商売は上手いから会社を大きくしてきたが、経営戦略の全てが頭の中に入っていて高速カン(勘)ピューターで決断し指示を出すが、これまではあらゆる命令を口頭で出してきている。
さらに悪いことに毎回微妙に話す内容、重点が違ってくるので社員は混乱し、一人ひとり受け取り方が違ってきてしまう。
実際には間に管理職が入り自分の理解で現場指示を出していくので、大きな伝言ゲームをやって部門間の連携は悪くバラバラの経営になっている。
だからこそ、正しい「経営計画書」を立て、全社に発表し、文章で徹底することの意義は大きい。「経営計画書」をつくることが、社長の仕事なのである。
では、何を書くのか?①社長自身が持っている経営理念に基づいた「我社の未来像」と実現のための行動指針「方針書」である。~これが「経営計画の魂」
②この「方針書」にそって経営目標となる「目標貸借対照表」「売上利益計画」「資金運用表」の3表を作ることである。~そして、これが「経営計画の仏」となる。
当時はパソコンもエクセルもない時代なので、皆シャープペン、万年筆をもって原稿用紙と格闘して、何度も書き直し、建前でなく本気で思っていることを、具体的に書くのである。
そして、人の借り物でなく自分の考えにもとづいた方針書ができてくるのだ。
書くことは思考することであり、足を運んで自分で見ていないものは書けないことにも改めて気づき、毎年、毎年方針書が具体的に進化してくるのである。
最難関は資金運用表と目標貸借対照表(「目標バランスシート」と呼んでいた)の数字の入れ方がわからず、徹夜組が出るのは日常だった。
しかし、ここでも先輩が懇切丁寧に指導していた。数字がピタリあったときの感動はやったものでないとわからない。
今思えば、「エクセルで数分の作業を……、なぜ?」と考えるが、エクセルで経営目標の数字がキレイにプリントアウトされて出てきても、なぜ、この数字が動くのか?実際の仕事、経営判断と結びつかなければ、社長の実務では全く役に立たないのである。
手で考え、電卓を叩いている頭の中には、大きな機械を投資した工場の映像が浮かび上がり、製品が出荷され、売上が立ち、減価償却費が発生し、銀行へ返済をしている一連の流れが、数字と行動が一緒になってぐるぐる回っているのである。
7泊8日の長期合宿の意義
中小企業の社長が、海外出張並みに約10日間会社を空けるのは思った以上に勇気がいるものである。
実際に「経営計画」作成合宿の参加に二の足を踏む人も多かったように聞いている。今のようにネットも携帯もないのだから、留守の会社が心配で仕方がない。
しかし、一倉先生は「社長が会社にいるから幹部が育たない」「知りもしないで下手に仕事の指図をするから混乱する」「あんたなんか会社にいないほうがいいんだ!」と全く取り合わなかった。
ただし、会社の代表印の管理だけは留守中に勝手なことができないよう注意していたのである。
そうは言われてもはじめての社長は、3日目くらいまで会社の様子が気になって気になって、我社の未来像どころではない。
ただし、多くの場合、電話もかかってこない。
4日目あたりから、やっと社長の気持ちが会社から離れ、自分の会社を客観的に見られるようになり、頭の中も「今日現在の仕事」から「未来の我社のあるべき姿」へと徐々に思考が広がっていくようだった。そのように、先生から教わった記憶がある。
だから、合宿ホテルは会社に簡単には戻れないところ、海外がいいんだということで、随分以前から東南アジア各地で開催していた。
私もオーストラリア、カナダのバンクーバー、韓国の済州島にも手伝いに行かせてもらった。
晩年は日本食の準備もあり、沖縄のムーンビーチホテルに何年も通ったが、先生は「携帯電話は計画書作成には邪魔だ!」と常に言われていた。
距離は離れていても毎日のように電話やメールが来る環境では、意識は会社の中にあり、日々の細かいことが気になり社長として一番大切な「長期事業構想」を練るのに集中できないのだ。
集中すると徹夜組が何組も生まれ、なかには夜通し議論を戦わせ、極まれに社長同士が意見の違いからケンカになるほど真剣な姿もあった。その光景は感動ものである。
会社にいては「会社のことが集中して考えられない」。
何とも皮肉なことだが、体験者は皆さん7泊8日の意義を充分理解し、毎年の重要行事にして我社の未来像を想い描き確実に実行しておられた。
銀行の支店長も法人部長も驚く「経営計画発表会」
いよいよ我社にとっての「第1回経営計画発表会」になる。しかし、その前に試練がもう1つ。
はじめて「経営計画書」を作成したあと、合宿終了後に「チェックの会」という一倉先生との個別面談があり、初年兵社長たちは特に緊張した面持ちで内容の最終確認をしてもらうのである。
はじめての「経営計画書」の特徴は大きく2つ。
1つは、現場の実態をよくつかんでいないため、先輩方の計画書を参考に「どの会社でも通用するような一般論、べき論」が並んでいること。
もう1つは、思い入れはよくわかるが、「あれも大事、これも大事で紙数が溢れ100ページ以上になる超大作」の経営計画書になってしまうケースである。
こんなとき、一倉先生はニヤニヤしながら、「社長!誰がこんなにたくさんのことをできるんですか?講義であれほど重点主義について話しているのに」「経営計画ももっと重点主義で進めないと」と言って半分呆れたような、でも半分嬉しそうにアドバイスしておられた。
そして、発表会を3~5年と続けるうちに、「自社独自の計画書にしていきなさい」「とにかく発表会を開催し続けることが一番大切ですから」と言っておられた。
「チェックの会」の個別面談の会場前で詰めていると、「これはヤバイ!カミナリが……」と思いきや、先ほどのようなニヤニヤも多く、途中から「一生懸命やっていての内容の良し悪しには寛大で」「できることを怠慢、手抜きで……」のときにヤバイ状況になると想像がつくようになってきた。
発表会では、新たな「経営計画書」の一言一句を社長が独演会で読み上げ、質問は禁止というスタイル。
そして、ゲストに金融機関の支店長もしくは本店の役員を招かれること、合宿でお世話になった先輩経営者、同期の社長を招いて激励のスピーチ、祝辞をお願いしておくことなどの要所を押さえホテルにて開催に臨まれていたのである。
緊張のうちに発表会が終わると、全社員が一堂に会し、食事会、懇親会となって明日からの実践を誓うわけだが、今でも共通する一言が銀行関係者から聞かれる。
「いや~、はじめてこんな『経営計画発表会』に招かれ驚きました」、それも「失礼ながら大手でもないのに」と、我々サイドには本音を漏らしてくれる。
毎年発表会を開催している会社でも、「前任の支店長から申し送りを受けており、実は楽しみにしていたんですよ。私が一番勉強になりました」という声も多いのが実際である。
社員が1つの方向に向かって、具体行動でやることを明示され、1年後には損益計算書(PL)がこうなり、貸借対照表(BS)を目標数値で示されていることはまれである。
金融機関の信頼を得て、協力関係がより強固になっていく姿は今も昔も全く変わらない。
会社の将来も、社長の人生も、社員の幸福も、この1冊に
一倉先生を師と仰ぐ社長数千人のほとんどは、創業社長、オーナー社長だった。大手企業のグループ会社の社長もおられたが、どうしても任期の問題がついて回る。
どんなに業績を良くしても、後任の社長が違う路線を取りたがり継続が難しいのが難点である。
その点、上場していても同族企業は社長が20年、長ければ30年と経営をするために、経営理念の浸透や社風の強固さが際立っている。
私が知っている企業でも、親子三代はごくまれだが、一倉イズムで親子二代30年、40年継続の繁盛企業は全国に本当にたくさんいらっしゃる。
経営理念がブレない、会社の運営基本方針が変わらないというのは、幹部にとっても非常に仕事がやりやすく一生を社長とともに歩むことができる。
定年が延びる昨今ではあるが40代、50代になって、これまで信じてきた中心軸が変わってしまうのは、社の方針とはいえ気持ちの整理がつかないものである。環境が変わり、事業や扱う商品が変わっていっても問題はない。
しかし、社長の経営哲学が変わり、会社が目指すべきものが変わることは別次元なのである。オーナーの生き方、経営理念に代表される基本方針は、全社員の目指すべきものである。
毎年の計画書はどうやってお客様を増やし、喜んでいただけるかを、その戦略、戦術は常にお客様の変化に合わせて発表会ごとに変えていくものである。
こうした中で、若手社員は先輩を見習い「会社らしさ」を形成していく。社員にとって一番の幸せは一生続けられる仕事があり、自分の職場がなくならないことである。
多くの「経営計画」はどうやって業績を伸ばすかが中心であるが、一倉先生の指導は事業継続を第一義に置いて「潰れないための必達目標」から出発し、「手堅い、強い財務」「リスクに強い事業体勢」を目指すものである。
大手と違い、中堅・中小企業は、社長の1つの決断ミスが破綻の引き金になりかねない。
長期事業構想と短期計画を毎年見直すことで、油断を防ぎ、後手後手にまわりやすい自社革新を弛まず続けていくことができるのである。
一生涯勉強、継続こそ力なり
多くの勉強会の仲間が集い、互いに切磋琢磨し自社を繁盛させていくために、東京を中心に東部一倉会が発足、また大阪を中心に西部一倉会、そして九州一倉会、北海道一倉会ができ、「一倉先生の教え、良く学びよく遊び」を実践し、勉強にゴルフに研修旅行に家族ぐるみの交流が今も続いている。
また、経営計画作成合宿の同期生を中心に「ゆめ倉会」「凡倉会」「シンクタンク」「鬼倉会」ほか数えきれないほどのグループが毎期毎期発足し、交流の輪は全国に広がっていった。
考えてみると大恩師に向かって「鬼」だとか「凡」だとかよく名前をつけたものである。先生もまんざらではなかったようである。先生はやんちゃな社長は大好きであった。
今も「一人合宿を張る」社長の執念
その先生も1999年3月に亡くなられた。もう20年になる。
先生が亡くなってからも社長会を中心に勉強会はいろいろな形で続いているが、毎期の計画を立てるために、毎年沖縄のムーンビーチホテルに部屋を取り「一人合宿」を張っている社長もいらっしゃる。
社長にとっての聖地、「経営計画書」の出発点である。
また、ある社長は約1週間であるが都内の大好きなホテルに缶詰めになって、電話禁止を社内に徹底し、我社の5年後、10年後を見据え事業構想を練っている。
会社がどんなに順調であっても先生の教えを思い出さざるを得ない環境を自ら作ることは極めて大事である。
人間は人には厳しくても、自分にはけっこう甘いものである。
20年も30年も経って、あらためて『一倉定の社長学全集』を読み直している社長も数多いし、息子に1セットプレゼントした社長、上場企業を一代で築いたK社長は、グループ企業の5人の社長全員に配って、次世代の経営のために一から勉強させている。
社長として背負っているものが大きいだけに、自社の経営の基本軸をブラさない工夫は心だけでなく形からも固めておく必要がある。
厳しい環境のときこそ発表会が活きる
5月のある日、毎年発表会に参加していたT社の社長から電話をもらった。
「7月が発表会であるが、今期は見送りたい」旨の相談であった。ほぼ決めている様子は声のトーンから明白である。
理由は「業績の低迷で……」と、歯切れが悪い。
即座に、「絶対やるべきだ!一番大事な行事をここでやめたら、社員は何を信じて頑張るんだ」と応じたが、1度萎えた気持ちはなかなか戻らない。
その後、何人かの友人の社長にも中止の意向を伝えようとしたが、全員が「厳しいときこそやらないとダメだ!」と発破をかけられ、やっと本人もその気になった。
それまでは好調に進んでいたから自信満々だったが、見栄も手伝って悪い決算には耐えられなかったのだろう。
結果的には前期の反省を充分に織り込んで計画書も念入りに作り込み、毎月の実行チェックも抜かりなく実施したため翌年は好決算となり、激励とともに叱ってくれた社長仲間にお礼を言うことしきりであった。
一倉先生の教えの中に、見落とされがちだが「徹底力」という言葉が出てくる。
好調が続くと甘くなることは先に述べたが、「経営計画書」を作ることで満足してしまい、実行確認が幹部も社長もおざなりになっていくのである。
事業であるからどうしても景気を含め波はあるが、業績の振るわないときこそ啓示と思い、「全ては社長の責任」を思い出し絶対に逃げないこと、他責としないことである。
二代目社長、長く続く会社の後継社長にとっては特に大事な社長の要件だと思っている。
社長にとっての10年間はあっという間
継続して「経営計画書」を作り続けると会社の質の向上とともに、計画書も我社独自の風格が出てくる。
一倉会の幹事を長年やっておられた会社の社長室に伺ったときに、1冊目の「経営計画書」から今日に至るまでのファイルを見せていただいたことがある。
記念すべき1冊目は10ページあるかないかの薄いもので、手書きコピーを綴じたものであった。
4年目あたりからA4判のカチッとした冊子になり、30数冊に及ぶ会社の歴史が記されていた。「振り返ると、あっという間の30年だなぁ~」と社長は言っておられた。
ちょうど高成長が続いた時期からバブルがはじけて金融危機はあるし、デフレは続くし、土地は下がり続けるし、「今日と明日のことを考えるのが精いっぱいで気がついたら65歳を過ぎていた」と謙遜されたが、無借金経営を維持し地元では有名企業である。
社員の教育も徹底しており、名社長は年齢とともに教育者になっていくことは、どの業界でも共通しているようだ。
会社の質は結局、「社長の質×社員の質」かもしれない。
社外秘である「経営計画書」であるが、H社長はユニークな人で、ライバルに見せても大丈夫だと公言してはばからない猛者だった。
真意を図りかねて問うたことがあるが、「同業がこれを見てマネしようとすると社内が空中分解するからね」と意味不明なことを言うのである。
「カタチだけマネても、社長も社員も〝心〟が育っていなければできないんだよ」「本物になるのには最低でも10年以上かかると思うけど」、そして「なにより社長が率先してやらないと社員はやらない。やれやれ言えば、多くの社員は辞めるから」と。
社長の人生は思った以上に短いし早い。強くて良い会社を育て上げるのに、そんなに時間は残されていないのである。
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