第二章失敗から目をそらすなんて、できません
[ドラさんの宿題]多面的に意味づけて見る。
ポジティブな面に注目する
「あぁ今日も寝坊をして皇居ランをサボっちゃった。
今頃、意志の強いドラさんはきっと走っているんだろうなぁ。
ランステーションの月会費もムダ払いだよ……」満員電車の窓から外の景色を眺めながらボクはそんなことを考えていた。
そして、ハッと気がついた。
両手に牛乳プリンを握りしめたドラさんの顔が頭に浮かんできたのだ。
「リョウ君。
できていないところに注目せず、できているところに注目するんだ」そうだった。
危ない、危ない。
今日だって遅刻せず会社に来ているじゃないか。
きちんと歯磨きもしたぞ。
朝一番でお客さんにメールの返信もできた。
スーツのズボンにも折り目がついているぞ。
できていることのほうがたくさんあるじゃないか。
そんな風にできていることを数えているうちに、ボクは気分がぐっと上向きになるのを感じた。
ボクはこれまで、自分を責めてばかりいた。
それこそが自分のやる気を高める唯一の方法だと思っていたからだ。
でも、それはとてつもないムダであったようだ。
自分のやる気を奪いながら、やる気を出そうとしていたのだ。
ボクがしていたことはブレーキを思いっきり踏みながら、アクセルをふかしていたようなものだ。
こんなことをしていては、車、すなわちボク自身が壊れてしまうかもしれない。
ふぅう。
良かった。
ドラさんに出会ってまだたったの二日間だが、とてつもなく大きなことを教えてもらったような気がするぞ。
「どう?リョウ君。
宿題やっている?」オフィスに着き、デスクに座ろうとするボクにドラさんがウインクをしながら右手の親指を立てた。
「古!」ボクは心の中で突っ込みを入れながら「はい」と返事をした。
ドラさんは、満面の笑顔で何度もうなずきながら、今度は両手の親指をゆっくりと順番に立てる。
よほどこのポーズがお気に入りらしい。
ボクは「意地でもサムズアップをしないぞ」と決意しながら、ぎこちない笑顔で返した。
と、そこへ営業事務のリカの声が飛んだ。
「リョウ!ロイヤル自動車のセコ課長から電話!何だかえらくとげとげしい声だよ。
相当急いでいるみたい」悪い予感がした。
ボクは点滅しているボタンを押して電話に出た。
「はい。
え?そ、それは本当ですか。
も、申し訳ありません。
はい。
……はい。
本当に申し訳ありませんでした。
はい。
申し訳ありません」ボクは電話機に向かって深々とお辞儀をしながら、心臓が縮み上がるのを感じていた。
「リョウ、何かあったの?大丈夫?」リカが心配そうにのぞき込む。
「ボクが、ついうっかりしていたばっかりに……ドラさん。
すみません。
とんでもないミスをしてしまいました」我が営業一課の主要クライアントであるロイヤル自動車から、インターネット広告の大型受注をいただいたのは先月のこと。
しかし、ボクはやらかしてしまった。
セコ課長から要望されていた広告制作のポイントをクリエイティブ部門に伝えるのを忘れていたのだ。
だから、できあがった広告はセコさんの要望とは全然違うものになってしまった。
「いったいおまえたちの会社はどうなっているんだ?今からつくり直したら間に合わないよ!もういい。
今回の仕事はキャンセル。
他の代理店に頼むから。
二度と来なくていい」ボクはドラさんに経緯をお伝えし、もう一度深々と頭を下げた。
このキャンセルでボク個人だけでなく、一課、いや会社全体の数字に大きな穴があいてしまうことになる。
それだけではない。
先輩たちが代々実績と信頼を築き上げてきた我が社のビッグクライアントから出入禁止を申し渡されてしまったのだ。
これは、全社的に考えても、一大事だ。
ボクは心臓だけでなく胃袋までもが縮み上がるのを感じていた。
ボクはドラさんの前で長々と下げていた頭を恐る恐る上げてみた。
いくら優しいドラさんでも怒っているに違いない。
しかし、予想に反してドラさんはニコニコと笑っていた。
ボクは驚いた。
ドラさんは、ボクのカバンを手に持ってボクにつきつけながらこう言った。
「さあ、リョウ君。
もたもたしている暇はないぞ。
一緒に出発だ。
ピンチはチャンス。
そういえば、セコさん、課長になったんだね。
帰任の挨拶に行かなくちゃいけないと思っていたから、ちょうど良かったな。
お祝いの言葉も言わなくちゃ。
さぁ、行くぞ!」それから二時間後。
ドラさんとボクはクレーム対応を終えて、会社の近くで一緒にランチを食べていた。
今回はドラさんのお陰で何とか出入禁止を免れることができた。
ドラさんがまだ営業マンだった頃、セコさんも新人の宣伝マンだったらしい。
深刻な表情で深々と頭を下げるボクの隣で、二人はお構いなしに満面の笑顔で抱き合っていたのだ。
セコ課長の声が弾んでいる。
「ドラさん!ドラさんじゃないですか!懐かしいなぁ!アメリカから帰ってきたんですね。
また、二人で新橋の赤提灯に行きましょうよ!」お陰で何とか最悪の結末だけは逃れることができた。
しかし、キャンセルになった売上は戻らない。
すっかり落ち込んだボクを見ていたドラさんの目が光ったように感じた。
「リョウ君。
もう、宿題を忘れたのかい?『できていないところではなく、できているところに注目する』だっただろう。
覚えてる?」ずるずるとチャーシュー麺をすすりながらドラさんはそう言った。
額に玉のような汗がいくつも浮かび、昭和初期の文豪のような小さな丸眼鏡は曇っている。
「でも。
今回のような大失態に目をつぶるわけにはいきません。
否が応でも『失敗』という言葉が頭に浮かんできてしまいます。
頭から追い出すことなんて不可能です」「ほぉ、リョウ君は今回のことを『失敗』だと思っているんだね」「当たり前じゃないですか。
これが失敗でなくて、何だと言うんですか」「ボクはそうは思わないよ。
ボクはね、これはキミにとっての素晴らしい『経験』だと思うんだよ。
良かったじゃないか!これでキミはミスの重大さに気づき、セコさんの気持ちがよぉくわかった。
それもこれもこの経験のお陰じゃないか!良かったね!」ドラさんは何ということを言い出すのだろう。
しかし、ドラさんの言葉をもう一度噛みしめて考えてみると、それも一理あるな、と感じ始めた。
そして、同時に心がふっと軽くなっているのを感じた。
「失敗ではなく経験、か。
そういう考え方もできるなぁ」
そう思いかけたが、いやいや、そんなごまかしをしてはいけない。
それはちょっと無理がある。
事実をねじ曲げてはいけないぞ、と生真面目なボクの一面がむくむくと起き上がってくるのを感じた。
「リョウ君。
何か思うところがあるみたいだね。
キミは本当に心の中が全部表情に表れるねぇ」ドラさんがニヤニヤしながら言った。
どうやらボクはラーメンを箸でつまみあげたまま、しかめっ面で考え込んでしまっていたようだ。
お恥ずかしい。
ボクは麺をすすって、一息ついてから答えた。
「ドラさん。
それはちょっとこじつけがすぎるんじゃないですか?」「ほぉ。
キミはこじつけ、だと思っているんだね。
事実ではない、と」「はい。
そう思います。
無理矢理すぎます」「リョウ君。
キミは円錐って知っているかい?」「はい。
小学生のときに習いました。
底が円になっていて、上に行くほど細くなって、てっぺんが針の先のように尖っている、あの形ですね」「その通り。
では、質問するよ。
円錐を真横から見たらどんな形かね?」「三角です」「ビンゴ!」ドラさんはまたウインクをした。
ボクはもう気にしないことにした。
「では、円錐を持ち上げて底のほうから見たらどんな形?」「え、っと。
はい。
円です」「ご名答!」あっ。
そういうことか。
ボクは気がついた。
と同時に、自分が膝を叩いていることにも気がついた。
ボクのリアクションも結構古い。
ドラさんのことをバカにできないぞ。
「リョウ君。
気づいたようだね。
円錐は、横から見ると三角。
でも、底から見ると円。
じゃあ、どっちが本当でどっちがニセモノかな?そう。
両方本当だよね」そうか。
「失敗」も本当だけど「経験」も本当だ。
そして、そのどちらに注目を与えるかはボクが決めることができる。
「失敗」に目をつぶるのではなく、「失敗」を見つめる時間を減らせばいい。
その分「経験」という面に注目する時間を増やすんだ。
そのほうがはるかにエネルギーが高まる。
挽回するエネルギーが湧いてくる。
そういうことか。
「ドラさん、わかりました!今回の件は『失敗』という面もあるけれど『経験』という面もある。
どちらも本当です。
『経験』は、こじつけなんかじゃない。
そして、どちらにより注目を与えるかはボクが決めることができる。
『豚もおだてりゃ木に登る』でしたね」「そう。
その通りだ。
よく覚えていたね、リョウ君。
人が困難という上り坂を登るには心のガソリンが必要だ。
それをアドラー心理学では『勇気』と呼ぶ。
困難を克服する活力、心のガソリンが勇気だ」「もし、キミが今回の件で『失敗』という面ばかりに注目をすればするほど、心のガソリン、勇気は減っていくだろう。
その結果、キミの挽回するエネルギーが奪われていく」「しかし、キミがきちんと『経験』という側面に注目を与えれば心のガソリン、勇気は増えていく。
つまり、挽回するエネルギーが高まるに違いない。
さあ、キミがしたいのはどっちだい?」ボクが前回ドラさんから学んだのは「できているところ」に注目する、ということだった。
今回のロイヤル自動車のトラブルには「できているところ」なんてない、とボクは思っていた。
でも、そんなときは、別の面から見れば「できているところ」が見つかる、ということをボクは学んだ。
円錐の横から見るだけでなく底から見る。
そんな風に「多面的」に見れば必ず「できているところ」は見つかるだろう。
そうしたら、そこをずっと見つめればいい。
「できていないところ」に注目を与えるクセを変えていけばいいんだ。
ボクは、パシッともう一度膝を叩いて思わず叫んだ。
「ドラさん!わかりました!ボクはロイヤル自動車さんでのミス、という、素晴らしい『経験』をできたんですね!」しかし、ふと見るとドラさんは席にいなかった。
え?どこに?と、厨房の入り口で白いコック帽を被った中国人らしき調理師とドラさんが笑顔で抱き合っているのが目に入った。
ドラさんはなにやら中国語らしき言葉をぺらぺらとしゃべっている。
そして調理師から小皿を手渡されると分厚く切った脂身たっぷりのチャーシューをぱくぱくと食べ始めた。
二人ともに満面の笑顔だ。
「おーい、リョウ君。
この店に来たら、ラーメンではなくチャーシュー麺を頼むんだぞ。
チャーシューはダイエットの敵とも言えるが、別な面から見れば、心の健康には最高だ」「いいかい。
『多面的』にものごとを意味づけて見るんだ。
そしてポジティブな面に注目するんだ。
わかったかい!チャーシュー麺だぞ!」[ドラさんの宿題]多面的に意味づけて見る。
ポジティブな面に注目する
[コラム]リフレーミングで多面的に意味づける現在、うつ病に対するカウンセリングの主流の一つになっているのが認知行動療法です。
この手法の理論的バックグラウンドを確立した一人にアルバート・エリスという心理学者がいます。
彼はアドラーの影響を強く受け、北米アドラー心理学会員でもあります。
本章でドラさんがリョウ君に伝授した「多面的に意味づける」という技法は一般にリフレーミングReframing(認知の枠組み〈Frame〉を再び〈Re〉設定するという意味)と呼ばれ、エリスが提唱したABC理論の流れを汲んでいると考えられています。
エリスは「できごと(Activatingevent)」は一人ひとり異なるそれぞれの「信念(Belief)」に基づいた「認知(Cognition)」により規定されると考えました。
そこで、「無益」な感情や行動を変えるには「できごと」をではなく「非合理的な信念(IrrationalBelief)」を合理的(Rational)なものに書き換えることが必要だ、と考えました。
その手法が今回ご紹介したリフレーミングというわけです。
もっともこの考え方はアドラー心理学の中核概念そのものと言えるでしょう。
ですから、エリスやさらにはアーロン・ベックなどが体系化した認知行動療法は、アドラーの考え方を使いやすくパッケージに仕立てたものである、と言えるかもしれません。
コメント