第1章戦略は「ストーリー」
◆論理と実践
この本は競争の戦略についての本です。
流れと動きを持った「ストーリー」(narrativestory)として戦略を捉える視点にこだわって、競争戦略と競争優位の本質をじっくり考えてみようというのがこの本の主題です。
そもそも戦略とは何か、ストーリーとしての競争戦略とは何を意味するのか、こうしたことは後ほどゆっくりお話しするとして、まずは私の話のスタンスをはっきりさせておきたいと思います。
言いたいことは、「論理」が重要だということです。
まわりくどく感じるかもしれませんが、世にあふれている「戦略」の議論に(私に言わせれば)おかしな話が少なくないのも、戦略を支える肝心要の論理をないがしろにしているからです。
どうかしばらくおつきあいください。
この本を手に取って読んでくださっている方々の多くは、ビジネスを実践している実務家だと思います。
皆さんのような実務家に対してお話をする機会を、私はこれまでに数多く経験してきました。
そうしたときに、いつも私は思います。
私の話を聞いて実務家の頭によぎるのは、こういうことなのではないでしょうか。
「おまえに何ができる?偉そうなことを言うな!」私はこういう実務家の気持ちがよくわかります。
時々は面と向かって言われたりもしますので、痛いほどわかります。
戦略論という、なまじっか「実践的」な分野で学者稼業をしていると、経営や戦略を仕事として実践している人々とのインターフェースがどうあるべきなのか、真剣に考えざるをえません。
皆さんは、それぞれの実践世界で、何らかの「解くべき課題」に直面していることでしょう。
そして、それは普通ちょっとやそっとで解決がつく問題ではないでしょう。
資源や時間の制約の中でどうやったら業務プロセスをもっと効率化できるか。
どうすれば競争力のある製品を開発できるか。
そもそもどうやったら業績が上がるのか。
とても具体的で切実な問題があるはずです。
しかも課題の中身は一人ひとり違います。
今、一〇〇人の実務家がいれば、そこには一〇〇通りの、それぞれに異なった「解くべき課題」があるはずです。
一方の私はというと、いわゆるビジネスの「実務経験」はありません。
私は学生の頃から、自分がビジネスの方面に進むとまずいことになるだろうという確信(?)がありました。
子どもの頃から、競争となるとどうにもダメなのです。
厳しい競争や利害関係にできるだけ巻き込まれず、自由気ままに好きなことだけして生きていきたいな、というのが私の漠然とした将来についての希望でした。
できることなら歌舞音曲の方面でユルユルとやっていきたかったのですが、それもままならず、流れ流れて行き着いた先が今の学者という仕事です。
皮肉なことに、「ビジネス」スクールで「競争」戦略を教えているのですが、それでも利益を追求するビジネスではないことには変わりありません。
大学はNPO(非営利組織)であります。
いずれにせよ、私のような立場の人間が皆さんのような実務家に話をするとして、その価値なり意義はどこにあるのでしょうか。
一〇〇通りの解決すべき問題のすべてについて、こうやったらいいですよ、こうすればたちどころに業績が上がりますよ、というような個別のソリューションは率直にいってありません。
経営学と経営は違うのです(一緒だったら、私はそもそも学者商売を選んでいません)。
「学者の話を聞いて良くなった会社はない」という金言(?)もあるそうです。
「机上の空論」という言葉があります。
この言葉の意味するところを、私は図1・1のように理解しています。
ビジネスの成功を事後的に論理化しようとしても、理屈で説明できるのはせいぜい二割程度でしょう。
丹羽宇一郎さんは「経営は論理と気合だ」と言います★1。
理屈で説明できないものの総称を「気合」とすれば、現実の戦略の成功は理屈二割、気合八割といったところでしょう。
あっさりいって、現実のビジネスの成功失敗の八割方は「理屈では説明できないこと」で決まっている。
「理屈では説明できないこと」とは何でしょうか。
まず、「運が良い」ということがあります。
運が良いこと、これはどう考えてもビジネスの成功を大きく左右する要因です。
幸運は理屈ではとうてい割り切れません。
もっと大切なものに「野性の勘」があります。
ビジネスは多かれ少なかれ「けもの道」です。
その道の経験を積んだ人しかわからない嗅覚がものを言います。
右か左かどちらに行くべきか、判断を迫られたときに野性の勘で右を選び、五年経って振り返ってみたら、あのときのとっさの判断が効いていた、というようなことはしばしばあります。
これもまた理屈では十分に説明できません。
野性の勘なり嗅覚は、さまざまな実務の局面で有効な判断基準のようなもの、「こういうときはこうするものだ」というフォームのようなものです。
自分のけもの道を「走りながら考える」ことによって、実務家は判断基準なりフォームを構築していきます。
自らの一連の行動が貴重な実験です。
自分(や日常的に観察できる周囲の人々)の行動の一つひとつが判断基準の有効性を検証するためのサンプルになります。
けもの道を日々走り、走りながら考える中でフォームが練り上げられ、これが野性の勘を研ぎ澄ませるわけです。
実務家であっても、完全に個別の具体的な現実にべったり張りついて、本当の意味での「直感」で場当たり的に判断し、行動しているかというと、そんなことはありません。
優れた実務家は、必ずといっていいほど何らかのフォームを持ち、それを野性の勘の源泉として大切にしているはずです。
学者のいう「理論」ではありませんが、その人に固有の思考や判断の基準があるのです。
当人にとっての有用性という意味では、野性の勘が一番上等です。
自動車を運転しているときのことを考えるとわかりやすいでしょう。
車で走っている人ほど、よく「見える」のです。
ちょっとした障害物があっても、すぐにそれを認識し、ハンドルを切るなどして素早く反応し、適切な行動をとれます。
これは立ち止まっている人間には、なかなかできない芸当です。
そのけもの道を走っている人だけが、走っているがゆえに、きちんと見ることができるのです。
この比喩でいうと、学者とは、さまざまなけもの道を走っている人を眺めながら考えているという人種です。
実務家に見えるものが学者には見えません。
ましてや、迅速で適切なアクションもとれません。
立ち止まっているからです。
実務家にとって本当に有用なのは、結局のところ一人ひとりがそれぞれの仕事の経験の中で練り上げていくフォームであり、研ぎ澄まされた嗅覚のほうです。
学者の考える理屈は、実務家の野性の勘に遠く及びません。
だったら、理屈なんて考えないで、さっさとけもの道を邁進したほうがいい。
「学者の理屈は机上の空論」と揶揄される成り行きです。
◆「無意味」と「噓」の間
理屈では説明がつかない野性の勘が勝負の八割を決める。
そのとおりだと思います。
しかし、それでもなお、私は学者と実務家がやり取りすることには意義があると思っています(そうでないと、この本はここで早くもおしまいになってしまいます)。
図1・2をご覧ください。
理屈(論理)と理屈でないものの比率は一緒です。
八割は理屈では説明がつかないにしても、ビジネスのもろもろのうち二割は、やはり何らかの理屈で動いているわけです。
「ここまでは理屈だけれども、ここから先は理屈じゃない」というように、左から右へと考えてみてください。
すると、「理屈じゃないから、理屈が大切」という逆説が浮かび上がってきます。
何が理屈かをまるでわかっていない人には、「理屈じゃない」ものが本当のところ何なのかもわかりません。
私も実務家の方々と議論しているときに、「まぁ、理屈としてはそうですが、現実は理屈じゃないので……」と言われることが少なくありません。
しかし、私の経験からすれば、「現実は理屈じゃない」という声に迫力を感じる実務家に限って、総じて理屈っぽく、論理的なのです。
「いやー、ビジネスなんて理屈じゃないよね」ということで、のっけからけもの道を爆走しているだけでは、肝心の野性の勘をつかめないはずです。
野性の嗅覚が成功の八割にしても、二割の理屈を突き詰めている人は、本当のところ何が「理屈じゃない」のか、野性の嗅覚の意味合いを深いレベルで理解しています。
「ここから先は理屈ではなくて気合だ」というふうに気合の輪郭がはっきり見えています。
だからますます「気合」が入り、「野性の勘」に磨きがかかる。
「理屈じゃないから、理屈が大切」なのです。
ここでいう理屈、堅くいうと「論理」、これは何を意味しているのでしょうか。
論理(logic)とは、「AならばBである」というように二つ以上の思考や現象をつなぐ理由づけ(reasoning)を指しています。
ですから、論理はwhatやhowやwhenよりも、一義的にはwhyを問題にしています。
一般的な定義でいえばこのとおりなのですが、経営や戦略を考えるという文脈では、論理とは「無意味」と「噓」の間にあるものとして理解できます。
この本を読んでくださっている皆さんは、経営とか戦略といった方面にご関心がある方々でしょうから、いわゆる「ビジネス書」を手に取ってご覧になることも少なくないと思います。
書店のビジネス書の棚のところに行くと、ありとあらゆる分野についての本が所狭しと並んでいます。
こういう本を書いている私がいうのもちょっと何ですが、私の見るところでは、そのうちの二割か三割程度は、ほとんど無意味なのではないかと思うのです。
タイトルは伏せておきますが、ある本を例にとって説明しましょう。
その本は、次の三つの主張を手を替え品を替え繰り返すという内容になっています。
第一に、日本経済はもはや成熟している。
第二に、だからイノベーションで付加価値をつくることが大切である。
第三に、差別化の武器としてはブランドが重要である。
私も著者の主張に基本的に賛成です。
しかし、こうした話はほとんど全く無意味だと思います。
なぜかといえば、この三つはいずれも自明のことだからです。
「ブランドが大切だ」と言っても、それは誰しもがふだんから思っていることですから、「そうだよね……」と納得するだけでおしまいです(仮に「ブランドなんて何の役にも立たない。
そんなものはどうでもいい」という主張をしている本があったら、ちょっと読んでみたいと思います。
そういうことを主張するためには、どうしても「論理」が必要になるからです)。
自明の主張は今に始まった話ではありません。
一七世紀の東インド会社の人々も、「イノベーションが大切だ」とか「ブランド力をつけましょう」と言っていたのではないでしょうか(さすがに「日本経済は成熟している」とは言っていなかったとは思いますが)。
誰にとっても自明の話は聞いていて耳に心地よく響くのですが、意味がないことには変わりありません。
一方で、いきなり「噓」の世界を展開する本も少なくありません。
たとえば「こうやったらブランド力が向上する!」というような「法則」を主張する類の本です。
法則とは、どこでも成り立つ、どんな文脈でも再現可能な一般性の高い因果関係を意味しています。
自然科学であれば、たとえば「この材料を使うとこの温度でも高温超電導が可能になる」という一般法則は成立します。
そうした自然現象の法則を求め、法則を定立しようとするのが科学の基本スタンスです。
ところが、この後でまたこの話題には戻りますが、結論を先にいうと、その種の法則は、幸か不幸か(たぶん「幸」のほうだと思いますが)、戦略論の対象にはなりえません。
経営や戦略は「科学」ではないからです。
小売業界でとてもうまくいった施策を鉄鋼業界にそのまま持ち込んでも、うまくいくとは限りません。
かえって変なことになるかもしれません。
同じ業界であったとしても、ある会社でうまくいったやり方であっても、他の会社で全く効果がないということはごく普通にある話です。
先ほどの「理屈二割の気合八割」の話に戻れば、もしそんな普遍の法則があったら、成功要因の一〇割を理屈で説明できてしまいます。
本当に一般性の高い法則があれば、その法則を取り入れて、それに従ってやっていればうまくいくのですから、経営などそもそも必要なくなります。
「こうやったら業績が上がる」という法則は、大変に魅力的に聞こえるのですが、こと経営に限っていえば、そうした主張はどこまでいっても噓なのです。
一橋大学の沼上幹さんは「どうすれば成功するのか教えてほしい」という実務家の問いに対して、次のような説得的な答えを提出しています。
この問いに対して経営学者に用意されている答え方が一通りしかないということはもはや明らかであろう。
すなわち、「法則はないけれども、論理はある」という答え以外に、社会科学の一分野としての経営学は用意できるものがないのである★2。
要するに、無意味と噓の間に位置するのが論理なのです。
経営や戦略を相手にしている以上、法則定立は不可能です。
しかし、それでも論理はある、「論理化」は可能だという主張です。
ストーリーとしての競争戦略も「法則はないけれども、論理はある」という立場に立って、優れた戦略ストーリーの論理を明らかにすることを目的としています。
そして、その論理というのは、「イノベーションが大切だよね!」というほど元も子もない話ではありません。
もう少し考えてみたほうがいい何か、しかもそれは実務の「けもの道」を走っているだけでは、なかなか見えない何かなのです。
◆戦略の論理化
戦略の論理化は実務家にとってきわめて大切です。
ここでは三つの理由を強調しておきます。
第一に、けもの道で身につく嗅覚は決定的に大切なのですが、その一方で、限界もあります。
それは、日々けもの道を走っていると、視野が狭くなり、視界が固定するという問題です。
走りながら考えている人は、どうしても視界が狭くなります。
先の車の運転のたとえ話にあるように、日常の理論はひとたび自分の視界の中に入ると非常によくものを見せてくれます。
しかし、見える範囲は限られてきます。
運転中によそ見をしていると危険だからです。
この傾向は高速で走っている人ほど顕著です。
厳しくなる競争の中で、人々はますます速く走ることを強いられています。
高速道路を走っている状態を想像してみてください。
速く走れば走るほど、どうしても視点も固定してきます。
ものがよく見え、的確な判断と行動ができるという野性の嗅覚の強みは、「走りながら考える」ということ自体にあるので、視野と視界の問題はすぐには解決のつかないジレンマです。
そこで、視点を転換し、視界を広げるために、他のさまざまな業界や企業や経営者に学ぶ必要が出てきます。
しかし、それはそう簡単ではありません。
ここに論理が大切になる第二の理由があります。
この後すぐにお話しするように、戦略はサイエンスというよりもアートに近い。
優れた経営者は「アーティスト」です。
その会社のその事業の文脈に埋め込まれた特殊解として戦略を構想します。
それが優れた戦略であるほど、文脈にどっぷりと埋め込まれています。
経営者が経験に即して語る戦略論は迫力に満ちていますが、ユーザーがその知見を自らの状況に当てはめるのは困難です。
いったん論理化して汎用的な知識に変換しておけば、(具体化能力のある)実務家は、その論理を異なった文脈に利用できるわけです。
反対に、論理化のプロセスがなければ、知見の利用範囲がきわめて狭くなってしまいます。
第三に、ありがたいことに論理はそう簡単には変わりません。
目前の現象は日々変化します。
だからこそ「変わらない何か」としての論理が大切になるのです。
以下の文章は『日本経済新聞』の記事からの引用です。
ちょっと読んでみてください。
いよいよ日本経済は先の見えない時代に突入したという感がある。
今こそ激動期だという認識が大切だ。
これまでのやり方はもはや通用しない。
過去の成功体験をいったん白紙に戻すという思い切った姿勢が経営者に求められる。
そのとおり、とうなずく人も多いと思います。
ただ、この記事は昭和も昭和、私が生まれた一九六四(昭和三九)年九月の『日本経済新聞』からの引用なのです。
昔の新聞をめくってみれば明らかなのですが、この数十年間、新聞紙上で「激動期」でなかったときはついぞありません。
今も新聞紙上では「今こそ激動期!」「これまでのやり方は通用しない」という全く同じような主張が躍っているのですが、新聞はいつの時代も「今こそ激動期!」です。
「これまでのやり方は通用しない」と何十年間も毎日毎日言い続けているわけです。
これはどういうことでしょうか。
マーヴィン・ゲイならずとも”What’sgoingon?”と言いたくなるところです★3。
激動期が何十年間も毎日続くというのは、論理的にいってありえません。
要するに、「変わっているけど変わっていない」というのが本当のところなのです。
為替レートや株価は定義からして毎日変わる現象です。
新しい市場や技術が生まれては消えていきます。
そういう意味では現象が「激動」するときもあるでしょう。
しかし、現象の背後にある論理はそう簡単には変わりません。
日々動いていく現象を追いかけることに終始してしまえば、目が回るだけです。
目を回してしまえば、有効なアクションも打てません。
そういう人には腰の据わった戦略はつくれないのです。
実際に考え、決定し、行動するのはあくまでも皆さんです。
本当の答えは皆さんの中にしかありません。
しかし、新しい視界や視点を獲得すれば、背中を一押しされるようにアクションは自然と生まれるものです。
この意味で「論理ほど実践的なものはない」と私は確信しています。
逆にいえば、新しい実践へのきっかけを提供できない論理は、少なくとも実務家にとっては価値がありません。
実践にべったりの処方箋は、ある特定の実務家にとって、特定の状況のもとでは有用でしょう。
しかし実践は、どこまでいっても一人ひとりに個別の問題です。
そうだとしたら、いわゆる「実践的なビジネス書」というものは実はひどく窮屈な話なのです。
即効性のある処方箋も、優れた戦略の「法則」もありません。
しかし、優れた戦略の「論理」は確かにあるのです。
ふだんから走りながらなんとなく考えていることであっても、一度立ち止まって頭の中から出してみて、じっくりと論理化してみれば、どうすればいいのか気づくことがあるはずです。
この本を読んでいる途中や読んだ後で、皆さんの視点が転換したり、視界が拡張するようなことが起きれば、それは私にとって大いなる成功です。
私はこのことを基準にして、これからの話を進めていきたいと思います。
◆戦略とは何か
「戦略」というのは実に使い勝手がいい言葉です。
皆さんもさまざまなビジネスの局面で戦略という言葉を見たり聞いたり使ったりしていると思います。
ただし、吸収力があるというか、入れようと思えば何でも入ってしまう言葉であるだけに、戦略という言葉のイメージや定義は人によってさまざまでしょう。
「日常の業務を超えた大局的な何か」として戦略を捉えている人もいるでしょうし、「短期的な目先の対応ではなくて、長期的な指針」と時間軸で戦略を考える人もいるでしょう。
教科書的な定義では、「組織がその目的を達成する方法を示すような、資源展開と環境との相互作用の基本的なパターン★4」とか書いてあるのですが、これではちょっとわかりにくい。
いずれにせよ、「戦略が良くない」とか「もっと戦略的にやりましょう」というときに、何が良くないといっているのか、どうしようといっているのか、ご自分の定義を思い浮かべてみてください。
たとえば、その辺を歩いているときに、「ところでおうかがいしますが、あなたの会社の戦略は何ですか?」と聞かれたら、どのように答えますか。
もちろん現実にこのような人がいたらかなり怪しいので警戒してしまうのですが、ここでお聞きしたいことは、業界の事情通でない、ごく普通の知的水準の人に、自社の戦略をどのように説明するか、ということです。
その答えに、あなたの戦略についての暗黙の定義があるはずです。
「あなたの会社はどういう会社ですか?」という質問であれば、答えは簡単です。
こういう製品を扱っていて、誰が得意先で、売上高はどれぐらいで、従業員は何人ぐらいで、どこにオフィスがあって……、というようにいくつも答えが出てくるでしょう。
ところが、「あなたの会社の戦略は?」となると、話が少し変わってきます。
答えにまごついてしまう人も多いのではないでしょうか。
「違いをつくって、つなげる」、一言でいうとこれが戦略の本質です。
この定義の前半部分は、競合他社との違いを意味しています。
競争の中で業界平均水準以上の利益をあげることができるとしたら、それは競争他社との何らかの「違い」があるからです。
他社との違いがなければ、経済学の想定する「完全競争」となり、余剰利潤はゼロになります。
だから違いをつくる。
これが戦略の第一の本質です。
詳しくは次の章でお話しします。
ここで強調したいのは戦略のもう一つの本質、つまり「つながり」ということです。
つながりとは、二つ以上の構成要素の間の因果論理を意味しています。
因果論理とは、XがYをもたらす(可能にする、促進する、強化する)理由を説明するものです。
個別の違いをバラバラに打ち出すだけでは戦略になりません。
それらがつながり、組み合わさり、相互に作用する中で長期利益が実現されます。
神戸大学の三品和広さんは、次のような三点の興味深い指摘をしています★5。
いずれも戦略の「つながり」という本質にかかわる重要なポイントです。
第一に、経営の問題の多くは、大きな事象を構成要素に分解し、そのうえで一つひとつの要素を別個に吟味しようとするアナリシスの発想に基づいている。
だから企業の組織デザインにしても、マーケティング、アカウンティング、ファイナンスといった構成要素に分解される。
第二に、しかし、戦略の神髄はシンセシス(綜合)にあり、アナリシス(分析)の発想と相いれない。
だから、戦略に対応する部署は企業の中に見つからない。
第三に、戦略は部署でなくて人が担う。
サイエンスの本質が「人によらない」ことにあるとすれば、戦略はサイエンスよりもアートに近い。
戦略は因果論理のシンセシスであり、それは「特定の文脈に埋め込まれた特殊解」という本質を持っています。
優れた戦略立案の「普遍の法則」がありえないのは、戦略がどこまでいっても特定の文脈に依存したシンセシスだからです。
ですから、多くの人々が優れた経営者に「戦略論」の知見を求めるのは自然な成り行きです。
優れた「アーティスト」が経験の中で練り上げた知見はとても有用です。
日本の経営者に限定しても、ヤマト運輸の小倉昌男さんの『経営学★6』や、複数の企業再生に成功したのちにミスミの経営者となった三枝匡さんの一連の著作★7はその代表例です。
「論」のスタンスをとらない「自叙伝」「箴言集」的な書物からも、多くの有用な戦略についての知見を引き出すことができます。
日本電産の永守重信さん★8や伊藤忠商事の丹羽宇一郎さん★9、ファーストリテイリングの柳井正さん★10、こうした優れた経営者の著作はその好例です。
こうした優れた経営者による戦略論は迫力があります。
第一に、当人の特殊な文脈の中で練り上げられた知見であるので、戦略の文脈依存性が確保されています。
第二に、実際に丸ごと作動したシンセシスであるので、因果論理が骨太です。
第三に、最も重要なこととして、その経営者は現実に成功(もしくは失敗)しているので、成果との因果関係が(少なくとも結果においては)強力に確保されています。
この種の迫力には学者の戦略論が遠く及ばないものです。
たとえば、永守さんの主要なメッセージは「すぐやる、必らずやる、出来るまでやる」ですし、丹羽さんのそれは「汗出セ、知恵出セ、モット働ケ」です。
柳井さんが二〇〇七年に全社に向けて打ち出した方針は、「儲ける」の一言でした。
本質を短い言葉にしてしまえばそういうことなのですが、実行と経験に裏打ちされた主張を通して読めば、きわめて骨太な「論理」が浮かび上がってきます。
自分でやったこともなければ、成果も示すことができない私が、実務家に向かってこの種の主張を文字どおり口にしたとすれば、黙殺されるか、冷笑されるか、殴られるかのいずれかでしょう。
◆「セオリーG」
アーティストが書いた戦略論の名著の一つに、ハロルド・ジェニーンさんの『プロフェッショナルマネジャー』があります★11。
邦訳の副題に「58四半期連続増益の男」とあるように、ジェニーンさんは一九五九年から一七年間、アメリカのITTのCEOとして華々しい成果をあげた名経営者です。
この本はアーティストによる戦略論としてとても優れているのですが、とりわけ面白いのは、ジェニーンさんが「経営理論」を全く信用していないということです。
自らの長期にわたる経営経験に基づいて、ジェニーンさんは世にある経営理論のうさんくささをこっぴどく批判します。
ジェニーンさんは、経営理論というものはサーカスのような錯覚の魔術にすぎない、と言います。
それでもわれわれは性懲りもなく、錯覚の魔術を見にサーカスや劇場へ行くことをやめない。
われわれは常に何かの種類の妙薬、誇大なうたい文句とともに売り出される特効薬を求めてやまない。
ビジネスの世界ですら、この事情は変わらず、そこではそうした妙薬は新理論と呼ばれる。
というのは、われわれは常に複雑な問題を解いてくれる単純な公式を求めているからである。
こぎれいに包装され、魅力的なラベルが貼られているものならほとんど何でも、効能への期待を込めて糖衣錠のようにのみくだされる。
ビジネス理論というものは、おおむねそうしたものだ。
…(中略)…そうした理論のどれ一つとして、うたい文句どおりには役立たないことを知らされた。
…(中略)…実際、職業人としての私の全生涯を通じて、公式の組合せや図表や経営理論によって自分の会社を経営しようとした(いわんや、それに成功した)最高経営者には、いまだかつて出会ったことがない。
趣味や服装の流行のように、ビジネス理論は次々に現れては消えていくものだ。
…(中略)…(経営理論の)「達人」たちは、バカでなければ、やがてそうした方式はビジネスの世界では、実験室の化学者や物理学者が用いる不易の公式のように通用しないことを悟る。
真実はただ、ビジネスは科学ではないというだけのことだ。
当時世の中を席巻していたPPM(ProductPortfolioMatrix)のフレームワークにしても、ジェニーンさんにしてみれば「とてもついていけない代物」です。
PPMを導入すれば、約二〇年間にわたってITTで築いてきたもの、目標に向かって全速力で前進する一つのチームになった経営への信頼を台無しにしてしまうというのが彼の結論です。
自分たちの利益をよそに持っていかれ、将来の成長の見込みがない「キャッシュ・カウ」のレッテルを張られた事業部で誰が働きたいと思うだろうか、とジェニーンさんは批判しています。
ジェニーンさんがこの本を出した頃、アメリカでは最新の経営理論として「日本的経営」がもてはやされていました。
その代表例が「セオリーZ」です★12。
セオリーZは、それ以前にあったダグラス・マクレガーさんの「セオリーX」と「セオリーY」にちなんでつけられた名前です★13。
セオリーXとセオリーYは二つの異なった経営についての前提を対比したものです。
人間は必要以上に働くのが好きでなく、自分の職務を果たすのに必要以上の責任は持ちたくない、これがセオリーXの前提です。
この前提に基づくと、厳格な指揮系統を軸として経営することが大切になります。
これに対してセオリーYは、人間は内心では自己の最善の能力を発揮したいと望んでいるという前提です。
そうだとすると、意思決定に積極的に従業員を参加させ、組織に共同体的なチームワークを定着させるような経営が効果的となります。
ところが、ジェニーンさんは、「いかにも手際よくまとまったこれらの理論の難点は、私の知る限り、セオリーYあるいはセオリーXに厳密に従って経営されている会社は一つもないということだ。(セオリーXの典型とされる)軍隊でさえ、そんなことは行われていない」と言います。
セオリーZは日本的経営の優位を、終身雇用に代表される従業員の重視、労使の協調、社員の会社に対するロイヤリティーとコミットメント、共同体的な企業文化といった、アメリカの経営との違いに注目することによって説明しようとします。
セオリーZについてのジェニーンさんの見解は以下のとおりです。
そんなふうに言われると、バラ色の、静謐な、思いやりのある日本企業の職場に比べて、アメリカの事情は灰色で、寒々しく、ストレスに満ちているように見える。
実際はそれほどひどく対照的ではないと私は思うが、たとえそうだとしても、われわれアメリカ人は個人の自由と個人的機会の平等の伝統を、日本人の中に深く根を下ろした温情主義と謙譲と無私と交換したいと思うだろうか?また、仮にそうしたいと思ったとしても、できるだろうか?われわれとはなはだしく異なった日本人の生活様式は、何世紀にもわたって培われた文化に根差すものであり、日本の近代産業の経営はその根深い文化の上に、他にはありようのない発展の仕方で形成されたのである。
…(中略)…アメリカの働く男女が、日本の家族主義的な会社のやり方を取り入れて、GMやITTや、あるいはベル・システム社の社歌を歌って一日の仕事を始める情景を思い描くことは私にはできない。
セオリーXにせよYにせよ、あるいはZにせよ、どんな理論も複雑な問題を一挙に解決してくれるということはありえない。
要するに、ジェニーンさんは、「文脈に埋め込まれたシンセシス」という戦略の第二の本質を強調しているわけです。
日本企業とアメリカ企業は異なった文化的な文脈に置かれている。
だから日本でうまくいくことがアメリカでもうまくいくとは限らない。
同じアメリカの企業でも、それぞれに異なる文脈のもとで動いている。
だから、よその会社でうまくいく戦略であっても、ITTでうまくいくとは限らない。
戦略なり経営というものはどこまでいっても、その会社や事業の特定の文脈に埋め込まれたシンセシスであって、さまざまな断片をつなぎ合わせた総体として初めて意味を持つ。
経営はサイエンスでなくアートだ。
それなのに、「経営理論」は全体を無理やり要素に分解して、個別の要素を文脈から引きはがしてああだこうだとこねくり回す。
だから理論には意味がない、というのがジェニーンさんの苛立ちです。
ジェニーンさんは究極の理論として「セオリーG」を提示しています(Gはジェニーンさんの頭文字)。
それはこういうものです。
「ビジネスはもちろん、他のどんなものでも、セオリーなんかで経営できるものはない」。
◆「ストーリー」とは何か
実体験の迫力を出そうとしても出せない経営学者としては、特定の文脈に埋め込まれたシンセシスとして戦略を扱いながらも、経営者とは違ったアプローチで、しかし実務家にとって有用な戦略論を語る必要があります。
そこで私がたどり着いたのが、「ストーリーとしての競争戦略」という視点なのです。ストーリーの戦略論は、因果論理のシンセシスという戦略の本質を正面から捉える視点です。
ストーリーとしての競争戦略は、「違い」と「つながり」という二つの戦略の本質のうち、後者に軸足を置いています。
競争戦略は、「誰に」「何を」「どうやって」提供するのかについての企業のさまざまな「打ち手」で構成されています。
戦略は競合他社との違いをつくることです。
さまざまな打ち手は他社との違いをつくるものでなくてはなりません。
しかし、個別の違いをバラバラに打ち出すだけでは戦略になりません。
それらがつながり、組み合わさり、相互作用する中で、初めて長期利益が実現されます。
ストーリーとしての競争戦略は、さまざまな打ち手を互いに結びつけ、顧客へのユニークな価値提供とその結果として生まれる利益に向かって駆動していく論理に注目します。
つまり、個別の要素について意思決定しアクションをとるだけでなく、そうした要素の間にどのような因果関係や相互作用があるのかを重視する視点です。
戦略をストーリーとして語るということは、「個別の要素がなぜ齟齬なく連動し、全体としてなぜ事業を駆動するのか」を説明するということです。
それはまた、「なぜその事業が競争の中で他社が達成できない価値を生み出すのか」「なぜ利益をもたらすのか」を説明することでもあります。
個々の打ち手は「静止画」にすぎません。
個別の違いが因果論理で縦横につながったとき、戦略は「動画」になります。
ストーリーとしての競争戦略は、動画のレベルで他社との違いをつくろうという戦略思考です。
サッカーにたとえるとわかりやすいでしょう。
相手チームに勝つために、どこのポジションにどういう選手を配置するかという問題は戦略を構成する「点」です。
しかしそこで選ばれ、配置された選手たちが繰り出すパスがどのようにつながり、ゴールへと向かっていくのかは、点を結びつける「線」の問題です。
サッカーの戦略というのは、要するにそのチームに固有の「攻め方」なり「守り方」を意味しているわけですが、攻め方なり守り方はいくつもの線で構成された「流れ」や「動き」として理解できます。
戦略の実体は、個別の選手の配置や能力や一つひとつのパスそのものではなくて、個別の打ち手を連動させる「流れ」、その結果浮かび上がってくる「動き」にあるのです。
ストーリーとしての競争戦略とは、「勝負を決定的に左右するのは戦略の流れと動きである」という思考様式です。
将棋や囲碁にしても同じ話で、普通私たちが戦略というときは、意識しているか無意識かは別にしても、個々の打ち手ではなく、打ち手をつなぐ流れ、勝利に向けたストーリーをイメージしているはずです。
戦略をストーリーとして捉える思考は、何も新しい話ではなく、素朴なレベルではごく自然な理解です。
個別の要素についての意思決定(たとえば、ある製品の生産を社内でやるか、それとも外部企業に任せるか)は、基本的にwhatやwho(whom)やhowやwhereやwhenを確定するということです。
こうした個別の打ち手に対して、戦略ストーリーが問題にするのはwhyです。
右で「線」とか「流れ」といっているのは、なぜある点がもう一つの点につながるのか、ある打ち手がなぜ次の打ち手を可能にするのか、という因w果論理に注目しています。
戦略を一連の流れを持ったストーリーとして考えなくてはならないゆえんです。
◆戦略の「流れ」と「動き」
マブチモーターは技術的に成熟した、小型モーターを専門につくっている会社で、一見してあまり儲かりそうもない業界に身を置いているのですが、高い利益率を長期的に維持してきました。
いずれまた事例として詳しくお話ししますが、小型モーター事業について、マブチの考えたそもそものストーリーは、最も単純化していえば「大量生産によるコスト競争力で勝つ」というものです。
「大量生産」という打ち手と「低コスト」をつなげる線は、「規模の経済」という、ごくありふれた論理です。
これだけならば話は単純なのですが、マブチの戦略ストーリーが面白いのは、大量生産につながる打ち手として、「モーターの標準化」という意思決定をしたことにあります★14。
今でこそ「標準化」は当たり前のように聞こえますが、当時のモーター業界では常識に反した「禁じ手」でした。
玩具やドライヤーなどの家電製品に使われていた小型モーターは、それぞれのセットメーカーからの特定仕様の注文を受けて、それに合わせて生産されていました。
セットメーカーは自社の競争力を高めるために製品差別化を行おうとするので、それに内蔵するモーターも少しずつサイズや特性を変えなければなりませんでした。
受注生産時代のモーターは典型的な多品種少量生産でした。
モーターを特定少数のモデルに標準化すれば、これまでの少量生産のくびきから解放されて大量生産が可能になるだろう。
マブチの顧客であるセット(モーターを組み込んだ完成品)業界にしても、競争が激しいところばかりで、製品開発のサイクルも早まる一方だ。
一円でも安く、一日も早い開発を迫られるユーザーにとって、モーターの標準化は初めのうちは抵抗があるだろう。
しかし、そこを我慢すれば長期的には経済合理性を認められるはずだ。
そのうちにユーザーが次々とマブチの標準モーターを買うようになれば、さらに標準モーターに対する抵抗は薄れ、マブチにとってはますます規模の経済がコストを下げるという好循環が生まれるだろう……。
こうしたストーリーが構想されたのです。
標準化の他にも、それを取り巻くように、玩具や生活家電以外の「新しい市場の段階的な開拓」、中国を中心とする「海外での直接生産」、意図的に自動化の水準を下げた「労働集約的な生産ライン」、支店や営業所を持たない「一極集中の営業体制」といった手をマブチは打ちました。
そうしたいくつもの打ち手が相互に因果論理でつながり、全体として「標準化→大量生産→規模の経済→低コスト」という長期利益をたたき出すシュートを可能にしました。
その背後には、さまざまな打ち手がなぜ結びつき連動していくのかについての論理を突き詰めた独自のストーリーがありました。
マブチの成功は、個別の打ち手が功を奏したというよりも、ストーリーの勝利でした。
小説や映画のストーリーに優れたものとそうでないものがあるように、戦略にもストーリーとしての優劣があります。つまり、戦略ストーリーの「筋の良し悪し」です。
第3章で詳しくお話しするように、戦略ストーリーの筋の良さとは、戦略のシンセシスを支える因果論理がしっかりしており、ストーリーとしての一貫性が高いということを意味しています。
短絡的な因果論理だけで組み立てられた戦略は成功しません。成功するとしたら、よっぽど外的な条件が整っていたか、とにかく運が良かったかのどちらかです。
たとえば、「中国の競合企業が台頭してきて、価格競争が激しくなった。コストを落とさなくてはならない。自社生産をやめて、中国の組立専門の製造企業へのアウトソーシングに切り替えよう」、これは「筋の悪い」話の典型です。
中国企業へのアウトソーシングに切り替えれば、自社でつくるよりも労働のコストが安くなります。この話に論理が全くないとはいえません。ですが、ストーリーがあまりにも短絡的です。
その中国企業へのアウトソーシングが他社にとっても可能であるとすれば、自社生産と比べてコストが下がったとしても、競争相手に差をつけることにはなりません。
自社生産を取りやめてしまえば、生産技術の蓄積が途絶えてしまいます。アウトソーシングを円滑に進めるために何らかの技術供与が必要になるかもしれません。
独自の技術が流出し、長い目で見れば、これまで競争力を支えていた強みを喪失することになりかねません。
これはあくまでも仮想的な一例であって、中国企業への生産委託が一般的に「悪い戦略」だというわけではありません。
因果論理が短絡的で、「筋の悪い」話になっていることが問題なのです。そもそも「話になっていない」といったほうがよいでしょう。
マブチモーターは一九五四年に日本国内の自社工場で操業を始めたのですが、一〇年後の一九六四年には早くも香港マブチを設立し、海外での現地生産に着手しています。
一九六九年には台湾、八六年には中国の広東、八七年に大連、八九年にマレーシア、九六年にベトナムと海外生産拠点は東アジア一帯に広がりました。
一九九〇年代に入ると日本国内での生産拠点は事実上閉鎖され、全量を海外生産しています。
中国をはじめとするアジア諸国への直接投資による生産移転は、今でこそ当たり前になりましたが、マブチはその先駆けとなる企業でした。
その後、二〇〇〇年代に入って多くの日本企業が中国での海外直接生産を始めるようになると、マブチは中国進出の先駆的な事例として注目を集めることとなりました。「先見の明」があったというわけです。
しかし、戦略ストーリーの筋の良さは、他の要素とのつながりの文脈でしか決まりません。
マブチの先行的な中国での現地生産は、もちろん先見の明もあったでしょうが、それ以上に他の打ち手と因果論理できちんとつながっていたということが大切です。
マブチはブラシつき小型モーターという最も技術的に成熟した分野に特化し、さらに重要なこととして、「モーターの標準化」を戦略のカギとしていました。
技術的に成熟した製品であれば、中国での労働集約的な生産ラインに適していますし、中国での安価な労働力の恩恵を享受しやすくなります。
製品が標準化されていれば、多種多様なモデルをつくる必要がそもそもないので、熟練の程度が低い労働力に依存したとしても、深刻な問題にはなりません。
同じものを長期間ひたすらつくり続けるので、熟練の形成も容易です。
マブチの成功を見た同業他社が、中国現地生産の戦略を「ベストプラクティス」として導入したとしても、周囲の打ち手とのつながりに欠けていれば、かえって筋の悪い話になってしまいます。
ストーリーの断片を切り取ったスチール写真を見るだけでは映画が評価できないのと同じように、ストーリー全体を通して見ないことには、筋の良し悪しは判断できません。
マニーは、手術用の針やナイフに特化した企業です★15。その分野で世界最高水準の品質を武器に、長期にわたって高い利益水準を維持しています。マニーも一九九〇年代後半に東アジアでの海外生産に乗り出した企業の一つです。
しかし、マニーはステンレス線材の前処理を海外で行い、微細加工など独自技術が必要な工程はいったん日本国内の工場に戻し、最終加工と品質検査のためにもう一度海外工場に出すというやり方をしています。
立地の選択にしても、マニーは当時ブームだった中国ではなく、ベトナムを工場立地として選択しました。しかも、政府がインフラを整え、積極的に誘致していた工業団地の一角ではなく、周りに工場が一軒もないようなへんぴな場所に工場を建てています。
なぜこのような打ち手をとったのでしょうか。打ち手をつなぐストーリーに目を向けると、明快な因果論理が読み取れます。マニーの強みは品質にあるので、独自技術が必要な工程は日本に集約しています。
その前後の前処理工程と最終加工、品質検査の工程は労働集約的なので、海外に出すメリットが大きくなります。品質にとって最も重要なのが最終検査工程です。
手術用針の特定種類だけでも年間に一億本以上生産されるのですが、ここで人間の目視による全品品質検査を行うという取組みがマニーの品質を支えています。
この仕事はきわめて労働集約的になるので、人件費の安いベトナムでの生産は有効です。「ベトナム→日本→ベトナム」という工程の移動は、一見非効率に見えます。
しかし、製品がきわめて軽くて小さいので、納期の短縮のために航空機で輸送してもコストが小さくて済みます。重たくてかさばるものであれば、こうはいきません。
ベトナムのへんぴな場所を選択したのにも論理があります。全品品質検査は作業者の熟練がカギになります。中国の労働市場は流動性が高く、作業者がなかなか定着しないこともあり、ベトナムのほうが適しています。
それでも、いろいろな会社の工場が集まっている工業団地に出てしまうと、作業者が他の工場に転職してしまう可能性が高まります。
そこでマニーは、周りに工場が一つもないような場所を長い時間をかけてゼロから切り拓き、その周囲に住む人々を採用するのです。
採用した従業員は徹底的にトレーニングし、スキルを育成します。従業員は地元で仕事につけますし、周りに他の工場もないので転職するインセンティブを持ちません。
必然的に定着率がきわめて高くなり、熟練が形成され、全品品質検査による世界最高の品質が相対的に低コストで維持できるという成り行きです。
マニーの海外生産は、戦略ストーリーを構成する他の要素と強い因果論理でつながっています。つまり、戦略が筋の良いストーリーになっているのです。
◆「ストーリー」とは何ではないのか
「静止画を動画に」、ここにストーリーの戦略論の本領があります。従来の戦略論には「動画」の視点が希薄でした。
戦略のあるべき姿が動画であるにもかかわらず、その論理を捉えるはずの戦略「論」はやたらと静止画的な話に偏向していたように思います。
以下では、従来の静止画的な戦略論を、「アクションリスト」「法則」「テンプレート」「ベストプラクティス」「シミュレーション」「ゲーム」の六つに分けて検討してみます。
ストーリーの戦略論が「何ではないか」を明らかにすることによって、「何であるのか」をはっきりしておこうというのがここでのねらいです。
1「アクションリスト」ではない
繰り返しますが、戦略の本質は「シンセシス」(綜合)にあります。
経営の問題の多くは、大きな事象を構成要素に分解し、そのうえで一つひとつの要素を別個に吟味しようとするアナリシスの形をとりますが、戦略に限ってはシンセシスにその神髄があります。
ところが、現実には、肝心のシンセシスの側面がきれいさっぱり欠如している「戦略」が少なくありません。そこに一貫したストーリーが流れているかどうかは、情報量の多さとか分析の密度、正確さとは別ものです。
ストーリーになっていない戦略であっても、いろいろな要素が盛り込まれているのが普通です。市場環境やトレンドはどうなっているのか。ターゲット・マーケットとしてどのセグメントをねらうか。どういう仕様の製品をどういうタイミングでリリースするか。プライシングはどうするか。どういうチャネルを使うか。どのようにプロモーションするか。どこを自社で行い、どこをアウトソーシングするのか。生産拠点はどこに置くのか。
必要なポイントが広範かつ詳細に検討されています。何枚ものパワーポイントが出てきます。
しかし、そうした構成要素が全体としてどのように動き、その結果何が起こるのか、ストーリーのつながりと流れがさっぱりわかりません。
話している当の会社の人も、その「戦略」が全体としてどのように動くのか、本当のところはよくわかっていない。これが「アクションリスト」の戦略です。
なぜそうなってしまうのでしょうか。
通常のオペレーション業務のように、戦略をつくるという仕事を担当部門の「分業」で、「分析的」にやろうとする発想にそもそもの間違いがあると思います。
トップは目標を打ち出すだけで、戦略をつくる作業を会社のさまざまな業務部門に投げてしまう。それを受けてそれぞれの業務部門が、目標を達成するためのアイテムを、自分の担当する分野の範囲でひねり出し、バラバラに上にあげる。
それを受けて、「経営戦略部門」が見た目はきれいなプレゼンテーション資料に落とし込む、というプロセスです。
これでは戦略をつくるという仕事が、アクションリストを長くしたり細かくする作業にすり替わってしまいます。本来は「動画」であるはずの戦略が無味乾燥な静止画の羅列になり、文字どおり「話にならない」のです。
2「法則」ではない
戦略「論」が宿命的にやっかいなのは、法則の定立がほとんど不可能だということです★16。にもかかわらず、一部の戦略論、特に「アカデミック」な戦略論には法則の定立をめざそうとするものが少なくありません。この数十年の正統派経営学の基本姿勢は、法則の定立を志向しています。
これは経営の実在をコントロール可能なシステムであると想定し、大量観察を通じてそのシステムの挙動に規則性を見出し、そこから法則を導出しようという立場です。
こうしたアプローチは、近年の統計学の発達や自然科学の成功にも影響されて、より「科学的」であるという印象を与えます。
できるだけ多数の多様なシステムを観察することで、より一般化の程度が高い法則を導出し、その法則を実務家に伝授していくというプロセスが正統派経営学の標準となりました。
この種の「法則戦略論」への傾斜は、アカデミズムの自然な帰結ともいえます。「科学的」な実証研究は、大量サンプルを統計的な手法で分析した結果として、「他の条件が一定であれば(allotherthingsbeingequal)、XであるほどYになる」という「厳密」で「一般性の高い」法則の定立をめざします。
私はこの種の法則戦略論の有用性を疑わしく思っています。なぜならば、第一に、そもそも戦略とは他社との違いを問題にしているからです。
大量観察を通じて確認された規則性は、あくまでも平均的な傾向を示すものでしかありません。そこで提示された「法則」に従うということは、他社と同じ動きに乗るということであり、戦略にとっては自殺的といえます。
第二に、「他の条件が一定であれば」といったとたんに、戦略の本質である「文脈依存性」や「シンセシス」が根こそぎ切り捨てられてしまいます。
厳密で一般性の高い知見が実務家にとって全く無意味だとは言うつもりはありません。経営者が自らの意図と文脈に引きつけて解釈すれば、自社の戦略を構想するときに有用な論理のパーツを提供することも多々あるはずです。
しかし、戦略論の学術雑誌を熟読する経営者というのは、よっぽどのマニア以外には想像しにくいでしょう。
3「テンプレート」ではない
そこで、こうしたアカデミックな戦略論からかなり独立した形で、「プラクティカルな戦略論」の流れが出てきます。実務家への影響力という意味では、こちらのタイプのほうが圧倒的に強いでしょう。
しかし、正統派経営学の法則定立のくびきから解放されているにもかかわらず、プラクティカルな戦略論もまた「静止画」になりがちです。
その理由は、こうした戦略論が実務家のニーズに「過剰に適応」するからです。その典型が「テンプレート戦略論」です。
因果論理のメカニズムを解明するよりも、実務家が「それ、使えますね!」とすぐに食いつくようなツールの開発に主眼を置くタイプの戦略論です。
たとえば、実務家に影響力のあった戦略論に「ブルー・オーシャン戦略」があります。「バリュー・イノベーション」という概念をはじめ、有用な論理があちこちで展開されています。
しかしその一方で、この本は実務家のニーズに過剰適応している面もあるように思います。せっかくの論理化の面白さよりも、本の中では「戦略キャンバス」「アクション・マトリックス」といったテンプレートが前面に打ち出されています。
ユーザーである実務家が戦略論を過剰に「実用」しようとする結果、論者には必ずしもそのつもりはないのに、いつのまにかテンプレート戦略論として定着するという成り行きも少なくありません。
マイケル・ポーターさんの有名なフレームワークの一つに「バリューチェーン」があります。「チェーン」(連鎖)という名前がついているぐらいですから、本来は異なった活動の「つながり」を理解するためのものであるはずです。
実際、本の中でポーターさんは異なる活動のシンセシスについて詳細な議論を展開しています。しかし、バリューチェーンのフレームワークはほとんどの場合、企業のさまざまな活動を分類・整理するだけのテンプレートとして使われているのが現実です。
皮肉なことに、バリューチェーンがフレームワークとして普及するに従って、肝心の活動間のつながりの論理はますます軽視されるようになった感があります。
この手のテンプレートで最も広く使われているものは、おそらくSWOT分析でしょう。SWOTというのはStrengths(自社の強み)、Weaknesses(自社の弱み)、Opportunities(競争環境の機会)、Threats(競争環境の脅威)を整理して理解するためのフレームワークです。
「自社の強みと弱み」と「外部の機会と脅威」との掛け算からなる四つのマス目を埋めれば、とるべき戦略が見えてくる、というのが建前です。
マス目にそれぞれの要因やアイテムを列挙するのはそれほど難しくはありません。
しかし、何を自社の強みないしは弱みと見るのか、何が脅威で何が機会なのか、こうしたことは実はきわめて高度な論理と判断を必要とするはずです★17。
百歩譲って、そうした判断ができたとしましょう。SWOTは「自社」と「外部」の間にある因果論理を考える助けにはなるかもしれません。しかし、自社の「強み」と「弱み」の間にある因果論理については分析者の目をふさいでしまいます。
戦略ストーリーの「キラーパス」(第5章)のところで詳しくお話しするように、ある部分での(多分に意図的な)「弱み」が、別の部分での「強み」をもたらしているということは、優れた戦略がしばしば含んでいる因果論理なのです。
考えてみれば、テンプレートの戦略論は戦略の本質にことごとく逆行しています。
シンセシスであるはずの戦略立案が、テンプレートのマス目を埋めていくというアナリシスに変容します。
戦略をその企業の文脈から無理やり引きはがし、構成要素の因果論理や相互作用を隠してしまいます。本来は動きのあるストーリーのはずの戦略は、かくして限りなく静止画へと後退していきます。
4「ベストプラクティス」ではない
戦略論が過剰に「実用的」となったあげくに静止画化してしまうという皮肉は、「ベストプラクティス」についても当てはまります。
ベストプラクティスの戦略論は成功事例の最も「目立つ」部分に注目し、そこから教訓を引き出そうとします。さまざまな業界や企業のベストプラクティスを知ることそれ自体は意味のあることです。
しかし、ベストプラクティスを取り入れるだけの「戦略」が戦略の名に値しないのはいうまでもありません。これまた「違いをつくる」と「シンセシス」という競争戦略の二つの本質にまるで逆行するからです。
世の中で取りざたされているベストプラクティスに飛びつき、それをいち早く自社に導入する。論理的な思考が弱いというよりも、そもそも「思考の欠如」といったほうがいいかもしれません。
沼上幹さんはこの種の論理的思考の欠如を「カテゴリー適応」というものの考え方の問題として指摘しています★18。
「A子さんはなぜ男性にもてるのか」という問いに対して、「A子さんが女性だから」と答えたとしたら、ほとんどすべての人は説明になっていないと思うでしょう。
女性でも男性にもてない人はいるからです。確かに、男性にもてる人は女性が多い(男性にもてる男性というのもいるとは思いますが)。ただし、女性というカテゴリーを持ち出すだけで説明が終わったと考えるのは間違いです。
この答え方では「なぜ」という問いに対する回答にはなりません。カテゴリー適応の典型的な例として、沼上さんは次のような例を挙げて説明しています。
「インテルは儲かっているのに、ノートPCが儲からないのはなぜか」という問いに対して、「ノートPCはアセンブリ(組立)業だから儲からないのだが、インテルはデバイス業だから儲かるのだ」と答える人は少なくありません。
これは「アセンブリ」とか「デバイス」というカテゴリーに分類して説明しようとしているという意味で、カテゴリー適応であるといえます。
確かにアセンブリ事業の利益率とデバイス事業の利益率を平均すれば後者のほうが高いかもしれませんが、そこには「なぜ」に答える論理はありません。
「アセンブリ=儲からない」「デバイス=儲かる」という話が理由の説明になっていないということは明白です。
たとえば、いっときベストプラクティスとして喧伝された「スマイルカーブ」の理論(?)を考えてみましょう。「スマイルカーブ」というのはこういう話です。
バリューチェーンにある川上から川下までの活動を眺めてみると、中間に位置するアセンブリ(スマイルマークの口の曲線の底の部分)は付加価値が出せないけれども、川上のデバイスや素材、川下のサービスやマーケティング(スマイルマークの口の曲線の両端の上がっている部分)は付加価値を出しやすい。だから水平分業が大切だ。
アセンブリはアウトソーシングをして、デバイスかサービス(もしくはその両方)に集中するのがよい、というのです。これはカテゴリー適応そのもので、論理が欠如していることは明らかです。
アセンブリは儲からないからアウトソーシングに切り替えろ、というのですが、スマイルカーブの教えに忠実な企業からアウトソーシングを受けてバリバリ儲かっているアセンブリ専門企業もたくさんあるわけで(もちろん儲かっていないアセンブリ専門企業もそれに劣らずたくさんありますが)、この一点だけをとっても、スマイルカーブの教えは眉唾ものといえるでしょう。
「自前主義にこだわった垂直統合モデルはもう古い。これからは水平分業だ」というよく聞く話も、これとほとんど同じです。
もちろん垂直統合を捨て、水平分業に移行することによって収益を確保している会社もたくさんあります。自前主義が利益の足を引っ張っている会社も少なくないでしょう。
しかし、「だから水平分業だ」、これでは論理があまりに希薄です。論理で綴るストーリーになっていないのです。
いつの時代も「最新のベストプラクティス」は世の人々の話題になります。しかし、そのほとんどは流行にすぎません。一年か二年で忘れられてしまいます。
「ベストプラクティス」が意味を持つのは、それがきちんとした因果論理で自社の戦略ストーリーに組み込まれたときだけです。
しかし、皮肉なことに、ベストプラクティスというカテゴリー適応的な発想は、それ自体にストーリーの因果論理をないがしろにするという性格を持っているのです。
流行のベストプラクティスに飛びつくだけでは、いつまで経っても独自のストーリーは出てきません。それどころか、藤本隆宏さんが言うように、他社のベストプラクティスを拾っては捨て、拾っては捨ての「賽の河原の石積み」になってしまいます★19。
5「シミュレーション」ではない
戦略ストーリーという言葉は、「シナリオ」とか「ロードマップ」と似たものに聞こえます。言葉のそもそもの意味としては、ほとんど同じといってもよいぐらい近いのですが、問題は、会社で「シナリオ・プランニング」とかいうと、単純なシミュレーションをやるだけになってしまうということです。
つまり、ある条件を事前に仮定したうえで、GDPの成長率や為替レート、当該事業の市場規模、自社のシェア、売上高、そのときの期待投資収益率など、さまざまな数字を入れ込んで、条件が変わると期待投資収益率がどのように変化するのかを調べる、というような作業です。シミュレーションは時間軸が入っていますから、その意味では動画の側面もあります。
しかし、この種の数字を羅列しただけのシミュレーションが戦略ストーリーの名に値しないのはいうまでもありません。数字の背後にある因果論理がほとんど考慮されていないからです。
それぞれの数字がなぜそのように連動するのか、これを特定するためには相当に深い論理的推論が必要となるはずですが、肝心の因果論理が、「GDPに比例して市場規模が大きくなるはずだ……」というような、あまりにも単純な仮定にすり替わってしまいます。
これでは数字が条件の変化や時間とともに動いていくだけで、ストーリーにはなっていません。一貫した戦略ストーリーが先にあり、さまざまな条件がそのストーリーにどのような影響を与えるのか、事後的にチェックするためには、この種のシミュレーションは有用かもしれません。
しかしそれは戦略を立てた後のおまけというか、確認のような作業であって、戦略そのものではありえません。
6「ゲーム」ではない
近年発達したゲーム理論は、複数の意思決定主体が合理的な基準に従って行動したときに生じる状況を、主として数理モデルを使って分析する手法です。
その適応領域は経済学をはじめとして、社会学、政治学など広範にわたっています。戦略論もその例外ではありません。
ゲームの戦略論は、ゲームの全体構造を俯瞰する立場から、そこに参加するさまざまな企業や供給業者、顧客などが相互作用して生じる状況を考察しようとします。
局所的な打ち手のみならず、ビジネスの全体構造の中で、各参加者(ゲームのプレイヤー)の相互作用がどのような意味を持ち、そこから何が生じるのかが捉えられるというところに、ゲーム戦略論の強みがあります★20。
ですから、ゲームの視点にはストーリーの戦略論と一脈通じるところがあります。
しかし、私が「ストーリー」という言葉にこだわる理由の一つには、そこに「ゲームではない」という意味を込めたいという意図があります。
私が違和感を持つのは「ゲーム」という視点の基本的な前提です。
ゲームの戦略論は、自社を取り巻く他社に働きかけながら、自社にとって都合の良い外的環境をつくり出すことをめざしています。ここに利益の源泉があるというのがゲームの戦略論の考え方です。
そのような「おいしい」状況をつくり出す手段として、ゲームの戦略論は企業の「戦略的行動」(strategicbehavior)に注目します。
たとえば、戦略的な低価格の設定や強気の投資によって、潜在的な参入業者や競合他社のやる気をそぐというような行動です。より一般的な言葉でいえば、「駆け引き」です。
しかし、「他社の合理的な反応を予測する」というゲーム戦略論の基本的な視座は、クールに過ぎると思います。
ゲームの戦略論のように「合理的な駆け引き」にとらわれると、「シグナリング」や「スクリーニング」といった個別の戦略的行動にばかり目が向き、結果的にプレイヤーの合理的な行動をスナップショット的に捉えることに終始しがちです。
しかも、ゲーム理論的な戦略思考は、ゲームに参加しているプレイヤーがすべて基本的には合理的で、相互の行動がもたらす成り行きを完全に理解できている、と想定しています。しかし、何を合理的とするかは、それぞれの企業の主観的な判断に大きく影響されるはずです。
プレイヤーが置かれている文脈が異なれば、「合理的な行動」の中身も変わってくるでしょう。ゲーム理論的なフレームワークは論理的思考を助けますが、それが現実の戦略構想の指針になるとは考えにくい、というのが私の意見です。
◆「ビジネスモデル」と「ストーリー」
話をストーリーの戦略論に戻しましょう。マブチモーターやマニーのように業界標準以上の長期利益をたたき出している企業をじっくり眺めていると、きちんとした因果論理で綴られた戦略ストーリーが浮かび上がってきます。
それはまさにストーリーであって、法則やテンプレートやベストプラクティスで説明できるものではありません。
マイケル・デルさんは「ホームランでなく、ヒットをねらう。ビジネスは野球と同じで、できるだけ高い打率をめざすのがベストだ。なぜなら、永遠に続く大ヒット製品やテクノロジーなど存在しないからだ」と言っています★21。
画期的な新製品、まだ誰も参入していない新興市場、自社だけで占有可能な技術、こうした強力な点の一撃があれば成功できるかもしれません。この種の要素レベルの差別化は目立ちますし、わかりやすく、華々しい成功をもたらします。
しかし、これだけグローバルに情報が行きわたった時代になると、そうした「必殺技」は探してもなかなか見つかりません。すぐに他社も同じようなことを仕掛けてきます。
サッカーでいえば、ロベルト・バッジョやアレッサンドロ・デル・ピエロのようにずば抜けた能力を持つファンタジスタがいれば、確かに得点は入りやすくなります。
しかし、そうした有力選手という要素に依存した競争優位であれば、その選手が他チームに引き抜かれてしまえば失われてしまいます。
一方で、ブラジルチームに固有の流れるような攻撃パターンや、イタリアチームのお家芸、「カテナチオ(鍵をかける)」と呼ばれる鉄壁の守備の方法は、チーム全体の攻め方、守り方にかかわる強みです。
仮にイタリアから数人の有力選手を引き抜いてきても、カテナチオは再現できないでしょう。
どうしたらそういうことができるのか、因果関係が複雑でわかりにくいので、まねされにくく、優位が持続しやすいのです。
ストーリーとしての競争戦略の重要性は今に始まった話ではありません。マブチの戦略にしても歴史的な事例です。
戦略論の世界でも、「ビジネスモデル」とか「戦略モデル」「アーキテクチャ」「ビジネスシステム」、さらにはそれを発展させた「ビジネス・エコシステム」という概念を使って、構成要素のつながりに注目する研究が蓄積されています。
日本でも、加護野忠男さんや井上達彦さんらによるビジネスシステムについての先駆的な研究や、根来龍之さんらのビジネスモデルの研究、藤本隆宏さんや武石彰さんや青島矢一さんの製品アーキテクチャに注目した研究、小川進さんの流通の仕組みの研究などは、いずれも戦略の個別の構成要素を超えて、それらが相互につながったパターンの重要性に焦点を当てた優れた研究です★22。
ストーリーとしての競争戦略という思考は、こうした研究と多くを共有しています。もっといえば、ここでいう「戦略ストーリー」を「ビジネスモデル」「ビジネスシステム」「アーキテクチャ」とそのまま読み替えてしまっても、たいして不都合はありません。
現に、ジョアン・マグレッタさんは、二〇〇二年の有名な論文”WhyBusinessModelsMatter”の中で、「ビジネスモデルとは、なぜ事業が有効に動くのかを説明するストーリーである」と明言しています★23。
企業の競争優位の源泉が戦略の構成要素のレベルから「システム」なり「仕組み」のレベルへとシフトしているという問題意識の点でも、私の話はこれらの研究と共通しています。
「ストーリー」「モデル」「システム」「アーキテクチャ」、呼び名の違いは別にしても、こうした考え方はいずれも個々の要素ではもはや企業が持続的な競争優位を確立しにくくなっているという問題意識に立脚しています。
加護野忠男さんは、「ビジネスシステムの静かな革命」という興味深い議論をしています。システムレベルの差別化は構成要素レベルの差別化と比べて、「静かな差別化」です。
だからこそ、システムレベルの差別化はまねされにくく長持ちするという面があります。差別化の次数を要素からシステムへと繰り上げれば、新しい競争優位が獲得できるという論理です。
このように、ストーリーという視点は、「モデル」や「システム」の戦略論と多くを共有しています。にもかかわらず、ここで私が改めてストーリーという視点を強調するのには、五つの理由があります。
一つ目の理由は、ストーリーという視点の持っているダイナミックな意味合いです。
ビジネスの設計思想としてのビジネスモデルや、その結果生成するビジネスシステムはどちらかというとビジネス全体のかたちに焦点を当てていたため、全体の流れや動きを捉えにくいというきらいがあります。
アーキテクチャにしても、ビジネス全体のレベルに拡張して応用することはできますが、そもそも製品システムの安定的なありように注目した概念です。
ストーリーの戦略論とビジネスモデル(システム)の戦略論との違いは、ビジネスモデルが戦略の構成要素の空間的な配置形態に焦点を当てているのに対して、戦略ストーリーは打ち手の時間的展開に注目している、ということです。
「ビジネスモデルを図示してください」というと、ビジネスに含まれるさまざまなプレイヤーや機能部門の間のカネやモノや情報のやり取りの絵が出てくるのが普通です。
これに対して、戦略ストーリーの絵は「こうすると、こうなる。そうなれば、これが可能になる……」という時間展開を含んだ因果論理になります。
ビジネスモデルとストーリーの対比をアマゾンの例で示してみましょう(図1・3)。図の左側はアマゾンの「ビジネスモデル」を図解したものです。中央にあるアマゾンのウェブサイトを中心に、さまざまなやり取りが展開されます。
創業からしばらくの間、アマゾンは自ら商品を仕入れ、直接に顧客に商品を販売するという小売のビジネスに事業領域を限定していましたが、その後、外部の売り手(個人もしくは法人)が中古書籍などをアマゾンの顧客に販売できるようにし、そこで手数料をとる「場所貸し業」(アマゾン・マーケットプレイス)も始めています。
この図にあるように、ビジネスモデルも「相互作用」に注目しているのではありますが、これらは「マーケティング情報」の提供とか「発注」「支払」「出荷配送」といった、あくまでも「取引活動」です。因果論理ではありません。
右側にあるのは、創業者のジェフ・ベゾスさんがアマゾンの事業を構想しているときに、一番最初にレストランの紙ナプキンに描いたとされる戦略の「ストーリー」です★24。
これはごくシンプルな絵でありまして、この段階では、どの範囲まで取り扱う商品カテゴリーを増やすのかとか、在庫をどこまで自分たちで持つのかとか、アマゾンが力を入れていくことになった顧客の好みを理解したうえでの「レコメンデーション」による個別化されたマーケティングとか、そのための技術開発とか、そういう具体的な打ち手については言及していません。
しかし、時間展開を視野に入れた因果論理になっていることははっきりと見て取れます。それはこういうストーリーです。
顧客にEコマースならでは、アマゾンならではのユニークな購買経験を提供する。そうするとトラフィックが増大する。人々がたくさん訪れるサイトになれば、多くの売り手(出版社やメーカーなどの取引先)を引きつける。そうするとセレクションが充実する。これが顧客の経験をさらに充実させ、トラフィックを上げる……という好循環の論理です。
このストーリーが動くと、成長が実現されます。
成長に伴って、規模の経済や範囲の経済を通じて低コスト構造が出来上がり、これが低価格を可能にするから、ますます顧客に対して魅力的な経験を提供できる。
つまり、アマゾンの戦略ストーリーには好循環の論理が二重に組み込まれているわけです。個々の打ち手が組み合わさり、連動することによって生まれる戦略の流れや動きの側面については、踏み込んだ議論はあまりされてきませんでした。
ビジネスモデルの概念は、確かに全体の「かたち」を捉えるものですが、構成要素の因果論理が巻き起こす「流れ」や「動き」の側面を捉えにくく、静止画的な戦略思考になりがちです。
複数の打ち手がかみ合って連動する相互作用の論理、そこから生まれる「動画」としての側面により直接的に光を当てる必要があるというのが私の意見です。
ここであえてストーリーという言葉を持ち出すのは、こうした戦略のダイナミックな本質を強調したいという意図があるからです★25。
「ダイナミック」というのはあくまでも「動きが見える」ということで、「長期的なことを考える」ということを必ずしも意味するわけではありません。長期か短期かという分類軸は、ここで強調している動画か静止画かという軸とは別ものです。
仮に、その戦略がそれほど遠い将来のことを考えていなかったとしても(現実に「遠い将来のこと」は不確実過ぎてそうそう決められないものです)、向こう三年から五年の戦略ストーリーが動画として見えるようなものであれば、それはダイナミックだということです。
◆「短い話」を長くする
ストーリーという視点を強調する二つ目の理由は、このところ特にその傾向が強まっていると思うのですが、現実の企業経営の中で、戦略ストーリーをじっくりと考え、語り合うことが希薄になっているのではないかという懸念です。
従来の戦略論には「動画」の視点が希薄でした。
戦略のあるべき姿が動画であるにもかかわらず、その論理を捉えるはずの戦略「論」はやたらと静止画的な話に偏向していたように思います。
しかも、戦略論の「静止画症候群」は、このところよりいっそう顕著になっているのではないか、というのが私の問題意識です。
素朴に考えれば、そもそもあらゆる戦略は面白い「お話」であるべきなのですが、これまでも強調してきたように、ストーリーということになると、whatやwhenやhowmuchだけでなく、whyが話の中心になります。
ところが、やっかいなことに、whatやwhenに比べて、whyに対する説明はどうしても話が長くなります。
しかも、whyの線は一本ではありません。
複数の打ち手があれば、前後左右に一手を結びつける線は広がっていきます。
特定の文脈に依存した因果論理のシンセシスである以上、戦略はワンフレーズでは語れません。
ある程度「長い話」にならざるをえません。
ところが、それを論理化するはずの戦略論はやたらと「短い話」に終始しているのが現状です。
その典型が、前にお話ししたようなテンプレート戦略論やベストプラクティス戦略論です。
こうした短い話が横行するのも、もとをただせば戦略論のユーザーのニーズがあるからです。
なぜユ
ーザーは静止画的な短い話を好むのでしょうか。
思いつくままに理由を挙げてみましょう。
第一に、とにかく忙しい。
戦略ストーリーを突き詰めて考えるゆとりがない。
そういう人にとっては、テンプレートやベストプラクティスがあれば、手っ取り早く「戦略をつくっている気分」になれます。
第二に、テンプレート戦略論やベストプラクティス戦略論の主たるユーザーは、実際のところ、経営者というよりも経営企画部門などの「戦略スタッフ」であることが多い。
彼らの仕事は戦略構想そのものではなく、戦略を構想する人(経営者や事業部門長などのジェネラル・マネジャー)が必要とする情報の整理や分析です。
そもそもシンセシスの任にない人々であれば、手っ取り早いアナリシスのためのテンプレートを好むのは自然な成り行きです。
第三に、「プロフェッショナル経営者」という幻想です。
もちろん、真の意味での経営技量なりシンセシスに優れた経営者は存在します。
しかし、ここでいうカギカッコつきの「プロフェッショナル経営者」というのは、戦略があたかも標準的なスキルセットであると誤解している人々のことを指しています。
「経営者の戦略スタッフ化」といってもよいでしょう。
こうした人々にとってテンプレートやベストプラクティスは過度に心地よく響きます。
第四に、コンサルタントによるマーケティングの影響があります。
コンサルタントが戦略論を本や論文で供給するのは、それが往々にして本業のマーケティングにとって有効だからです。
優れたコンサルタントであれば、テンプレートの価値はその使い方次第であるということをよくわかっているはずです。
だからこそ、特定の文脈で問題解決をするという彼らの存在価値があるわけです★26。
しかし、文脈に依存した特殊解は、幅広く潜在する顧客へのセールス・ピッチにはなりにくい。
かくしてコンサルタントによる戦略論は、「文脈に依存したシンセシス」という肝心要のところを(多分に意識的に)省略した、静止画のオンパレードになりがちです。
第五に、静止画的な短い話は、コミュニケーションが簡単だということがあります。
ビジネスはある意味で「長い話」を嫌うものです。
厳しい競争にさらされているほど、素早くわかりやすい「ソリューション」が求められるようになり、長い話を突き詰めて考え、話し合い、共有するゆとりがなくなります。
情報技術の進展は入手可能な情報の量を飛躍的に増大させました。
しかし、ここで忘れてはならないのは、「情報(information)の豊かさは注意(attention)の貧困をもたらす」というトレードオフです★27。
戦略ストーリーを支えている因果論理は、「情報」よりも「注意」の産物です。
大量の情報が飛び交うほど、因果論理についての注意は希薄になります。
逆にいえば、因果論理を捨象した「静止画」であるほど情報技術で扱いやすく、したがってコミュニケーションしやすく、また共有しやすくなります。
「共有したつもりになりやすい」といったほうがいいでしょう。
戦略を一枚のテンプレートにまとめてしまえば、メールに添付して一時に一〇〇人に送りつけることはできます。
しかし、これでは情報を伝達しているだけで、戦略についての注意を喚起し、共有することはできません。
第六に、近年のマクロ環境の変化があります。
グローバル化、投資家からの圧力の高まり、こうしたこのところのマクロな経営環境の変化は、とりわけ長い話を嫌がる傾向を加速させているように思います。
グローバル化が進むと、言語や文化的な背景が違う社内外の利害関係者と意思を共有しなければなりません。
そうした文脈で長い話を持ち出すのは、自然と気が引けるものです。
投資家は長い話を嫌がる生き物の最たるものです。
投資家には静止画、もっといえば「数字」しか受けつけないという抜きがたい体質があります。
こうした経営に対するプレッシャーは、それはそれで企業を鍛えるという健全な面があるのですが、ストーリーとして戦略を構想し、組織全体にそのストーリーを浸透させることが以前よりも難しくなっているといえそうです。
その結果、因果関係や相互依存の論理がすっ飛ばされて、戦略が「静止画」化してしまいがちです。
こうしたいくつもの圧力は、戦略論を「短い話」へと押し込めてしまい、シンセシスとしての戦略構想がよって立つ因果論理から実務家の目をそらしがちです。
「長い話」としての戦略論を取り戻す必要がある、そして、そこにこそストーリーの戦略論の役割と貢献があるというのが私の考えです。
◆数字よりも筋
戦略をストーリーとして語り、組織で共有するということは、戦略の実効性を大きく左右します。
これがストーリーという視点にこだわる三つ目の理由です。
戦略の実行を担う人々は、具体的な仕事としては特定の機能や部門を担当しています。
しかし、戦略ストーリーはあくまでもシンセシスです。
相互に独立した要素へと完全に分解することはできません。
アナリシスでは割り切れないのです。
自分の仕事がストーリーの中でどこを担当しており、他の人々の仕事とどのようにかみ合って、成果とどのようにつながっているのか、そうしたストーリー全体についての実感がなければ、戦略の実行にコミットできません。
戦略ストーリーをつくる立場にいるリーダーだけでなく、ミドルマネジメント以下の多くの人々も、仕事に向かって突き動かされるような面白いストーリーを強く求めているはずです。
ストーリーの面白さは、戦略の実行にかかわる社内の人々を突き動かす最上のエンジンになります。
数字で綴られた静止画の羅列に突き動かされる人がいるでしょうか。
素晴らしい経営理念やビジョンや価値観を掲げる会社はたくさんあるのですが、具体的な戦略の段になって出てくるのが無味乾燥な静止画のリストであれば、せっかくのビジョンも「床の間の掛け軸」になってしまいます。
ストーリーをつくる前に、下ごしらえというか、基本的な材料は一通り揃えなければなりません。
当然、現状を分析して、われわれは今どこにいるのかを知らなければなりませんし、到達すべき地点、あるべき姿としての目標を設定しなければなりません。
競争環境とか市場環境、利用可能な経営資源とその制約条件もある程度までわかっていなくてはなりません。
これはいわば現在地と目的地が示された白地図の上に「地図情報」を加える作業に相当します。
戦略ストーリーをつくるということは、このように現在地や目的地や地図情報を記した地図の上に、自分たちが進むべき道筋をつけるということです。
到達すべき目的地を特定したり、地図情報を細かく書き込むことは、あくまでも下ごしらえであって、戦略ストーリーではありません。
ストーリーという道筋を組織のすべての人々が共有し、道筋のついた地図をポケットに入れて、それを見ながら進んでいく。
これが私の「戦略を実行する組織」のイメージです。
ストーリーとしての競争戦略の本質を理解するうえで含蓄に富む話があります。
ある登山隊がピレネー山脈を登山中に雪崩に遭遇しました。
隊員たちは一時的に意識を失ってしまいます。
意識が戻ったときには、背負っていた基本的な装備が失われていました。
一生懸命に自分のポケットの中に何が残っているか探してみたら、ろくなものがない。
食料もチョコレートなどの非常食が少々。
最悪なことにはコンパスもなくなっていた。
その瞬間に、もうわれわれは生きて帰れない、どうやって山を下りるんだ、と隊員たちは暗澹たる気持ちになりました。
ところが、ある人のポケットの中から一枚の地図が出てきました。
これを見ているうちに、だんだん元気が湧いてきました。
尾根がこういうふうに走っていて、周囲の地形がこうなっているということは、どうもわれわれはこの辺にいるのではないか。
今、太陽がこっちから出ている。
ということは、こちらのほうが東ではないか。
とすると、こう行けば下山できるのではないか……、と地図の上に道をつけるという作業を始めました。
つまりストーリーを組み立て、それを共有したわけです。
下山の過程ではさまざまな困難がありましたが、登山隊は地図の上につけた道筋を信じて、それを頼りに困難を一つひとつ乗り越え、奇跡的に下山することができました、めでたし、めでたし……という話です。
この話にはオチがあります。
雪崩の情報は麓にも届いていました。
この登山隊が遭難したと考えた麓の人々は救助隊を組織します。
しかし、上空からの緊急捜索では見つかりません。
連絡もとれません。
状況から考えて生還は絶望的だと半ばあきらめていました。
ところが、そこに登山隊
が生きて戻ってきたのです。
驚いた救助隊の人は、登山隊のリーダーに「あの状況で、いったいどうやって戻ってこられたのですか?」と尋ねました。
リーダーは一枚の地図を取り出して答えました。
「この地図のおかげで助かりました」。
救助隊員は笑って、言いました。
「こんなときによくそんな冗談を言う余裕がありますね。
これはアルプスの地図じゃないですか……」。
驚いた登山隊のリーダーが自分たちが道筋をつけた地図を改めてよく見ると、それは実はピレネーではなくアルプスの地図だった、というのです。
これがこの話の一番重要なポイントで、ストーリーとしての競争戦略の一つの本質を物語っているのではないかと私は思います。
つまり戦略ストーリーというのは、きわめて主体的な意志を問うものだということです。
言い換えれば、戦略ストーリーは、前提条件を正確に入力すれば自動的に正解が出てくるような環境決定的なものではないということです。
環境決定論者には戦略ストーリーは必要ありません。
ピレネー山脈の遭難の話にしても、ビジネスにしても、未来は不確実です。
どんなに精緻に分析しても、結局のところ将来どうなるかは正確にはわかりません。
どこかに一つ正しい戦略があるわけではないのです。
地図の上に一本の道筋をつけたとしても、それ以外にもいろいろな道がありえます。
戦略は「当たり外れ」の問題ではありません。
少なくとも事前においては、そこにストーリーがあるかないかという有無の問題です。
もしくは、その道筋のついた地図を手に進んでいく人々が、「信じているか、いないか」の問題です。
将来はしょせん不確実だけれども、われわれはこの道筋で進んでいこうという明確な意志、これが戦略ストーリーです。
ストーリーを語るということは、「こうしよう」という意志の表明にほかなりません。
「こうなるだろう」という将来予測ではないのです。
意志表明としてのストーリーが組織の人々に共有されていることは、戦略の実行にとって決定的に重要な意味を持っています。
なぜならば、ビジネスは総力戦だからです。
武術研究家の甲野善紀さんは、優れた武術家の強さの正体は何かと問われて、「一対一で向きあっていても、実際は一対一の勝負ではなく、身体のあらゆる部分を動員することによって一対一〇〇の勝負に持ち込むこと」だと答えています★28。
これは「多勢に無勢は敵わない」という、ある面、すごく単純な原理なんです。
身体が大きくて力があるように見える人が部分を使って出す力を仮に七〇として、私の身体中の部分部分を全員協力態勢にして出す力が一〇〇なら、その相手には負けないということです。
…(中略)…ウエイトトレーニングでは、重いものを持って「うー、重い、重い」と負荷をかけることで部分部分の筋肉を太らせるわけです。
しかし、部分を強調すると、それぞれの部分はそれで強くなったとしても、「俺が、俺が」と言い始める。
そして、その「俺が、俺が」という部分がたくさんできると、それらは協力しにくいんです。
それぞれが勝手に自己主張するから全体としての相互互助システムにならない。
これは、要素の強みではなく、要素がつながって生まれる流れで勝負するという、まさにストーリーの発想です。
ストーリーの共有は勝負を総力戦に持ち込むための条件として大切です。
ストーリーを全員で共有していれば、自分の一挙手一投足が戦略の成否にどのようにかかわっているのか、一人ひとりが理解したうえで日々の仕事に取り組めます。
戦略がどこか上のほうで漂っている「お題目」でなく、「自分の問題」になります。
自分が確かにストーリーの登場人物の一人であることがわかれば、その気になります。
こうしてビジネスは総力戦になるのです。
複数の会社で企業再建に成功した三枝匡さんはご自身の経験に基づいて次のように発言しています★29。
鮮明な戦略ストーリーを描いてそれに現場の社員を巻き込むと、画期的な組織活性効果が生まれることがあるという手法に、私が経営現場で開眼したのは三〇代前半の経験です。
…(中略)…私の場合、どこの会社に行ってもとにかく大切な第一ステップは、皆にわかってもらえる戦略ストーリーを組み立てることなんです。
…(中略)…うまくいくときは、戦略を打ち出すと、見ていてみんなの表情がスッとまとまった感じがするわけです。
部屋の空気が変わるんです。
その感覚ですね。
なんとなくそれぞれぶつくさ言っていたのが、みんなファーッと熱を帯びてきます。
夜中まで仕事しようが徹夜しようが全然構わないみたいな状態になる。
そういう変化の感覚は、リーダーの醍醐味みたいなものですね。
戦略の実行にとって大切なのは、数字よりも筋の良いストーリーです。
過去を問題にしている場合であれば、数字には厳然たる事実としての迫力があります。
しかし、未来のこととなると、数字はある前提を置いたうえでの予測にすぎません。
戦略は常に未来にかかわっています。
だから、戦略には数字よりも筋が求められるのです。
これまではあまり強調されることはありませんでしたが、ストーリーという戦略の本質を考えると、筋の良いストーリーをつくり、それを組織に浸透させ、戦略の実行にかかわる人々を鼓舞させる力は、リーダーシップの最重要な条件としてもっと注目されてしかるべきだというのが私の意見です。
インセンティブ・システムなどさまざまな制度や施策も必要でしょうが、そんな細部に入り込む前に、人々を興奮させるようなストーリーを語り、見せてあげることが、戦略の実効性にとって何よりも大切だというのが私の見解です。
このところ会社のさまざまなことごとについての「見える化」が大切だ、という話が強調されています。
オペレーションのレベルの話で、しかもそれが過去に起こったことのファクトについての話であれば、私も見える化に大いに賛成です。
しかし、話がオペレーションよりも戦略レベルになると、見える化が本末転倒になってしまいます。
たとえばこういう話です。
ある経営者が新興市場への投資を決断しようとしています。
現時点でのオプションとしては中国とインドとロシアがあるのですが、時間と資源が限られているために、まずどこから攻めるか、優先順位の意思決定をしなければなりません。
そこでその経営者は戦略企画部門のスタッフを呼んで指示します。
「それぞれの市場への投資の期待収益率を出してくれ」。
指示を受けた「戦略スタッフ」はリアル・オプションの手法を駆使しつつ、いろいろな前提や仮定を置いて期待収益率をはじき出します。
で、社長に報告します。
「期待収益率を計算しましたところ、中国は一五%、インドは一〇%、ロシアは五%でした!」。
社長は決断します。
「そうか、中国にしよう……」。
これは話を極端にしているのですが、実際のところ、戦略的な意思決定をするのに暗黙のうちにこの種のアプローチをとっている経営者は決して少なくありません。
これでは見える化どころか「見え過ぎ化」です。
因果論理についての深い思考は全くありません。
もし本当に戦略がこんなものであれば、子どもでも経営者が務まります。
戦略構想は定義からして将来を問題にしています。
起こったことを数字で体系的に見える化しても、その延長上には戦略は生まれません。
あらゆる数字は過去のものだからです。
日々事実を積み上げていくオペレーションにとっては見える化は武器になりますが、将来の戦略構想ではあまり役に立ちません。
まだ誰も見たことがない、見えないものを見せてくれる。
それが優れた戦略です。
そのためにはストーリーを描くしかありません。
戦略をストーリーとして構想し、それを組織の人々に浸透させ、共有するしかないのです。
見える化という思考様式は戦略にとっては役に立たないどころか、ものの考え方が戦略ストーリーの本質からどんどん逸脱してしまいます。
戦略にとって大切なのは、「見える化」よりも「話せる化」です。
戦略をストーリーとして物語る。
ここにリーダーの本質的な役割があります。
◆日本企業こそストーリーを
ストーリーという視点を強調する四つ目の理由は、ストーリーという戦略思考がとりわけ日本企業にとって重要な意味を持っているということにあります。
第一に、日本企業は相当に成熟した経営環境に直面しています。
経営環境が成熟するほど、個別の構成要素のレベルで競争優位を構築するのが困難になります。
画期的な新製品、まだ誰も参入していない成長性の高い市場セグメントへの参入、この種の差別化は目立ちます。
しかし、成熟した環境の下では、こうした派手な差別化の要素は探してもなかなか見つかりません。
そこで、ストーリーという一つ上位のレベルに次数を繰り上げた差別化が求められるわけです。
映画や演劇でいえば、登場する役者には大スターはいないけれども、それを組み合わせて動かす筋書きの面白さで勝負し、気づいてみたらロングランで成功を持続しているというのがストーリーの戦略論のめざす姿です。
第二に、これまでの日本企業が、ポジショニングよりも組織能力に基盤を置いた「体育会系戦略論」に傾斜してきたということがあります★30。
ポジショニングと組織能力という競争戦略の二つの主要視点については、次の章でお話ししますので、詳しくはそちらに譲ります。
組織能力を重視する日本企業の体育会系戦略論は、「すりあわせ」が重要となる分野での製造業で特に顕著ですが、時間をかけた能力構築に競争力を求めるという基本的スタンスは小売業のようなサービス業でも広く認められます。
ポジショニングの戦略はそれがもたらす成果との因果関係がより明確なので、どちらかというと「短い話」で済む傾向にあります。
GEのジャック・ウェルチさんが一九八〇年代にとった戦略はその好例です。
ウェルチさんは就任と同時に「ナンバーワン、ナンバー2の事業しかやらない」「参入障壁が低くて多数乱戦になる事業はやらない」「市場や技術の変化の激しい事業はやらない」といった切り口で、手がける事業領域を大胆に絞り込みました。
これは徹頭徹尾ポジショニングの戦略です。
ウェルチさんの戦略的意思決定は数年のうちに増収をもたらしました。
一方の能力重視の戦略は、ポジショニングに比べて、成果との因果の距離が遠くなります。
藤本隆宏さんに言わせれば、「能力構築には少なくとも一〇年を要する」のです★31。
トヨタ生産方式は、カンバン方式、自働化によるラインでの問題解決、平準化生産といったさまざまな構成要素のシンセシスであり、能力に軸足を置いた優れた戦略ストーリーの典型例です。
能力構築の積み重ねが結局のところトヨタの競争力の実体なのですが、それが能力に基盤を置いているために、個別の取組みと成果との因果関係は相対的に不明確にならざるをえません。
能力構築を重視する戦略は、欧米や他のアジア諸国の企業と比較した場合の日本企業の独自性です。
今後も日本企業の競争力の源泉として重要であることは間違いありません。
ただし、能力の戦略はポジショニングと比べて、時間的にも、因果論理という意味でも、「長い話」を必要とします。
ポジショニングは意思決定できても、能力構築は意思決定だけではどうにもなりません。
個別の要素がどのようにつながり、相互作用を起こして、成果につながるのかというストーリーが意識されていなければ、能力構築から競争優位を引き出すことはできません。
ストーリーがないと、能力重視の経営は、「うまくやれ」「なんとかしろ」という単なる現場依存になりがちです。
これでは単なる戦略不在になってしまいます。
第三に、日本企業の組織と人々のモチベーションのあり方です。
欧米企業の組織には機能分化の論理が浸透しています。
そこで働く人々のコミットメントも自分の機能専門性に向けられているのが普通です。
ですから、「私はマーケティングをしています」というように、機能のくくりで違和感なく仕事を定義できます。
その裏返しとして、「マーケティングの領域から外れる仕事には特段の思い入れはない」という意識もあります。
ハリウッドの映画制作の組織では、機能分化の論理が徹底的に浸透しています。
監督、脚本、撮影、編集、出演(俳優)、特殊撮影、衣装、美術といった主だった機能だけでなく、俳優との出演料の交渉だけに特化した代理人、衣装や背景の色合いを決めることだけに特化したカラリスト、出演する側にしても自由度が高くさまざまなことに発言権がある主演級のスターから、特定のアクションを担当するスタントマン(これもアクションの種目別に細かく専門分野が分かれている)、声を出すことがないエキストラ(一言でも声が映画に出るような人は「俳優」という全く別のカテゴリーであり、出演料も格段に違ってくる)まで、機能分化が極端に進んでいます。
撮影にしてもカメラマンは「撮影すること」に特化しており、自分の撮った絵が最終的にどのような映像に仕上がるのかはわからないで仕事をするわけです。
最終的な映像に仕上げるのは「編集」の仕事です。
編集がその機能専門性を発揮できるように、撮影側では一つのシーンであってもありとあらゆる角度から数多くのテイクを撮っておくというやり方です。
編集者は多くのテイクの中から良いと思うものを取捨選択し、映像をつくり上げます。
このような徹底した機能分化は、たとえばスティーブン・スピルバーグさんのような強力なリーダーを必要とします。
まずスピルバーグさんが事前にきっちり全体の絵を描き、それをジグソーパズルのピースのように機能単位へと分割し、それぞれの機能担当者が個々のピースできっちりと仕事をし、出来上がったピースをスピルバーグさんに提出します。
それを受けて、リーダーでありコンセプトの構想者であるスピルバーグさんがピースを組み合わせて映画へと再構成します。
これと比べて、日本企業の組織は提供する価値のありようを切り口に分化し、これが人々のコミットメントの基盤となるという色彩が強いというのが私の考えで、このことを「価値分化」といっています★32。
たとえば日本の会社では、機能としてはマーケティングを担当していても、「私はマーケティングのスペシャリストです」というよりも、「私はオーディオ製品をやっています。
オーディオ屋です」というように、その組織が外部の顧客に提供する製品なりサービスで自分の仕事や組織での存在理由を定義する傾向が強いように思います。
「マーケティング」が「機能」であれば、「オーディオ」という切り口は「価値」を問題にしています。
機能と価値の違いは次のように考えるとわかりやすいでしょう。
機能のお客さんは組織です。
ある人の「マーケティングの専門知識・技能」という機能は、その人が所属する組織に提供されるものです。
その意味で、機能は組織に対するインプットです。
これに対して、価値のお客さんはその人が所属する組織の内側にはいません。
お客さんは文字どおり組織の外にいる顧客です。
価値にコミットするということは、「こういうものをお客さんに提供したい」というアウトプットが仕事のよりどころになるということです。
欧米では自分が組織に提供するインプット(機能)がそのまま仕事の定義になるのに対して、日本企業では組織が提供するアウトプット(価値)が人々のアイデンティティとなる傾向にある。
これが分化という組織の編成原理に注目した対比の図式です。
ソニー中央研究所の所長だった菊池誠さんは、かつての日本のエレクトロニクス産業の成長過程を振り返って、次のような興味深いエピソードを紹介しています★33。
ソニーの創始者、井深大さんは、トランジスタの話を聞いてすぐに、「それは自分にとってなんだろう?わが社にとってなんだろう?」と考えている。
そして、非常に早い時期に、もう、トランジスタ・ラジオをやってみよう、と心に決めている。
…(中略)…一九五三年頃、井深さんはニューヨークに行った折に、ウェスタン・エレクトリック社のトップの人たちの昼食会に招かれている。
そのとき、トップの誰かが、「この頃何をしようと考えていますか」と尋ねた。
尋ねられた井深さんは即座に、「トランジスタでラジオをつくろうと思って」と、応じた。
そのとき、周辺の何人もが、一緒になって一斉に大声で笑ったのである。
それは夢見る少年の言葉に、大人が笑うという構図であった。
…(中略)…実際、このギャップは米国での仕事の進め方を見ると、かなりよくわかる。
トランジスタ誕生の後、米国では四つの研究プロジェクトが組まれて、がっちりと体制が固められた。
その四つとは、(1)トランジスタの中で電子がどんな働きをするのか。
さらに半導体というものの物理学的な研究(2)まだきわめて低いトランジスタの性能を、もっと改善するための研究(3)トランジスタとつくり方、結晶やトランジスタ構造の細かいつくり方を改善するための研究(4)トランジスタが広く使われることになると、真空管を扱いなれた技術者は戸惑うから、一度洗脳する必要がある。
この再教育のやり方の研究であった。
これを見てもわかるように、米国では大局から方針を立て、その方針に合った計画をつくり、それを動かす、という方法を好
む。
街づくり一つ見ても、まず道路をつくり、主要なシステム、たとえば電気、水などの供給、といったものの配分を検討する。
このやり方がトランジスタの開発にもよく現れている。
そういう米国の通念からすれば、まだ未熟なトランジスタを、いきなりコンスーマー商品に持ち込んで、ラジオづくりを考えるというのは夢にかける少年、のように見えたろう。
…(中略)…このことは実はかなり基本的な、大切な問題なのである。
良い、悪いで判断することができないような、社会の「持ち味」にかかわることなのだ。
…(中略)…日本の総合的な技術力はかなり低かった。
ところがトランジスタ・ラジオという目標が設定され、そこに活力が集中されたために、問題解決のための努力が実った。
その特定の問題については、米国よりも先に答えを見つけてしまったのである。
これこそ「触発」の典型的な例である。
私が、「しょせん、(日本は)物まねだといわれるほど、話は単純ではない」といったのは、これなのである。
菊池さんがいう社会の「持ち味」の違いは、機能分化と価値分化の違いをよく示しています。
アメリカはトランジスタの開発を機能分化したプロジェクトで進めました。
それに対してソニーの井深さんは初めから自分の仕事を「トランジスタでラジオをつくろう」という顧客に提供する製品の価値から入っている。
そして現実に、ソニーはトランジスタ・ラジオのイノベーションに成功しました。
顧客がどのように使うのか、どのように喜ぶのかという観点から開発の基本的な方向づけがされていたことが、日本のエレクトロニクス産業が育った本質的な要因なのではないか、というのが菊池さんの考察です。
ソニーの事例は日本型の価値分化が良い出方をした例です。
もちろん、価値分化の組織原理が悪い出方をすることも多々あります。
たとえば、日本企業でよく見られる事業部間の壁による部分最適化や、特定の事業への情緒的な執着による集中と選択の甘さ、総花的な事業展開、古い話でいえば、旧日本陸軍と海軍の不毛の対立などなどです。
組織の人々が提供する「価値」に対してコミットすると、こうした問題が起こりやすいのです。
いずれにせよ、ここで問題にしているのは、良し悪しではなく違いです。
日本の会社では機能分化の組織編成原理が欧米と比較して希薄で、その代わり、意識的・無意識的に価値分化を志向する傾向がある、というのが私が言いたいことです(「欧米の会社」とか「日本の会社」というのはきわめて大雑把なくくりで、それぞれに大きなバリエーションがあるのはいうまでもありませんが)。
ファーストリテイリングは新興企業ということもあり、どこか外資系のように見えるかもしれません。
しかし、柳井正さんが「日本の強みをユニクロの強みにする」という方針を打ち出しているように、組織のさまざまな人々の行動や意識を、機能部門の境界を越えて、顧客に対する価値提供(つまり店舗の現場)へと振り向けることに経営の軸足をはっきりと置いている会社です。
柳井さんはこうした考え方を「全員経営」と呼んでいます。
ユニクロでは、「それはお客さまに何をもたらすのか」という基準が、商品、売場、サービスなど販売にかかわる活動はもちろん、経営計画や管理部門のあらゆる施策にも適用されています。
機能ごとに決まった仕事を専門化した人々が分担するという仕事の仕方は明確に否定されています。
顧客価値を強化するためには、自分の専門分野のことだけを考えればよいのではなく、部門を超えて現場の問題点を洗い出し、整理しながら解決策を見つけなければならない。
それが現場で顧客のためになることであれば、執行役員であっても最後まで手を動かし、現場の実務の仕事をする必要がある、という考え方です。
柳井さんは次のように指摘しています★34。
中途採用でわが社に外資系から転職してきた人の中には、何か「自分は決めるだけの人」という階級に所属しているのではないかとさえ思える人がいる。
…(中略)…そういう人は他部門からの意見も聞かない。
仕事は、他部門との連携で行われることが多いのにもかかわらず、である。
…(中略)…また、外資系の会社では人間関係がドライだ。
自分は報酬をもらって、自分の信条とは関係なくその仕事をしている。
あるいは、会社そのものへのロイヤリティーではなく、自分の専門職種へのこだわりがあって、いろんな外資系の会社を転々とする中で自己実現のためにたまたまその会社にいる、ということもあるだろう。
日本の会社の場合には、会社に対してロイヤリティーを感じながら、自分の生活の中に仕事があって自己と会社が切っても切り離せない状態になるという人が多い。
そういう意味からすると、わが社は後者に近いので、外資系の会社に勤めていた人がわが社に来たら、やはり外資系でなく日本の会社だと感じると思う。
少し前振りが長くなりましたが、私がここで言いたいことはこういうことです。
欧米の会社が機能分化の論理で割り切れる組織であるのに対して、もし日本の会社が傾向として機能のインプットよりも価値のアウトプットに人々のアイデンティティがあるような組織になっているとしたら、戦略をつくる立場にあるリーダーのみならず、戦略ストーリーを組織の人々で広く共有することの必要性や効果が日本の会社ではずっと大きくなるはずです。
ストーリーとしての競争戦略が大切だという話は、組織の編成原理がどうであろうと変わりません。
欧米でも日本でも、戦略はストーリーであるべきです。
ただし、会社が機能分化という組織編成の原理に立脚していれば、ここでお話ししたハリウッドの映画づくりのように、戦略ストーリーのつくり手であるスピルバーグさんの頭の中にあればよいわけです。
極論すれば、スピルバーグさんの頭の中だけにあればよい。
リーダーの頭の中に戦略ストーリーがあれば、機能分化の論理で、それが機能のパーツに分解されます。
それぞれのパーツを担当する機能専門家は、ストーリー全体のありようや他のパーツを担当する人々との関係にかかずらわなくても、機能ではっきりと定義された自分の仕事を遂行することができます。
その仕事に対する評価は、機能ごとに発達した労働市場での自分の価格に反映されます。
柳井さんの言葉でいう「自分の専門職種へのこだわり」があれば、ストーリー全体とは無関係に自己実現が可能になりますし、モチベーションも喚起されます。
ところが、一人ひとりの仕事の定義が機能分化では割り切れず、会社がお客さんに提供するアウトプットの価値に人々の存在理由が求められているとしたらどうなるでしょうか。
全体の目標が機能分化の論理に従って自分の担当する部門にブレイクダウンされ、そこで示されたターゲットの数字を達成し、その機能のスペシャリストとして評価されたとしても、いまひとつピンとこないのです。
自分の仕事がストーリー全体の中でどこを担当しており(それは「マーケティング」のような文脈から独立して定義できるものではない)、他の人々の仕事とどのようにかみ合って、ストーリーの動きとどのようにつながり、そのストーリーの文脈でどのように自分の仕事が最終的なアウトプットに貢献しているのか。
人々がアウトプットの価値にコミットメントを感じている組織では、その種の「全体についての実感」がなければ、モチベーションも湧きあがってこないでしょう。
トップがストーリーを構想するだけでなく、そのストーリーが組織の人々で丸ごと共有されていることが重要な意味を持ってきます。
「数字よりも筋」「ストーリーで戦略の実行にかかわる人々を鼓舞する」という話は、日本企業により当てはまると思います。
日本の会社こそ、戦略ストーリーを必要としていると私が考えるゆえんです。
◆戦略づくりの面白さ
ストーリーという視点が大切になる最後の理由は、いたって単純な話です。
何よりも、ストーリーという視点は、戦略をつくる仕事を面白くします。
戦略をストーリーとして考え、組み立てるということは、そもそも創造的で、楽しい仕事です。
難しい目標設定を与えられ、眉間にしわを寄せた渋い顔で戦略を考え(させられ)ている人が多過ぎるように思います。
単純に要因を列挙したり、テンプレートにしたがってひたすら分析したり、他社のベストプラクティスをベンチマークしたり、自分でも半信半疑の前提に従ったシミュレーションを繰り返す。
戦略づくりがこうした仕事であれば、自然に面白がって取り組める人は、よっぽどのマニア以外、ほとんどいないと思います。
しょせんビジネスなのです。
戦争でもあるまいし、戦略は「嫌々考える」ものではありません。
まずは自分で心底面白いと思える。
思わず周囲の人々に話したくなる。
戦略とは本来そういうものであるべきです。
自分で面白いと思っていないのであれば、自分以外のさまざまな人々がかかわる組織で実現できるわけがありません。
ましてや会社の外にいる顧客が喜ぶわけがありません。
面白いことでなければ、人はなかなか努力を投入できません。
ついつい先送りになります。
無理やり取り組もうとしても、面白くなければ長続きしませんし、結局のところ、たいした成果も期待できません。
逆にいえば、面白いと思えることであれば、自然体で向き合えますし、取組みも長続きします。
戦略思考を習得するにはどうすればよいのか、ということをしばしば質問されるのですが、そういう人に限って、日常の思考の自然な延長には出てこない、しかつめらしい思考様式が戦略だと思い込んでいるものです。
戦略ストーリーは文字どおり「お話」です。
お話を聞いたり、読んだり、話したり、つくったりすることの面白さは、人間にとって本源的なものです。
お話の面白さ、楽しさであれば子どもでもわかります。
放っておいてもお話を聞きたがりますし、話したくなるものです。
優れた戦略思考を身につけるために最も大切なこと、それは戦略をつくるという仕事を面白いと思えるかどうかです。
戦略づくりを面白いと思えれば、その時点で問題の半分は解決したも同然です。
まずは面白さを知る。
結局のところ、それが戦略思考を習得するための、最も効果的で効率的なアプローチだと思います。
ストーリーという視点は、戦略をつくるという仕事が本来的に持っている面白さを取り戻そうとするものなのです。
これまで、この章では、きわめて実践的な性格を持つはずの「戦略」を論理で考えることがなぜ大切なのかから始まって、戦略ストーリーとは何か、何ではないか、なぜストーリーという戦略思考が大切なのかをお話ししてきました。
だとしたら、次に来るのは、優れた戦略ストーリーとはどういうものなのか、優れた戦略ストーリーの条件とは何か、ということになるのですが、これについては一つ置いた第3章以降でじっくりお話しします。
「ストーリーとしての競争戦略」の詳細に入る前の準備として、次の章では、競争戦略というものの考え方が立脚している論理について押さえるべきところをお話ししておきたいと思います。よろしくおつきあいのほどをお願いいたします。
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