第2章公的機関の成果
6多元社会の到来
現代社会の成長部門
現代社会において、企業は組織の一つにすぎない。企業のマネジメントだけがマネジメントではない。政府機関、軍、学校、研究所、病院、労働組合、法律事務所、会計事務所、諸々の団体など、いずれも組織である。そして、いずれもマネジメントを必要とする。
これら企業以外の組織、すなわち公的機関こそ現代社会の成長部門である。今日われわれの社会は、企業社会というよりも多元社会である。企業内においても、成長部門はサービス部門である。大企業から小企業にいたるまで、さまざまなスタッフが急増している。それら企業内サービス部門にもマネジメントがある。それらもまた、成果をあげるべくマネジメントしなければならない。
サービス機関が成果をあげる方法
サービス機関は、政府機関や病院のような公的機関であれ、企業内サービス部門であれ、すべて経済活動が生み出す余剰によってコストがまかなわれている。
それらは、間接費、すなわち社会的間接費あるいは企業内間接費によってまかなわれている。サービス機関は、一九世紀初めのころの大学とは違い、いまや贅沢でもなければ飾りでもない。
現代社会の支柱である。社会の構造を支える一員である。社会や企業が機能するには、サービス機関が成果をあげなければならない。しかるに、公的機関の成果たるや、立派どころか、なるほどと思わせるレベルにも達していない。学校や病院は、いずれもひと昔前には想像できなかったほど巨大化している。
予算はさらに急増している。しかもあらゆるところで危機に瀕している。一世代か二世代前には、公的機関の活動が問題になることはなかったが、今日ではその活動の不振が攻撃の的である。郵便や鉄道などの公益事業は、一九世紀には、さほどの苦労なしにマネジメントされていた。
今日では、巨額の補助金を受けつつ膨大な赤字にあえぎ、しかもサービスは劣化している。中央政府や地方自治体も、いっそうの成果を求めて絶えず組織改革を行っている。しかるに、あらゆる国において、官僚主義への不満が高まっている。貢献と成果のためではなく、そこにいる者のためにマネジメントしているとの不満さえある。
しかし、公的機関を廃止する可能性も、廃止できる可能性もない。今日の社会には、公的機関が果たすべき貢献を不要とする考えはない。学校無用論を説く者さえ、教育の低下ではなく向上を望んでいる。病院の欠陥を攻撃する人も医療の拡充を望んでいる。
企業内サービス部門も、その貢献が不要になったわけではない。われわれに与えられた選択は、サービス機関が成果をあげるための方法を学ぶことにほかならない。
しかもサービス機関は、成果をあげるべくマネジメントすることが可能である。公的機関であれ企業内サービス部門であれ、成果をあげているものは今日のところ例外に属する。
しかしたとえ例外であっても、サービス機関にとって成果をあげることは可能であることを、それは意味する。
7公的機関不振の原因
三つの誤解
公的機関不振の原因としてよくあげられるのが、次の三つである。①企業のようにマネジメントしていない。②人材がいない。③目的や成果が具体的でない。いずれも弁解にすぎない。
①まず公的機関は、企業と同じようにマネジメントすれば成果をあげられると、くどいほど言われてきた。これはまちがいである。企業のようにマネジメントせよというのは、まちがった処方箋である。公的機関不振の原因は、まさにそれが企業でないところにある。
公的機関において企業のようにマネジメントするということは、単にコストの管理を意味するにすぎない。公的機関に欠けているものは、成果であって効率ではない。効率によって成果を手にすることはできない。あらゆる組織にとって、効率は必要である。
たしかに公的機関の世界には競争がない。コスト管理を外部から強制されることもない。そこが、市場で競争する企業とは異なる。寡占的な企業とさえ異なる。
だが公的機関の問題の根本は、コスト意識の欠如にあるのではない。成果をあげられないことにある。効率のよい公的機関もあるかもしれないし、現にいくつかある。
しかし公的機関の問題は、なすべきことをしていないところにある。
②南北戦争直後のヘンリー・アダムスから今日のラルフ・ネーダーにいたるまで、アメリカの改革者たちが要求してきたものは、人材だった。政府機関に欠けているものは人材だと信じてきた。
しかし企業と同様に、公的機関もスーパーマンや猛獣使いだけをマネジメントの地位に置くわけにはいかない。組織の数はあまりに多い。
あらゆる病院の院長が天才や偉人でありうるはずがない。公的機関のマネジメントが、不適格、無能、不真面目、怠惰であると信ずべき理由はない。
企業の人間が公的機関のマネジメントに任命されたとき、官僚よりもうまくやれると信ずべき理由はない。われわれは、彼らがただちに官僚になることを知っている。
③公的機関の不振のもっともらしい理由づけとして、公的機関の目的と成果が具体的でないというものがある。これも問題の一面しか見ていない。
そもそも事業の定義は、公的機関だけでなく企業の場合も抽象的たらざるをえない。シアーズ・ローバックの「一般家庭のためのバイヤーになる」との定義は具体的でない。
マークス・アンド・スペンサーの「階層を破壊する」との定義も具体的でない。たしかに魂の救済という教会の目的は、定量的には把握できない。少なくとも帳簿にはつけられない。
しかし、教会へ来る人の数は測定できる。「若い人を教会に惹きつける」との目標も測定できる。全人格の発達という学校の目的は、定量的にはつかめない。
だが、「小学三年までに本を読めるようにする」との目標は具体的である。容易に測定できる。かなり正確に測定できる。公的機関と企業は何が違うか公的機関と企業の基本的な違いは、支払いの受け方にある。
企業は顧客を満足させることによって支払いを受ける。顧客が欲しているもの、代価を払う気のあるものを生み出したときにのみ支払いを受ける。企業においては、顧客の満足が成果と業績を保証する。ところが、公的機関は予算によって運営される。
成果や業績に対して支払いを受けるのではない。収入は、活動とは関係のない公租公課による収入から割り当てられる。このことは企業内サービス部門についてもいえる。成果に対する支払いは受けない。
しかも通常、顧客たる他部門のマネジメントがスタッフ部門をどの程度利用するかによって支払いを受けるのでもない。支払いは、間接費すなわち予算から受ける。そうせざるをえない。企業内サービス部門は、公的機関と同じ性格を持ち、同じ行動をとる。
予算から支払いを受けるということが、成果と業績の意味を変える。予算型組織では、成果とはより多くの予算獲得である。業績とは、予算を維持ないし増加させることである。したがって、成果という言葉の通常の意味、すなわち市場への貢献や目標の達成は二義的となる。
予算の獲得こそ、予算型組織の成果を測る第一の判定基準であり、存続のための第一の要件となる。しかるに予算というものは、そもそもの性格からして、貢献ではなく目論見に関わるものにほかならない。
成果をあげるなかれいかに大切さを説いたとしても、予算型組織においては効率やコスト管理は美徳ではない。予算型組織の地位は、予算の規模と人の数で計られる。より少ない予算や、より少ない人間で成果をあげても業績とはされない。
むしろ組織を危うくしかねない。予算を使い切らなければ、次の年度には予算を減らせると議会や役員会に思わせるだけである。しかも予算型組織では、効率よりも成果のほうが危うくされる。
われわれの事業は何かとの問いは、常に危険である。論議をまき起こす。そうして起こる論議は、関係当事者間に対立をもたらす。もちろん論議は避けたい。そこで国民と自らをあざむかなければならなくなる。予算に依存することは、優先順位をつけ、活動を集中する妨げとなる。
しかし、優先順位の高い目標に資源を集中することなしに、成果をあげることはできない。そのうえ予算に依存することは、まちがったもの、古くなったもの、陳腐化したものの廃棄を難しくする。その結果、公的機関は、非生産的な仕事に関わりを持つ者を大勢抱えることになる。いかなる組織といえども、行っていることの廃棄を好まない。企業とて例外ではない。
しかし企業は、成果と業績に対して支払いを受けており、非生産的な陳腐化したものは遅かれ早かれ顧客によって葬られる。予算型組織はそのようなテストを受けない。
それどころか、すでに行っていることは高潔であるに決まっており、公益に合致するに決まっているとされる。したがって今日、あらゆるサービス機関が守るべき原則は、「現在行っていることは永遠に続けるべきものである」ではなく、「現在行っていることは、かなり近いうちに廃棄すべきものである」でなければならない。
人は、報われ方に応じて行動する。それは、報酬、昇進、メダル、ほめ言葉のいずれであっても変わらない。予算型組織も、その支払いの受け方のゆえに、貢献ではなく予算を生み出すものこそ成果であり業績であると誤解する。
これが予算型組織に特有の性質である。驚いたことに、このことに経済学者はまったく注目していない。これはおそらく、今日ではGNPの半分以上が、成果や業績に対し支払いを受けている企業にではなく、約束やせいぜい努力に対し支払いを受けているにすぎない公的機関に流れているという事実に気づいている経済学者が、あまりに少ないためであろう。
予算に依存することは、それ自体、悪いことでも望ましからざることでもない。一五世紀のヨーロッパの軍や中国の軍閥のような自給自足の軍隊は、絶えず戦い、恐怖をもたらし、略奪と暴行を繰り返していた。
そのような軍は、政治のための手段とはなりえない。シビリアン・コントロールと軍事費の予算化は、まさにこの「戦争の自由企業」をなくすためのものだった。
公的機関と同じように、企業内サービス部門も予算に頼らざるをえない。企業内研究所にとっては、予算こそ唯一の望ましい資金源である。
しかし、予算で支払いを受けることは、それがいかに必要であり、いかに望ましくとも、誤った方向づけにならざるをえない。病院や大学のように、成果ではなく、活動すなわちコストに対して支払いを受けることも誤った方向づけにならざるをえない。ほとんどの場合、この誤った方向づけを皆無にすることは至難である。
しかし、それを少なくし、対策を講じてかなりの程度中和することはできる。
8公的機関成功の条件
六つの規律
公的機関にも種類があり、種類が違えば構造も違ってくる。だがあらゆる公的機関が、次の六つの規律を自らに課す必要がある。
①「事業は何か、何であるべきか」を定義する。目的に関わる定義を公にし、それらを徹底的に検討しなければならない。異なる定義、しかも一見矛盾する定義を採用し、そのバランスを計る必要さえある。
②その目的に関わる定義に従い、明確な目標を導き出す。
③活動の優先順位を決める。これは、目標を定め、成果の基準すなわち最低限必要な成果を規定し、期限を設定し、成果をあげるべく仕事をし、責任を明らかにするためである。
④成果の尺度を定める。これは、たとえばベル電話会社の顧客満足度や、日本が明治のころ社会発展の尺度とした識字率である。
⑤それらの尺度を用いて、自らの成果についてフィードバックを行う。成果による自己管理を確立しなければならない。
⑥目標に照らして成果を監査する。目的に合致しなくなった目標や、実現不可能になった目標を明らかにしなければならない。恒久的な成功などありえない。しかるに、成功は失敗よりも捨てることが難しい。すでに自負を育てている。成功は愛着を生み、思考と行動を習慣化し、過信を生む。
意味のなくなった成功は、失敗よりも害が大きい。
公的機関の種類
公的機関が成果をあげるうえで必要とするのは偉大な人物ではない。仕組みである。それは、企業が成果と業績をあげるうえで必要とする仕組みに似ている。もちろん適用の仕方は違う。
公的機関は企業ではない。成果の意味が違う。さらに、その適用は公的機関の種類によって違うし、違わざるをえない。成果に対して支払いを受けるのではなく、計画と活動に対して支払いを受けるという意味での公的機関は、大きく分けて三種類ある。
①自然的独占事業がある。独占事業は、経済的な財やサービスを生産する。しかしそれは、まさに独占であるがゆえに、成果に対して支払いを受けているのではない。経済学では、電話事業や電力事業など、地域内において排他的な権利を持たざるをえない事業を自然的独占事業という。企業内研究所も、その企業のなかでは自然的独占事業である。自然的独占事業に必要なことは、組織構造を単純化することである。
自然的独占事業は、たとえ成果に対して直接支払いを受けていなくとも、公的機関のなかでは成果にもっとも近いところにいる。自然的独占事業に必要なことは、企業が行っていることをすべて意識的に体系的に行うことである。これが、自然的独占事業を、国有化するよりも民間のものとし、規制のもとに置くほうがよい理由である。
経済学や政治学が明らかにしているように、規制のもとにない自然的独占事業は、成果があがらず、効率もあがらない。顧客を搾取する。他方、国有化した自然的独占事業は、搾取こそしないかもしれないが、顧客に対して、効率やサービスの悪さ、料金の高さ、ニーズの無視からの救済手段を与えない。
規制のもとに置いた民間の自然的独占事業は、無規制や国有のものに比べ、顧客の不満やニーズに敏感である。規制機関を通じて表明される世論の力に従わざるをえないからである。
②次に、予算から支払いを受けて事業を行う公的機関がある。
それぞれにおいて、目的や目的達成のための方法は多様である。目標の優先順位も多様であるし、多様たるべきである。公営の学校や病院がその典型である。企業内サービス部門のほとんどがこれに属する。
これらのサービス機関に必要なものは、所有は社会化するが競争は行わせるという、ポーランド出身のマルクス主義者オスカー・ランゲのいう社会主義的競争である。この種の公的機関の顧客は、本当の意味での顧客ではない。むしろ拠出者である。
望むと望まざるとにかかわらず、税金、保険、間接費負担などの形で支払いをさせられている。この種のサービス機関が生み出すものは、欲求の充足ではない。
必要の充足である。学校や企業内サービス部門は、誰もが持つべきもの、持たなければならないものを供給する。この種のサービス機関は、成果について最低限の基準を設けなければならない。
しかし監督や規制が必要であっても、マネジメントは独立した機関が行うことが望ましい。しかも顧客となる者は、複数のサービス機関から選択できることが望ましい。水準以上の成果をあげるには競争が必要である。
ある大企業では、事業部は本社のマーケティング・スタッフを利用できるが、利用することを強制はされていない。社外コンサルタントを使うことも、事業部内にスタッフを持つことも許されている。
本社に対しては、本社のスタッフを使ったときだけコストを負担すればよい。
行政組織
③最後に、目的と同じように手段が意味を持ち、したがって手段の統一性が不可欠な公的機関がある。これには、国防や司法に関わる政府機関をはじめ、伝統的な政治学における行政組織のほとんどが含まれる。
この種の組織は、経済学のいう公共財ではなく統治を提供する。この種の公的機関では、独立したマネジメントはありえない。競争は、可能だとしても望ましくない。政府のもとに置き、政府の直接の運営にゆだねなければならない。
しかしそれでも、目標と、優先順位と、成果の測定は不可欠である。したがってこの種の機関は、存立の目的と成果について独立した監査を必要とする。成果からのフィードバックを行う手立てがないからである。唯一の規律は分析と監査である。
行政組織に対する監査は、一九世紀に入ってようやく政府の受け入れるところとなった。今日では、支出を監査し、不正、不法、非効率を明らかにするための、行政府や立法府から独立した機関の存在が当然のことになっている。
行政組織は社会の中核的な存在である。しかもコストのかかる存在である。したがって、行政組織の目標と成果については監査が不可欠である。
いまやわれわれは、あらゆる政策、法律、計画について、「目的は現実的か、達成可能か、それとも言葉だけか。ニーズに応えているか」「目標は正しいか。優先順位は検討しているか。成果は公約や期待に合致しているか」を問わなければならない。
さらに進んで、あらゆる行政組織とあらゆる立法行為が恒久たりえないことを前提としなければならない。
新しい活動、機関、計画は、期間をかぎり、その間の成果によって目的と手段の健全さが証明された場合にのみ、延長を認めるようにしなければならない。公的機関に必要なことは、企業のまねではない。
もちろん、成果について評価することは必要である。だがそれらのものは、何よりもまず、病院らしく、行政組織らしく、政府らしくなければならない。自らに特有の使命、目的、機能について徹底的に検討しなければならない。
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