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Part2「センスのよさ」が、スキルとして求められている時代

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Part2「センスのよさ」が、スキルとして求められている時代

センスのよし悪しが個人と企業の存続に関わる時代

「自分にはセンスなど関係ない」と思う人もいるでしょう。自分はクリエイティブディレクターでもデザイナーでもない、センスのよし悪しが影響するような仕事に就いていないから、センスを問われるシーンなど、せいぜい服選びくらいのものだと。

しかし、これも誤った考えだと僕は思います。センスが必要とされない仕事など一つもないと考えています。仮に必要ではなくとも、センスが悪いよりはよいほうが、ビジネスパーソンとしてアドバンテージとなることは確かです。

前述したように、センスとは数値化できない事象を最適化することであり、誰にでも生まれつき備わっています。仮にセンスが水だとして、誰もがもともと水を持っているとします。ある人は、その時その時に最適な水の出し方を考え、表現する力があります。

たとえば暑い夏の日にはきりりと冷やしてレモンをひとしずくたらし、冬には口にすると体の芯から温まりそうなお茶を淹れるというように。

ある人は、水の出し方などはなから考えず、同じように供するだけです。

たとえば、生ぬるいうえに新鮮でない水を、三六五日差し出すというように。

前者がセンスのよい人で、後者がセンスの悪い人。比べた場合、どちらが求められるかは明白です。

もう少し、水をたとえにセンスを考えてみましょう。高度経済成長期は、水自体に価値がありました。水をたっぷり、あるいは素早く差し出せば、品質はまったく問われませんでした。味や出し方などどうでもよかったのです。つまり「質より量」という時代です。

しかし高度経済成長期の後半から、水の品質や安全性が求められるようになりました。質そのものを追求した結果、さまざまな技術が発達していきます。精製度が高い水、清潔な水、アルカリ電解質の水などが誕生しました。つまり、「量より質」「技術による質の向上」という時代です。

ところが技術の向上は、やがて頭打ちになります。どの会社もどの国も技術力をとことん高めていった結果、「質のいい水」がコモディティになってしまったのです。当たり前であれば、付加価値も利益も生まれなくなります。新たな技術や企業努力がしづらい世の中になっていきました。

日本は幸いなことに、バブル崩壊という金融危機を生き延び、その後にやって来たIT革命という変化がカンフル剤となって生きながらえているのですが、そろそろ限界です。

技術力だけに頼ってきた結果、ものづくりにあまりに重きを置きすぎた日本は、まったく売れなくなった「質のよい水」を抱えて、差し出す相手をなくしつつあります。

世界でもこの状況は同じでした。しかし、まったく新しい「水」を次々生み出すことができた人も存在します。スティーブ・ジョブズが率いていたアップルです。

コンピューターを、単なる技術だけでつくり出したのではありません。素晴らしい美意識とセンスのもとで製品にまで仕上げていきました。機能でも装飾でも、どちらの面からもセンスを形にしていた企業です。

今後、まだまだ技術力が大きく伸びていく可能性はもちろんあります。しかしここしばらくの間は、停滞するのではないかと僕は感じています。だからこそ、センスのよさが最も求められるようになると思えてならないのです。

企業の価値を最大化する方法の一つに、センスというものが挙げられる。それどころか、その会社が存続するか否かも決める。個人についてもそれは同じで、同じくらいの能力を持つビジネスパーソンであれば、その人のセンスが違いを生み出すのではないでしょうか。

時代は「次の利休」を求めている

「日本の技術力」「ものづくりの国、日本」こう言われるようになったのは、高度経済成長期以降の話です。明治維新後の日本は「近代化=西洋化」という解釈をしており、それは商品をつくる際にも影響していました。

クリエイティビティを発揮するより、いかに西洋と「同じ」になるか懸命だったということです。それが第二次世界大戦の敗戦で頓挫すると、なんとか復興するための手段として、安いものを、早く、たくさんつくることに邁進しました。

やがて高度経済成長期に入って生産性が軌道にのると、今度は技術力を磨き、品質の高いものをつくり始めました。安かろう、悪かろうではない。便利で、工夫されていて、高機能なものです。日本の技術力は、戦後わずか二〇年で世界トップレベルの経済大国となりえた原動力です。

しかし、強みゆえにものづくりに自信を持ち過ぎ、「ものづくり信仰」が芽生えたのは問題です。ものづくりの神さまに頼っていれば、ものは売れる。便利なもの、安いもの、高機能なものをつくれば消費者は買ってくれる。そう誤解してしまったのです。

この信仰は一九七〇年代から二〇〇〇年代ぐらいまで続き、今もその影響は残っています。技術を司る「ものづくりの神さま」だけに頼ってもものは売れない。頭ではそうわかっているのに、あまりに多くの会社やビジネスパーソンが、「デザインや美的センス?わからないよ」と、手をこまねいているようです。

しかし、本来の日本は、センスが悪い技術だけの国ではありません。江戸時代までは、むしろ研ぎすまされた独自の美意識をもつ「センスの国」でした。たとえば茶の湯を確立した千利休が活躍した安土桃山時代は、センス、美意識というものが花開いた時代です。

僕の目には、この時代と今の時代は非常に似ているように映ります。技術からセンスへ移り変わった時代、それが安土桃山時代だと思うのです。利休は一五二二年、戦国時代の生まれです。各国の大名が乱立し、誰が天下をとるかを巡って熾烈な戦いが繰り返されていました。

そんななか、一五四三年に鉄砲が伝来します。それまでの槍、刀、弓や、人力で巨大な岩を落とすという古典的な戦い方から一変し、離れたところから簡単に人の命を奪うことができる兵器が海外から伝わってきたのです。これは技術革命といっていいでしょう。

権力は、鉄砲という新しい技術を得た者、織田信長に集約されていきます。信長は桶狭間の戦いで駿河の今川氏の侵攻を食い止めますが、一五八二年に信長が本能寺の変で倒れたのちは、豊臣秀吉が覇権を握ります。事実上一人の人間による統治が行われたのが安土桃山時代と言えるでしょう。

ここから江戸時代まで世の中が安定した時期に、日本の美が花開いていきます。安土桃山時代における千利休というのは、今の時代でいうクリエイティブディレクターのようなものです。装飾の多い「唐物」がよしとされる価値観のなか、彼はシンプルな茶器をよしとし、「侘び茶」という概念を確立しました。

信長にお茶を供し、秀吉に重用され、前田利家をはじめとする大名を弟子とし、「茶聖」とまで言われたのです。利休の最期は、秀吉によって死を命じられるという悲惨なものです。理由は諸説ありますが、いずれにしろ殺されてしまうほどの影響力を手に入れたことは確かでしょう。

秀吉ほどの権力者が一介の茶人をわざわざ殺す必要などなかったはずなのに、殺した。それは、殺さなければならないほど、秀吉にとって利休は重要な存在となっていたからではないでしょうか。なぜ、そこまで利休が必要とされたか──。

それは、戦国時代という技術の時代が終わり、新しいセンスが必要となったからだと僕は解釈しています。築城技術や刀鍛冶という軍需向けの技術は、戦闘だけに影響を与えたのではありません。

もともと軍事目的で開発されたGPS機能が、スマートフォンの地図アプリなどに形を変えて一般に利用されるようになったごとく、軍事技術が進んで平和が訪れた時、暮らしや文化も変わっただろうというのが僕の推測です。装飾品も、建築も進化したでしょう。

器もいいものが生まれ、茶を嗜む余裕もできました。「中国から届いた唐物がすばらしい」「いや、南蛮の器がいい」「そうじゃない、あそこの職人がつくる器がいい」選択できるというのは豊かなことです。

しかし、その豊かさに「何を選んでいいのか、わからない」と困ってしまう人もいるでしょう。「誰か、センスがいい器を教えてくれる人はいないのか」という空気の中で必要とされた人、それが利休だったのではないでしょうか

現代の日本においても同様のことが見受けられるのではないかと僕は思っています。時代は、次の利休を探しているのです。

技術がピークを迎えるとセンスの時代がやってくる

人間というのは技術がその時点の限界まで進歩すると、ノスタルジックな思いに身を寄せ、美しいものを求める傾向があると僕は思っています。

たとえば戦闘技術がピークを迎えて戦国時代が終わった時、大名たちは茶の湯や芸能に夢中になりました。全国統一で世の中が落ち着き、美に目を向ける余裕ができたという見方もあるでしょう。権力者が富とパワーを誇示するために美しいものを追求したという見方もあります。

しかし、僕の持論は、「技術からセンスへの揺り戻し」というものです。戦国時代に技術力が当時のピークを迎えたために、安土桃山時代はセンスの時代になった──そこにはある種のノスタルジーもあると見ています。歴史を眺めてみると、技術が劇的な進化を遂げるとセンスの時代が来て、しばらくするとまた技術の時代がやって来るという〝サイクル〟が感じられます。

たとえば利休が生きた時代は、イタリアで起こったルネッサンスが隆盛を迎えた時代とも重なります。ルネッサンスとは、復興、再生を意味し、古代ローマやギリシャのセンスを取り戻そうという「なつかしさ」を求めた文化運動です。奇しくもヨーロッパでも、火薬、羅針盤、印刷技術……と世界的に技術レベルが上がって躍進したのちにルネッサンスは勢いを増しました。

「技術からセンスの揺り戻し」が起きていたと言えるのではないでしょうか?時計の針を進めて近代に目を向けても、同様の現象が見られます。一八世紀半ばにイギリスで起きた産業革命で、世の中は劇的に変わりました。

ものづくりに工業という概念が持ち込まれ、機械化が進み、大量生産が可能になりました。職人がコツコツつくっていた時代とは比べものにならない生産量でしょう。さらに、蒸気機関車というかつてなかった移動手段が生まれました。これらは素晴らしい技術の発展であり、進化なのですが、安かろう悪かろうの品が大量にあふれるというマイナス面も伴います。

それに異を唱えたのが詩人でデザイナーのウイリアム・モリス。今でもそのデザインは美しい壁紙やプリントとして残っています。

一八三四年生まれの彼は、「工場の大量生産品を使うのではなく、もう一度手仕事に戻ろう。暮らしのなかに美しいものを取り入れよう」と提唱し、さまざまなセンスある商品を生み出しました。

これは「アーツ・アンド・クラフツ運動」と呼ばれます。モリスによる〝センス革命〟が起きたと言っていいでしょう。

手仕事というなつかしさをフックにしたセンスの時代への変換です。

もちろん、ヨーロッパには伝統的に、装飾をこらした芸術作品と呼べるような調度品がありますが、王族や貴族、大富豪など、限られた人のためのものでした。

今日鑑賞される名画も、特権階級や教会のために描かれたものがほとんどです。一方、当時の庶民の暮らしの道具は機能優先でした。

手仕事でつくられていた頃は意図せず職人の個性が加わっていたかもしれませんが、工場の道具となればセンスやデザインなど求められませんでした。

「丈夫で使いやすいものをたくさんつくる」という、技術の追求が最優先事項だったのです。

しかし、技術力はやがて頭打ちになります。進化が止まるわけではありませんが、あまりに急激にピークを迎えたので、いったん停滞するのです。

同時に、大量生産が当たり前になると、人々の意識が変わります。ここで起きたのがやはり「技術からセンスへの揺り戻し」です。

アーツ・アンド・クラフツ運動がきっかけとなり、アートは、日本語でいう「美術」と「デザイン」に分かれていきました。工芸品や民芸品という庶民のための「もの」にも美しさを求める──これが今日のデザインという概念につながっていったのです。

「アーツ・アンド・クラフツ運動」は世界各地に伝播し、日本でも一九二六年に、日用品のなかに美を見出そうという民芸運動が起こりました。

さらに時計の針を現代に進めましょう。IT革命によって人類は再び、かつてないほどの進化を遂げました。産業革命同様、人類全体に大きな進化をもたらす情報革命です。

僕の仮説が正しければ、情報革命によって技術がピークを迎えたあとのこれからの時代は、センスの時代です。「無料で世界中の人とコンタクトが取れる、すごい!」と言っていた技術の時代は終わりを告げ、しばらく停滞するでしょう。

どのようにその技術を楽しむか、細部の発達、文化や美が求められるようになるでしょう。これも僕の持論ですが、「美しい」という感情は基本的に未来でなく過去に根差していると思っています。ノスタルジーやなつかしさもフックになるに違いありません。

技術とセンス、機能と装飾、未来と過去。こんなふうに対になっている時代の間を、みんなが行ったり来たりしている気がします。市場はすでに、センスの方向に動き始めているのです。だからセンスのいい企業が成長し、センスのあるビジネスパーソンが求められているのではないでしょうか。

新しいものが広がるには時間がかかる

斬新なものを生み出した場合、たとえ成功するとしても、それには相当な時間がかかることを理解し、長期的な視野を持つことが必要です。

「私のセンスがいいから、ひらめきが降りて来てたちまち大ヒット」という、魔法のような話はどこにもないのです。

人は急激には変化を遂げないという例を挙げれば、枚挙にいとまがありません。わかりやすいところでいうと、携帯電話をスマートフォンに変えるだけでも数年を要しており、いまだ携帯電話を使っている人もたくさんいます。

初代iPhoneの発売は二〇〇七年。この時点ではアメリカ国内向けの機種だったこともあり、使っていたのはイノベーターと呼ばれる革新的な少数派だけでした。

iPhone3Gが日本を含む世界で発売されたのは翌二〇〇八年。大変な話題になったとはいえ、この時点で使い始めた人は時流に敏感で新しいものを好む、アーリーアダプターと呼ばれる二番手の人たち。

その後三番手として、アーリーマジョリティと言われる、平均よりちょっとだけ新しいものが好きな多数派がスマホを使いだします。

この後、iPhone3GSが二〇〇九年六月に発売になります。iPhone4が発売となる二〇一〇年は、iPhone以外の機種も含めたスマホも大量に発売されていたので、スマホ普及率は一気に加速しました。二〇一一年にiPhone4S、二〇一二年にiPhone5、二〇一三年にiPhone5s、iPhone5cがリリース。

この頃からスマホに移行した人は、「みんなが使っているから自分も使いたい」「みんな使っているんだから、自分が使っても大丈夫だろう」という理由で購入するレイトマジョリティです。

やや遅めに、みんなにつられて反応する多数派ということです。この本を執筆している二〇一四年時点で、iPhone発売から約七年。

誰でもスマホを知るようになりましたが、二〇一三年六月時点の日本でのスマホ普及率は四九・八%(IDCJapan調べ)。いまだ半数に達していません。

これからも少しずつ、残りのレイトマジョリティが携帯からスマホへと移行していくと思いますが、ラガード(Laggard:遅滞者)と呼ばれる保守的な人たちは、どんなにスマホが流行ろうとも決して変えようとしないでしょう。

僕の母もその一人で、おそらく残りの人生もガラケーと共に過ごすでしょう。

ラガードは、「ガラケーなら使い慣れているし、これで不便がない」と満足しきっていて、スマートフォンで何ができるか知ろう、持ってみようという気すら起こさない人たちです。

ここでスマートフォンを例にとり、「誰でも知っているマーケティング用語」をおさらいしたのは、新製品が人々に普及するまで、いかに時間がかかるかを知ってほしいためです。「この商品を売るまでに五年かけよう、一〇年プロジェクトでヒットを出そう」という会社であれば、あっと驚く新製品を企画しても勝算があると言えます。

たいして売れず、ほとんど利益が出なくても、その商品を販売しつづける企業としての信念と体力があれば、時間をかけてヒットに育てていくことも可能です。

その代表例が大塚製薬の「ポカリスエット」。今の二〇代であれば「脱水症状にはポカリスエット」と知っていますし、子どもの頃から「風邪を引いたらポカリスエット」という環境で育っています。

しかし、一九七二年生まれの僕にとって、八〇年に登場したポカリスエットは「よくわからない、変わった飲みもの」でした。

消費者にとっては、ジュースでもお茶でもない、それまでに見たことのない商品であり、同業他社にとっては、思い切ったアイデアの「あっと驚く企画」だったのではないかと思います。

大塚製薬の公式サイトによれば、ポカリスエットは一九八七年に累計発売本数三〇億本を達成。九三年に一〇〇億本、九八年には二〇〇億本達成と、国民的飲料に育っていくまでに長い年月をかけています。二〇〇八年に三〇〇億本まで売り伸ばしたのは、ポカリスエットが、「誰もが飛びつく新しいアイデア」だったからではありません。

「売れるようになるまで、絶対に売る」という大塚製薬の信念と体力が、大ヒット商品に育て上げたのです。オーナー企業だからできたことだといえるでしょう。通常の企業なら、発売から数カ月の売り上げデータを見て、数字がよくなければ素早く撤退します。

特に昨今の飲料は、売り上げデータがすべて数値管理されているコンビニエンスストアでの動きが注目されます。発売後すぐに売れだすかどうか、というスピードも重視されるなか、売れないものを数年、数十年かけて粘り強く売る企業はほとんどないと言えると思います。

スロースターターだったポカリスエットが大ヒット商品に伸びていったのはかなり特殊な例であり、大塚製薬のもつ薬局という特殊な販売ルートが大いに味方をした部分もあるでしょう。

しかし「あっと驚く売れた企画」が仮に二%あるとして、それが売れた場合、理由の九〇%以上は企業努力であり、企業忍耐です。

「あっと驚く売れた企画」が二%あり、そのうち九〇%が企業努力で売れたのだとしたら、斬新な発想やひらめきの力だけで売れたものは〇・二%にすぎません。いかに小さなパーツにすぎないかが、改めて実感できるのではないでしょうか。

なぜ日本企業の製品にはセンスがないのか

家電や自動車など、日本のメーカーは売り上げ規模、技術力など多くの面で世界トップクラスと言えるでしょう。

しかし、「群を抜いているのは技術力や商品の完成度のみ」という但し書きがつきます。トータルでは残念ながら、いろいろな国のメーカーと肩を並べている、もしくは抜かれてしまっているのが現状ではないでしょうか。

僕はその原因も、センスにあると思っています。前述したスマートフォンは非常にわかりやすい例です。日本では二〇〇八年七月、アップルのiPhoneが登場して以降、高度の進化を遂げていたはずの日本の携帯電話は、「ガラケー」と呼ばれて衰退していきました。

そこで各メーカーはこぞってスマートフォンをつくるようになったのです。ところが二〇一三年、日本最大手キャリアのNTTドコモがアップルと提携を結ぶ動きに合わせて、複数の会社が急速にスマートフォン事業から撤退を始めました。

つまりそれは「今まではiPhoneという選択肢がなかったからドコモに選んでもらえたけれど、iPhoneと比べられるとなったら勝ち目がない」ということでしょう。「iPhoneにはかなわない」──そう思うのは、技術ではなくセンスの問題も大きいと思います。

シンプルなデザイン然り。ユーザーインターフェイス(UI)の「気持ちいい動き」然り。クリエイティブ面がかなわないのです。

日本のメーカーが、使う人が心地よく動かせるインターフェイスをつくる技術を持たないわけではありません。逆にいくらでも持っているのです。

欠けているのは、「ユーザーに、『徹底的に』気持ちよさを提供しよう」というセンス。多くの日本企業では、つくり手にも経営陣にも、「クリエイティブなセンス」がもっと必要ということではないでしょうか。

食品でも化粧品でも、新しい商品をつくろうというとき、圧倒的多数の日本企業はまず、市場調査を始めます。僕は、これが大問題だと思っています。日本企業を弱体化させたのは、市場調査を中心としたマーケティング依存ではないでしょうか。

通常の市場調査では、対象者を集め、六人ほどのグループにして聞いてみます。

「あなたのいいと思う商品のサイズはどれですか。A、B、Cから選んでください」並んだ試作品を手にとり、触ってみても、対象者の答えは好みでしかありません。

彼らは消費者であり、開発者ではないのですから、今あるものと比べて何かを言うことしかできなくて当然です。この手の市場調査には、二つの落とし穴があります。

ひとつは、悪目立ちするものに目が行きがちであるということ。

なにかを選ばなければならない「特殊な状態」に置かれている調査対象者は、普段の自分だったら毎日の生活の中に取り入れたいとは思わないような、変に目立つものを、気負って選んでしまいがちです。

もうひとつは、新しい可能性を潰してしまいがちなこと。

自分が見たこともない、聞いたこともない、触ったこともないものをいいと言う人は、実はほとんどいません。

発売前のiPodを市場調査にかけていたら、「再生や巻き戻しのボタンがないなんて」と非難ごうごうだったかもしれません。

一〇〇が二〇〇になったものは欲しくない。

一〇〇が一〇一になったもの、せいぜい一一〇ぐらいになったものを見た時、多くの人が「新鮮だ、新しい、欲しい!」と思うものなのです。ここから、新しい価値は生まれません。

一〇〇が一〇一になれば進化しているとは言えますが、この程度の歩みのスピードだと、スティーブ・ジョブズが生きていた頃のアップルのような会社には、到底追いつくことができません。

それなのに旧態依然として「まず市場調査ありき」という日本企業は、あえて新しいものを生まないように努力しているかのようです。

グループインタビューの多くは調査会社によって行われ、メーカーの人たちはマジックミラー越しに、別室で様子を見ています。

僕も一緒に見せてもらうことがありますが、「あまり意味がないんじゃないでしょうか」とはっきり言ってしまいます。

するとメーカーの人たちは、こんな答えを口にします。

「いや、市場調査は商品開発の儀式みたいなものですから」それなら、いらないと思うのは僕だけでしょうか?たった一つ、僕がやってみてもいいと考えている市場調査は、どの商品がいいか一秒で選ぶというやり方。

非常に感覚的な作業で、論理的思考が一切入りません。

つまり、僕たちが普段、店頭などでものを選ぶときにものから感じ取る時間とまったく同じ条件下で調査をするということです。

何も置いてない部屋に新商品のパッケージのA、B、Cを置いておいて、どれがいいかを、入室して一秒で決めてもらう。その際には必ず一人。一秒で決めて出ていく。

この作業を、一〇人ではなく、一〇〇人、一〇〇〇人という規模で行う市場調査であれば、参考程度にしてもいいと思っています。

日本企業に必要なのはクリエイティブディレクター

亡くなってしまったスティーブ・ジョブズという人は、経営者であり、クリエイティブディレクターでした。

彼は市場調査を重要視せず、自分の本当に欲しいもの、「みんなも本当は欲しいだろう」と自分が思うものを生み出す努力を続けてきました。

彼の能力の高さはアップル成功の重要なファクターです。日本にもきっと、ジョブズのような人はいるはずです。

しかし、市場調査に頼るというシステムが、そうした能力の高い人を生かすことができない一因になっているのではないでしょうか。

「市場調査は社内説得の道具」として使われているという説もあります。

真偽のほどは僕にはわかりませんが、市場調査が、人材育成の面でも危険な行為だというのは確かでしょう。

危険である理由は二つ。第一に、調査だけに頼っていると、自分は何がいいと思い、何がつくりたいのか、自分の頭で考えなくなります。

この他力本願な姿勢が、クリエイティビティの低い頭脳構造を生み出してしまいます。

第二に、「調査結果で決めた」となると、責任の所在が曖昧になります。

ただでさえ、総意でものごとを決定しがちな日本企業でそれをやれば、「この新商品が駄目だったら、クビになるかもしれない」という緊張感はなくなります。

緊張感のなさは、「もっとよくしよう、もっと面白いことをやろう」という向上心を弱めてしまう危険があります。向上心のないところから、いい商品は生まれないのではないでしょうか。

「経営者のセンス」が企業の底力になる

僕はいろいろな会社と組んで新しい商品をつくり出していますが、一般に言われる大企業ほど、市場調査を重視する傾向があります。これは「大企業はけしからん!」という話ではなく、資本主義の原理にもとづく話です。

株式会社である以上、企業の価値を株主に支えてもらわなければならず、株価を暴落させかねない大きな失敗は、簡単に許されなくなるのです。

その点、二〇一〇年十二月まで、創業から長い間非上場企業という方針を貫いてきた大塚製薬のような会社は、企業価値を自分たちの中で完結することも可能です。もっとも、企業の底力、企業のセンスという観点で考えた場合、上場か非上場かはあまり関係ありません。

たとえば、グループ全体で長らく非上場だったサントリーという会社があります。二〇一三年に子会社であるサントリー食品が上場しましたが、企業の底力は変わらないでしょう。創業者やオーナーたちが持っていたセンス、哲学、ポリシーが連綿と続いている企業は、自分で自分の価値をつくり出すことができると思います。

「売れればいい」という姿勢ではなく、自分たちのセンスを大事にする資生堂のような会社も、経営者のセンスが企業の底力になっている一例です。企業の美意識やセンスが、企業価値になる。これが今の時代の特徴です。時代のニーズは変化します。

たとえば、高度経済成長時代の企業に求められたのは、真面目に熱心に働くことでした。その代表がパナソニックであり、松下幸之助さんでしょう。残された多くの著書を見ると、彼が大切にしていたのは真面目さ、勤勉さ、倫理観や道徳心だと感じます。

どれも素晴らしいもので、尊敬する経営者の一人ですが、センスや美意識に言及された本はあまり見ません。組織として効率よく勤勉に働く。それは今も変わらずに大切なことですが、時代が誘う次のステージに向かうためには、それだけでは「足りない」のです。

いきなりセンスが必要と言われて、どうしたらいいかと立ち往生してしまう経営者のもとで、社員たちが迷っているというのが現状かもしれません。

クリエイティブディレクターは企業の医者である

人は元気で勢いがあるとき、多少どこかが痛くても走りつづけることができます。走っているうちに、痛みが紛れてしまうことだってあるでしょう。

しかし、ちょっと体調が悪い時には、ささくれひとつでも気になるものです。

それどころか、体調の悪さが虫歯の痛みを引き起こし、虫歯の痛みから胃腸が悪くなっていき、ますます体調が悪くなるといった悪循環が起きます。これは企業も同じではないかと僕は思います。

今の時代、ほとんどの企業は何かしらの病にかかっています。もしくは「病気じゃないか」という恐怖心にとらわれています。

そうした企業は、ますます閉塞感を感じ、変化に追いつけなくなっていくでしょう。走ることができないばかりか、歩みはどんどん遅くなっていきます。

この閉塞感をブレークスルーさせていく大きなポイントの一つが、センスではないかと僕は考えています。

センスを磨き、企業独自の美意識というものが醸成されれば、ブレークスルーするための大きなエネルギーに転換できるのではないだろうかと。そして僕のようなクリエイティブディレクターは、センスで企業を治療する医者のような役割を担っていると思っています。

広告代理店でいうクリエイティブディレクターは広告をつくるチームのトップを指しますが、僕の定義するクリエイティブディレクターはもっと広範囲なものです。

クリエイティブディレクターを改めて定義すれば、企業価値をセンスによって高めていく仕事。センスの力は、商品開発はもちろんのこと、名刺、社屋の内装、デスクといった社内環境、制服があるのであれば社員やスタッフの制服におよびます。

社長のネクタイの色までを徹頭徹尾考え、実践していくのがクリエイティブディレクターの役割です。対談させていただいた折、佐藤可士和さんも同じようなことをおっしゃっていました。

企業の「思い」も数値化できない事象です。その意味で、経営に役立つような判断ができる、センスのあるクリエイティブディレクターは、本当に数少ないと思います。

「そんなことはない、優れたデザイナーはたくさんいる」という意見も出るかもしれませんが、僕の持論では、デザイナーというのは職人です。

言われたことを美しく再現する役割であり、クライアントである企業が「これは丸いのがいいと思う」と言ったら、最高にきれいな丸をつくり出します。

「これ、本当に丸がいいと言えるんでしょうか?四角ではどうでしょう?」と新しい提案ができるのが、僕が思うクリエイティブディレクターです。

その企業の経営戦略を共に考えていける能力も必要です。僕は、どんな人でもクリエイティブディレクターになれる可能性を持っていると思っています。

失敗を恐れず、縦割り構造の会社組織に横串を刺せる人こそクリエイティブディレクターであり、それには三パターンあります。一つ目のパターンは経営者もしくは経営陣がクリエイティブディレクターになること。スティーブ・ジョブズはこのパターンです。

二つ目のパターンは、外部の人間がクリエイティブディレクターになること。佐藤可士和さんや僕はここに当てはまります。三つ目のパターンは、企業の中に特区をつくり、そこで働く人たちがクリエイティブディレクター的な役割を果たすこと。

サムスンはまさにこのパターンですし、デザイン部が力を持っている資生堂も近いことが行われているようです。数は少ないと思いますが、場合によっては社員でもクリエイティブディレクターになれます。

たとえば、社内の小さなチームにおいて、リーダーがクリエイティビティにあふれていることもあるでしょう。

外部の人間であれ内部の人間であれ、多くの企業がクリエイティブディレクターを持てば、閉塞感はなくなっていくのではないでしょうか。

どんな職種にもセンスが必要不可欠になっている

先日、五歳になる僕の息子が、「ダンゴムシパン」というのをつくりました。おばあちゃんが趣味のパン作りをしているときに、ときどき一緒にやらせてもらうようで、今までは動物のパンやウルトラマンのパンをつくっていました。

それらは形が不格好でも、なんともほほえましいものでした。

ところが、最近虫に凝りだした息子がつくったパンは、ダンゴムシパン。かなり上手にダンゴムシの形を再現できたのが逆効果となり、積極的に食べたいとは到底思えない代物に仕上がっていました。

僕は写メで送られてきた画像を眺めながら、「人間は視覚が何割とかいうけれど、やっぱり瞬間的にものを見て判断しているんだな」と改めて感じました。商品というアウトプットは「もの」であり、視覚に左右されます。

社内環境とは室内のインテリアであり、机の整理整頓であり、働く人たちの服装というアウトプットとして表れます。すべての仕事がアウトプットであるのなら、センスのよいアウトプットをしなければいけないと僕は思います。

あなたが仮にパン屋さんを開いて、最高の小麦、最高の水、最高の天然酵母を使って、最高の窯で最高の技術でつくったとします。

しかしそれがどこにでもあるような凡庸な花柄のお盆に載っていたらどうでしょう?そのパンの形がダンゴムシみたいにひどい形をしていなくても、ぞんざいにつくられたと思われかねない、不格好なものだったら?買ってもらったパンを、薄いビニール袋に入れただけでお客さまに渡したら?それは売れるでしょうか。

本当においしいと思ってもらえるでしょうか。これは、職場においても同様です。会議資料をまとめる作業や企画書の作成は、多くのビジネスパーソンが日々直面するシーンです。

しかし、読みづらい書類ばかりを提出する人が、仕事がデキるように見えるでしょうか。あなたが仮に経理部に所属していたら、資料に最適な書体、グラフ、まとめ方があるはずです。

情報を的確に整理し、大切なポイントを一番見えやすくすることができる人とできない人で、どちらが優秀かは明白です。

机に書類が山積みになっていて、「あの年の帳簿が見たいんですけど」と頼んだら出てくるまでに二時間くらい待たされる、そんな経理を、人は信用するでしょうか?

仮にその帳簿がなんら瑕疵のないものでも、「きっちりしていて安心だ」とは思ってもらえないでしょう。センスが数値化できないものである以上、その解を導き出すプロセスが難しい事例もあります。

たとえば最近、とてもきれいで真っ白なカフェのようなラーメン屋さんができています。内装も丼も非常におしゃれという店です。女性向けにパスタのようなラーメンを出すならいいでしょう。

しかし、本格派のラーメン好きの男性に食べてほしい店なら、それは果たして正解でしょうか?僕はスープが甘いような印象を受けて、食べにいきたいとはあまり思いません。

どんなにいい仕事をしていても、どんなに便利なものを生み出していたとしても、見え方のコントロールができていなければ、その商品はまったく人の心に響きません。

見え方のコントロールこそ、企業なり人なり商品なりのブランド力を高めることにつながっていく。そのブランド力を高められるのが、センスのよさなのです。

センスにはやはり、「最適化」が非常に大切だということでしょう。センスを磨くには、あらゆることに気がつく几帳面さ、人が見ていないところに気がつける観察力が必要です。

よいセンスを身につけることも、維持することも、向上することも、研鑽が必要です。能力がある限られた人しかできないことだから、難しいのではありません。

本当に簡単なことを、「これが重要だ」と認識し、日々実践していくこと。その繰り返しを続けることが難しいのです。やればできるけれど、やらないとできない。次章は、そんなセンスの磨き方についてお伝えしたいと思います。

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