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第4章街がホテルをつくり、ホテルが街をつくる!地域に愛される名物ホテルのつくり方

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第4章街がホテルをつくり、ホテルが街をつくる!地域に愛される名物ホテルのつくり方

ホストたちが道案内をしてくれる名物ホテル当ホテルへのアクセスは、JR新宿駅から歩いて結構かかります。少し駅から遠いという印象を受ける方も多いでしょう。にもかかわらず、このホテルは、ありがたいことにたくさんの人に支えられています。街を歩いているホストや、歌舞伎町商店街振興組合の防犯パトロール隊が、当ホテルまでの道を聞かれて、わざわざホテルの前まで案内してくれることも稀なことではないのです。「パトロールしていたのに、また道案内をしちゃいましたよ」と、いろいろな人たちに声をかけられます。あたたかく気さくな人が多いのが、この街の特徴です。歌舞伎町と聞くと、ホストやキャバ嬢たちがしのぎを削るドロドロした人間模様を想像してしまう方もいるでしょうが、この街は懐が深く、寛容な街でもあります。外国人も、弱い人たちも、性的なマイノリティも、誰もが自分をさらけ出しても受け止めてもらえるやさしさもまた兼ね備えているのです。その街のなかで、「ああ、あそこね。案内してあげるよ」と言われるホテルであることは、本当にうれしいことです。私は、ホテルに就職したというよりこの街に就職したと思えるほど、歌舞伎町のことを愛しています。本社の人からも、「三輪さんは、ほかの店舗に異動になったら、退屈でやっていけないでしょう?」とからかい半分、そう言われています。ほかの地方でもきっと楽しくやっていけるでしょうが、それでも私のキャラクターと歌舞伎町は、本社でも分かちがたいものとして認識されているようです。地元の人たちから飲み会のお誘いがかかったら、よっぽどのことがない限り、一杯でもいいのでとにかく顔を出します。地域との結びつきは、ずっと大切にしていきたいと思っています。「地域とのつながり」に支えられ、このホテルがあるさて、ビジネスホテルは、観光ホテルと異なり、地域との連携がなくても営業ができてしまうのではないかとも思われるかもしれません。出張のビジネスマンが利用する場合、その人が出かけていくのは街ではなく企業でしょうから、一見すると地域とはあまり関係ないような気がするのでしょう。でも、それは大きな間違いです。

いまこそ、地域密着型のホテルを目指さなければ生き残っていけません。なぜなら、ビジネスホテルはリーズナブルな値段で泊まれる宿として、不況のなかでも次々と建設されているからです。ただそこに建っていて部屋を提供している、というだけでお客様がいらっしゃる時代ではなくなりました。お客様を呼んでくれるのは、やはり人と人とのつながりです。お客様が、「ここらへんで、安心して泊まれるリーズナブルなホテルはどこかな?」と聞いたときに、お店の人たちが「それならあそこがいいよ」と紹介してくれるホテルこそ、生き残るホテルなのだと思います。先ほどの道案内をしてくれる人たちもしかりですが、意識している、していないにかかわらず、私たちは地域によって支えられているのです。地域を大切にしようと思うのは、ただ、それをちゃんと意識しているにすぎません。意識しているからこそ、感謝の気持ちをいつも形にして表すべきですし、地域がこのホテルに支えられているからこそ、このホテルも街の顔として、できることを精一杯すべきなのだと思っています。ホスト全国大会、機動隊の休憩所、芸能人の楽屋バラエティに富んだお客様たちこの界隈は、どんな店でも揃っている巨大な歓楽街です。わがホテルの徒歩圏内にある施設やお店を思いつくまま列挙してみましょう。新宿区役所、ルミネtheよしもと、スタジオアルタ、複数の映画館、三越伊勢丹、紀伊國屋書店新宿本店、ジュンク堂新宿店などの大型書店、ヨドバシカメラ、ビックカメラ、無数の居酒屋、ラーメン屋、風俗店、総合病院である大久保病院などなど。ほんの目と鼻の先には、韓流ファンが一度は訪れたい新大久保のコリアンストリートもあります。外国人観光客の訪れる街として有名なのは浅草や秋葉原あたりですが、実は歌舞伎町も隠れた観光スポットで、中国人の団体客が旗の後ろをぞろぞろ歩いていたり、欧米人がラフな格好で風俗店の前で記念写真を撮っていたりするような場所でもあります。歌舞伎町というと、すぐに「夜の街」とイメージされる方も多いとは思いますが、こんな街の事情から、お客様もバラエティに富んでいます。めずらしいところではホストの全国大会で、一年に一度、地方のホストたちが当ホテルにお泊まりになります。派手な色をした羽織袴の人たちも多く、みんな熱心にメイクや着付けに時間をかけて入念に用意してきます。そのほかには、有名企業の団体様もお泊まりになりますし、以前、機動隊の休憩所にし

ていただいたこともあります。また、この街の界隈ではテレビドラマのロケも行われ、有名俳優さんたちの楽屋代わりに当ホテルをご利用になったこともあるのです。受験期間中には、新宿区内にある早稲田大学へと受験生を送り出すホテルにもなりました。街がカラフルな分だけ、いろいろな人間模様があるというわけです。だからこそ、安心してリーズナブルな値段でお泊まりいただき、簡素すぎず、過剰になりすぎず、どのお客様にも満足していただけるサービスを目指しています。一歩外に出れば、コンビニもレストランもカフェもあります。誰もが自分時間で身軽に動けるようなミニマムなサービスでいいと思えるのも、街に受け皿があるからなのです。街によって、おもてなしは変わってくるホテルは街と一体化して存在しています。この街での過剰なおもてなしはかえって無駄です。お客様を名前で呼ぶことも、我々はあえてしないときもあります。肩書きも名前も忘れて、匿名の誰かになれる自由も人は時に欲しいものです。いろいろな事情やいろいろなシチュエーションで、お客様はお泊まりになられます。「放っておいてほしい」しかし、「人の気配は感じていたい」というお客様の距離感を感じ取ることも、私たちサービス業には大切なのです。「お客様はお名前でお呼びする」とか、「お客様のお顔を覚える」などといった、おもてなしのイロハは、ここ歌舞伎町では役に立たないことがあります。お名前を呼ぶことで親しんでいただこうとしても、「大きなお世話」だと思われたら、せっかくの我々のホスピタリティも台無しになってしまいます。地方のホテルでは、もっと近い距離でのおもてなしが必要となってくるかもしれませんが、歌舞伎町でのお客様との距離はこの距離なのです。ホテルに限らず、どんなお店も、人との間の取り方を臨機応変に感じ取ることが必要です。この点、当ホテルでは地域の特性に応じた応対があるはずだとして、おもてなしに関するマニュアルはほとんどありません。グループ店ではあっても、その地方、その地方に応じた弾力的なサービスが求められています。私たちの年代も含め、いまの人たちはみんなマニュアルの洗礼を受けてきました。誰もが、すぐに一定レベルのサービスができるようになるという点において、マニュア

ルは確かに便利です。しかし、マニュアルにとらわれてしまうと、「マニュアルに書いてあることがベストだ」とついついマニュアル原理主義に陥ってしまいます。この歌舞伎町では、どんなサービスを提供すべきなのか、自分の頭で考え、行動することが必要となってくるはずです。本に書かれているホスピタリティが、いつもいいとは限りません。その街に合ったサービスを、常に考えていくべきです。近くの喫茶店の店長と連携プレーで、子どもたちにおいしいご飯をある年、空手の全国大会で、小学生たち20名ほどがホテルにお泊まりになりました。その団体を引率した先生が、前もってこの子たちを連れて夕飯を食べにいけそうな場所はないかと聞いてこられたのです。歌舞伎町はご存じのとおり、夜になるとけばけばしい電飾で彩られた街に変身します。小学生がこれほどの団体で食べにいけるような場所で、しかも予約があらかじめできるような場所は、すぐ近くにはありませんでした。歌舞伎町で子どもたちが食べるところを探してうろうろするのも考えものです。そこで、私は一計を案じ、普段はサンドウィッチなど、ごく軽めの軽食しか出さない喫茶店の店長に頼み込み、小学生人数分のお子様ランチ風の夕食を用意してもらったのです。普段はもちろん、その店長は大人相手であり、子ども用の夕食などをつくるのは初めてでした。しかし、本格的なレストランを持たない当ホテルでは、食べざかりの子どもたちの満足できるような食事を提供してあげられません。そこで、地域で日頃仲よくしている店長に、無理を言って人数分の食事をつくってもらったのです。地域で連携し、お客様のニーズに応えることができたのも、日頃からコミュニケーションが取れていたからだと思います。このように、ホテルだけで切り離された形のサービスをすれば限界がありますが、地域に助けてもらえれば、いろいろな可能性が広がってきます。喫茶店の店長には、きっといろいろな面でご負担が大きかったことと思いますが、子どもたちは大満足でした。街と連携すれば、いろいろな店とお互いに補完し合って、よりいっそう高度なサービスを提供することができます。ホテル一軒だけではできないことが、地域の力を借りると、できるようになる。この視

点の転換は、私にとっても新しい発見でした。地域経済における、お互いの助け合いが、これからはもっと大切になってくると思います。「同志」と呼んでくれたあの警部補がときどき、4人の警部補たちが非番のときに、遊びにきてくれます。おみやげは、いつも大好物のケーキ。「三輪さん、生クリームが好きだろ?」私の好みをよく知ってくれています。この人たちは、歌舞伎町の浄化作戦で命がけの働きをした人たちで、いまは異動となり、別の街で働いています。私が着任したときは、歌舞伎町が大変な時期でした。一緒に戦った思いから警官と支配人というよりは、同志のようないい関係が続いています。何気ない会話のなかで、彼らの一人が言ったひと言が忘れられません。「俺たち、同志だもんなあ。三輪さん」何気なく発せられたその言葉は、私と同じように命を張っている人の、語られない想いがこめられているように私には思えました。私はヤクザと対決して、3度ほど「死の淵」を覗き込んだことがあります。人の殺気が自分に向かってきたときの、「もうダメだ」という感覚を、どう表現したものでしょうか。目の前が真っ赤になって全身から血の気が引きます。「ヒヤッと」などと言いますが、あの寒気は冬の寒さとはまた違う独特のものでした。人間真に恐怖を感じるときは、「怖い」などと思わないものです。私が死に直面したときには、妙に客観的で、自分の後頭部を自分で見ているような気分になりました。魂が半分身体から脱け出て、身体が透明になっていくような感覚なのです。「それでも、私は負けない」と直前まで思っていたのは、いかにも私らしいのですが。しかし、そのときの、「もう、おしまいだ」という自分のつぶやき。思い返してみれば、不思議と静かな心の声は、あきらめというものだったのかもしれません。しかし私は3回とも助けられて、こうやって生きています。死の淵を覗き込んだ日から、私は何も怖くなくなってしまいました。

この感覚は、あれを経験したことがない人間にはわからない心境だと、私は知っています。警察官たちもまた、同じものを覗き込み、同じものをくぐってきたのでしょう。彼らは何も言いませんが、私はそう直感しました。この新宿の片隅の、私たちのことなど、誰も知りません。でも、それで構わないと思っていました。実は、いまだから言えますが、この人たちの一人こそ、私が赴任した当時に電話をすると、「あそこのホテルは、ヤクザを泊めている」と言って私を愕然とさせた人で、私が違法駐車をめぐって死にそうになったとき、西部警察のようにさっと助けにきてくれた人でした。当時は歌舞伎町が大変なときだったので、ホテルだけの問題ではなかったのです。「あんた、死にたいのか」「支配人はもっと命を大切にしたほうがいい」「クレームには最初に出るな」「無理はするな」私の心配をして、いつもありがたいお説教をしてくれています。でも、私を守ってくれていることなど、新宿署にいる間に、ただのひと言も言うことはありませんでした。「この街をよくするため、断固として闘わなければなりません!」新宿署から感謝状をいただけると聞いたのは、一本の電話でした。2005年7月、私は制服を着込み、うだるような暑さのなかを東京都民センターへと歩いていきました。そこでは、新宿繁華街犯罪組織排除の決起集会が行われ、新宿署と歌舞伎町の商店街の有志たちが集まっていました。ホストのみなさんも大勢いて、安全で安心な街、歌舞伎町をつくるために、街をあげて取り組んでいることが、ひしひしと伝わってきます。小説やドラマの舞台になり、イメージ先行で、暴力の街と伝えられていますが、このような地道な作業はほとんど描かれることがありません。「安全で安心な街を」、そう思って活動している人の多さに、私は胸を熱くする思いでした。その場で、私は新宿署と新宿繁華街犯罪組織排除協議会から感謝状をいただきました。こんな、おカネも、コネも、資格もなく、何の力もないちっぽけな私でも、何かができると、認めてくださったのです。当時の新宿署長が、集まった人たちに向けてこう言いました。

「私たちは、この街をよくするため、断固として闘わなければなりません!」いまでもあのときの力強い言葉が耳に残っています。壇上では、あの背広を着た同志たちが、私を見て微笑んでいました。その後、私はホテルの支配人としては初めての保護対象に指定され、当ホテルを陰になり日向になり警官たちが守ってくれています。その警察のみなさんのおかげで、いまではどんな方でも安全、安心、快適に泊まれるホテルを実現することができたのです。警察からの感謝状は、当時、私の郷里・八戸の地方紙に大きく写真入りで報道されることになりました。東京で報道されなかったのは、感謝状を受けたことによって、当時はまだどんな嫌がらせをされるかわからないと巡査部長のアドバイスがあったからです。母からは、記事の出た日に電話がかかってきました。「康子、あなたいったい東京で何をしているの?」という問いに、私は笑って答えました。「もちろん、ホテルの支配人よ。お母さん」亡くなってもなお、地域に愛された開業医の父私の憧れは、ずっと父の背中でした。仕事をするときは、いつも父を意識していたように思います。父は青森県八戸市の開業医。地域医療の第一人者でした。病院経営をしているといえば、お金持ちのイメージがありますが、決して豪勢な生活をしていたわけではありません。入院している患者さんが金銭的に苦しいと知ると、入院費を取らないこともありましたし、病院まで通うことが難しい患者さんのために、各地を往診して飛び回っていました。当時大きな総合病院からも、父は一目置かれる存在でした。父が採算を第一に考える人ではなかったので、母は従業員の管理、指導、病院食の献立をつくり、給食担当の人たちへ指導したりと、病棟を切り盛りして経営を支えていました。私は小さい頃から、人生をかけて人助けをする人を間近で見ながら育ったのです。前にも少し触れましたが、父は決して私たちに声を荒げるようなことがありませんでした。人に対して怒るということがなかったのです。旧家育ちで苦労知らずの母も、料理のとても上手な穏やかな人です。家では私は怒られた記憶がありません。そんな穏やかな家庭で育てられると、怒鳴るような人には免疫がなく、この仕事はつら

かったのではないかと言われます。でも、人を信じる気持ちにおいては、とても強い信念を持っていた父に育てられたおかげで、怒っている人の怒っている部分ではなく、本質のほうに目が行くようになったので、あまり苦にはなりませんでした。父は名医として知られた人でした。「向かい合って、顔をジッと見なければ、患者の本当の容態はわからない」と、症状ではなく人を診る医師だったようです。私が東京に出てから、軽い風邪で、「ちょっと調子が悪いんだけど」と電話で話しても、「実際に会わないと、わからないな。きちんと近くのお医者さんに見ていただきなさい」と言われ、「たぶん風邪だろう」などと軽々しいことはひと言も言わない人でした。父の応対は融通がきかないものでしたが、私はますます尊敬の念を深めました。身内であっても、父のような高い職業意識が大好きだったのです。そんな父を見ていましたから、当然、将来の夢は父のあとを継いで医者になることでした。父のように、自分の人生をまるごとかけて、人の役に立つような仕事をしたかったのです。しかし、ある日、父は言いました。「医者は命がけじゃなければ務まらない仕事だ。女はどうしても男と比べて体力の面で劣る。非力な人間が医者になるのは、おまえにはよくても患者にとっては迷惑だ。医者になるのはあきらめなさい」父は、決して男尊女卑の思想を持った人ではありません。しかし、古い人でしたし、自分が体力ギリギリのところで仕事をしていた体験から、女性にはとても務まらない厳しい現場であると思っていたのでしょう。あるいはひょっとすると、娘である私にはできれば苦労をしてほしくないと思っていたのかもしれません。まさか、私がホテルの支配人として、寝られない日もある仕事をするとは予想だにしなかったでしょう。父の存在は大きくて、父の言うことはいつも正しいと思っていましたので、素直に医者になることはあきらめました。でも、いまにして思えば、心の深いところで納得できたわけではなかったのではないかと思います。なぜなら、医者をあきらめたあと、少女ならではの発想で音楽大学を出てオーケストラのなかでピアノ協奏曲を弾きたい、というような夢を持っても、どういうわけかあと一歩でいつもうまくいかなかったのです。

結局、私は第一志望の大学受験に失敗して合格できた大学でドイツ語を4年間、学ぶことになりました。しかし、不思議なものです。ホテルの支配人というまったく医療とは別の現場に就職しながら、私がやっている究極の目的は、医者とまったく変わらず、「人の気持ちを救うこと」であるような気がするのです。「お父さんのように人助けがしたい。人の役に立てる人生を歩みたい」そんな気持ちとは遠い場所で仕事をしてきました。しかし遠回りをして、気づいてみれば、私も父と同じように人を助けている。ホテルに泊まるお客様を笑顔にすることも、スタッフを盛り立てて働きやすい環境をつくることも、父のような「病気を診る」行為と、なんら変わりはないのです。「症状ではなく人の顔を見る」私にも、きちんと父の信念が息づいています。父が亡くなったのは、数年前。ガンでした。医者でしたから、自分の寿命は知っていたようです。しかし、往診先で倒れるまで、父は最期の最期まで自分より患者さんのために生きました。そして医師としての職業を全うして亡くなったのです。父の葬儀には、たくさんの患者さんが弔問にきてくださいました。いつもお世話になっているお医者さんでも、なかなか葬儀にまではいかないものです。しかし、大勢の患者さんが集まってくださって、「私たちの命を先生にあげたかった!!先生は立派な方だ。この街にたくさんのものを残してくださった」と口ぐちに、そういう言葉をかけてくださり、祭壇前で泣き崩れていた姿は衝撃的でした。患者さんたちにここまで愛されていたなんて。告別式も、八戸市内の現役のお医者様たちがほとんど列席してくださいました。父がよく言っていました。「亡くなって初めて、その人の価値がわかる」と。父は八戸という街を愛した人でした。しかし、八戸の街にも愛された人だったのです。東日本大震災が起きて以来、私は父の愛した故郷について考えます。父ならきっと、自分の身のことなど考えもせず、被災地に入って人を救っていたことでしょう。体力や精神力の出し惜しみなどせずに、身を削って患者さんを診ていたはずです。計画停電で、混乱状態のホテルにいながら、私は遠く故郷のことをいつも心のなかに思

ってきました。「三輪さんはおしゃべりで、とても東北の人とは思えない」とよく言われますが、自分の粘り強さや決して根をあげない心は、きっと東北のDNAによるものなのだと思います。「被災地は停電で星を見上げるときれいだ」というある被災者のメールがどこかで紹介されていました。私も、本当につらいときは、一人で星を見上げています。下を向くと、暗い気持ちになるので、空を見上げることにしているのです。最近は、星を見上げると、きっと故郷でも誰かがこの星を見上げているのだと、思います。私も遠い歌舞伎町の空で、毎日できることをやっています。私の第二の故郷は歌舞伎町です。何よりもこの街が気に入っています。どんな人でも、どんなバックグラウンドを持っていても、懐深く受け入れてくれる街。私も、ホテルの支配人を通して、この街に愛される人になりたいと願っています。私の父が、八戸を愛したように、私もまたこの街をこれからも精一杯盛り立てていこうと思っています。街がホテルをつくり、ホテルが街をつくる歌舞伎町では月に一度、「歌舞伎町クリーンアップ作戦」というのを実行していて、朝から歌舞伎町で働く若手を中心とした多くのメンバーたちが集まり、一斉にゴミを拾って歩きます。そのなかには、チャラチャラしていると世間一般では思われているようなホストの男の子たちも混ざって活動しています。みんな、それぞれ社会や地域に貢献しようと集まった人たちです。私たち大人が考えているよりずっと真面目で、地域のことを考えているいまの若者の素顔が浮かび上がってきます。いまや自殺者は毎年3万人超。「無縁社会」という言葉が、ひととき流行りました。家族からも、会社からも、切り離されて孤独な人たちのことがクローズアップされています。だからこそ、いろいろな人たちがもう一度地域社会とつながろうとしています。歌舞伎町商店街振興組合のマサさんという方は、いろいろな人に出会いを提供する、人脈づくりの達人です。「新宿歌舞伎町駆けこみ寺」の玄秀盛さん、歌舞伎町案内人の李小牧さんなど、たくさん

の人と私を結びつけてくれました。また、はとバスで全国の奥様方が大挙して押しかけるという、ホストクラブ愛の愛田社長は新宿署の方が紹介してくださいました。歌舞伎町商店街振興組合主宰の「歌舞伎町未来会議」には、歌舞伎町案内人の李さんほか、ルミネtheよしもとの広報担当の方、「歌舞伎町駆けこみ寺」スタッフ、新宿署員など、さまざまな方が集まりました。先日、私はここでお話しさせていただきました。そこで、私が強調したかったのは、おもてなしに必要なことは、おもいやりとやさしさであるということです。おもいやりなどと正面切って口にする人はどうも胡散臭いとか、説教臭いとか思われて、正論を吐きにくい世の中になりました。でも、昔から日本の企業を世界に発展させたのは、おもいやりとやさしさでした。故障しにくい工業製品の精密さも、すぐに修理してくれるメンテナンスのよさも、性能のよさも、みんなつきつめて考えれば、「おもいやりとやさしさ」によるものです。地域もまた、商店会などのチームワークによって成り立っています。職場もそうです。少なくともここ歌舞伎町では、人々はそれに気づきつつあります。昔から、「世の中の動きは歌舞伎町を見ればわかる」と言われてきました。景気のよさも、景気の底も、社会の流れもすべてです。これからのお店も、企業も、やがて変わっていくでしょう。街がホテルをつくり、ホテルが街をつくる。きっとこれからもこのホテルでは、テレビドラマよりもずっとドラマチックなできごとが繰り広げられるでしょう。私たちスタッフ一同は、この街・歌舞伎町で、泣いたり笑ったりしながら、お客様をお迎えしたいと思っています。これからも、おもいやりとやさしさと、ありがとうの感謝の気持ちで、がんばっていきたいと思っています。

おわりに今回、このような一生の思い出となる初めての本は、「歌舞伎町駆けこみ寺」でウェブマガジンのスタッフを務めている佐々涼子さん、NPO法人企画のたまご屋さん、そして、装丁の石間淳さん、ダイヤモンド社の寺田庸二さんのご協力で実現することができました。本当にありがとうございます。「歌舞伎町未来会議」で杉山元茂座長のご配慮により、1時間講演させていただいたことがきっかけで出版の道が開かれました。こんな私でもここまでできたことで世の中の人たちに、可能性、希望、勇気を持っていただきたいという想いをこの本に託しました。折しも日本中、いや世界中が忘れることができない2011年3月11日の東日本大震災が発生。このたびの震災により被災された方々に心からお見舞い申し上げます。青森県八戸市出身の私の実家も津波の避難区域に入り、また、岩手、宮城の叔父、叔母たちも死者・行方不明者の多く出た区域に住居を構えておりました。友人、知人の死、テレビを見るたびに、涙がこみ上げてくるばかりです。「がんばれ、日本!」とテレビから流れてきているのを目にする毎日。余震の恐怖におののきながら、いまだ避難所で暮らしておられる被災地の方々味わったことのない絶望感どんなにか不安な毎日をおすごしのことと思います。こんな時代だからこそ、こんな私でもやれる、できると、人間の可能性、度胸とハッタリの体当たり人生をお読みいただき、大いに笑っていただきたいと思います。そして、少しでも明日への勇気になっていただけたら、これ以上の幸せはありません。お読みいただくなかで、「こんなことありえない」とか、「この人は強運だから」とか、「この人だからできたのよ」と思われるのは当然のことかもしれません。しかしながら私自身、すべてが順風満帆だったわけではありません。信じていた人に裏切られたり、善意と思ってしたことが悪意に取られたり、誤解されたままお別れすることになったりと、思いもよらぬ展開でつらい思いも十二分に味わってきました。それでも私はこれからも人を信じ、「おもいやりとやさしさ」を持って、父が歩んできた道と同じように生きていきたいと思います。人が人をつくっているのです。

前向きな気持ちがある限り、可能性があることを、こんな私でもやり遂げられることを知っていただきたいのです。朝の来ない夜はない、と信じて、今日を笑顔で懸命に生きていきます。「人と人の出会いに偶然はなく、必然である」「神様は乗り越えられる試練しか与えない」「人を恨んでは前には進めない」そうです。どんな形であろうと、出会った人たちみんな、私の人生の宝物です。そして私は、「義理と人情、笑顔と愛嬌」「世のため、人のため、みんなのために」を胸に、東北の粘り強さ、忍耐強さで、今日もテレビドラマよりドラマチックなホテルでお客様をお迎えいたします。2011年6月吉日三輪康子

本電子書籍は2011年7月29日にダイヤモンド社より刊行された『日本一のクレーマー地帯で働く日本一の支配人』(第2刷)を、一部加筆、修正の上、電子書籍化したものです。

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