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第二章富士そばが誕生するまで

生まれながらの江戸っ子で、日ごろからそばに親しみ、第一章で書いたような仕組みを自然と思いついて立ち食いそば屋を始めた――。残念ながら、私の人生はそんな真っ直ぐなものではありません。

それこそ、らせん階段のようにぐるぐると回って、紆余曲折の末、たまたま立ち食いそば屋の経営に至ったというのが本当のところです。

本章では、少し寄り道をして「富士そば」が生まれるまでの経緯をお話ししておきましょう。この期間に私が経験したことが、富士そばの「ふしぎ」な仕組みが生まれた背景にもなっているのです。

目次

辛かった少年時代

私の故郷は愛媛県東部の大保木村です。石鎚山の中腹にあり、私のいた集落の人口は当時約三〇〇人。一九五六(昭和三一)年に西条市に編入合併し、自治体としてはなくなりました。生まれは名古屋でした。

しかし私が生まれてすぐに父が亡くなり、母・ウメは愛媛の実家へ帰り、地元で私を近所の人に預けながら、芸者をして私を育ててくれました。そして、私が四歳のときに、再婚したのです。そんな母を娶ったのは、大保木村に住んでいた丹高助でした。

山林を所有する山師で、数軒の借家を所有。村人たちに金を貸し、比較的裕福な生活をしていました。義父・高助は初めのうちは私に対しても優しく、三人で仲良く暮らしていたのですが、そんな生活を一変させる出来事が起こりました。再婚してまもなく、弟が誕生したのです。義父は六〇歳。

予想もしていなかった実の子どもが可愛くて仕方がない。弟への溺愛を強めると同時に、血のつながっていない私への憎しみを強めていったようでした。それからというもの、私は使用人のように扱われました。水汲みに、掃除その他家事の手伝い。

三〇〇坪の畑を耕し、米のとぎ汁を入れたバケツや、トイレから汲み取った糞尿を入れた木桶を天秤棒で担いで運びました。吹雪の河原で、指に血をにじませながら身体の何倍もあるガラス戸を洗わされたり、借金の取り立てに行かされたりしたこともあります。

今でもよく覚えているのは、ある夕食時の出来事です。食卓に私の大好物である、小海老と大根の煮付けが並んでいました。義父が「道夫、食べれ」と促してきます。

思いがけない優しさに喜んで箸をのばすと、突然、義父の黒い箸がぴしゃりと私の指を打ちつけました。一瞬、指が千切れたかと思ったほどでした。当時は戦時下で物不足の時代。

いざという瞬間になって、義父は実の子でない私にご馳走を食べさせるのが急に惜しくなり、それで思わず手を出してしまったのでしょう。

しかし、まだ幼子だった私に、そんな義父の複雑な心など理解できるはずもありません。辛くて辛くて、冷たい布団の中に潜り込み、会ったことのない実父を思いながら、泣きじゃくりました。

母には「僕が頑張るから、お義父さんと別れてほしい」とすがったことも幾度となくあります。しかし、八二歳に近づいた今から思うに、あの苦しくて辛い時代を乗り越えてきたからこそ、後で述べるような東京での過酷な生活も、別に辛いとも思わず、挑戦を続けることができたのでしょう。

これが逆に、甘い蜜のような我が家で過ごしていたら、一人ぼっちの都会暮らしにはとても耐えられなかったと思います。今となっては、むしろ感謝をしています。

高校を中退して就職するが……

九歳のとき、戦争が終わりました。焼け野原になった村に家が建ち始め、木材を扱う義父の商売は景気が良くなっていきます。そして私は、大保木村に誕生した中学校へ通うことができるようになったのです。

しかし、中学三年生のある日、先生から進路調査票を渡された私はそこに「就職」と書きました。実をいえば、高校にも進学したかったのですが、我が家は戦後の特需で潤っているとはいえ、義父は七〇歳を超えて老いているし、母は病弱で、弟も幼い。

高校進学に必要なお金が準備できるとは到底思えませんでした。私の進路希望を知った母はこう言いました。

「学費はお母さんが何とかします。だから道夫、お前は高校に行きなさい」母は日ごろから「勉強しなければダメだ」と言っており、もともと義父に嫁いだのは、私にきちんとした教育を受けさせてやりたいという理由からだったようです。

私は高校を受験し、西条南高校農業科(現西条農業高校)に入学しました。母が畑で取れた作物で醬油や味噌をつくっては、義父に隠れて売って、学費を工面してくれました。

しかし高校は、山道を一〇キロも下ったところにありました。通学のために思い切って購入した安物の自転車は、一〇〇メートルも進めばチェーンが外れ、継ぎ接ぎだらけのタイヤはすぐにパンクします。

下宿も試したものの、うまくいきません。結局、病弱だった私は体力の限界を悟り一学期で中退を決意しました。母の落胆ぶりは目に余るものがありました。

申し訳ない気持ちでいっぱいの私に、八百屋で働かないかという話を持ってきてくれたのは、母の弟です。一五歳の秋。愛媛県の中でも都市部である西条市の八百屋で、私は働き始めました。

店先の高級果物を磨き、お得意先へ注文取りをします。果物や野菜を自転車の後ろの籠に山積みにして運ぶ作業も大変でしたが、何より店番が嫌でした。来客の少ない店で一人で過ごす時間が、おそろしく長く感じられて寂しかったのです。

冬になるころ、銭湯で知り合った油屋の社員だという方が、「うちで働かない?」と声をかけてくれました。第一章でも触れましたが、油屋とは、ドラム缶に入れたガソリンや軽油などを小型自動車やオートバイで運び、会社や漁師に売る仕事です。仲間が欲しかった私は喜んで転職します。

しかし油を扱うためか手が荒れ、そのために高級石鹼を買うと給料の大半がなくなるほどの薄給でした。また私は唯一の住み込みのため、寂しさはあまり解消されませんでした。結局、一年三カ月で油屋を退職。失意のまま、村へと戻ります。

一度目の上京と不採用

「東京へ行かせてほしい」ある日、私は思い切って切り出しました。油屋を辞めて村に帰った私はぶらぶらして、無為な日々を送っていました。

そんな状態に焦りを感じ、このままではまずいと思って、東京に出ていた恩師である中学の先生に就職の依頼をしたところ、ちょうど東京の着物問屋に就職口がある、という手紙が返ってきたのです。

当時、四国の人が夢を抱いて向かう先といえば大阪が定番で、大保木村から東京を目指すのは、さながら宇宙探検に向かうような無謀な行為でした。

母には猛反対されましたが、何とか説得に成功。私は古い蒸気機関車に乗り、東へと向かいました。出がけに母に渡された握り飯は、涙の塩辛い味がしました。

右も左もわからないまま人形町の着物問屋にたどりついた私は、面接を受けました。ご主人に「身体は丈夫ですか?」と聞かれ、「あまり丈夫ではありません。お灸をしているので、この近くにお灸をしてもらえるところがあれば、教えてください」と正直に答えたところ、「そうですか……」とご主人は顔を曇らせました。

こんな面倒な子はいらないと思われたのか、すぐに不採用が決定。わずか一〇分の面接で、私の夢は破れました。ちなみにこの面接の帰り道、神田に寄って生まれて初めてそばを食べました。四国は香川に代表されるように、うどん文化なので、そばを食べる機会がなかったのです。

あっという間にそばを食べ終えた私は、少し物足りなく感じました。当時、一七歳。将来、そばに関わる仕事に就くとは、これっぽっちも考えませんでした。

大保木村に帰ると、地元では水力発電所の工事が始まっていました。私はそこで作業員や道具を運ぶ三輪自動車の運転手として働き始めます。

しかし頭の中では、上京の際、目に焼き付いた大都会のにぎやかな光景が消えずに揺らめいていました。

やがて水力発電所が完成すると、労働者で活気にあふれていた映画館や店も閑散として、村は抜け殻のように静まり返りました。職を失ったこともあり、「もう一度上京したい」という気持ちは、もう抑えられなくなりました。

意を決して母にその思いを告げると、「頑張っておいで」と一言。本当に何の当てもないまま、私は再び東京へ向かったのです。

二度目の上京では、なぜか福島へ

瀬戸内海を船で渡り、岡山県の宇野から夜行列車に乗り込みます。通路に新聞紙を敷いて座り込んでいると、前方の女性に「どこへ行くの?」と声をかけられました。「東京に行くんですが、当てがないんです……」と答えると、女性は「それは大変ね。

何か困ったらここに連絡しなさい」とメモを手渡してくれました。そこには彼女が住んでいる大宮のアパートの電話番号が書かれていたのです。今から考えると、よくそんなものを教えてくれたものだとふしぎに思います。

やがて東京駅に着いて、駅員さんに出口を聞くと、「出口?四つありますよ」との返事。改めてあたりを見回すと、まるで巨大な迷路のようです。私は駅の真ん中で三〇分ほど立ちすくんでしまいました。

とりあえず、ポケットからメモを取り出し、女性の住むアパートがある大宮駅に向かうことにしました。そうして、大宮行きと思われる電車に乗り込んだものの、いつまで経っても大宮駅に着きません。近くにいた乗客に聞けば、この電車は福島県の平(現いわき市)行きだというのです。私が乗ったのは常磐線でした。

しかし私は、もうどこに行くのも同じだ、という開き直った気持ちになり、引き返さずに電車に乗り続けました。そして到着した常磐炭鉱の鹿島坑で、仕事を始めることになります。担当したのは、地下に入って立坑を掘る作業ではなく、砂利の運搬です。

炭鉱は荒くれ者が多く、いろいろな修羅場も目撃しましたが、楽しく過ごしました。鼻歌を歌いながら仕事していても文句を言われないし、なにせ今までの仕事のように孤独を感じなかったからです。最初は砂利を運んでいましたが、やがて在庫を管理する倉庫番に抜擢されます。

さらに会社にお願いし、湯本高校の夜間部に通うようになりました。母に連絡すると大喜び。かけがえのない学友もできました。会社で時間を見つけては予習復習に励んでいると、「二宮金次郎みたいだな」とからかわれ、こそばゆくもありました。

やがて二年が経ったころ、立坑は完成し、業務が終了。それを機に東京の錦城高校(現錦城学園高校)に転校することになり、同時に神田の印刷会社に就職も決まりました。憧れの東京で働きながら学校に通えるのです。

苦労を重ねて、ようやくつかんだ幸福でした。ところが衛生環境が整っていなかった当時のこと、職場の二階で夜な夜なトコジラミに足の血を吸われるようになります。

痒くてぼりぼりと引っ搔いたところから菌が入り、膿が出て腫れ上がり、やがて歩けなくなってしまいました。それが原因で睡眠不足になり、ついには仕事中に倒れてしまったのです。

それを知った母から「一度帰ってこい」という手紙が連日届きました。私は無念を感じながら、四国へ戻ることになります。そして西条高校の定時制に転入。

アルバイトをしながらようやく卒業したとき、二三歳になっていました。やはり東京で一旗あげたい、という思いが消えない私は、三度目の上京を決意します。

三度目、そして四度目の上京

「お前は身体が丈夫でないから、栄養士の免許をとりなさい」と母に勧められた私は、世田谷の栄養学校へ入学します。そこを二年かけて卒業した後、紹介で大手の国立病院に就職しました。それは周りから羨まれるほど、ラッキーな就職でした。

その国立病院には結核患者専用の病棟がありました。結核患者には、通常の患者とは別に専用の献立をつくるべきだと考えた私は、手始めに料理ごとの喫食率(食べた割合)を調べようとしました。

ところが、みんな面倒くさがって協力してくれません。そんな様子を見ていた調理場のおじさんに「公務員は遅れず、休まず、仕事せずだよ」と囁かれ、この職場は合わないと感じて、一年三カ月で退職します。

その後、ある料理学校で生徒勧誘の仕事を手伝っていると、思いがけずそれが高く評価されるようになりました。これは適職なのではないかと感じ出したころ、母から「義父の容態が悪いから帰ってこい」との手紙が届きます。

今度こそ、ようやくうまくいきそうだというときに……。私の上京は三たび失敗に終わったのです。帰郷後、西条市で料理教室を開き、しばらく経って義父は息を引き取りました。

そのころには二十代後半にさしかかっていましたが、東京で成功したいという思いはどうしても消えません。私は四度目の上京を決意しました。

自分も一緒についていくと言い張る老いた母に、「東京で足場をつくったら必ず呼び寄せるから」と約束を交わし、これが最後という覚悟で上京を果たしたのです。

そこで栄養学校の先生から就職先として紹介されたのが、食品販売会社でした。将来は食品販売をしたいと考えていたので、願ったり叶ったりです。紹介状を握り締め鶯谷駅近くにある会社を訪ねると、お弁当の空き箱をトラックから大量に下ろしていました。

食品販売会社というのは、要は弁当屋だったのです。私は調理の仕事で雇われたのでした。そんな中、母から実家が売れたとの知らせを受けたので、そのお金に私の少ない給料を合わせて埼玉の蕨に一軒家を買い、母を故郷から呼び寄せました。

そしてその家から朝一番で出勤し、文字通り身を粉にして働きました。キャベツの千切りや魚焼きなどの調理をし、さらには弁当箱を洗い、配達までしたのです。

しかしやがて、私が独立しようとしているという根拠のない噂が立ち、社長さんから「恩知らず」と罵声を浴びせられ、会社を追われることになります。

独立して弁当屋、さらに不動産業へ

その後、食品販売会社で働いていたときに知り合ったKさんという方から「親戚から一七万円の元手を借りられるから、弁当屋をやろうよ」と誘われ、一緒に会社を立ち上げることになります。

自宅の隣に四・五坪の弁当屋を開業し、外回りと販売拡張を担当することになった私は、ひたすら歩き回りました。埼玉県川口市の鋳物工場で働く人たちをターゲットにしたところ、これが大当たりしました。

六カ月を過ぎるころには、扱う弁当は一日六〇〇食にもなりました。仕事場を広げ、近所の主婦をアルバイトに雇用。月商があがるのに伴い、景気が良い生活を送ったのです。

さらに、同じく食品販売会社時代に知り合ったO氏から、給食センターを譲りたいという話があり、二軒営業になりました。

仕事が充実していた二八歳のとき、O氏から今度は「不動産をやらないか」という連絡が入りました。街の不動産屋さんのような仲介業ではなく、別荘地を開発し、その土地を売るという仕事です。

声をかけられて、すぐには決断できませんでした。上京しては何度も失敗し、失意のうちに故郷へと帰ることを繰り返し、苦労してやっとつかんだ幸せです。

それを辞めて、いっさい経験のない不動産業に賭けるというのは、かなり無謀な話です。しかし時代は高度成長期で、明らかに不動産開発の機運が高まっていました。

その流れに乗ろうと、私は誘いを承諾したのです。振り返ると弁当屋も不動産業も、声をかけられたことが人生の転機になっています。私はどうやら声をかけられやすい体質のようで、それが運を招き入れたのかもしれません。

不動産業で大成功

仲間と起業してみたものの、不動産業は当初は全くうまくいきませんでした。セールスマンをたくさん雇い、西へ東へと営業すれども、一カ月経っても一つも売れない。

セールスマンと金庫のお金だけが、毎日元気よく事務所を飛び出していきました。私自身、営業担当常務として外回りに出かけ、飛び込み営業をしますが、どうも良い感触がありません。ある小さなお店に飛び込んだときには、しつこく粘りすぎたせいか、水をかけられたほどでした。

「これはいよいよ潰れるな」という予感が頭に浮かび出したころ、最初の上京の際に着物問屋を紹介してくれた、中学時代の恩師に夕食をご馳走してもらうことになりました。

そこで、「元気でやっているのか?」と心配してくれる恩師に土地の話をしてみたところ、意外なことに興味を示してくれて、なんとトントン拍子で契約に至ったのです。

それまでは自営業者ばかりを狙って営業していたのですが、土地は一般のサラリーマンにも売れるんだ、とそのときに気づきました。

それから事業は一気に軌道に乗り、気がつけば三カ月で六一もの契約が取れました。儲かるわ、仕事が入るわで、支社を池袋と渋谷に置き、社員は一二〇〇名に増員。月の売上は三〇億円、利益だけで七億円も出ました。

こんなに良い商売はないと思ったものです。役員としての待遇も破格でした。秘書がつき、運転手つきの高級外車に乗り、月給は五〇〇万円。

さらに交際費として月に一〇〇万円が使えたのです。夜な夜な銀座まで繰り出し、高級クラブへ遊びに行きました。贅沢を謳歌する一方で、どん底に落ちたときの苦しさを知っている私は、こんな左団扇の商売は続くはずがないとわかっていました。

不動産は不安定な要素もあり、時代が移ろえば、いつかは陰りが訪れるに違いない。そうした不安は私だけでなく、役員全員が感じていたはずです。そんな背景もあって、不動産業の傍ら、飲食業を始めた方が良いんじゃないか、と私は他の役員たちに提案しました。

飲食店は日々の売上こそ少なくても、確実に日銭が入ってきます。そのことを説明すると、役員全員が賛成し、出資してくれることになりました。そこで思いついたのが、東京で全く見かけなかった立ち食いそば屋です。

かつて、友人と一緒に東北を旅行していたとき、道中で電車の中から立ち食いそば屋が見えたことがありました。おばあさんが一人で切り盛りしていると思われる、小さなお店です。注文すると、すぐにそばが出てきて、客はパッと食べて足早に出ていく。

この商売は忙しい東京にぴったりかもしれないな、という印象が頭の片隅に残っていました。立ち食いそば屋のそばは、寿司職人のような修業や特別な技術を必要としません。高度な調理はいっさい不要で、誰でもできる。

やりやすくて、しかも回転が速い商売だから当たるだろう、という目論見だったのです。店の管理を担当することになった私は、落語の演目「そば清」をそのまま店名にしました。渋谷に出店したところ、経営は順調そのもの。その後も、西荻窪、新宿、池袋と、次々に店舗を増やしていきました。

迷った末に、不動産屋から独立

本業の不動産業が噓のように儲かる一方で、私の心は冷えていきました。というのも、次第にやる仕事がなくなってしまったのです。

会社の業績は右肩上がりで、従業員たちも力が身につき、私の入るスキが見つからないほど組織が充実していました。だから朝起きても、考えることが「今日は何を食べるか」くらいしかない。あとは自分の靴をピカピカになるまで磨くだけでした。

会社全般について不満はなくとも、情熱を持って打ち込める対象がないのは辛いものです。ましてや、私は当時三二歳。こんな人生、何も面白くないと思いました。

同じような心境だったのか、共同経営者のO氏が「辞めたい」と言い出しました。私ももはや会社に何の魅力も感じられず、全く楽しくもない。周囲からは「もったいない」と言われる中、二人で迷わず辞めることにしました。

後から知ったことですが、どうやらO氏は他の役員との間に確執を抱えており、いじめに近い扱いを受けていたようです。話しあいの末、O氏と私の独立が決定。そば清チェーンを五店舗、それと当時儲かっていた会員制クラブをもらうことになりました。

当時は大衆的な金額で飲める〝マンモスバー〟に若者が集まっていた時代です。そのマンモスバー「スカイコンパ」を、O氏は新宿・歌舞伎町のコマ劇場近くのビルの七階にオープンします。

中心に円形カウンターを置き、フロアの広さは約七〇坪。私は呼び込みやチラシ配りをしました。これが大当たりして、次はコマ劇場裏に一〇〇坪以上ある二号店を開店。

当時ブームになっていた由紀さおりさんの名曲『夜明けのスキャット』にあやかり、店名は「スキャット」にしました。O氏はもともとバーを経営していて、水商売の才覚がありました。

さらに絨毯を敷いて靴を脱いであがるクラブ、北海道に踊れるレストラン、イタリア料理のレストラン、名古屋に高級更科そば屋、ハンバーグのお店と、次々に新店舗を展開していきます。

最後はコマ劇場の八階に、四〇〇坪もある踊れるマンモスバーをつくって、大当たりしました。水商売は儲かります。しかし、経費がかかるため、出ていくお金も大きい。

一日の売上は一〇〇〇万円を超えても借金は多く、慢性的に資金繰りに困っていました。また、一店舗失敗しただけでも、相当高くつきます。

八〇〇〇万円くらいの保証金が瞬く間に消えていき、二度と立ち上がれなくなった人もたくさん見ました。O氏は間違いなく商才はありましたが、経営は明らかにやりすぎでした。

会社に四〇万円しか残っていないのに、また新たに出店すると彼が主張したとき、「ああ、この人はいつか必ず失敗するな」と私は悟りました。

不動産屋から独立して四年。私は、彼に別れたいと告げました。

立ち食いそば一本で生きていくと決意

一九七一(昭和四六)年、私はO氏と袂を分かち、名古屋のハンバーグのお店と高級更科そば屋の二店、立ち食いそば屋四店、事業に関わる借金六〇〇〇万円を引き継ぎました。

妻と結婚したのもこのころです。当時、三五歳。やってやるぞと燃えていました。しかし、かけそば一杯が四〇円の時代で、一店舗の売上は一日一〇万円、四店舗で四〇万円。

名古屋の二店舗を足しても総売上は一〇〇万円に届きません。それに対して、借金は六〇〇〇万円です。かつての不動産業の仲間が活躍していることも噂で耳に入ります。

彼らに負けないように頑張らなくてはと、かなり焦っていました。そこで新たに建売住宅の販売を始めたものの、業績は不調。

ハンバーグのお店も売上が低迷していたので、サラダ専門店へと業態を変更します。さらに、名古屋のドライブインにうどん屋を、大磯にスペイン風レストランを開業。

幸いにも大磯のお店は女性を中心にお客様が増え、売上は順調に伸び、何度も増築をしました。ところがそんな大奮闘のさなか、建売住宅の資金がついにショートしてしまったのです。結果、神奈川県の相模大野にすでに三棟建っていた物件を、更地を買ったときと同じ値段で、泣く泣く手放しました。

それから、名古屋のサラダ専門店、高級更科そば屋、もう一店経営していたうどん屋、そして光明が見え始めていた大磯のお店も、どれも中途半端な状態で畳んで売却しました。

焦っていろいろと手を出したのが身体に負担をかけたようで、妙にだるくて動けない日々が続きました。病院に行くとB型肝炎だとわかり、即座に入院の指示が出されました。

安静を義務づけられた状態で、六人部屋のベッドの上で頭をフル回転させて、資金繰りの計算に明け暮れました。そんなときに会社には税務署の調査が入り、年老いた母も入院。見舞いに訪れる妻は、来るたびにお腹が大きくなっていきました。

なんと妊娠していたのです。その妻が日ごと見舞いに来ては、細道を一人寂しく帰っていく姿を窓から見送りました。これからどうしようかと真剣に考えました。これが人生で一番辛かった時期です。やがて退院が決まりました。

車の後部座席に乗り、我が家へ向かう途中、夕日に染まる箱根の山並みが目に飛び込んできました。その瞬間、ハッとしたのです。沈む夕日は朝日ほど華やかではない。

だけど、最後の命を燃やし尽くそうとして輝いているんだ――。自分は高嶺ばかりを見上げるあまり、足元を見失っていたのです。もう上を見上げるのはやめよう。足元を見直そう。足元とは、まだ残っている立ち食いそば屋に他なりません。

ここでけじめをつけて、立ち食いそば専門として一からやり直そうと決意したのです。これまで、油屋に勤めた。不動産業もやった。

いろいろと仕事を変えてきたけれど、もうここで腰を据えよう、これは絶対に辞めてはいけないと心に決めました。そんな私の頭に、幼いころに繰り返し聞かされていた、母の言葉が蘇ってきました。

「成功するには、一つのことを集中して持続しなさい」――このときに、その言葉の本当の意味とありがたさが、初めて身に沁みてわかったのです。

心機一転。私は、手元に唯一残った立ち食いそば屋に「名代富士そば」という名前をつけました。一九七二(昭和四七)年、三六歳のときのことでした。これが、現在の富士そばのはじまりです。

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