はじめに●
はじめて体験したアセスメントセンターにショックを受ける私は大学卒業後に商社に入社し、香港の現地法人で五年間働きました。その後も転職を繰り返しながら海外関連の仕事をしていましたが、四十歳に近くなったころ、思うところあって「にんげんビジネス」の世界に足を踏み入れます。そして間もなく、アセスメントセンター(assessmentcenter)という米国発の能力診断手法に出会って惚れ込み、これを生涯の生業にしようと決心して、今の会社を設立しました。アセスメントセンター(以下、アセスメントと略します)は、場所ではなく、行動分析の手法の名称です。評価したい人たちを一ヵ所に集め、仕事の場面を想定したケーススタディ(グループ討議など)に取り組んでもらい、訓練を受けた観察者(アセッサー)が、その人たちの言動を観察して分析して仕事のやり方を推察するものです。ケーススタディには、特殊なストレスがかかる仕組みが備わっており、そのストレスが人の「振る舞い」や「取り繕い」を取り払い、その人の真の姿を浮かび上がらせます。アセスメントをはじめて受けた時のショックは、今でも忘れられません。「すべてを見透かされている」「素っ裸にされている」という強い衝撃を受けつつ、無我夢中で数時間があっという間に過ぎました。私がかねてから無意識的に求めていた「人を見抜く手法」が現実に存在することを知り、嬉しくて、その後しばらく興奮気味だったのをよく覚えています。「せっかく、この劇薬のような手法を、実施側と被験者双方の心身に少なからず負担をかけてまで実施するのであれば、実効性のある使い方に限定したい」これが、独立後、私が強くこだわったことです。一日中アセスメントを実施すると、私もスタッフも「頭ってこんなに疲れるの?」というくらいクタクタに疲弊します。受ける方々も、普段隠しているものを暴かれるような感覚があるので、人によっては精神的負担を感じます。そこまでして敢行するのであれば、「その結果は、会社を良くするために、生産的に活用されなければいけない」といつも思っていました。だから私は、アセスメントの結果が、採用や昇格など、人が動く場面での判断材料として使われるような「目的のあるアセスメント」しかやりたくありませんでした。「せっかくアセスメントをやっても、やった後、何も変わらない」という形だけのアセスメントには絶対にしたくなかったのです。●アセスメントが活用されにくい大企業の文化創業からしばらくは、職位や等級が上がる前の審査として使われる「審査型アセスメント」が売れました。審査の精度の高さが評価され、口コミで上場企業を含む大企業を次々と顧客にできたことで会社の経営が安定しました。審査結果を記すフィードバックレポートが百名以上もたまって死にそうになったり、二週間以上も現地に泊まり込んだりと、大変なこともありました。大企業を対象とした審査型アセスメントは毎年繰り返されるので、経営上とてもありがたいのですが、審査型とは言っても実際には審査結果が人事に反映されにくいことも多く、そこには大企業の論理がありました。審査の精度を「すごい」と評価していただく一方で、「そうは言っても」の世界が増えてくると、私の中では切なさが募りました。大企業ゆえ、実施にあたって経営者の顔が見えないことも、生意気な私の大きな不満でありました。
審査型アセスメントは好評で、どの会社も長期間にわたって使っていただきましたが、2008年9月のリーマンショックの際、そのほとんどで「終了」となってしまいました。「会社の経営が悪くなると、研修から切られる」とよく言われますが、「会社が悪い時に切られるのでは、しょせんそれだけのものでしかないのだ」と、自分の力不足を省みました。三十代のころ、いわゆる大企業の海外部門を転々としたものの、どこにも合わなかった自分を思い出し、「大企業に向かなかった自分は、大企業と仕事をすることにも向かないのかな」と、思い始めました。そして、経営者の生々しい利害に絡んだ部分で真剣勝負の仕事がしたいという要望がどんどん強くなってきました。必然的に私の中では、「小さな会社」へのセグメントが進んでいきました。●小さな会社の社長との二人三脚へそのころから、私たちの会社は一つの研究を始めていました。私はかねてから、アセスメントが最も威力を発揮する場所は「採用」であるという信念を持っていました。アセスメントは、「過去の行動を凝縮させて観察し、未来を予測する」ものなので、はじめて会う人の「今後の行動」を知ろうとする「採用」には、もってこいなのです。「採用アセスメント」を普及させるには、それまでの臨床データから、「仕事ができる人が必ず持っている仕事力」を絞りこんで体系化する必要がありましたが、悪戦苦闘の末、それを成し遂げた2009年、私たちは独自の採用アセスメントを発表しました。特に、他社にあまり類を見ない新卒採用アセスメントは、多くの中小企業の新卒採用現場に受け入れられ、その年には、二千五百名の大学生に向き合うことになります。その後、四年間にわたって毎年二千人を超えるアセスメント実績を残した新卒採用アセスメントは、すっかり私たちの会社の看板商品となりました。私たちの新卒採用アセスメントは、応募者一人一人とじっくり向き合い、妥協を排してリスクマネジメントを行い、本当に生産性の高いと思われる人を浮かび上がらせていくので、大量採用型の会社には向きません。人ひとりが持つ意味が極めて大きい「小さな会社」の採用で、社長さんと二人三脚で泣いたり、笑ったりしながら取り組む時、私はいつも無上の喜びを感じました。新卒採用アセスメントの導入による社内の喜ばしい変化も、社長さんたちから刻々と伝えられ、それがいつも私のモチベーションを高めてくれました。本当にこの仕事は、私の天職だと思いました。●合格者が出ない採用アセスメントしかし、2012年ごろから、新卒採用アセスメントを実施する環境に、暗雲が立ち込めてきました。新卒採用アセスメントを通過する学生の数が著しく減少してきたのです。アセスメントの基準は変わらないので、選考母集団の劣化と考えるしかありませんでした。その劣化は、私たちの周辺に限ったことなのか、それとも世の中全体の傾向なのか、などを知る術もありませんでしたが、とにかく学生がなかなか新卒採用アセスメントを通過しなくなったことは確かであり、その現実は、新卒採用アセスメントというビジネスモデルの継続を難しくしました。何度繰り返しても、優秀な人材を採用できない新卒採用アセスメントに費用を投入し続けるのは、どんな社長さんにとっても耐え難いことでしょう。そしてその結果、採用への妥協が生じてしまったら、それは社長さんにとっても私にとっても最悪の結末です。こうなったら、クライアント企業がお金をかけないで採用アセスメントを繰り返すことができるシステムを作るしかないと私は考えました。そうすれば、妥協せずに何度でも採用アセスメントを繰り返せます。そこで私たちは、採用アセスメントのノウハウをクライアント企業に販売することを決断します。そして販売後は、クラ
イアント企業がその採用アセスメントを独自で運営できるようになるまで、私たちが支援を行うことを決めたのでした。こうして、採用アセスメントの内製化というビジネスモデルが生まれました。●社内アセッサーに伝授する「人を見抜く技術」その決断は、結果的に大正解でした。以前のクライアント企業の大半が、現在は内製化に移行し、順調に新卒採用アセスメントを運営されています。今、私の仕事の大部分が、アセッサーの養成になっています。社内から選ばれた社内アセッサーに、プロのノウハウを伝授する仕事はとても面白く、これも天職なのかもしれません。苦しまぎれに作った内製化というビジネスモデルでしたが、各社の社内アセッサーのマネジメント能力の発掘や強化にアセッサー養成が果たしている役割は大きいようで、その副次的な効果も広がっているようです。そして、このアセッサー養成の仕事が生まれ、ノウハウの開示の必要が生じたことで、「私の中で散乱する『人を見抜く技術』を引っ張り出して体系化する」という「いつかはやらなくてはと思っていた大仕事」に手をつけることができたことは、私にとって幸運でした。そして、幸運ついでに、その流れが本書の執筆にも繋がりました。●人に向き合う採用を応援し続けたい!しかし、その一方で、私たちが内製化ビジネスを始めるきっかけとなった、選考母集団の劣化の流れが止まったわけではありません。今、学生たちの心の中に何が起きているのでしょうか。そして、それは何が原因なのでしょうか。それがこれからの私たちの重大な研究材料になります。私たちをはじめて訪ねてくださった社長さんや採用関係者の多くは、こんな言い方をされます。「うちみたいな小さい会社、来てくれる人がいるなら誰でもいいんです」しかし、その社長さんや採用関係者の皆さんは、採用アセメントを経験したとたん、平気で高学歴や高キャリアの応募者たちに「×」を連発するようになります。私はこの変化に触れるのが大好きです。「誰でもいいんだよ」は、人と向き合うことを放棄した人の言葉です。しかし、アセスメントがきっかけとなり、その人は人と向き合うようになります。何らかのきっかけで、社長さんが「人に向き合う」ようになってくださるのなら、そしてこの本をそのきっかけにしていただければ、そんな嬉しいことはありません。小さな会社の社長さんや採用関係者の皆さんが人と向き合う方向に舵を切れば、ともすれば見過ごされやすい本当に優秀な人に光が当たりやすくなります。たくさんの本物が活躍し、偽物が淘汰されれば、世の中は間違いなくもっと健全になります。日本の企業の大半を占める小さな会社の社長さんや採用関係者の皆さんが本気になれば、そのムーブメントは現実のものになります。私のライフワークは、その応援を続けることです。奥山典昭
目次採るべき人採ってはいけない人採用に悩む小さな会社のための応募者を見抜く技術
はじめに
序章
小さな会社が「生産性の高い人材」を採用するために必要な心構え
01小さな会社が最も大切にしなければいけないもの
02採用の怖さに向き合う「リスクマネジメント」
03応募者に向き合うことから、すべてが始まる
1章面接では好印象だったのに、なぜ入社後にがっかりするのか
01みんな、私のどこを見ようとしているの?
02中小企業が大企業の出身者を採用すると、なぜ失敗するのか?
03極端なスピード礼賛は、会社を弱くする
04学歴、語学力、資格をありがたる採用は、悲しい見込み違いに終わる
05やる気や誠実さを面接で見極めることはできない
06採用面接で見えた長所の多くは、入社後に色あせるのが普通
07応募者の「言ったこと」「書いたもの」を信じるのもほどほどに
08採用面接の試験官は、自分が期待する答えを言ってくれる応募者が大好き
09愛想のない人を「無理や無駄のない人」と解釈できると採用観が変わる
コラム「人を集める」ということ
2章最強の人材評価メソッドから学ぶ「生産性の高い人材」を見抜く技術
01「人を観る目」を鍛える
02視点を絞り込む
03アセスメントセンターとは
04アセスメントの行動分析を採用選考に応用する
3章人を観る目を作る「視点の絞り込み方」
01視点は仕事力に絞り込む
02仕事ができる人とは
03仕事ができる人に備わる仕事力①考える力(概念化能力)
04仕事ができる人に備わる仕事力②大人の意識(成果意識)
05「考える力」と「大人の意識」は、そう簡単に姿を見せない
06「対象に向き合う力」に視点を絞ればすべてがわかる
07アセスメントが大量に炙り出す「対象に向き合わない人」
4章応募者の心の成熟を示す「対象に向き合う力」
01対象に向き合わない人たちのグループ討議
02対象に向き合わない人の心の奥で起こっていること
03「対象に向き合う力」を見抜くには、行動の目的に視点を絞る
04自立した心を持つ人だけに宿る「対象に向き合う力」
5章グループワークで応募者の「対象に向き合う力」を見抜く技術
01テーマにあまり縛られず、自由奔放に好きなことを発言する人
02議論の型や段取りを前もってハッキリさせないと気が済まない人
03議論をまとめる役に収まり、終始、仕切りに精を出す人
04自分の発言が終わるたびに達成感をにじませる人
05ふわふわした抽象論や理想論ばかりを語り、泥臭い現実論を嫌う人
06慇懃無礼な言動や過剰な敬語など、不自然な言動が目立つ人
07威圧的な物言いが目立つ人
08それらしく軽やかにたくさんしゃべる人
09発言が少ない人
10「考え込む」と「他のメンバーの意見に集中する」を繰り返す人
コラムグループワークを実施するための前提条件
6章説明会や面接で応募者の「対象に向き合う力」を見抜く技術
01質問しない人
02帰り際の質問魔
03集合時刻より大幅に早く来る人
04あなたの話にずっとうなずき続けてくれる人
05ずっとメモを取り続けている人
06ずっと相槌を打ち続けてくれる人
07理念っぽい話や哲学めいた話にも絡める人
08常に即答、即応してくれる人
09言葉の取り繕いが目立つ人
10エントリーシートに余白が目立つ人、短パンで選考試験に来る人おわりに著者紹介
誇りを持って本物を求める「うちみたいな小さな会社は、なかなか優秀な人は採れません」私たちは、中小企業の社長や採用関係者に、採用の際の人の見極め方を伝授する会社なのですが、はじめてお会いしたクライアントの第一声で特に多いのが、この言葉です。
その方のいろいろな想いを含んだ、決して軽くない言葉だと思うのですが、もしそこに「大企業ではなく、中小企業なのだから、そんなに優秀な人でなくても……」というニュアンスが含まれているとすれば、その社長や採用関係者は、この先ずっと人事採用の問題で苦労することになるかもしれません。
「優秀な人材は大企業に多く、中小企業には少ない」という固定観念に縛られている中小企業の社長や採用関係者が多いことが気になります。その考え方は、「中小企業は、優秀な人材を採用する必要がない」という採用観に直結しかねないので危険です。
優秀な人材が本当に大企業に多いか否かは、「優秀な」が何を意味するかを突き詰める議論が必要になるので一概に言えませんが、「中小企業に優秀な人材は必要がない」は明らかに間違いです。「中小企業こそ、本当に優秀な人材を必要とする」というのが絶対的な真理だと思います。
大企業には、提供するサービスや商品を常に同質に保たれなければならない、という社会的責任があります。ですから、いかなる社員が携わっても、最終的には品質が維持されるように作られた無数の仕組みがあります。
マニュアルは緻密で、職場の経験知も潤沢な上、助けてくれる上司や同僚も常に大勢存在し、良くも悪くも「依存先」は豊富です。職場にどうしても合わない社員がいれば、異動先もたくさんあります。新入社員の質が多少ばらけても、少しばかり困った人が紛れ込んでも、ある程度はそれをカバーできる構造が、大企業にはあります。
一方、中小企業では「力なき新入社員」をサポートする仕組みがどうしても薄くなります。中小企業に入社した人は、場合によってはその日から、自分の頭で考え、自分の足で動くことが求められます。「依存先」が少ないからです。中小企業は、仕事を任せることができ、自力で成果を確保できる人材を本来的に必要とします。そして、そのような人材が一人入社することによる生産性への影響や相乗効果は、大企業におけるそれとはとても比較になりません。ですから中小企業は、新卒採用であろうが中途採用であろうが、採用するのであれば、本当に優秀な人材でなければいけないのです。中小企業だからこそ、何を置いても、草の根を分けてでも「本物」を探し出し、入社させなくてはいけないのです。「中小企業だから……」と、採用に言い訳や妥協を残す社長や採用関係者は、自分で自分の首を絞めているようなものです。その心の緩みが、会社の生産性にダメージを与える危険因子を、また社内に増やすことになるからです。冒頭の言葉は、時にこう続きます。「優秀な人材は、みんな大企業が持っていっちゃいますから」この言葉は、新卒採用に臨む社長や採用関係者からよく聞かれるものですが、これも明らかに間違った認識です。「優秀な人材」という概念ほど、不安定で誤解を集めやすいものはありません。大企業を含めた日本のほとんどの会社が、「優秀さ」が何かを知らず、またそれを見極めるノウハウも持っていないので、とりあえず大学の偏差値の高さというモノサシに着目し、その上位者から確保しようとする傾向が多くなってしまいます。
しかし、学力が高い人材と本当に優秀な人材は驚くほど別物なので、大企業は「優秀ではない学力の高い人」を毎年、大量に採用していることになります。先ほどの言葉は、次のように言い換えられたなら正解です。「学力の高い人材は、みんな大企業が持っていっちゃいますから」リスク人材も含めた「学力が高くても優秀でない人材」を大企業が大量に採用した後には、確実に「目立った学歴や経歴を持たないけれど、優秀な人材」がたくさん残っています。中小企業は、そのような「目立たない本物」を、多くの華やかな人たちが去った母集団から落ち着いて拾い上げていくことができるので、中小企業が優秀な人材を確保できる機会は、大企業と同様か、むしろそれ以上かもしれません。これは、決して絵空事ではありません。私たちがクライアント企業と協働して採用選考を実施する時、たくさんの残念な一流大生を「皆さん、いい大学に行ってるし、話も上手だから、大手が採ってくれるよね」「でもこの人たちを採用した大手は大変だね」と言いながら見送ります。そして「大手はたぶん採用しないよね」と思えるような、「華やかな武器は持たないけど、優秀な学生」を見つけると、自信を持って内定を出すのです。中小企業の新卒採用に関して、よく「大企業の採用活動状況との兼ね合いをどう考えればよいか」という話題が持ち上がりますが、私たちのクライアント企業は、大企業の動向をあまり気にしません。「どの時期に採用活動を実施すれば、採用成功率が高まる」といった因果関係が浮かび上がったこともありません。考えてみれば、大企業はいつでも採用市場に逸材を残していってくれるわけですから、中小企業としては、大企業の存在などを気にせず、よそ見をせずに目の前に現れた本当に優秀な人材に反応できる感性を高めることだけに尽力すべきでしょう。中小企業が人を採用する時には、「うちみたいな会社に来てくれるかな」などの弱気なことを考えたりせず、自分の会社が「人を採用し、雇用できる立派な会社」であるという誇りを強く持つことが必要です。間違っても、「自分たちは大企業でもないし……」などと卑屈っぽい思考回路を持つことなく、中小企業が人を採用することの意味と価値が、大企業の採用とは比較にならないほど大きいことを再認識し、その重要な採用を敢行できることを誇りに思うことが必要です。そして、「自分たちこそ、最高の人材を採用しなければいけない会社なのだ」と、誇りに思えるように心を整えることが必要です。もし、それらができないと言うのなら、その採用はしばらく見送るほうが賢明でしょう。自信や自負、自らへの信頼を欠いた状態で取り組む採用は緩く、甘く、いい加減なプロセスと、極めて残念な成果に繋がってしまいます。小さな会社であるからこそ、誇りを持って採用活動に臨んでほしいと切に願うのです。02採用の怖さに向き合う「リスクマネジメント」期待にあふれる採用は、悲劇を招きやすい言うまでもなく、採用は会社にとって大イベントです。小さな会社であれば、なおさらです。それが新卒採用であっても中途採用であっても、その採用によって多かれ少なかれ会社の何かが変わるのですから、新しい仲間を受け入れる皆さんの胸は期待で膨らみます。私にも経験がありますが、人を採用する時はとてもウキウキします。「あの人が入社したら、あれをやってもらって、これを変えて……」と頭の中が超前向きになるのが普通でしょう。しかし、そのポジティブな気持ちが何ヵ月か後に、困惑や失望、そして後悔の入り混じったドンヨリとしたものに変わってしまうという悲しいストーリーも、また普通に見られます。
人を採用できるということは、その会社が頑張ってきたことへのご褒美です。だからこそ、採用に臨む中小企業には前述のように、誇りを持ってほしいですし、社長や採用関係者が時に嬉しくて舞い上がってしまうのも無理もない話です。しかし、実に魅惑的な「採用の扉」の向こうに天国があるのかもしれない一方、地獄が待っている可能性も決して小さくありません。採用に関係するすべての人に、その認識をもう少し深めてほしいと思います。「新しい仲間を採用する」という甘美な取り組みと、退職勧奨、懲戒解雇、労働審判、訴訟などの血生臭い世界とは、常に背中合わせなのだという現実から目を背けてはいけないのです。最近採用した人のことで、悩みに悩んで「夜も眠れない」「月曜が来るのが怖い」状態になってしまっている中小企業の社長や管理職の話を、私は今まで数えきれないほど見聞きしてきました。「お願いだから辞めていってほしい」と心の奥で願っても、一度採用してしまったら、それはかなわぬことと思った方がよいでしょう。問題の多い社員ほど、会社にしがみつくものです。その状態は、社長や管理職の心を蝕み、会社に大きな損失をもたらします。それはすべて、あの「希望に満ちた採用」から始まったのです。いきなりネガティブな話から入ってしまいましたが、実は徹底したリスクマネジメントが、結果として本当に仕事ができる人の採用に繋がります。これは長年にわたって採用支援を生業としてきた私たちの、揺らがぬ結論です。「リスクをつぶしていった結果、どこにも見つからなければ優秀な人材である」というアプローチは、一見すると後ろ向きに感じられるかもしれませんが、実は極めて合理的です。「人を採りたい」という願望が強くなっている採用現場で、長所にばかり視点を集めたのでは、「この人はできるに決まっている」という採用側の美しいストーリーにあらゆる情報が巻き込まれてしまい、安易な「期待先行の採用」となって悲劇を招く確率が高くなります。フラットな、どちらかと言えば冷徹な心で人に向き合い、常にリスクを念頭に置いた採用を実施しなければ、応募者の人柄や力量と落ち着いて向き合えず、結果として採用の精度が怪しくなってしまいます。03応募者に向き合うことから、すべてが始まるリスクと向き合う戦術リスクマネジメントの効いた採用選考は、言うまでもなく、応募者と向き合うことから始まります。しかしながら、日本の会社の多くが、その取り組みを苦手としているように感じます。「応募者と正対して、その人の本質を知ろうとする取り組みを崩さない」会社は、大手中小を問わず、意外と少ないのではないでしょうか。これから膨大な時間を共にすることになる人、運命共同体となるかもしれない人を選ぶという意味においては、採用は結婚と似ています。結婚を前にした男女は、よほど恋愛ボケに陥っていない限り、相手の人格と向き合い、結婚後に障害を招くようなリスクがないかを知ろうとしますが、それに比べて採用選考はどうでしょうか。一方的な離婚が許されないのを知ってか知らずか、一目ぼれの恋愛ボケを隠そうともせず、相手をろくに見もしないで突っ走る採用が当たり前になっているように思います。わが国で応募者に向き合う採用選考がなかなか根付かない理由は「限られた時間内での応募者との向き合い方がわからない」「応募者のどこをどう見てよいかわからない」という、極めてシンプルなものです。失敗が許されない中小企業の採用では、人と向き合う取り組みは絶対に避けて通れません。本書では、私が行動分析と人材評価のプロとして積み上げてきた経験や現場のエピソードを交えながら、応募者との向き合い方や、「採るべき人」「採ってはいけない人」を見抜くための視点を、できるだけわかりやすく紹介していきます。
もちろん本書を読んでいただいたからといって、人と向き合う技術をすぐに習得できるわけではありません。しかし、世の中の多くの人が迷いに迷って右往左往している世界で、正しい方向性や進むべきゴールを知っているだけでも、それは大きなアドバンテージになるはずです。誇りを持って採用選考に取り組み、腹をくくって人と向き合おうとする中小企業の社長や採用関係者の皆さんが、この本を道標としてお手許に置いてくだされば、そんな嬉しいことはありません。本書に出てくる考え方や視点は、「こういう人を採用するとこんなふうに危ないですよ」というような、「できない人を見抜く技術」のような切り口の方が多くなっています。「厳しすぎる」「意地が悪いな」と感じる方もいらっしゃるでしょう。しかし、前述のように、リスクマネジメントこそが採用活動の本質です。性善説に甘え、楽観的な期待や見通しに従った笑顔の「大らか採用」は、後に関係者全員の顔を曇らせることになります。浮かれず、緩まず、理にかなった厳しい視点を持ってストイックな採用を貫いた会社だけが後にみんなで笑えるのです。リスク視点の強化は、後ろ向きの荒探しなどではなく、逸材獲得に向けた究極の攻めの戦術なのです。
01みんな、私のどこを見ようとしているの?
「内面に向き合わない採用」に疲弊する就活生私たちは、新卒採用アセスメントという能力診断手法を使って、クライアント企業の新卒採用活動を支援しています。その新卒採用アセスメントをくぐり抜けて内定を獲得した学生が、クライアント企業の社長や採用関係者から内定を言い渡されたとたん、涙を見せたという話をよく耳にします。
就活のプレッシャーから解放されて思わず……ということだと思うのですが、その中の少なからぬ学生が「はじめて自分という人間をよく見てくれる会社に出会ったから」というようなことを口にするそうです。
私も、アセスメント選考の終了後に書いてもらうアンケートに「私をよく見てくれて嬉しい」「ここで落ちても悔いはない」といった感謝の言葉が躍っていたのを何度か見たことがあります。
「アピールできるような経験がない」「資格や技術が何もない」「口下手で人と話すのが苦手」など、採用関係者に訴求できるポイントをあまり持たない学生の中には、実は他の人があまり持っていない価値ある優れた部分を、内面奥深いところに携えている人がたくさんいます。
そのような学生の心の中では、その優位性に対する無意識的なプライドと、その優位性が人から認めてもらいにくいことによる自己否定が交錯します。そして、不採用通知の数が増えるに従って、後者がその人の心を支配するようになります。「やっぱり自分はダメなんだ」という負の感情がどんどん増殖し、会社に対しても「表層的なものしか見てくれない」と、静かな失望感が募ります。そのような中で、人の内面に向き合おうとする会社に出会い、その会社に認められて内定をもらったりしたら、その瞬間、どれほど多幸感に包まれるのかは想像に難くないでしょう。就活に苦戦する中で、多くの会社の視線が自分の内面に向かってこないのを痛感し続けた学生は、人に向き合える会社の価値を確実に理解できます。このような場合、すでに学生のその会社に対するロイヤリティ(loyalty。愛社精神)は、跳ね上がっているのが普通であり、その後もきっとWIN=WINの形で進んでいくことでしょう。就職活動に臨んだ学生の多くが、こう感じています。「みんな、私のどこを見ようとしているのだろう」会社が学生を見て、ありがたがっているものの多くが、仕事場での生産性に繋がりません。そして、その一方で、高い生産性に直結するとされる能力は、驚くほどスルーされてしまうという現実があります。本当に優秀な学生は、無意識的に自分の強みを知っていますから、見当違いのところばかりにアプローチする会社に失望し、疲れてしまうのです。多くの会社がスルーしやすいものとは何なのでしょう。また、何をありがたがってしまうのでしょうか。
02中小企業が大企業の出身者を採用すると、なぜ失敗するのか?
応募者の「持ち物」だけに目を奪われると…開発部門のベテラン技術者が退職したので、補充のため中途採用の募集をかけたのだが、その仕事が特殊な技術を要するため、応募者がないまま、半年が過ぎた。埋められない退職者の穴が多方面に悪影響を及ぼし始め、経営者を始めとする関係者の焦りもピークに達した頃、やっと一名の応募があった。その応募者は、同業の超大手企業に二十年勤務した一流理系大学卒の課長経験者で、退職した技術者とほぼ同様の技術を持っている人物だった。早速、面接をしてみると、なかなかの好人物に見えた。このケースで、「即決!」にならない会社が果たしてどれくらいあるでしょうか。「そりゃあ、採るでしょ」と思われる方がほとんどだと思いますが、ここに大きな落とし穴があります。私は、多くの製造業の会社と交流があり、ざっと二百人以上の経営者とお会いしましたが、ほとんどの方がこれと同様のケースを経験しており、実に多くの方が、痛い目に遭われたようです。その失敗は必然です。「持ち物」だけに目を奪われ、「使い手」の能力に向き合わなかったからです(3章、経験知の限界を参照)。
03極端なスピード礼賛は、会社を弱くする
スピード重視によって失われる「考える力」「仕事はスピードが命」「ビジネスの基本はスピードだ」ネットやビジネス書には、このようなフレーズが「これでもか」というほど並んでいます。こんな通念が世の中に氾濫すると、スピードに自信がない人は辛くなってしまいますよね。世の採用関係者も、たいていスピードが大好きです。というより、世の中の勢いに巻かれて「好き」にさせられてしまったと言った方がよいかもしれません。採用現場で「何を聞いても打てば響くような反応が返ってくる」「決まった時間内に他の学生よりたくさん話したくさん書くことができる」「グループワークでいつも口火を切り率先して動く」のような場面を目にすると、心は内定に大きく傾いてしまいます。私たちがクライアント企業の採用アセスメントで行う演習でも、このような目に鮮やかな応募者の行動で彩られるのが普通なのですが、私たちがスピーディーな行動を手放しで高く評価することはありません。スピードを重視するあまりに、もっと大切なものを犠牲にしてしまっている人が多いからです。犠牲にされやすい大切なものの中で最も重要なものの一つが考える力です。これは概念化能力とも呼ばれ、問題解決やマネジメントといった質の高い仕事に取り組む時に必要になります。スピードに優れ、スピードを武器にする人は、概してスピードに依存しやすくなりますが、そのような人は、相応の時間を要する「考える」という行動と縁遠くなりやすく、本質的問題解決やマネジメントへの適性が低くなりがちです。「今の時代の経営者には、スピードが必要!」と叫ぶ人は多いのですが、「何も考えないで、物事を急いで進める経営者」とは、一緒に仕事をしたくないですよね。経営者の果敢な判断や意思決定は、一見するとスピーディーでスマートですが、そのスピードは熟慮熟考の次のステージにあって、はじめて価値を持ちます。「スピードそのものの客観的価値は、入社後時間が経ち、求められる仕事の質が高まっていくにしたがって、相対的に低下していく」という話は、後ほど出てくるのでこのくらいにしておきますが、いずれにしても絶対的価値を持つわけでもない「単なる一個性」を採用現場が過剰にありがたがる風潮は少し異常だと思います。クライアント企業の採用アセスメントを通過して無事に入社した人の半数以上が、「就活でなかなか内定を得られず、苦労をした」という話をしてくれます。そして「苦労した理由は何ですか?」と質問すると、大半の人がアピール不足とスピード不足と答えます。その人たちの行動が特に遅いわけではないのですが、試験会場ではライバルたちの驚異的なスピード感に圧倒されたと、皆さん口を揃えます。
彼ら・彼女たちと話をしていると、誰もが自然体で、話していて疲れません。物事をよく考える習慣や文化の持ち主が多く、少し難しいテーマを投げてもそこに真っすぐに向き合ってくれます。これこそが高いポテンシャルの片鱗なのですが、考えてみれば、その人たちのほとんどが複数の会社で不採用の憂き目を見ているのです。通過率一割以下の採用アセスメントを突破した逸材たちが、一歩間違えば内定ゼロとなっていたかもしれないと思うと、何だか心がザワザワします。希少価値と言える能力を持つ人材が、少しスピードが足らないばかりに切り捨てられるなんて、何とも腹立たしいことですが、世の中では決して珍しいことではないようです。スローすぎて言動が周囲とかみ合わないような人は別として、「スピード命」の人と比べて少しくらいスピードが不足しても、それが仕事人としての致命的なリスクになるわけではありません。入社後しばらくは「早くたくさん覚える」「即座に思い出す」「遅滞なく経験知を運用する」などの力を求められる場面が多いので、「思考力があるゆっくり型」の人は苦労することも多いのが普通です。しかしそんなタイプの人が、年次を重ね、マネジメントやリーダーシップが求められる立場になると、急に頭角を現すことがあります。私の周囲では、ごくごく普通に見られる、必然的サクセスストーリーです。人にじっくり向き合うことをあまり好まない社長や採用関係者は、スピードという目に鮮やかな個性をキャッチしただけで、結論を急いでしまいます。その拙速が、作業適性が高い人ばかりを増やし、質的生産性で勝負する「組織の核になれる人材」を採用できない企業体質を生んでしまうとしたら、それはあまりにも大きすぎる罪だと思います。04学歴、語学力、資格をありがたる採用は、悲しい見込み違いに終わる受験で使う頭と、質の高い仕事をするための頭は別物私たちがクライアント企業で実施する新卒採用アセスメントは、一回あたり六名前後で実施します。その中に、いわゆる一流大学の学生がいたりすると、アセスメントを見守る経営者や採用関係者の期待がどうしても膨らむのは致し方ないでしょう。しかし、六十分後、その期待は多くの場合、泡と消えてしまいます。受験や勉強で使う頭(学力)と、質的生産性の高い仕事に必要な頭とは、意外なほど別物なので、学力の高さを見て「優秀な仕事人」をイメージするのは見当違いなのです。「いい学校を出ていたって、仕事ができるとは限らないのさ」というように、学力と仕事力との関係を逆説的・情緒的に語って、切り捨ててばかりいたのでは、採用ミスを減らすことはできません。「それぞれの頭の機能が違うのだから、学力の高い人に仕事力の足りない人がたくさんいるのも当たり前」「学力がそれほどでもない偏差値の低い大学の学生の中に、仕事力の高い人が一定数存在するのも当たり前」と、合理的に捉えられることが、生産的な採用活動への第一歩です。海外関連のビジネスが多い会社の新卒採用では、「英語力がある人」「TOEIC○○○点以上」などというスペックが付加されることがあります。新卒採用アセスメントでは、「TOEIC900点以上」などの強烈な武器を持つ学生がやってくることも珍しくないのですが、やはり冒頭の一流大学のケースと同様の結果になってしまうことのほうが普通です。TOEICを取得するのに必要な頭脳が「勉強で使う頭」だと考えれば、納得できます。これは、難関資格を持っている人にも言えることです。学歴や語学力、資格などを得るために使った膨大な時間と労力を決して否定するわけではありませんし、その努力はもちろん評価されるべきです。しかし、その際に機能した「頭」は、仕事ができる人材を求める企業が欲しい「頭」と同じ頭ではありません。より多くの社長や採用関係者が「そうは言っても」という逃げ道を断ってこの現実に向き合えば、「いい大学の学生を採
ったのに……」「もっと頭がいいと思ったのに」のような恨み節が、世の中から確実に減っていくでしょう。05やる気や誠実さを面接で見極めることはできないその意識は、持続性を伴ってこそ本物と言える「うちは、やる気さえあればそんなに優秀じゃなくてもいい」「誠実であれば、特に優秀でなくても採用する」という声を時々耳にしますが、そのたびに「やれやれ」と思います。今の時代、本当にいつもやる気があって、取り組みが誠実な人がいれば、その人は間違いなく逸材だからです。冒頭のコメントは「気持ちさえあれば、そんなに頭はいらないよ」という軽い気持ちで発せられるのだと思うのですが、今、その「気持ちがある人」を見つけるのがそもそも大変です。「ぜいたくは言わないからせめてこれくらいは……」と、控えめに求められたものが、実はとんでもないぜいたく品になっていて、今、なかなか手に入りません。やる気や、誠実さのような、信頼の対象になる要素の根底には、私たちが成果意識と呼ぶ「人のために動く意識」があります。成果意識については、3章で説明しますが、ここで一つ述べておかなくてはいけないことがあります。この「人のために動く意識」は、自分勝手な興味や欲望を抑えて、他者や全体、組織のために、すなわち利他的に動く人が持つ大人の意識と呼ぶべきものです。この意識を持つ人がいったん責任を背負ったら、成果を獲得するまでは、その意識は必ず持続されます。成果意識には、持続性がつきものなのです。ですから採用選考の場で、やる気や誠実さが見えたとしても、そこに持続性を伴わなければ、それが成果意識の証にはなりません。私見ですが、私は、面接の場で応募者の意欲や意識を見極めようとすることに否定的です。応募者のやる気や誠実さは本物なのか、それとも気まぐれやパフォーマンスの産物なのか。持続性を確認しにくい面接の場は、その判断を下すのに適切な場所ではないと思うのです。本書の全編にわたって主張していることですが、応募者と向き合うことができる場所は、何も面接だけではありません。持続性を確認するためには、より多くの時間をかけて応募者の行動を追っていく必要があります。応募者の行動を観察できる機会をいかに潤沢に用意できるかが、成果意識の発見への鍵になるのです。06採用面接で見えた長所の多くは、入社後に色あせるのが普通採用面接では見えない重要な能力「採用面接でじっくり人物を観察し、長所もしっかり確認したはずなのに……」「あそこでもっと突っ込んだ質問をしていたら、ボロが出たかもしれない……」「もう少し面接を重ねればよかったかも……」逸材と信じて採用した人が入社後、間もなくして現場の酷評に晒されると、採用した人の心の中は、「のに」と「たられば」で溢れます。しかし、どんな面接をやったとしても、何度面接を繰り返したとしても、その採用ミスを防ぐのは難しかったかもしれません。実は、採用面接で捉えることのできる能力情報の多くは、定型作業などの比較的楽な仕事をこなす力や、仕事を覚える力などに関係あるものが多いのです。したがって、採用面接で認められた長所は、そのような力が求められる場所では何とか発揮されます。
しかし、問題解決やマネジメントなどのレベルの高い仕事に対応するための能力、例えば「未知の場面で動く力」や「ゼロからイチを産む力」などに関係する能力は、採用面接ではほとんど顔を出しません。「そろそろ慣れた頃だから、少し自分でやってみるか」などと言われる頃になって、それに必要な能力の欠如が露見するのです。採用面接だけで「優秀だ!」とお墨付きをもらった人の入社後の賞味期限は、多くの場合、数ヶ月に過ぎません。助けてくれる人が大勢いて、仕組みやマニュアルが整備されつくしている大企業であれば、その賞味期間は少し伸びるかもしれませんが、新入社員の自立が急がれる中小企業なら、賞味期間ゼロもあり得るでしょう。人の能力には、見えやすいものと見えにくいものがあります(3章05の表4を参照)。「見えやすい方に目を奪われて採用し、入社後に、見えにくい方の欠如が露呈する」、これが極めて一般的な採用ミスのメカニズムです。私は、採用面接に人を見極める機能を求め過ぎるのは、危険だと考えています。確かに採用面接が、応募者の「やりたいこと」と採用側の「してほしいこと」を確認し合う情報交換の場として必要であることは間違いありません。しかし、その限られた時間を、応募者の能力を見極める唯一の機会と位置付けている限り、採用ミスは決して減らないでしょう。前節でも述べましたが、採用選考においては、面接の場だけではなくて、応募者の行動をキャッチできる機会を増やし、多くの採用関係者が応募者の行動情報に少しでも多く触れることが、「見えにくい」方にアプローチする第一歩になります。07応募者の「言ったこと」「書いたもの」を信じるのもほどほどに仕事力を表現するものは、その人の行動だけエントリーシートや説明会のアンケート、市販の適性検査、グループワークでの発言内容、面接での発言内容。採用選考で、企業が応募者に関するどんな情報から採否を判断しているかと言えば、どこの会社でもこんなところではないでしょうか。これらに共通していることと言えば、すべて応募者によって書かれたものであり、応募者が話した内容であるということです。エントリーシートやアンケートは、まさしく「書かれたもの」そのものですし、適性検査は、「書かれたもの」がコンピューターで処理されます。グループワークや面接を観察する試験官は、どうしても応募者の発言に意識を向けてしまいます。「採用されたいと願い、採用選考に向けての準備に余念のない応募者の発言や記述から、その応募者の仕事ぶりを推察しようとするのは無理があること」や、「採用されるための発言や記述が創作される可能性があること」についても、きっとすべての採用関係者がわかっているのだと思います。わかっていながら、情報を得る手段が「それしかない」という縛りの中で何とかしようと、多くの方が苦慮されている現状もよく理解できます。しかし、苦慮の結果、採用現場の空気が「エントリーシートにびっしり書き込んだ熱意を評価しよう」とか、「あれだけ面接官を気持ちよくさせる能力を評価しよう」などとおかしな方向に向かったりすることもあるようで、やはり無理な状況の中で無理を重ねるとあまりよいことは生まれません。このあたりで、応募者が言ったことや、応募者によって書かれたものを、採否の判断の材料にすることのリスクを再認識した方がよいのではないでしょうか。どうしても採用されたいと熱望する応募者が、採用側が喜びそうなことを力強く語り、エントリーシートや履歴書に一生懸命書き込むのは当然のことで、それを非難するのは筋違いです。採用側が、情報リテラシーを持ってその内容に接すればよいだけのことです。
まずは、現実を直視しましょう。少し知恵の働く(仕事ができる人の頭の良さとは別物です)人の操作力や表現力をもってすれば、「採用したい!」と前のめりになっている面接官を騙すことは簡単だということを、すべての採用関係者が腹に落とす必要があります。もし、「そんなの嫌らしい」「もっと人を信じたい」などと考える社長や採用関係者がいたとしたら、結局、その人は自分の会社の社員に対する優しさを欠くことになります。言ったことや書かれたものをあくまで一情報に留めることを決めたなら、向き合うべき対象を変えなくてはなりません。その対象は、応募者の行動です。能力(仕事力)を過不足なく表現するものは、その人の行動だけです。採用に取り組むすべての人が、そこに立ち返るべきだと思います。08採用面接の試験官は、自分が期待する答えを言ってくれる応募者が大好き物事に真面目に向き合うからこそ、慎重な発言になることもある面接の目的は、応募者と向き合うことであって、面接官自身が「気持ちよくなること」ではありません。いきなりの挑戦的な物言いに、「ムッ」とされた向きもあるのではないでしょうか。しかし、自分も含めて、採用面接で応募者と対峙する面接官のほとんどは、心の奥底でその場の快適性を求めてしまいます。「自分を気持ちよくさせてくれる応募者が大好き」ということです。今、気持ちよくさせてくれても、入社後に不快にさせられたのではどうしようもないのですが、面接官の性とでも言うのでしょうか。「快適性を求める」とは、具体的には何を求めるのでしょう。典型的なものの一つに、「自分が期待する答えを応募者が言ってくれることを求めている」というのがあります。「自分の中に正解があり、応募者がその正解に近い答えを出してくれるとご機嫌になって、その応募者に対する評価を高めてしまう」、文字にすると何だか間抜けですが、面接官経験者でこの感情に一度も支配されたことのない人など、いらっしゃらないのではないでしょうか。ほとんどの面接官が、前向きで肯定的で楽観的な答えを待っています。そしてそれは、明るくハキハキと元気いっぱいに発信されなくてはいけません。それができない応募者の多くは、そこで消えていくことになるのでしょう。「今度、当社で新しいプロジェクトを立ち上げます。当社の命運を分けると言っても過言ではない、極めて重要なプロジェクトです。あなたがもし入社されたら、このプロジェクトに入ってもらおうと思っていますが、そこでやれる自信はありますか?」採用面接で、面接官が応募者にこんな質問を投げかけたとします。当然ながら、その面接官が期待して待っている答えは、「やります。やらせてください!」「一生懸命、頑張ります!」です。諸々の就活指導も、そんな時は、そういう答え方をするのだぞ、と教えているはずです。さて、この質問を受けて、顔を曇らせて黙り込み、目を伏せてじっくり考えた挙句、「やってみないとわかりません」と呟いた応募者がいたとしましょう。「前向き、肯定的、楽観的、明るくハキハキ元気いっぱい」とは正反対の言動を見せたこの応募者を採用できる会社は果たしてあるでしょうか。もちろん、この応募者が、見たままに後ろ向きで、否定的で、悲観的な、暗くて活力に欠ける人である可能性も否定できません。しかし、その応募者が、物事に真面目に向き合い、とてもよく考える人間で、発言責任への意識が極めて強い本物の逸材だとしたら、大した情報をもらっていないその面接の場で、調子よく「はい、やります!」とは、言えないかもしれません。そのような可能性へ考えを至らせる面接官が、世の中にどれくらいいるのだろうか、と考えると、少し心細くなります。今、私たちの新卒採用アセスメントを通過して顧客企業に入社し、高い評価を得て、早くもコア人材として活躍している人たちの顔を思い浮かべながら書いています。彼ら・彼女たちだったらどうするかなあと考えてみるのですが、やはりどう控えめに見積もっても、八割以上(もっと多
いかもしれません)は、「やってみなければわかりません」と答えるような気がします。皆さん、明るく感じのいい若者ばかりで、後ろ向きでも否定的でもありません。期待する答えを求める面接は、機会損失のリスクに溢れています。09愛想のない人を「無理や無駄のない人」と解釈できると採用観が変わる逸材は、媚びや迎合と無縁である先ほどの例の「やってみなくてはわからない」が、面接官の質問に真摯に向き合った結果の回答であったとしたら、その応募者の対象に向き合う力は、かなりのものです。実は、このような応募者と出会うことが、私たちの採用アセスメントのゴールです。クライアントの生産性に直結する逸材を求める私たちは、ターゲットを、対象に向き合う力という仕事力の持ち主に定めているのです。対象に向き合う力は、「自分以外の人やモノ(対象)に対し、私利・私欲・邪心・邪念などを排して、真摯に意識を集中させることができる力」です。「人目を気にする」「自分に言い訳する」「自分のプライドを守る」「劣等感がばれぬよう取り繕おうとする」などの精神的に自立しない未熟な部分を多く残す人は、そこへのケアに自分のエネルギーを費やさなければならないので、対象にしっかり向き合うことができません。対象に向き合う力を持つ人は、情報に向き合えるので「考える力」も育ちますし、自分のことだけでなく他人の気持ちにも向き合えるので、「大人の意識」も成熟します。だから、対象に向き合う力の持ち主は、いままでに経験したことのない仕事でも、人間関係が難しい仕事でも、しっかりと成果を残せるのです。まさしくいいことづくめなわけですが、その素晴らしい仕事力の持ち主に何か懸念点はないのでしょうか。対象に向き合う力の持ち主は、自分の心の中に変な縛りや囚われがないので、自由な心で自然体を貫けます。「人からよく思われたい」という気持ちが薄く、人の目が気にならないので、人に媚びたり迎合したりする必要がありません。本当に素晴らしいことだと思うのですが、今の日本では、そのことが、若干の生きにくさを招いてしまいます。「やってみなくてはわからない」と呟いた応募者が厳しい評価を受けてしまう現実の背景がここにあります。面接官のみならず、日常生活のあらゆる場面において、日本人には媚びや迎合、愛想笑いに慣れてしまっている部分があります。そんな環境で、無理や無駄を削ぎ落とした自然体の人を目にすると、多くの人の目には不愛想と映ってしまうでしょう。その不愛想を一個性として捉えてもらえればまだいいのですが、そこから人格否定に直結させてしまう人もいたりするので、困ってしまいます。「不愛想な奴は不採用」という公式を持つ面接官は、きっと少なくありません。不愛想も程度の問題です。多くの人が不快感を抱くような不愛想は、逆に人に向き合う力が著しく低いことに起因する場合もあります。人を馬鹿にしたような態度であったり、偉そうな雰囲気を醸し出したりするような応募者はもちろん論外です。しかし、「少しばかり不愛想な人」「少しばかりサービス精神が足りない人」「お世辞やおべっかが下手な人」の中には、中小企業が垂涎する高付加価値人材が混じっています。不愛想嫌いの面接官が、わずかな不愛想が見えたとたんに、その応募者を排除するスタンスを貫くなら、その会社の機会損失リスクはかなり増大するでしょう。期待したような、愛想のいい反応が応募者から返ってこなかった時、少しがっかりしながらも「無理と無駄がないね」という解釈を持ち込めるようになってはじめて、面接官の人を見る姿勢が中立になります。不愛想だけでなく、例えば、無口や笑顔が少ない、人見知りの傾向がある、発信下手などの社会通念的に弱みとみなされやすい特性の裏側には、めったに見られないような強みが隠れていることが多々あります。その強みは、少しばかりの垢抜
けなさなど補って余りあるほど、絶対的なものである可能性があります。中小企業の社長や採用関係者の皆さんがそれぞれ大事にしている通念的人材観を思い切って封印すれば、驚くほど採用フィールドが広がるのです。本書は、「採用選考で応募者の内面を見抜く技術」を解説するものですが、その背景となる考え方の説明にも十分なページを割いています。具体的には、次の2章から4章までが、その部分にあたります。実際の採用選考で参考にしていただける「ノウハウ編」を何よりも早く読みたいとお考えの方は、どうぞ、まず5章と6章からお読みください。その後、2章から4章までをお読みいただくと、「応募者の内面を見抜く技術」の理論的な背景を、よりスムーズにご理解いただけるかもしれません。もちろん、この後の2章からじっくりと「応募者の内面を見抜く技術」に関する知識と理論を積み上げる読み方をしていただくのも大歓迎です。コラム「人を集める」ということ採用活動の二本柱は、「人を集める」と「人を見極める」です。私の仕事は、中小企業の採用支援ですが、「人を見極める」方の支援が専門です。そのため、「人を集める」ことについて、専門知識はほとんどありません。「人を見極める」支援は、採用アセスメントという仕組みを使うのですが、その実施には、ある程度の選考母集団が必要になります。最近では、新卒採用をお手伝いするケースが増えたのですが、そうなると「学生集め」が大変です。「少なくても四名は集めていただかないと選考ができません」「できるだけ大人数の応募があると逸材獲得の確率が高まります」などと、自分は人の集め方をろくに知りもしないのに、私はいつも厚かましく社長さんにお願いすることになります。そして、驚くべきことに、ほとんどの社長さんが、実施に足る人数の学生を集めてくださるのです。その中には、いわゆる3K職場を持つ会社や、構造不況の中で苦しむ業界の小さな会社も結構含まれています。「従業員五名以下の企業」は、私たちのクライアント企業の中ではボリュームゾーンです。3K職場、構造不況業種、超零細企業……。「学生さんは集まるかなあ?」と心配になるのですが、私の不見識をあざ笑うように、毎回、数週間後には、「集まりましたのでお願いします」とのご連絡をいただくことになります。日頃、「最近の若い者は!」とか文句ばかり言っていますが、その点においては、今の学生さんたちは本当に偉いと思います。どんな小さな会社であっても、「自分に合う」「将来性がある」「社会性が高い」「社長が尊敬できそう」などと思ったらピンポイントで受けに来ます。一流と呼ばれるような大学の学生も例外ではありません。三十年ほど前、志望先を尋ねられると、あらゆる業種の大企業を並べていた私のふやけ具合を思うにつけ(成績不良でどこにも行けませんでしたが)、「しっかりしてるよなあ」と心から尊敬してしまいます。話が逸れましたが、どうやら、頑張れば採用の選考母集団は集まるようです。「人に向き合えとか、リスクマネジメントとか言われても、そもそもうちみたいな会社は人をそんなに集められないし、とても人を見極めるとこまでいかないよ」と、ご不満を募らせる方もいらっしゃると思いますが、お気持ちはよくわかります。わかりますが、わかった上で申し上げます。人を見極める採用をしないと絶対にダメです。「何人も並べて選ぶ」のようなことができなくても、目の前の応募者が不採用になる可能性を常に持ち続ける採用活動にこだわらなくてはいけません。そのためには、「他の応募者の存在を意識できる状況」を常に作っておく必要があります。「来てくれた応募者が、経歴OKで良さそうな人だったら、即OK」のような採用ばかりを繰り返していると、おそらくその会社は、早晩、破滅に向かうでしょう。私は、人を集めるプロではありませんし、人集めに関する世の中の状況を全体観として捉えられているとも思いません。しかしながら、私の周囲では、小さな会社の社長さんが、いつも人を集めてくれているという事実があります。だから私は、「頑張れば人は集まる」「やり方はいくらでもある」と信じています。考えてみると、その小さな会社の社長さんたちには、一つの共通点がありました。どの方も、自分の社長人生を賭けて採用に臨んでいて、「小さな会社なんだから」と、採用の質に妥協を見せる方は、一人たりともいらっしゃいませんでした。その思いとエネルギーが、学生たちを引き寄せているのかもしれません。
「人を観る目」を鍛える「人を観る目の強化」というミッション本書では、「人に向き合う」という言い方がたびたび使われます。美しい表現なので、ついつい多用してしまうのですが、これを具体的な行動に言い換えれば、「人を観る」になります。「人を見る」ではなくて「人を観る」です。とたんに生臭くなりますね。わが国には、「人を観る」という言い方をあまり好まない人も多く、「あの人は、よく人を観るよね」は、時に揶揄になります。心の中で損得や打算、差別などに直結させることで、良くないイメージを抱くのでしょうが、私は、わが国における「人に向き合う文化」の未成熟と、個々の心の弱さが「人を観る」という言葉への過剰な反応を生むのだと思っています。突き詰めれば、人を観る目は、「自分に必要な人間と、そうでない人間を見分けるために」備わっているものです。この機能が弱いと、自分の人生の生産性が高まりません。自分を守り、自分を高めるために、人を観る目を鍛える必要があるのですが、そうしたいかどうかは人それぞれであり、人を観る目を鍛えるかどうかは、その人の考え方に委ねられます。しかし、舞台が採用の場面となり、採用側に応募者と向き合う必要が生じた時、「会社を守り、会社を高めるため」に、社長や採用関係者には、人を観る目を鍛える義務が生じます。その採用が、多くの利害関係者に影響を及ぼすことになるのですから、ミッションとして人を観る目の強化に取り組まなくてはなりません。今、ほとんどの会社では、採用に際して、母集団形成や選考システムの形成などに注力しています。その一方で、社長や採用関係者の人を観る目を鍛えることの重要性に気づき、お金や時間をかけている会社はあまり多くありません。「採ってはいけない人の侵入を防ぎ、採るべき逸材を確実に採用するために」採用関係者の人を観る目を鍛えるのは、至極当たり前で合理的な施策です。特に妥協を排して、全勝無敗を目指さなくてはならない中小企業の採用において、応募者に向けるパワーをいくら充実させても、させすぎることはありません。では、社長や採用関係者の人を観る目を鍛えるとは言っても、そんなことが短期間で可能なのでしょうか。そもそも人を観る文化に乏しい日本で長年くすぶっていた人を観る目に、強化の余地など残っているのでしょうか。その答えを、これから紐解いていくことになります。02視点を絞り込む大事なところだけに意識を集める私たちの武器であるアセスメントは、アセッサー(アセスメントを観察して、診断を下す行動分析のプロフェッショナル)の技術に頼るもので、コンピューターの力を借りません。本来、アセッサーになるためには、何年もの実務による訓練が必要なのですが、私たちは今、新卒採用に力を入れるクライアント企業の経営陣や社員さんを即席「社内アセッサー」に育て上げる仕事に力を入れています。私たちプロアセッサー抜きで、新卒採用アセスメントを自力で運営できるようになるまで、そしてその妥協なき科学的採用システムが完全に内製化されるまで、アセッサー養成は続きます。これこそが巷ではほとんど見られない「社長や採用関係者の『人を観る目』を強化するためにお金や時間を費やす」取り
組みです。アセッサー養成講座の初日は、まず生徒さんたちに何も教えない丸腰の状態で、アセスメントに挑戦してもらいます。さすがに事前の「アセッサー選抜アセスメント」で「アセスメント適性」が確認された精鋭たちですから、情報もそれなりに集まり、「あんな長所がある」「でもこんな短所もある」という感じでバラバラと所見が出てきます。しかし、評価が概して総花的になりがちで、「こんな人だと思う」という人物像のプロファイリングにはなかなか届かず、採否の判断材料として使えるには至りません。「人の行動をよく観なさい」と言われても、多様かつ無数の人の行動の「どこ」に焦点を当てるべきかがわからないのです。すると、生徒さんたちは、自分の興味を引いた行動や、直感的に自分が重要だと感じた行動に目を向けるようになります。ただ、自分の基準で視点を絞った結果、視点のばらけたレポートが並ぶことになります。そこで、今度は正しい視点の絞り方を教えます。視点の絞り方というと何だか難しそうですが、簡単に言えば「どうでもいいところは観なくていいから、大事なところだけに意識を集めなさい」ということです。「大事なところ(これから述べていく「視点の絞り先」です)」を集中的に教えてから、二度目のアセスメントに臨んでもらうと、注力すべき場所を教わって自信と安心を得た社内アセッサーからは、一度目とは比較にならないほど精度の高い(正解に近い)レポートが集まるようになります。情報処理の技術には、まだまだ個人差が目立つのですが、それでも「観るべきところ」という基準を共有しているだけで、各自の取り組みが同じ方向を向くようになるのです。人を観る時、視点の絞り込みを実践するだけで、これだけ生産性が変わってしまうという事実には、いつも驚かされてしまいます。その後、社内アセッサーの皆さんは、実戦訓練を繰り返し、情報処理のコツを掴み、よりふくよかな視点を身につけていきます。そして数ヶ月後、私たちのもとを卒業し、自分たちだけで人を見極めるステージに入っていくのです。もちろんプロのレベルに完全に達したというわけではありませんが、その頃には、少なくともリスクのある応募者を確実に見極める力はほとんどのメンバーに備わっており、会社を守る使命を果たすことができるのです。ほとんどの社内アセッサーが、視点の絞り込みを教えた直後から、人を観るという取り組みの方向性が合理的になります。自らの限られたエネルギーを、正しく使えるようになるのです。はじめは、人を「見て」いた社内アセッサーが、視点の絞り込み方を学んだとたん、人を「観る」ようになります。「人を観る目」を採用時の戦力化に向けて強化するためには、ボーッと視点の定まらない見方をするのではなく、まず観るべき場所を定めてから、そこにできる限りのパワーを注ぎ込んで、観察を図らなくてはいけません。視点の絞り込みは、「人を観る」という取り組みを生産的に行うための大前提になります。本書ではこの後、社長や採用関係の皆さんに正しい視点の絞り方をわかりやすく説明していきます。03アセスメントセンターとは応募者の入社後の生産性を予測する技術アセスメントは、米国でスパイを選抜するために用いられた手法だと言われています。「優秀なスパイを持つことこそ、情報戦で勝つための最重要要件!」ということで、かの国ではスパイの採用には特にこだわり、全米から優秀な頭脳を集めようとしたそうです。とは言っても、スパイの未経験者を採用するのに、その人が優秀なスパイになれるかどうかを事前に予測するのは、簡単なことではありません。日本なら「優秀な」というキーワードを頼りに、大学教授や医者、弁護士などの「頭の良さそうな」人たちに白羽の矢を立てたりしそうなものですが、そこは合理的な米国のこと、そうはしませんでした。
彼らは「スパイのミッションに耐えられる人を探すためには、そのミッションを遂行する上で越えなくてはならない困難を伴うケーススタディを用意し、そこでの行動を観察してスパイ入職後の行動を予測すればよい」と考えました。つまり、実際のスパイが体験する高いレベルのストレスがかかる設定の中で、実際のスパイが直面するものと同じような課題に取り組んでもらい、その結果、生産性が認められるか否かで採用を決めようとしたのです。働く場所や立場が変われば、それまでに「うまくいっていた人」であっても、まったく別の能力が求められることになります。未知の領域での生産性は、過去のいかなる経験や実績によっても担保されるものではありません。この当たり前の原則を理解していたからこそ、米国は、国を挙げてこの選抜方法を重用したのでしょう。そして、そのスパイ選抜手法が戦後、最強の能力診断手法として民間企業に活用されるようになったということです。アセスメントを行う側の最大の目的は、応募者や社員の今後の仕事ぶりを事前に知ることです。特にアセスメントを採用に使う場合では、今まで知らなかった人の「今後」を知るという難しいテーマに臨むことになります。行動科学には「行動は行動を予測する」という大原則があります。過去に見られた行動特性は、よほどのことがない限り、今後にも継承されるということです。ということは、過去の行動を見続けることができていたら今後がわかるわけですが、現実的にそんなことは不可能……。それならば、「その過去から今に至るまでの行動を、加速度的に凝縮させて今見えるようにしちゃえ!」というわけで、「ストレス設定によって被験者の過去から今に至る行動を凝縮させ、それを訓練されたアセッサーが観察する」という仕組みができあがりました。アセスメントで使われる演習課題は、一見どこにでもあるようなグループ討議などのケーススタディやシミュレーションゲームなのですが、そこに臨む応募者には作り込まれたストレスがかけられます。実際には、応募者が強烈な緊張感や不快感を感じるほどではないのですが、心理学の見地から開発された特殊なストレス設定は、応募者の遊べる余裕や、取り繕う余地を奪ってしまい、その結果、応募者がこれまで習慣的に見せていた行動が凝縮的に現れます。「ストレスをかけて過去から今に至るまでの行動を凝縮させる」とは、こういうことなのです。そこで観察された行動の特性や能力の傾向は、入社後にもおそらく出現することになりますので、「それが会社にとって
望ましいものなのか否か」の判断がなされればよいわけです。04アセスメントの行動分析を採用選考に応用する応募者の仕事の特性を知るための三つのプロセスアセスメントのグループ討議で、あるアセッサーは、応募者のAさんが見せた行動を三つ選んで取り出しました。Aさんの具体的行動Ⓐ討議開始早々、「どうやって進めていきましょうか」「時間配分はどうしましょうか」などと段取りばかり気にする行動が目立った。Aさんの具体的行動Ⓑ他のメンバーの発言を受けて追従的に話し出すことが多く、場の沈黙を自ら破って口火を切る場面は見られなかった。Aさんの具体的行動Ⓒ討議後半になると、自分の経験を語る場面が増え、本来のテーマから逸れた経験談を楽しそうに語る場面も見られた。五十分間のグループ討議で、アセッサーがキャッチしたAさんの行動情報は、もちろんこの三つだけではありません。アセッサーは、Aさんの見せた数ある行動情報の中から、「採否の判断に影響を与えそうな重要行動」の情報をまず三つ集めたわけですが、これが①視点の絞り込みです。次に行ったのが②行動情報の処理です。アセッサーは、この三つの行動情報から、ある共通点に気づきました。それは、どの行動も依存行動であるということでした。「具体的行動Ⓐ」は型に依存する行動、「具体的行動Ⓑ」は他人に依存する行動、「具体的行動Ⓒ」は経験知に依存する行動です。アセッサーは、Aさんの具体的な行動情報を三つ集めたことで、「依存行動が多い」という行動特性を知ることができました。さらにアセッサーは、③能力傾向分析を行います。これは行動特性を能力の傾向に結び付けるプロセスです。「依存行動が多い」という行動特性は、精神的な自立の遅れに起因している可能性があり、入社後に何らかの問題行動を見せるリスクが高いので、Aさんの採用は見送ることになりました。
これが、アセスメントで実践する人を観る技術です。そして、この技術は、アセスメントを使わない普通の採用選考の場面においても同様に使えます。人の行動を観察して、その人の仕事の特性を知ろうとする時は、例外なくこの人を観る技術を応用できます。通常の採用選考で、このプロセスを楽に踏めるように、もう一度、整理します。①の視点の絞り込みを行うための大前提として、なるべく多くの行動情報を集める必要があります。アセスメントには、「過去の行動を凝縮して見せる」という機能があるので、アセッサーの目には豊富な行動情報が次々と飛び込んできますが、通常の採用選考の場では、そのような状況にはなり得ません。そこで、ストレス環境が異なる複数の場を用意することで(説明会、複数回のグループワーク、複数回の面接など)、なるべく多様で長時間の観察機会を作り出し、応募者がより多くの行動情報を顕在化させるような「場所作り」に努める必要があります。視点の絞り込みに際しては、「採否に影響する重要な能力」に関係する行動を集めなくてはなりませんが、「視点の絞り込み先」については、3章〜4章で詳しく示されています。そこをターゲットにして情報を処理していくと、今までいかにどうでもいい情報に翻弄されていたのかを実感することができると思います。②の行動情報の処理では、「○○をした」という具体的な行動情報を集めて、「この人は△△な行動を取る人だ」のように行動特性を確定させます。ここで注意するのは、一つの行動情報から特性を決めてしまってはいけないということです。たまたま見つけた行動からその人の行動特性を不当に決定してしまうことを論理誤差と言い、「アセスメントで絶対陥ってはいけない世界」として戒められています。一つの点から線を引くことなどできないはずなのに、その点を見つけた嬉しさから、強引にどこかの方向に向けて線を引いてしまうと、次に見つけたいかなる点もその線上に巻き込んでしまうことになります。これが、決めつけや思い込みのメカニズムです。行動情報(点)が集まれば集まるほど、行動特性(線)は確固たるものになって、アセスメントの精度は高まります。「具体的な行動情報を集めて行動特性を確定させる」と言うと難しそうですが、「あの人は○○な人だなあ」という感想
を持った人は、必ず対象から発信された何らかの行動情報を処理した結果、その感想を持つに至っています。何を観てそう感じたのかは、たいていの場合、忘れてしまうのですが、「いくつかの情報をキャッチする」→「その特性を掴む」という情報処理のプロセスは、無意識的にでも必ず踏まれているはずです。このような頭の動きの意識化を図ることで、「具体→概念」の情報処理(概念化)の能力は活性化され、人を観る時の情報感性が高まります。③の能力傾向分析では、「こういう行動を取る人は、このような能力の傾向がある」と結び付けましたが、行動特性から能力傾向を導くには、十分な臨床経験や心理学的な知識なども必要とされます。本書では、5章と6章で、行動特性と能力傾向との因果関係(公式)を、軽やかに示しています。
仕事力が仕事の質を決める「あなたの強みと言える能力は何ですか」という質問に対して、「粘り強さ」「表現力」などと答える人がいる一方、「英語力」「経理の力」などというテクニカルなスキルを答える人もいます。これはわが国において能力の概念が定まっていないためです。ここでは応募者を観る時に、どこに視点を絞り込むべきかを説明していきます。流れとしては、まず大きなターゲットを捉え、そこから徐々に絞り込んで、最終ターゲットを探ります。●情報を生産性に繋げる力外から与えられる情報や、自分が持っている情報をうまく使って生産性を確保できる人が、本当に仕事ができる人です。昔から「仕事ができる人は情報をたくさん持っている」とよく言われてきました。仕事の質は、その人が持つ情報量で決まるということだと思いますが、この公式は少し言葉足らずです。入社以来、同じような教育を受け、同じような経験を得た同期入社三人組が、同じ状況の同じ場所で仕事に臨んだ場合、「三人の生産性がまったく同じ」になるということはあり得ません。同じ情報を持ち、同じ情報に接していても、その情報への向き合い方や情報の使い方が違うのですから、仕事の質も三者三様となるのが当然です。仕事の質を決めるのは、持っている情報の質量そのものではなく、各自に固有のものとして備わっている情報を使う力です。この能力が高ければ高いほど、結果的に情報との接点が増え、取り扱う情報量が増大します。前述の公式が「仕事ができる人は、情報をたくさん扱える」と言い換えられれば、それは正解と言えるでしょう。「情報を生産性に繋げる力」を、仕事をするための力ということで、私たちは仕事力と呼んでいます。この力は、人の価値観や心の成熟度など、人の奥底に根付いているものと深い関係があり、「仕事人格」や「人間力」などと言い換えられる性格のものです。仕事力は、仕事をする人の原動力となるものであり、仕事の質は仕事力によって左右されます。ですから、「仕事ができるかどうか」を見抜きたくて人を観る時の対象は、この仕事力に絞り込まれなくてはなりません。●経験知の限界ちなみに、「自分の持っている情報」には、自身の経験知も含まれます。経験知は貴重な武器ですが、「本当に仕事ができる人か否か」を決めるものは「経験知を含む情報を生産性の確保に向けてうまく使っていく仕事力」であり、経験知そのものではありません。応募者が経験知という武器を持っていることだけで、仕事の生産性が担保されることはまずあり得ません。貴重な武器も、使い手が悪ければ宝の持ち腐れになります。人を観る時にはどうしても華やかな武器に目が眩んでしまいがちですが、武器に気を取られると、本当に大事な「使い手の能力」に向き合うエネルギーが削がれます。これが多くの人の「人を観る目」を曇らせる大きな要因です。いかなる経験知も、保有しているだけでは生産性に繋がりません。経験知を活かすも殺すも、その人の仕事力しだいであり、経験知の価値は、仕事力のレベルによってゼロにも百にもなります。経験知×仕事力=生産性
●個性として確立されている仕事力ちなみに仕事力は、「仕事をすることで身についていく能力」という意味合いではなく、「人が仕事をするために人に備わった能力」です。その能力は、生まれてから、遺伝子や育つ環境、親の教育、接する人、接する情報などの影響を絶えず受け続けながら徐々に形作られ、成人の頃にはその人固有のものとしてほぼ確立されます。新卒採用に臨む企業の常套句である「仕事の経験のない大学生だから、大学時代にやってきたことから入社後を予測するしかない」は明らかに未熟な論理です。就職を控える大学生には、すでに仕事力が個性として備わっているのです。仕事力の質だけが、就職後の仕事場における生産性と直接的な因果関係を持ちます。学生の入社後の姿は、学生の仕事力と向き合うことでしか見えてきません。学生の「持ち物」ばかりに目を奪われていると、必然として採用ミスが連発されることになります。さて、二十歳前後で出来上がった学生の仕事力は、果たして変わるものなのでしょうか。質の低い仕事力が、時を経て教育を受ける中で、良い方に変わっていくことはあるのでしょうか。世の中には、「人は教育して変えていけばいい」と信じ、「私がこの人たちを変えなければいけない」という育成への使命感に燃える社長や上司の方が少なからずいらっしゃいます。思いの強い方、情に厚い方ほど、その傾向が強い気がします。しかし、人が二十年以上かけて自分の中の奥深いところに根付かせてきたものを、昨今、職場で知り合った他人が教育によって変えてしまおうなどというのは、かなり無理のある話です。仕事力は、性格や人格と同じように、その人特有の個性として確立されたものです。他人が変えようと思っても、簡単に変えられるものではありません。変わる可能性があるとすれば、それは自分が自分を本気で変えようとする場合だけでしょう。自分の弱みに気づいた人が、できるだけその弱みが行動として顕在化しないように自分を制御し続けることで、その弱みがだんだん薄れていくことはあると思います。あるいは、誰かの言葉に、あるいはその人自身に影響を受け、一生懸命自分を変えようとすることもあるでしょう。いずれにしても、一朝一夕にできることではありません。二十年かけて出来上がったものを変えるには、それなりの時間がかかると考えるのが普通ではないでしょうか。会社での教育や研修は、社員に知識を与えることはできても、社員の仕事力を変えることはできないのだという原則を認めようとしない会社ほど、採用時のリスクマネジメントを軽んじる傾向が強くなります。●不変の仕事力と向き合う覚悟本当に仕事ができる人を見極めるための視点の絞り込みは、仕事力へのアプローチから始まります。人に仕事をさせているのは仕事力であることを認め、それ以外のものに目を奪われることがなくなった時、はじめて「人を観る」というプロセスのスタートラインが見えてきます。あなたの目の前にいる、その人の仕事力は、どうやら教育によって簡単に化けることもなく、仕事の経験を積む中で進化することも少ないようです。あなたが今、その人と一緒に仕事をすることを決めたなら、あなたはその人の仕事力とずっと付き合わなくてはなりません。その仕事力が、あなたの都合のいいように変わってくれることは、多分ないでしょう。人の仕事力と向き合おうとする人は、仕事力を個性として尊重することが求められるだけでなく、強固な不変性を持つ仕事力を受け入れる覚悟が問われるのです。02仕事ができる人とは作業領域と問題解決領域仕事力には、様々なものがあります。多種多様な仕事力が集まって「情報を生産性に繋げる力」が形作られています。
ですから、仕事ができる人を見分けるには、「仕事力の中でも、特に重要な部分」を知る必要があります。仕事力に絞った視点をさらに特定の能力に絞り込むのです。「どんな能力に絞り込むか」を考えるにあたって、まずは「仕事ができるってどういうこと?」というテーマに立ち返ってみましょう。仕事を質という視点から二つに大別すると、作業領域での業務と問題解決領域での業務とに分けられます。●作業領域での業務いわゆる定型業務が求められる範囲が作業領域です。この領域での業務では、定められ教えられた段取りに従って、決められたゴールに向かいます。経験知に従って進むので、自力で方向性を決めたり、判断や意思決定を行ったりする必要はありません。思考は求められませんが、「覚えたことを思い出す力」は必要です。すべてにおいて経験知を当てはめられるので、困難に直面して停滞することはなく、費やした時間なりの成果が積み上がります。過去に経験のある業務ですから、これから取り組む分量がわかれば、その処理に費やす時間が推察できます。「これやっといて!」と上司から仕事を頼まれた場合、「あっ、これなら〇時に終わる!」と思ったなら、それは作業領域内の業務です。●問題解決領域での業務いわゆる非定型業務が求められる範囲が、問題解決領域です。未知の領域の問題解決が求められるので、経験知に依存することはできません。いま得られる多様な情報を処理して自らが方向性を決め、段取りも決め、自分の力で判断や意思決定に進むことが求められます。自分の頭で考えないと、状況を打開できません。経験知は、思考に使われる時に限って有効ですが、経験知をそのまま当てはめることができる場面はありません。過去に経験のない業務ですから、どれくらい時間がかかるか見当もつきません。それどころか、終わるのかどうかもわかりません。膠着や停滞の連続は当たり前で、何のアウトプットも出ないまま時間だけが経過してしまうという事態も頻繁に発生します。●仕事ができる人の定義作業領域は実務者の領域、問題解決領域は管理職の領域という構図が、現実の職場で実現されているかというと、決してそんなことはありません。確かに第一線での実務者の主戦場は、作業領域になることが多いのですが、昨今では、完全定型作業は機械に取って変わられつつあるので、作業領域のみに留まれる実務者はほとんどいないと言ってよいでしょう。定型業務であっても、随所に訪れるイレギュラーの場面では、思考が必要になりますし、自分で気が付いた問題に働きかけたり、業務改善に動いたりした時点で問題解決領域に足を踏み込んだことになります。「よく気が付くね」などと言われる実務者は、常に状況をよく見て先回りして動いているはずで、作業が求められる立場にいながらも、問題解決領域に身を置いている時間が長い人だと言えるでしょう。一方、管理職の本来の使命は、「問題解決領域で仕事をすること」ですが、その人たちが実際に問題解決領域で動いているかどうかとは別の話になります。「管理職は、実務に手を煩わされることなく、問題解決に専念すべし」という理想論どおりに動いている管理職は、日本では極めて少ないと思われます。日本の管理職の大きな割合を占めるプレイングマネージャーは、自らも第一線で成績を上げることが求められます。どのくらいの頻度で問題解決に舵を切り、どのくらいの時間、問題解決領域に滞在するかは、本人の意識や力量しだいになってしまっているのが現状でしょう。問題解決領域での仕事は、火消しではなく、火が出る原因を突き詰めて元を断つ仕事です。複雑な人間関係が絡むことも多く、物事が順調に進まないのが普通です。膠着、葛藤、停滞が繰り返され、心身が消耗していくのに、形ある成果をなか
なか獲得できません。目に見える成果が遠い問題解決領域を嫌い、費やした時間分の成果が積み上がるので仕事をした気になれる作業領域に安住する管理職が後を絶たないのも、これもまた普通なのかもしれません。そして、いつも現場で実務に汗をかいている管理職を賞賛しがちな日本特有の企業文化が、多くの管理職たちを作業領域に向かわせる要因の一つになっていることも、忘れてはならないと思います。優秀な実務者は、作業領域の業務を確実にこなしながらも、必要に応じて問題解決領域で動くことができます。定められた役割をこなすだけでなく、「自分で考え、自分で動く」という行動を数多く見せるほど、「仕事ができる人」という評価を得ることができます。一方、管理職が問題解決領域で動くことは本来当たり前なのですが、プレイングマネージャーが領域を選択できることになっている日本の現状においては、より多く問題解決領域を選択できる管理職が「仕事ができる」と称されます。どうやら、いずれの職域においても、仕事ができる人=問題解決領域で動ける人という公式が成り立つようです。私たちが実施している採用アセスメントでも、新卒採用からベテランの中途採用まで一貫して「問題解決領域で求められる仕事力を持っていること」というハードルが設定されます。一見、「マネジメントやリーダーシップを求めるには早すぎるのでは」と思われる新卒学生に対しても、問題解決領域での対応力が重視されます。どの採用企業も自分の頭で考え自分で動ける気の利いた新人を欲しがっているのですから当然でしょう。繰り返しますが、「仕事ができる人=問題解決領域で動ける人」という公式が成立しました。仕事ができる人の定義づけです。それでは、問題解決領域で動ける人には、どんな仕事力が備わっているのでしょうか。その仕事力こそが、最終的に視点を絞り込む対象ということになります。
03仕事ができる人に備わる仕事力①考える力(概念化能力)「考える力」の意味と価値問題解決領域は、体験したことのない未知の領域なので、経験知や前例に頼ることができません。そこで動くためには、「今どのような状況下にいるのか」「何が重要なのか」「今何をすべきなのか」などがまったく示されていない中で、自分で思考して状況を理解し、事の本質を把握した上で、自分の進む方向性を決めなくてはならないのです。ですから、問題解決領域で動くには、考える力が不可欠です。誰もが「考えています」「もっと考えなさい」と簡単に口にしますが、使う人によって意味する内容が違っています。「考える」という言葉が、「複雑な情報処理」や「ゼロからイチを産む」「イメージする」「仮説を立てる」のような意味合いで使われるとすれば、その「考える」は、概念化と言い換えられます。●概念化能力とはいくつかの具体的な事象や情報から共通な要素を取り出し、その共通要素を汎用性の高い言い方で説明した理論が「概念」です。そして目に見える「具体」から、それまでにはなかった「新しい概念」を創り出すことを「概念化」といいます。では、なぜ「目に見える」「ハッキリした」ものを、わざわざ「目に見えない」ものに変えていかなくてはならないのでしょうか。それは、たった一つの情報を対象としている時には存在しなかった大切なものにアプローチするためです。目に入った一つの事象に反応し、「頭の中にはその事象だけ」となってしまうと、その事象に潜む、本当の意味本質的問題リスクさらなる可能性
などにまったく触れることがないまま、安易な収束に向かうことになり、浅い世界から抜け出せません。一方、一つの情報だけに留まらず、複数の情報を集めて統合すると、そこにそれまでは見えなかった深い世界が現れるのです。●情報処理の二つのタイプ情報の処理の仕方で、人の頭は二種類のタイプに大別されます。一つは、情報を単体として取り扱う受験頭型、もう一つは、複数の情報を集めて新たなものを創り出そうとする仕事頭型です。
①受験頭型の情報処理受験頭型の人は、一つ一つの情報を個別に扱い、形を変えることなく動かします。このタイプの人の多くは、「インプットする」→「記憶する」→「思い出す」→「アウトプットする」のように情報を移動させることを得意とします。一つの情報に反応してすぐ動き、手早く解答を求めようとする人が多く、良くも悪くもスピード感のある行動特性を持つと言えるでしょう。大量の情報を迅速に移動させられる人は、高い学力を持つことが多いので、このタイプの情報処理が得意な人たちの頭の使い方を私たちは「受験頭」などと呼んだりしています。採用関係者の目を引く高学歴、語学力、資格なども、この受験頭の良さで勝ち得たものと言ってよいと思います。受験頭型の人は、仕事を覚える時や覚えた通りに仕事を進める時に、その威力を発揮します。例えば、学力の高い新入社員は、仕事の手順を早く覚えます。そして、その情報をそのまま当てはめていく作業領域の仕事では、得意なタイプの情報処理を駆使できるので、あまり苦労することもなく、楽に優位性を発揮することができるようです。そのような人にとって、作業領域は実に居心地の良い場所となるはずです。受験頭型の情報処理では、あくまでも情報は単独で取り扱われ、他の情報と交わることはなく、常にそのままの形で動かされるに留まります。未知の領域である問題解決領域では、経験知や前例をそのまま当てはめることができないため、視野に捉えた情報を集めて、自分の力で方向性を定めるのに必要な材料となる概念を自分自身で創り出さなくてはなりませんが、その時、受験頭型の情報処理は無力化します。いわゆる一流大学を出た新入社員の評価が、入社後しばらくして急落することがよくあります。その背景には、問題解決領域の壁を超えられない受験頭型の情報処理の限界があるのです。②仕事頭型の情報処理(概念化)それでは、後者の「情報を集めようとする人」は、何のために情報を集めるのでしょうか。それは、情報を個別に捉えていたのでは見えない世界があり、概念化によってその世界を覗けるようになるからに他なりません。何かに依存することなく、自力で動こうとする時、氷山の一角のごとく表層部分だけ顔を出している情報にいちいち反応していたら、いつまでたっても正しい道を歩めません。一つでも多くの情報を巻き込み、一つでも多くの情報を概括する概念を得ることで、対象は全体に近づきます。全体観を得られて、はじめて問題の中心、すなわち本質がどこにあるかを知ることができます。そして、本質がわかって、はじめて物事に対する軽重識別がかない、今まず何をやるべきかが見えてくるのです。未知の問題解決領域で、自力で動き出すためには、全体を知り、本質を知り、今何をやるべきかを掴んだ上で、自らがどこに向かうかという目標設定を行う必要があります。情報を概念化して問題の全体観を掴まずして、目標設定はかないません。問題解決領域で動く人は、自力での目標設定が可能になるように、情報を集め、概念化に動きます。作業に留まらない「いい仕事」をするために必要なこの情報処理を、私は、受験頭型の情報処理に対して、仕事頭型の情報処理と呼んでいます。●考える力が弱い人の入社後を考えるリスクマネジメント「仕事ができる人は、考える力(概念化能力)を持っている」という切り口でここまで述べてきましたが、「考える力に欠けるとどうなるのか」という切り口にも意識を向けなくてはなりません。序章で述べたように、待ったなしの中小企業の採用には、リスクマネジメントから入る採用活動が求められます。その際に、リスク人材の入社後をイメージできると有利なので、次に、「考える力(概念化能力)」に欠けている人(考える力が弱い人)の問題行動例リストを示します。
04仕事ができる人に備わる仕事力②大人の意識(成果意識)大人になるということ程度の差こそあれ、誰にも自己愛はあり、誰しも基本的には自分が一番可愛いはずです。しかし、人が子供から大人になる過程において、他者の立場に立って物事を考え行動できる心の成熟が見られるようにもなります。人は、この相反する世界に折り合いをつけて生きていかなくてはならないのですが、このバランスが仕事力を大きく左右します。誰もが、できるものなら、自分の興味や関心のままにやりたいことをやりたいわけですが、仕事場ではそうはいきません。労働の対価としてお金をいただく以上、私利私欲を制御し、組織が自分に求めるものを理解して、そこに力を注ぎ込むことが組織人としての責務であるはずです。●組織のために動ける人の「大人の意識」自らに求められているミッションを意識し続ける仕事力を成果意識と言います。課せられたものから意識が離れない人は、利他的なところに目的を置いて動いています。1章でも少し触れましたが、人のために責任を背負って動く人は、取り組みが持続的になり、集中力も高い水準で維持されます。反対に、利己的な自己目的で動く人は、自分の興味や関心が薄れてくると、低下するテンションを押し留めるものを持ちません。その結果、取り組みは持続性を欠き、フェードアウトも日常茶飯事となります。誰かのために動くのでなければ、取り組む熱意を保ち続けるのは難しいということです。一般的な能力要件としてよくお目にかかる持続性や責任感などという概念は、この成果意識の中に含まれます。自分勝手で幼稚な欲望にけりをつけ、自己中心的な自分から卒業した大人に備わる意識なので大人の意識とも称されるこの意識が、大人の成熟した言動を司ります。いくら「考える力(概念化能力)」が高く、自力で動く力がある人であっても、その動く方向が組織の利益に向いていなければ、組織人としての生産性を期待することができなくなってしまいます。
問題解決領域で動くためには、「大人の意識(成果意識)」と「考える力(概念化能力)」が両輪として備わっている必要があるのです。よく「良い仕事をするには、意識と思考の両立が必要だ」と言われますが、意識が「大人の意識」に、思考が「考える力」にあたります。●子供激増中の現状私たちは、連日にわたって新卒採用アセスメントに立ち合い、多くの学生を見続けていますが、ここ数年、「明らかに自己中心的と診断される学生」の割合が急激に増えています。対人テクニックは人並み以上なのに、実は他人や情報にまったく心を寄せられない「お子さま大学生」がこれほど多くなっていることに、正直驚きを感じる毎日です。「人のために(全体のために)頑張ることができる」という力は、元来は日本人の美徳だったはずです。自分のことしか考えられない組織人が蔓延し始めている現状の背景には何があるのでしょうか。●大人になれない人の入社後を考えるリスクマネジメント「大人の意識」は、本能的な興味や関心を制御する力ですが、ゼロかイチか、という類のものではなく、その程度が問題で、制御力が弱ければ弱いほど、その人の行動にリスクを内包するものが増えます。ところで、次のリストの内容がご自身にいくつか当てはまってしまう方も多いと思います。誰にでも多少は当てはまってしまう項目や、自身で認識の妥当性を担保するのが難しい項目も交じっていますので、一喜一憂や過剰反応をされることなく、あくまで程度の問題とご理解の上、ご参照ください。
05「考える力」と「大人の意識」は、そう簡単に姿を見せない平時には顔を出さない仕事力仕事力には、識別しやすいものとそうでないものがあります。仕事力の傾向は、行動の特性を捉えることによって推察できますが、平時でもキャッチしやすい行動と、平時においては掴むことが極めて難しい行動があるのです。見えやすい行動は、普段の仕事場でも頻繁に顔を出しているはずで、上司や周囲の人は、その特性を認識することによってその人の仕事力を知ることができます。採用面接でも、その種の仕事力は試験官の目に留まりやすく、採否の判断材料として安易にクローズアップされることも少なくありません。一方、仕事力の中には、平時にはなかなかその姿を見せないものもあります。その仕事力が良いほうに振れる場合も、またその逆の場合も、そこから発生する行動は有事においてはじめて人の目に留まることが多く、同じ仕事場にいる人たちでさえ、その行動の特性や仕事力の傾向を認識していないことが少なくありません。まして、採用面接のような、初対面の人をわずかの時間で観なくてはいけない時に、その見えにくい仕事力を捉えることは至難の業であると言えるでしょう。このあたりに、短時間の面接で人を見抜く限界があるのだと思います。●可視性と識別性が極めて低い「考える力」表4をご覧ください。情報処理を担う「見えやすい仕事力」には、前に受験頭型として言及した「情報の形を変えずに移動させる」タイプの仕事力が並びました。これらの仕事力は、「スピード感を持って、きれいにたくさん話す」という行動として平時においても普通に顕在化します。ですから、それらの行動を見て、誰でも容易に「頭がいいんだな」という判断を下せます。「頭の良さにもいろいろある」ということで、そこまでは正解と言えるでしょう。しかし、受験頭の機能は限定的であることを理解しようとしない人は、どこかできっと怪我をすることになります。前述
のように、見えやすい方の情報処理力は、作業領域には対応できても、問題解決領域では無力化しやすいからです。採用選考の担当者は、「スピード感を持って、きれいにたくさん話す人」が大好きなので、その行動を目にしただけで「頭が良いね!内定!」となってしまうことが多いのですが(本当です)、もしその応募者に「考える力(概念化能力)」が欠けていたとしたら、きっとその人は問題解決領域では動けない、「仕事のできない人」です。見えやすい頭の良さだけを見て大喜びで採用した人が、入社後しばらくして著しく精彩を欠き、周囲から「自分で何も考えられない頭の悪い奴」というレッテルを張られてしまうという悲劇が頻発するのも、良い仕事をするために備わっていなければならないとされている「考える力」が、極めて見えにくいものだからでしょう。アセスメントを介さない普通の会話から、その人の「考える力」の水準を識別するのは、極めて難しい取り組みです。その理由として、まず「概念化は、人が内向する中で進むから」ということが挙げられます。概念化のプロセスは、人の内向とともに頭脳の奥深いところで進行するので、プロセスが行動にほとんど反映されません。そしてもう一つ、「概念化がなされたのか否かを、アウトプットから判断することが難しい」という理由もあります。アウトプットが目新しい論理の体をなしていれば、それが概念化の産物かと言うと、決してそうではないところに難しさがあります。一見それっぽい論理であっても、それが今、概念化によって生み出されたものとは限りません。「概念化する」という苦労を伴うプロセスは踏みたくはないけれども、格好のいいことを言いたい、書きたい、と考える人はたくさんいます。そのような人は、自分で概念を生み出すかわりに、どこかで聞きかじったような既成の概念を持ち込んで、あたかも今、考えたことのように発信します。アセスメントの現場でも、一般論や経験知などの過去に仕入れた概念を持ち込んで、ドヤ顔とともにあたかも自説のごとく発散する人だらけです。アセスメントをすれば騙されることはありませんが、丸腰でそのような人たちと対峙したら、「考える力を持った人」と誤認して当たり前です。自分で考えず、中古の概念を振り回す人がどこにでも当たり前のように存在する中で、本当の概念化を貫く人を見極めることが難しくなっているのだと思います。生産性に直結する仕事力ゆえ、「仕事ができる人には必ず備わっている」と言われる「考える力」には、可視性や識別性が極めて低いという一面もあるのです。長い時間、継続的に行動を観察できる日常があったとしても、よほどマネジメント意識が強く、人を観る視点の定まった人でなければ、「考える力」のレベルを見極めることはできません。実務にも追われる忙しい上司に、一人の部下の行動をそこまで追えと言っても現実的には無理な話でしょう。まして採用面接などの一発勝負で、「考える力」を見切ることはほぼ不可能と言えます。仕事頭型とも言うべき「考える力」を採用選考で見極められないという構造的問題が、特に大企業に顕著な一流大卒の指示待ち社員の大量発生に繋がっているのだと思います。●短時間では見分けられない「大人の意識」一方、意識・意欲に関わる「見えやすい仕事力」のグループには一見、やる気を感じさせるものが連なります。これらは、エネルギーの充実を示し、やる気のある自分を見せ、力強く巧みに発信するという行動に繋がります。瞬間的に大きなエネルギーが示される時のインパクトは、時に成果獲得への貴重な要因になり得ますし、物事をより強く伝えるためには顕示性やアピールが必要な場合もあります。しかし、これらの仕事力だけで質的な生産性が担保できるとは言えません。安定的な成果管理を実践するには、単発的なパワーだけでなく、永続的なエネルギーの投入を司る何かが必要になります。ところで、これらの「見えやすい仕事力」には、「見る人を安心させる」という機能があります。一方で、採用選考の試験官をはじめ、初対面の人と対峙しようとする人の多くには、まず相手に安心感や気持ちの良さを求めてしまうという性質があります。ですから、この両者の相性は抜群なのです。明るく元気で、たくさん話してくれる人には、とりあえず「いい人」という安心感を抱くでしょう。「頑張ります」と言ってくれれば安心し、その言葉を聞けないと心配になってしまいます。1章の例のような「やってみなくてはわかりません」は、残念ながら現状ではやはりNGとなってしまいます。
これらの「見えやすい仕事力」は、表面的でわかりやすい効果性をいち早く確保できる反面、「掘り下げる」「本質を求める」「深く理解する」などの行動との関わりは薄く、質の高い生産性を求める場面では力不足です。表の中に、「これらの仕事力によってリーダーシップがあるように見える」という表現がありますが、真のリーダーシップが、このような表層的で瞬発的なパワーだけで成り立つはずのないことは誰の目にも明らかで、力不足の良い例と言えるでしょう。この力不足を補うために、「永続的なエネルギーの投入を司る何か」が必要となるわけですが、言うまでもなくそれが「大人の意識(成果意識)」です。「考える力」とともに、問題解決領域で動くのに不可欠なこの仕事力は、やはり「考える力」と同様、「見えにくい仕事力」です。「見えやすい仕事力」に、「見せるため」という自己目的が伴うことが多いのに対して、「大人の意識」は利他的な目的に向かっての集中的注力を生み、「よく見せたい」という顕示性が入り込む隙間を与えません。そこに「見せたいと思ってないから見えにくいのだ」という至極当然の因果関係も存在します。また、「見えやすい仕事力」が生み出す行動に、短い時間で「見せきる」ものが多いのに対して、「大人の意識」が高い人の行動特性は、「長きにわたって持続的に粘り強く」です。単発型より継続型の方が、その全体把握にエネルギーと忍耐が求められるのは当然です。これらの要因から、「考える力」と同様に、「大人の意識」の可視性や識別性が低下するのです。●採用ミスが発生する構造的原因人の行動を長時間、追いかけ続けるのは大変です。一方、観ようとするエネルギーを使わなくても目に飛び込んでくるものに対しては、どうしてもそこに意識が向いてしまいます。採用面接でも、「採用されたい」と切望する応募者に現れる「やる気を示す行動」は、嫌でも試験官の目に入ってきます。その上、前述のように、それらは試験官を安心させ、気持ちよくさせるパワーを持っています。そこに魅かれ始めている試験官には、もう「見えにくいもの」を観ようとする意識や意欲は残っていません。そもそも、長い時間をかけないと現れないものを、短時間の採用面接で見分けようとすること自体が無理な話です。そうやって、「やる気」を評価したつもりで採用した人が、入社後間もなく「飽きっぽく、仕事にムラがあり、すぐサボる、無責任な奴」であることを露呈するという流れは、ごく普遍的な採用ミスのパターンとして、今も昔も採用現場に定着しています。問題解決領域で動くために欠かせない、本当に仕事ができる人が必ず持っている仕事力である「考える力」と「大人の意識」が、揃って「見えにくい」という特徴を持っていることが、人を観ることを難しくしているのだと思います。
06「対象に向き合う力」に視点を絞ればすべてがわかる考える力と大人の意識の共通起点「考える力」と「大人の意識」がそろって「見えにくい」という性格を持っているとなると、「人を見抜く技術」を採用関係者や社内アセッサーに伝授していくことが難しくなります。私たちは、悩みました。そして、試行錯誤の末、ついにアプローチしやすい「究極の視点の絞り込み先」を見つけたのです。それが「対象に向き合う力」です。人は考える意欲が喚起されると、まず対象となる情報に向き合おうとします。「大人の意識」も他者から発せられる情報に向き合うことからスタートします。「考える力」と「大人の意識」を活性化するプロセスの共通起点に対象に向き合う力が位置することに、私たちは気づいたのでした(図8参照)。「対象に向き合う力」は、「考える力」と「大人の意識」の起点にあるため、「対象に向き合う力」に視点を絞ることで、「考える力」と「大人の意識」を別々に捉える必要がなくなります。特に、応募者が「対象に向き合う力」に欠けることがわかった時点で、その応募者に「仕事ができる人が持つ仕事力」に欠けているということがわかり、効率的なリスクマネジメントが可能になります。○か×かを判断すれば良い採用選考においては、「対象に向き合う力」という入り口を通れるかどうかの一点に視点を絞れば、少なくても「考える力(概念化能力)に欠けている人」(3章03の表2)や「大人の意識(成果意識)に欠けている人」(3章03の表3)を採用してしまうミスを防ぐことが可能になるのです。「対象に向き合う力」には、心の成熟度が反映されるのですが、そこから出てくる行動は「考える力」や「大人の意識」が産み出す行動よりもずっとキャッチしやすいと言えるでしょう。心からダイレクトに生み出される行動なので、自分の心持ちと比べたり、当てはめたりできる点も、わかりやすい要因かもしれません。
視点の絞り先の行動が比較的パターン化されやすく、学習によって対応できる一面があるのも、即席アセッサーにならなければいけない社長や採用関係者の皆さんにとっては好都合でしょう。対象に向き合う力を見極めるパターンを、5章と6章でいくつか紹介します。これで思いっきり視点を絞り込むことができるわけですが、もし「考える力」や「大人の意識」がハッキリ見える場面があったら、その情報はしっかりとキャッチしておいてください。「なるべくたくさんの情報を繋げた上で推察する」が、「人を観る技術」の基本ですから、それらの情報も、「対象に向き合う力」に関する情報と照らし合わせて、能力評価の精度を高めることに役立てることができると思います。07アセスメントが大量に炙り出す「対象に向き合わない人」半数以上の学生が対象に向き合わないという現状「対象に向き合うなんて当たり前」という声が聞こえてきそうですが、新卒採用アセスメントの現場において、「対象に向き合える人」は、今、確実に少数派です。アセスメントのグループ討議では、学生にまず討議の材料となる経営課題を読んでもらい、それから議論に移ります。経営課題は、A4の紙二枚にわたってぎっしりと書かれており、準備時間の十分間で読み切るのはかなり大変です。それでも採用がかかったアセスメントですから、学生の誰もが課題が書かれた紙に線を引き、何かを書き込みながら、一生懸命課題に向き合っている形は作ってくれます。討議が始まると、難解な経営課題をテーマにしているのにも関わらず、ほとんどの学生が活発に発言し、とりあえず「言葉のやりとり」は生まれます。そして、誰もが他のメンバーが話している時にはそちらに顔を向けて相槌やうなずきなどの反応行動を励行し、一見、他者に向き合っているように見えます。グループ討議において向き合うべき対象は、課題の情報と他のメンバーの意見ですから、このような状況なら多くの被験者が「対象に向き合える人」と診断され、合格となりそうなものですが……、事はそう楽観的には進みません。
プロアセッサーから見ると、課題を一生懸命読んでいるように見せている参加者の多くが、実は恐ろしいほど読んでいません。発言する他人に顔を向け、一生懸命、話を聞いているように見える参加者の多くが、他者の方に意識を向けていないのです。課題を読まず、他者に興味のない人たち、すなわち「対象に向き合えない」人たちが、五十分間対象を眺めるポーズを取り続ける様は、私にはかなり異様に見えます。私は、毎年二千人以上の学生をアセスメントしますが、思い切り甘く見積もっても、六割以上の人は、アセスメントの場で対象にしっかり向き合うことができません。過去の行動を凝縮させているアセスメントの場で「対象に向き合えない」という特性が浮かび上がった人は、過去何年にもわたって、「対象に向き合わない」時間を過ごしてきたということになります。そして、これからも対象に向き合えない人、すなわち、「考える力」にも「大人の意識」にも欠ける人であり続ける可能性が非常に高く、入社後もアセスメントの場で見せたような「対象に向き合うふり」をし続けるのでしょう。これはかなり怖いことだと思います。それにしても、アセスメントの場で「対象に向き合えない人」は、五十分間、何をしているのでしょうか。「課題を読まない」と言っても、難しいから読めないわけではありません。私たちの新卒採用アセスメントを受ける学生の中には、偏差値が高い大学に通う人もたくさんいます。その人たちにとって、たかだかA4の紙二枚の経営課題が「難解で読めない」ということなどあり得ないのです。また、「人に意識を向けられない」と言っても、コミュニケーションをとるのが苦手な人ばかりのはずはなく、むしろ今の大学生や若い人は、「他者に対する怖気」を持つことが少なくなっているのではないでしょうか。つまり、アセスメントで、ひいては日常生活の中で、対象に向き合えなくなってしまう人の中では、「本来ならば能力的に普通にできることが、何らかの事由によってできなくなってしまう」という状況が起こっているのだということになります。「アセスメントで対象に向き合わない人は、その間、何をしているのか」「対象に向き合わない人の心の中では、何が起こっているのか」その答えは、次の章で紐解いていきたいと思います。
01対象に向き合わない人たちのグループ討議自分の殻に閉じこもる人たち前述のように、グループ討議のメンバーにとって、向き合うべき対象は、「与えられた課題に書かれている情報」と、「他のメンバーから出される情報」の二つしかありません。A4の紙二枚にわたって書かれている情報をよく読んで、まず前提や問題の全体像を掴み、他のメンバーから出される意見をよく聴いて、その内容を自分の中に取り込みながら自説の理論を太らせていくのが、グループ討議の参加者のあるべき姿でしょう。しかし、そのようにできる人は、残念ながら、間違いなく少数派なのです。課題に目を通すための準備時間は十分もありますし、討議が始まってからも、いくらでも読み直すことは可能です。それなのに、情報を読んだふりをして、その内容としっかり向き合わないまま、五十分間、その場に居続ける人が多いのはどういうわけなのでしょう。きちんと情報を読んでいない人は、それほど難しくない部分の内容を平気で何度も取り違えたり、一つの単語に囚われて、文章全体の意味を理解できていなかったり、全体観がなく、どうでもいいミクロな視点に固執したりするなど、真っ当な情報処理ができていない証拠をいろいろと残すので、いくら取り繕ってもアセッサーにはすぐにばれてしまいます。また、討議が始まれば、ほとんどのメンバーが、他のメンバーと良好なコミュニケーションを形作ることを強く意識します。誰かが発言すれば、そちらに顔を向けて傾聴をアピールする人や、「私はわかっていますよ」を表現する相槌に力を注ぎ、誰かがしゃべっている間中、ずっと首を振り続ける人には、毎回必ずと言っていいほどお目にかかります。「今の意見は良いと思います」「○○さんの意見を聞いて、私も×××だと思い直しました」など、他者の意見をリスペクトする自分をアピールすることに余念のない人なども時々現われますが、このあたりになると、失礼ながら違和感を禁じ得ません。これらが当たり前の光景になってしまっているのは、「採用選考のグループ討議では、コミュニケーション能力が見られている」という認識を持つ人が多いからでしょう。しかし、コミュニケーション能力をアピールする人だらけのグループ討議にあって、本当に人と向き合っている人はほとんどいません。人の話を聴いているように見せていても、その後の発言に人の話の内容がまったく反映されていないことがほとんどなので、「私は人に向き合っています」的な行動はエセだったことが、やはりすぐばれてしまうのです。情報を読んでいるように見えても、実はまったくその内容を掴んでいない、メンバーの話に寄り添っているように見えてもまったくその話を聞いていない、そんな人たちによって繰り広げられる茶番のようなグループ討議を連日拝見していると、正直、心が寒くなったりもします。それでは、グループ討議の唯一最大のミッションである「対象に向き合うこと」を放棄した学生は、五十分間の討議の間、一体何をしているのでしょうか。「自分の殻に閉じこもって、自分の欲望のままに動いている」が、その答えです。グループ討議で対象に向き合えない人を五十分間観察していると、その人がずっと一人遊びをしているように見えてきます。表面的な行動としては、課題を読み、他のメンバーと会話をしていますが、実は情報や他者との実質的な接点はなく、心の中には課題の情報も他者の存在もありません。多くの場合、グループ討議の課題とはまったく関係ないことがその人にとっての一番の関心事になっていて、そのことが「対象に向き合うこと」よりも優先されているから、課題の情報にも他のメンバーにも興味を持てないのです。では、多くの人にとって「対象に向き合うこと」よりも優先される関心事とは具体的に何なのでしょうか。
02対象に向き合わない人の心の奥で起こっていること自分の世界の中だけで作られる不毛な自己目的対象に向き合えない人にとって最大の関心事は「自分」です。言い換えれば、自分のことで頭がいっぱいなので、肝心の対象に向き合えないのです。グループ討議で情報も読まず、人の話も聞けない人の心の中では、大体、次のようなことが起こっています。「自分をよく見せなくてはいけない」という意識が過剰で、自分がアセッサーからどう見られているのか、良い評価を得られているのか、気になって仕方がない。「人から嫌われないようにしなくてはいけない」という意識が過剰で、行動を「いい人仕様」に取り繕うことで精一杯。「すべて自分の思う通りに討議を仕切って他のメンバーを支配しなくてはいけない」ので、自分の決めた段取りどおりにメンバーを動かすことしか頭にない。「とにかくいい格好をして人より目立なくてはいけない」ということしか考えておらず、とにかく誰も目をつけないネタを探して目新しいことを言いたい。「他の人より少しでも賢く立派に見せなくてはいけない」ので、自分のありったけの知識と経験を総動員して、他の人とは違う難しそうなことを言いたい。どれもエネルギーの方向が自分に向かい、自分の欲望の周辺で大きなパワーが使われているようです。これらの共通点として目につくものは、「人から褒められるために○○をしなくてはいけない」という、承認欲求を伴う「囚われ」です。プライドを満たすために、あるいは劣等感を埋めるために、自分の世界の中だけで不毛な自己目的を作ってしまい、その目的に向かって汲々と動くことが何よりも優先されてしまっているのです。
「自分のことだけに一生懸命になって対象に向き合えない」という心情をイメージできない方は、自分が重い病気を患った時のことを想像してみてください。体がとてもしんどいばかりか、「悪い病気かもしれない」などという不安に襲われている時、ほとんどの人は「自分のこと」で頭がいっぱいになります。自分可愛さのあまり、世間で起こっていることや他人のことに関心を寄せる余裕などすっかりなくしてしまうのが普通でしょう。自己愛の存在が大きくなる時、対象に向き合う意識は脇に置かれてしまうのです。言うまでもなく、病気ではなくても普段から「対象に向き合わない」人の中では、常に自己愛が最優先されているということになります。自己愛や承認欲求は誰もが持っており、持っていて然るべきものですが、一方で、「大人の意識」でも述べたように、自分のことしか考えられない自己中心的な人間から、人の立場や心情に心を寄せられる利他的な人間へと変わっていくのが、大人になるということです。自己愛と利他の心は、大人になっても時に相反し、それが葛藤を招いたりするわけですが、仕事をする年齢になったいい大人が、「常に完全に自分の殻に閉じこもって、課題や他人にまったく向き合えない(興味が向かない)」などという状況になってしまっているのは大問題です。そしてもっと問題なのは、そのような状況に陥っている仕事人や仕事人の予備軍が、決して少数派ではないということです。だから「大人の皮をかぶった子供たち」に会社を荒らされたりしないよう、社長や採用関係者は日頃から「人を観る目」を鍛えておかなくてはならないのです。03「対象に向き合う力」を見抜くには、行動の目的に視点を絞るその応募者は、何を目的に動いているか?「対象に向き合う力」を持つ人は、自分の劣等感や虚栄心を満たすための自己目的に縛られることがありません。組織や全体から求められているミッションの解決をごく自然に目的化し、そしてごく自然に情報や人に向き合うのです。ここで、「対象に向き合う力」を持つ人を見極めるために行動を分析する際、最も簡単で、かつ精度を見込める方法をお教えしましょう。「その人の行動が自己目的からのものか、あるいは組織や全体への貢献を目的とする利他的なものなのかを、一生懸命考えながら行動観察に取り組むこと」、実はこれが人を正しく観る上での人知れぬ極意なのです。私たちがアセッサー養成を始める時、真っ先に教える「アセッサーに必要な視点」の中に、次の一節があります。その応募者は、何を目的に動いているか?組織で(アセスメントで)動く人は、自分の幼稚な欲求や劣等感を充足させるために動いている(自己目的行動)人と、他者・全体・組織のために動いている(利他的行動)人とに、大別されます。採用アセスメントは、この見極めから始まります。その人が何を目的として動いているかに視点を絞ることが、すなわち、「対象に向き合う力」に視点を絞ることになります。
04自立した心を持つ人だけに宿る「対象に向き合う力」採用で求めるべきは「自然体の人」人生は、選択の連続です。職場で判断や意思決定が求められる場面はもちろんのこと、「どのくらい頑張ろうか」という自分自身のモチベーションに至るまで、次々と選択に迫られます。その時、「こうしなくてはいけない」という思い込みに囚われることなく、また「どう見られるのだろう」と人目を気にすることもなく、自立した心を持って選択と行動を繰り返せるということが、実は大変に価値のあることなのです。自立した心を持って動けるためには、まず自分が自分を受け入れていることが必要です。「自分を受け入れる」というのは、「自分は自分であって自分以外の何ものでもない」という、究極の自己肯定のことです。自分を受け入れていれば、自分を人と比べる必要はなく、人の目も気になりません。「あんなふうになりたい」と上昇志向を持つのはもちろんいいことですが、「こうでなければいけない」「こうしなければいけない」というように自分で勝手に決めた「あるべき自分」と現状とのギャップに絶えず心を持っていかれていたのでは、目の前にある肝心なことにしっかりと向き合えません。自立した心なしには、「対象に向き合う」ことはかないません。幼稚さが匂う幻想への執着を捨てて目の前の対象としっかりと向き合い、余計なことに邪魔されず必要なことにパワーを集結できる人こそが、生産性の高い人であり、組織はそんな人を求めています。組織は、自立した心を持つ人を求めているのです。自立した心の持ち主には、物心ついた時からそれを授かっている幸運な人もいれば、努力して手に入れた人もいるはずですが、どちらにしてもその価値あるものを持つその人たちが、「本当に仕事ができる人」である可能性は極めて高いと思われます。なぜなら、前述のように自立した人は、本当に仕事ができる人の条件として集約される「対象と向き合える力」を必ず持つことになるからです。
一時、「ありのまま」というフレーズが流行りました。よく使われる「ありのままに生きなさい」のセリフには、とても耳に優しい慈悲深き応援歌のような響きがありますが、実は、多くの人にとってとても残酷な言葉です。「ありのまま」でいられるのは、自立した心を持っている人だけで、そうでない人が「ありのままでいなさい」と言われても、どうすれば良いかわからなくなってしまうからです。厳しい言い方ですが、子供に「今日から大人になれ」と言っても無理です。「ありのままでいられる」というのは、大人だけが持つ立派な能力なのです。そしてその能力を最も汎用的に証明する行動特性の一つが、自然体の行動です。人から好かれ、信頼を集める人の多くが自然体の人です。心に邪念を持つことなく、ありのままの自分で仕事にも他人にも真っすぐ向き合うことができるから、信用できるのです。自然体と言うと、「無駄がない」「無理がない」「かっこつけない」のような「ないないづくし」の形容詞が随伴しやすく、どちらかと言えば「静」のイメージが先行します。実際にアセスメントを行う中でもあまり目立たず、まさに「見えにくい」ので、自然体の行動を抽出するのを苦手とする社内アセッサーは少なくありません。しかし、アセスメントの臨床でも、自然体と分析された人は、ほとんどが自立した心の持ち主であり、「対象に向き合える人」だったというデータがあります。採用アセスメントにとって、自然体という特性は、それが見えれば「ほぼ○」が、それに相反するものが多数見えれば「ほぼ×」がつけられると言えるくらいの、他に類をみないほど集約的なものなのです。採用の場で人を観ようとする社長や採用関係者にとっても、自然体は必ずキーワードになりますので、この機会に心に留めておいてください。
テーマにあまり縛られず、自由奔放に好きなことを発言する人前提を無視し、好き勝手に動く、ただの「お子さま」2章04で述べた「三つのプロセス」の最終プロセスが、「行動特性を能力の傾向に結び付ける」でした。「この応募者は、こんな行動を取る」というところまでを掴んだら、次は「こんな行動を取る人は、こんな能力の傾向(仕事力)を持つ」という公式(因果関係)が必要です。本章で挙げる「対象に向き合う力」を見抜くパターンから、その公式を学んでください。できれば「こう」だから「こう」という単純な理解でなく、その因果関係の理論も含めた公式として、腹に落としていただければ幸いです。また、論理誤差にも気をつけ、少しでも多くの他の情報と絡ませて、精度を高めてください。ここで挙げた視点は、採用アセスメントのグループ討議の中で私たちが観てきたことを題材にしています。この視点を用いるにあたっては、採用選考のプロセスの中にグループワークを取り入れていただき、そこでの活用を図られると、公式を活用するチャンスがより増えると思います。さて、何かの目的があって人が集まり、集団行動が運営されている場合には、必ず「今、そこに、人が集まっている理由」や「そこで期待されているゴール」があります。その集団がそこで動いている前提です。例えば、会議であれば、「その会議が開かれた理由」と「その会議で獲得したい成果」が、前提となります。私たちは、連日、その前提が無視されたグループ討議を観なくてはなりません。グループ討議が始まってしばらくは足並みが揃っていたメンバーの目的意識が、時間が経つにしたがって徐々に散らばっていきます。ある応募者は、前提から遠く離れた自分の興味や関心が喚起され、またある応募者は、自由に動く他のメンバーに影響されて、事前に配られた「前提が書かれた紙(課題)」からだんだん意識が離れ、やがて好き勝手に動くようになります。そんな応募者たちが多数派になってしまった日には、その討議はもはや討議の体をなさなくなって、二度と収束に向かうことはありません。前提から離れていく応募者の中では、本来果たすべき責務が、自分の欲望を満たすという自己目的に負けてしまって、向き合うべき重要な対象である前提情報が重視されない状態になっていると思われます。自己目的に向かうパワーはどんどん強くなるのが普通なので、一度その状態になってしまったら、その応募者の意識を前提に向け直すのはもはや不可能でしょう。ちなみに、前提から離れた遠い世界で、ほかの「前提と向き合わない応募者たち」と遊ぶ人は、その同志たちと一見、コミュニケーションを取っているように見えますが、実は「独り」です。自己満足を求めて動く人は、自分の殻の中で動いており、他人に興味を持ちません。その人たちが交わす一見会話に見えるものは、単なる言葉の投げ合いであって、誰もお互いの見解を尊重していないし、取り込んでいないのです。「グループワークのメンバー全員が前提に向き合えない人だった」というケースは、残念ながら決して少なくありません。「やるべきことをやる」という意思をまったく持たず、他人にもまったく興味のない応募者たちが、自分の世界の中だけで思い思いのことを呟いている、という図は訓練を受けたアセッサーにとっては「観るに堪えないもの」であり、大げさでなく気分が悪くなることすらあります。しかし、視点を絞ることなく、ボンヤリと見ている人の目には、そのグループワークが「多くのメンバーがクリエイティブに発言している活発な討議」に映るかもしれません。これ、実は、かなり危ない誤認です。「型にはまらない、突飛なことを言うクリエイティブな奴なので、面白いから採用した」「ちょっと変わった人で発言があちこち飛ぶんだけど、発想が豊かそうだから採用した」
「発言が自由で人と絡まないのだが、思考が跳ねる感じがするので採用した」時々耳にする、経営者の「ユニークな人を採用したよ自慢」です。社長や採用関係者の中には、クリエイティブ、発想力、創造性などという言葉に強く惹かれる方が少なからずいらっしゃるようです。これらの場合も、採用選考の面接やグループワークで「発言が前提に留まらず勝手に広がっていく」のを目にして、「規格外の人間のポテンシャルを期待して敢えて採用できる自分」を素敵に思いながら採用に踏み切ったのでしょう。これは個性派を自認される社長がやってしまいがちな自己満足採用で、私の知っている限りでは良い結果に終わった例はありません。クリエイティブな人に価値があるというのはもちろんですが、組織で無から有を産み生産性を高めることができる人は、対象に地道に向き合うことで情報を集積できる人であるはずです。「突飛な発言を繰り返す」「発言があちこち飛ぶ」「発言が自由で人と絡まない」のような印象を与える行動を示す人が、前提に忠実だとは思えず、その人たちが社長たちに見せた行動は、おそらく単に前提と距離を置いた自己中心的な発散だったのでしょう。組織で機能するクリエイティブな人は、向き合うべき情報に密着して思考を活性化させます。「飛ぶ」「突飛」「跳ねる」など、情報から「離れる」印象を与える行動特性を持つ人は、組織人としての適性が高いとは言えません。そのような行動に妙な魅力を感じたり、美化したりしてしまいがちな社長や採用関係者の方には、少しだけ「地に足が着いた人」の価値を再認識していただけたらと思います。だいぶ話が逸れてしまいましたが、もちろん採用アセスメントの選考母集団の中には、前提に寄り添って動く応募者も存在します。グループ討議のメンバーの中に幸運にもそのような応募者が混じっていた場合、脱線しがちな会議が、必ずその応募者によって本来の路線に何度も引き戻されることになります。そして、その応募者の気持ちが極めて強ければ、討議がその応募者によって終始支配され、前提に寄り添った健全なものとして前進し、収束するように導かれることもあり得ます。「前提に寄り添う力」を持つということは、それだけで一時間の集団行動の生産性をマイナスからプラスに押し上げてしまうだけのパワーを持ちます。そのパワーは、その後(入社後)の仕事場で、同僚や先輩何人分もの生産性を生み出すに違いありません。前提に忠実な人の発見は、すなわち「対象に向き合える人」の発見を意味します。採用アセスメントに取り組む私たちは、いつもそんな逸材の登場を心から願いながら、応募者と前提との距離を測り続けているのです。グループワークを観察する時、前提という概念を持って人を観ようとするだけで、今までとは違う景色が見えるはずです。それだけで随分と視点が正しい方面に絞られることになるのです。前提に寄り添うことの価値を再認識することで、飛び跳ねるような意見を連発するだけの人に対して「クリエイティブなことを言える奴だ」「会議で時々鋭いことを言うあいつは優秀なのかも」などと浮ついた評価を下してしまうリスクは減るでしょう。また、気持ちよく浮かれる会議に対して、たびたび前提回帰を働きかける「前提に寄り添う人」を、「あいつはつまらない奴だ」「糞まじめすぎる」などと不当に評価してしまい、本当に組織を思う価値ある人を軽んじるという愚を犯したりすることもなくなるはずです。「前提との距離を観る」という概念を常に頭の片隅にでも置いておくことで、「人のため」「組織のため」という利他性を伴わない自分勝手なパフォーマンスに騙されることがなくなります。そして、わが国の組織人がずっと大切にしてきた責任感や持続性に起因する重厚な行動を正当に評価できるようになり、「人を観る目」に安定感が宿ります。●見抜くポイント①前提を無視して好き勝手に動く人は、外界に向き合わず自分の殻の中だけで動くただの「お子さま」です。間違っても、クリエイティブなどと誤認しないように。
02議論の型や段取りを前もってハッキリさせないと気が済まない人型に依存する人採用アセスメントのグループ討議の中で、「この行動を捉えることができたら、その応募者が対象に向き合えない人であることをほぼ確定できる」と言える行動特性があります。もちろん、その行動が見えたとしても決めつけはタブーなのですが、その行動をグループ討議の開始直後に見せてしまった応募者は、ほぼ例外なくその後の五十分間、「対象に向き合えない人」特有の行動をとり続けることになります。その行動とは、型に依存する行動です。討議が始まってもなかなか本題に入りたがらず、時間や議題の配分など、討議を進めるにあたっての段取りを細かく決めないと気が済まない応募者や、会議が始まっても「まず問題点を全員で出しあって、それから解決策を出していきましょう」「まず、メリットとデメリットを並べましょう」「問題をまず共有しましょう」などとフレームワーク(思考の枠組み)ばかりを神経質に固めようとする応募者が、グループ討議では、かなりの確率で現れます。これらの議論の型作りは、数分にわたることもあり、本題へ進むのを避けている雰囲気を感じさせることさえあります。もちろん、段取りを決めることやフレームワークを固めること自体に問題があるわけではありません。もし、メンバー全員のやりやすさを希求してのものであれば、それらの取り組みは討議のゴールに向けたプロセスとして意味を持つわけですが、残念ながら多くの場合、そうではないようです。採用アセスメントのグループ討議では、司会や書記などの役割を一切決めず、段取りの指定がなく、討議のゴールに関する定めもありません。普段から問題解決領域で動いていない応募者は、このような自由空間に強いストレスを覚え、「何も見えない」「何もわからない」という不安と恐怖にかられるわけですが、その不安と恐怖を打ち消し、精神的バランスを維持するのに役に立つのが前述の「型作り」です。無限の荒野に、とりあえずフレームワークに関するありあわせの知識を持ち込み、標識らしきものを建てておくことで、当面の精神安定に役立つのです。もちろん、そんなことをやって自分を慰めている間は、討議に対してまともに心を寄せられるはずもありません。議論の型の整備へ過剰に注力する人の大半は、とにかく「自分が安心したい」「楽になりたい」という「自己目的」を必死で優先させるので、対象に向き合える余地など残っていないのです。時間をかけて議論の段取りやフレームワークを固めてから始まった討議は、面白いほど例外なく不調に終わります。情報をしっかり読まず、前提を把握していない応募者たちが、他のメンバーとの実質的交流をほとんど持たずに、時間を浪費していきます。ぶちあげられたフレームワークは、たいていの場合、なかったことになります。冒頭の型作りの儀式は、やっぱり「情報に向き合えない人たち」によって遂行されたものだったのだ、と理解すれば、すべて辻褄が合います。ちなみに、採用アセスメントに合格する応募者は、やはり驚くほど例外なく、討議に「すーっと」入ってきます。自分が進む道を声高に誇示する行動とはまったく無縁の静かなスタートです。自分の心の世話をする必要など持たず、自由な心で向き合うべき対象に向き合い、やるべきことを普通にやろうとすると、そのような自然体が生まれるのでしょう。情報としっかり向き合い、概念化に進める応募者は、そのプロセスとして自然にフレームワークを実践していきます。わざわざ、そのフレームワークを事前に誇示する必要など、まったく生じません。プロアセッサーの間でよく持ち出される標語があります。「分析をしなくては、と繰り返す分析家はいない」
●見抜くポイント②議論の型や段取りを前もってハッキリさせないと気が済まない人は、型に依存する依存体質の強い人である可能性が大です。「自分が安心したい」「楽になりたい」との自己目的を優先させて動くので、対象に向き合うことはできません。03議論をまとめる役に収まり、終始、仕切りに精を出す人支配欲や承認欲求を満たしたい人その昔、私がアセッサーの見習いだった頃は、グループワークを観察する際の公式として、「討議をまとめる行動は、大人の意識の証」と習ったように覚えています。先日も、あるクライアントの採用アセスメントとして実施したグループ討議の総括ミーティングで、オブザーブしていたその会社の社長が、ある応募者を評して「皆の意見をあれだけまとめようとしていたのは、責任感やリーダーシップがあるからではないか」とコメントされていました。昔も今も、「まとめる」や「仕切る」といった行動はリーダーシップの象徴なのです。しかし、社長が取り上げたその応募者は、私たちの目には、ただの自己中心的な人に見えました。理由となる行動は数多くありましたが、最も気になったのは、その応募者に「人にあまり興味がない人特有の行動」が数多く見られたことでした。確かに彼は、盛んに他のメンバーに話を振って発言を促したり、メンバーの意見をいったん自分が引き取ってコメントを加えたり、というように「まとめ役の形」に最後まで執着していました。ただ、他のメンバーが発言している時の彼の心の視線は明らかにその発言者を捉えておらず、彼がその人やその人の発言内容に心を寄せていないことがハッキリわかりました。「議論をまとめる」という仕事を本当に成し遂げるには、発言内容に精一杯向き合い、「考える力(概念化能力)」を働かせた上で各メンバーの発言をまとめ、求められる成果を確保できるように全体を収束させる力量が必要です。彼は一応、顔だけは発言者の方を向いているものの、その内容に向き合えてはおらず、メンバーの発言後に口にしたコメントは「まとめ」ではなくて、「言い直し」でした。そもそも「人に興味がなく、利他の心を持たない」彼が、まとめ役に必要な膨大なエネルギーを、人のために使おうとするはずがなかったのです。ある人は、「考えるのが嫌だから」という理由で、まとめ役に逃げ込みます。渡された紙を見て「わからない」「難しい」と感じ、「メンバーの話を捌く役割なら何とかなるかも」と考えるのだと思います。しかし、そのような人に、本当は概念化が求められるまとめ役が務まるわけもなく、まったく機能しないまとめ役になってメンバーに迷惑をかけるか、早々にまとめ役を離脱するかどちらかの末路をたどります。また、最近、毎日のようにお目にかかるのが、とにかく我を通したいばかりに仕切り屋のポジションに収まる人です。自分の思い通りに事を進めるには、議論の段取りを決め、メンバーの意見を捌ける仕切り屋になるのが最も確実なので、今、グループ討議の場ではワガママな「仕切り屋志望の人たち」が後を絶ちません。場を仕切ろうとする人は、メンバーの意見を捌く必要上、メンバーの発言に対してマメに反応行動を励行します。そしてそれぞれの発言の要約を図ります。そうやって一見みんなのために骨を折っているように見えますが、終わってみればほとんどその人が描いた段取りが踏まれ、その人が欲しかった結論に落ち着くことが多く、その人が単なる自分勝手な仕切り屋であったことが証明されるわけです。このような人が「自分の思うように事を運びたい」という一心で動いている時、他のメンバーには一切興味を持っていません。先ほどの彼と同じです。メンバーがどう思っているか、など、その人には関係ありません。
その人の興味の対象はメンバー自体ではなく、他のメンバーから出てくるいろいろな言葉をどう処理するかということであり、その処理をテキパキこなす自分なのです。グループ討議が行われる一時間、その人の心の中では自己満足への欲望だけが渦巻いており、他者は存在しません。新卒採用のグループ討議に臨む学生の多くが、「どのように振る舞えば高い評価をもらえるか?」を真っ先に考えます。誰もが採用されたいのだからそれは仕方ありません。誰もが口数の多い方が少ないよりも評価されると考え、そして、できることならリーダーシップを取った方がより受けがいいよね、と考えます。多くの学生にとって、リーダーシップを具現化したものが、「仕切る」とか「まとめる」という行為なので、しゃべることに抵抗のない、あるいは社交性らしきものを有する学生などは、躊躇なくそこを目指します。就活指導もその方向性を煽るので、その流れに拍車がかかります。全体成果への意識や利他の心のかけらも持ち合わせていない学生の「リーダーシップ志向」が、結果的に現場の混乱と生産性の毀損を招くわけですが、これはアセスメントの世界だけでなく、日常の仕事場にも当てはまる構造でしょう。形だけのエセ・リーダーシップを蔓延させる責任の一端は、自らの欲求を満たしたいだけの人による支配行動までを、その人の心の奥をまったく覗こうともしないで能天気に承認してしまう世の中の多くの人たちにもあると思うのです。●見抜くポイント③議論をまとめる役に収まり、終始、仕切りに精を出す人の他のメンバーとの接点が希薄であれば、その人は、支配欲や承認欲求を満たすために討議を仕切っている可能性があります。人に向き合わずして、リーダーシップはあり得ません。04自分の発言が終わるたびに達成感をにじませる人発散行動に耽るナルシスト採用アセスメントのグループ討議に臨む多くの応募者が、そこで求められるものが「なるべくたくさん発言すること」であると信じています。発信上手、プレゼン上手がもてはやされがちな昨今、「採用されるためにたくさんしゃべらなくては……」と考える人が大半を占めるのは当然で、それは健全な感情だと思います。しかし、その中には、もともと極めて強かった自己顕示欲がアセスメントという舞台でさらに強化され、その欲望を満たすための行動が選択されて、「立派に発言する自分を見てもらうために発言する」ことに徹底的に執着する人も少なからず存在します。その姿は、もはや健全とは言えません。「発言のための発言」を繰り返す人の頭の中には、ミッションも前提も、そして他のメンバーも一切存在せず、人から賞賛されたいという自分の欲望しかないからです。メンバーが放つ一つの発言は、本来は問題解決へのプロセスであるべきです。しかし、「発言のための発言」を繰り返す応募者にとっては、それぞれの発言が、毎度毎度のゴールとなります。「発言のために発言する」人が意見を述べ終わると、「終わった!」とばかりに後傾して、ひと息つく瞬間が見られます。陶酔感までにじませるナルシストも少なくはありません。このような人たちは、概して新規性や独自性の高い気づきを発表するのが大好きです。自尊心と虚栄心が満たされるからだと思います。せっかく良いテーマを見つけたのだから、そこからみんなのために役立つ問題解決に進めばいいのですが、「自己目的の人」は決してそちらの方向には向かいません。場に投じた自分の意見が他のメンバーに捨てられようがどう扱われようが意に介しません。自己目的を果たした自分にとっては、もう関係ないものなのでしょう。ひと仕事終えて一息つくと、また手つかずの場所を探して、新たな気づき探しの一人旅にでかけてしまうのが「自己目的の人」の常です。そして誰も触っていない新たな場所を探しては次の格好いい発言を作り上げ、また元気に場に投じます。そうやって自己都合の発散行動が繰り返されるのです。
「発言のための発言」は、日常の会議などでもよく見られます。いわゆる狙った発言や、受け狙いの発言を連発して悦に入っている人は結構多いように思うのですが、そのような人たちを周囲はどう見ているのでしょうか。独自性や新規性に目を奪われて、51節の場合と同様にクリエイティブなどと評価したりしていないでしょうか。そのような賞賛は、見せるための行動にふける人たちから、自らの利己的な行動を省みる機会を奪ってしまいます。人の発言を聞くだけでなく、発言が終わった瞬間のその人を凝視してください。「続く」のか。「終わった」のか。そこにその人の「人となり」が浮かび上がります。●見抜くポイント④自分の発言が終わるたびに達成感をにじませる人は、自分が大好きで、褒められるのはもっと好きな、ナルシストさんです。発言することを唯一最大の目的として話材を探し発散するので、前提やミッションは頭にありません。05ふわふわした抽象論や理想論ばかりを語り、泥臭い現実論を嫌う人汗をかくのが大嫌いな、「格好つけの怠け者」採用アセスメントのグループ討議で、崇高な理念や理想論、夢、ロマンなどを実に気持ちよさそうに話す人がいます。人から「偉い!」と褒められそうな社会性の高さに繋がる話や、「頭が良いな!」と思われる難解な理論などを話す時、そんな話を美しく発信できる自分に酔うことは、程度差こそあれ、誰にでもあることでしょう。しかし、「その理念は素晴らしいけど、じゃあ、実際にどうすればいいの?」というテーマを思い出すと、あるいは目の前に突きつけられると、我に返り、頭を冷やして、現実の壁に向き合おうとするのが真っ当な人の姿です。ところが、世の中には、現実実体の厳しさと絡むことを極端に嫌い、具体的にどうすべきか、何をすべきか、という世界に降りることを避けて、ずっとふわふわした「気持ちの良い世界」に留まることを好む人も少なからず存在します。自分の殻に閉じこもって自分の好き勝手に生きたい「お子さま」にとっては、そこは最高に居心地の良い場所のはずです。その世界にいる限り、問題解決や成果などに向き合う必要がなく、何の責任も背負わなくていいのですから。「耳当たりがいい話ばかりで、取り留めのない抽象論を冗長に語り、時に自分の健全性をアピールすべく『信頼』『絆』などのキーワードを多用し、自分の快感が薄れるのを嫌がって『具体』への道には見向きもせず、話が具体的な方向に動きそうになったりしようものなら必死に抽象の世界に引き戻そうとする……」グループ討議の中で、このような動きを見せる人は、決して珍しくありません。ちなみに、そのような人たちの苦手なものは、現実的で泥臭い世界です。具体論や方法論、戦術論、収益性、継続性などの概念とは、絶対近づきたくないのだと思います。ずっと「美しい抽象論」の世界で遊び、責任の伴う具体論への落とし込みを避ける人は、成果を求める組織の一員としては極めて不適格です。抽象論の愛好者は、時に「考える力(概念化能力)」らしきものを持っていることがあります。頭の良さが目立ち、比較的見栄えが良いことが多いので、往々にして人の目を眩ませますが、「成果に関心のない、頭の良い人」の生産性など、何も考えられない人のそれと何ら変わりありません。「理念を熱く楽しそうに語る様子を評価して採用してみたら、その理念を実現するために必要な日々の取り組みを何もやろうとしない」と嘆いている社長や採用関係者は、きっと無数にいらっしゃるはずです。そうならないためにも、「気持ちよさそうに」話す応募者に対しては、「具体的には貴方は何ができるのですか?」という野暮な働きかけが欠かせません。●見抜くポイント⑤ふわふわした抽象論や理想論ばかりを語り、泥臭い現実論を嫌う人は、知的好奇心が満たされる快適空間を好み、汗をかい
て泥臭く動くことを嫌う、格好つけの怠け者です。自己満足を求め、利他の意識を持たない、「大人の意識」が欠如した人です。06慇懃無礼な言動や過剰な敬語など、不自然な言動が目立つ人理想の自分を演じる自己不一致の人入室時の大げさな挨拶、必要以上に大きな声での返事、仰々しい相槌、過剰な敬語など、新卒採用アセスメントのグループ討議では、このような不自然な言動のオンパレードになることがあります。「採用されたい」という思いの強さ、あるいは「就活指導で教えられた通りにやらなくては」という素直さから、大半の学生の立ち居振る舞いが取ってつけたようなものになってしまうのは、ある程度は致し方ないところでしょう。グループ討議が始まると、学生たちは自分が優先して取り組むものを選択し、自分が定めた目的に向かって動くことに忙しくなってきます。本来の目的への集中によって、先ほどまで執着していた「自分を良く見せたい」「試験官に認められたい」という欲望が相対的に薄まり、ぎくしゃくしていた言動の不自然さが徐々に緩和されていく学生もいます。しかしその一方で、どこまで行っても自己顕示への注力が優先され、最後まで不自然な行動が継続される学生も少なくありません。その人たちの自己不一致は、リスクレベルにあると言えるでしょう。心の中で「こうありたい」「こうなりたい」と理想化している姿と、自分の現状との乖離を埋めるべく、自分が「こうあるべき」と執着する姿を無理に演じようとする状況を自己不一致といいます。自己不一致も、自己愛や承認欲求と同じように、誰もが多かれ少なかれ有しているものです。自分が描く「あるべき姿」に近づくべく、その姿を演じようとすることは、多くの人の中で日々行われているのだと思います。例えば、新入社員が営業の現場に出て営業らしい自分を必死に演出しようとしたり、新米上司が上司然とした立ち居振る舞いを作ろうとしたりするのは、上昇志向の伴ういわば健全な自己不一致です。一方、人間関係に潜在的な不安があり、対人スキルに自信が持てない営業職が、「営業らしい社交的な人物像」を体現化すべく、やたらヘラヘラし、相手の話には「ウンウンウンウン」とやかましいくらいに相槌を打ち、変な過剰敬語を連発しているとしたら、その自己不一致行動は明らかにリスク行動です。「頑張らなくては」という健全な気持ちから生まれる多少の演出には、相手や周囲の人の目も寛容です。しかし、自身の勝手な執着から生まれる不安や劣等感を埋めるための卑屈さを伴う過剰な演出は、到底、他者から受け入れられるものではありません。自己不一致がリスクレベルにある人とは、理想と現状の間に歴然と存在する大きな乖離にいつも心を消耗させ、それでも何とかそれを埋めようとして、常態的に「不自然な自分」を演じてしまう人のことです。そのような自己目的への執着に余念がない人に、「対象と向き合う」ためのエネルギーが残っているはずもなく、その行動はいかなる場面でも生産性を減じてしまいます。リスクレベルにある自己不一致行動は、極めて不自然な表出を伴います。そのため、見る人に負のインパクトを与えることが多く、日常の場でも、比較的その発見は容易だと思います。違和感や不快感を揉み消すことなく、しっかりと思考の中に取り置くことさえできれば、自己不一致行動を漏れなくキャッチすることは十分可能でしょう。ちなみに、自己不一致とは逆の、自己一致という概念もあります。現実の自分を受け入れている人は、理想の自分を求めて演じたり、無理をしたりする必要がないので、いつもありのままの自然体でいられます。これが自己一致です。余計なことにエネルギーを使わなくてもいい分、自分以外の物事に目を向けて興味や関心を寄せることができるわけです
が、人は、このような心の状態になってはじめて「対象に向き合う」ことができるのです。仕事力を見極めるための究極の視点の絞り込み先である「対象に向き合う力」は、自己一致の状態の上に成り立っているということになるわけですが、前述のように、その自己一致を証明する行動が自然体です。自然体の人を「自然体」と捉えるのは、不自然な行動を認知するほど簡単ではありません。しかし、不自然な自己不一致行動との差を感じることから始めて、自然体を掴む感性を磨くことは、それがすなわち「人を観る目」の強化になります。行動の自然さや不自然さを確実に視点に捉えることができれば、それだけで「対象に向き合う力」を見極める上での有力な根拠を得ることができるからです。●見抜くポイント⑥慇懃無礼な言動や過剰な敬語など、不自然な言動が目立つ人は、理想の自分と現実の自分との乖離を埋めるため、理想の自分を演じようとして、過剰感の強い無理のある不自然な言動を繰り返します。自己不一致的行動と言います。07威圧的な物言いが目立つ人心が弱い人の自己防衛行動昔、私がある会社で課長をしていた頃、自分の部下を含む若手社員が、某研修会社の実施するアセスメント研修を受講することになりました。日本でも大企業を中心に、やっとアセスメントセンターの導入が進み始めた時期でした。多くのコンサルティング会社や教育団体が、こぞって独自に趣向を凝らしたアセスメント研修を売り込み始めた頃で、「二泊三日の集合マネジメント研修」のような形態で実施されることが多かったように思います。研修が終わって一ヵ月ほど経った頃、その研修会社からのフィードバックレポートが発行され、受講者全員分の評価が私たち管理職の手許にも届きました。パラパラとページをめくっていると、私の目が一人の受講者に対する評価にくぎ付けになりました。そこには「最初から最後まで言動が力強かった」「心が極めて強靭である」と書かれていたのです。その受講者は私の部下ではありませんでしたが、少しキレやすいことが社内に知られていた人でした。強靭とは反対の人でした。「すぐ怒鳴る人間は気が小さい」というのは、よく知られるところとなっていますが、急に多弁になったり、たたみかけるように話したり、必要以上に声を張り上げたりする行動は、自分の「本質エリア」に人が立ち入ってくる危機を察した時に顔を出す「緊急自己防御行動」の一つです。きっと彼は、研修の間中、特に人と絡む場面では、自分の声量のボリュームを上げ、語勢を強めて虚勢を張り、自分の弱さを隠し通すための努力を繰り返していたのでしょう。ちなみに、そのような威圧的な行動の多くは、心の弱い人の自己防衛行動と相手の出方とのバランスが崩れた時に発生します。精神的な自立が遅れ、心が未成熟で脆弱な人の多くは、満たされてこなかった願望に執着し、現実とのギャップを埋めようとして、自分の殻の中に閉じこもって汲々としやすい傾向があります。そのようなステージは誰でも通るところなのですが、心が成熟するにつれ、ありのままの自分を受け入れ、幼稚な願望にけりをつけ、心を外界に開放させて、世のため人のために動くことができるようになるのが、大人になるということです。一方で、そこに乗り遅れた人たちは、いい年になっても自分のことばかり考え自分を取り繕うばかりの日々を送り、生産性のない不毛な取り組みに追われているのです。例えば、親を含めた周囲の人にあまり認められてこなかった人の中には、常に「人に認められたい」という願望、すなわち承認欲求を満たすことだけを目的化して動く人が少なくありません。自分の知的な部分に劣等感を持つ人が、周囲の人から賢く見られることを目的に、難しい言葉を無理に使ったり知識を顕示したりするのは、よくあることです。
このような呪縛に囚われている人は、自分の囚われている部分、すなわち劣等感の収納場所を他者から覗かれることに対して常に恐怖心を抱いています。そこに人が近づかないように一生懸命、防御を図り、その結果、「話の前置きが長い」「過剰に謙虚に振る舞う」「過剰敬語を乱発する」「笑い方や相槌がわざとらしい」「言い訳が多い」「『絶対!』を連発する」などの自己防衛行動が生まれます。そして、その自己防衛行動が及ばず、誰かが自分のエリアに踏み込んでくると、それまでは穏やかで親和的な雰囲気を装っていたその人の態度が豹変します。自分の大切なものを守るために、今度は攻撃性を加えてその相手を排除しようとするのです。「心が弱い人は、他人からの圧力や攻撃に弱く過剰に反応する」これもまた、日常生活でよく目にする現象です。時に、穏やかな自己防衛をすっ飛ばして、人の前に出るなり攻撃性が顔を出す人も見かけますが、「終始、力強い」と評された彼も、多分そうだったのでしょう。そんな彼の、声が大きくて押し出しが強い様を「心が強い」という評価に直結させたアセスメントは、その後、私の反面教師になりました。その後、何年かして、私自身がアセスメントセンターを生業とすることになったわけですが、今でも時々、「あれをやっちゃいけないのだ」と自戒します。「心の弱い人」を、「極めて心の強い人」と評したあのアセスメントは、厳しい言い方ですが、人を観る基本的な心構えやスタンスが問われる深刻な問題を内包していると思います。対象の心に寄り添わないアセスメントは、相手の発言内容を鵜呑みにして評価してしまう採用面接と同等かそれ以下の価値しか持ちません。心への真摯なアプローチは、アセスメントの肝です。人の心に近づくという行為を「怖いこと」と感じる人もいるかもしれません。また、人が一生懸命隠そうとしているものを炙り出そうとする自らの取り組みを嫌悪する瞬間があるかもしれません。心の弱い部分が凝縮された言動を見せられ続ける中で、そこに自分自身の脆弱な部分を重ねて見てしまうこともあるかもしれません。特に前述の自己防衛行動のように程度の差こそあれ、誰もが身に覚えがあるものに向き合うことは、人によっては辛い仕事になってしまうでしょう。そのような葛藤を持つこと自体は、極めて健全な「あるべき姿」だと思います。しかし、使命を背負って人を観ようとする人であるなら、最終的にその葛藤には勝たねばなりません。遊びではなく、多くの人の利害がかかっているのですから、いくら嫌でも辛くても、対象の心に寄り添うことを放棄するわけにはいかないはずです。重いものを背負って人を観ようとする人には、思考や葛藤の辛苦が伴います。思考も葛藤も携えず軽い気持ちで人の心を覗こうとする行為は、害悪しか生み出しません。●見抜くポイント⑦自分の弱さを隠そうとする人は、攻撃性を持って他者排斥を図ることがあります。「大声を出す」「話をかぶせる」「威圧する」などは、すべて心が弱い人の自己防衛行動です。08それらしく軽やかにたくさんしゃべる人思考を止めて、経験知に依存する人採用アセスメントのグループ討議で、何らかの理由で対象に向き合うことができず、考えることを放棄した応募者がとりあえず発言するためには、どのような方法があるでしょうか。まず一番簡単な方法は、与えられた課題に書いてあることを並べてしまうことです。さすがにそのまま読み上げる人はあまりいませんが、少しの知恵を使って自分の意見のように見せながら、実は書かれていることを並べるだけという人は、ど
のグループでも一人や二人は見かけます。これは「書かれている情報」に依存した行動です。次に楽なのが、他のメンバーの発言を拝借するというものです。やはり、人が言ったことをそのままなぞるような厚かましいことはしないまでも、人の意見の言い回しだけを巧みに焼き直して、自説のように見せかけようとする行動は、必ず一回の討議に数回は見られます。これは、「他者」に、依存した行動です。アセッサーの手許にもある課題に書かれている情報や、誰かが口にしたことが、時を置かずに再現されるので、アセッサーがこれらの依存行動をキャッチすることは、それほど難しいことではありません。しかし、もっと高度な依存行動を身に着けている思考回避人が数多く存在します。自分の経験したことや、どこからか仕入れた知識などの経験知を、あたかも今、自分が考えたことのようにそのまま発信するという、かなり姑息な技を持っている人たちです。これが経験知依存です。一見、まとまった見識や理論のように見えるものが力強く矢継ぎ早に繰り出されるため、そのインパクトは大きいものになることがあります。管理職を採用する中途採用のアセスメントなどで、応募者に大企業のベテラン管理職が並んだりすると、ほぼ間違いなくこの技の応酬が見られます。その勢いとスピードと時に醸し出される知的な香りに心を奪われ、その発信者たちを、とても頭の良い優秀な人だと信じて疑わない見学者が続出するなど、採用現場がその技に惑わされ、混乱することも少なくありませんが、こういう時こそ言葉の魔力への警戒心を自分の心に呼び起こして、冷静に対処しなくてはなりません。もし、その応募者たちを入社させてしまったら、おそらく毎日のように「マニュアルもないのですか!」と呟かれ、「前の会社ではこうだった、ああだった」と吹聴されることになるのですから。グループ討議の参加者の中に、この手の応募者がたくさん混じってきても、私たちアセッサーは、まず騙されることはありません。しかし、社長や採用関係者、そして社内アセッサーの皆さんにとっては、ここの見極めが一つの壁になります。同じ依存行動でも、前述した情報や他者への依存なら、課題に書いてあることや誰かが言ったことが発信された時に注意すればいいのですが、経験知依存は、どこにも書かれていない、誰からも言われていないことがそれらしく発信されるので、「その人が今情報に向き合い、今考えたものではない」という証拠を掴むのが難しいのです。それらしく発信されたものが、「考える力(概念化能力)」の産物なのか、あるいは「経験知から持ち込まれたもの」なのかを識別するのは極めて困難です。そこで、誰もができるだけ誤差なく採用の可否を意思決定できるように、「対象に向き合う力」という、より源流に近い仕事力に視点を絞り込むことが、必要になるのです。そもそも討議の前提となる情報とろくに向き合わず、他のメンバーからの情報にも興味を持たない人が、どこかから持ち出してくるものが、討議の生産性を高めるのに役に立つわけがありません。その持ち込まれる見解や理論自体に整合性が認められても、それが討議の収束に向けて必要なものである可能性は低く、他のメンバーにとっては「だから、何?」ということになってしまうでしょう。経験知はいかなるものであっても、過去に仕入れられたものです。それらは、思考の材料として使われることで価値を持ちますが、そのまま持ち込まれると陳腐化の香りが漂うのです。受験頭を使って経験知を「思い出す」時、その頭を使い慣れている人は時間を要しません。ですから、討議の中でも何を言われてもすぐに対応して、その都度、即座に見栄えのするものを用意できます。一方、情報に向き合って「考える力」を発揮しようとする人は、そのプロセスを踏む時、必ず内向します。今情報に向き合って、今考えようとする人は、その情報の処理(概念化)に集中しなくてはなりません。それが行われている間だけは、外界との関わりを絶つことになりますが、その状態が内向です。もちろん相応の時間もかかります。そして、概念化という頭と心に大きな負荷のかかる取り組みに身を投じた人は、当然
ながらそのプロセスの中で苦悩の色を見せ、疲弊も伴います。概念化が行われたか、経験知を持ち込まれたのかを見極める方法としては、発言の前に一定の時間をかけての「内向」があったかどうか、そしてその人に苦悩や疲弊が見えたかどうかを観察するという切り口も有効です。今向き合うべきものに向き合うことができず、自分の持ち物である経験知に頼り、その周辺でしか動けない経験知依存は、自分の知的自尊心を保つために何とか自分の発信を取り繕って、その場をやり過ごそうとする人の常套手段です。この経験知依存の行動は、日常の仕事場においても、集団場面に限らずあらゆる状況下で顕在化されているはずなのです。経験知に依存しているとは言え、いかなる時にいかなることを言われても即座に対応し、自分の知っていることをそれっぽく発信するためには、一定の学力(受験頭)が必要で、きっとそのような人の中には学歴や職歴に優位性を持つ人も多く、それが観る人のバイアス(先入観)となってしまうことも多いでしょう。しかし、採用アセスメントでは、経験知依存の応募者の「考える力」を、書いてあることや人が言ったことをそのまま口にする人や、書いてあることがわからない人のそれとまったく同じレベルとみなします。日常の仕事場で、今現在の状況や人の話にまったく向き合わないくせに、上から目線で、小難しいことやそれっぽいことを軽やかかつ饒舌に話す人は、いつの時代においても必ず周辺の生産性を減損します。そして、その人の言動に対して何の批判眼も持たず、そのような人を無防備に承認してしまい、時に賞賛までしてしまう周囲の人たちも同罪です。「それっぽい」「もっともらしい」ことを言っていても心に響かないと思ったら、その発言が経験知依存の産物である可能性は大です。本当に思考を経て生み出された発言は、聴く人に熱を伝え、いくばくかの感動と納得を与えるものなのです。●見抜くポイント⑧「産みの苦しみ」も「熱意」も見せず、次々と軽やかにそれっぽくしゃべり続ける人の多くは、何に向き合うことも放棄し、思考を止めて、経験知に依存しています。09発言が少ない人静かな逸材の可能性も採用アセスメントのグループ討議を観察するアセッサーにとって、「あまり発言しない人をどう捉えるか」は、永遠のテーマです。アセッサーはどうしても発信という行動を求めます。発信には言語情報がついてくるからです。「言語に踊らされず、取り組みにアプローチする」という努力目標があっても、やはりアセッサーの本音としては言語情報に頼りたい部分も否定できず、発信が少ない人を分析することは、多くのアセッサーにとって試練となります。わが国では、会議や研修などの場面であまり発言しない人を「沈黙に価値はない」「しゃべってなんぼだろ」「口数の少ない者は頭が悪い」などと評価する人がたくさんいます。そのような場所であまり発信できず、その場における生産性を高められない人に、何らかの弱みがあるのも確かですが、そんな人たちの人格を得意げに否定してしまう大人たちが多いことに辟易としてしまいます。少なくともアセッサーは、発言が少ない人を一様に「頭が悪いから」などと決めつけたりはしません。アセスメントで発言できない人たちそれぞれが抱える理由が、実に多様であることを知っているからです。「課題の内容や前提をまったく理解できないから」「内容の把握や状況の理解に自信が持てなくて意見を述べる勇気がないから」「自分が発言すると流れが滞ってしまうから」「自分が思いつく意見のレベルが低く思えてしまうから」「完全な理論の形が完成するまでは発信できないから」
「発言責任への意識が過剰になりがちで」などなど、よく取り上げられる理由の一部を挙げるとこんな具合になります。しゃべらない人のその理由は本人に聞かなければわからないのですが、アセスメントではその人の非言語情報を注意深く分析して、理由を推察しなくてはなりません。実は、「まったく理解できないから発言しない」という理由で発言しない人は、ごく少数に留まります。これは「まったく理解できない人が少ない」という意味ではありません。「わからなくて黙っている人」より、「わからなくてもよくしゃべる人」の方が、圧倒的に多いということです。課題の内容や前提をまったく理解できない人でも発言する術があることは前に述べましたが、参画への役割意識、あるいは強い自己顕示欲に背中を押されて、発信を理解より優先させる人の数は、理解に至らないと口を開かない人の数をはるかに凌ぎます。ここで言えることは、理解できないのに何らかの手を使って発言の機会を積み上げる人も、わからないから黙っている人も、「考える力(概念化能力)」が欠けていることには変わりなく、未知領域での生産性も同様に期待できないということです。それ以降に挙げたいくつかの理由には、共通することがあります。考える意欲はあっても「考える力」に自信がなかったり、多様な心理的障壁ゆえに発信に至らないと推察されますが、少なくとも、これらの理由で発信できない人たちが、情報に真正面から向き合おうとしていることには間違いありません。中には、感受性や責任感、ワークスタンダードなどが少し高すぎる水準にあるため、発信を抑えているケースも多々見られます。発信に躊躇する人たちには、確かに不得手な分野や、適性の低い仕事もあると思われますが、情報感性に優れ、「対象に向き合う力」を持つその人たちの汎用的な仕事力に、まず大きな問題があるとは思えません。それどころか、驚くべき潜在能力の持ち主がそこに含まれている可能性も大いにあるはずです。日常生活においては、発言しない人に対して多くの人が、反応的にその人を「理解できない人」とみなしてしまいます。一方、私たちがグループ討議を観察して、「この応募者が発言しない理由は、課題をまったく理解できなかったから」という結論を出すためには、五十分間の慎重な情報集積と分析を必要とします。そしてその五十分間が、時に「沈黙の逸材」の存在を浮かび上がらせます。日本には「口数の少ない人を見ると、即座にその人の知的能力を疑う」という文化が根付いていると私は考えています。この考え方を改めないと、口数だけが多い愚か者が世の中に蔓延ることになり、そして、かけがえのない逸材を地下に葬り続けることになります。●見抜くポイント⑨発言が少ない理由は、「頭が悪い」と「やる気がない」と「ずるい」だけではありません。思考や意識が重すぎてなかなか口を開けない、静かな逸材も時々目にします。10「考え込む」と「他のメンバーの意見に集中する」を繰り返す人生産的な思考を実践できる逸材人は、頭の中で概念化のような複雑な情報処理を行っている時、外からの刺激を絶ってそこに集中しなくてはなりません。この時の「意識がすべて自分の中に向かっている状態」が内向です。採用アセスメントのグループ討議で、内向の状態に入っている人は、ほとんどが前のめりで、課題が書かれている紙を食い入るように見入っています。A4用紙二枚にびっしり書かれた情報から、必要な情報を集め選び統合しようとしているのです。それは、未知領域で概念化することを選択した人が必ず通るプロセスであり、そのエネルギーを頭に集中させている状態
こそが、その人が概念化に舵を切った証拠なのです。人が内向している時には、一切の意識が外に向いていません。つまり、その間には他のメンバーからの新たな情報がまったく入って来ないことになります。内向する時間は概念化のために必要不可欠なものではありますが、その時間が長すぎると外からの情報の供給が絶たれる時間もまた長くなり、頭の中が情報不足の状態になります。グループ討議で頻繁に見られる光景の一つに「長すぎる内向」があります。情報紙に目を落としたまま、まったく他のメンバーを見ない状況が何分も続きます。そんな時、その応募者の頭の中では、多分「堂々巡り」が起こっているのでしょう。そこに新たな情報が供給されれば、また概念化のサイクルを再起動させることが可能になるかもしれないのですが、長すぎる内向が新たな情報供給を阻んでしまう状況では、その堂々巡りにけりがつくことはないでしょう。モノを考えるには、内向というプロセスが必須であることは間違いありません。しかし、そこに新たな情報を供給するためには、意識を外に向けた状態、いわゆる外向の機会も作らないと、概念化が活性化しません。そこが非常に難しいところなのですが、アセスメントで「概念化能力に優れる」と診断される人は、実は、五十分のグループ討議の中で、短時間ながら確実な内向と積極的な外向を交互に繰り返しています。内向して紙に書かれた課題に集中して思考を試みたかと思えば、課題を補うために他のメンバーからの情報に向き合うべく外向し、新たな情報の調達と処理を繰り返します。常に内向と外向をバランス良く繰り返してこそ、生産的な概念化は実現できるのです。日常でも、自分の意識の向けどころを、「内」と「外」にうまく切り替えながら自分の理論をふくよかにさせていく人は存在しますが、日頃からそのようなことを実践している人は、ごく少数に留まると思います。内向が過ぎると前述のように思考が堂々巡りしてしまいますし、外向ばかりになると、自分が考える時間がなくなり、場の流れに巻かれてしまいます。会議などの場で参加者を観察してみると、残念ながら一般的に最も多いのが、「意識が内にも外にも向いていない人」ではないでしょうか。一生懸命考えようとするでもなく、場の流れを一生懸命追いかけるでもなく、ただそこにいてその場をやり過ごそうとしている人が、多数派を占めてしまうというのが現実です。その次に多いのが、外向に偏る人でしょう。常に他者に意識を向け、調整的に動き、バランス感覚を持って参画するという行動特性には一定の安定感は認められますが、そのような人は、一体いつ物事を考えるのでしょうか。そして、私が最も気になる存在は、内向に偏る人です。内向に偏ると、情報不足に陥り堂々巡りになりやすいということは何度も述べましたが、しかし、内向という行動を見せた時点で、その応募者は、未知領域で概念化に舵を切るという、多くの人が回避する道を選んだのです。堂々巡りに陥って、生産性を確保するには至らなかったとしても、その行動選択自体が評価されるべきです。堂々巡りに陥りやすい人は、どこの組織でも散見されます。その姿を見ると確かに「非生産的な匂い」が漂いますし、重苦しく思考する人を面倒だと感じる向きもあるでしょう。しかし、そのような人こそが、費用対効果の高い人材能力開発の対象になります。概念化の意欲さえ持たない人をいくら教育しても変容は期待できません。思考意欲に溢れながらも、概念化のプロセス形成が未熟なばかりにくすぶっている人に、概念化の訓練を施すことには大きな意味と意義があり、その人が内向と外向とを繰り返す「成熟した思考人」に変わっていく可能性は、決して小さくはないのです。●見抜くポイント⑩与えられた情報に意識を集中して、その処理に取り組む行動(内向)と、他者からの情報に心を寄せる行動(外向)を繰り返す人が、生産的な思考を実践できる逸材です。
コラムグループワークを実施するための前提条件新卒採用選考の一環としてグループワークを実施している会社によっては、そのテーマが、「あなたにとって社会人とは」「やりがいのある仕事とは」などのように、学生が自由に発言できるように設定されることも多いようです。しかし、そのことが応募者の観察を難しくしてしまうかもしれません。視点を「対象に向き合う力」に絞り込もうとしても、その対象となるべき前提情報が「あなたにとって社会人とは」のようなものでは、応募者の「向き合うべき先」がなくなってしまうからです。私たちは数年前から、新卒採用アセスメントのグループ討議で使う課題を用意する際、以前よりはるかに情報量の多いものを作成するようにしています。文字量は、「A4の紙いっぱい×二枚」です。こうすることによって、それを読もうとする学生と、触れずに済まそうとする学生との見極めが以前よりはるかにわかりやすく(見えやすく)なりました。自己満足を満たすための幼稚な願望に執着して、人のみならず情報に向き合えないリスク学生が激増している今、リスクマネジメントの見地から、情報量の多い演習課題が絶対手放せないツールになっています。テーマがワンフレーズに設定され、「向き合うべき先」が用意されない状況になると、「対象に向き合う力」を持たない学生たちの思う壺になります。グループワークの場は、またたく間に「好き勝手に発散される、思いつきの発表会」となるでしょう。元気があり、知識が豊富で、整然と話す学生が目立つようになると、見えやすい仕事力に光が当たりやすくなって、必然的に採用ミスが多発しやすい構造が生まれます。5章で紹介したアプローチをグループワークに活用したいとお考えなら、そのグループワークには、参加者が向き合う先となるべき、相当量の情報(綿密なケーススタディなど)を用意されることが、その前提となることをお含み置きください。
01質問しない人「質問をしない=やる気がない」の判断は安易「採用選考において、社長や採用関係者は、応募者と向き合う場をなるべく多く持つことが大切です」と、本書では、何度も何度も繰り返してきました。応募を受け付けた瞬間から内定を出す時まで、応募者の行動を継続的に追い続けて、行動情報を集めるのが、人材採用の正しい姿です。6章では比較的、人の本質が現れやすいグループワークにおける視点を紹介しましたが、本章では、採用選考のあらゆる場面で応募者が見せる何気ない言動を抽出し、それらと「対象に向き合う力」との因果関係を説明していきます。採用面接で使える視点もあり、「行動を観る面接」の例がいくつか入っていますので、よく読んで実戦で試してみてください。ちなみに、これらの視点には、社会通念的に「優れている人の行動」と思われている行動を「困った人が見せる行動」と断じたり、あるいはその逆だったり、というような通り一遍の社会通念に染まってしまった方の目には逆説的に映りかねない理論が多く含まれています。しかし、これらは決して逆説的でも、奇をてらったものでもありません。どれも合理的に理論を積み上げたものであり、よく考えれば当たり前の正論ばかりです。今、世の中の少し間違った風潮や流れが、正論を覆い隠してしまっているのだと理解いただければ幸いです。さて、例えば新卒採用の説明会などの場で、学生を観察しようとしても、どこをどう観てよいかわからないものです。説明会のような平時における行動を、いくら目を皿のようにして観察しても、入社後の生産性を予測できる行動はなかなか見えてきません。何か変わったことはないものかと、集団を眺める観察者の目に、時々、うってつけの行動が飛び込んできます。質問です。昔から説明会などでは、「質問をする人」がやる気のある学生とみなされ、説明会における質問の有無が採否に影響する会社も少なくないようです。当然、大学の就活指導の担当者たちも、学生たちに対して「とにかく質問しなさい」と指導します。こんな状況の中、お約束的に発生する「質問する」という行動を「やる気がある学生の行動」と一括りに評価してしまう風潮は、多くの会社の採用現場において当たり前のように存在します。説明会や一次選考会などの運営をリクルーターと呼ばれる若手社員に任せる会社が多くなりましたが、彼ら・彼女たちがその成果を人事や上司に報告する際、「どの学生が質問したか」が主なテーマになる場面を、何度も見聞きしてきました。「質問という行為が会社側から求められている」ということが、これだけ明らかになっていると、当然ながら、とにかく「質問すること」ありきで参加する学生が増えてきます。そして「質問のための質問」が、場を埋めることになるのです。私も数多くの説明会に参加して、その数々の質問を目にしますが、それらのほとんどが「見せるための」「賢く思われたいための」「やる気を示したいための」、いわば捏造的な質問であり、「わからないことを知りたい」という純粋な思いから発せられる質問には、ほとんどお目にかかりません。考えてみれば、ネットが発達した今、自分が応募しようとする会社の概要は、事前に大体わかってしまいます。説明を聞いたところで、ネットの情報より深いところをすぐに質問できる程ほど理解できるわけでもないので、「その説明会で得た情報に対する質問」はなかなか生まれにくいという構造もあります。「採用されるために非生産的な質問を繰り出す学生たちに対しては、厳しい目を向けるべきだ」などと言うつもりはありません。ただ、「質問しない学生はやる気がない」という公式が、採用現場で当たり前のように蔓延っていることに対して、警鐘を鳴らしたいのです。もちろん、質問しない学生の中には、本当にやる気がなくて、ボーッとしている学生もたくさんいるでしょう。コミュニ
ケーション能力に難がある学生も少なくないと思います。しかし一方では、前述のように質問が生まれにくい構造の中で、無理に質問して相手の時間を奪うのを良しとしない人たちもいるのです。聞きたくもないことを「アピール」のためだけに相手にぶつけることに対して嫌悪感を覚える人は、少ないながらも確実に存在します。精神的に自立している人ほど、そのような方向に心が動きます。説明会に参加している集団の中に、精神的に自立している学生、すなわち「対象に向き合える力を有する逸材」が混じっていたとしたら、その学生が「質問をしない人」で終わる可能性は大きいということです。実際に、私が説明会を見学し、後日に説明会の参加者を対象にしたアセスメントを実施したいくつかのケースにおいて、アセスメント合格者のほとんどは「説明会で質問しない人」だったという実績もあります。要するに、「質問をした学生はやる気がある=優秀である」「質問をしなかった学生はやる気がない=優秀でない」という公式は、「当たっているかもしれないけどそうでないことも多い」という代物に過ぎないということです。そんな危ない公式を、大事な採用選考に持ち込むのは得策ではないので、学生の「質問の有無」に着目するのはほどほどにした方がよいと思います。ただ、「入社後の研修について」とか「転勤はありますか」とか、そんな質問ばかりする学生に、「ウン?」と違和感を抱く感性は必要だと思います。説明会の場で、自分の心配を消す目的の質問ばかりたれ流す学生の心が強かった試しはありません。また、質問をしない学生の目や口許に意思やパワーを感じたり、説明者に真っすぐ向かう姿勢にエネルギーの集約を感じたり、というような非言語情報を感じ取ることも、極めて重要なことです。「質問の有無」を採否の判断材料にしようとする考え方を改め、自分の思考に鞭打ち、質問者の行動に頑張って向き合ってみることで、「人を観る目」の成熟が進みます。●見抜くポイント⑪質問をする人のほとんどが「質問のための質問」を繰り出します。それを嫌って質問をしない人もいますので、「質問をしない」=「やる気がない」の判断は安易すぎます。02帰り際の質問魔人の都合に無関心な時間泥棒もう一つ、質問絡みの話です。新卒採用の会社説明会が終了し、参加した学生が出口に向かい始めるタイミングで、「質問があるのですけど……」と採用関係者を捕まえる学生が、毎回必ず何人かは現れます。「説明会の終わり際」は、運営する採用関係者がとても大切にする時間帯です。会社の持つ雰囲気を学生たちに印象付けるその日最後のチャンスだからです。参加した学生全員が気持ちよく会場を後にできるように、採用関係者が再会への思いを込めて最後の一人まで見送るのが、心ある企業なら必ず実践している就職説明会の掟です。そんな時に出現する質問者は、自分の気の済むまで長々と相手を拘束するのが常です。捕まってしまった不運な採用関係者は、本来たくさんの学生に配らなくてはいけないはずの視線をたった一人に向けることを余儀なくされ、自分の役割を果たすことができなくなり、心穏やかではありません。しかし、大事なお客様である学生を邪険にすることは立場上できるはずもなく、出口に向かう学生たちの動線が少し混乱しているのを横目に、自分の分まで忙しく動き回る他の採用関係者の動向や刻々と過ぎていく時間を気にしながら、最後までその「時間泥棒」に付き合うはめになるのです。
その説明会の終了後、被害者となった採用関係者に感想を聞くと、ほとんどの人がこう言います。「熱心な人ですね」「とても意欲的だと感じました」あんなに迷惑を被ったのに、あんなに余計なエネルギーを使わされたのに、質問者への評価は概ね好意的です。「説明会の終了後に社員を捕まえて質問攻めにする」という学生の行動が問題行動と認識されるケースは非常に少ないのではないでしょうか。それどころか、その行動は心優しい採用関係者によって「望ましいもの」と評価され、採用に向けてのポジティブ情報として記録されることさえあるようです。このような説明会では、社長や採用関係者の話や、懇親会の後に、必ず質問する機会が与えられているはずです。そこでは黙っていながら、「自分だけの機会」を求めて変則的なアプローチに走る学生の心の奥には何があるのでしょうか。一生懸命さをアピールしたかったのか、他の学生とは一線を画す質問をして目立ちたかったのか、それとも純粋にその会社のことをもっとよく知りたかっただけなのか……。しかし、その思いや動機が何であろうと、そんなことはどうでもいいのです。問題は、その学生に、自分の欲望を抑えて他者の状況や都合を勘案する、という「大人の感性」が欠けているというその一点につきるのです。帰り際の質問魔たちは、各自の持つ様々な欲望にそのまま従って、忙しい採用関係者を捕えます。常に自己目的に向けて自分本位に動く人だからこそ、普通なら声をかけるのがはばかられる状況下でも、声をかけられる採用関係者の都合や心情などお構いなしに「自分の思いを果たすこと」を優先させることができるのです。私たちのクライアント企業では、会社説明会に出席した学生については、原則的に希望者全員が一次選考の新卒採用アセスメントに進みます。私たちもできるだけ説明会に参加し、学生の行動情報を取れるところでは取るようにしています。当然、「時間泥棒」の現場も押さえていますが、その学生たちが数日後に実施される一次選考アセスメントを通過したことは、今まで一度たりともありません。●見抜くポイント⑫「一見前向きな行動」であるがゆえにその本質は覆い隠されやすいのですが、自分の知的欲求や、時に自己顕示欲を満たすことを優先させる時間泥棒は、かなり悪質です。03集合時刻より大幅に早く来る人自己都合で動く、自己中心的な人説明会の会場に、開始時刻の二十分も三十分も前に入場してくる応募者も、時間泥棒予備軍です。とにかく自分が安心したいばかりに、とりあえず早く入場してしまおうという気持ちだけで動き、「受け入れ側の都合」への勘案というものが欠けているのでしょう。実際、準備中の説明会会場で、早すぎる来訪者に混乱する採用関係者をよく目にします。説明会だけでなく、採用アセスメントの会場に異常に早く来てしまう応募者も少なくありませんが、二十分以上早く来た応募者でアセスメントを通過した例は、やはり皆無です。私が新入社員だった頃は、先輩や上司から「お客様と外で待ち合わせる時は、とにかく早く行って待ってろ」「お客様のオフィスに行く時は、アポ時刻よりも絶対に早く行くな。一分遅れるくらいの気持ちで行け」とやかましく言われたものでした。「一分遅れ」は、お客様に心配をかけてしまうので実際にはNGでしょうが、あの先輩たちは「自分の都合を優先してお客様に負担をかけることだけはするな」「自己満足より先方の都合を優先させろ」ということをとにかく伝えたかったので
しょう。ちなみに、この「早すぎる来訪者」に対しても、開催企業の採用関係者はやはりおおむね寛容です。大事な食事の時間を邪魔された採用関係者の口からも好意的な言葉が出てきます。時間泥棒は、「自己都合で動く、自己中心的な人」です。そのような人が会社に入ってくると、周囲の様々な人たちに迷惑やストレスが及び、「生産性が著しくマイナス」の状態になってしまうので、リスクマネジメント上、何としてでも採用を阻止したいところです。しかし、採用現場での時間泥棒に対するリスクマネジメントは、全体的にかなり危なっかしいようです。「自分都合の自己満足」を「意欲的」と解釈する採用関係者が多い現状を、単に「みんな人がいいんだから……」と済ませていてよいのでしょうか。普段から自分の時間を大切にしている採用関係者でないと、時間泥棒に厳しい目を向けることはできません。●見抜くポイント⑬「自分が早く行けるから」「早く着いてしまえば安心だから」と自分の都合で動き、相手への配慮が皆無。「遅いより早いほうが良い!」という採用関係者の固定観念も問題です。04あなたの話にずっとうなずき続けてくれる人その人の心に、あなたと向き合う余地は残っていないあなたが応募者の前に立って話をされている時、あなたの一言一言に対して深く強くうなずき続ける人がいたとしましょう。それを見てあなたはどう感じるでしょうか。その応募者が自分の応援団のように見えてしまい、気持ちよくなってしまうようであれば、そこに採用ミスのリスクが忍び寄ります。私たちがアセスメント以外の場所で、人を観ようとする時にはいくつかのコツがありますが、そのコツの一つに、「人の言動に無理や無駄があるか否かに注目する」というのがあります。人の行動の無理や無駄に着目するということは、その人が「今やるべきこと」に真っすぐ向き合える人かどうかを見極めるということであり、「対象に向き合う力」への視点に通じます。採用アセスメントで「対象に向き合わない人」特有の行動特性とされるものの中には、平時でも、「無理」「無駄」という見えやすい形になって現れるものがあります。人の行動の「無理」や「無駄」に着目すれば、採用アセスメントをしなくても「対象に向き合う力」を見極めることができる可能性がきっと広がります。私は、講義や講演で皆さんの前に立って話をする時、聴くことに集中してくれている人とそうでない人、理解してくれている人とそうでない人を、大体識別できていると思っています。その時にキャッチしている行動情報はいろいろあるのですが、その中で最も有力な情報の一つが、「うなずき」です。一対大勢でも、一対一の時でも、相手のうなずき方を観察することで、相手の本質に近づくことができるケースは少なくありません。相手が笑顔で「うなずき」を繰り返してくれると、しゃべり手としては確かに気持ちがいいし安心します。しかし、安心していてはいけません。よく観ていると、そのような「うなずき」の多くが、話の内容に関係なく遂行されていることがわかってきます。「相手の話をよく聴いて、しっかり理解しなければ」と考える人に、のべつまくなし頭を振る暇はありません。話の内容や流れに関係なく、一定のペースでうなずく人のほとんどが、まずうなずくことありきでうなずいています。「うなずくこと」を目的としてうなずいています。そこで本来一番重要なことである、「相手の話をよく聴いてよく理解すること」すなわち「相手に向き合うこと」よりも、対人テクニックとしての「うなずき」を優先させてしまうところに、その人の重大な心の問題が隠されている可能性があります。
うなずきが多いことくらいにそんなに目くじらを立てなくても……、と思われる向きもあるかもしれません。話し手に気を遣い、「わかっていますよ」「聞いていますよ」と表現したくて、好意でうなずきを繰り返す人もいるでしょう。就活指導などで、「うなずきの繰り返し」を必須の対人テクニックとして叩き込まれることもあるようです。しかし、そうであっても、仕事人として、「今本当に注力すべきこと」よりも「見せること」を優先させてしまうメンタリティーは問題なのです。「相手の情報を自分の中に取り込んで思考に繋げようとする」という行動は、「本当に仕事ができる人」が新たな情報に接した時に本能的に見せることが多い行動です。その行動に進む人は、そこに最大限の注力を図るので、「見せるためのうなずき」を含めた余計なことに使うエネルギーを残すことができません。私の経験上、「本当に仕事ができる人」は、本当に理解した時だけ、理解したことを話し手に伝えるためだけに、控えめにうなずいてくれます。それは、思考で忙しい間をぬって頑張って示してくれる礼儀であり、そこに私はいつも強い好感を覚えます。●見抜くポイント⑭あなたの話に、絶え間なくうなずきを繰り返すその人の心の中は、「私、聞いてますよ」のアピール意識で埋めつくされ、そこにあなたと向き合う余地は残っていません。05ずっとメモを取り続けている人メモをしている時は、あなたと向き合えないあなたが話し出すと同時にメモを取り始め、あなたが話し終わるまで顔も上げずにメモり続ける応募者は、決して珍しくはないでしょう。あなたは、それを当たり前の光景と捉えていますか。それともいくばくかの違和感を抱かれるのでしょうか。私が講義や講演で話す時、聴衆の中に、私の顔など一切見ることなく、ずっとメモを取り続けている人が結構な割合でいらっしゃいます。たまに「ここはメモをとる話ではないから、気楽に聴いてくださいね」などといじわるを言ってみると、皆さん一度はメモを置くものの、しばらくすると、相当数の人たちが、少しだけ気まずそうに「メモ復活!」となります。メディアの取材や営業の人からのヒヤリングなどを受けることがたまにありますが、頑張ってコンセプトを伝えようと話し始めたとたん、一心不乱にメモを取り始めるのが目に入ってしまうと、急にテンションが下がってしまうのは私のワガママでしょうか。話をしているこちらに一瞥もくれずにメモに精を出す人に対して、話をする気が失せてしまう理由は、「そんなにずっとメモばかりしてたら、『理解のための思考』ができないだろう」と思うからです。「自分の話を理解する気がない人に話をするのがイヤ」なのです。話を聴く人に求められることは、時に「話の内容を理解すること」であり、時に「話されたことを覚えておくこと」です。後者の場合は、メモが必要です。しかし、前者の場合、すなわち、次々と発信される言葉をキャッチして内容を理解しなくてはならない場合には、「情報を処理し、思考をしながら聴く」ことが必要でしょう。また、思考する人は情報をより広く集積しようとするので、話し手を凝視して、非言語情報も得ようとするものです。しっかり話し手の言いたいことを理解しようと思えば、話し手に全力で向き合いたくなるはずで、メモに注力する余地などないはずです。話し手を見ないメモ魔の人たちは、「とにかくメモしなければ……」という一種の強迫観念のようなものからそうしているのでしょうが、情報に接した時に思考に向かう習慣や文化を持つ人なら、そうはならないと思うのです。
アセッサー養成講座をやっていて実感するのですが、「考える力(概念化能力)」のある人は、概してあまりメモを取りません。もちろん、覚えておかなくてはならないことや、思考の材料として特に重要と思えた情報がある時には、しっかりとメモを残しますが、それでも話し手との正対は常に維持されます。「考える力」とメモ取りとの因果関係は、無視できないと思います。●見抜くポイント⑮メモをしている時は、発信者と向き合えません。対象に向き合い、思考を厭わない人は、その状態が耐えられないので、メモを捨てるか、メモる時間の極小化を図ります。06ずっと相槌を打ち続けてくれる人あなたの話を聴いてくれない「まず相槌ありき」の人6–4節の「うなずき」に付帯することが多い行動があります。相槌です。厳密に言えば、うなずきも相槌に含まれますが、ここでの相槌は言葉を伴うものとします。うるさいほど相槌を励行する人を前にして、あなたは違和感を抱くことがありますか。その不毛な相槌に慣れきっていませんか。それがなければ物足りないと感じるに至ってはいないでしょうか。「相槌は、会話の潤滑油としてなくてはならないものである」と多くの人たちに刷り込まれているようで、特に一対一の場面で、「とりあえず相槌は打たなくては……」と、うなずきと同様に「まず相槌ありき」となってしまっている人が少なくありません。そもそも相槌は、聞き手が会話に積極的に参加していることを示すことで、話者を安心させるためにあります。短い感嘆詞であっても、まとまったセンテンスであっても、「相手を安心させる」という本来の目的を果たそうとするなら、相手の話をしっかり聴いて「相手が本当に言いたいこと」に心を寄せた結果の発信でなくてはなりません。相手の話が終わるまでしっかり聴いて、そこから思考をスタートさせて相手の本意を絞り込んでいかなくてはいけないはずなのに、話が終わるのを待てずに言葉をかぶせたり、話の流れが反映されない感嘆詞を繰り返したりする人が目についてしまうのは、どうしたものでしょう。だいぶ昔になりますが、カウンセリングを学ぶスクーリングに通ったことがあります。そのカリキュラムは、「相手の心情に寄り添い相手の心を援助する手法」を学ぶことに多くの時間が割かれていました。具体的には、「相槌の打ち方を学ぶ」内容だったと覚えています。本来の教えは、「相手の本当に言いたいことを言い換えて口にしてあげなさい」ということだったのだと思うのですが、ほとんどの生徒がやっていたことは、いわゆるオウム返しでした。「会社を辞めることにしようと思うんです」「会社を辞めることにしたんですね」「……(い、いま、そう言いましたけど)」たった今、自分が口にしたことをそのまま繰り返されたら、たいていの人がいらつくと思うのですが、私のいたクラスでは、いつしかオウム返しがスタンダードになっていました。アセスメントには、面接演習という「一対一で部下を説得する」という設定のプログラムがあるのですが、ある会社で営業部員を対象としたアセスメントを実施した時のこと、その面接演習に臨んだ営業部員が、一人残らず、あのオウム返しを貫いたのには驚きました。何を言ってもその言葉がそのまま戻ってくるという不毛で不思議な世界を十人分も経験した部下役のコンサルタントは、「途中から目が回った」と嘆いていました。後で社長に聞いてみると、その会社は営業部員を対象としたロールプレイング研修にとても力を入れていたようなので
推察するに、その研修の講師に「お客様のおっしゃったことに寄り添ってあげてください」などと指導され、営業部員の皆さんが自分なりにその概念を落とし込んだ結果が「お客様の言葉を繰り返す」という恐るべき方法論であり、それがロールプレイングの繰り返しによって、「自分たちのスタイル」になってしまったのではないでしょうか。うなずき、相槌、愛想笑いは、主に一対一の場面においてセットで現れ、その人の仕事力が低ければ低いほど、それらの行動から無理と無駄が発する負のエネルギーが大量に発生して、相手のテンションを下げ、その場の生産性を低下させます。逆に、その人が対象に向き合うことができる仕事力の高い人であれば、そのセットは必要最小限に縮小され、真摯な思考が生み出す熱と、無理や無駄とは無縁の自然体が、相手に信頼感と安心感を与えます。ところで、一つ大きな心配事があります。今、採用選考に携わる社長や採用関係者の中に、派手な相槌や大きなうなずき、溢れんばかりの愛想笑いに慣れきってしまっている人が少なくないのでは、という危惧です。迎合と作り笑いに満ちた言動を「求められる対人スキル」と捉えるに至った社長や採用関係者の目には、やっと現れた自然体の逸材が、「社交性に欠けた不愛想な人」と映りかねません。●見抜くポイント⑯「相手が不快にならないよう、ずっと相槌を打ち続けなくては」と考えることは、心の重労働になります。その負担が重すぎて、とても相手の話になど向き合えません。07理念っぽい話や哲学めいた話にも絡める人「考える力」の持ち主である可能性大応募者を観察する社長や採用関係者は、ほぼ例外なく、その応募者の頭の良さを知りたいと考えています。前述のように、頭の良さを大別すると「学力の高さ(受験頭型)」と「考える力の高さ(仕事頭型)」に分かれますが、自分の頭で考え、自分の足で動き、自分の力で生産性を確保することができる自立型人間を求める中小企業なら、当然、「考える力(概念化能力)」を持つ応募者をターゲットに定めることになります。しかし、自立型人間を採用したいのに、実際は学力の高さに視点を定めてしまう社長や採用関係者は多く、その結果、採用ミスが連発されます。頭が良いことを確信して採用に踏み切った数ヵ月後に、「自分で何にも考えられない奴を配属してきた」という現場の恨み節を事あるごとに聞かされることになるのです。学力の高さなら、在籍する大学や出身大学からおおよそ判断できるでしょうし、適性検査などの結果にも反映されやすいので、見極めは容易です。一方、「考える力」は、学力の高さとあまりリンクしない上に、可視性と識別性が極めて低いという厄介な特性も備えています。そんな難しい対象にアセスメントの力も借りずに向き合わなくてはならないのですから、社長や採用関係者の皆さんは、実はとんでもない無理難題を背負わされているのです。面接という一対一の場面では、応募者から発せられる情報を独り占めできますが、前述のように、応募者の発言内容から概念化が行われているか否かを判断しようとすることは得策とは言えません。思いきって切り口を変え、応募者とじっくり向き合える環境を十分に利用して、応募者の言葉でなく、行動を観察する方向に舵を切りましょう。私は、アセスメントの講義などで受講者や応募者と対峙する時、必ず「概念的な話だけしかしない時間」を作ります。ある程度まとまった「概念発信の時間」を確保して、「理念っぽい」「哲学めいた」ことなどを理論的に語り、具体性のある内容は一切排除するのです。
これに向き合う表情や態度が、各自の「考える力」のレベルを推察するのにとても役に立ちます。そこで「目が泳ぐ」「嫌悪感を顕わにする」「こちらと目を一切合わさなくなる」といった、決定的な行動情報をいただけることも少なくありません。概念ばかりの発信を浴びせられた時、人の反応は大体、四通りに分かれます。Ⓐ本当に理解した時にだけ、自然な反応行動を見せる。Ⓑ一生懸命理解を図るも、発信の意味や全体観の把握に苦戦している様子が窺える。Ⓒ最初から最後まで「私はわかってますよ」という顕示的な反応行動を繰り返す。Ⓓ何も理解できない状況を嫌い、(心が)そこにいなくなる。ⒸとⒹがハッキリ見えたら、「考える力」の欠如はほぼ間違いないと言っていいでしょう。ちなみに、最も当てはまる人が多いのはⒸです。それに対して、ⒶとⒷに関しては、それが見えたとしても診断確定までは長い道のりになることがほとんどです。特にⒷは、アセッサーを苦しめるのに十分な行動情報です。「『悩む』は、思考の必要条件だし……」「でも、十分条件ではないし……」「思考意欲はあっても、概念化に至らない可能性はあるし……」「あるいは内面で思考プロセスを確実に踏んでいるかもしれないし……」結局、この場で本当のところをハッキリさせる術は、多分ありません。本人に尋ねてみてもわからないかもしれません。思考する意欲が喚起されているように見えるこのような行動情報は、他の多くの情報と統合されなければ、結論づけは難しい性格のものなのです。しかし、いずれにしても、企業が求めるべき「考える力」の持ち主は、ⒶとⒷの中からしか出ないことは間違いありません。「概念の時間」を終え、具体性のある話をし始めると、気のせいか、場にホッとした空気が流れます。それだけ「概念の世界」は、一般の人にとって付き合いにくい世界になってしまっているのかもしれません。「概念の世界」に放り出された時と、具体の世界で安心していられる時とでは、各自の見せる表情や態度に多かれ少なかれ差が生まれますが、その差も、「考える力」の評価への有効情報となります。採用面接の場で、応募者に概念的な話をすることによって、応募者と「概念の世界」との親和性を確認するという取り組みは、実はなかなか勇気を必要とします。相手がポカンとしてしまい、気まずい空気が生じることをリスクと考える向きもあるかもしれません。しかし、応募者の力量を見極めなくてはならない面接で、応募者と快適な時間を共有することを第一義と考える面接官というのはいかがなものでしょうか。わかりやすく答えやすい具体的な質問ばかりを用意し、期待どおりに答えてくれる応募者に安心する、そんなことを繰り返す採用面接など、何の意味もありません。応募者の尊厳を守りつつも、応募者に困難の伴う場を与える面接でないと、採用面接としての生産性は高まらないのです。採用面接の試験官には、「その困難に対する応募者の行動」に向き合う責務があります。●見抜くポイント⑰本文中にもある「概念の世界」との親和性という概念は重要です。概念の世界に違和感や嫌悪感を抱く人の識別は容易で、すべてリスクマネジメントの対象になります。08常に即答、即応してくれる人
考えるための時間を持たない人採用選考に携わる社長や採用関係者の多くが、打てば響く、反応の良い人が大好きです。面接での問いかけに間髪入れず答えてくれる応募者には、それだけで頭が良い人のお墨付きを与えてしまったりします。しかし、残念ながら、その頭の良さは「本当に企業が欲しい能力」とは別物であり、そのお墨付きの多くが採用ミスに繋がってしまっている現実があります。「即応」「即答」の人は、何かを問われるとまず「自分の頭の中を探す」という行動を選択します。蓄えてある多くの知識や解答例から適当なものを探して、速やかに表出するのです。このタイプの応募者は、「時間をかけて情報を処理する」という行動とは無縁の人が多く、「考える力(概念化能力)」から遠いところに位置します。人は二十歳くらいにもなると、課題に対峙した時に、「探そうとする」人と「考えようとする」人とに分かれます。知識を問われる場面での「即応」「即答」は生産性を持ちますが、思考を求められる場面でもそのスタイルを貫く人は、自分が「考える力」を持たない人であることを公言しているようなものです。残念ながら、わが国の採用現場には、昔から「即応」「即答」の応募者を喜んで採用してしまう空気がありました。また、そんなスピード礼賛の文化が、「考えないで探す人」を増やしてきたという側面も否定できません。応募者の「考える力」を見極めようとする時、私たちアセッサーは、発言直前の取り組みに着目します。まず、「考える人」は、向き合うべき情報に向き合い、その情報群から何らかの新たな概念を生み出そうとします。だから、それなりにエネルギーを使い、それなりの辛苦を経て、発信に辿り着きます。当然、最後の情報を得てから次の発信に至るまでに、情報を処理して思考するための時間が必要となります。一方、「考えない人」はエネルギーをそれほど使うことなく発信します。今与えられている情報に向き合うことを避け、頭の中に保存してある経験知や理論の雛型などから、その場でそれっぽく絡みそうなものを探して、それをそのまま発信するのです。特に学力のある人にとって、自分の豊富な武器を思い出して引っ張り出すのにそれほど苦労を必要とせず、発信までに時間がかかることもありません。このアプローチは、「考える力」を見極める視点として極めて重要なものであり、このアプローチの概念を踏まえて、「発信までの間」にその人の中で何が行われているかにできるだけ心を寄せてみることはとても有意義です。そうすれば、少なくとも、発信までの間を持たない人をありがたがることはなくなるでしょう。●見抜くポイント⑱人から情報を得て発信するまでの時間が一秒以下だとしたら、その情報は適切に料理されていないと考えるのが普通です。出来合いの見解が提供されたのだと思います。09言葉の取り繕いが目立つ人言葉の雛型への依存前節では、問いかけに対して即答せずに、時間をかけることを肯定的に述べましたが、もちろん、無駄で非生産的な時間のかけ方もあります。特に面接やインタビューなど、多少かしこまった場面で、話の体裁を取り繕おうとする意識が最優先される人をよく目にしますが、これなど非生産的の最たるものだと思います。問いかけられたことに向き合うことよりも、「格好いいことを言わなくては」「賢く見られなくては」などという「見られ方を気にする気持ち」が優先されてしまうと、発信までに時間がかり、その後の発信もスムーズに進みません。
見られ方を気にする人は、必要以上に型を気にします。そして、その型に執着してあるべき姿を演じようとします。以前に述べた型依存と自己不一致という概念がここに絡みます。「目の前にある課題に向き合い、自力で考え、自分の言葉で話す」ということができない人や、その自信がない人は、発信の雛型にすがります。その雛型を探すことで、発信までに時間がかかり、その雛型を使うことで「とってつけた」「心の伝わらない」発信となるのです。テレビのインタビューを受けている人の受け答えを聞いていると、「〜というふうに思います」「〜という形になります」というセンテンスが多いことに違和感を覚えますが、これらがその「雛型」の一例です。最近の流行りは、「大丈夫です」でしょう。「ガム、いりませんか?」「大丈夫です」「ポイントカードお持ちですか?」「大丈夫です」今度、街で気をつけてみてください。まるで言葉を覚えたての幼児のように「大丈夫です」ですべて済まそうとする大人が蔓延しています。コンビニやファミレスでの「おつりになります」「コーヒーになります」などの「なります締め」もその類と言えるでしょう。「とにかくこの言い方で締めておけば安心」という話し手の心持ちが想像できるのですが、話の内容と整合しなくなっていることが多く、納得性や信頼性を大幅に減じてしまいます。今やるべきことに向き合い、自分の発信そのものにも向き合える人は、発信内容の本質を損ねてしまいかねない依存には、まず傾くことがありません。アセスメントのグループ討議でも、自由な心で対象に向き合う「考える力(概念化能力)」の持ち主は、「時間配分をどうするか」「議論をどう進めるのか」などに気を取られている多くのメンバーたちを尻目に、何の無駄も無理も力みもなく、外連味ない起動を見せます。私たちアセッサーは「すーっとしゃべりだす」と表現しますが、この行動は余計な自己目的行動に邪魔されることなく、向き合うべきものに向き合うことができる人特有のものです。グループ討議の開始早々、その行動が見えると、私たちの中には、その人の「考える力」や「大人の意識(成果意識)」への期待が広がるのです。●見抜くポイント⑲「言葉にどれだけ無駄なものがついてくるか」という視点は、リスクマネジメント上、合理的です。優秀な人は単純化を目指し、そうでない人は複雑化を目指します。10エントリーシートに余白が目立つ人、短パンで選考試験に来る人行動の理由を考える●エントリーシートへの向き合い方多くの新卒採用関係者が毎日毎日、同じような内容のエントリーシート(以下、ESと略します)を読まされています。そこから各自の個性の識別化を図るのはもはや不可能で、結局、それが伝えるのは学歴と資格だけということになってしまっているようです。ESに向き合う際には、内容の精査に注力するより、それが「どのような心の動きを経て書かれたか」を推察するほうが意義ある取り組みになります。
そして、現実的にはその多くが「余白なく埋めることを目的に書いたのだな」という分析に落ち着きます。あまたの就活指導の担当者が、「余白があるとやる気が疑われてしまうから、とにかく欄を埋めるように」と教えているのですから、それも仕方ないでしょう。内容についても、明らかに雛型やマニュアルを踏襲したものが多く、それらの内容から学生の質を見極めるのは、ほぼ不可能だと思われます。例えば、そんな中で、余白が目立つESを見つけたとします。言語道断とばかりに不採用の判を押してしまう人も多いでしょう。実際、その中の多くが「書くことがないから」「面倒くさいから」「志望の本気度が低いから」などの理由で、欄を埋めきれない学生なのかもしれません。しかし、留意しなくてはいけないのは、「自分が本当に書きたいことだけを書いた結果、余白ができてしまった」という学生も、少なからず存在するということです。アピール意識の希薄な精神的に自立した人(=対象に向き合える人)は、「見せ方」「見られ方」への意識が優先されにくいので、余白にそれほど心を残さないのでしょう。「余白があれば優秀」という公式が成立するはずもありませんが、「アセスメントを通過した人の中に、ESに余白を残す人が多かった」という採用関係者の後日談はよく耳にします。この余白の例はほんの一例ですが、もはや「書かれた内容」に関しては形骸化への一途をたどるESも、書かれている内容にこだわる意識を少し抑え、それが書かれる行動やその原因に心をはせると、思わぬ情報が得られる可能性があります。その情報を、他の場面で得られた情報と絡ませることができれば、それは立派なアセスメントになります。●学生の服装への向き合い方私たちのクライアント企業の中で、新卒採用のグループ討議に呼ぶ学生のドレスコードを自由にする会社が増えています。学生への案内には、「スーツではなくてもOKです」「カジュアルでもOK」などという表記があるので、現場ではスーツとカジュアルの混在が見られることになります(服装自由という設定の中で、スーツを着てくる学生の心情を考えることも、何らかの特性の発見に繋がるかもしれません)。時にサンダル履き、ブーツ、靴下なし、短パン、ノースリーブ、派手な装飾品、女性の「ヒラヒラ、フリフリ」など、通念的にTPOが問われかねない服装の学生が混じりますが、そういった人たちの仕事力はやはりそれなりであることがアセスメントで判明します。服装自由の情報を得たからと言って、そのような格好をして面接やグループワークに出向く学生たちが結果的にアセスメントを通過しないのは、その学生たちが共通して持っている「仕事力の弱さ」がアセスメントに引っかかるからです。その弱みとは、「TPOの知識を持っていない」ということではありません。「この格好で選考試験に行ったら、もしかしたら違和感を抱く人がいるかもしれない」ということをイメージできないことが問題なのです。このような学生たちをアセスメントすると、情報感性の弱さや感受性の不足を示す行動が連発されるのが普通です。限られた情報や思いつきで行動し、取り込むべき情報を排斥する傾向が強い、独りよがりな人が多いことも特筆されます。異質な服装を目にしたとたんに「こういう場所にふさわしくない」と×をつけるのと、その服を着てくる心理的背景や、その他の行動情報とを絡めた上で×を出すのとでは、不採用の判断は同じでも、そのプロセスの質には雲泥の差を生じます。採用選考の場を服装自由とするやり方は、学生を判断する有効な情報が増えるのでお薦めです。服装について何か気がついた時に、今日その服を選ばせた人格や心理的背景を勘案することによって、その学生の行動特性に関するヒントを得ることができるからです。限られた時間の中で合否の判断材料を増やすための一つの工夫と言えるでしょう。もちろん、スーツ限定の採用現場であっても、その着こなし、靴、男性のネクタイ、女性のシャツの襟、インナーなどをよく観ることによって、何らかの仮説を持つことができるかもしれないことを付け加えておきます。
ここでは、採用プロセスの中でもごく普遍的で誰もがキャッチできる情報の一例として、「ES」と「服装」を挙げましたが、実際に「これらを目にしたとたん、思い込みや決めつけの世界にまっしぐら」というケースは多いのです。採用現場で学生を観ようとする人なら誰でも、学生の行動を観察して情報を得たいといういくばくかの意欲は持つものです。ところが「行動をよく観て情報を得る」という取り組みは、誰にとっても難しいので、どうしても「動いていない」「わかりやすい」情報に依存したくなるのです。思い込みに起因する採用ミスの多くが、その依存から始まっています。「わかりやすさ」に接した際に、社会通念的常識に囚われて依存に走った時点で、その人の思考は停止します。そのわかりやすい情報に対しても、依存先としてではなく、情報を拡充させるための貴重な切り口として接することは、その人の思考力を必ず強化し、人間性を豊かにします。●見抜くポイント⑳「余白はダメ」「短パン?とんでもない!」の思考停止状態では人に向き合えません。「なぜ余白が?」「なぜ短パン?」と進むことが、社会通念からの自立を意味します。
おわりに私ごとになりますが、学生時代、四組のカップルでボーリングに行ったことがあります。「カップル対抗ボーリング大会」はそれなりに盛り上がり、プレー後にはみんなで少しお茶をして解散となったわけですが、帰り道で二人になってから彼女がボソッと言いました。「みんな彼女に先に投げさせてあげてたのに、自分だけわれ先に投げたなぁ……(京都弁)」ペアマッチの第一ゲーム・第一フレームで一投目を投げた男は、私だけだったらしいのです。じゃんけんで投球順が四番目になってしまったわがチームの不運を嘆き、前の三組の投球が終わるのを待ちかねて何の躊躇もなくボールを手にした私の頭には、レディーファーストという概念や、私以外の男性陣がパートナーに一投目を譲っていたという事実への認識や、他の紳士たちと異なる行動に出た自分の彼氏を眺めている彼女の気持ちなど、まったく存在していませんでした。思うに、ボーリングに少しばかり自信があった私は、「実は自分はうまいのだ」ということを少しでも早くみんなに知らしめたくて仕方がなかったのでしょう。自分を評価してもらい褒めてもらうことにすべてのパワーが使われてしまい、常識的概念や、目の前で起こっていることや、自分のパートナーの心情にまったく向き合えていなかったのです。たかがボーリングごときで優位性を示すことにそれほど執着したのは、おそらくその頃の私が、勉強においてもスポーツにおいても成功体験を得られず、人から認められることが極めて少なく、プライドが満たされず劣等感に満ち溢れていて、アイデンティティーを保つのが大変だったからだと思います。私は、今や多数派となってしまった感のある「対象に向き合えない人たち」とアセスメントの現場で毎日のように向き合っていますが、その人たちの中で何が起こっているのかを理解するのに、あのボーリング場での自分を思い出すことがとても役に立ちます。「ボーリングがうまい自分を皆に褒めてもらいたい」という恐ろしく幼稚な願望にがんじがらめにされて何も見えなくなった私は、みんなに格好よさを認めてほしかったはずなのに、間違いなくあの日あのグループで一番格好悪い人間になってしまいました。その彼女とは、その後しばらくして別れてしまったのですが、彼女の中にあの日のことが負の記憶として蓄積されたことは間違いありません。あの日の私の行動が、大事な彼女を失うきっかけとなったとしたら、何と生産性の低い一日だったことでしょう。アセスメントのグループワークで、今日も大半の学生が、与えられた情報にも他のメンバーにもまったく向き合わないのは、あの日の私のように、自分の願望を満たすことだけに一生懸命だからであるということが、私には「実体感」として理解できます。そしてその結果は、やはりあの日の私と同じで、一生懸命心を動かしている割には何の成果も生まず、必ず生産性はゼロ以下になってしまうのです。ところで、今の私はどうかというと、アセスメントの仕事を始めてからは、あの日のようなことは少なくなったと思います。と言っても、歳を重ねる中で、心が大きく変容したとか、立派に成熟したとか、残念ながらそういうことではありません。今も、目立ちたがり屋だし、自己顕示欲は強いし、ベースのところは変わっておりません。しかし、連日のアセスメントで「自己目的のためにだけ動く幼稚で格好悪い人たち」の生産性の低さを見せつけられると、さすがに自分はこうなりたくないと思うようになり、そんな自分が顕れそうになると必死に制御する事を覚えました。自分の幼児性が顔を出さないように常に気を付けるようになりました。すると、他人との人間関係も面白いほど変わっていきました。人の人格や心のあり様は、きっと生まれた直後から(生まれる前から?)構築され始めるものなので、急に変えたいと言ってもそんなに簡単に変えることはできません。
しかし、自分の弱みを受け入れた上で行動を制御していけば、少なくてもその時々の生産性は改善されます。よく言われる「行動を変えれば能力も変わる」の本当の意味合いは、そういうことなのだと思います。今、明らかに心が未成熟な若者が増えています。私たちが実施している採用アセスメントのデータは、「自分の殻に閉じこもって対象に向き合えない人」と診断された大学生の割合が、ここ数年間は六十パーセント前後で推移していることを示しています。姿かたちは立派な大学生の六割が、内面に強い幼児性を抱えているという事実に直面すると、ありふれた言い方ですが、本当に日本の未来が心配になります。この若者たちが持つ弱み自体は、おそらくあまり変わることはないと思われるので、せめてその中の一人でも多くの人が私のように自分の陥っている状況に気づき、行動レベルでの変容を図ることで、人間関係上の生産性が確保される場面が増えるようになってほしいと願ってやみません。少し大げさかもしれませんが、その積み重ねによって、私たちの人間社会が空虚で非生産的なものに堕ちていくのを防ぐことができるかもしれないからです。「向き合えない人」に、その自分の弱みを知ってもらうのは、決して簡単ではありません。「あなたは、対象に向き合えないという弱みがあるのですよ」と言われても、そもそもその言葉に向き合い受け入れることができないからです。このような人たちが、自分が陥っている状況に気づくチャンスがあるとすれば、それは人の行動を観て何かを感じた時でしょう。私はたまたま仕事で「人を観る」ということを強いられた結果、自分の弱みを知ることができました。その意味でも、私はアセスメントと出会って本当によかったと思っています。私の幸運は、人と向き合うことで、自分と向き合えたことです。今、世の中では、「人と向き合わないから自分とも向き合えず、人と向き合わない自分がそのまま放置される」という悪循環が起こっています。もしかしたら、「人を観なければならない機会を強制的に作り、人との向き合い方を教えていく」ということこそが、これからの世の中で求められる教育なのかもしれませんね。そんな沸々とした私の思いを汲み取っていただき、この本を出版する機会を作っていただいた一凛堂の稲垣麻由美さんには、本当に感謝しております。ありがとうございます。おかげさまで、中小企業の社長さんや採用関係者の皆さんに伝えたいことを、余すところなく本書の中に織り込むことができました。本書を読まれた方の「人の悩み」が少しでも軽減されますことを心より願っています。奥山典昭
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