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「マニュアル」をナメるな!職場のミスの本当の原因

まえがきミスの背景には、ダメなマニュアルがあるここ20年間、人間のミスの研究を続けており、さまざまな会社から事務ミスの防止策について相談を受けてきた。そのほとんどの場合で、マニュアルに深刻な欠陥を見つけた。ダメなマニュアルを使っているから、ミスが乱発しても当然だったのである。一種、町医者のような気分である。冬場になると大勢の患者が病院に押し寄せるが、その大半は風邪である。医者は「風邪ですね」の台詞を繰り返すものだ。これと同じで、私は毎度毎度、「御社はマニュアルがダメですね」と繰り返してきた。マニュアル作りは難しい。平凡にマニュアルを作ると、平凡な出来になるのでなく、職場を混乱させる有害な文章の寄せ集めになる。こんなマニュアルは読むだけ時間の無駄なので、誰も読まない。実際、多くの人がマニュアルを読まないという歴とした調査結果があって、これが2018年のイグノーベル賞の「文学賞」を受賞している。

機能、手順の複雑化そもそも現代社会において、マニュアルが説明しようとする事柄は、簡単なものではない。昭和の頃のように、たとえば炊飯器が白米を炊くだけの機能しか備えていなければ、取り扱いも単純明快に書けた。今の炊飯器は、米の種類やら炊き方やらタイマーやら、いろいろと設定しないと米の一粒も炊けない。はたしてマニュアルをしっかり読んだら使いこなせるのか、自信がない。それぐらいに最近の家電の機能は複雑化している。家庭だけでなく、職場での作業手順も難しい。作業指示書を読んではみるが、難しくてよく分からない。結局は、先輩に聞いて教えてもらうのが常である。そもそもマニュアルを真面目に読まない人が多い上に、マニュアル自体も難解となれば、もはや地獄である。仕事の進め方や機械の使い方を間違えて、トラブルが連発するようになる。

文章術や作文術ではないマニュアルは、正規的で科学的な手法に則って作らならければならない。そのための学問分野もある。しかし、本格的なマニュアルを作るための技術が世間に普及していないことは、誰も読まないダメなマニュアルがあふれていることを見れば分かるだろう。マニュアル作りを単なる文章術・作文術の問題に矮小化して、「文は、主語述語が一つずつの単文で書きましょう」といった修辞的なアドバイスを説く人はいる。しかし、これでは問題の本質を逃してしまう。古代中国の韓非子はいう。「相手に思いが伝わらないのは、言葉が不明瞭だからではない。説き方を状況に合わせていないからだ」と。マニュアルも同じで、たとえ言語は明瞭であっても、職場の実態に合わない面倒くさい手順を強いるものなら害悪である。本書は、マニュアル作りに悩んでいる読者の利便を考え、すぐに使えるテクニックを具体的に説くことを基本とする。それらを通じて「仕事とはどうあるべきか」という根源的な問いに答えていこうと思う。

目次まえがきミスの背景には、ダメなマニュアルがある機能、手順の複雑化文章術や作文術ではない*マニュアル作成の原則・虎の巻

第1部マニュアルの文章術

第1章マニュアルの目的

歪められるマニュアル〈仕方なく作ったマニュアル〉〈責任回避手段としてのマニュアル〉〈判断を奪うためのマニュアル〉〈門前払いのためのマニュアル〉〈すでに存在しているという理由だけで使われ続けるマニュアル〉マニュアルの目的は、最も簡単な作業の誘導役割に見るマニュアルの種類

第2章マニュアルの文章作法

チャーチルの原則◇全てを1ページ以内に収める◇現場の「虎の巻」を採取する◇レシピ調で説明する◇見出しと段落の目立ち効果を活用する◇本題の一本道を同じスピードで説く◇本質を表す名前を付ける◇断言する◇単文で書く◇大和言葉を使う◇肯定形で書く◇一発退場方式で読者を早期解放する◇暗記を助ける

◇写真で見本を見せ、図で論理を見せる◇フローチャートは使うな◇人工知能でも読めるように書く

第3章マニュアルのあり方

作業を構想する際に検討すべき範囲センス・オブ・コントロールを与える緊急事態用のマニュアルユニバーサルデザインに則って書く人々の安全と、尊厳を守るものにするコンプライアンスは組織の防衛線品格を持ったデザインにする執筆者の氏名と、更新履歴を明記する不断の改良――欠陥を「見える化」する問答集は質問の羅列ではダメ読者のやる気を出させるマニュアルは究極的には消滅せねばならない即興マニュアル作成法

第2部正しい作業手順の作り方

第4章手順の全体

構造標準作業ループループは一本道にする対処マニュアル型

第5章作業は「型から型へ」で組む

スローになってもいい仕事であれば、管理しやすい難しい仕事は「積立貯金型」にしたい停止できることは安全の味方準備と本体を区切る平凡な検査手順は実は最悪工程は節目で管理する

忘却ミスの原因は「揃い待ち合流」一本道化による揃い待ち合流の解体関所の実体化による、揃い待ち合流の管理

第6章チェックは「節目で味見」を

ダブルチェックは有害行為の自己申告より、結果の味見やり直しの可能性がミスを減らすマニュアルを発行する前には試用テストを

第7章作業の意味論

作業の意味を壊すなコンピューターに足りないのは常識論理的に完全無欠なマニュアルは作れない簡素さを取るか、精密さを取るか

第3部練習問題

問題1:「ルールブック調マニュアル」を手順主義に書き直す問題2:消費税の軽減税率早見表を作ろう問題3:センター試験問題配布ミス事故①名前の問題②前後順序の束縛③ぶっつけ本番解答問題1への解答問題2への解答問題3への解答あとがき参考文献

第1部マニュアルの文章術

第1章マニュアルの目的

歪められるマニュアルマニュアルの本来の目的は、「作業に携わる読み手が、自分の要望に応じて、正しく状況を判断し、間違えずに操作ができるようにするため、情報を与えること」と言える。だが実際には、理想とは異なる、時には「邪悪」ですらある目的で、マニュアルが作られることがたびたびある。

〈仕方なく作ったマニュアル〉「マニュアルを添付すること」と、法律や規則が要求していたり、発注者から求められているので、やっつけ仕事で作った文書をマニュアルと称して付けることがある。ソフトウェア制作会社が手を抜く場合、ソフトウェアの取扱説明書と称して、画面のキャプチャ画像を何の工夫も無くべたべた貼りつけただけの、紙芝居スタイルの説明書を作ることが多い。「あるボタンを押すと、別の画面が現れる」という情報の単なる羅列である。紙芝居型のマニュアルは非常に使いづらい。そもそも内容がかったるい。各画面でどのボタンを押せばよいかは、見れば分かるものだ。「送信画面が現れたら、送信ボタンを押します。これで送信できます」という言わずもがなの情報だけで、マニュアルのページを埋めている。また、そもそも紙芝居は、読者を正しい手順に誘導することに不向きである。たとえば、店への行き方を写真の紙芝居風に羅列して説明しているウェブサイトをよく見かける。正しいルート上で出くわす分岐点だけを写真に撮って、紙芝居に仕立て、どの分岐に進むべきかだけを指示するという方式だ。だが、これでは正規ルートにいる時にしか使えない情報ばかりになってしまう。何かのはずみで一度でも正規ルートを外れて脇道に入ると、その後は何の誘導もなくなってしまう。本来なら、ユーザが安心して楽に操作できるようにするため、必要な説明を丁寧にするべきだ。たとえば、修正の仕方や、途中結果の確認方法などの手順である。そこまでは手が回らないと見えて省略してしまう制作会社が多い。ソフトウェア制作会社には大小さまざまあるが、大手でも、このスタイルのマニュアルを作って平然としているところがある。

〈責任回避手段としてのマニュアル〉事故が起きても「マニュアルに指示されている手順とは異なる作業をした人が悪い」という言い訳や、「マニュアルには警告が書いてあった」という法的な逃げ道を作るために、マニュアルが作られることがある。警告は製品の危険性を指摘するものであり、読者には見せたくないためか、やたらと小さい活字で、しかも薄い灰色で印刷している企業もある。最近は、世界的な消費者保護の運動を受けて、これらの言い訳は法的には認められにくくなった。製品事故の裁判で言い訳を無理に押し通そうとしたため、巨額の制裁的賠償金を課されて破綻した企業もある。ひとたび不祥事が一つ起こると、「再発防止策を講じろ」と上層部や監督官庁や外部有識者委員会などから命じられるものだ。この命令に対して、安直に「再発防止マニュアルを作りました」と答える場合が多い。そのマニュアルを実行して本当によいのかは二の次で、取り繕いのためだけの「逃げ」のマニュアルが増えていく。これは大学に関わる人なら誰でも知っている話だが、ある大学では、教職員がカラ出張をすることを阻止するために、厳しい対策を打ち出した。学会参加などで出張に行った場合は、「確かにこの人は何時から何時まで学会に出席していました」という証明書を第三者に書いてもらい、サインしてもらうべしというお触れを出したのである。その結果、いろいろな学会会場で、見知らぬ人から「この書類にサインしてくれ」と頼まれるという珍風景が繰り広げられた。カラ出張は防げても、みっともなくて大学の評判に傷が付いてしまう。泥棒が出るたびに、刑法条文を増やすような風潮が社会にはある。「再発防止策を講じろ」と命じる立場の方々には、ぜひ「しかし手間を増やしてはならない」という一言を添えるようにしていただきたい。私はある自治体から、事務ミス対策委員会の委員長を頼まれたことがある。そこでは事務ミスが起こるたびに、その大小を問わず、ミスの概要報告と対策案とを書類にして提出するルールがあった。これはあまりに煩瑣であるし、効果もない。職員にアンケートで尋ねてみても、「あれは止めてほしい」という意見が多数を占めた。委員長の立場から強く意見して、早々に廃止させた。廃止したところでミスは増えず、職員からは「時間の余裕が増えた」と感謝された。

〈判断を奪うためのマニュアル〉判断する動機を作業者から奪うために、行動をがんじがらめにするマニュアルが作られることもある。情に流されてはいけない公平性が必要な職務や、良心の呵責を感じさせがちな作業に多く使われる。箸の上げ下ろしまで事細かく指示があり、作業者はそれに従ううちに、操り人形になってしまう。ひいき目で見れば、これは作業者を統制して、作業の品質を安定させるから、よいことなのではないかと期待したくなる。しかし実際には、うまくいかない。操り人形と化した作業者は、総合的な判断を放棄してしまい、事故が起きても、何ら危機を感じない。「ゴミが混じっているのは見ましたが、マニュアルにはゴミを取り除けと書いてなかったので、何もしませんでした」といった、事なかれ主義がはびこる。マニュアルが読者に与えるべきは、「被統制」とは全く逆の「自主的な統制」への助けである。「センス・オブ・コントロール」、つまり、状況全体を把握し、自主的に制御できているという自信がなければ、人間は責任を感じない。それでは、安全も品質も保てない。米国では、就職する際には、仕事の内容をがっちり規定した「ジョブ・ディスクリプション」という書類を雇用契約の中で交わすことが一般的だ。ジョブ・ディスクリプションに書かれていない行動は、会社から求められていないし、してはならないものと言える。これを額面通りに受け取って、自分の仕事以外はゴミも拾わないような、事なかれ主義で働く人も存在する。余計なお節介は、他人の仕事を奪うことになる、と考えているようである。1986年のスペースシャトル・チャレンジャー号の事故では、この弊害がもろに出た。ロケットの部品が何度も使い回されて形が歪んでしまったことを整備部署は知っていながら、マニュアルに規定された検査手順では「合格」となるので、そのまま放置し、爆発するまで使い続けた。一方で、事なかれ主義の害を知っている米国企業は、職員の自主性を重んじる企業文化を作ろうと努力している。

〈門前払いのためのマニュアル〉事なかれ主義、縦割り主義のために、マニュアルが増殖し精緻化するという、病的な現象が会社組織に見受けられる。創業したばかりの組織は、不定形な仕事を、少ない人員で臨機応変に分担して、こなすしかない。業務の正式な手順はしっかり決まっておらず、明文化された規則なしに、当たって砕けろで仕事に取りかかる。やがて組織が成長すると、人員は増え、仕事のパターンも安定してくる。各部署の所掌範囲は定まり、「ゴールデン・バッチ」、すなわち、最もうまくいくやり方を繰り返すだけとなる。マニュアルはゴールデン・バッチを詳細に規定し、それから逸脱することを禁ずるようになる。一方で、全く新種の仕事や、分担の隙間にあるような仕事は、相手にされなくなり、マニュアルに書かれなくなる。各部署にとって、ゴールデン・バッチ以外の仕事は、効率の悪い厄介ごとであり、門前払いして、他部署に押し付けたいものなのである。「仕事=マニュアルに書かれていること」という認識が職場に染み込む。こうしてマニュアルの整った大企業ほど、前例の無いプロジェクトには及び腰になる。それを横目に、ぽっと出の零細ベンチャーが、新奇な仕事に手を染める。これがビッグビジネスに大化けすることがある。実際のところ、今をときめくインターネットの巨大企業は、歴史の浅い企業ばかりであり、昔からある大企業をまんまと出し抜いてきた。ネットビジネスに限らず、企業の興亡はこのパターンの繰り返しである。

〈すでに存在しているという理由だけで使われ続けるマニュアル〉すでに何らかのマニュアルが職場に存在しているなら、それをそのまま使うということになるのが自然である。活字には一種の魔力があって、活字になっていることで、書類がさも正当であるように見せてしまう。今まで従ってきた文書に疑いを差しはさむ気が起こらない。しかし、「長年使われ続けているから優秀」という保証はない。古いマニュアルは、時代に合わなくなっている恐れもある。また、初版発行から時間が経つと、職場での人脈が途絶え、原作者が誰であったのかが分からなくなる。詠み人知らずの古いマニュアルでは、読者がその内容に疑問を持っても、原作者に真意を問い合わせることはできない。この問題が特に顕著なのが、交通や金融などの社会インフラを支える大規模なコンピューターシステムの業界である。システムがダウンして膨大な業務が麻痺する事故が時折起こる。その原因はそれぞれ異なるであろうが、遠因はこの業界独特の、ダメな書き方で作られたマニュアルにあると私は思う。いろいろなコンピューターシステム運営会社から、マニュアルの相談を受けることがあったが、だいたいどの社もマニュアルの作りが同じであり、抱える欠陥も共通しているのである。社会インフラ向けのコンピューターが日本に導入されはじめたのは、高度経済成長期である。その頃に米国から伝来したマニュアルのスタイルが、そのまま日本の標準として現在まで生き残ってしまった。当時の業界は、ごくわずかの大手会社による寡占状態であったから、その大手の多様性に欠ける流儀を金科玉条として日本のどの会社も真似したと思われる。欠陥だらけのマニュアルであっても、読者は改訂する権限を与えられていないので、嫌々ながらもそれを使い続けるしかないのである。会社組織というものは、機材や人員、売り上げといった、利潤に直接的に関わる要素には敏感であるが、「マニュアルの質」という間接的要素には鈍感な傾向にある。管理者が、「このマニュアルで、ちゃんと仕事はできているか?」と問うても、現場の人員は「できています」と答えるのが常である。できていなければ責任問題になるからだ。この返事を真に受けて、管理サイドは何もせず、ダメなマニュアルがのさばっていても、見過ごされる。◆世の中、役に立たないマニュアルが多い。

マニュアルの目的は、最も簡単な作業の誘導マニュアルの目的は、「マニュアルがなければできない作業を、安全かつ効率的な手順に沿って、分かりやすく誘導すること」にある。あなたの目の前にあるマニュアルが、正しい目的のために作られたマニュアルであるか、あるいは、邪悪な目的の産物であるかを判定する方法がある。資料1をイメージして考えると分かりやすい。そのマニュアルを読まなければ手順が不明な作業がいくつか存在する。そうした作業には、難易度の高低がさまざまなものがある。

この内、最もシンプルな作業に目を向ける。つまり、「マニュアルがなければ実行不可能な作業のうち、最も簡単なもの」である。ここの難易度が、マニュアルが背負っている任務の重さに呼応している。一番簡単な作業でさえ難易度が高いとなれば、マニュアルはそれを説明するという難事業を負っているわけである。混同しやすいのが、「マニュアルがなければ実行不可能な作業のうち、最も複雑なもの」である。この部分を高めても、無益であることが多い。「文章は難解なほど高級だ」とか、「文章の程度とは、その中に含まれる一番難しい内容で決まる」と思い込んでいる人々がいる。こういう人は、マニュアルを「高級」にしたいがために、やたらと難しい内容を盛り込みがちだ。高度だが、使う出番がほとんどない作業の説明にページを割いているマニュアルは珍しくない。資料1の分布が上に伸びはするが、無益である。極言すれば、「マニュアルなしではできない仕事のうち、一番簡単な作業」だけを説明するべきとさえ言える。2番目や3番目に簡単な作業というものは、実際上はほとんど出番がない。自動車は、一番簡単な、公道を走る作業に使われることが大半である。2番目に簡単な作業として、道無き原野の走行などが考えられるが、これが必要という一般人はほとんどいないだろう。もちろん、一番簡単な作業にも、多少のバリエーションがあり、それを一般人に説明する必要はある。しかし、それらはあくまで、基本形への修飾として整理し記載されるべきだ。あれもこれもと盛り込まず、基本形一つしか書かないというポリシーを保ちたい。また、マニュアルが説明すべき作業が難しい場合、それをそのまま放置してはいけない。誰でも、素早く、効率的に、間違えないように作業をこなせるように誘導しなければ、マニュアルとしては駄作である。手順をうまく設計し、説明を工夫して、一番簡単な作業をさらに簡単にできるようにする。一般に、効用が大きい作業ほど、手順が難しいという傾向がある。難しい手術は、重い病気を治すためにある。虫刺されに薬を塗るのは簡単だが、かゆみが治まる程度の効果しかない。効用と難易度とのトレードオフが成り立ちがちである。トレードオフを放置するのは、能が無い。資料2に示すように、効果が大きいことを複雑な手順のままにせず、マニュアルの説明によって、より簡単にできるようにすることが理想である。効果が大きくても難しいのでは、効果がゼロなのと同じことである。マニュアルは、有益なことをシンプルに書くことが役目であり、複雑なことを長々と説明してはいけない。

◆マニュアルは、作業の基本形を簡単にできるようにするためにある。

役割に見るマニュアルの種類マニュアルにはいくつかの形式がある。「マニュアル」と名乗っていなくても、実質的にマニュアルの役目を果たすものも存在する。各形式には、長所短所があるので、課題に応じてふさわしい形式を選ぶ。【取扱説明書】:特定の道具の使い方を指示するものである。作業手順だけを説明するものも多いが、本来は、道具がはらむリスク(事故の可能性)や、ハザード(危険源)、ライフサイクル(据え付けから廃棄までの、道具の一生についての指示)も記載するべきである。【パッケージの注意書き】:食品などでは、包装に調理の仕方が案内されている。極端にスペースが狭いのが泣き所である。食品は姉妹品が多いため、取り扱い方法も混同されがちである。このため、電子レンジの加熱時間を姉妹品のものと間違えたり、そもそも電子レンジが使えない食品をレンジで加熱するといった失敗をする消費者が多い。【標準作業手順書】:作業者がすべきことの全てを記したものである。よって、これに記載されていない行動は、基本的には全て「してはならない」ことになる。厳しいようだが、職場の安全を保つためには、勝手な行動を禁じることは基本中の基本である。しかし現実には、書かれていない行動をしたり、せずには仕事が回らないことも多い。【コンピューターのプログラム】:プログラムは、コンピューターに動作を指図するという点で、特殊な標準作業手順書と言える。たとえ、プログラムが長大で、手順が難解であっても、コンピューターは黙々と指示に従って動作する。よって、どんなに読みにくくても論理的に合っていれば、コンピューターにとっては十分である。だが、人間にとっては、難解なプログラムは扱いに苦しむ。プログラムも長年にわたって使い続け、複数人がその時々で、改修のために手を加えていく。すると、「大昔の先輩たちが書いたプログラムなのだが、どこに何が書いてあるのか、この命令は何の目的があるのか、なぜこれでちゃんと動作するのかが、もはや誰にも分からない」という事態に陥りがちである。製作者の意図を使用者に伝えていくという人間組織の課題が、結局は最大の課題である。【対処マニュアル】:普段は何もしなくてよい仕事で、異常や脅威が発生した場合に、それへの対処法・平常復帰策を述べたもの。【緊急時マニュアル】:効率や品質は最低限であっても、最優先事項についてだけは、安

全を保つ。いくらか損はするとしても、また一からやり直すことができる状況に避難する。書面の見やすさと、簡潔さ、短さ、断定が命。また、防災のために使われる場合は、外国人に対して言語の違いなどが障害にならないように、多言語化やイラスト図解をほどこすなどのユニバーサルデザインが求められる。たとえば、アレルギー緊急対応マニュアルなど。【問答集】:Q&A形式で、作業に関する知識を伝授するもの。「〇〇をしたい時にはどうすればよいか?」などという、目的ごとの編成になるので、読者の意識に沿いやすく読みやすい。【申込書】:建前としては、顧客が何かを申し込む際に、必要事項を空欄に埋めていくための書類である。巧妙に作られた申込書は、書き込み作業を通じて顧客に情報を与え、使用方法を伝授し、より望ましい商品を選択させるという効果を持つ。人間でも腕利きの売り手は、顧客と相談しながら、より適切な商品を売るものであるが、それをやってのける申込書もありうる。【環境埋め込み型】:道路標識や、ラベルなど、操作対象物や作業環境に、マニュアルの情報を埋め込む方式。分かりやすいし、情報を知らされるタイミングもよい。【ルールブック】:特定の行動の許可/禁止や、権限の有無について羅列したものである。これを苦労して読解していくと、作業手順が導き出されなくはないので、マニュアルの代わりにされてしまう。【掟】:表向きは行動の統制という目的を掲げているが、部族や宗派、流派の結束を生み出すということにねらいがある。人間の集団というものは掟なしでは結束しないものである。手順や、作法、経典、戒律、原理原則、モットーといった形で示された掟が、集団の個性を醸成する。宗教の聖典や、芸事の奥義書の多くは、掟を説く使命を担い、結果としてマニュアル的な内容を含んでいる。ついには掟が御神体となる。たとえ掟が、作業をする上で不便や不合理を生じるものであっても、それで集団をまとまらせることができれば構わないのだ。法律は、「自動車に乗る時はシートベルトを締めねばならない」というように、社会の安全や効率化のための実用的な規則を持つ一方で、「夫婦別姓は認めない」といった、価値観によって意見が分かれる事項に決着をつける規定も多い。国民共同体の結束を高めるために、価値観の統一を図っているのである。

◆「マニュアル」と銘打っていなくても実質上はマニュアルであるものもある。

第2章マニュアルの文章作法チャーチルの原則第二次世界大戦序盤の1940年、苦戦していた英国にて、首相チャーチルは次の通達を政府の全部署に出した。「我々の誰もが、職務を遂行するために膨大な報告書を読まねばならない。その報告書のほとんど全部が極めて長すぎる。どこに要点が書いてあるのかを探すのに、時間と体力を無駄にしている。報告書を短く書くように、私は同僚職員諸君に次の点を求める。①報告書は、短く、仕分けの利いた段落を並べて作れ。②報告の根拠となる、詳細な分析や、複雑な事情、統計データなどが添付できる場合でも、それらは別紙付録に追いやれ。③表題と見出しだけのメモ書きは、長文の報告書にしばしば勝る。メモ書きでは不足する情報は口頭で補えばよい。④曖昧な言い回しはしない。「次のような懸念もまた留意することが重要と言える」や、「この懸念が現実味を帯びることについて検討があってしかるべきであろう」などだ。これらはただの水増しであり、削除できるし、一単語で置き換えることもできる。短い表現をためらうな。くだけた言い回しでも構わない。この原則で書かれた報告書は、はじめのうちは従来のお役所言葉に比べて粗く見えるかもしれない。しかし、大いに時間を節約できるし、重要点をきれいに記述することは明晰な思考を助ける。」要は「繁文縟礼」を戒めているのだ。この考えは、現代でも輝きを失っていない。英語圏で出版されている作文術の教科書では、たびたび引用され続けてきた。むしろ現代の方が、極めて悲惨な状況である。電子メールなどの長文が職場で乱発されるようになり、メールの読み書きをするだけで、一日の仕事時間が尽きてしまうこともある。紙の書類も多すぎる。あるオフィスビルでボヤがあり、火元の階はスプリンクラーが作動して水浸しになってしまった。机の上ばかりでなく棚や通路際にも書類の山が積んであったが、それらはぐっしょり濡れてしまい、廃棄せざるを得なかった。

だが、それらが片付けられて職場がスッキリし、むしろ仕事がはかどるようになったという。積んである書類は、おそらく捨てられるし、捨てるべきということである。チャーチルの原則を踏まえつつ、マニュアルの書き方を詳しく述べていこう。◆文書は短くシンプルに。

◇全てを1ページ以内に収めるマニュアルは、全ての内容が「A4判1ページ片面」に収まるようにコンパクトに作る。どんなに長大で複雑な作業であっても、1ページに収める。1ページ以上の長さのマニュアルは、読み手が内容を覚えきれなくなる。複数ページのマニュアルは、作業中にページをめくらせることになり、それが原因で、気が散ってミスが増える。だが、この説は、明らかに無理だと思われるのではないだろうか。たとえば、大型飛行機の製造工程のマニュアルを、たった1ページに収められるとは到底思えない。しかし、機械工学の世界では、「たとえ大型飛行機であっても、あらゆる機械の設計図は一枚紙に収めろ」という原則がある。まず、全体図を一枚紙に収めて、全体がいくつの部分で構成されているかを大雑把に理解する。全体図では、縮尺の都合上、各部分の詳細は描き込めていないが、それはその部分用の一枚紙を別に用意して、そこに描けばよい。世界地図は、一枚の図面となっているからこそ、世界各国の位置関係が理解できる。仮に、世界地図に日本のある県の情報も詳しく併載しようと欲張ると、縮尺の倍率をぐっと上げるしかなく、総勢数万枚の世界地図が出来上がるが、これでは情報の洪水になってしまう。「モンスという町は世界のどこにあるか?」と言われても、広い地図の中からは探し出せまい(ちなみに答えはベルギー)。世界地図と分県地図とは分けて作ればよく、それなら両方ともそれぞれ一枚紙に収まる。機械設計図が1ページ以内の原則で運用されているならば、マニュアルだって1ページに収まるはずである。1ページに仕事の全情報を載せようとすると無理であるが、仕事全体の大局的な流れを指示するページと、特定作業の細かい手順の指示をするページとを分けて書けばよい。作業員が自分の担当部分である1ページを見るだけで事足りるようにできるはずである。千利休は、ある人から茶道の極意を教えてほしいと乞われ、次のように答えた。「茶は服(飲み加減)のよきように。炭は湯の沸くように。夏は涼しく冬は暖かに。花は野にあるように。刻限は早めに。降らずとも雨の用意。相客に心せよ(客に関心を向け、丁寧にもてなしなさい)。」有名な「利休七則」である。問うた人がそれくらい誰でも知っていますと返すと、利休は「これができるのなら私が弟子になりましょう」と答えたという。ここでは、たった7つのルールしか述べていない。作業中の人間が頭の中に留めて置ける情報量は、これくらいが限界である。

この本もマニュアルであるから、当然、1枚に収めるべきである。マニュアル作成の勘所を抽出し、巻頭に一枚紙として配置した。また、各項の末尾には要約を付け、枠で囲った。忙しい方はこれらだけを読めば事足りる。◆マニュアルは一枚紙に収めよ。それであふれた情報は、別の一枚紙に分担させよ。

◇現場の「虎の巻」を採取する自分の職場が、全何十冊にも及ぶ長大なマニュアルを使っているとする。これを一枚紙に縮めることは不可能だと思える。しかし実際には、マニュアルが長ければ長いほど、一枚紙に収める作業は簡単になるという逆説的な現象が起こる。「うちの仕事は、ものすごく複雑なんだ。マニュアルを一枚紙に収めるなんて、到底不可能だ!」と、お嘆きの方ほど、すでに職場には一枚紙マニュアルが存在しているという有利な立場にいる。長いマニュアルは、誰も読み切れないし、そもそも読んですらいない。狭い机に分厚いマニュアルを置いて、忙しい仕事の最中にページをめくることなど非現実的である。そんなことをしている作業員など、実際の職場でほとんど見かけない。たまに例外的な仕事に当たった人が、その例外的な手順を調べるため、本棚からマニュアルを引っ張り出す程度である。熟練の作業員なら、仕事の要領を丸暗記しているから、マニュアルを見ないで仕事ができる。新人の作業員はそうはいかないので、先輩から「虎の巻」や「カンニングペーパー」と呼ばれる紙片をもらって、それを頼りに仕事をしている。虎の巻は、ハガキ大程度の一枚紙であり、ポケットに入れられるようにしてある。そこに書かれている情報は、仕事を進める上で知っておくべき必要十分な情報である。歴代の先輩から受け継いで改良を重ねた内容であるから、実に簡にして要を得ている。順を追ってなすべき行動を指示し、間違えやすい点を警告するが、それ以外の余計な情報は排除してある。現場に出回っている虎の巻を採取し、それを正式なマニュアルとして認めて、大々的に配布してあげれば、作業員はずいぶんと助かる。ただし、虎の巻は、非公式に勝手に作られたものであり、各現場の個別の事情や、先輩の独断が混入しているおそれがある。内容に間違いがないか、普遍的に通用するものかを、点検し修正してから正式版とする。◆長大なマニュアルが存在する職場には、一枚紙がすでに存在する。

◇レシピ調で説明する料理のレシピ本は、競争が激しいだけあって、非常に優秀なものが多い。優れたレシピ本を真似して、自分の職場のマニュアルを書くだけで、ずいぶん使いやすいマニュアルが書けるはずである。レシピ本は工程を一手一手、順を追って記述している。まずこうする、次にこうすると、時系列で手順を指示している。これも、マニュアルなら当たり前ではないかと思われるであろうが、こうなっていないダメなマニュアルが多いのである。ダメなマニュアルは、ルールブックのような体裁である。「第1条、熱湯を注ぐことは、蓋が開いているカップラーメンならば許される。第2条、作業員は未開封のカップラーメンの蓋を開けることができる。」という風に、行動の許可と不許可を、手順を無視して羅列してある。読者は全条読み通して、自分は何をどの順ですればよいのかを逆算せねばならない。こんなに意地悪なルールブック調マニュアルではあるが、執筆者にとっては非常に都合がよい。第一に、書く作業が楽になる。規則や法律がすでに存在するならば、それをそのまま丸写し(コピペ)すれば事足りる。そして大抵の場合、規則や法律の類はすでに存在するのである。また、ルールブック調をレシピ調に組み替えて説明しなおす手間を逃れることができる。ルールから手順への変換作業は簡単ではなく、作業をよく知っていないとできない。そこで間違えてしまうと有害なレシピ調マニュアルが出来上がってしまうが、その責任は執筆者に降ってかかる。ルールブック調ならレシピ調よりも短く書ける傾向にある。行為の許可と不許可だけしか書かないので短くて済むのだ。道路交通法は200足らずの条文しかないが、世の中のあらゆる交通シーンでの許可される運転を指定できている。これをレシピ調で書こうとすると、許可される運転を実現する手順まで書かねばならず、その説明は膨大になる。このように、ルールブック調は執筆者にとって都合がよい。それゆえ、この種のマニュアルが多く世に出回っているのだ。規則から手順へ言い換える仕事は、本来は作業を指示し監督する側が請け負うべきものだ。現場の作業員に、押し付けてはいけない。◆「次にする行動」に説明を集中する。

◇見出しと段落の目立ち効果を活用する文書は、多分に視覚的な要素を含んでいる。新聞の見出しが代表例である。我々は、見出しだけを読んで、ポイントを大まかに理解し、それで済ませている。新聞の全文を一文字一文字、順に読むことが読書としては正式ではあるが、これは時間がかかり、理解も難しくなる。ポイントだけを読む方が、全文に目を通すより、頭の中がすっきりする。小学校の作文の授業では、原稿用紙枚数のノルマに届かせようと、むやみに段落替えをすると、先生に怒られたものである。しかし、マニュアルや社内文書では、何行も続くような長大な段落があることは、異常事態と思わなければならない。段落は、一つの主張を言ったら、すぐに替える。こうすれば、一つのアイデアが、一つの文字列の塊に対応する。論点の状況を、文章の見た目から把握できるようになる。普通の文書は、冒頭から終わりに向かって順を追って一直線に読むことを想定しているが、そこで説明される内容も一直線的に順を追って理解するのがよいとは限らない。むしろ、物事は二次元や箇条書きで配置して説明する方が分かりやすいことが多いのである。社内文書なのに、チャーチルの怒りを買うような、無駄に形式ばって、説明文を一直線的に並べているものがある。たとえば、資料3のように、挨拶や、経緯、訓示めいたことを普通の文で書いてしまう。これでは読破するのに時間がかかる上に、要点をすくいとることが難しい。

チャーチルの言うように、ポイントを体言止めで抜き出し、見出しを箇条書きに並べてみれば、図像として内容の論理構造を理解できる。こうすれば、速読でき、理解も簡単だし、さらには忘れにくい。視覚的効果は大事ではあるが、文字修飾だけはやってはならない。傍点や色文字、横線、下線など、一つ一つの文字を飾ることである。これは、読者の注意力を高めることをねらって使われているが、実際には逆で、読者を混乱させる。文字修飾を使うと、整然とした行の並びが壊れ、読者の注意が拡散する。文字修飾が乱発されている文書は、それぞれの部分が「ここは大事だから読んでくれ!」と大声で叫びあっているようで、紙面全体がやかましくなる。大事な文字だけ赤で書くというスタイルがあるが、これは危うい。コンピューターの画面では赤い光線を放って目立つ文字も、いざ紙に印刷してみると、インクは自分では光らず目立たないことがよくある。また、屋外や蛍光灯の光が当たる場所の看板に使うと、赤の部分だけ先に色あせてしまい、肝心な部分だけが消えてしまうという事態が起こる(資料4)。

例外的に文字修飾を使うべき場合がある。「両国国技館の所在地は東京都墨田区横網一丁目」のように、紛らわしい文字の存在を警告するためなら、ごく少数を使うことは許される。プロは文字修飾を使わない。それが証拠に、新聞や雑誌の文章で文字修飾はほとんど使われていない。代わりに、見出しや、段落、箇条書きというレイアウトの技を使って、読者に分かりやすく論点を整理している。◆見出しを立てて、話の流れを「見える化」せよ。

」である。これでは誰も覚えきれない。取扱説明書は、「この目的には、こうすればよい」というメッセージであるべきだ。掃除機は「スイッチを入れるとゴミを吸い取る機械」と紹介するべきではない。「ダニや花粉に悩まされない暮らしを手に入れる機械」と目的を全面に出して、読者の使用動機を呼び覚ますべきである。読者がその製品を使いたいと思ってくれれば、読み方が熱心になり、その後に続く操作の指示もすんなり頭に入ってくる。目的不明のままでは、読者はあれこれ指示されても覚えきれないし、イライラすらしてくる。文章のどの箇所も、話の詳しさが均一であるように書く。ある部分だけくどかったり、逆に大雑把にならないようにする。濃度にムラがある文章は、ある箇所では蛇足の情報が紙面を埋める一方で、別の部分では必要な説明が欠けているという欠陥をはらんでいる。ためしにウィキペディアにある「司馬遼太郎」の項目を見てみると、「生い立ち」の欄に各国の銃の技術や生産台数が詳しく書いてあった。その後にある「小説家時代」の欄は、代表作とその時期をあっさりと並べてあるだけだ。銃の話はそもそも寄り道である上に、そこに詳しい説明を繰り広げているので、司馬遼太郎は銃に関係する小説をたくさん書いた人なのかとの誤解を誘う。マニュアルで起こりがちな寄り道のパターンとして、念のために蛇足気味の理由を書いてしまうというものがある。たとえば、「排煙窓を開けると、火災警報が鳴るので、火災の時以外は開けてはならない」という風に、説明を割り込ませるスタイルだ。簡潔に書くなら、「平常時は排煙窓を開けてはならない」となる。しかし、これでは素朴すぎる。詳しい理由や事情も書いておかないと、勝手に開ける人が出てくる。そもそも、窓とは開けるものであり、開けたところで警報は鳴らないという常識が我々の頭に染みついている。常識や直感、人情に反するルールは、無視されやすい。何かの拍子で窓を開けたくなった時、「窓は開けるもの」という常識が先立って、それに反するルールの存在を忘れてしまうものだ。意外なルールはそれを簡単に書いただけでは読者の心に響かない。常識には常識で対抗するのが正攻法である。この例の場合、「排煙窓を開けると、火災警報が鳴る」と書けばよい。読者の頭の中には、「火災警報は平常時には鳴らしてはならないが、火災の時には鳴らさねばならない」という常識が、すでにある。よって、正しい

ルールをすぐに察する。「普段は開けるな、いや火災なら開けろ」という長たらしい場合分けの話は、コンピューターに指図するには必要であるが、人間には不要なのである。マニュアルで説明がやたら長くなってしまったら、それは読者の常識を活用していないからではないかと疑うべきである。◆話の進め方は、一つのゴールへ向かって一直線。一定速度。

◇本質を表す名前を付ける孔子は、政治で真っ先になすべきことは、名前を正すことだと言った。名前に欠陥があると、その名前を使う言葉も乱れてしまい、その結果、社会が混乱する。名称は、物事の肝心な部分を言い表すように付ける。そうすれば、マニュアルの文章は簡潔かつ正確になり、結果的に、ミスを防げる。先の例の「排煙窓」は、そもそも「火災警報連動排煙窓」と名付けておけば、開閉についてのややこしいルール説明は不要である。2017年に、走行中の東海道・山陽新幹線の台車に深い亀裂が走るという事故が起きた。言うまでもなく、台車は安全に関わる重要部であり、そこに亀裂が走ることはあってはならない。国の運輸安全委員会が重大インシデントと認定するほどの大問題となった。事故の原因は複数あるが、部品製造上の原因について言えば、「側ばり」と呼ばれる部品を削りすぎたことにある。「側ばり」は長くて太い棒であり、これが車両の重量を担うことになる。これに「軸ばね座」という平らな板状の部品を取り付けるのだが、「側ばり」の方は凹凸があるので、そのままでは両部品の間には隙間ができる。その隙間をなくすために、従来の作業での慣例を踏まえ、「側ばり」の方を削って平らに近づけたのであった。この車種に対しては、特別に、「側ばり」は削ってはならないという作業指示が存在していたが、現場の作業者がそれに気付かなかった。こうして「側ばり」は薄くなって、強度を落とし、亀裂を生じさせることになる。「側ばり」という名称は、重要な部品につけるものとしては貧相にすぎる。名前が貧相なものは、馬鹿にされ、粗略に扱われるのである。貧相な名前の部品がまず壊れて、それに引きずられて機械全体も壊れるという事故のパターンは珍しくない。機械設計の世界には『続々・実際の設計失敗に学ぶ』(畑村洋太郎編著・実際の設計研究会著、日刊工業新聞社)という教科書がある。そこに、超精密加工で丁寧にこしらえた部品なのに、名前が「ブランク材」という貧相な名前だったので、工場ではポイッと投げて扱われ、傷だらけとなって故障が連発したという事例が載っている。もっと偉そうな名前だったらどうだろう。日本語には「お」や「ご」という、付けるだけで何でも敬称にしてくれる便利な接頭語がある。まずは「御梁」くらいは簡単に思いつく。もう少し頭をひねると、「主梁」や、「特製側ばり」、「特殊側ばり」などという名称も、それなりに特別感が出てくる。「厚み管理タイプ側ばり」や、「特殊形状重量支持体」「超高応力耐久精密構造体特級品」などという設計者の意図を込めた名前にすれば、これを削るのに躊躇するだろう。人間の理解力は良かれ悪しかれ、ものの名前に引きずられる。「精神分裂病」という病名を見れば、精神が分裂する病気だと勘違いしても無理はない。しかし実際に多いのは、

妄想や幻聴の症状はあるが、自己の精神は一体性を保っている患者である。今は「統合失調症」という名称に改称されている。◆工夫のない名前はミスの元。

◇断言するマニュアルの中では、何をなすべきかを、はっきりと断言する。曖昧な言葉では読者を惑わせる。具体的な行動を挙げて、実施を命じる書き方が正しい。それは当たり前である。この当然の理とは裏腹に、断言を避けたマニュアルが世の中にあふれている。マニュアルの執筆者は断言したくないのである。断言してしまうと、自分に責任が生じてしまうからだ。甲子園の高校野球を見ていたら、あるチームの監督が勝利後のインタビューで、こう語っていた。「今日は、相手の投手が非常に好調で、カーブがよく曲がっていた。だから、うちの選手には『カーブは見送れ』と指示しました」選手が「見送れ」という指示に愚直に従うと、打てるかもしれないカーブが来ても、見送るだけである。それが原因で見逃し三振となって試合に負けたとしたら、それは監督の一存の結果である。忠実な選手には何ら責任はない。これがダメな監督だと、「カーブに注意しろ」と言ってしまう。「注意しろ」なら、手を出すか出さないかは選手の判断となるが、それならば監督の曖昧な指示はもともと不要である。むしろ、変に緊張させる分、余計なお世話である。しかし、監督としては、選手が見逃し三振になるにせよ、凡打に倒れるにせよ、「注意しろと言っただろ」と言えるし、幸運にもヒットとなれば「ちゃんと注意して打ったな」とも言えるので、責任を回避できるズルい仕組みになっている。指示を断言で通すという当たり前のマニュアルを書くには、執筆者には責任を負う度胸が求められる。責任を負える地位にいる人でなければ書けない。資格も度胸もない人にマニュアルを書かせると、曖昧マニュアルが出来上がる。曖昧な指示として頻出するパターンを挙げて、その書き直し方法を考えてみよう。・「〇〇した方がよい」:行動が必須であるなら「〇〇する」に書き直し、実行させる。省略可能な行動だが、実行するとメリットを得られることもあるならば、「△△の場合は、〇〇する」と、実行する条件を明記する。・「〇〇に注意する」:注意とは心の中での行動である。体を大きく動かすわけではないし、具体的な結果も残りにくい。このように漠然とした行動を指示しても、読み手は何をすればよいのか分からない。本当に注意をさせたいのならば、「メーターを指さして、数値を声に出して読め」という指示になる。だが、注意するだけで十分ということは、実際にはありえない。注意した結果、何か

をすべきはずなのだ。「メーターを指さし確認し、値を記録帳に書き取る。40度以上ならば、ヒーターの電源を切る。」という、注意と行動のセットで指示するのが正式である。行動の中身が自明ならば、注意の指示だけでも誘導はできるが、セットでの指示の方が確実である。・「〇〇も参照のこと」:マニュアルに従って作業をしている途中で、マニュアルの別の部分を参照しろというパターンである。これは、参照した後に何をするかの指示がない。参照先をよく読めば行動の指示があるのかもしれないが、現時点では何を要求されているのか、読者には不明である。執筆者としては、「参照せよ」と書いておけば、何かあった時に「ちゃんと注意しておいた」と言い訳ができるので、責任逃れに都合がよい。この種の参照は一切廃止して、マニュアルの各部分に、そこで必要な全ての情報と指示を書くようにする。◆「注意する」は禁句。

◇単文で書くマニュアルは単文で書くことが基本である。単文とは、主語と述語が一つずつという最も構造が単純な文のことである。一度に一つの事柄しか言わないので、読者があれこれ記憶せずに済む。単文は書き手の意図を明確にする。戦国武将の本多重次が書き残した「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」という手紙は、マニュアルの文体としてもよい例である。ここまで短いと逆に強い自信を感じさせる。仕事で長い電子メールを書いてしまう人がいるが、時間がとてもかかるので避けるべきである。住友商事の常務だった鈴木朗夫は、外国で交渉中に日本の上司に宛てて、「事態複雑。一任を乞う」という大胆な電文を送ったことがある。上司も豪放で「一任する」と返した。これがサラリーマンにとって会心の電文往来だと彼はいう。状況が複雑であるからと言って、長いメッセージを書くべきだとは限らない。単文でないものに、重文と複文がある。重文は「ボタンを押して、レバーを倒せ。」という、主語と述語が2組以上ある文を言う。このような文は「ボタンを押せ。次にレバーを倒せ。」と分離する。ボタンとレバーのどちらが先かを明らかにする。複文は、複数の主語述語のペアが入り組んでいるものであり、「ボタンを押した人がレバーを倒せ。」や「ボタンを押した後にレバーを倒せ。」といった文である。これではレバーを倒すための前提条件を述べているだけで、ボタンをいつ押すべきなのかは明言していない。複文だと全体を命令文で通せないからである。「肉に火が通るまで5分間煮る」という複文は、「肉に火が通る」と「5分間煮る」という、2つの文が組み合わさっている。これでは複数の命令が並立し矛盾する恐れがある。まだ火が通っていないが5分経過した場合、何をすればよいのか判然としない。「まず5分間煮る。それでも火が通ってなければさらに煮る」と書き直すべきであろう。1972年11月6日未明、福井県の北陸トンネル内を走行中の急行列車「きたぐに」で、食堂車から出火した。北陸トンネルは全長約14キロメートルもある世界屈指の長大トンネルである。運の悪いことに、そのほぼ中央部を通りかかっている時に火災が起きたのである。当時の火災対処マニュアルでは、車両火災が発生したら、原則として直ちに停止して消火すべきだが、煙のこもりやすいトンネルは努めて避けよ、というものであった。乗務員はマニュアルの前半の方に従って、列車を止めてしまった。その結果、煙が充満し、一酸化炭素中毒により30人が死亡した。相反する原則と但し書きを併記することは、法律調で格調高いのかもしれないが、大きなリスクを呼び込むことになる。優先順位をはっきりさせて、車両火災ではトンネルを通

り抜けてから停車せよとしておけば、まだしも被害は抑えられたかもしれない。一般の文章では、重文や複文は珍しくない。むしろ、伝統的な日本語では文を区切らずに、重文で続けていくスタイルが標準であった。新聞も大正時代頃までは、一つの記事は長い重文一本だけで書かれている。文芸や論説には重文や複文がなじむのであるが、マニュアルには持ち込んではいけない。◆主語と述語は一つずつ。

◇大和言葉を使う単語は、簡単で直感的な言葉を選ぶ。漢語ではなく大和言葉を使う。「歩行する」ではなく「歩く」と言えば分かりやすい。「歩く」と言えばいいところを、「歩行する」や「歩行を行う」「歩行行動を発生させる」「歩行行動の実行を行う」などと持って回った言い方にしてはならない。「行う」という語は禁句である。ためしに、職場にあるマニュアルで「行う」の使用回数を数えてみるとよい。多いマニュアルは、書き方に難があるとみなしてよい。漢語にはいろいろとメリットがあるので、使いたがる人が多い。たとえば「見る」を、あえて「視認する」と書くと、高級そうに見える。また、敬語を使うのが苦手な人が、「ご覧になってください」という表現を思いつかなくても、「目視してください」と書けば、一応の格好はつく。漢語はこうして文章の格調をそこそこ整えてくれるが、その引き換えに、読みにくくなる。役所の文書には、「整備する」や「~に係る」という、他では滅多に見られない言葉遣いが多い。堅苦しくて、格調高く見える。同時に、幅広い意味を内包でき、論点をぼかすことができるので都合がよい。「○○施設を整備する予算」とは、建物を建てるための予算かもしれないが、何かを修理するのに使うかもしれないし、施設で働く人の人件費かもしれない。「X問題に係る施策」とは、X問題を解決するものかもしれないが、しないのかもしれない。これだけぼけていれば、後日、書いてあることと実態が違うなどと怒られる心配がない。さすがに公務員や法務関係者であっても、実務的な作業マニュアルを書く時に、「カップラーメンに係るマニュアル。まず、熱湯を整備する。」といった言い回しはしないと思うが、「電話する」を「架電する」と言う程度の特殊な表現は見かける。会社の法務部が作るとそうなりがちである。◆「行う」は禁句。

◇肯定形で書く否定形は、文が意味することを頭の中でイメージさせにくくする。よって、マニュアルでは極力避ける。「猫ではない場合は、牧草を与える」と言われても、何ら具体的なイメージは浮かばない。肯定形で「牛や馬には牧草を与える」と指示すれば、明快である。否定形は、この抽象性という欠点にもかかわらず、書き手にとっては便利なことがあるので使われがちである。否定形を肯定形に置き直すと長くなることが多いのである。「猫ではない」を「牛あるいは、馬、羊、山羊……」と長く具体的に列挙して書くのは、字数が多くなってしまう。だが、読者には否定形は害悪であるので、長くとも肯定形で書くべきである。否定形のもう一つの難点は、多重否定が起きてしまうことだ。「猫ではない場合は、カツオ節を与えない」という二重否定の指示は、「猫にはカツオ節を与えるべき」なのかについては不明確である。「嫌いではない」イコール「好き」とは限らないが、「日本国外ではない」イコール「日本国内」である。二重否定を肯定とみなすルールを、論理学では排中律と呼ぶが、排中律が成り立つか否かは、状況によるので明確に決まらない。二重否定は、マニュアルには非常に使われやすい。二重どころか三重否定も珍しくない。たとえば、次のような否定の連続が起こりうる。「住宅手当について説明します。あなたの住居は次のどれですか?①持ち家→持ち家のページをご覧ください。②それ以外の住居の場合、次のもの以外の場合は、賃貸のページをご覧ください。家族の所有の家、社宅(ただし独身寮以外のもの)。」独身寮の人は、持ち家でなく、「次のもの」でもなく、独身寮以外でもないという、3つの否定を相手にせねばならない。果たして独身寮の人は何をすればいいのか、分かるだろうか。このような異常な文章であるが、これくらい複雑な書類は世の中に珍しくない。否定形はマニュアルの書き手にとって好都合なのである。部分ごとに既存の規則やマニュアルがある場合、安直にそれを寄せ集めれば、全部に対応するマニュアルが一応はできあがる。しかし、それは否定にまみれたものになる。冒頭で、「Aの場合はAの規則を読め」と書いた後には、「Aではない場合は、Bの場合はBの規則を読み、そうでないならばCの規則を読め」と、マトリョーシカのように入れ子構造で書いてしまいがちだ。こうして否定が出現する。既存のマニュアルをだらだらと積み上げる時に、否定形は接着剤として安直に使われている。

◆否定形は肯定形に書き直す。

◇一発退場方式で読者を早期解放するマニュアルは、読者をできるだけ早く解放してあげるように作る。冒頭だけを読めば、自分に関係があるのかや、自分は何をすべきかが、最速で分かるように文章を組む。読了時間の短さは、マニュアルの性能のひとつである。自分に関係の無い文章を長々と最後まで読まないと、何をすればいいのか分からないようでは、マニュアル失格である。さらに悪いのは、途中まで読んだ段階では、自分が何をすればよいのかだんだんと予想が形作られてきたのに、最後の最後で「ただし、○○の場合は除く」などとドンデン返しを食らわせるものだ。法律には「ただし~除く」のドンデン返しが頻出するのが伝統で、極めて読みにくい。民間の約款やマニュアルでも、格好付けて法律の文体を真似て書くと、難解な文章になってしまう。早く読者を解放するには、「一発退場方式」でマニュアルを書けばよい。「この場合の人は、もう先を読まなくてよいですよ」と、ふるい落とすのである。たとえば「体調良好で、臓器移植を受けておらず、最近外国旅行していなければ、可能」という指示は、3つの条件を読んだ上で総合しないと結論が出ない。前の条件を覚えたまま、後ろの条件も読まねばならず、読者の記憶力には負担となる。そこで、次のように一発退場方式のチェックリストに改造する。□体調不良なら不可。□臓器移植を受けたことがあるなら不可。□最近外国旅行しているなら不可。全ての条件に該当しない場合だけ可。□今回は可である。これならば、ある割合の読者は、全部読む前に結論が出るので、早めにマニュアルを閉じられる。工夫して、該当者が多そうな選択肢から尋ねるようにすれば、より多くの読者が早期に解放される。また、条件を一つずつ個別に尋ねているので、記憶力は必要なく、シンプルであり、読みやすい。最大の利点は、退場の条件を箇条書きにすることで、論点が視覚的に見やすくなって、マニュアルが何を求めているのかが分かりやすくなることである。込み入った条件を一つの長文にだらだら書かれると、何が作業の要点であるのかを察することが難しい。◆大多数の読者には用無しの部分がマニュアルには多い。そこを読ませるな。ふる

い落とすべし。

◇暗記を助けるマニュアルの内容は、誰でも暗記できなければならない。読者が暗記できない事柄は、作業中には忘れられてしまう。マニュアルの冊子と首っ引きで作業をするようでは能率が悪すぎる。通常の職場では、作業者は何も手に持たずに仕事するのである。作業者の記憶に残らない指示は、いくらマニュアルに書いても無視されると覚悟せねばならない。暗記といっても、完全な丸暗記である必要はない。何かの場面に遭遇した際に、「そういえば、これについてマニュアルに何か書いてあった気がする」という危惧が得られれば十分である。詳細を知りたければ、マニュアルに当たればよい。何も危惧を感じないのではダメだが、思い出しのきっかけが得られれば事足りる。人間の記憶能力はいびつであって、意味を記憶することは苦手だが、音楽や光景を記憶するのは得意である。意味を覚えようとすると苦労するが、語呂合わせや、歌、絵にして覚えると楽である。大学で法律の授業を受けていた時、先生はこう言った。刑法は、今は口語体に改正されたが、かつては文語であり、その方が暗記しやすかった、と。たとえば、刑法38条2項はこう変わった。文語体:罪本重カル可クシテ犯ストキ知ラサル者ハ其重キニ従テ処断スルコトヲ得ス。口語体:重い罪に当たるべき行為をしたのに、行為の時にその重い罪に当たることとなる事実を知らなかった者は、その重い罪によって処断することはできない。口語体の文を、暗記によって正確に再現することは難しい。文節が抜けたり、順番を間違えたりしてしまう。一方、文語体は、意味こそ難しいが、テンポがよいので、何度か暗唱を繰り返せば、音楽的に頭に染みつき、一字一句間違えずに暗記できる。交通安全の標語などで、七五調が選ばれるのも、覚えやすいリズムだからである。「取らぬ狸の皮算用」や、「はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣いてもふた取るな」といったことわざは、七五調でなければ果たして現代まで残っていただろうか。日本以外では、標語やスローガンは韻を踏むことが多いが、これも記憶を助ける手段である。複数の事柄を覚えるために頭文字で語呂合わせにすることも常套手段である。ビジネスの基本「報告・連絡・相談」は「ホウレンソウ」。調味料を入れる順番は「さしすせそ」(砂糖、塩、酢、醤油、味噌)。小児科で鎮静前の経口摂取制限は「2‐4‐6ルール」(子どもに麻酔をかける場合、清澄水は2時間前まで、母乳なら4時間前、軽食なら6時間前までなら摂取してもよいとするルール)。イラストや写真、図、表、箇条書きといった視覚的に特徴のある内容も、暗記を大いに助ける。文字だらけのマニュアルの中にビジュアルがあると、それが思い出しの手がかりになる。また、文章の中で、特定の文字列を検索することは人の目には難しいが、ビジュ

アルを見つけ出すことは簡単である。目次に頼らずとも、該当のページを素早く発見することができる。ビジュアルの効果的な使用の例として挙げねばならないのは、福岡市地下鉄である。駅ごとにシンボルマークが決められていて、路線図などの案内に使われている。利用者の注意を引きつけ、覚えやすいばかりでなく、近隣の名所や歴史といった幅広い情報も同時に伝えている。上には上がいて、CotéとLermanとBrianAndersonによる『APracticeofAnesthesiaforInfantsandChildren(6thEdition)』という医学書の表紙が(資料5)、私が見てきた中では最高傑作と思われる。この本は、小児科での麻酔のかけ方の指南書である。普通、医学書の表紙は、デザインに金をかけても仕方がないので、専門用語が並んだ表題に、素朴な幾何学模様をあしらった程度である。また、子どもに麻酔をかけるのは重大な手術の時であるから、お堅いデザインの表紙になりがちだ。だが、この本の表紙は、麻酔の機械の前で、患者の子どもがヒーローの変装をして勇気凜々としている大きな写真である。ここまで印象的な表紙ならば、本の存在を忘れることもないし、本棚から見つけ出すことも簡単である。だがこの表紙は、単なる目印の役割を超えて、患者とともに戦うという仕事の本質も指し示している。◆いい内容のマニュアルも、読者の記憶に留まらなければ無駄。

◇写真で見本を見せ、図で論理を見せる社内の指示書やマニュアルが、ビジュアル的要素に乏しく、下手をすれば文字だけでできているのを見るにつけ、もったいないなと嘆息せざるを得ない。ビジュアルは決して添え物ではない。写真や図といった視覚の世界こそが、人間の思考が最も働く場である。人間は言葉による思考も使うが、イメージによる思考に比べれば、かなり小さい存在だ。百聞は一見に如かず。言葉でくどくど説明するより、ビジュアルにすれば、簡単かつ完璧に説明が伝わることがほとんどである。知らない単語をネット検索する際には、画像検索にするのがコツである。文による説明は下手なものが多いが、画像検索なら写真そのものや模式図が出てくるので、すぐに飲み込める。ビジュアルには、目印となり暗記を助けるだけでなく、次の効用がある。○作業結果の品質を安定させる。○論理関係を素早く、正しく理解させる。○危険を悟らせる。○外国語話者にも意味が通じる。作業の指示において、見本を見せることは極めて効果が高い。良品の完成見本が目の前にあれば、それに合わせるように作ればよく、直感的で楽である。見本を真似るという行為は人間の性分に合っている。一方、言葉だけでものの作り方を説明しても、聞き手には分かりづらい。特に、品質の指示という点で、ビジュアルは言葉を圧倒する。「この面をきれいに磨く」という言葉の指示では、どこまできれいにするのか、読み手によってバラツキがでる。見本があれば、誰もがそれに合わせるので、製造物の出来栄えが揃う。工場なら、良品見本を現物で用意して、作業員の目の前や近くに置くこともできる。ある会社では、とある外国に工場を作り、そこで生産しようとした。しかしふたを開けてみると、その工場で働く人は、別の国から来た出稼ぎ労働者ばかりだった。せっかく、マニュアルを現地の言葉に翻訳したのに、これでは使い物にならない。そこで、言葉による説明をやめて、良品見本で指示することにした。これは分かりやすいので非常に能率が上がった。ついには、良品見本を日本の工場にも逆輸入して使うことにしたという。事務室ではそういう空間の余裕はないので、見本は写真や図で見せることになる。通常は、リアリティが高く、図を描く手間が要らない写真が選ばれる。が、写真では色のコントラストや微細な部分が見えにくい、あるいは隠れた重要部分が見えない、などという事

情がある場合には、図やイラストを使う。込み入った指示の場合には、図や、表、グラフで表すべきである。たとえば、レシピにこう書いてあるとする。例1:調理の手順(1)はじめの8分間は、温度90~100度で煮る。(2)5分間、温度が80~90度の間になるように弱火で煮る。(3)温度が50度以下になるまで冷ます。これを一目見て、意味するところが分かるだろうか?また、覚えられるだろうか?資料6のようにグラフにしてみれば、一目瞭然であり、ずいぶんと単純な論理関係であると初めて気が付く。ビジュアルには、危機意識を呼びおこすという効用もある。怪我や傷の痛々しい写真やイラストは、見るだけでぞっとする。資料7のような、針が突き刺さるとか、指が切れるといった、身体が損傷する画像を目にすると、まるで自分の体がそのような目に遭っているかような不快感を引き起こす。深く恐怖することで、読者は事故に巻き込まれないように慎重になる。

人間は、言葉でリスクを注意されても、表面的に理解するだけで、自分にも起こりうることだとまでは深刻には受け止めないものである。また、日本ではグロテスクなものを嫌う文化がある。何かの危険に注意させるイラストであっても、怪我をする前のシーンを描いている控えめなものが多い。これでは効果は薄い。アメリカの大学に行った時、実験室の安全について講習を受けたが、「レーザー光線を見るな」という注意では、レーザーが当たって焦げてしまった本物の目玉の写真を見せられた。どぎつすぎてトラウマになりかねないので、イラストにするべきだと思う。「危ない液体をふた無しで運ぶな」という注意では、塩酸の入ったバケツを胸の前に抱えて運んでいた人が、滑ってころび、頭から塩酸をかぶって全身が溶けるという動画を見せられた。これは本物の事故の映像ではなく、役者を使った再現であるが、迫真の演技でグロテスクであった。国によっては、残酷なビジュアルであっても安全のためなら活用するという考えもありえるのだ。◆百聞は一見にしかず。百文は見本にしかず。

◇フローチャートは使うなもう一つ例を挙げよう。作業工程に条件分岐が多い仕事がある。それを言葉だけで指示すると、非常に見通しが悪くなる。次の作業手順は、全体として何をしているか分かるだろうか?例2:旅行代金を決める手順①行き先が北米であれば②へ、そうでなければ⑦に行く。②都市がニューヨークであれば③へ、そうでなければ⑥に行く。③ホテルが三つ星であれば④へ、そうでなければ⑤に行く。④12万円である。⑤20万円である。⑥10万円である。⑦都市がロンドンでなければ17万円である。それ以外は⑧に行く。⑧ビジネス旅行であれば④へ、そうでなければ⑤に行く。この指示を、フローチャート形式で表すとすると、資料8のようになる。しかし、これでも矢印が入り組んでいて、全く見やすくない。

フローチャートは、50年ぐらい前までは、計算機科学の分野で多用された技法であるが、実のところ、その計算機科学分野で評判がすこぶる悪く、もはや使われていない。未だに使う人がいたらモグリということである(もっとも、未だに大学でもフローチャートを教えているから、その人の責とも言い難いが)。フローチャートの致命的な欠陥は、くねくねと長い矢印を引っ張ることをいとわなければ、次の手順をどこにでも指定できてしまうことである。その結果、論理の流れをグジャグジャに描いてしまうことがしばしばあり、読みにくい上に間違いも多いプログラムを作ることにつながる。論理を表すには早見表の形式が使われる。計算機科学の世界では、ナッシ・シュナイダーマン・ダイアグラムという方式が代表的であるが、ここではそれを簡略化した方式を紹介する。外食産業のマニュアル作成などで使われているものだ。資料9のように、手順を上から下へ順序よく並べ、場合を左右の位置の違いで表す。こうすれば、「まず方面を調べ、次に都市、そして条件をセットすれば料金決定」という、4ステップ構成の仕事であったことが明らかになる。この早見表なくして、「全体が4ステップだ」と見抜けるものではない。

早見表は、手順の段取り構造を、表の中の層として見せてくれる。その層を把握することこそが、手順習得の核心である。仕事に慣れてきた人とは、自分が今、仕事の全体の段取りのどこにいて、次はどの層に取りかかるべきか、心の準備ができている人である。つまり、頭の中に早見表ができることが「習得」なのである。早見表は、マニュアルの更新や検査がやりやすい。各要素が、上下左右に意味関係をもって配置されている。すると、たとえば、ある欄の値が右隣と大きく違いすぎると目立つのである。こうして間違いを発見しやすい。仕事は時代とともに変わっていくものであるから、条件分岐に関わる細かな値も、適宜更新しなければならない。早見表ならば、同種の事柄が資料9では近所に固めて書かれているので発見しやすい。一方、文章では、各要素の場所は分散し、見落とすと更新を漏らすことになる。仕事によっては、あまりに条件分岐が複雑すぎて、早見表では描ききれないという場合

もある。しかしそれは、そもそも仕事の方が異常であるというべきだ。複雑すぎる作業は、どうマニュアルで説明したところで、人間の理解力を超えているので成功しない。また、その複雑さは本当に仕事の本質に根差したものなのかは疑わしい。「我々は情報化社会に暮らし、ビジネスをしているというのに、省庁の本格的な再編成といえばテレビがまだ白黒だった頃になされたきりだ。12もの省庁が貿易に関わっている。住宅を所管する省庁は少なくとも5つある。私が気に入っている例はこうだ。サケは淡水にいる時は内務省の管轄だが、海に出ると商務省の管轄になる。燻製にされるとますます複雑になる」(2011年のオバマ大統領による一般教書演説)仕事は時代とともに変化する。何の工夫もなく、手順を追加したり改訂したりを続けていくと、手順は不必要に複雑になる。手順が早見表に描けないということは、改革を怠っている証と言える。◆条件分岐には早見表を使え。

◇人工知能でも読めるように書く今後の社会では、マニュアルに限らず、あらゆる文書は、人工知能(AI)に読ませて活用されることになる。それに備えて、文書は人工知能によって読みやすい「AIフレンドリー」な形式で書かねばならない。進んだ職場では、マニュアルはタブレットに格納してある。タブレットの方が、紙より軽いし、動画も使え、検索が利き、マニュアルの更新や差し替えも簡単で、他のアプリも使えて、トータルで見れば低コストだからだ。そして、作業者がスマホに向かって「これはどうすればいいのか教えて!」と尋ねれば、マニュアルに基づいて「こうすればよい」と答えを出してくれるようになれば最高である。管理職レベルでも、「A部の業務規程と、B部のマニュアルには矛盾があります!」とか、「A部の仕事と、B部の仕事には重複があって無駄です」と、問題点を見つけてくれる人工知能があればいいのにと思う。しかし、現状は文書の書き方が整っておらず、人工知能が活躍するにはほど遠い。「倉庫から原料を取り出し、作業室に送る。」という文を読んだ人工知能が、「倉庫の原料を送る先は?」と尋ねられて「作業室」と答えることは難しくない。主な単語を検索するだけで答えにたどり着ける。だが、執筆者は一貫性を持って単語を選ぶとは限らない。「倉庫から原料を取り寄せ、作業室に置く。」は、先ほどと同等の意味内容であるが、人工知能は文意の同一性の判定が苦手だ。「取り出す」と「取り寄せる」が類義語であると知っていれば答えられそうだが、それには単語それぞれについて類義語が何かをあらかじめ教えておかねばならない。文意の同一性判定は、理論的には難しくないが、国語辞書を編纂するような手間がかかるので難問なのである。主語や目的語が省略されがちという点も、人工知能の苦手とするところである。「生地をオーブンに入れ、加熱し、焼き目が付いたら取り出す」という何気ない文ですら難問だ。「焼き目が付くのは生地であってオーブンではない」という常識を持ち合わせていない人工知能には理解不能なのである。人工知能が人間並みにマニュアルの意味を理解できるようになるには、まだ相当な時間を要するだろう。「倉庫から原料を取り出し、作業室に送る。」という指示に対し、倉庫を爆破して爆風で原料を作業室に叩き込んでも論理上は間違いとは言えない。温度や圧力についても指定がないから、原料をわざわざ高温かつ圧縮状態にして運んでも、文句は言えない。人間なら常識があるから、言わずもがなの事項を適切に推定してくれる。人工知能はそれができず、全てを指定しなければならない。そのため、マニュアルの言っていることだけは理解しても、作業全体は成功しない。

せめて検索だけでもすんなり成功するようにしたい。それには、用語を揃えて、マニュアル内では一貫するようにする。「電子メール」のことを「メール」や、「メイル」「eメール」「email」などとバラバラに書いていては、人工知能には分からない。正式名称を定め、リストにする必要がある。パワーポイントやエクセルで書かれた図表主体のマニュアルは、中にある文がぶつ切れになり、段落が断絶しがちである。これは人工知能にとって大きな障害である。通常の文書なら、文は段落の中でベタにつながっているので、その順序とつながりは人工知能にも分かる。図表主体となると、ある文の次に読むべき文がどれになるのかの判断は難しい。特に、罫線が特殊な表や、吹き出しの中に書かれた文となると、それがどこにつながっているのか人工知能には分からない。イラストや説明図は作業の仕方を説明する上で大きな役割を持っているが、人工知能がそれを正しく認識することは難しい。人間の読者にとっては図表の解釈は楽なのだが、人工知能には難問である。人工知能に常識を持たせる技術自体はいろいろ提案され、インターネットの検索では使われている。実際、かなり曖昧で誤字の多い検索であっても、大手の検索エンジンを使えば、そこそこ妥当なページを見つけてくれる。大手は、単語の同義語・対義語の辞書作りに金をかけているし、文章構造の理解のための技術も日々研究開発している。となれば、大手の検索エンジンに乗っかればよいという発想も出てくる。社外に見せてよいマニュアルならば、それらを全てインターネット上に公開する。使い方の問い合わせは、大手の検索エンジンを使ってもらうことにする。こうすれば、難しい問い合わせもうまく処理してくれるだろう。社外秘のマニュアルや規定類を、社員が楽に検索できるようにしたいならば、大手の検索サービスを社内専用のバージョンで買うという手もある。こういった社内文書の整理・質問回答サービスは、業務効率化に効果があるので広まりつつある。「AIフレンドリー」のさらに上として、「AIレディ」、すなわち人工知能がマニュアルを間違いなく解釈でき、活用できるというレベルが考えられている。作業の段取りを、自然言語(日本語や英語といった、慣例のルールで規定された言葉)で記述すると、曖昧さが残る。図表も各自がバラバラの流儀で作っていては人工知能には解釈が難しい。そこで、統一モデリング言語(UML)という形式の整った表現法で記述して、仕事の流れを明らかにするのだ。こうすれば、人工知能が職場を見渡し、人間の位置やファイル、道具などを観察するだけで、今、作業がいくつあって、それぞれどの段階にあるのかが把握できるようになる。さらには将来を予測して、複数の作業者が同時に同じ道具を使いたい事態など、作業上のトラブルが見込まれれば、仕事の割り当てを分散させるといった指示が出せる。現状の人工知能が、世の中にある仕事を何でもかんでも指揮できるわけではない。だが人工知能に指揮させた方がよい仕事はすでに大量にある。たとえば、商品をいくつ生産して、どのルートで配達して、どの店のどの棚に何個並べるべきかという、数学的な大量の計算が必要な課題は、すでに人工知能が考えて、人間は

指示に従うだけとなっている。計算ずくで結論を出すべき、いわば情報処理の雑用は、人工知能に任せるべきだろう。◆検索できないマニュアルはゴミ。

第3章マニュアルのあり方マニュアルは、いつ、どこの、誰に、何のために、どう読ませるかを考えて作らねばならない。単に言語表現だけを気にすれば事足りるわけではない。この章では、読み手との関わりの観点から、マニュアルが備えるべき工夫を考えていく。

作業を構想する際に検討すべき範囲作業を設計する時、単に作業の本体だけを考えればよいのではない。後始末や訓練方法、事故時の対処など、さまざまな側面も考えなければならない。それは資料10のように多岐にわたる。仕事を構想し、人に作業を指示するのであれば、これだけ広い事項について事前に検討して、文書に明文化しておかねばならない。考え漏らしがあると、安全の維持や、品質の保証、作業効率などに問題が現れる。

ただし、全てが現場の作業に必要というわけでないので、作業者向けのマニュアルには抜粋した部分だけを載せることが通例である。最低限、作業手順だけを並べておけば、一応は作業を進める上で困らない。また、マニュアルは一枚紙に収めるという原則からも、不急不要の情報は省略するべきである。マニュアルが冊子体になってしまった場合、ページをめくらなくては情報が見えないというハンデを負う。表紙だけは例外で、ページをめくらずに見ることができる。特に表紙の上端部は、注目を集めることに関しては一等地と言える。よって、冊子体の表紙の上端には最重要事項を書く。まず第一に、危険を伴う作業の場合、緊急通報先や絶対禁止事項は、省略してはならない。これらはマニュアルの表紙に記載せねばならない。また同様のものを、作業現場においても壁などの目立つところに掲示しておく。第二に、近い将来において作業方式が変更される予定がある場合は、マニュアルの表紙にその有効期限を明記する。作業には、それを実施する目的や、そういう手順になった経緯、現象の科学的メカニズムがある。これらの背景的な情報を知って作業する方が、安全や品質を保ちやすい。しかし、それらは直接的には作業に必要のない情報であるので、コンパクトなマニュアルにも記載するかは悩ましいところである。背景的情報を知らないまま作業すると、とんでもない間違いが起こることがある。金や、銀、白金などの貴金属は爆発するだろうか。「金の爆発に注意しよう」と言ったら、おそらく冗談と思われる。一方で、火薬学の世界では、金が雷金という火薬となることは常識中の常識であり、かなり古くから知られていた。錬金術師が金にあれこれ薬品をかけていじっているうちに爆発する事故があったのである。貴金属材料を今まで使ってこなかった工場が、製品変更の都合で、急に使いだすようになると、貴金属爆発の事故が起こる。貴金属の経験を持たない作業者に「貴金属爆発のメカニズムを知らなかったのか」と言うのは酷である。大きな水泳プールでは、底に排水口があって、水が強い勢いで吸い込まれている。ふたをしていない状態で人が排水口に近づくと、排水管まで引きずり込まれ、死亡するだろう。2006年、埼玉県でこの事故が実際に起きた。吸い込まれを防ぐために排水口を格子のふたで覆い、ふたはボルトによって確実に締結するというルールは存在していた。しかし実際にはボルトは使われておらず、その当然の結果として、ふたは何らかの弾みで外れてしまったのである。2019年に、山形県の水族館で、アザラシの赤ちゃんが水槽の排水口に吸い込まれて死亡した。ここでもふたを固定するためのボルトを使っていなかったという。事故の大半は、過去にすでに起きたものの「二の舞」である。昔の事故の話は、事故を回避するためには絶対に必要である。今日は運よく事故にならなくても、いつかは「一度

あることは二度ある」で昔の事故とそっくり同じ状況が生じる。知識がなければ事故は避けられない。以上のように、作業の本体以外の周辺的な話題が大量にある。これを文書から省略することは危険である。作業中に常用する一枚紙マニュアルには書ききれないにしても、別途、マニュアルに書き残し、言い伝えていかねばならない。◆マニュアル作りでは、作業の後始末や、トラブル対策、訓練法まで、考えよう。

センス・オブ・コントロールを与えるセンス・オブ・コントロールとは、自分は事態を掌握できているという感覚である。現在の状況を知ることができて、将来の状況も見通すことができ、自分が主導権をとってコントロールできることへの自信を言う。センス・オブ・コントロールは、自分が主導権をとれていることが大事であり、単に状況が苦しくないということではない。自動車のドライブを楽しむなら、行き先は気ままに決め、天気のいい日に、見通しがよくて空いている高速道路を運転したい。整備された道路だから、やっかいな出来事はまず起きそうになく、仮に起きたとしても道が広いからよけることができる。これならばセンス・オブ・コントロールを強く感じる。同じ運転であっても、他人から急にルートの変更を命じられたり、ごちゃごちゃした道をおっかなびっくり運転しているのでは、センス・オブ・コントロールをほとんど感じない。会社における仕事でも、センス・オブ・コントロールが一番大事なのである。たぶん成功できるぞと見通しがつく仕事は、たとえ労力がかかるものであっても、気分的には楽である。逆に、成否が天候に左右されるとか、客の反応が予想できないとか、あるいは社内で摩擦があって上司や他部署から思わぬ横やりが入る恐れのある仕事は、神経を使う。マニュアルは雑に作ると、作業の指示だけで終わってしまう。作業者は、マニュアルに命じられるまま手を動かすだけであり、主導権を感じることができない。ごく短時間でこなすべき単純明快な作業に対しては、作業者はマニュアルに言われるままに行動するだけでよい。災害時の避難のように、速くかつ例外なく実行する必要がある行動は、むしろ読者は自分で考えない方がよい。状況が複雑で手順の長い作業では、作業者が何も考えず唯々諾々と動くだけでは危険である。全ての場合をマニュアルに書ききれるわけはなく、マニュアルにない想定外の事態が必ず生じるからである。いざという時は、マニュアルが役に立たなくとも、作業者が自力で解決せねばならない。日々の仕事を漫然とこなすだけでは、臨機応変な対処能力は身につかない。よって、仕事の性質に応じて、マニュアルと人間との主導権のバランスを調整する必要がある。主導権の配分の仕方には、資料11に示す4つの段階がある。最も素朴なマニュアルは、状況に対して受け身の行動を説明しているが、レベルが上がるに従い、徐々に作業者が先を読むことへの支援を提供し、最終的には状況変革の主導権を握るように仕向ける。

西野カナの曲、『トリセツ』の歌詞は、序盤はトラブル発生時の受け身な対応策を指示しているが、終盤に近づくにつれ、自発的な行動を提案してくる。バランス調整がうまくできている。今後、職場のマニュアルは続々と電子化されていき、タブレット端末やスマートフォンで読むことが増えるだろう。これらの機器はコンピューターであるから、作業状態を認識し、事態を先読みすることもできる。すでに現在でも、カーナビは「まもなく、交差点です。右折してください」という風に予告できているが、前もって言ってくれる分、運転者は心の余裕ができる。先読み能力をさらに増強し、はるか将来を見越して作業の実現を手助けする、プレディクティブ支援レベルのシステムが、産業の現場では増えている。予測能力だけでなく、紙の節約や検索の便利さという長所を鑑みても、マニュアルの電子化の利はかなり大きい。そして電子マニュアルの能力を最大限に使うため、職場のIoT化が叫ばれている。IoTのことを、「もののインターネット」だと捉えると意味が曖

昧だが、実際的なインパクトは、仕事や人や道具が今どこで何をしているかをスマートフォンで見えるようにし、さらには操作したり調整できるようにすることにある。職場の全ての状況を即時に把握できるようになれば、目先の対症療法の域から脱し、大所高所から仕事の改善を自発的に考えられるようになる。これぞセンス・オブ・コントロールであり、プロアクティブ支援のレベルである。◆主導権感覚を育てよ。唯々諾々の作業者ではダメ。

緊急事態用のマニュアル事故や災害が起きた時の対処方法を指示する種類のマニュアルがある。これには、他のマニュアルとは異なる特殊な配慮が必要となる。緊急事態下では、安全の確保だけが目的となるべきである。より正確に言えば、危害を受けず、かつ安定した状態に移り、救援を待つことが目標となる。危害を受けないためには、異変が起きたらすぐに作業を中止し、遠くへ避難することが基本となる。作業を中断する勇気と、逃げる勇気が必要だ。吉田という騎手は語る。「馬には馬ごとに特有の手強さがある。人間の力では対抗できないと知るべきだ。乗ろうとする馬をまずよく見て、長所と弱点を調べよ。次に、くつわや鞍などの馬具に危ない点があって心配ならば、その馬に乗ってはいけない。この用心を忘れない人を騎手という。これが乗馬術の奥義である」と。(『徒然草』第一八六段「吉田と申す馬乗り」)避難の目的は、差し当たりの被害を避け、時間を稼ぐことにある。避難所に、水と食べ物があれば、数日は籠城できるから、とりあえずは腰を落ち着けられる。工場では、機械にトラブルや異変が起これば、まず電源を遮断して、動作できなくしてしまう。動かなくなってしまえば、事態は悪化しないので、逃げたり、調べたり、対策を考えたり、救援を待つ時間をたっぷりと取れる。負けるにせよ、1秒でも遅く負ける。拙速に勝とうとしてはいけないと、『徒然草』の第一一〇段でも言っている。「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし。」緊急事態用マニュアルは、災害への拙速な反転攻勢を指示してはならない。当事者が援軍を待ちきれずに自力で反撃を試みると、大きな被害を受けてしまうことが多い。工場での死亡事故の事例を見ると、作業員は逃げるどころか、むしろ危険な現場に乗り込んで、それがために死亡している。持ち場を任された従業員は「自分が頑張れば、トラブルを帳消しにできるかもしれない」という自負心があるから、あえて危険を冒してしまう。この自負心を抑え込むには、「事態がここまで悪化したら、あきらめて、逃げて、援軍を待つ」という明確な基準をあらかじめ決めて周知しておくしかない。ここでいう「明確」とは、判断や解釈の手間を差しはさめないほどに、具体的に指定することである。「消火器で火を消す」という記述ではまだまだ抽象的である。「東側の壁に設置されている消火器を取って、火を消す」とまで具体化せねばならない。『般若心経』は、物事には固定的な本質がないという「色即是空」の考えを唱えている。目の前に山があれば、普通は「山があるな」と思うだけだが、状況によっては「あそこは津波の避難場所として使える」とも認識できる。あるいは「避難ルートの邪魔になる障害

物だ」や、「地震時には山崩れしそうな危険な場所」と認識する人もいるだろう。山を見て「あれは山」だと認識できたつもりなっても、それは「とりえあえず山ということにしておこう」という思考停止であって、実は何も認識していないことに等しい。緊急事態では人によって認識はバラバラになり、意見がまとまらない。東日本大震災の際、宮城県石巻市立大川小学校では、生徒と職員の大半が津波によって死亡した。事前に制定されていた危機管理マニュアルによれば、まず校庭に逃げ、次に「近隣の空き地・公園等」に逃げるという手筈であったが、その空き地とは具体的にはどこのことかは決まっていなかった。結果、避難場所の選定の議論に時間を使い、津波に飲まれてしまうことになる空き地へ大多数の人が避難してしまった。緊急事態用マニュアルでは、人々の認識を誘導するように、物事の呼び方には入念な工夫をする。たとえば、津波の避難所になる、山や人工の高台のことを、「命山」と呼ぶといった慣例がある。これなら山の機能は明白だ。学校では、給食での食物アレルギー事故のリスクが悩みの種である。「食物アレルギー緊急時対応マニュアル」なるものが各自治体で策定されている。対策の切り札である注射薬は「アドレナリン自己注射薬」や「アナフィラキシー補助治療剤」「エピペン」と呼ばれるが、この医学的な名称に読者はたじろぐ。いざという時には、居合わせた大人が、たとえ医師でなくとも、直ちに患者に注射できるかどうかが生死を分ける。常識的には素人が人様の子どもに注射をしてよいとは思えないし、必要かどうかも症状にもよるのではないかと迷いが湧く。だが、アナフィラキシーショックの進展は急激であり、30分ほどで心臓が停止する恐れがある。救急車や医師を待つという態度こそが危険なのだ。ある学校で死亡事故が起きて以降、マニュアルは、「注射して救急車を呼べ」「迷ったら打て」と、断定調で手順を指示するようになった。明確化をさらに推し進めると、危機管理マニュアルはタイムラインという形式に行き着く。発災の10秒後、誰がどこで何をしているか。1分後、5分後、1時間後、1日後ではどうだろうか。経過時間を軸にして、人々の行動を予定してしまうのである。非常事態を経験したことがないと、その対応計画を考案することは、雲をつかむような話であるため、難しい。しかし、今この瞬間に非常事態が起こったと仮定して、自分が何をするかを経過時間に沿って想像することは、なんとかできる。「震度7の揺れはじめから5秒後、あなたは何をしていると思いますか?」と問われれば、「揺れている」と想像がつくし、5分後なら「電話で家族に連絡を取ろうとするだろう」とイメージできる。ここまで想像してみると、よりましな行動も見えてくる。「5秒後は、天井が落下するので、身をかがめて頭を守る」とか「大地震の5分後では電話は不通である。それより身の回りの火事や津波の恐れを考えるべき」とアイデアが湧いてくる。こうして、タイムラインに沿って、経過時間ごとにありえそうな状況と、望ましい行動を、あらかじめ台本にしておけば、実際の緊急事態でも強力な手本となるだろう。緊急事態用マニュアルは、誰にでも理解できること、つまりユニバーサルデザインが求

められる。簡潔で見やすく、かつ断定的に指示を出さねばならない。点字も必要だ。外国人が使用しても言語の違いなどが障害にならないように、多言語化やイラスト図解など非言語的な説明を用いる。◆勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。

ユニバーサルデザインに則って書くマニュアルは誰でも読めて、理解でき、実行できる形でなければならない。さまざまな読者が存在するからだ。視力や、聴力、筋力、体格、病状、知識、文化、地域、使用環境など、人によって違う要素は数えきれない。「字が小さくて読めない」「字は読めても意味が難しくて分からない」「意味は分かっても作業を実行する技能がない」というように、何重ものハードルが存在する。マニュアルに点字を付けることは大事である。点字がない場合は、スマートフォンでマニュアルを撮影し、コンピューターに文を読み上げさせる。枠や矢印などが変にごちゃごちゃしている紙面では、文字の読み取りがうまくいかない。シンプルなレイアウトを心がけたい。QRコードに、本文のデータをまるごと入れておくという方法もよい。地味なところを挙げれば「年月日」の表記法ですら人類共通の方式がない。日本は「年月日」の順で書くが、米国では「月日年」の順であり、欧州は「日月年」となる。イスラム圏やエチオピアには、また独自の暦がある。国際的な仕事向けのマニュアル作りは神経を使う。読者それぞれの事情に対して、マニュアル製作側がどこまで対応するべきか。どのような人が使えないことを甘受するべきか。この線引き問題に対して、障害者の権利に関する条約では「合理的配慮」を求めている。合理的配慮の定義を見ると、「障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」とされている。個々人の尊厳、社会のメンバーとしての地位が守られうるかという、社会公正の観点から考えねばならない。言葉の違いはユニバーサルデザインの中でも大きな問題である。これからの日本の社会で、マニュアルの説明文には標準的な日本語だけで事足りるとは考えにくい。産業の現場では文書や看板に、英語を添えることは必須であるし、使用者人口の多い中国語やベトナム語も付けることが多い。今は、スマートフォンの自動翻訳を使う人も多い。マニュアルを単文スタイルで書いておけば、誤訳が少なくて済む。いっそのこと、言葉をやめて、作業を説明するイラストや動画、完成見本を見せる方式にしたマニュアルも存在する。ヨーロッパの国際列車の注意書きは、何語で書いても全ての客が読めるとは期待できないので、イラストが主体になっている。同様に、全世界に販売する製品のマニュアルもイラストのみで説明するものがある。日本国内であっても、普通の日本語で十分とは言えない。子どもは漢字を読めないし、大人でも専門用語は分からない。「頓服薬」と言われても意味が分からないので、「痛くなったり、苦しくなった時にすぐに飲む薬」と言い換えねばならない。

◆あなたが読めても、他人も読めるとは限らない。

人々の安全と、尊厳を守るものにする言うまでもないが、マニュアルは危険な結果を招く手順を指示してはならない。また、法令を守らねばならない。深く考えないでマニュアルを作ると、思わぬ危険を呼び込んでしまう。インターネット上には、一般人が自作の料理レシピを投稿するサイトが数多くあるが、中には危険なレシピが掲載されている。乳幼児(特に一歳未満)にハチミツを食べさせるのは厳禁であるが(乳児ボツリヌス症の危険があるため)、乳幼児向けなのにハチミツを使用したレシピが掲載されている。マニュアルは、商品を安全に使う方法を指南する任務も帯びるが、そこには種々の困難がある。しかし、商品に潜む危険に気が付くように、そこを強調すると、商品の悪口を書いているようになってしまう。だからといって曖昧に書いてはダメである。「ここが危ない」や「こういう事故があった」というリスク情報を恥ずかしがらずに書かないといけない。健康に関することを消費者に説明する際は、世間に流布している誤解や不安感、恐怖心が大きいので、かなり難しい。昭和の頃の、公害や、薬害、食糧事情などの悪印象が未だに強いのである。『広辞苑』は「無添加」の意味を「異物、特に、健康に有害な物質を加えていないこと」としている。豆腐を作るときに用いる「にがり」は食品添加物である。すると、にがりを用いた豆腐は無添加ではないから健康に有害だという、珍奇な結論に至る。日本人は千年も豆腐を大量に食べてきて長寿国になっているのだから、笑い話のような誤りだが、ネット上ではこの珍説がくすぶっている。「無添加」という言葉から、安心感と高級感を受け取る消費者は多い。一部の食品産業や外食産業が「無添加」の3文字を表示したがるのも無理はない。食料品店の豆腐売り場には、パッケージを一見すると「無添加の豆腐」と読めそうな商品がたくさんあるが、改めて読み直してみると、「ある物質に関しては無添加だ」という意味だった。イメージアップのための苦肉の策である。また、マニュアルでは差別的な用語を使ってはならないということも重要である。書き手に差別の意図がなくても、結果として差別となってしまう作業手順も許されない。子どもに親の名前を尋ねることは、かなりプライバシーに踏み込むことになる。離婚や、死別、非嫡出子、事実婚など、さまざまな家庭の形がある。子どもを対象とした業務のマニュアルでは、プライバシーに障る手順がないか厳重に点検せねばならない。「氏名を記入してください」という指示は、事務作業では当たり前に登場する手順であるが、実はかなり悩ましい。通名を使用している人もいれば、「氏」や「姓」という家族名の概念のない方式の国の人もいる。家族名はあるにはあるが、そこから身分の低さがばれ

てしまうという国もある。差別問題に対処するようにマニュアルに工夫をこらしていくと、かえって「世の中にはそんな差別があるのか」と読者に気付かせるリスクを招く。それならば、作業の方が譲歩するべきである。人の名前を聞きたいならば、法律上の正式名を答えさせるのではなく、本人の名乗りたい何らかの文字列を答えてもらうのが、差別問題の回避策となるだろう。広く使われている用語だからといって差別のそしりを受けないとも限らないので、注意が必要だ。「非正規雇用」という用語はネガティブなイメージを与える。「有期雇用」の用語を選ぶべきだろう。「下請法」という法律は現存しているが、最近は「下請け会社」の用語は避けられ、「取引先」や「協力会社」と言い表すのが通例だ。「障害」という言葉を、「障がい」または「障碍」と表記する事例を近年よく見かける。『障害のある先生たち』という専門書では次のように述べている。「障害者が社会の中で経験する差別や排除は、言葉や表記を変えることで解消されるものではなく、むしろ表記変更を以てそうしたものがないかのように振る舞うことの問題も指摘されている。」この本では、たとえば、学校で全盲の先生がテストの監督をする場合、今までどうしてきて、何が起きてきたかを調査報告している。できなさそうなことでも、実際はやってきたのである。視力や、聴力、四肢の運動能力といった心身の機能に、何らかの状態が存在するとできなくなってしまう形で作業手順を組むと、それが「障害」の問題の発端となる。人を選ぶ作業方法を制度化してはじめて、「心身の状態」に過ぎなかったことが「障害」に変質する。マニュアル作りが障害の元凶になってはならない。◆マニュアルでは差別の問題が重い。

コンプライアンスは組織の防衛線コンプライアンスとは「法律やルールを守ること」であると、単純に解釈されがちだ。しかし、ルールは守って当たり前である。コンプライアンスで言いたいことは、その効果であり、「組織のモラール(士気、相互信頼感)を守ることを目的としてルールを作り、現場に浸透させること」と捉えるべきである。21世紀に入って、日本の製造業は、品質偽装や無資格者検査という問題で大きく信用を落とした。食品や建設、自動車をはじめとする、長年にわたり信用されてきた大企業が携わる業種で、次々と問題が発覚した。基準を満たす品質ではないのに合格としてしまう。あるいは、合格の品質なのかもしれないが、正規の検査手続を踏まなかったり、検査者の資格を持っていない作業員が検査をしてしまう、という事例が立て続けに起きた。あまりに多くの企業で発覚したので、企業体質や業界慣行の域を超えて、もはや国民的な職業倫理観の問題と言わざるを得ない。ものを作っていく工程には楽しさがあるが、検査は地味である。検査によって付加価値が増すようには見えない。技術が進歩して不良品がほとんど出なくなると、検査をする必要が薄らぐ。こうして、「検査は価値を生まない必要悪」や「検査は建前でやるもの」という認識が生まれてくる。実際は、検査は大きな付加価値を生む。何かトラブルが起きた時に、詳細な検査データが残っていれば、会社は強い立場に立てる。たとえば、装置が故障した時、製造時にすでに不良品だったのではと疑われる。そこで、検査データを全て公開し、さらに検査している時の光景もビデオに撮っておけば、本当に検査をしたのだと納得してもらえる。こうした記録無しに潔白を証明することは難しく、長く不毛な裁判に引き込まれて、下手をすると敗訴するかもしれない。データの公開に消極的だというだけで、国によっては懲罰的な判決を受ける恐れもある。まじめな検査は大金に匹敵する。こうした背景事情を、マニュアルの読者は理解しているだろうか。理解していなかったから、マニュアルに「正規の手順で検査せよ」と書いてあっても、それを無視したのである。ならば、マニュアルが読者を納得させるように、事情を説明するしかない。「この検査で手を抜いたり、無資格者に代行させると、会社が傾くぐらいの裁判沙汰になる!」や、「○○社はここの不正で破綻した」と書くのである。結局のところ、検査は、独立した部署や組織が担当しなければ厳正にはできない。製造部署の人員が、検査までも担当すると、身びいきをして検査を緩めてしまう。顧客からの苦情を受け付ける営業担当者が検査をするなら、検査に身が入る。甘い検査をした結果、不良品を出して顧客から真っ先に怒られるのは自分だからだ。孔子は、規則と罰によって人を指導すると、人はルールに合っている限り何をやっても

よいと捉えて、恥知らずになる(「道之以政、齊之以刑、民免而無恥」)と言っている。最近、企業の屋台骨を揺るがすようなバイトテロが頻発している。店内で裸になる行為や、食材で遊ぶことなどは、ルールで規制するまでもない当たり前の禁止事項である。だが、孤立して作業していると、誰も見とがめないから、興味本位に悪いことをしてしまう。仲間が近くにいると、互いに楽しませようとしてふざけてしまう。批判的な第三者が存在しない限り、バイトテロを食い止めることは難しい。たとえば、レストランではキッチンの中の様子を客に見えるようにするという対策がありうる。◆コンプライアンスは軽視されやすい。だが、会社はここから傾く。

品格を持ったデザインにするマニュアルは使用者が読むものであり、会社と顧客が出会う「顧客接点」である。企業の顔と言ってもよい。だからこそ、分かりやすさだけでなく美しさと品格を備えるべきである。高級品ならばマニュアルも相応の高級さがなくてはならない。何十万円もする商品なのに、マニュアルは普通紙に印刷されていたりすることがあるが、これはいけない。高級腕時計の世界ならば、付属の印刷物が安っぽかったら、それだけで偽物と断定される。素人が何も工夫せず、パソコンでマニュアルを自作すると、だいたいは貧相な仕上がりになる。美しい印刷物を作るには、プロの知識と審美眼が必要なのだ。ただ、素人でもできることは多い。その最たるものがフォント(活字書体)の選択である。マニュアルの文字は見やすさを第一とする。それには、字画同士の距離が比較的はっきりと離れていて、シンプルな、細ゴシック体や丸ゴシック体の系統を選ぶのが無難である。明朝体は、字画の太さが不均一で、細かい装飾もあるので、視力の弱い人には見えづらい。品格に劣る書体とは、同じ書体なのに文字の大きさや字画の太さが不揃いに見えてしまうものである。文字の並びにスムーズさがなく、高級印刷物には向かない。これは、画数の差が激しい漢字を使う以上、どのフォントでも、ある程度は避けられない現象ではある。「一」はどうしても小さい文字であるし、「鬱」を線を細くせずに升目に収めることは不可能である。しかし、良質なフォントには、俄然きれいに見せてくれるものがある。金に余裕があるなら、有料の高級フォントを買って使うべきであるが、ある程度パソコンのフォント事情に詳しくないといけない。設定を間違えると、自分のパソコンではきれいなフォントで編集できても、同僚のパソコンではダメといった事態がありうる。資料12に示したものは、パソコンにて比較的利用が容易な細身のゴシック体である。しかし、3つとも、字の大きさは同じ値で指定してあるのに、見た目はそうは感じない。全く異種のフォントを混用すると、見た感じの字の大きさがバラバラになり失敗する。「マニュアルに使う文字は12ポイント以上の大きめの文字にしましょう」という指示を見かけるが、ポイント数は字の大きさを厳密には保証していない。見やすいか、そして品があるかは、紙に印刷して確認してみないと分からない。

一部の文字を太字にしたい場合は、同族のフォントから太字のものを選ぶようにするのが正攻法である。別種の書体の太字を混用すると、字の大きさがずれるなど種々の問題を

生む。太さのバリエーションが充実したフォントのセットを揃えるには、それなりの金を払わねばならないのが厄介ではある。ごく太いフォントが必要になり、かといってフォントを買うわけにもいかず、パソコンの中を探した結果、カジュアルなポップ体を使ってしまった事例がしばしば見受けられる。「わくわく大売出し」や「ぼくの絵日記」ならポップ体で書いてもよいが、裁判所の掲示板に「検察審査会」という厳粛な名称が、お手軽な印象のポップ体で印刷されていたのを見て、唖然としたことがある(資料13)

低学年の児童や外国人などの日本語初学者にとって、フォントごとの字形の微妙な違いは障害になりうる。「令」の最後は垂直線か斜め点か、「や」「な」の部分は連綿してい

るか、しんにょうの点は一つか2つかといった違いは、統一されぬままである。別の文字と誤解されないようにしたい。この問題に対しては、教科書用と銘打ってある、字形が比較的標準的で運筆が分かりやすいフォントを選ぶとよい。一方で、記号を書かせる仕事などでは、「0」と「O」や、「ハ」と「八」、「ロ」と「口」などで、明確に見分けがつくフォントでなければならない。日本語以外でマニュアルを書く場合も、フォントの選択には同様の配慮が必要である。特に、欧文アルファベットの場合は膨大な種類のフォントがあり、使用すべき場面や品格の度合いについて暗黙のルールがある。大まかな傾向としては、マニュアルや工場の看板には、視認性のよいサンセリフ体が使われることが多いが、一口にサンセリフ体といっても多種多様なものがある(資料14)。書体もさることながら、文字の間隔調整は玄妙な問題であり、その巧拙が品格に大きく影響する。安直に、英字新聞でおなじみの「タイムズ・ニュー・ローマン」書体を選んで、パソコン任せに文字を並べれば上品、というものではない。

◆マニュアルは組織の顔である。

執筆者の氏名と、更新履歴を明記する万物は流転する。マニュアルや、張り紙、看板といった指示のための文書も同じで、いつまでも新鮮さを保って、正しい内容であり続けられるはずはない。文書の有効性は、誰が、いつ、何の目的で書いたものであるかに依存する。これらの情報を欠く文書は、従ってよいものなのかが不明であり、ともすれば仕事を混乱させる罠とも言える。にもかかわらず、指示を書く人は、暗黙のうちに、文書は未来永劫不変でずっと有効であると仮定してしまう。そこまで大胆でなくても、有効期限の問題は放置してしまうようだ。作成日や、有効期限、改訂予定日まで併記してある優等生のマニュアルや看板は、滅多に見かけない。執筆者の氏名も書かれることが少ない。執筆者の情報は全く無いことが多いし、せいぜい作成した部署の名前、あるいは「部長」や「課長」といったポスト名だけが書かれているのが関の山である。部署名は文書の権威を裏付けるために書かれるが、実用上はほとんど出番がない。「コピーの原稿を取り忘れるな。総務部長」という張り紙に「総務部長」の字があろうがなかろうが、読者にとってはどうでもよい。読者が知りたいのは、具体的な執筆者の氏名である。というのも、読者は小さな疑問を問い合わせたいのである。「置き去りにされた原稿を見つけたらどうすればよいのか?」といった、指示が取りこぼしている事項を聞きたい。それを尋ねるのに総務部長を相手にするのでは仰々しいし、おそらく部長はこの件に詳しくない。社内であっても他部署の長を相手に公式ルートで問い合わせようとすると、儀礼に手間がかかる。実際に書いた人の名前が分かれば、電話するなどの非公式な形でちょっと教えてもらえばよいので楽である。問い合わせ担当者の名前だけを挙げておき、執筆者の名前は表示しない例も多い。通常はそれで事足りるだろうが、どうしても執筆者を知りたいという事態も起こりうる。時間の経過によって、文書の意図が分からなくなることがある。ルールは、ルール自身の内容を語るが、ルールが制定された事情は伝えない。今時、なぜ古臭いルールが必要なのかと疑問に思っても、その答えは執筆者以外は誰も分からないものである。若い担当者にも、理由が言い伝えられていないことがある。約20年前から最近まで、「情報セキュリティーのために、コンピューターのパスワードは定期的に変更するべし」という言い伝えが適切だとされてきた。しかし、たくさんあるパスワードのそれぞれを、数か月やそこらで全く新しいものに切り替えるなど、実際に実行できるものではない。むしろ、人々は安直なパスワードを設定するから、かえって危険かもしれない。このような批判が長年続いていたが、ついに2017年、この言い伝えは不適切であるという真逆の評価に変わった。言い伝えの言い出しっぺの名前が分かっていれば、その人と討論して白黒の決着をもっと早くにつけられたはずである。

執筆者の名前が分からなかったり、退職していたり、死去していたりすると、昔の事情の追跡は難しくなる。それを見越して、文書作成の時や改訂するたびごとに、事情や意図を書き残しておくべきなのである。マニュアルには、改訂履歴の表を用意し、いつ、誰が、何の事情で、何のために書いたかを一覧にまとめておく。◆マニュアルに湧いた読者の疑問に、答えられる人は誰だ?

不断の改良――欠陥を「見える化」する完全無欠のマニュアルというものは存在せず、完璧な作業手順というものもない。どんなマニュアルであっても、さらなる改良の余地はある。改良の努力を絶やしてはいけない。時代の変化によって、改訂しなければならない事項は自然と生じる。また、他社との競争に負けないためにも、手順を改善し、マニュアルをより使いやすくする努力をやめることはできない。しかし、いつも平穏無事に作業ができている職場で、「マニュアルを改善せよ」と号令をかけても、どこを直せばよいのか誰もピンとこない。一方、トラブルが多発している職場では、仕事に追われており、マニュアルを改善する作業に時間を割けない。どちらにせよ、マニュアルは現状のまま放置されがちである。すでにそれなりに出来上がっている文書を改訂させるべく職場を奮起させるには、大きなエネルギーが必要なのである。よって、小さなエネルギーでできる範囲でジワジワと改善を始めるのが正しい。人は作業中に、マニュアルの間違っている記述や、もっとうまい方法がある手順、失敗しやすいポイントなどを、ふと見つけるものだ。その時を逃さず、コメントをマニュアルのその箇所の余白に直接に赤ペンで書き込んでもらう。実際に作業で失敗してしまったら、そのあらましをそこに書いてもらう。こうしてダメ出しコメントを溜めていく。ある程度コメントが溜まってきたら、本部で回収し、改善のためのアイデアとして役立てる。書き込みだらけの部分が出てきたら、要はそこの手順がダメという動かぬ証拠である。手順の優劣が露骨に「見える化」される。なので、コメントといっても長々と作文する必要はない。最低限、「ここが難しい」の一言でよい。それだけで、マニュアルの欠陥は「見える化」される。このアナログな作業に、デジタル技術の力を使うことも可能だ。ウェブ上の文書を大人数の集団で編集するためのシステムで代表的なものはウィキである。インターネット百科事典のウィキペディアは、ウィキの技術を使って、膨大な人数の執筆者が大量の記事を時々刻々、作成し編集している。自社内にもウィキやそれに類するシステムを設置して、マニュアルにコメントを付けたり改善したりするのが当世流であろう。三人寄れば文殊の知恵。三人どころかもっと大人数にダメ出しに参加してもらえば、マニュアルの欠陥は見つかり、それに対する妙案も教えてもらえる。◆マニュアル改良には群衆の知恵を使う。一人でしてはならない。

問答集は質問の羅列ではダメマニュアルには、ただ手順を説明するというありふれた形式以外に、問答集の形式で編集されたものもある。これは「Q&A」や「FAQ」(FrequentlyAskedQuestions)、「よくある質問」などとも銘打たれる。問答集形式では、読者の要望が主軸となって編集される。内容が、「巣鴨に行くにはどうすればよいか?」といった疑問や要望が見出しとなって編集されており、答えはその場に掲載される。この「要望→実現手順」という流れは、読者の立場からすれば一番自然であり、読みやすい。問答集の形式は優れているが、編集がずさんで役に立たないものも多く見受けられる。「よくある質問」や「問答集」と題してはいるが、編集に配慮がないのである。読者から浴びせられた質問を、内容を整理せず雑多に並べ、個別に答えをただ返しただけの問答集は、読んだところで理解が深まらない。そもそも問答集で対処するべきではないことが多い。読者から質問が寄せられたら、作業環境の方を即座に改善し、問題を消滅させるべきだ。そして、マニュアル上では問答せずに済ませるようにするべきであろう。「Q:赤いランプは何ですか?」という問いに、馬鹿正直に「A:機械が正常であることを示します。」と答えるべきではない。赤ランプの上に「赤点灯なら正常状態」とラベルを貼る方が、はるかにマシである。答えるべきではない質問に愚直に答えることほど、間違ったことはない。少数派ながら、問答集でなければ対応できない質問もある。それはマニュアルの本文でも説明しにくい事例であり、質問を浴びせられても仕方がない難問である。2200年前の古代中国・秦の、法律についての問答集には、難問が並んでいる。「Q:父親が子の財産を盗んでも窃盗罪に問わないと法律にあるが、義父が義理の子から盗んだら、どうなるか?A:窃盗罪になる。」「Q:失火で公務員宿舎を焼いた場合、家の中で焼失した政府の資産は弁償しなくてよいと法律にあるが、公用の馬車に火が回って燃えたらどうなるか?A:馬車は弁償すること。」このくらいの難問なら、問答集に並べておいても恥ずかしくない。マニュアルでは簡潔さが命である。重箱の隅をつつくような事例の全てをカバーしようものなら、マニュアルはパンクしてしまう。何を書き残すべきか、選別が必要となる。難しい事例の中で発生件数が多いものは、マニュアルの巻末に問答集を付け、そこで指示を書く。発生件数の少ない特殊事例は、それを具体的に書くことはやめる。読者には、マニュアルに書かれていない事態は全て異常事態であり、即座に作業を中止し避難せよとだけ指示する。特殊な事例一つ一つに対処方法を説明して、トラブルを乗り越え作業を完遂せよと

いうのは無理であり、欲張りすぎる。◆問答集は便利だが、それに頼るな。

読者のやる気を出させる『うんこ漢字ドリル』がヒットしたように、読者が興味を引く題材をちりばめると、「マニュアルの読み込み」という本来はつまらない作業も苦にならない。第二次世界大戦でのドイツの主力兵器だったティーガー戦車のマニュアルには、裸の女性のイラストが多用されている。兵器を女性に見立てて、愛情を持って手入れさせるというアイデアだ。米軍はこれを拝借して、ベトナム戦争中に銃の整備マニュアルに使っている。子どもは、コンピューターゲームを買ってもらうと、すぐに熱中して、ものの数分で遊び方を学んでしまう。本来なら取扱説明書を読まなければ理解できないほどルールは複雑だが、ちょっと遊ぶだけで、難なく体得してしまうのである。ゲームの出だしは練習コース(チュートリアル)として作られていて、操作方法を知らず知らずのうちに一通り体験するようになっている。それがマニュアルの一部であることに気付かぬまま、ゲームの世界に没頭していく。ゲームを詳しく観察してみると、子どもの心理に合わせるために、細かい工夫がちりばめられ、精巧に作られていることが分かる。ボタン一つとってみても、ゼリーがぷっくりと盛り上がったような見た目で、本能的に押したくなる。押せば、「プヨン」とか「カチッ」と音を返してくれる。そして簡単な課題をやり遂げると、宝物をもらえたり、褒めてもらえたりする。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」(山本五十六)これが教育の理想形であるが、その通りにできている。韓非子が言うように、自分では分かりやすく書いたつもりであっても、読者の状況によっては伝わらないことがある。それゆえ、相手に即して細かい工夫をちりばめる必要がある。韓非子は「法家」を代表する思想家である。これは法律によって世の中を治めるべきとする思想で、ルールとマニュアルを整えようとする。紀元前3世紀頃の中国では、秦の国がこれを採用し、国力を高め、ついに天下を統一するに至った。たとえば、「均工律」というルールは、国の工場の運営、特に労働力の平準化について定めている。「初心者は、最初の1年半は初心者コースで働く。監督者は初心者に仕事をよく指導せよ。初心者は作業に熟練者の2倍の時間がかかるものとする。初心者が仕事を速く仕上げた場合は褒美を出すこと。仕事が遅いものは、名前を記録し、大臣に報告せよ。」という条文がある。数字によって明確に定められた規則であるので分かりやすい。こうすれば、どの工場でも差が無く運営できるだろう。初心者向けとはいえ、納期2倍とは甘いノルマのように見えるが、褒美を出すことで作業を加速させる作戦である。人間の心理を巧みに利用している。

ただ、このルールは細かすぎるきらいもある。これくらいの事項なら、現代でも工場ごとの現場の判断に任せることにして、明文化しないという考えもありうるだろう。老子は、法家とは真逆の考えを持っていた。彼は「法律が精緻化すると、盗賊が増えるものだ」(「法令滋彰、盗賊多有」)と言う。細かいルールを決めない方が、どんな状況にも臨機応変に対応でき、うまく運営できるという考えである。考えが正反対の韓非子と老子だが、なぜか司馬遷は『史記』で、両者は類似しているとして、伝記を「老子韓非列伝」としてひとまとめにしている(『史記』の他の箇所、たとえば「酷吏列伝」では、老子は法家の批判者として引用している。「老子韓非列伝」とはトーンが違う)。韓非子は、人心をつかむ巧妙なルールを張り巡らせ、世の中を治めようとした。老子は、細かいルールを決めないことで、あらゆる事態に対処しようと考えた。どちらも支配者と被支配者とを適合させることを目指すことに違いはない。◆つまらないマニュアルや、やる気の出ない作業には、工夫が足りない。

マニュアルは究極的には消滅せねばならないマニュアルはそもそも補助的な役割を持つものであり、無しで済むなら無い方がよい。マニュアルが無くても、道具を見ればおのずからその使い方が分かり、作業場に立てば自然と正しい段取りで仕事が進むのが理想的である。その理想に達していないから、マニュアルを仕方なく使うのである。マニュアルをなくすには、作業内容を簡潔にし、操作対象や作業環境の中に使い方の誘導を溶け込ませるという方針で進める。操作が難しい機械には、ボタンやレバーにラベルを貼る。道に迷う分かれ道では、案内看板を立てる。コンビニエンスストアで挽きたてコーヒーを販売することが流行しているが、その初期に使われていたコーヒーマシーンはラベルシールだらけにされていた。セルフサービスの販売なので、客が機械のボタンを操作するのであるが、ボタンの説明が全部英語で書かれていて分かりにくい。「普通サイズ」と書けばいいものをわざわざ「Regular」と表示されていた。店員が日本語の説明ラベルを貼って、この危機を救ったのである。実際のところ、シール印刷機は、使いにくい機械から多くの人々を救っている。この世で最も有能な安全装置ではないかと思う。さらに改善を進めると、人間がラベルを読まなくてもいいし、判断したり操作しなくてもいいという理想が考えられる。客がコーヒーマシーンの前に立つだけで、機械は客が買った商品の種類をレジの機械から教えてもらって、さっさと作ればよいのである。分かりきっている情報は機械に面倒を見させるべきである。自動車工場の組み立てラインは、まさにこの技術思想で作られていて、作業者が次に手に取るべき道具を機械が教えてくれる。作業環境の中にマニュアルが溶け込んでいるのだ。このような作業環境の高度な知能化への流れがある一方で、逆に、人間が主体的に判断するべきであり、道具は道具に徹するべしという技術思想もある。用が済んだ後に自動で流してくれるトイレを自宅に設置して使い慣れてしまうと、外出時にそうではないトイレを使った時には流し忘れてしまう。機械の便利さに頼ることには、知らず知らずのうちにリスクを引き入れてしまうという一面がある。コンピューターを使う仕事であれば、コンピューターが画面上で次に実行するべき手順を説明し、作業者を誘導する。マニュアルを一切用意しないという商品も増えてきた。スマートフォンやテレビゲームは、あまりに複雑すぎて全部を説明し切れないし、読む方も読み切れない。システムが誘導することにして、冊子体のマニュアルが省略される傾向にある。ただし、法令により取扱説明書に書かねばならない事項があるので、紙の説明書が完全に消滅するわけではない。特に、安全や補償といった消費者保護の事項は紙に書き出して

ある。また、停電時には電子マニュアルはあてにできない上に、印刷機も動かないので、災害時用のマニュアルは、紙で必要部数刷っておくことが求められる。道具が単純明快であれば、人間は判断に苦労しない。鉛筆に取扱説明書はいらないし、使い方を誘導する機能もいらない。ちょっと複雑な機械でも馴染みのものなら、大半の人は説明書なしで使いこなせる。コモディティー化した家電がそれだ。高級品は別だが、テレビや、冷蔵庫、洗濯機などは、今やどの会社の製品も同じような操作方法で使える。時代とともに価格が下がるにつれ、家電は標準的な機能しか装備されなくなり、使い方も同質化するのである。機械が苦手な人は、操作方法に迷わなくて済む低価格帯製品を選んで買う。私の自宅にあったテレビは、「機能の多さが商品の魅力」という時代の製品だったので、リモコンには数々のボタンがごちゃごちゃと並んでいた。それらの大半は結局、一度も押されず仕舞いだった。「多芸は無芸」である。最近、安いコモディティー化したテレビに買い換えた。こちらは機能が少ないから、必然的にリモコンはシンプルになる。無名のブランドのテレビだが、図らずもデザインは垢抜けている。スマートフォンは冊子マニュアルがなくなりつつあるが、その一方で、無駄な機能が増えているように思える。特に、使用者の買い物や所在位置についての情報を吸い上げ、その人個人に適応した広告を出すという仕組みになっている。ある種のスマートフォンを買って、そのまま使うと、会社の会議中にピコンと鳴って「芸能人の○○に熱愛発覚」などと教えてくれたりする。実に小賢しい機能であるが、止め方が分からない。止め方は調べれば分かるにしても、機能の数が多すぎて手に負えない。マニュアル屋がコンパクト化に努力していても、誰かが変な機能を増やす。◆作業環境が有能ならば、マニュアル無しでも間違わない。

即興マニュアル作成法組織には人事異動がつきものである。担当者が変わる際に、仕事の段取りを引き継がねばならない。そのポストの仕事のマニュアルを作り、説明することになる。しかし、人事異動の内示は遅く、ぎりぎりになって発出される。短い日数でドタバタしている中、乏しい時間を割いてマニュアルを作るのは大変である。非常手段となるが、即興的にマニュアルを作る方法にはいくつかある。まず、動画の利用という方法がある。機械の操作方法を説明する自分の姿を、スマートフォンで動画に撮り、これをマニュアルとする。これは文字を書かなくてよいから楽である。用語集を作ることも効果が大きい。孔子が言う通り、最初に言葉を整えるのである。部署ごとに特有の社内方言や重要概念がある。言葉の説明をリストアップすることで、単なる言葉の定義には留まらず、その背後にある組織と仕事の説明に自然と入っていけるのが、用語集の面白いところである。五十音順に並べればよいので、編集に頭を使わなくてよい。専門用語の辞書は、教育資料としては優秀である。自分の知らない分野について勉強を始める時に、用語集を読むことから手を付けると、情報がすっきり頭に入る。専門用語の解説というものは、浅薄な域に留まるものではない。深淵なことに触れるものだ。私も、部署を異動することになって、後任者のために引き継ぎ資料をいろいろ作ったことがあるが、なんだかんだで百個ぐらいの単語をリストアップできた。「ガンマ弾」という言葉をよく使ったのであるが、これは「新規に提案して予算を獲得する事業のネタ」という意味である。なぜ「ガンマ」かと問われれば、「アルファが効率化係数で、ベータが消費者物価指数で、ガンマが業務政策係数で……」と予算編成術の奥深い世界について話さねばならない。具体的なキーワードを学ぶことを入り口として、抽象的な全体構造を学んでいける。即興マニュアルの主役は「職場暦」である。仕事の日誌は引き継ぎ資料として貴重である。仕事には年周期性があり、今日やっている仕事は、去年の今日にもやっていた可能性が高い。何月に何が起こり、何をして、どんなトラブルが多いか、という暦があれば、後任者は長期的な見通しを持って仕事を準備できる。日本型の組織はゼネラリストを欲しがる。人事異動では、往々にして、全く別の部署に移される。組織全体の知識と経験を広く浅く積ませ、ゼネラリストに育てるための工夫である。ゼネラリストが不足すると、組織が縦割りの傾向を強め、機能不全に陥る。社会学者マックス・ウェーバーによれば、かつてペルシャの財務官僚は、自分たちが身につけている会計の技術を暗号化して、門外不出のものにしたという。予算の編成法や会計管理は、実に難しい技術を要する。秘伝が守られていれば、自分たちが官僚の地位を独占し続けることができる。これは政権が変わっても同様で、たとえ国が戦争に負けて滅び

ても、最高幹部の首のすげ替えが起こるだけで、官僚組織を解体することは難しいとウェーバーは言う。実際、日本は敗戦したにもかかわらず、政府は活動を続行した。人間は、自分の仕事を分かりにくくする挙には出ないまでも、部外者にも分かりやすいマニュアルを作ってあげるために多大な努力は払わない。状況を放置していると、時間の流れとともに仕事は複雑になる。新たな事業が生まれ、組織は改編され、社内方言が出現し、例外的手順が追加される。こうした情報を理解することは、担当者ならどうということはないが、部外者には難しくなる。こうして、いつの間にか担当者は他部署からの干渉をさえぎるバリアを手に入れ、各部署は互いに部外者を受け入れず、縦割り組織になっていく。縦割り組織の弱点は、コストがかかりすぎることだ。風通しが悪く、相互にろくに連絡しないから重複が起こる。似たような人員や機材を部署それぞれが所有してしまう。日本陸軍は潜水艦を持ち、ドイツ空軍は戦車部隊を持っていた。あるいは、自社内で似たような商品を作り合って競合してしまう。似た商品ではあるが、生産設備や部品を共通化していないために、無駄なコストを背負ってしまうという大企業病的症状である。これは少し気を利かせれば防げそうなものだが、実際には珍しくない。こうした弊害を逃れるためには、部署の間の垣根を低くし、意思疎通や人材の行き来が活発になるよう手筈を整えねばならない。その中心課題として、ブラックボックスになりがちな仕事の段取りとノウハウを、分かりやすい形で文書にすることが挙げられる。明文化と容易化を同時に進めるのである。人の交流の範囲は、社内に限らず、取引先や、場合によっては「昨日の敵で今日の友」になりそうなライバルの同業他社にまで及びうる。ライバルと合併したのに、ろくにマニュアルが整っておらず、合併の効果が得られないという悲劇は、まま起こる。銀行業界は合併が繰り返されたが、合併初日には手続きの統合が間に合わず、銀行名だけは同じだが、書式もシステムも元の銀行のままバラバラという格好で船出した事例もあった。◆忙しくても、動画、用語集、職場暦で引き継ぎできる。

第2部正しい作業手順の作り方

よいマニュアルは、文章表現だけを考えれば作れるものではない。いくら表現が分かりやすくて優れていても、そこに書かれた作業手順が欠陥のあるものであれば、そのマニュアルは悪いものである。作業工程を雑に組み立てると、大抵はまずいものに仕上がる。工学の理論的な立場から手順の設計方法を考えていこう。

第4章手順の全体構造作業の段取りや、道具の使い方を説明する方法として、標準作業ループ型と対処マニュアル型との2通りある。大まかには、ものづくりなど長い手順からなる工程管理が主体の仕事では標準作業ループ型を使い、接客やコンピューター作業などの情報処理が主体の仕事では対処マニュアル型が適する傾向がある。

標準作業ループ標準作業ループ方式は、ループ状に循環する手順の流れに沿って、段取りを説明するものである。正しい作業とはループを描くものである。まだ何もない状態から始まり、道具を取り出し、素材を運び入れ、手を動かして加工を進め、完成品を出荷し、道具やゴミを片付けて、最初と同じ全てが片付いた状態に戻る(資料15)。マニュアルは、必ず作業開始前の状態に復帰するところまでを指示すべきだ。途中で事故が起きたとしても、安全に中断して作業開始前に戻れるように誘導する。作業を途中まででやりっぱなしにして、片付けないことを黙認するようなマニュアルではいけない。多くのマニュアルでは、ループの最後を締めくくる片付けと原状復帰の段取りを省略している。料理のレシピ本は、鍋や皿の洗い方までは指示していないのが普通だ。言わずもがなであり、書くまでもないからであるが、しかし安易にこれを真似してはいけない。初期状態への復帰は、責任重大な作業である。使った道具を置き忘れてしまうことは、誰でもついやりがちなミスであるが、大きな事故につながりがちである。手術した患者の体内にガーゼを置き忘れる。鉄道の保線工事で、道具を使ったまま線路上に置き忘れ、それを知らない始発電車が踏み越えて脱線する。この種の事故はお馴染みのパターンである。仕事の締めくくりには、道具を全て一堂に集めて整列させ、紛失がないかカウントせねばならない。個々人の我流で片付けすることは許されない。作業開始前の初期状態は、地味な存在ながら手順設計の要点である。初期状態は、安全であり他の作業に干渉しないことが求められる。電源を切るなどエネルギーを断ち切り、怪我や火災が起こる可能性をなくす。道具をしまい、場所を空けることで、他の仕事の邪魔をしないようにする。

また、待機の状態でもあるので、たとえ長時間その状態に留まっても、疲れず、コストもかからないようにしたい。立ったまま待機する初期状態では、長くは待てない。工程はループ状なら何でもよいわけではない。効率がよく、間違えにくく、いざという時は安全に作業を停止できるような手順を組み、それを標準の作業ループとする。効率も安全もともにベストの手順、「ゴールデン・バッチ」を設計することが理想である。◆原状復帰を忘れずに。

ループは一本道にする標準作業ループは、一本道であるものが最良である。資料16のように、途中で分岐して別の通り道があるものは、作業の忘れや停滞を引き起こすリスクがある。これはチェックや点検のあり方に関わる話であるので、後ほど詳しく述べる。資料17のように、スタートからゴールまで、完全にルートが分離しているならば、別のマニュアルに分けて書くべきである。そもそも論で言えばマニュアル作りの段階より前に、「一石二鳥」のつもりで一つの機械に複数の使い方や機能を備えさせる設計は間違いであるという、設計学の考えがある。十徳ナイフのような発想は嫌われているのである(中には、一石二鳥は素晴らしいという設計学者もいるが)。

人間は、複数の機能を備えた道具を理解することが苦手である。パソコンは多機能であるが、どう使えばいいのかマスターするまで勉強せねばならない。十徳ナイフに、やすりや、コルク抜きが備わっていたとしても、人間はそれを思い出して使うだろうか。十徳ナイフを思い出す前に、やすりやコルク抜きを持ってくるだろう。単機能より専用の道具の方が記憶に残るのである。事故の原因を探っていくと、一石二鳥に突き当たることがよくある。多機能の道具の中のある機能を使っている間は、別の機能を使えない。十徳ナイフを缶切りとして使っている間は、ナイフとしては使えない。「道具の取り合い問題」が起こるのである。また、多機能の道具が失われると、機能を全部失ってしまう。十徳ナイフを紛失すると、缶切りだけが無くなるのではなく、ナイフも無くなってしまう。作業の効率や安全のためには、機能はむしろ分散している方が望ましい。資料18のように、内部にさかのぼるルートがあると、作業の管理は非常に難しくなる。逆流は是が非でも避けたいものである。

逆流ルートがなければ、資料17は3歩手順を進めばスタートからゴールに確実に到着できると言えた。すごろく図で、どのマス目に仕事があるかが分かれば、作業の進捗度合いが判定できたのである。場所と進捗度合いが呼応することは、作業の管理を簡単にしてくれる。東京から大阪に移動するという仕事では、今、名古屋にいれば仕事は半分ぐらい済んでいるし、京都にいれば9割はできていると言える。内部逆流が含まれるループでは、あと何歩で終了するか確定できなくなる。京都から名古屋に戻ることもありうるというルールにされてしまうと、京都にいるからといって、あと少しで大阪に到着するとは言えない。仕事が終わりかけなのか、まだ先が長いのか分からなくなる。いつまで経っても仕事が完成せず、逆流ループで手間取っているのか、あるいは単にど忘れで放置されているのか見分けがつきにくい。このような理由で、一本道以外の標準作業ループは大いに問題がある。本書の冒頭で、コンピューターシステムの取扱説明書と銘打ってあるが、画面をキャプチャして貼っただけのマニュアルについて、雑な作りであると批判した。安直に画面をキャプチャをするだけでは、一本道化までは配慮していない。作業手順に分岐や、合流、逆流があってもお構いなしである。その結果、画面の絵はあれど、使い方が今一つよく分からないと読者は感じる。◆最良の手順は一本道。

対処マニュアル型ある種の仕事は、特定の望ましい平常状態を保つことを目的とする。自分では自発的には状態変化をさせず、外部からの動きに対応して、変動を打ち消そうとする。機械の故障、原材料の劣化、悪天候、時刻の変化、他人からの申し出などの「外乱」によって、事態は非平常状態に遷移する。非平常状態の内容に応じて復旧操作を施し、平常状態に戻れば作業は完了である。平和を守る警備員や、病気を治す医師などは、基本的にはこうした状態の維持が仕事である。対処マニュアルには、明確な編集方針が必要である。さまざまな非平常状態に対して対応せねばならないので、復旧操作の種類も多くなる。あまたある復旧操作を工夫もなく取り上げて記述していくと、マニュアルは雑多な事項の集合体となり読みにくくなる。逆転の発想で、「正常とは何か」についてだけ語るという方針がよい。正常が定義できれば、復旧の本質が見えてきて、あまたある復旧操作をシンプルに整理することができる。

軍隊は、戦場で大敗すると、敗残兵は散り散りバラバラになってしまう。そのような非平常状態を「平常」に戻すとはどういうことであろうか。原状復帰を命じたいところであるが、負ける前の状態にはもはや戻れない。発想を変えて、平常とは、兵士が部隊に編制されている状態であると捉え直し、その状態を目指すのなら可能である。つまり、兵士が逃げてきそうな、街道筋の町や、大きな橋のたもとに、兵士集合所を設置する。三々五々やってくる敗残兵を集合所に招き入れる。徐々に人数も増えていき、武器も溜まってくるので、即席の部隊となる。航空の世界には「Flytheairplane!」(自機を飛ばし続けよ)という標語がある。たとえば、エンジンが炎上するなどのトラブルが発生すると、コックピットの中は警告音が鳴り響き、焦った操縦士は何から手を付ければいいのか分からなくなってしまう。あるいはエンジンの調節ツマミをいじることに熱中しすぎて、肝心の飛行機の操縦がお留守になってしまうこともある。そしていつの間にか高度がゼロになり、つまり墜落する。「とにかく自機を飛ばせ!高度があるうちは墜落ではない!」と一喝して、正気を取り戻すのである。外乱によるある程度の被害は甘受し、完全な原状復帰はあきらめるが、致命的な崩壊は許さないという考えである。このような、中枢部の存続を第一に置く防災思想を「レジリエンス」と呼ぶ。対処という仕事は、暇の連続である。有事の時は忙しいが、普段は見回りぐらいしかすることはない。飽きたからといって自分から変化を起こしてもいけない。ただただ待つのである。これはあまりに退屈であり、人間は心理的に耐えられないので、まじめにやる気が失せ、手抜きしてしまう恐れがある。対処の退屈さを打ち消すには、ある種の宗教性を付け加えることが必要になる。毎日や、毎週、毎年、一定の時間間隔で繰り返す行動の多くは、宗教的なものが多い。墓の見回りを彼岸や盆にする人が多いが、それは定期点検作業というよりは、墓参りという行事であり、宗教的義務感からの行動である。古代中国の礼儀作法について書かれた『礼記』には、国王は定期的に地方視察の旅に出て、市場を見て物価を調べ、流行歌を聴いて社会情勢を知り、長寿者には必ず面会に行くべしとある。現場巡回を祭礼儀式と位置づけて、義務感を負わせている。現代でも、企業などのトップが現場に出て実情を知ることは経営の基本と言われる。◆守り本尊は何かを明らかにする。

第5章作業は「型から型へ」で組むスローになってもいい仕事であれば、管理しやすい難しい作業やミスが多い仕事の大半は、スピードに対してシビアな条件が付けられている。遅すぎても、速すぎてもいけない仕事は、器用な作業者でなければ実行することが難しい。さらに、その管理、すなわち職場の中でどの仕事がどこまで進んでいるか把握し、全体の効率がよくなるように調整することも、難しくなる。逆に、速くやっても、ゆっくりやっても、停止しても、結果に影響がない仕事は、簡単な仕事である。レンガを積んで壁を作る仕事は、レンガをゆっくり持ち上げてもよいし、昼休みや雨の日には作業を中断してもよい。仕事の進み具合は、レンガが積み上がっている高さを見れば把握できる。2メートルの壁を作る仕事で、1メートルまで積み上げたのならば、進捗度は50%とはじき出せる。一方、フライパンを素早く跳ね上げて、目玉焼きを宙返りさせてひっくり返す作業は、速度が大事である。ゆっくりやると目玉焼きは宙に浮かび上がらない。速すぎると遠くに飛びすぎてしまう。また、途中段階の仕事が何割進捗しているかを表す指標が見当たらない。作業が完了した後になってはじめて、宙返り成功か失敗かという成績を付けることができる。途中ではまだ結果が定まらない。作業の前半で、目玉焼きをうまく宙に浮かせるまではできても、後半でフライパンの操作に誤りキャッチに失敗することもありえる。失敗すると、前半の仕事が水の泡となる。前半を無事に通過したからといって、進捗率は5割とは言えない。速度条件が緩い作業では、途中段階で完了している部分の成果は、成果としてしっかり保存され、後続の手順において破壊されにくい。レンガ積みならば、すでに積んである部分は、後の作業によって壊されるリスクが小さい。「作業の速度はどうでもよい」という恩恵を得る必要条件が、「途中までの成果の積み上げを保護できること」なのである。◆成果が積み立てられる作業は優秀。

難しい仕事は「積立貯金型」にしたい見方を逆転すると、難しい仕事を簡単にする要諦とは、スローモーションや途中停止が起きても、途中までの作業の成果が、積立貯金のように、確実に積み上がっていくようにすることにある。途中で失敗が起きても、すでに積み上がっている成果には影響しない仕組みである。厳密に言えば、完全な積立貯金型の作業はこの世には存在しない。全ての仕事は、最後の最後で失敗して台無しになる危険性がある。あるいは、極端な速度変化や長大な滞留には耐えられない。仕事の設計にあたり、条件に速度が絡んでいることの害をゼロにはできなくとも、なるべく小さくして、実用的には積立貯金型と同等とみなせるようにする工夫をしたい。工夫の第一として、制約条件から速度を追い出すように仕事を改造する方策がある(数学的に言えば「可積分」化である。積立貯金ができるようにすることである)。フライパンで目玉焼きをひっくり返す作業は、器具を使えば話は変わる。初心者向けのやり方としてしばしば紹介される方法は、フライ返しを使って、目玉焼きを持ち上げ、いったん皿に乗せ、皿ごとひっくり返すというものである。この工程ならゆっくり作業しても大丈夫である。この方法の成功の秘訣は、速度の出番をなくしたことにある。宙返りでは目玉焼きの速度が、目玉焼きの着地点を大きく左右する。しかし、道具を使えば、目玉焼きは道具に乗って輸送されるから、着地点はコントロールできる。輸送速度は議論の外の存在となる。第二の方法として、「カプセル化」がある。これは途中までの成果を保護カプセルにしまって、後工程での失敗によって成果が傷つかないようにするというものだ。お金を数える作業は非常に煩わしい。大きな取引で一万円札の山を受け取ったとする。一万円札を120枚目まで数えたのはよいが、ふと「いや、121枚目なのではないか?」と疑いを持ったとしたら、これを解決するには最初から数え直すしかない。数えた努力が水の泡である。あるいは、数えている途中に休憩を入れられたら、何枚目まで数えたか自信がなくなる。休みなし、ぶっ通しで数え続けるしかない。この不便を避けるために、百枚数えたら、札を束ねて帯封をする。封によってカウントの成果は保護されるから、もはや改めて百枚数え直す必要はなくなる。素人が百万円に帯封すると、他人にはあまり信用されない。金融機関の帯封なら、正確に百万円が束ねてあるのだろうと、ある程度は通用する。用心深く、帯封を解いて自分で数えて確かめようとすると、札がバラバラになってしまい、使う時にもまた数え直すはめになる。信用が置ける仲間との現金取引ならば、利便のために、帯封を壊さないまま流通させる

ことになる。実際、江戸時代は、小判を百枚セットにして全体を紙に包んで封をし、仲間内の取引では封を解かないで流通させていた。これぞ、名実ともにカプセルである。事務の非効率に苦しむ組織では、カプセルを壊す行為が横行している。上流工程でしっかり検査して作ったカプセルを、「念のために」と称して下流工程で壊し、改めて点検し直すのである。この二度手間による作業効率の悪化は相当なものだ。むしろ作業者の疲労困憊を誘って、他のミスが起こりかねない。「念のため」と言えば聞こえはいいが、むしろ危険を連れてくるリスクもある。◆途中までの成果の積立貯金が、作業を簡単にする。

停止できることは安全の味方作業を途中で長時間にわたり止めてもよいのなら、ミスやトラブルをかなり防ぎやすくなる。停止は静寂をもたらす。作業の混乱を収めるのは静寂である。音がせず、全てのものが止まっている状態ならば、たとえ作業でトラブルが起きていても、しっかり分析して対策を考えることができる。スポーツでも、選手が動揺していると、コーチはわざわざタイムを取って間を置く。手を止めなければ落ち着かない。逆に、騒音がしていると注意を奪われるし、動いているものが多いと状況を把握できなくなる。羊の群れがメーメー鳴きながら歩いている状態では、頭数を数えることは至難の業である。全頭が止まって、鳴きもしないならば、一気に簡単になる。自動車の組み立てラインでは、何か疑問が湧いたり、小さなトラブルが起きれば、作業員は直ちにライン全体を停止させる。これは作業速度を大きく落とすようだが、急がば回れである。いったん静寂を作り、全員が手空きになって、冷静になってみんなでトラブルを解決するのである。ラインを止めないままであると、トラブルが根本的に解決できぬまま、ベルトコンベヤーは前進し、仕事は次の人の手へと渡されていく。結局、何らかのミスをはらんだ車を作ってしまい、それが世に出てしまう。これが一番恐ろしいし、コストも高くつく。だったら、早めに止める方がマシなのである。途中で止められない作業も、世の中には存在する。飛行機は、トラブルが起きたからといって、飛行途中で空中の一点に留まるわけにはいかない。冷蔵庫に原材料を保存している工場も多いが、トラブル発生だからといって冷蔵庫を停止させると、温まって全てダメになる。停止不能の作業は安全確保が格段に難しくなる。化学コンビナートにある巨大な設備は、内部で大量の化学薬品が高温高圧の状態で巡っている。緊急事態が起きた時、全装置を急停止させたいところだが、それは難しい。液体の流れの勢いや、薬品の反応熱、炉の余熱などは、急にゼロにはできない。安全のためには全体のバランスを取りながら、徐々に勢いを減ずるしかない。停止を画策しはじめても、完全に停止するには数時間から数日かかる。完全停止ではないが、途中のバランスを取りながらの平衡状態は、停止に準じた状態である。液は流れてはいるが、流量の増減といった新たな変化は起こらない。その意味では止まっている状態の一種ともみなせる。平衡状態を保ち、変化が起きない時間を作り、緊急事態への対策を練るというのが、防災の基本である。だが、この作戦にも落とし穴がある。2011年の東日本大震災や、2018年の北海道胆振東部地震では、想定以上に長い時間にわたり停電が発生した。平衡状態を保つための装置が稼働するには電気が要る。もちろん、工場には非常用発電機が用意されているので、数時間なら電力は保てる。だが、日単位で停電が起こることは想定外であり、非常用

発電機が燃料切れで止まる恐れがある。この種の問題が、震災の際にはあちこちで起きている。昔はこのリスクは目立たなかったが、今日の我々は、平衡状態の維持という難問において、電力が無事に供給されることをあてにしすぎしまっている。これは工場だけの問題でなく、個人のレベルの防災計画にも共通する、考慮を要する視点でもある。◆途中でタイムが利かない作業は危険。

準備と本体を区切る作業は、準備と、本体部分に分けられるものである。準備とは、他の作業より先に済ます必要がある手順のうち、スローモーションで行ってもよいものである。「仕込み」や「下ごしらえ」とも言う。料理で言えば、食材を洗い、切り分けることは、煮炊きより前にやらねばならないし、ゆっくり行ってもよい。よって、これは準備とみなせる。一方、煮炊きは、所定の時間で実行せねばならず、スローモーションは許されないから、本体部分に該当する。手際のよい人は、準備期間と本体期間の境界を明確にし、準備期間をできるだけ広げる工夫をしている。準備として片付けられる作業を、だらだらと先延ばしして、本体の期間になってから実行してはダメである。本体はスピード勝負であり、忙しい。そこに準備でできるはずの作業を追加しては、手が足りなくなる。準備作業としての要件をクリアする作業は、全て準備期間に片付けるようにする。仕込みが全て終わって、あとはスピード勝負の本体作業だけという、準備と本体の境界は、仕込みに対する検査のラスト・チャンスである。ここで必ず検査を入れなければならない。旅行の支度が済んで、あとは家を出るだけという段階で、持ち物を今一度点検するべきだ。家を出てしまうと、旅支度を点検する暇はないし、修正も利かない。準備作業は早めに済ませても、その成果物は比較的長い時間、その品質を保つ。切り分けた食材は、すぐに使わなければ腐るというものではない。となると、近い将来に大きな需要が見込まれるのであれば、準備作業を先に実行してしまうという戦略もありうる。発注が来る前から仕込みをしておくのだ。このフライング的な準備には、長所も短所もある。暇な時間にフライングで仕込みを済ませておければ、忙しさをならすことができ、効率上よろしい。また、同一の仕込み作業をいっぺんに済ませることができれば、作業に使う道具を切り替える手間が省略できるので、労力削減になる。ナイフを使う作業を、発注があるたびに1回こっきりだけこなす体制に比べ、仕込み中に百回連続で取りかかる体制は、ナイフを作業場に持ってくる手間を99回も削減できる。また、事務処理の仕事においては、同じ種類の案件を連続して片付けられれば、参照するべき事務処理ルールが同じであるから、頭の切り替えがいらない分、楽である。これがロットが大きいことの利点である。しかし、あてがはずれて発注が来なければ、作業は無駄になる。需要の予測が高い精度でなければ、フライング実行はダメなのだ。また、仕込みの成果をどこかに貯蔵しておかねばならないので、場所が必要になる。こうした中間在庫は、出番が来るまでは活用されない資産であるから、経営上も損である。事務仕事でも、途中までしか仕事が進んでない「中間加工品」の存在は、実に問題であ

る。書類の紛失や、案件の忘却といった管理上のリスクを呼び込んでしまう。現代の生産工学の世界では、発注が来てから製造に取りかかる、オンデマンド生産主義の方が幅を利かせている。大野耐一の『トヨタ生産方式』(ダイヤモンド社)によれば、自動車の板金部品を製造する作業は、大きく重い金型を用いる。金型の切り替えには二、三時間もかかるので、ある金型をいったんプレス機に据え付けたら、それを長く使い続ける方が合理的であるというのが昔の常識であった。だが、これでは特定の車種用の板金部品ばかりが作られてしまう。これが下流工程の生産のリズムを乱し、生産全体の効率を損なう。そこで、金型交換を短時間にできるように徹底的に努力し、わずか三分にまで縮めたという。「ロットを小さくし、切り替えを素早くする」という高度な技術的挑戦を乗り越えねばならないのが自動車業界である。一方で、部品を全車種共通にしてしまえば、切り替え作業自体が不要になる。これはこれで大変合理的で素晴らしい(だが、その部品を供給している工場が大地震に遭って操業不能になると、多くの車種で部品切れが起きて生産が止まってしまうリスクもある。万能の正解は無い世界である)。◆停止できない作業は、準備段階で優勢を築く。

平凡な検査手順は実は最悪停止できることへの崇拝をより進めると、作業の途中でも小休止してみるべきではないかという考えに突き当たる。効率を考えれば、作業は急ぎたいものであるが、途中であえてタイムを差しはさむのである。いったん、職場全体を止め、作業者の身体動作を止める。これは点検を大いに助ける。この思想は、昔から存在し、我々も日常生活では大いに活用するが、なぜか仕事では使わないというパラドックスがある。職場の仕事の流れは、往々にして資料20のようになっている。職場では、いくつもの仕事が同時並行で進んでいる。それぞれの仕事は黙々と進められて、最後に完成検査を経て終了する。ごく普通の運営体制である。完成検査があるので、ミスを見逃すという事態は起こらない、と思われがちだ。

しかし、この体制は最悪であり、ミスが多発する。普通と思えて実は最悪なのが、恐ろしいところである。問題の根源は次の2点である。まず、検査を担当する人が適切な人ではなくなるという問題がある。本来は作業を進めた人とは別人物が検査を担当することが望ましい。他人がやった仕事の粗さがしは簡単である。作業者が何か勘違いしていたとしても、検査者は別人であるから、その間違いに気が付く。一方、自分が実行した作業に対して完成検査をすることは難しい。「これで完成だ」と思って作業を終えた人が、自分の仕事の成果を点検しても「完成している」という先入観が邪魔して、何も粗を探せない。また、自分が作業時に思い込んでいた勘違いは、検査時になっても続いているだろう。これでは検査でミスを見逃して当たり前である。そこで別人を見つけて検査を頼みたいところであるが、職場には別の仕事も並走してい

る。他の人は別の仕事にかかりきりである。人を変えることができないのである。この事情から、実に多くのマニュアルで「作業の後にすぐに自分で検査せよ」という最悪の方式が採用されている。第二の問題点は、忘却ミスに対して全く抵抗力が無いことにある。ある仕事を開始せよという指令が、何かの手違いで忘れられてしまったとする。すると、作業は実施されない。作業の終了をきっかけにして始まるはずの検査も実施されない。これではミスへの防御がゼロである。作業の後続として検査をぶら下げるという体制は、危険極まりないのである。◆普通のチェックは、ザル検査と、ど忘れの元。

工程は節目で管理する安全な作業管理は、資料21のように、複数の作業を横断するように小休止の節目を入れる体制で実現できる。一斉のタイミングで、どの作業も手を止め、検査だけに集中するのである。全ての作業が止まれば、職場に静寂が訪れるので、気が散らずに検査に打ち込める。第一の問題点であった「作業者が自分の仕事の検査までしてしまう」状況は、今回は解消できる。というのも、検査のタイミングが職場全体で同一であるから、自分と他人の仕事を取り換えっこして、他人の仕事を検査することができる。第二の問題点である「検査の忘却」も、この体制ならば阻止できる。検査は、作業とは

独立して、ある特定のタイミングに自力で発動するからだ。小学校で明日が遠足となると、先生は「持ち物リストを作りました。今日の夕方の5時になったら見るように」と指示を出すのがよい。持ち物リストには、帽子やら水筒やらがリストアップしてあるが、生徒はそれらを調達することを忘れてもおかしくない。しかし、調達作業の忘却とは無関係に、5時になったら検査が発動するのであれば、ミスはそこで見つけることができる。検査のきっかけは、この例のように、時刻で時限爆弾的にセットする方式もあるし、作業の進捗段階で仕掛ける方式もある。ある工場では、食品を製造する作業で、原材料の調合のミスが多かった。複数の原材料をそれぞれ規定量だけ計り取って機械に投入すればよいのであるが、来る日も来る日も、記号のような原材料名と数字ばかりを見ていると、注意力が衰えてくる。そして調合比率を間違えてしまう。だが、ベテランの作業員は調合ミスが少ない。彼らは工夫をしていた。まず、機械の前にトレーを置く。原材料それぞれを計り取ったら、トレーの上に置く。全ての原材料が揃うまでは、機械には何一つ投入しない。トレーの上に原材料が全員集合してきれいに並べられるまで待つ。その集合写真のような整列を相手に、指さし確認して調合、それからようやく機械に投入するのである。監視対象物の全てがあり、動いておらず、型通りに整列しているならば、検査は簡単かつ確実である。この例の場合は、トレーという待機場所を設置し、検査の時間を確保できたのである。またこの検査は、型の照合という一番簡単で信頼の置ける方式になっている。原材料を整列させて型を作る。もし何かが欠けていていたり、ダブっていると型が崩れる。量が多すぎたり少なすぎたりすると、いつもとは違う見た目になる。きれいに整列するはずの型が崩れていると、人間は敏感に気が付く。だから異常を見逃さない。このテクニックは、何か巧妙な技術論のように感じるが、実は我々誰しもが日常生活で必ず使っている技である。仲間内で「日曜日に〇〇山に登ろう」となった場合、「じゃ、正午に山頂に集合ね」とは計画しない。そんな計画では、おそらく迷子や落伍者が出ると分かっているからだ。普通は、「朝8時に〇〇駅改札に集合。9時に〇〇公園の見晴台に集合して記念写真。10時に〇〇峠の休憩所に集合」と、小刻みに途中集合をかける。集合では全員出頭が原則であって、ハイペースで進んでいる人が後続者を待たずに先に進んではいけないルールである。このように我々は、身近な活動になると、リスクを本能的に見極め、盤石のリスク管理体制を組んで事に当たっている。節目を設置し、型を照合して検査するのである。しかし、なぜか仕事のことになると、リスクを見積もる本能が鈍り、へなちょこの体制で仕事をする。会社での仕事は、どこか根底に、他人任せで、他人の言う通りにやるまでのことだという認識があって、本能が働かないようである。

昔の人は、節目と型が大好きである。弓を射るにも「弓道八節」という8つの節目と型を決めて、型でわずかな時間だが停止する。型からずれていないことを自己点検すれば、自分が正しい手順で作業を進めているかを確認できるのである。相撲では、取り組みの前に、塵手水の型を作り、立ち合いで互いににらみ合いながら静止する。この停止がなければ気合いが入らない。クレーンで重い荷物を吊り上げる作業の作法には、「地切り」という節目がある。時間の節約を考えれば、荷物は停止や節目無しで、さっさと吊り上げればよさそうなものであるが、それは大変危険である。ワイヤーが傷んでいれば断裂する。あるいは荷物の重心が変なところにあって、それを捉え損なっていると荷物は転覆する。荷が重すぎればクレーンが転倒する。どれか一つでも起これば、死傷者が出る大事故は免れない。実際には安全のために、一気に荷物を引き上げることは避ける。いったん、荷を15センチほど床から浮かせて止め、宙づりの状態で安全が保たれているか検査する。地面から荷が浮き上がることを「地切り」と呼ぶが、地切りの後に、停止と点検の節目を入れることが鉄則となっている。節目と型は作業員教育にとっても都合がよい。お手本の動作を見るだけでは、それを真似することは難しい。動きの模倣には技能がいるのだ。しかし、お手本の型を真似することは楽である。型は動かないので、ゆっくり作業しても構わない。弓道なら弓道八節をなぞればよい。茶道の作法も、工程の節目ごとに、茶碗や茶杓といった道具類の置き場が指定してあり、型をなしている。大きな仕事では、節目は管理のための重大事項となり、権威を帯びてくる。宗教性も帯びてくる。建築では、地鎮祭や上棟式など、工程上の大きな節目を宗教的な儀式にしている。格式の高い儀式なので全員参加が求められる。作業員ではない人々が現場に入ると、大勢の眼によってミスがないか検査できるし、進捗状況の認識について合意が取りやすい。儀式なしでは、工事がどこまで進んでいるのかを施主は把握しにくい。◆「途中集合なしで、ゴールで会おう」は迷子必至。これは仕事でも同じ。

忘却ミスの原因は「揃い待ち合流」忘却というミスは、我々にとって身近なものであり、常々被害を受けている。出かける時に忘れ物をしたり、加工手順を飛ばしたり、連絡を忘れたりすることも珍しくない。忘却が起こる原因は、システム工学の理論によれば、作業工程に「揃い待ち合流」が含まれていることに尽きる。常識的には、記憶力が足りないとか、他人から声をかけられて気が散ったなどの事情を原因とみなすであろうが、それは適切ではない。揃い待ち合流とは、工程が合流する際に、全てが揃わなければ先に進めない、いわば関所のような段取りのことである。資料22に示す、坂道に自動車を駐車する手順の例で説明しよう。まず停車し、ハンドブレーキをかけることと、キーを抜くことの2つの作業を実施する。両方が揃ったことを確認して、作業は終了となる。工程は途中で2つの作業に分岐しており、最後に合流し、そこで確認するという構造になっている。この合流は、支流が全部到着しなければ通り抜けることができないので、揃い待ち合流という。揃い待ち合流は、一見したところ無害なようであるが、その正体は、忘却ミスを引き起こす真犯人である。というのも、人間は揃い待ち合流を管理できず、ここで忘却ミスを頻発するのである。支流が全て揃っていないのに、全てが揃っていると勘違いして通過してしまうのである。人間は、その場にいないものを気にかけることが苦手である。待ち合わせで「A君もB君もC君も揃ったから、さあ出発しよう」と軽率な判断をしたが、「D君がまだ来てません!」と言われて忘却に気付くといった経験はよくある。さっさと次に進みたい人間に、その場にいない人のことまで注意力を割けといっても無理な相談である。

揃い待ち合流を含む作業は、忘却リスクという大問題を抱えていると言える。しかし、世の中は揃い待ち合流だらけである。我々は「マヨネーズと歯磨き粉を買ってきて」などという口調で作業指示を出す。だが、これは食料品店でのマヨネーズの購入と、薬屋での歯磨き粉の購入の2つの分流が揃わないと仕事全体が完成しない。マヨネーズの購入だけで大仕事が終わったと、ぬか喜びしがちだ。そして薬屋に立ち寄ることを忘れる。◆人間に2つ以上の事を頼むと、一つしかしない。

一本道化による揃い待ち合流の解体揃い待ち合流を退治することは、工程設計で忘れてはならない課題である。方法は2種類ある。一つは、作業の流れの分岐を廃止し、結果として合流もなくしてしまうという考えである。要は作業を一本道にするのである。「ハンドブレーキとキーの両方をやれ」ではなく、「まずハンドブレーキをかける。次にキーを抜く」と順序を指定する(資料23)。一本道は人間にとって非常に親しみやすい。順序を指定されて堅苦しいようだが、むしろ指定された方が楽である。人間は順序固定された一本道の手順なら暗記しやすい。好きな歌の歌詞を覚えていられるのと同じ理屈である。出だしから終わりまで一本道であるシーケンシャルなデータは脳に保管されやすい。身体動作も同じで、「車を止める→ハンドブレーキをかける→キーを抜く」という動作の振り付けを10回も経験すれば、癖になってくる。癖は崩すことが難しく、キーを抜く動作だけ飛ばそうとしても、体が勝手に動いてしまうので安全である。日常での作業の指示は、揃い待ち合流になりがちだと述べた。「マヨネーズと歯磨き粉を買ってきて」という揃い待ち合流を一本道に改造するなら、「①マヨネーズを買う。②歯磨き粉を買う。」という順番を強烈に指定した形になる。かったるい感じもするが、2つのステップがあることを明示している点は大切である。あやふやに「一つの作業を頼まれた」と認識していると忘れ物をする。2という数字を前面に出して「2つの作業を頼まれた」と印象づけると、どれか一つのステップを飛ばした時にミスを自覚しやすい。前にも例に出したが、料理では、調味料を入れる順番は「さしすせそ」が基本である。砂糖、塩、酢、醤油、味噌の順に加えるのが最もよい。「さしすせそ」という呪文を唱えながら作業すれば、一つ一つの要素を点呼していることになるから、途中で入れるべき何かを入れ忘れることは防げるであろう。飛行機では、エレクトロ・メカニカル・チェックリスト(電気機械併存式点検板)が使われている場合がある。これは、パイロットが離陸前の点検をする際に、その順番を規定の一本道にするためのものだ。板には、点検項目が上から下へ並べて書いてあり、それぞれにはスライド式のスイッチが設置されている。項目ごとにOKならばスライドを横にカチッとずらす。上から下へ順番に点検項目を見ていって、カチカチカチ……とスライドしていく。点検の順序が乱れないように、板上の一本道に誘導しているのだ。スライドが動くと電気信号が発せられて、飛行機のコンピューターシステムに通知が行く。スライドという機械的な仕掛けと、通知信号を発する電気スイッチが、組み合わさっている。コンピューターへの通知をするだけなら、電気と機械との両方は不要であり、電気スイッチだけでも事足りる。だが、スライドを端からカチカチとずらして行く作業は小気味よい。そして、「確かにスライドをずらして点検を終えた」という記憶が強く残る。大きな身体動作ほど、その実行の記憶は残りやすい。これに対して、パソコン画面でクリックするだけだと、指先が小幅にしか動かないので、「あれ?さっきクリックしただろうか?」と不安に駆られることがある。◆一本道は作業の王道。

関所の実体化による、揃い待ち合流の管理第二の方法として、手順上は関所である揃い待ち合流を、現実世界に本物の関所として設置するという手がある。頭の中だけで揃い待ち合流を管理するのでは危ないので、決まった場所で管理するようにする。新幹線は、特急券と乗車券の2つを揃えておかねば乗れない。そこで新幹線の入り口には改札機という関所が設置され、ここで2つの提示を要求するようにしてある。こうすれば、片方を忘れたまま先に進むというミスはない。関所の門番に検査を頼むのではなく、自分で点検する方式もある。家から出かける時に、忘れ物をしがちである。「財布と腕時計と携帯電話を揃えたら出発してよい」といった揃い待ち合流を、頭の中だけでノーミスで管理することは難しい。そこで、玄関の床にペンキで足形を描き、「持ち物点検位置」と書いておく。出かける時は、この足形を踏んで立ち止まらなければならないルールにする。立ち止まることで冷静になり、「財布よし、腕時計よし、携帯電話よし」と持ち物検査することを、毎日ルーチンとして行い続ける。決まった場所で同じ行動をすることは癖にしやすい。自宅の玄関にペンキで足形を描くのはあまり美しくないが、床に点検位置を示す足形が描かれている工場はある。ある百貨店では、売り場とバックヤードの境界に白線を引いてあり、そこを通過する従業員は、いったん立ち止まって一礼するようになっている。◆作業合流地点に関所を立てよ。

第6章チェックは「節目で味見」を作業手順には、何かを検査する段取りが含まれるものだ。検査が万全であれば、ミスや事故は起こらないはずであるが、現実ではそうではない。ミスを見逃すのは、「検査方法が正しいのに、検査者がたるんでいるからだ」と片付けられがちである。私は逆の考えで、かなり悲惨な検査方法が世の中にはびこっているからだと思っている。どこがどう悲惨であるのか見ていこう。

ダブルチェックは有害念入りに検査したい場合は、ダブルチェック、つまり2回検査するとか、2人が検査をするという方式が選ばれがちである。ダブルチェックは非常に人気が高い。何か事故が起これば、「再発防止策としてダブルチェックをすることにしました」と釈明するのがパターンである。しかし、ダブルチェックには効果が無い。より踏み込んで言えば、有害にすらなりうる。各種の実験結果や、産業事故の分析によれば、2人でチェックしても異常の発見率はあまり向上しないことが分かっている。検査の人数が多くなると、かえって異常の見逃しが増えることすらある。考えてみれば当たり前のことある。まず、責任感と緊張感が緩む。1人目がすでにチェックして異常なしと答えていることを、2人目がチェックしても、たぶん異常がないのだろうという先入観を持ってしまう。1人目が異常をたびたび見逃すなら、2人目はハラハラドキドキして真剣にチェックする。しかし、普通は滅多に異常は残っていないのであるから、異常なしの品ばかり続けざまに見せられる2人目は緊張感が続かない。さらに、同調バイアスが起こる。片方が「これで大丈夫だよね?」と言えば、相手は「そうだね」と付和雷同してしまう。これならば1人で作業する方が責任感を感じている分マシである。2人は1人より危険になりうる。数を増やせばいいわけではない。検査者を多重化しても効果が無い。人間は、みな同じように思考するから、間違えるところが同じである。「大阪冬の陣、夏の陣」という文字は、日常感覚的には誤字は含まれていないように見える。よって、2回点検しても、2人がかりで検査しても、見逃してしまう。(大阪の阪の字が、正しくは「坂」である。)検査の回数や人数を増やせば、指数関数的にミス見逃し確率は激減するはずだというのは、甘い願望に過ぎない。ダブルチェックは廃止するに越したことはない。代替策はいっぱいある。先に述べたように、節目で作業を停止させて検査する方が、信頼は置ける。どうしても2人で作業したいのであれば、「同調バイアス」を徹底的に崩す。「これで大丈夫だよね?」に対しては「いや、ダメだよね」と、「札幌だよね?」に対しては「いや秋田だよ」などと、あえて逆らって答えるのである。人間は、意表を突かれる反論を受けて初めて、自分が正しいのか深く考えるようになる。そこで、検査者の横に、意表を突く発言をする人を立たせて、問答を仕掛けるのである。航空の世界では、機長が威張りすぎて、副操縦士は唯々諾々となり、機長の勘違いを誰も指摘できずに大惨事に至ったという事例がいくつもある。そこで訓練では、機長役の教官がわざと間違ったことを強硬に主張したり、逆に何でも「よきに計らえ」という優柔不断な機長を演じたりして、訓練生がそれに対処できるかをテストしている。

ダブルチェック有害論は安全工学の学界では別に珍しくないが、世間からは強硬な反発を受ける。年に1通ぐらいは、「これは嘘でしょ」という批判の電子メールが来る。「ダブルチェックをやめたいなと思いましたが、上司を説得できなくて、結局、残しました」という声も聞く。腹をくくって旧弊を捨て、より効果的な検査方法に切り替えられる組織は、案外少ない。◆ダブルチェックは廃止する。

行為の自己申告より、結果の味見検査は、行為の結果に対して目を向けるべきであり、行為の有無を問うてはならない。「砂糖を入れましたか?塩を入れましたか?」と問うのではなく、「味見しなさい」と指示するべきである。結果を検査する方が確実である。結果は動かぬ証拠である。行為の有無は、物体ではないのですぐに消え失せてしまうため、確認しにくい。また、行為をやり終えた直後の作業者に、「やりましたか?」と尋ねることは、かったるい。この尋問を立て続けにされると、作業者は検査を馬鹿馬鹿しく感じて軽視してしまう。また、「やりましたか?/やっていませんか?」という質問は、非常に問題があり、検査の信頼性を下げる。やったつもりになっている人は、本当はやっていなくても、「やりました」と答えるものだ。誤答を物理的に阻止できないのである。尋問の頻度が多すぎると、ますます誤答のリスクは高まる。通常の仕事では、「やりました」で答えるべき回数は「やっていません」よりはるかに多い。普通の職場なら、ほとんどの場合、「やりました」と答え続けることになる。「やりました」ばかりを答えることに慣れた人が、やり忘れのミスをした時だけ都合よく「やっていません」を選べるわけはない。尋問のしすぎは、こうした正常性バイアスを育ててしまう。時折、交通機関や金融機関、通信施設などで使われている大規模なコンピューターシステムがダウンして大騒動になる事件が起こる。私はそのたびに、あの独特のチェックリストが原因なのではないかと思わずにはいられない。大規模コンピューターシステムの業界では、作業手順を誘導し検査するために、資料24のような形式のチェックリストをよく使う。行為の直後に行為の有無を尋ね、結果の味見はしないという、信頼の置けない方式である。

私の経験では、多くのシステム開発・運用会社でこの形式を使っていたので、この業界の伝統なのではないかと思われる。

改良策として、資料25のように、行為の結果、システムが正しく作動している証拠を調べさせ、それを書き込ませるようにする。行為の有無を徹底的に無視し、証拠集めに徹することがポイントである。

結果を味見させる方式なら、作業者本人の自覚は脇に置き、結果がどうなっているかを問うから、ぬか喜びのミスは起きない。

◆論より証拠。行為の有無より、結果の味見。

やり直しの可能性がミスを減らす作業において、直前の操作を打ち消し、元の状態に戻すことを、「取り消し」「引き戻し」「アンドゥ」などと呼ぶ。こうしたやり直しが無制限に利くのであれば、一切のミスや事故は無くなる。ミスが生じても、何回でもやり直しができるのであれば、ミスではなくなる。可逆性が豊富なら、その仕事はかなり安全である。とはいえ、世の中にはやり直しが利かない仕事が多い。自然法則上、不可逆な仕事がある。生卵を目玉焼きにする作業は、失敗しても元の生卵には戻せない。あきらめて、損失をかぶるしかない。一方で、仕事をわざと不可逆にしているケースもある。格式を高めることが目的で、ノーミスを見せつけるという作業がある。長いお経を誤字なしで書いて、寺に奉納するという習慣がある。難しい作業をノーミスで仕上げているわけだから、その貴重さに感動する。しかし、就職活動で使う履歴書に、手書き、かつ無謬を求めるのは、さすがに厳しすぎる。コンピューターシステムで、アンドゥが設置されていないものを見かける。これは使用者にとって大問題であり、大欠陥である。だが、アンドゥ用のプログラムを作るにも金がかかる。システムの発注者は、コンピューターの玄人とは限らないから、「アンドゥができること」という仕様を要求することを忘れがちなのである。すると、システム制作者は当然として作らない。こうしてポンコツなシステムが誕生する。コンピューターシステムの発注者には、適切な仕様を自分で設計する能力、すなわち「発注力」が求められる。ロサンゼルス・タイムズは1996年の記事で、米連邦政府の発注力の無さを「昨日の技術を明日購入しようというのがモットーのようだ」と評した(しかし米国は、「文書業務削減法」や「政府書類業務排除法」といった露骨な名前の法律を作って、業務効率化改革を長年にわたり推し進めてきたから、マシな方である)。コンピューターシステムの発注者が、最低限要求するべき仕様を挙げてみよう。○ボタンを押し間違えても、取り消せること。直前の画面にすぐに戻れること。○ここから先に進むと、入力の取り消しが不能になるという場面(ラスト・チャンス)では、その旨を大きく表示すること。○ラスト・チャンスでは、入力の結果の全てを見やすく表示し、作業者が見直せるようにすること。○ラスト・チャンスは、全入力手順の終わりに設置すること。つまり、入力が一通り済んだ段階で、全ての項目が修正可能であるようにすること。○ラスト・チャンス以降であっても、作業者は仕事の状態を観察することができるよう

にすること(済んだ仕事であっても、事後確認する必要がたびたび起こるものである。だが、作業者の手の届かないところへデータを隠してしまうシステムが多い)。◆アンドゥのないシステムは敵だ。

マニュアルを発行する前には試用テストをもう一つ、発注の際に要求すべきは試運転の実施である。試運転のテストは必ずする。老若男女を被験者としてシステムを使わせる。実験前に、作業の所要時間と入力ミス率を見積もっておき、見積もりと実験結果がどれだけずれたかを報告する。使い方を間違えた部分と、使いにくいという意見が出た部分をリストにし、要因を分析する。試運転テストは、よいシステムを作る上で絶対にやるべき事項でありながら、ほとんどの場合、発注者から要求されることがない。試運転テストがないので、粗だらけで使いにくいシステムが世にあふれている。この問題を扱った本に、ギルブとワインバーグによる『HumanizedInput』(人間に合った入力方式)がある。その献辞はこうだ。「『女の子』呼ばわりされつつも、コンピューターの悪辣な欠陥を、その指先で救ってきた幾千のデータ入力係たちに、本書を捧げる。」例外的に、イギリス国防省は、装備品製造に関する規格で、念入りな試運転テストを求めている。コンピューターシステムばかりではなく、マニュアルも試運転が必要である。第三者に読ませてみて、作業をさせてみる。すんなり仕事ができればよいが、思わぬ欠陥を見つけることも多々ある。試運転をしてもらう被験者は多様であるほどよい。さまざまな背景を持った、いろいろな年齢層の人を集めて、マニュアルの意図が伝わるか、そしてマニュアル通りに作業を実行できるのか、その作業は正しい結果にたどり着けるのか調べる。イギリスの規格は、被験者の多様性を発注時の検討項目に挙げている。子どもは意外な欠陥を見つけてくれるので、被験者に選ぶと非常に有益である。漢字が読めない、計算ができない、社会知識がない、集中力が続かない、ということが普通である子どもをぶつけることで、マニュアルの「過負荷耐久テスト」をするのだ。職場に子どもがいないからといって、これを使わない手は無い。家族に子どもがいる人から斡旋してもらおう。子どもや、高齢者、外国人といったマイノリティーのテストを乗り越えたマニュアルは、粗が取れている。それは職場の効率を上げ、事故を減らす。試運転よりも効果があるマニュアル改善法は無い。◆リハーサルは念入りに。マニュアルは子どもに下読みさせよ。

第7章作業の意味論作業の意味を壊すな人間は、能動的に計画し行動するようにしない限り、作業に失敗しがちである。自分では何も考えず、他人から指図されるままに、手を動かすだけの作業誘導方式は、非常に問題が多い。我々は、メカニズムを納得できない作業手順を習得できない。電卓の計算回路は、引き算を全廃するという革命的な方式で作られている。「93-56=?」という引き算の計算では、まず56の補数(この場合は足した時に100になる数)を対応表で調べて44だと見つけ、93に44を足して137を得て、そこから基数の100を除去して答えの37を導いている。この手順は単純この上ないので、小学校で教えられている方式の引き算は全廃するべきという過激な考えが浮かぶ。だが、何でこの計算手順で正しいのか、子どもにはなかなか納得させることができないので、教育には適していない。ともあれ、引き算であれば、作業効率は悪くとも意味が納得できる手順があるからよいが、分数の足し算や割り算では、抽象的で意味不明な作業手順しか教えてもらえないので、生徒はいよいよ困る。やれ「分母の最小公倍数を見つけなさい」とか「分子と分母を取り替えなさい」と指示され、「そうすれば正しい答えになるんだから」と教え込んだところで、作業が何の目的を持ち、どういうメカニズムで稼働するのかを納得できていなければ、手が動かないのだ。意味を感じ取れない作業は苦痛である。ドストエフスキーは『死の家の記録』の中で、最もきつい刑罰は、無意味な作業であると述べている。桶の水を別の桶に移させ、また元の桶に戻す。あるいは、土の山を別の場所に移動させ、再び元の場所に戻すといった、明らかに無意味な作業が、一番精神的に辛いという。メカニズムを納得できていない作業を唯々諾々とこなすことはできたとしても、その結果の善し悪しを自分で判断できない。「新宿から、恵比寿、広尾、日比谷を通って、巣鴨へ行け」という行程は、馬鹿馬鹿しいほど無駄な回り道である。しかし、地理に明るくない人は言われたままにやるしかなく、能率の悪い行程であるとは気付かない。作業結果の善し悪しを感じられない状態では、上流工程から不良な部品が到来しても排除しないし、自分がミスをしても放置する。ミスが連発している職場は、大抵はこの問題を抱えている。ミスを発見できるように、作業は意味を感じやすく、やりがいのあるスタイルで実行さ

せたい。そのためには、作業を細切れにせず、起承転結を感じ取れる程度の幅で任せる方式がある。セル生産や屋台生産と呼ばれる方式である。流れ作業方式(ライン生産方式)とは真逆の方式に当たる。自動車のエンジンを組み立てる作業ならば、1人の熟練工が、全ての部品がバラバラの段階から、全てが組み上がった段階まで、最初から終わりまでを担当する。熟練工は、固定された自分の作業場(セル、屋台)にいて、そこで作業の全てをこなす。エンジンが組み上がった姿を見るとやりがいを感じるし、出来の善し悪しにも自然と思いが至る。ミスに敏感になる。流れ作業方式ならば、何人かの作業員で手分けするところである。ある人はピストンをはめるだけ、またある人はネジを締めるだけと、作業を細切れにして、各自はその部分だけを受け持つ。加工品はベルトコンベアに乗って生産ラインを流れていく。これならば、各員は一つの工程だけに慣れればよいから、教育と訓練が楽であるし、作業も能率的であると思われがちだ。しかし実際は、日がな一日、1種類の作業を大量に繰り返すことは、意識が呆然としてくるし、精神的に辛い。最後の工程の人以外は完成品を見ないので、その出来の善し悪しを感じるチャンスもない。流れ作業方式は、この心理学上の問題点はあるものの、作業効率の点では優れている。よって、流れ作業方式を採用したり、セル生産方式と流れ作業方式を折衷した体制を選ぶ場合もある。また、流れ作業方式ではあっても、作業があまりに細切れで単調にならないようにするために、ある程度は意味が感じられる程度に複雑さを持たせる工夫がなされている。◆単調な作業は、心理的に辛い。

コンピューターに足りないのは常識マニュアルは、論理的に完全無欠で書けるわけではない。自然言語は論理的に隙なく厳密に書こうとしても書けない。書かれてない部分は常識で埋めるのである。「お客様にお茶を出す」という指示は、「お茶をお客様の顔に浴びせるのではなく、湯飲みに入れて出すのだろうな」と常識を足して理解するのである。2019年になってすら、米国のコンピューター学会の雑誌で、人工知能の権威であるヤン・ルカン博士は「コンピューターは未だもって、とても、とても、馬鹿である。最新、最良の人工知能であっても、猫ほどの常識も持ち合わせていない」と述べている。コンピューターを使う仕事は非常に多い。常識を持たないコンピューターと、常識が働いて当たり前だと信じている人間との二人三脚は、時にとんでもない事故を引き起こす。これを防ぐには特殊な配慮が必要である。事例を挙げてみよう。ある案件のデータを入力中、その案件では全く無関係の欄に出くわした。それは数量の欄だったので、「0」を記入した。つまり「無い」という意味である。すると、コンピューターは「0個」のための見積書を印刷し、客先に送りつけた。ある市役所のシステムは、該当しない欄は「9」の字で埋めなければならないという、古い流儀だった。そんなシステムだからついに、ある人に生活保護費として999,999円を振り込んでしまった。1980年代に、セラック25という放射線治療器で死亡事故が相次いだ。この装置はキーボードを使って操作するのだが、そこに問題があった。電子線モードを表す「E」と入力すべきところを、間違えてX線モードの「X」と打った場合に、矢印キーを押してカーソルを戻し、「X」を「E」で上書きし修正したという事例があった。画面上は「E」に直ったように見えて、実はコンピューター内部での設定は直らず、相変わらず「X」のままだった。そして、強すぎる放射線を患者に浴びせてしまったのである。株や為替の大量誤発注事故は、世界中で起きていて、年に一度ぐらいは新聞沙汰になる。日本で起きた事故では「1株を61万円で売れ」という指令の入力を間違えて「61万株を1円で売れ」と打ってしまった。61万円の価値のあるものを1円で売り払うことを61万回繰り返すという、常識はずれの破滅的動作を、システムは恬として恥じずに実行してしまったのだ。2001年の米国同時多発テロの実行犯は、事件中に自爆して死亡した。事件後しばらくして、米国政府から実行犯の住所宛てに米国滞在ビザの延長を認める書類が郵送された。本人が死亡届を出すわけもなく、名簿データベースから実行犯の名前は消されず、システムが機械的に送ったのである。これらの事故は、常識を備えないコンピューターだけに責任があるのではない。仕事のルール自体が曖昧だから、コンピューターは正しいのだが、うまく働けないという場合もある。

人工知能同士が対戦する囲碁の競技会では、人工知能が自滅してしまった事例がチラホラ見受けられる。囲碁のルールはいくつか存在するが、日本式ルールと中国式ルールがよく用いられる。両者はだいたいは同じで、普通はどちらでプレーしてもゲーム内容に差を意識することはない。まれに点数計算の細かい部分で違いが出る程度である。日本式ルールで強い人なら、中国式ルールでプレーしても同じように強いはずだ。人工知能はルールの器用な切り替えが苦手だ。中国式ルールで稽古を重ねた人工知能が、日本ルールで運営される大会に出場すると、まれにではあるが、ルールの違いを乗り越えることができず判断に迷う。人間なら、迷ったら平凡な手を打ってとりあえずその場をしのぐ。小さなミスをするかもしれないが、無意味な手は打たない。しかし、人工知能は、よりにもよって自滅の手を選んでしまうことがある。囲碁の実力は人間のプロ以上なのに、ルールの細かい部分でつまずいてしまうのだ。囲碁用の人工知能は、機械学習、つまり経験に基づいて最善の手を見抜くように作られている。経験の無い想定外の状況に対してはノーアイデアであり、全く当てずっぽうの行動を取りかねないのである。◆常識があることを当てにしてコンピューターを使うな。

論理的に完全無欠なマニュアルは作れないルールが曖昧だから人工知能が困るというのならば、ルールを論理的に隙のないように厳格にすればよいという意見もあるだろう。しかし、論理的にいっさい粗がないルールは、おそらく作ることができないと思われる。銀行では、顧客から現金を受け取る時には、必ずその場で互いに見えるところで数えて、金額を確認せねばならない。「現金その場限り」の原則である。しかし、この原則を破る場合がある。初詣の賽銭は、膨大な量の小銭の山である。これを何日もかけて全て数え上げてから銀行が引き取るわけにはいかない。まずは銀行が持ち帰り、金額は神社仏閣に事後報告することになる。顧客が視力に障害のある人ならば、現金を互いに見て確認というわけにもいかない。大規模な自然災害が起きたときには、通帳も身分証明書もないが、現金が必要で預金を下ろしたいという顧客が殺到する。このように実社会には、大原則を曲げるべき特殊な事例が必ずあるのだ。論理的厳格性を徹底的に要求する数学や物理学ですら、ルールの曖昧さの問題はある。たとえば、「選択公理を認めるか否か」という選択を迫られることがある。これは、「0以上1以下の数を、ダブりなしで何個でも例を思いつけることにするか、しないか」という、一見すると「できる」に決まっている話である。だが、「できる」にしてしまうと、バナッハ・タルスキーのパラドックスという、奇怪な現象を認めることになる。これは、一つの球を数個のパーツに切り分け、それらをうまい向きに回して組み合わせると、球が2つに増えるという命題である(やり方をユーチューブで解説している人もいる)。これは現実世界の常識とは合わないので却下したいところだが、それでは数を思いつけないという異常な仮定を認めることになる。この論点は、微小な世界の現象では実際に差し障りがある問題であるので、まじめに検討せねばならない。そういう分野の教科書は、まず選択公理をどう扱うかから話を始める。論理的に厳格であるからといって、深い意味があるとは保証できない。農機具に関する行政は、農林水産省と経済産業省が関わる。この役割分担について農林水産省設置法は、農林水産省の担当範囲は、「経済産業省がその生産を所掌する農畜産業専用物品の生産に関することを除く」と定めている。経済産業省設置法は、経済産業省の受け持ち範囲は「農林水産省がその生産を所掌する農機具を除く」としている。これなら論理的に完璧であるが、実際にどう区分けしているのかは分からない。ヴィトゲンシュタインの言うように「トートロジーは無意味」である。囲碁は深遠なゲームであり、曖昧性のないルールを作ることは難しい。たとえ作れたとしても実用に適するかという問題もある。膨大な条文が並んだルールブックでは使い物にならない。

一般の契約書も、あまりに例外的な事項は条文を用意せず、「双方、誠意をもって解決に努める」の文に織り込んでしまう。重箱の隅はつつかない方式で済ませ、常識を持っている人間様がお裁きを下す方が合理的である。結局、厳格にマニュアルを書いたつもりでも、それでカバーしきれない事例が残ってしまう。そこで下手をすれば暴走するのが人工知能であるが、常識のある人間であれば、何とかうまくまとめることができるだろう。論理的に厳密なマニュアルが存在したとしても、それで作業がスムーズになるとも、読者の疑問にちゃんと答えられるとも言えない。よいマニュアルは妥当さを目指す。論理よりも分かりやすさ、百点満点ではなく合格範囲内の仕上がりを目指す。◆マニュアルは妥当を目指せ。

簡素さを取るか、精密さを取るか仕事は簡単であるに越したことはないが、まれに簡素さが弊害を呼び寄せることがある。シンプル・イズ・ベストとは限らない。課税制度は簡素さと複雑さの間で揺れ動いてきた。誰から、いつ、どこで、いくら、納めさせるかというルールを作り、それを実施することは、かなり難しい。所得税の制度は、証拠の提出から控除の算定などがかなり複雑であるが、この事務コストにひるまずに断行されている。例外的に簡単な税は、塩税や、酒税、印紙税など、ものにかけるものである。これならば、事務能力が貧弱な昔の政府でも運営できた。明治時代の政府の財政は酒税にかなり頼っている。戦争などで財政が悪化すると、必ずこれらの税が引き上げられた。中国の王朝は、塩税の引き上げにたびたび手を染めたが、塩は生活必需品なので、重税を課すと民衆反乱が起きた。イギリスは、アメリカの植民地に印紙税をかけたが、これがもとでアメリカは独立戦争を挑んできた。シンプルな税制度は、庶民に重く、また安直に増税されがちで、それが民衆の反発を招いて危険である。所得税は、事務上は面倒くさい制度であるが、累進課税によって庶民の負担を相対的に減らしたり、各種の控除によって国民の行動を誘導できるといった大きなメリットがある。「配偶者控除」や、「地震保険料控除」「政党等寄付金特別控除」といったあの手この手の控除によって、我々のライフスタイルは操られている。精密な事務作業は、コストはかかるものの、それだけの効果はあるのだ。簡素さと精密さの両方を兼ね備える制度も存在する。近代的な郵便制度は19世紀にイギリスで発足した。送料を国内均一にして料金計算の事務コストを撤廃するという、大幅な作業効率改革によって、一大事業として確立したのである。均一料金ならば、切手を使って料金を前もって受け取ることができる。料金が細かく変動するのであれば、この手は使えない。この効率改革によって、支払い事務と受付事務は分離できることになり、使用者はいつでも郵便物をポストに入れさえすればよいという利便性も生まれた。しかし、時代の変化によって状況は変わりうる。ある時代においては、シンプルで効果的な制度だったのに、時が移ると、効率が落ち、下手をすれば複雑怪奇なものに変貌することがある。一度、成功を収めたからといって、制度の改革をしなくて済むとはいかない。印紙税は、昔は単純明快であったが、ややこしくなっている。印紙税法を読んでみると、領収書のように一回ごとに発行する書類と、通帳などの何回か使いまわす帳簿型書類とでは、税額の計算方式が違う。契約内容に対する税ではなく、書類に対する税なので、同じ契約内容であっても書類の形式が違うと、税額が異なることもある。どことなく釈然

としないし、印紙税の節税テクニックを説く人もいる。ある銀行は、顧客に送る住宅ローンの審査結果の手紙には印紙が不要だと考えていたが、2014年に税務当局は文書の内容からして課税対象だと判定した。納付漏れは総額2億円強である。節税の意図はなくとも、印紙税法はよく研究しないといけない。細かくて複雑な規則が多く、忘れると脱税となるし、税額も馬鹿にならないからだ。最近では、自然災害を被った人向けに、建物の立て直しや土地の取引等に関する書類に非課税措置が取られている。このようなマイナーな規則がいろいろある。また、「営業に関しない受取書」は非課税とされている。ここでの「営業」とは、通常の日本語の意味とは違うからややこしい(結論だけを大まかにいえば、弁護士などの「士業」は「営業」の扱いを受けず、彼らが発行する領収書のようなものは、印紙を貼らなくてよいのである)。印紙を貼り忘れたり、消印を押すのを忘れるミスも多い。2017年には、消印の押されていない印紙を剥がすという手口で、法務局局員が4億7千万円強を稼いでいたとして刑事告発されている。印紙のストックが切れると買いに行かねばならない。高額の印紙は保管に気を使う。という具合に、日本中の事務作業員の頭を悩ます印紙税法である。印紙税は、徐々に改革されつつあるものの、時代に合わない。根本的に廃止する方が、日本社会の生産性向上のためになるだろう。あえて作業を煩瑣にする場合もある。朝令暮改ではあってはならない事項は、手順を増やし、時間がかかるようにしてある。大臣の任命においては、皇居で親任式を開催せねばならない。総理大臣だからといって、儀式を軽々しく即興で開催するわけにはいかず、大臣を安易にころころとすげ替えることができなくなっている。株式会社の取締役も、解任するには株主総会の議決が必要となる。重要人事の急変を防ぐために、事務上の不便をブレーキとして利用しているのだ。とはいえ、大切な儀式であっても、手順は簡素にするべきと考える。司馬遷は「大礼必簡」(重要な儀式は必ず簡素である)と述べている。無駄のない手順は、機能美を持ち、緊張感を演出する。茶道の作法は、無駄を省いた簡素の極みであるが、事務的で退屈ということにはならない。◆効率的な作業も、時代が移れば不効率になる。

第3部練習問題

ここに練習問題をいくつか挙げる。これは腕試しのためというより、世間ではいかに複雑怪奇なマニュアルがあるか紹介することが目的である。

問題1:「ルールブック調マニュアル」を手順主義に書き直す以下にルールブック調のマニュアルの例を挙げる。これを、手順主義に書き直すにはどうすればよいか。手順が合理的になるように組み替える必要がある。ルールが書かれている順番と、着手するべき手順とは大いに食い違うからだ。この作業では、ところどころに条件分岐がある。これは早見表で書くべきであろう。【ポイント扱い規程】○受付係は、申込書・現金・ICカードを顧客から収受する。○全ての業務は、顧客の提出した申込書の指示に基づいて実施される。処理修了後は、申込書の顧客控を顧客に返却する。○ポイント使用業務は、顧客の口座にあるポイントを充てて商品を販売する業務である。○ポイントチャージ業務は、顧客から現金を受け取り、ポイント換算率に応じて顧客の口座のポイント残高を増やす業務である。○ポイント移転業務は、顧客の提出した申込書の指示に基づいて、当該顧客の口座にあるポイントを、他社のポイントサービスの口座に移し替える業務である。○ICカードは、顧客のポイント残高を記録する。残高状況に変化が生じる業務では、必ず顧客から受け取り、変化を記録し、顧客に返却せねばならない。○班長は、受付係の提出した書類を検査し、必要な場合は承認・否認をする。否認した場合は、取引不能の旨を顧客に伝える。○20万点以上のポイント使用は、班長の承認を要する。○外資系サービスへのポイント移転の場合は、班長の検査と承認を要する。(条件によりポイント移転ができないサービスが存在するため)○チャージされたポイントの一部をすぐにポイント移転に使うという申し出の場合は、チャージの処理を先に済ますこと。○20時50分以降の申し込みに対しては、受付係は、本日中に処理ができない恐れがあることを顧客に説明し、同意を取ること。○顧客が、同時に複数の取引を申し込んだ場合は、早く処理が終わった業務があってもそれだけを返却せず、全ての仕事に関する顧客控を一括で返却すること。

問題2:消費税の軽減税率早見表を作ろう2019年の10月から、消費税の方式が変わる。「軽減税率制度」が新たに始まる。税率が上がるだけでもマニュアルを更新せねばならないが、手続きの流れの説明にもメスを入れなければならない。商品が軽減税率の対象に当たるか、当たらないかを、判定する早見表を作ってみよう。なお、税制度は経済状況に合わせて頻繁に変わる。書籍という更新の遅いメディアで税の実務を取り上げるには難がある。ここでは、あくまで執筆時点(2019年夏)においてのみ有効な話であるのでご了承いただきたい。ちなみに、ここでは普通に「消費税の標準税率は10%に上がり、軽減税率は8%と設定される」などと書くが、これは正式には間違いである。法律上は、これらは「消費税」そのものではなく、「消費税」と「地方消費税」を足した値である。と、のっけから面倒くさい。2019年7月に国税庁が発行した「よくわかる消費税軽減税率制度」というパンフレットを読み解いてみよう。軽減税率の対象となる品目はこう説明されている。○次の対象品目の譲渡(販売)。○食品表示法に規定する食品(酒類を除く)である飲食料品であり、一定の要件を満たす一体資産を含む。○外食やケータリング等は対象ではない。○ケータリングのうち、有料老人ホーム等で行う飲食料品の提供は、軽減税率の対象になりうる。(細かい規定あり)○「食品」とは全ての飲食物をいい、人の飲用又は食用に供されるもの。○「食品」には、「医薬品」、「医薬部外品」および「再生医療等製品」は含まれず、食品衛生法に規定する「添加物」は含まれる。○一定の題号を用い、政治、経済、社会、文化などに関する一般社会的事実を掲載する、週2回以上発行されるもので、定期購読契約に基づく新聞。○飲食料品の販売に際し使用される包装材料および容器(以下、「包装材料等」という)であり、飲食料品の販売に付帯して通常必要なものとして使用されるもの。○贈答用の包装など、別途対価を定めている包装材料等は、対象ではない。○包装材料等自体の仕入れは、対象ではない。○「一体資産」とは、食品と食品以外の資産があらかじめ一体となっている資産で、その一体となっている資産に係る価格のみが提示されているものをいう。○一体資産のうち、税抜価格が1万円以下であって、食品の価格に占める割合が3分の2以上の場合は、全体が軽減税率の対象となる。それ以外は全体が標準税率に。

○食品の価格に占める割合は、事業者が合理的に計算する。(原価ベースで算定したり、最初から一体資産として仕入れるなどの例示がある)○外食やケータリング等は、軽減税率の対象ではない。飲食料品のテイクアウトや、出前、宅配等は軽減税率の対象である。○外食とは、食事の提供を行う事業者が、テーブル・椅子等の飲食に用いられる設備(飲食設備)がある場所において、飲食料品を飲食させる役務の提供のことである。○ケータリングとは、相手方が指定した場所において行う役務を伴う飲食料品の提供のことである。○テイクアウトとは、単なる飲食料品の譲渡のことである。○外食かテイクアウトかは、顧客に意思確認を行うなどの方法で判定する。○出前・宅配等とは、単に飲食料品を届けるだけのものである。○軽減税率が適用される取引かどうかの判定は、売り手が課税資産の譲渡などを行う時、すなわち、飲食料品を提供する時点(取引を行う時点)で行うこと。これだけでもややこしいが、これは概説に過ぎない。国税庁の『消費税の軽減税率制度に関するQ&A(個別事例編)』2019年1月改訂版には、概説では拾いきれない細かな事例について解説されている。「カタログギフトで食料品を選んでも軽減税率にはならない」といった意外な判定もある。しっかり読まなければならない。この判定をレジ係が一瞬でこなせるように、早見表を作ってみよう。ただし、今挙げた内容の全部をカバーする早見表は、煩雑になりすぎるし、現実には出番がない。新聞の定期購読とケータリングとを同時に扱う店は、ほとんど存在しないだろう。業種ごとに関係する部分だけをピックアップして早見表を作るのが現実的だ。スーパーマーケットのレジで備えるべき早見表と、出前もやっている飲食店のための早見表を作ってみよう。

問題3:センター試験問題配布ミス事故2012年1月14日に行われた大学入試センター試験では、試験監督者が社会科の問題冊子を正しく配れないというミスが、全国58もの会場で相次いで起こった。影響を受けた受験生は4000人以上にものぼる。空前の大トラブルであるが、これだけ数が多いということは、試験監督個々人の問題ではなく、運営の実態に欠陥があったと言わざるを得ない。この事例には、いくつかの要素が絡み合っている。

①名前の問題便宜上、「社会科」と書いたが、これは正式な呼び名ではない。正式名は「『地理歴史』『公民』」という長いものであった。一つのグループなのに2つのものが併記され、地理歴史に至ってはその中身もまた併記という、紛らわしいネーミングである。前年までは、地理歴史と公民は完全に別扱いであり、試験時間も異なっていた。これなら名前を混同する問題はない。それをこの年から一本化したのである。紛らわしいと言えば、「教科」と「科目」の語もセンター試験では意味が違う。「教科」が上位概念で、「科目」は教科の中での細分である。「地理歴史」は「教科」の一つであり、その中に「世界史A」などが「科目」として属している。◎問題:「教科」と「科目」という名称は、どうするべきだったか?

②前後順序の束縛社会科は最大で2科目まで受験できる。その場合は、当然2科目分の時間が与えられる。志望する大学が1科目しか要求していなくても、2科目を受けてよい。というより、センター試験の出来次第で志望大学を選ぶのであるから、センター試験時点では志望大学は、まだ決められない。すると、こんなズルはできるだろうか。2科目分の時間を使って、1科目だけ解くことに集中する。そうやって1科目だけを高得点にして、その成績で1科目しか要求しない大学に志願する。問題冊子と回答用紙は、社会科の時間の冒頭で全科目分が配られるので、できそうである。この手口を防ぐために、ややこしい方式が取られている。2科目を受ける受験生は、あらかじめ前半で解く科目を指定せねばならない。これを「第一科目」と呼ぶ。社会科の時間枠の前半では第一科目だけを解くことを強制される。前半の時間が終了したら試験を中断し、回答用紙を回収するのである。1科目しか要求しない大学へは、第一科目の成績だけしか利用できないという仕組みである。前年まではこうではなかった。1時間目は「地理歴史」専用の時間で、2時間目は「公民」だけという、とても単純な制度であった。しかし、これでは歴史好きな受験生であっても、「世界史A」と「日本史A」の両方を選ぶことができないということで不評であり、今回の制度改正とあいなったのである。さて、多くの試験監督たちが、前年の制度のままだと勘違いした。日頃忙しい大学の先生を、試験監督に動員するのであるから、制度に詳しい人はあまりいない。前年を踏襲して、社会科の時間が始まった時に「地理歴史」の問題しか配らなかった。これでは「公民」を「第一科目」にするつもりだった受験生が困ってしまう。だが試験監督は「公民は2時間目だ」と聞き入れなかったのである。試験監督が自信満々に「これでいいのだ」と言い切ると、抗弁しにくいのかもしれない。受験生の中には唯々諾々と従う人もいて、結果、大トラブルに突入した。直接の原因とは言えないが、背景事情もある。前年にインターネット質問掲示板を使ったカンニング事件があり大騒ぎになった。それゆえ試験監督たちは不正にひときわ敏感であった。試験を監督する立場に立てば、一気に2科目の問題冊子を配ってしまう制度は、一見ズルができそうに見える。ギリギリのところで公正が保たれている制度は、理解が難しい。だからこそ、受験生の抗弁に対して試験監督は拒絶できたのではないだろうか。◎問題:「第一科目」の名称は、どうあるべきだったか?

③ぶっつけ本番この年から社会科は、最も複雑な試験制度である教科になったわけだが、これを試験初日の冒頭にやることになってしまった。日頃忙しい大学の先生が、複雑なシステムを理解する暇もないままに試験監督をすると、大トラブルが起きて当たり前である。本来なら、単純な教科を初日の冒頭に置き、試験監督と受験生を慣れさせるべきである。社会科の試験制度が難しくなったのだから、その時間割を1日目の午後に移すという案はどうだろう。実は、1日目の午後は、外国語の試験がある。外国語はリスニングのテストがあり、ここで機材に故障があった場合は、試験会場に夕方まで受験生を居残らせて、正常な機材と取り換えて再度テストするという措置が取られる。よって午後は外国語のために取っておかねばならないのである。◎問題:試験監督は、台本を読むことを強制される。それに従えば、何時何分に何を言えと規定されているので、このような間違いは起こらず、正しい誘導ができたはずであった。なぜ、その手が利かなかったのだろうか?どうすればよかったか?

解答問題1への解答各ルールの内容を読解して、前後関係や因果関係を洗い出し、実際の着手手順を考えてみる。すると次のようになる。1.お客様のお申し込みが、20時50分以降か?YESなら、受付係は、本日中に処理ができない恐れがあることを顧客に説明し、同意を取る。2.受付係は、お客様がご提出した申込書・現金・ICカードを受け取る。3.ポイント使用の御依頼があるならば、次の手順を踏む。①20万点以上のポイントの使用なら、班長に渡して、承認を待つ。②ポイント使用処理を実施し、書類およびICカードに記録する。③手順4に進む。4.ポイントチャージの御依頼があるならば、次の手順を踏む。①ポイントチャージ処理を実施し、書類およびICカードに記録する。②手順5に進む。5.ポイント移転の御依頼があるならば、次の手順を踏む。①外資系サービスへのポイント移転の場合は、班長の検査と承認を要する。(条件によりポイント移転ができないサービスが存在するため)②チャージされたポイントの一部をすぐにポイント移転に使うという申し出の場合は、チャージの処理を先に済ます。手順4を先に実行する。③ポイント移転の処理を実施し、書類およびICカードに記録する。6.ICカードに記録すべきことを記録したか確認する。7.同一のお客様で、まだ御依頼が残っているのなら、残っている仕事の手順3、4、5を済ませる。(早く処理が終わった業務があってもそれだけを返却しないこと)8.全ての仕事に関する、「お客様控え」、ICカード、書類、お釣りなどを揃えて、一括でお返しする。これでもマニュアルとしては成り立っているが、資料26のように早見表にする方が、字数が少なくなるし、条件分岐もビジュアル的に分かりやすい。

字数を減らすために、条件分岐については条件だけを書くことにした。「20万点以上なら班長の承認を取れ」とは書かず、「20万点以上か?」とだけ注意を出す。これでも作業者には言わずもがなである。こうして、縮めに縮めればポケットに虎の巻として入るだろう。

問題2への解答まず、スーパーマーケットやコンビニエンスストア向けの早見表を考えよう。関係する商品は、食品と新聞、洗剤、重曹などである。ギフト包装もありえるし、保冷剤も付ける。宅配サービスも盛んである。これらをピックアップし、平易な言葉遣いで説明すれば、資料27のようになる。

税率の違いを目立たせるために、軽減税率は「★8%軽減税率」と長く書き、標準税率は「減なし」と短くした。凸凹によって、違いを目立たせる。食品と食品以外のものとが一体になった商品の判定は、原価を調べなければならないから、レジではできない。通常は、値札を貼る段階で判定が済んでいる話なので、この早見表ではレジ係は値札の言い分に従うのみとした。次に、ケータリング、出前、立ち食いの全てを扱っている飲食店で考えてみよう。資料28のように整理できるだろう。もし、店内に「飲食設備」が無ければ「外食」はそもそも無くなるので、早見表はぐっと簡単になる。だが、カウンターだけでも「飲食設備」となるので、立ち食いは「外食」に分類される。一方で、列車内のワゴン販売で弁当を買って、車両の椅子で食べるならば、軽減税率に該当する。今のところ、国税庁の問答集ではそうなっている。これらの答えは、執筆時点での話である。この早見表がいつまでも通用するとは思えな

い。少なくとも、2021年からは、税込価格で表示することが義務化される予定であり、この節目で判定手順は大きく変わるだろう。実務に使われる方々は、随時、国税庁のウェブサイトからパンフレットを入手し、税理士さんと相談されるようお願いする。

問題3への解答①「教科」は「教科大分類」に、「科目」は「教科小分類」という、相互関係が明確な名前にするべきである。あるいは、「時間枠名」や「テスト冊子名」など、具体的な物事に結び付けた名称でもよい。②「第一科目」は特殊な役割を持つ意味深長な存在であるが、名前が素朴すぎた。「成績優先使用科目」と呼んで、機能と重大性を表現すべきだった。③台本の読み上げは難しかった。字数が多いし、レイアウトも複雑であった。ましてや制度が複雑に変わったため、台詞が去年より増えた。このため、時間が押し気味になってしまい、試験監督は焦ったのである。時間が十分であるか確かめるために、迫真のリハーサルが必要だった。センター試験が実施される1月中旬、大学の教員は、連日の卒業研究の指導の疲れで、精神も肉体もヨレヨレの状態である。そういう人を被験者にしてみないと、リスクの見積もりはできない。台本は文字を減らすことが必要である。同時に、制度変更があった事項は、明示しておかねばならない。理屈の上では、前年との差異を台詞として読み上げなくてもテストは実行できる。しかし、ルールよりも経験に基づいて判断するのが人間であり、自分の口から声に出して言わないと、差異に気が付かないものだ。

あとがき本書では、リアルな事例を数多く取り入れることができたと思う。これはもっぱら「品質と安全文化フォーラム」という、各企業の安全の実務家と研究者が集まった業界横断的な議論の場にて、教えていただいたものである。各社が社内で体験した苦労話や、マニュアル作りのノウハウは、通常は社外には絶対に出てこないものであり、極めて得難い情報である。この場を借りて深く感謝したい。他人に作業の仕方を教えるという課題は、人類の歴史が始まった頃からあったに違いない。あまりにありふれている課題であるから、かえって学問化が進んでいないように見える。もちろん工学の世界には、作業の効率化の技法が蓄積されている。しかし、工学はまだまだ人間への探求が手薄であり、読者である人間が分かりやすい文体で書くといった人的要因への研究は十分な域に達していないと思う。これが本書を書くに至った動機である。作業の段取りだけでなく、作業者の心理にも強い関心を寄せるという、ある種もの好きな発想は、室町時代後期の侘茶において起こった。茶は、もともとは台所で召使いなどに淹れさせて、客間に運んで出すものであった。主人は労働という苦役に手を染めなかった。それを、客間に無理矢理キッチン機能を持ち込み、主人自らが作業することにした。畳敷きの床に場違いにも炉を作り、作業がよく見えるようにと極端に狭くした茶室をわざわざ作った。そこまでして、作業を自ら行い、それを客に見せたいという願望はどこから湧いてきたのであろうか。よく設計された作業は美しいものである。無駄が無いゆえに機能美もあるし、清潔さの美しさや、整理整頓の様式美もある。作業する時、人は非常に内省的になり、作業が有する美しさが心にしみ込んでくる。客は主人の作業を鑑賞し、また供された茶を飲むことにより自身も作業に加わることで、心理的一体感を得る。作業を苦役と捉えている限りは、よい作業設計もできず、マニュアルも粗雑なものになる。作業は、手順の羅列ではない。目的を実現するという意図によって編成された行為であり、自然法則と調和するように成り立っている。その核心を追求するという知的好奇心を持つ人にとって、内省的な満足を得る道になりえるはずである。その道案内としてのマニュアルでなければならない。

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