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09心の幸福と問題

それではまず、私たちが日常的に感じる幸福について考えてみましょう。

私たちは普段、どんなことで幸福を感じているでしょうか?お寿司や焼肉など美味しい食事をしたときの幸福感、宝くじで一億円当たったときの幸福感、好きな人から愛されているときの幸福感など様々なものがあります。

心の三つの性質について学びましたが、心に起きる幸福感をよく観察してみると、それぞれに特徴があることが分かります。

欲望

食事や性的快感などの身体的な幸福感

思考

他人と比べることで起こる優越感やお金がたくさんあることの満足感や安心感

智慧

他者に貢献することの幸福感や自分の夢を実現する達成感

以上のものは私たちが普段幸せだと感じるときの心の働きです。

しかし、なぜ心の幸福だけでは本当の幸福には到達しないと言うのでしょうか?ヨガの教えでは、私たちの住むこの世界は二つの原理で成り立っていると考えています。

『ヨーガ・スートラ』の章ですでに述べましたが、一つはプルシャ(純粋意識)、もう一つがプラクリティ(根源物質)ですこの二つの原理には、プルシャは一切変化しない、プラクリティは変化し続けるという特徴があります。

つまり、純粋意識である私は変化せず、根源物質である心と体は常に変化しているのです。したがって、心や体で得る幸福感は必ず変化するもので、手に入れるとすぐ失われてしまうものなのです。

では、この点について具体的に考えてみましょう。

欲望の幸福街中を歩いていると、美味しそうなステーキの写真が入った看板を目にします。

そのとき「お肉が食べたいな」という欲求が生まれ、ちょうどお腹もすいていたので、引き寄せられるようにそのお店に入ります。注文してからしばらくすると、目の前に美味しそうなステーキが運ばれてきました。お肉を切り分け、最初の一口を食べると、口の中に味が広がってとても幸せになります。しかし、この幸福感はどれぐらい持続するでしょうか。

最初は美味しく食べることができますが、食べ終わる頃にはお腹が一杯になって苦しくなり、油で少し気分も悪くなっています。

そして、次は何か甘い物、アイスクリームでも食べたいなと思うようになります。このように、欲望の幸福がどのようなものかよく観察してみると、実際はそれほど長続きしないことが分かります。それは、お寿司であっても、ケーキであっても、お酒であっても同じです。

最初にイメージが想起され、欲求が起き、次第に飢餓感へと変わり、食べた瞬間は幸福を感じますが徐々にそれは衰えていき、しばらくすると消えてしまいます。

そして、最初の幸福の余韻が去ってしまったら、次の欲望の対象を探し始めるのです。欲望の性質は波乗りのようなもので、上がったと思ったらすぐ下がる、非常に不安定なものです。

幸福を手に入れたと思った瞬間、すぐその手からこぼれ落ちてしまいます。これは食事だけに限ったことではありません。

例えば、買ったばかりの洋服はとても喜ばしいものですが、次第に見劣りしていき、最後には飽きて着なくなってしまいます。また、セックスなどの性的な快感も、行為が終わったらすぐ去ってしまいます。

つまり、欲望が与えてくれる幸福は必ず衰えるもので、それによって幸福にとどまり続けるということができないのです。これは欲望の幸福感の非常に明確な性質です。

しかし、多くの人はこのことに気がつかず、いつも欲望を喜ばせてくれるものを追い求めては失うという堂々巡りを繰り返しています。

それでは次に、思考が与えてくれる幸福について考えてみましょう。

目次

思考の幸福

思考によって得る幸福感には、他人と比較して自分が優れているというような優越感や財産をたくさん持つことで得られる安心感や満足感があります。

このような思考が与えてくれる幸福感も変化するものでしょうか?具体的に考えてみましょう。

他人と比べることで起こる優越感は、私たちを気持ち良くさせてくれます。

例えば、同窓会などで古い友人たちと集まったとき、自分が有名な企業に勤めていて年収も高かったりすると、周りから羨望の目で見られ、とても気分が良くなります。

その人たちと関わっている時は、いつも自分は優秀でお金持ちだと思い、その人たちに対して優越感を持つことができます。

しかし、別の飲み会などに参加したとき、自分よりも社会的地位や年収のある人たちと会うと、今度は嫉妬や劣等感を感じて苦しくなります。

では、必死にお金を稼いで世界一のお金持ちになれば、常に優越感を感じることができるかと言えばそうでもありません。

今度は仲の良い恋人たちや家族を見て嫉妬したり、田舎で自然に囲まれてのんびり生活している人を見て羨ましいと思ったりします。

このように、思考は常に様々なものと自分を比較し続けているので、一度満足しても、また別のものを見て不満を感じてしまうのです。

思考はいつも自分の外側のものに幸福を見て、「あれがあれば私は幸せになれるのに」と思って、それを追いかけていきます。それを手に入れたとしてもまた別のものを見て、「これがあれば私は幸せになれるのに」と思います。

この繰り返しに終わりはありません。では、お金をたくさん持ったときの安心感はどうでしょうか。

例えば、家が貧乏だったり借金をしたりしていて、いつもお金のことで頭を悩ませているとき、「お金さえあればこんなに悩む必要はない。お金があれば幸せなのに」と思います。

そして、頑張ってお金を稼ぐようになると、確かに貧乏で困ることはなくなりますが、今度は「自分の財産が泥棒などに奪われてしまわないか、資産運用などで失敗しないか」と心配します。

結局、思考はいつも心配し続け、悩みがなくなることはありませんこのように、思考が様々な心配をしている状態というのは不快なものです。

私の知人に、いつも株のチャートを気にして一喜一憂している方がいます。いくらお金があったとしても、朝から晩までこのように心配し続けるという生活は果たして幸せでしょうか。

単にお金が儲かれば良いというだけでなく、人生から心の平安を奪ってしまう損失についてもよく考えなければいけません。

また、他人と比べて自分が幸せそうに見えることが幸福の条件だと思う人がいます。しかし、他人から幸せそうに見られていることと、その人が本当に幸福かどうかは本質的には関係がありません。

例えば、容姿が美しく、素敵なパートナーがいて、お金持ちで、と人がうらやむ要素をたくさん持っていたとしても、実際その人が幸せかどうかは全く別の問題なのです。

これもまた、幸福についての正しい理解ではないと言うことができます。では、最後に智慧が与えてくれる幸福感について考えてみましょう。

智慧の幸福

智慧は私たちにとって本質的な心の働きです。智慧の働きに従うことは私たちを幸福へと導いてくれます。智慧の求めに応じて自分らしくあること、他者のために貢献することは人生において特に大切にすべきことです。

しかし、これらの行為が必ずしも私たちを常に幸福で満たしてくれるとは限らないのです。確かに、他者に奉仕し感謝されることで私たちは幸せを感じることができます。

しかし、一方でその人たちからお節介だと言われて拒絶されたり、自分の思った通りに助言が聞き入れてもらえないことにイライラしたり、救いたいと思った人たちが救えない悲しみなど、様々な問題が起きることもあります。

場合によっては、その人のためにと思って苦労したのに、かえって状態が悪くなり非難されることもあるかもしれません。また、一人を救ったとしても、救われるべき人は数限りなくおり、このような悩みが尽きることはありません。

したがって、他者に貢献したからといって必ずしも私たちの心の苦しみが解消されるわけではないし、場合によっては深刻さが増すこともあるのです。

また、自分がワクワクするようなこと、直感的な求めに応じて行動することも大切ですが、これもまた、そのことが原因で悩んでしまったり、夢を追いかけたけれど挫折して喪失感を感じることもあります。

以上のように考えたとき、智慧の働きに応じて行動することは、私たちにとってとても大事なことですが、それにさえ従っていれば幸福が得られると約束されているわけではありません。

では、本当の幸福とはどのように得ることができるというのでしょうか。また、瞑想によって起こる至福と心で感じる幸福とはどう違うのでしょうか。次の章で考えてみましょう。

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