それでは、これから瞑想の具体的な実践について考えていきましょう。はじめにもお話ししましたが、瞑想は単に座るだけではなく、その方法について理解することがとても大切です。
意識のスクリーンと意識のチャンネルまず、最初にお話しした「私は体でも心でもない意識である」という点を思い出してみましょう。
私が意識であるということについてはすでにお話しした通り、見たり触ったりできる体や、喜んだり悲しんだり考えたりしている心ではなく、心や体を見ている意識が私の本質であるという考え方でした。
瞑想をするとき、まずはこの意識の特徴について良く理解しておかなくてはいけません。意識とは言わば映画館の観客のようなものです。私たちが映画を見るとき、映画館のスクリーンに様々な情景が映し出されます。
日常生活でも、このスクリーンに様々なものを映し出して、それを意識が見ていると考えてみましょう。
例えば、本を呼んでいるときは本をスクリーンに映し出し、コーヒーを飲んでいるときはコーヒーを映し出しているのです。
これは思考についても同じで、私たちが「考えている」と言うとき、それは思考がスクリーンに映っている状態であると考えることができます。
また、他の感覚も同様に、音楽を聞いているときは音がスクリーン映っており、食事をしているときは味が、香水の匂いがするときは匂いが、というように、それぞれの感覚対象をスクリーンに映しているのです。
このスクリーンを意識のスクリーンと呼び、スクリーンに映す対象の変化を意識のチャンネルと呼びます。
では、この意識のスクリーンの特徴について考えてみましょう。意識のスクリーンに映し出されるものは様々に変わっていきます。
例えば、家族と食事をしながらテレビを見ているとき、家族との会話、テレビの内容、食事の味が交互に意識のスクリーンに映し出されています。
この変化は瞬間的に起きているので、この三つを同時に行っているように感じていますが、実際は一つ一つを切り替えているのです。
もしテレビの内容に夢中になっていれば、家族との会話が全然耳に入って来なかったり、食事の味をほとんど感じずにいつの間にか食べ終わっていた、ということが起こるからです。

また、意識のスクリーンにある対象を集中して映し出しているとき、意識はその対象以外のものを全く認識しなくなるという性質もあります。
つまり、意識のスクリーンは周りの環境にある全てのものを映し出しているのではく、心が注意を向けたものだけを映し出しているのです。
例えば、部屋で食事をしたり誰かと話をしているときは全く気にならなかったのに、一人でぼーっとしていると急に時計のカチカチと鳴る音が気になった経験はないでしょうか。
この時計の音は聞こうとしたときだけ鳴っているわけではなく、部屋にいる間中ずっと鳴っています。しかし、何か別の対象に夢中になっているとき時計の音は聞こえなくなってしまいます。
呼吸は一番分かりやすい例かもしれません。私たちは生まれてからこれまでずっと呼吸を繰り返しています。少し、深呼吸をしてみてください。
深呼吸をしているとき呼吸はとてもはっきりと感じることができます。一方で、会話をしているときや映画を見ているときは呼吸を感じることはありません。
しかし、意識されないからといって呼吸がなくなってしまう訳ではないのです。呼吸はずっとあなたの中に存在しています。
もし映画を見ている間呼吸をしていないとすれば、映画を見終わる前に私たちは死んでしまうでしょう。
ですから、映画を見ているときは呼吸が意識されない、深呼吸をしているときは呼吸が意識されるというように、意識のチャンネルが切り変わっていて、意識のスクリーンに映っていないものはまるで存在していないように感じられるのです。
以上の点をよく理解することがこれから瞑想をするためにとても大切です。
この意識の特徴をよく理解し、意識のスクリーンに何を映し出すのかということが瞑想の実践的な面だからです。思考は止められない次に、思考の原理について考えてみましょう。
前の章で、「必要のない思考はできるだけ止めておきましょう」というお話をしました。瞑想中も、余計な雑念を一切止める必要があります。
しかし、こんなに勝手に動き回る思考を止めるということができるのでしょうか?答えは、「思考は止められない」ということです。
これはすでに考えてきたように、心は私のものではないので自分の力では止めることができないからです。
例えば、体には心臓の鼓動や血液の循環、呼吸など生命を維持する働きがあります。この心臓の動きや血液の流れは自分で動かしているものではなく、生命の自然な活動です。
ですので、自分の意志で血液の流れを遅くしたり、止めることはできません。呼吸も、多少は操作することができますが、もちろん完全に止めることはできません。それは私たちの体に備わる生命自体の活動だからです。
同様に、心も私のものではないので、自由に思考を止めることはできません。
思考の活動はそれ自体独立した動きなので、結局のところ、思考を止めようとする努力は、血液の流れや呼吸を止めようとするような馬鹿げた努力なのです。
では、「日常生活や瞑想中に思考を止めましょう」と言っているのはどういうことなのでしょうか。先程、「私たちの意識のスクリーンに何かを集中して映し出せば、それ以外は認識されなくなる」というお話をしました。
つまり、「思考を止める」とは、思考の働きそのものを止めるのではなく、意識のスクリーンに思考を映し出さないということです。
意識のスクリーンに思考以外の対象を集中して映し出しているとき、意識が思考を見ることはないからです。ですから、そのとき思考は止まる、正確に言えば止まっているように感じられるのです。
瞑想の実践では、以上の点をよく踏まえて、これから実際に瞑想を始めてみましょう。
⑴まずは楽な姿勢で座ってみます。無理にあぐらを組まなくても、イスやソファに座ってもかまいません。ただし、体を横にすると眠くなってしまうので、睡眠前の瞑想でしたらかまいませんが、基本的には上体は真っ直ぐに立てておきます。
⑵目を閉じて、できるだけゆっくり深呼吸してみましょう。吐く息を丁寧に最後まで吐き出し、吸う息は呼吸が自然と戻ってくるような感覚で吸い込んでみましょう。上体の力を抜いてリラックスします。
⑶微細な感覚(風の音、空気の匂い、息が鼻を通過する感覚、風が肌に触れる感覚、体温の暖かさなど)に集中していきます。こういった感覚に集中し、意識が思考を映し出さないように注意します。
⑷考え事が始まったら、意識のスクリーンに思考が映し出されたということですから、もう一度瞑想の対象に集中していきます。
⑸以上のように、意識のスクリーンにはできるだけ瞑想の対象をとどめておき、思考が全く認識されない状態を保っていきます。

瞑想の時間は5分でも10分でもかまいませんが、空き時間などを利用して日常的に瞑想に取り組んでみましょう。ただし、食後すぐなどの満腹時やひどく疲れていて眠いときは避けた方が良いでしょう。
また、あまり瞑想に集中できない方は、飲酒や喫煙などの生活習慣を見直したり、興奮させるようなTVドラマや漫画などを見ないようにして、日ごろから心を落ち着けておくことも大切です。
瞑想を長く続けるコツとして、安定した座法をとることはとても大切です。結跏趺坐で座れるようになると体が安定し、瞑想を深めやすくなります。
しかし、この姿勢を保つためには、足首や股関節、背中の柔軟性が必要で、そのためにはヨガのポーズを長く練習する必要があります。慣れない方がこの姿勢をとると、すぐ足首が痛くなったり疲れてしまいます。
瞑想中に痛みや疲労が起きるとそれに対して思考が働き、「足が痛いな、疲れたな、早く終わらないかな」と雑念が生じてしまいます。
ですので、はじめは椅子などに座っても良いですし、とにかく体が柔軟になるまでは無理して結跏趺坐を取ろうとせずに、できるだけ体が楽な姿勢で座ってみると良いでしょう。瞑想の姿勢については図を参考にしてください。

また、このような瞑想は座っているときだけではなく、移動中などにも行うことができます。歩いているときなどに、足で地面を踏む感覚、呼吸、周りの音などに集中して、意識から思考を離してみましょう。要領は座って行う瞑想と同じです。
初心者の方は、座って行う瞑想よりも、動きながら瞑想する方が集中しやすい場合もあります。
後の章でも詳しくお話ししますが、瞑想中の注意点の一つは、様々なビジョンを見ることです。これは個人差がありますので、全く見ないという方もいますし、目を閉じてしばらくすると様々なイメージを見る方もいます。
このような幻想の世界をのぞくことは、いかにも瞑想らしいと考えている方もいますが、これは全く違います。このようなビジョンには心を惑わす様々な印象があり、かえって雑念を増やしてしまうからです。
ですから、頭の中に様々なイメージが浮かんできてもそれにとらわれず、身体の感覚などに注意を戻していきます。
しかし、実際に瞑想を始めてみると、呼吸などに注意を向けていたつもりが、いつの間にか考え事が始まっているのに気付かれるのではないでしょうか。
瞑想に慣れていないと意識のチャンネルは変化しやすく、呼吸や音などの感覚に集中していたつもりでも、気がつくとすぐに考え事に切り替わってしまうのです。
心のトレーニングこのように、意識のスクリーンに一つの対象を映しておく力、つまり瞑想の集中力は、はじめは非常に頼りないものです。
だからといって、「こんなんじゃ私は瞑想に向いてないな」と思って、すぐあきらめてしまわないでください。これは練習によって鍛えることができるからです。
例えば、瞑想中に呼吸や音に集中していたのに、ふと思考が意識に映し出されてしまったとき、「意識のチャンネルが思考に変わって考え事が始まってしまった」と気づいて、また呼吸に向け直すという事を繰り返すうちに、次第に集中力がついてきます。
筋トレをすると、最初は重たいバーベルがなかなか上がらなかったのに、トレーニングを続けていくうちに軽々と長い間持ち上げておくことができるようになります。
同様に、瞑想でも意識のチャンネルを長い間保持しておくことができるようになるのです。これは実際、その努力さえすれば才能など関係ありません。
ですから、瞑想でなかなか集中できないからといって、私は瞑想に向いていないと思ってあきらめるのではなく、「私の集中力はなんて頼りなく、か弱いのだろう」と思って練習に取り組んでいただきたいと思います。
このように集中力を保つ力がついてくると、悩み事が起きればすぐ意識のチャンネルを変えることができたり、簡単には引き戻されなくなっていきます。
思考や行為に集中する瞑想さて、これまでは意識に思考を映さないということを瞑想の主題にしてきましたが、逆に、ある特定の思考だけを映しておくという瞑想について考えてみましょう。
ラージャ・ヨガの八支則で、瞑想の最初の段階であるダーラナは、心をある一点に集中するということでした。
ですから、思考を止めるために呼吸などに集中するというだけでなく、思考そのものに集中したり、絵を描いたり、何かスポーツなどに集中することも瞑想であると考えることができます。
思考の問題について色々お話ししましたので、思考は私たちを苦しめるものという印象を与えてしまったかもしれませんが、思考がいつも問題を起こしているわけではありません。
例えば、数独(ナンプレ)という数字のパズルゲームがあります。
このようなゲームをするときにはとても思考を使っていますが、そのことによって私たちの心に苦しみが起きるわけではないからです。
料理をするときも、「この順番で調理したら効率がいい」とか「調味料の割合はこれぐらいだ」というように考えながら料理を作っています。
もし、思考が全く働かないとしたら、料理は作れなくなってしまうでしょう。
ですから、単に思考を止めることだけが瞑想なのではなく、問題のない思考(読書など)や問題のない思考を含む行為(料理やスポーツなど)に対して集中することでも瞑想と同じ効果があると考えることができます。
こういった思考に対する集中は、日常生活をする私たちにとって座って瞑想するよりも実践しやすい場合があります。
つまり、仕事の悩みが頭から離れない場合、資格を取るために勉強をしたり読書をするなど、別の思考に集中することによって悩みから離れることができるからです。
では、思考を使って心に問題が起きる場合とそうでない場合、この違いは一体何でしょうか?心に苦しみを起こす思考とそうでない思考心に苦しみを起こす思考ついて、二つの原因を考えることができます。
一つは欲望、もう一つは自我意識、つまりエゴです。
例えば好きな相手がいて、「あの人となんとか付き合いたいけど、どうすればいいだろう」と考えたり、「あのブランドのバッグ絶対欲しいんだけど、どうしたら手に入るかな」というように、欲望によって思考が動く場合、私たちの心はある種の飢餓状態にあり、非常に苦しく落ち着きのないものとなります。
思春期の頃、好きな相手を思い浮かべながら悩み苦しんだ経験が皆さんあるでしょう。もう一つの原因は、自我意識によって思考が動く場合です。
例えば、料理を作ること自体は楽しくても、「今日の料理で旦那や子供が満足してくれるかしら」とか「不味いって言われたらどうしよう」というように自我意識を原因として思考が動くとストレスになります。
つまり、他人から自分が評価される、他人から自分はこう思われている、こう見られているというような思考です。
スポーツにおいても、「この試合に勝てば賞金がもらえる」とか「この勝負に負けたら皆から馬鹿にされる」というように、勝敗や賞金、記録などのことを考えてプレーするなら、試合中でも大変なストレスがかかるでしょう。
よく様々な競技で「集中してプレーだけを楽しめば良い」と言われたりするのは、試合中余計な事を考えて不安になったりしていると、プレーに集中できないばかりか、緊張によって普段の力が出せなかったり、疲労が増したりするからです。
私たちの日常生活が非常にストレスフルであるのは、テレビCMやネット、雑誌などの広告で欲望が煽られたり、会社や友人関係などで自分が他人からどのように評価されているかということが思考の対象になりやすいからです。
現代人の思考といえば、「テレビで見たあのお店行ってみたいな」「雑誌で見たこの服着てみたいな」「上司は私のことをちゃんと評価してくれていない」「あの人は私のことを馬鹿にしてきたけど、嫌われているのかしら」このようなものばかりではないでしょうか。
もし、あなたの思考が実際にこのようなものばかりなら、日常生活はイライラや不満の多いものとなるでしょう。
しかし、思考を欲望や自我意識の対象とは切り離して使うとき、それは瞑想と同じなのです。
集中して料理を作ったり、集中して掃除をしたり、体やボールなどの動きだけに集中してスポーツをするとき、それは瞑想と同様に心の平安を作り出すことができます。
つまり、悩み事などが起きた場合、その原因とは全く別の対象に思考を集中して、悩みとは別の思考回路を作ってしまえば、その悩み事からは離れることができるのです。
瞑想はそのときやりやすい方法を取り入れる以上の点を簡単にまとめてみましょう。
- ⑴座って呼吸などに集中する瞑想。
- ⑵ウォーキングやジョギング、ヨガなどの運動をしながら体の動きなどに集中する瞑想。
- ⑶料理や掃除などの行為に集中する瞑想。
- ⑷パズルや読書など、問題のない思考に集中する瞑想。

このように、瞑想は単に座るだけではなく様々な方法で行うことができます。つまり、結果的に問題を起こす思考や雑念が意識のスクリーンに映らなければ良いのです。
この集中状態がずっと保たれていれば、心は穏やかな状態にとどまることができます。ですから、その時々で一番やりやすい方法を選んで取り組むようにしましょう。
僧侶であれば瞑想のための時間を十分にとることができるかもしれませんが、社会生活をおくる私たちにとって瞑想の時間を作ることは簡単ではありません。
ですので、私が特にお勧めしたいのは、座らずに瞑想するということです。
先ほども例にあげましたが、掃除をするときなどにできるだけ行為に集中し、余計な雑念から離れるように努力してみてください。
瞑想に慣れてない場合は、むしろ何か行為に集中していた方が座って瞑想するよりも嫌な思考から離れやすいのです。掃除は部屋もきれいになり、気分も良くなるので一石二鳥です。
これを掃除瞑想と名付けても良いかもしれません。同様に、歩く瞑想や料理瞑想、音楽瞑想というように、日常のあらゆる行為を瞑想に置き換えることができます。
できるだけ皆さんが普段取り組みやすい方法で瞑想に取り組み、不安や悩みなど必要のない思考の量を減らしてみてください。
考える時間が減れば、日常生活はとても快適なものになるでしょう。
意識のチャンネルを変えるポイント次に、日常生活で悩みが起きたとき、意識のチャンネルを変えるタイミングについて考えてみましょう。悩み事は考えれば考えるだけ臨場感が増して、存在感が強くなってしまいます。
悩み事がいつもあなたの心を支配しているなら、それは悩み事のせいというよりは、自分自身でその対象に思考を向け続けてしまっているからです。
このように、悩み事が想起される度に強く思考を向けるということを繰り返せば、その印象は心に深く定着され、想起されやすくなります。
ですから、トラウマのような心の問題は、実際は自分で引き起こしているのです。したがって、悩み事や過去の苦しい思い出が想起された瞬間に、できるだけ早くその悩みを意識から離さなくてはいけません。
では、苦しい思い出が心に深く定着される前に意識のチャンネルを変えるポイントは何でしょうか。私たちの心が想起を始めた段階では、そのイメージはかなりぼやけており、頭の片隅にあるような状態です。
何かに悩むということは、この対象を心の中心に持ってきて、そのぼやけた印象にピントを合わせてはっきりさせ、分析していくような作業です。
その情景を心がありありと思い描くと、悲しみや怒りといった感情が起きて来るのです。つまり、想起され考え始めるとイメージが鮮明になり、そこに感情が加わり私たちを苦しめるのです。
しかし、一番始めの、まだ想起された瞬間のぼやけたイメージの間は、何も感情が起きていないことが分かります。ですから、最初のぼやけたイメージの間に、すぐ意識のチャンネルを変えてしまわなくてはいけません。
最初のイメージが思考に捕まってしまうと、そこから悩み事が始まってしまうからです。思考がそれに気付いて集中しようとする前に、すぐそのイメージを取り除いてしまうのです。
このように、意識のスクリーンに嫌な思い出が映らないようにすれば、嫌な思い出も徐々に消えていきます。このプロセスをよく理解し、できるだけ早く対処することがトラウマの解消法です。
怒りや不安は必然的に起きているわけではありません。あなたが考えたときに起きているのです。あなたが考えなければそのイメージは定着されず、繰り返し怒りや不安に悩まされるということはなくなります。

思考は道具である
瞑想は思考を止めるテクニックですが、日常生活をおくるには当然思考を使う必要があります。ですから、単に思考を止めることだけを考えるのではなく、思考を道具として使うという視点も持たなくてはいけません。
思考を自分の道具として、自分の意志で自由に使いこなすということです。
思考という道具はいわば刃物のようなもので、それを使って美味しい料理を作ることもできれば、自分や他人を傷つけることもできます。うつ病や自殺は、この力の完全な誤用です。
思考の悲観的な面を自分に向け続け、自分自身を傷つけることによってこのような問題が起きるからです。ですから、思考は必要なときだけ使い、必要でないときは止めておかなくてはけません。
刃物と同じで出しっぱなしにしておくと自分や他人を傷つけてしまうからです。必要でないときは危険のないように片付けておかなくてはいけません。
このように、使う必要のない時は思考を止めることができるようになることが瞑想の実践的な面です。
ストレスの多い現代社会において、この思考という道具の性質や使い方についてよく理解し瞑想によってそれを使いこなすという力は、特に必要とされる能力だと思います。
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