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PART Ⅰ 正義は最大の娯楽である

バカと無知 人間、この不都合な生きもの橘 玲

まえがき 孤独な男がジョーカーに変貌するとき 安倍元首相を選挙演説中に銃撃し、死亡させた 41歳の男は、母親が統一教会(現、世界平和統一家庭連合)にはまり、多額の献金で家庭が崩壊したことを恨んでいたとされる。教団が主催した集会に元首相が寄せたビデオメッセージを見たことで、「日本で(この宗教を)広めたと思っていた」「絶対に殺さなければいけないと確信した」などと供述しているという。 事件の解明は今後の捜査・裁判を待たなければならないとして、ひとつだけ確実なことがある。それは男に、自分が「被害者/善」であり、統一教会と、それを象徴する(と思っていた)元首相が「加害者/悪」だという絶対的な確信があったことだ。そうでなければ、迷いなく背後から銃弾を浴びせるようなことができるわけがない。 脳のデフォルトモード・ネットワーク( DMN)は、 2001年に神経学者マーカス・レイクルによって偶然に発見された。脳の活動を計測する fMRI検査では、装置のなかに横たわった被験者の「安静時」の神経活動を標準データとして記録するが、なにかに注意を向けているわけでもなく、特定の精神的タスクがない、つまり脳の「デフォルトモード」のときに活発化する部位があることにレイクルは気づいた。それは、「ぼーっとしている」ときの脳の活動だ。 デフォルトモード・ネットワークに対応するのが、外界から注意喚起されるたびに活性化するアテンショナル(注意)・ネットワークだ。この2つのネットワークはシーソーのような関係にあり、一方が活性化しているときは他方が沈黙する。 DMNの状態(ぼーっとしている)では、わたしたちはなかば無意識に、「デートに誘ったら応じてもらえるだろうか」「仕事が遅れていることを上司に報告すべきだろうか」などと、さまざまなシミュレーション(もし Xなら Yになる/ Yをする)をしている。近年の脳科学は、脳が予測と修正を繰り返す高機能のシミュレーション・マシンであることを明らかにしつつある。 このシミュレーションは、過去や未来へも延長される。「もしあのときあんなことをしなかったら、こんなことにはならなかったのに」という過去のシミュレーションは「後悔」と呼ばれ、それが「反省」や「学習」の土台になる。「もしこんなことが起きたらどうなるだろうか」という未来のシミュレーションは、「希望」あるいは「絶望」だ。 そしてここが重要なのだが、「過去」「現在」「未来」のシミュレーションをばらばらに行なっているだけでは、ほとんど役に立たない。反省や学習のためにも、希望をもつためにも、過去から未来へと一貫する「主体(わたし)」が必要なのだ。このようにして、より効率的なシミュレーションのために「自己 =意識」が進化した。 脳は「わたし(過去から未来へと一貫するシミュレーション)」を物語として構成する。これは「自伝的記憶」と呼ばれるが、そこではわたしたちはみな、物語の主人公(ヒーロー/ヒロイン)だ。 誰もが「わたし」という物語を生きている。だがここにはいくつかの制約があり、どんな物語でも好き勝手に創造できるわけではない。 一つは「物理的な制約」で、アニメや映画(あるいは V R)ならともかく、現実世界では空を飛ぶことはできない。 二つめは「資源の制約」で、「お金がなくて欲しいものが買えない」というのがもっともわかりやすいが、近年では「(一日は 24時間しかないという)時間の制約」が強く意識されるようになってきた。最近の若者はコスパ(コスト・パフォーマンス)ならぬタイパ(タイム・パフォーマンス)を重視し、映画を 2倍速で観るようだが、これは投入できる時間資源に対して処理すべきコンテンツが多すぎるからだろう。 だがもっとも大きな影響力をもつのは「社会的な制約」だ。あなたはつねに自分の人生の主役だが、そこには他の出演者や観客がいる。そしてこのひとたちもまた、自分の人生の物語のなかでは唯一無二の主役なのだ。 ヒトは徹底的に社会的な動物で、家族や会社、地域社会などの共同体に埋め込まれているから、わたしたちはこの社会的な制約のなかで、なんとかして「自分らしく」生きられる物語をつくっていくしかない。だがこうした制約がなくなってしまえば、物語は大きく歪んでいくだろう。 元首相への銃撃事件のあと、すべてのメディアが容疑者の過去を追ったが、高校を卒業して自衛隊に入隊した以外のことはほとんどわかっていない。海上自衛隊を退職したあとは、ファイナンシャルプランナーや宅地建物取引士などの資格を取り、複数の会社で派遣社員やアルバイトとして働いていたとされるが、その間のことを証言する友人などがまったくいないのだ。 男が最後に働いていたのは京都府内の倉庫だが、同僚と会話することもなく、昼食は車のなかで一人で弁当を食べていたという。母親が入信した統一教会は、強引な勧誘や霊感商法、多額の献金の強要が 1970年代から社会問題になっており、脱会者や信者の家族を支援する団体も複数あるが、そうした活動に参加した形跡もない。男はたった一人で、家賃 3万 5000円の 1 Kのアパートで「復讐」のための銃や爆発物をつくっていたのだ。 2008年に秋葉原で無差別殺傷事件を起こした犯人も孤独な派遣社員だったが、それでも親身に相談に乗ってくれる故郷の友人や年上の女性がいた。元首相を銃撃した男には、いまのところ、誰かとかかわった記録がまったくない。その人生をひと言でいえば、「絶対的な孤独」ではないだろうか。 2019年の映画『ジョーカー』では、「自分はまるで存在していないかのようだ」と繰り返し訴える孤独な青年アーサーが、狂気と妄想にとらわれてジョーカーへと変貌していく様子が描かれる。 男は公開直後にこの映画を観て、〈ジョーカーという真摯な絶望を汚す奴は許さない。〉と自分のツイッターにコメントしている。それ以外の投稿を見ても、自らの境遇をジョーカー(アーサー)と重ね合わせていたことは明らかだ。 この映画についての非公開のユーザーとの会話では、〈ええ、親に騙され、学歴と全財産を失い、恋人に捨てられ、彷徨い続け幾星霜、それでも親を殺せば喜ぶ奴らがいるから殺せない、それがオレですよ。〉と自分のことを語っている。これが男の「真摯な絶望」だという見方は、さほど間違ってはいないだろう。 自衛隊を退職したあと、頑張って資格を取ったにもかかわらず、仕事もうまくいかず、恋人にも捨てられた。 40歳を前にして、社会からも性愛からも排除されてしまった。この現実を突きつけられることは、高い知能と能力をもつ男には耐えられない挫折だったのではないか。〝絶対的な孤独〟のなかで、なぜ「まるで存在しないかのよう」になったのかを考えていくうちに、人生をさかのぼって教団が悪魔化されていった。自分が純粋な被害者(善)だという物語をつくろうとしたとき、教団とかかわりがあった(とされる)この国でもっとも有名な政治家が、絶対的な「悪」として立ち上がってきたのではないだろうか。 そしていったんこの物語に支配されてしまうと、そこから抜け出すことは不可能だったのだろう。なぜなら、その物語こそが彼のすべてだったのだから。 本書は、このような「やっかい」な存在であるわたしたちの話だ。

バカと無知

目次まえがき

PART Ⅰ 正義は最大の娯楽である

1 なんでみんなこんなに怒っているのか 2 自分より優れた者は「損失」、劣った者は「報酬」 3 なぜ世界は公正でなければならないのか 4 キャンセルカルチャーという快感

PART Ⅰ 正義は最大の娯楽である

1 なんでみんなこんなに怒っているのか 世の中がぎすぎすしていて、明るい話題がない。とりわけこの雑誌(『週刊新潮』)にはもっと明るい話が必要だと思うのだが、いろいろ考えても、残念ながら思いつかなかった。 そこでまずは、「なんでみんなこんなに怒っているのか」ということから考えてみよう。 2種類の火災報知機があって、いずれかを選べるとしよう。 A社の製品は感度が高く、火事を素早く察知するが、料理に油を使ったりするとすぐにけたたましく鳴りはじめる。 B社の製品は逆で、感度が低めに設定されているので誤警報は少ないが、気づいたときには火の手が部屋じゅうに広がってしまう。 A社の火災報知機を選ぶと不愉快なことが多いものの(警報が鳴るたびに警備会社に連絡しなくてはならない)、出火をすぐに消し止めたり、それが無理でも子どもを連れて避難できるから、最悪の事態を避けられる。 B社の火災報知機を選ぶと毎日快適に過ごせるし、そのまま何年、何十年と過ぎていくかもしれないが、万が一火事になったら家族全員が焼け死んでしまう。「こちらを立てればあちらが立たない」ことをトレードオフという。これは人生でもよくあるが(結婚すると別の相手とはつき合えないとか)、わたしたちの祖先もこの難問をしばしば突きつけられてきた。 あらゆる生き物は、生存と生殖を最適化するよう長大な進化の過程で「設計」されてきた。生き延びられなければ生殖できないし、生殖しなければ子孫を残すことができない。わたしたちが「いまここ」に存在するのは、このきびしい競争(自然淘汰)に勝ち残った末裔だからだ。──現代の進化論では、「利己的な遺伝子」のプログラムが生得的に埋め込まれているのだと説明する。 安全と快適さのトレードオフでは、冷徹な進化がどちらを選んだかは考えるまでもない。非常ベルが頻繁に鳴れば幸福度や満足度が下がるかもしれないが、大事なときに警報が鳴らずに子孫(遺伝子)を残せないよりずっとマシだ。残念ながら、進化の目的はあなたの幸福ではないのだ。 わたしたちの脳には、きわめて感度の高い火災報知機が備えつけられている。高度なセンサーが周囲につねに気を配り、ちょっとでも不穏なことがあると、とてつもない災厄であるかのように警報を鳴らす。人類が進化の大半を過ごしたアフリカのサバンナでは、近くの茂みが揺れたなら、風のせいだと無視してのんびりするより、ライオンが潜んでいると飛びのいて逃げ出したほうがずっと生存率が高かっただろう。 このようにしてわたしたちは、よいニュースよりも悪いニュースに強く反応するようになった。殺人事件の件数は 1950年代から一貫して減少傾向にあり、日本社会はどんどん安全になっているが、それによって逆に、たまに起きる異様な事件に注目が集まって大騒ぎになる。こうして、事実(ファクト)とは逆に「体感治安」が悪化していく。 脳の警報器の過敏な初期設定は旧石器時代には役に立っただろうが、現代のような「ものすごく平和で安全な社会」だとうまくいかなくなる。もはや暗がりに肉食動物が潜んでいることはないし、刃物をもった人間が襲いかかってくることも(めったに)ないが、警報器はささいなことでけたたましく鳴ってしまうのだ。 同様に、脳はよい出来事よりも悪い出来事を強く経験し、記憶するよう「設計」されている。 人類は進化の歴史の大半で、最大で 150人ほどの共同体で生活していた。環境はきびしく一人では生きていくことができないから、集団から排除されることはすなわち死を意味した。これが強い進化の淘汰圧になって、相手が何を考えているかを素早く察知したり(メンタライジング)、相手の気持ちを感じたりする(共感力)向社会的な能力を発達させていった。 共同体から追放されると死んでしまうのだから、そのようなリスクを知らせる警報器はものすごく強力でなければならない。仲間から拒絶されたり、年長者から威嚇されたりした体験を記憶できず、同じ失敗を何度も繰り返す K Yな(空気の読めない)個体は、進化のプールからすみやかに取り除かれてしまっただろう。 ネガティブな記憶が脳に強く刻まれることは近年では「トラウマ」と呼ばれ、さまざまな心理的・精神的不調の原因とされる。だが進化の歴史を考えるなら、トラウマは脳の標準的な仕様で、過去のネガティブな記憶に煩わされない精神的に健康な個体の方が「不健全」なのだ。 現代のような「とてつもなくゆたかな社会」では、一人で生きていくのにさほどの困難はないから、集団からの排除が生存の危機に直結することはない。ここでも問題は、それにもかかわらず、ちょっとした人間関係のトラブルでとんでもない音量で警報器が鳴り響くことだ。 客観的に考えれば、学校でたまたまいっしょのクラスになっただけの関係にさしたる意味はない。同世代の男女は日本じゅうにたくさんいるし、世界に視野を広げればさらに膨大な数になる。 30 ~ 40人ほどの「級友」が、個人の人生にとって決定的な価値があるというのはバカげている。 だが脳(無意識)はこのように論理的には考えないので、学校でいじめの標的にされると「このままでは死んでしまう!」とパニックに陥り、会社でのハラスメントがうつ病や自殺につながる悲劇が跡を絶たない。 いじめやパワハラはヒトの本性(社会性)なので、日本だけでなく海外でも深刻な問題になっている。 アメリカの調査では、従業員のおよそ 3人に 1人がハラスメントの被害を受けた経験があるという。だが困惑するのは、同じ調査で、パワハラの加害者になったことがあるとこたえたのはわずか 0・ 05%( 2000人に 1人)だったことだ。 脳の基本的な仕様は、「被害」を極端に過大評価し、「加害」を極端に過小評価するようになっている。被害の記憶はものすごく重要だが、加害の記憶にはなんの価値もない。これが人間関係から国と国との「歴史問題」まで、事態を紛糾させる原因になっている。 わたしたちは当然のように、被害と加害をセットで考えるが、被害者と加害者では同じ出来事(現実)をまったく異なるものと認識している。この大きな落差を理解しないと、自分が「(絶対的な)正義」で相手は「(絶対的な)悪」というレッテルを押しつけ合って、収拾のつかないことになる(例をあげるまでもなく、あちこちでよく見かけるだろう)。 ちなみに、新型コロナの感染拡大にもかかわらず、日本では 2020年の死亡者数が前年より減少した。肺炎やインフルエンザが減ったのはマスク・手洗いで説明できるとして、理由はよくわからないものの、心筋梗塞や脳梗塞も減少している( 21年は新型コロナの影響で、男性で 0・ 09歳、女性で 0・ 14歳平均寿命が短くなったが、肺炎やがんの死亡率は下がっている)。 どうやら新型コロナの「新常態」は、日本人の健康増進に貢献しているらしい。そのように考えれば、昨今のぎすぎすした雰囲気もなごみ、すこしは明るい気持ちになれるのではないだろうか。

2 自分より優れた者は「損失」、劣った者は「報酬」 週刊誌には毎週、政治家や芸能人、著名人のさまざまなスキャンダルが載っている。明らかに法を犯しているものから好ましからぬ行状まで多種多様だが、共通するのは読者の怒りや批判を搔き立てることだ。 しかし考えてみると、これは合理的とはいえない。自分とはなんの関係もない赤の他人の夫や妻が不倫していても、そんなことどうでもいいではないか。 だが、そういうわけにはいかない。ヒトは長大な進化の過程のなかで、徹底的に社会的な動物として「設計」されてきたからだ。 人類にもっとも近い種は、チンパンジーやボノボ、ゴリラなどの類人猿だとされる。これは間違いではないものの、彼らは数百、数千あるいは数億の単位の集団をつくったりはしない。とてつもなく巨大な社会を形成することに注目すれば、人間は哺乳類よりアリのような社会性昆虫によく似ている。 進化の大半を占める旧石器時代には、人類は 30 ~ 50人程度の小集団(バンド)で狩猟・採集生活を送り、 150人を上限とする(誰もが顔見知りの)共同体(クラン)のなかで暮らしていた。こうした共同体がいくつか集まったのが最大で 1500人ほどの部族(トライブ)で、この同族集団のなかで婚姻を行なっていたようだ。 ヒトはアリと同じく、集団では大きなちからを発揮するが、一人ではきわめて脆弱だ。共同体から排除されることは、ただちに死を意味した。 だったら、いつも集団の最後尾にしがみついていればいいかというと、これもうまくいかない。ライバルと優劣を競い、すこしでも序列を上げないと性愛を獲得できないのだ。 このようにしてわたしたちの祖先は、深刻なトレードオフに直面することになった。 ①目立ち過ぎて反感を買うと共同体から放逐されて死んでしまう。 ②目立たないと性愛のパートナーを獲得できず、子孫を残せない。 わたしたちはみな、なんらかのかたちでこの難問をクリアした者の子孫なのだ。 いったいどうやったのか。それは、「目立たずに目立つ(自分を有利にする)」作戦だ。 噂話は、集団のなかで生き延びる強力なツールだ。面と向かって批判すれば紛争になり、最悪の場合、報復されて殺されてしまう。だが噂(「たまたま聞いたんだけど……」)によって悪い風評を広めるのなら、報復を避けつつ、ライバルにダメージを与えることができる。 これはとてもよいアイデアだが、問題がひとつある。集団の誰もが同じことを考えているのだ。 こうして、「自分についての噂を気にしつつ、他人についての噂を流す」というきわめて高度なコミュニケーション能力(コミュ力)が必要とされるようになった。「社会脳」仮説では、ヒトの知能が極端に発達したのは、集団内の権謀術数に適応するためだとする。 噂話によって生死が決まる社会では、ひとびとは集団内の権力闘争(陰謀)に敏感になったにちがいない。ささいな批判に過剰に反応するのはこの名残だろうし、科学が発達した現代社会で、荒唐無稽な陰謀論にハマるひとがなぜこんなに多いのかもこれで説明できるだろう。 集団生活では、「抜け駆け」と「フリーライダー(ただ乗り)」が問題になる。 新型コロナの感染抑制策で飲食店が酒類を提供できなくなると、それでも飲みたいひとたちが「深夜まで元気に営業中。お酒飲めます」という看板を掲げた店に集まってくる。「正直者がバカを見る」とみんなが思えば、ルールなんか守ってもしょうがないというモラルハザードが生じる。 感染を抑制するには人口の 7割がワクチンを接種する必要があるとされるが、ワクチンは副反応が起きることがあり、ほとんどは発熱などで数日で快癒するが、(きわめて)まれに重篤な症状を呈する。 そうなると、「みんながワクチンを打つのなら、自分がリスクを冒すのは馬鹿馬鹿しい」と〝合理的〟に考えるひとが出てくるかもしれない。これがフリーライダーで、一定数を超えると感染が拡がり、飲食店などが打撃を受ける。 大きな社会を維持するためには、なんらかの方法で「抜け駆け」と「フリーライダー」に対処しなければならない。これが、わたしたちの祖先が直面したもうひとつの難問だ。 近年の脳科学では、「(自分より下位の者と比べる)下方比較」では報酬を感じる脳の部位が、「(上位の者と比べる)上方比較」では損失を感じる脳の部位が活性化することがわかった。脳にとっては、「劣った者」は報酬で、「優れた者」は損失なのだ。 さらに、これもさまざまな脳科学の研究で、ルール違反をした者を処罰するときに脳の報酬系が活性化することが確認されている。こうした実験では、相手と対峙するのではなく、匿名のまま相手が受け取れるはずの金銭を減らし、罰を下せるようにしている。 すべての生き物は、快感を求め苦痛を避けるように「プログラム」されている。すると、このきわめてシンプルな脳の仕組みだけで、「抜け駆け」と「フリーライダー」問題を解決できる。「正義」を脳にとっての快感にしておけば、ひとびとは嬉々として集団の和を乱す者を罰するようになるだろう。 ネットニュースでいちばんアクセスを集めるのは「芸能人と正義の話題」だという。メディアが「こんなことが許されるでしょうか」といつも騒いでいるのも、 SNSで不道徳な者がさらし者にされるのも、現代社会にとって正義が最大の「娯楽(エンタテインメント)」だからだ。 噂話の目的は、自分より上位の者を引きずり下ろすと同時に、下位の者を蔑んで自分をより目立たせることだ。「私はそんな卑しいことはしない」という良識あるひともいるだろうが、それはたんなる演技かもしれない。 脳にとって上方比較は損失なのだから、その不快感から逃れるには、自分より優れた者を蹴落とせばいい。これはけっして褒められた話ではないが、そこに「正義」を紛れ込ませると自分の行為を正当化できる。罵詈雑言を浴びるのはルールを破った自業自得で、自分は社会のために「正義の鉄槌」を下しているのだ。これがネット「炎上」の構図だというのは、最近のいくつかの事例を見ても明らかだろう。 ネットで人気があるもうひとつのコンテンツは、「最貧困」や「ホームレス」などの転落話だ。これは下方比較が脳にとっての報酬だからで、不運が重なって社会の最下層に落ちていくような話は、自分が恵まれていることを確認させてくれるから、やはり現代社会において最大の「娯楽」のひとつになる。 徹底的に社会的な動物であるヒトは、自分が批判されることを過度に警戒すると同時に、集団からの逸脱行為をつねに監視し、自分より上位の者がそれを行なうと、「正義」の名の下に寄ってたかって叩きのめす。それと同時に、劣った者に対しては、自分の優位を誇示する(マウントする)ように進化したのだろう。 気に入らないかもしれないが、私もあなたも、こうやって生き延びて子孫を残した先祖の末裔なのだ。

3 なぜ世界は公正でなければならないのか ハリウッド映画でも時代劇でも、世界じゅうに「勧善懲悪」の物語が氾濫している。話はだいたい同じで、世界を「悪」が支配していて、それを「善」が正そうとするが苦戦し、「もう駄目だ!」という間一髪のところでなにかが起きて(とてつもないパワーを手に入れるとか、それまでのライバルが仲間になるとか)形勢が逆転し、善が悪を倒して世界に「公正」さが回復する。 こうした物語は、楔形文字で書かれたシュメール神話にも見られるから、 5000年以上前から書き継がれてきた。口承文学の時代を入れれば、おそらくは数万年前から語り継がれてきたのだろう。 地域や時代を超えてここまで普遍的な現象は、「ヒトの本性」を想定する必要がある。「勧善懲悪」の背後にどのような仕組みがあるのだろうか。「とてつもなく不公正な世界」を想像してみよう。そこでは、ホッブズが『リヴァイアサン』で描いたように「万人の万人に対する闘争」が日常的に行なわれている。 買い物をしようとすると、売り手はとんでもない高値をふっかけたり、偽物を押しつけようとするし、なにかを売ろうとすると偽札を出される。夫や妻はつねに不倫していて、(父親は)誰の子どもを育てているかわからない。子どもを近所の知り合いに預けると、誘拐されて身代金を要求される……。 この思考実験で、なぜ社会が公正でなければならないかわかるだろう。不公正な世界では、誰一人生きてはいけないのだ。 進化の淘汰圧は生存と生殖を最適化するように生き物を「設計」したのだから、徹底的に社会的な動物であるヒトの場合、社会を「公正」に保つためのなんらかのプログラムが脳に埋め込まれたはずだ。 社会心理学では、ひとは無意識のうちに、「世界は公正でなければならない」と考えているとする。これが「公正世界理論( just world theory)」だ。この信念によって、わたしたちは不正に対して怒りを感じ、それを正そうとするように進化した。 これで話が終われば一件落着だが、そう簡単にはいかない。誰もが身に染みて知っているように、世の中には不公正なことがたくさんあり、個人のちからはあまりに弱い。「勧善懲悪」の物語に人気があるのは、現実の世界では悪がのさばって、善は肩身の狭い思いをしているからだ。 これは「認知的不協和」と呼ばれる心理状態で、矛盾したふたつの考えを同時に抱くと、ものすごく不快に感じられる。「私は煙草を吸う」という認知と、「喫煙は肺がんのリスクを高める」という認知は両立しないから、喫煙者は煙草をやめるか、そうでなければなんらかの方法で、この認知的不協和を解消しなくてはならない。そこで、「愛煙家でも長生きしているひとはいる」とか、「健康に気をつけていても交通事故で死ぬかもしれない」と認知を変えて、自分の喫煙行動を正当化する。 これは喫煙者だけのことではない。わたしたちはつねに、「自分は正しい」という前提で生きている(「自分は間違っている」という前提に立つようになると、重度のうつ病と診断される)。認知的不協和が起こるたびに、無意識のはたらきで歪みは瞬時に修正され、解消されるのだ。 だとしたら、公正世界信念の認知的不協和はどのように正当化されるのか? もっとも頻繁に起こるのは、「不正だ」と認定した者をよってたかって袋叩きにすることだ。 SNSの登場でこうした「正義の鉄槌」が簡単に振り下ろせるようになり、欧米では「キャンセルカルチャー」として大きな社会問題になっている。 脳は上方比較を損失、下方比較を報酬ととらえるから、高い地位にある者を「キャンセル」し、引きずり下ろすことには大きな快感がある。 東京五輪の開会式をめぐる騒動で目にしたように、過去の経歴に「傷」を見つけたら、血の匂いをかぎつけたピラニアのように集まってきて、批判・誹謗・罵倒のかぎりをつくして社会的に葬り去ろうとする。それも、自分はなんのコストも払わず、テレビの前に寝転がってスマホをいじるだけでできるから、このインスタントな「快楽製造機」にはものすごく人気があるのだ。 それ以外では、「相補的認知」という戦略もよく使われる。 経済格差が拡大し、資産数十兆円の大富豪と、子どもの食費すらままならない貧しいシングルマザーがいるのは不公正にちがいないが、個人のちからでそれを是正することはできない。そこで、「強欲な金持ちは(スクルージのように)こころを許せる相手が誰もいなくて不幸だ」「貧しいかもしれないが、家族の絆があるから(あるいはブータンのように、精神的にゆたかだから)幸福だ」と解釈を変える。「よいことと悪いことはつねにセットだ」と決めてしまえば、一見、不公正な世界も公正なものになる。芸能人など恵まれている(ように見える)ひとが、実は家庭崩壊で不幸だったとか、田舎の清貧な暮らしはこんなに素晴らしいとかの話に人気があるのはこれが理由だろう。「犠牲者非難( victim derogation)」と名づけられたやっかいな現象もある。 池袋の交通事故のように加害者と被害者がはっきりしている場合は、加害者を(過剰に)批判することで公正世界信念を維持できる。ところが、加害者を特定できなかったり、じゅうぶんに罰せられないとこの方法が使えないので、世界は不公正なまま目の前に放置されている。 これはものすごく不快なので、「じつは被害者に非があったのだ」と認知を変え、因果応報の物語に書き換えようとする。 レイプ事件で加害者が無罪になったり、被害が補償されないことはよくあるが、これが認知的不協和を引き起こし、「肌を露出するような格好をしていたからだ」「派手に夜遊びするからだ」などと、被害者の「責任」が声高に非難される。 より理不尽なのは、山梨のキャンプ場から小1の女児が行方不明になった事件で、懸命の捜索でも発見できないと、情報提供を求める母親に対して「犯人にちがいない」などと非難が集中し、脅迫される事態になった(その後、 DNA型鑑定などで女児のものと特定された遺骨が発見された)。 このように公正世界信念はさまざまな社会問題を引き起こすが、だからといってそんな信念は不要だというわけにはいかない。みんなが「公正な世の中であってほしい」と願っているからこそ、わたしたちの社会はなんとか維持できているのだ。 だったらどうすればいいのか。幸いなことに、「最終的公正信念」戦略は、ポジティブな効果の方が大きいとされている。「長い人生にはよいことも悪いこともある」という「人間万事塞翁が馬」のことだ。 ぎすぎすした世の中に煩わされず、他者に「不道徳」のレッテルを貼って安易に批判せず、イヤなことがあっても「そのうちいいこともあるさ」と楽天的に考える。すくなくとも研究では、これであなたの幸福度はずいぶん高くなるらしい。

4 キャンセルカルチャーという快感 東京五輪の開会式直前に、楽曲を担当するミュージシャンが過去のいじめ行為を理由に辞任、演出担当の劇作家が過去にホロコーストをギャグにしていたとして解任、さらには出演を予定していた俳優が、過去に障がい者を揶揄するコントを演じていたとして辞退する騒ぎになった。 それぞれ事情は異なるものの、過去の不適切な行為がネットで炎上し、公的な地位からのキャンセル(辞任)を求められることは、「キャンセルカルチャー」として欧米でしばしば問題になっている。 アメリカでは近年、 SNSでの発言が「人種差別的」と見なされた高名な大学教授が学会からの除名を求められ、男女の性差についての(まともな)研究を引用してシリコンバレーに女性が少ないことを論じた従業員が、「性差別」として大手 I T企業から解雇される事態が起きた。 米誌『ティーン・ヴォーグ』の編集長に就任予定だった 20代の黒人女性が、 10年前の学生時代にアジア系に対して差別的なツイートをしていたとして批判されたケースでは、 2019年に謝罪したにもかかわらず、 21年に炎上してキャンセルされている。ヴォーグもこの事実を把握しており、「差別的ツイートに関しては、 2年前にすでに謝罪し責任をとっている」と擁護したものの、ボイコット運動を恐れた広告主の出稿停止に耐えきれなかったようだ。 こうしたキャンセルカルチャーの背景には、世界的な「リベラル化」の大きな潮流がある。 ここでいう「リベラル」とは「この世に生を受けた以上、自分の人生は自分で決めたい」「自分らしく生きたい」という価値観のことで、 1960年代末のアメリカ西海岸で生まれ(ヒッピームーヴメント)、エピデミックのようにまたたく間に地球上を覆い尽くした。これはキリスト教やイスラームの成立に匹敵する人類史的な事件だが、わたしたちはいまだにそれを正しく認識できていない。「わたしが自由に生きる」なら、当然のことながら、「あなたも自由に生きられる」権利を保障しなければならない。この自由の相互性・普遍性がリベラリズムの基礎で、現代では、人種や民族、性別、国籍、身分、性的指向など自分では変えられない属性による差別はどんな理由があっても許されなくなった。これが「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」で、 PCとかポリコレと呼ばれる。 これまでマイノリティはきびしい差別に苦しんできたのだから、リベラルな社会を目指す運動が、総体としてはひとびとの厚生(幸福度)を大きく引き上げたことは間違いない。リベラル化は、疑いもなく「よいこと」だ。 ところがその一方で、「絶対的な正義」の基準を決めたことで、有名人の過去を徹底的に調べあげ、正義に反した言動をした者を吊るし上げる運動が起きるようになった。ネットに保存されたデータが永久に検索されつづける「デジタルタトゥー」や、 SNSによって怒りや共感を瞬時に共有するテクノロジーがこの大衆運動を過激化させた。 英語圏ではこうした活動家(アクティビスト)は、「ソーシャル・ジャスティス・ウォリアー(社会正義の戦士)」と呼ばれ、 SJWと略される。キャンセルカルチャー、ポリコレ、 SJWは世界を覆うリベラル化の大潮流を背景とした共通の現象で、日本にもいよいよその波が押し寄せてきたようだ。「差別は許されない」のは当然として、過激化するキャンセルカルチャーには次のような疑問がある。 一つは、「過去の愚行は永遠に許されないのか?」。東京五輪開会式の演出で問題になったのはいずれも 20年以上前の出来事で、いじめにいたっては小学校時代の行為まで批判されている。子ども時代の過ちがいつまでも批判されるような社会では、誰も暮らしたい(子育てしたい)と思わないのではないか。 これについては、「今回はあまりに悪質だからみんな怒っている」との反論があるが、その場合は、「許される愚行と許されない愚行は、誰がどのような基準で決めるのか?」という問いに答える必要がある。「被害者に謝罪していないからだ」という意見もあるが、謝罪していても「誠意がない」「被害者が納得していない」「そんなものは謝罪とはいわない」とされて炎上するケースはいくらでもある。あまり指摘されないが、「過去の行為は(どれほど謝罪しても)未来永劫許されない」というのは、隣国が主張している「被害者中心主義」とまったく同じだ。 二つめは、キャンセルの対象がきわめて恣意的なこと。批判を浴びるのはキャンセル可能な地位についた者だけで、まったく同じ言動をしていても、そのような立場を避けていれば過去は不問に付される。ネット炎上が人格や人生を全否定する「私刑(リンチ)」に発展することがある一方で、事前に危険を察知し辞退すれば無傷というのは、どう考えても理不尽だ。東京五輪開会式をめぐる一連の騒動が象徴するように、その結末は「そして誰もいなくなった」だろう。 三つめは、有名人を袋叩きにしたからといって、問題が解決するわけでも、社会がよくなるわけでもないことだ。今回の件でなにかが変わるとしたら、著名人が「余計なことは話さない」「公的な仕事は断る」という教訓を学習したことだけだろう。 だったらなぜ、キャンセルカルチャーが燎原の火のように拡がるのか。それは「気持ちいい」からだ。 徹底的に社会的な動物である人間は、不正を行なったと(主観的に)感じる相手に制裁を加えると脳の報酬系が刺激され、快感を得るように進化の過程で「設計」されている。それに加えて、下方比較を報酬、上方比較を損失と感じるから、自分より上の地位にあるものを引きずり下ろすことにはとてつもなく大きな快感がある。 この快感は、テクノロジーのちからによって、匿名のまま(なんのリスクも負わず)、スマホをいじるだけで(なんのコストもかけずに)手に入るようになった。これほど魅力的で安価な「娯楽」はほかにないからこそ、多くのひとが夢中になるのだ(オバマ元大統領は、こうした理由でキャンセルカルチャーを批判している)。 ひとがステイタスを誇示する方法には、「支配(権力)」「成功(社会・経済的地位)」「美徳(道徳)」の三つがある。このうち権力の獲得は誰でもできることではないし、成功のステイタスには資産(豪邸やスーパーカー)や評判( SNSのフォロワー数)などの証拠(エビデンス)が必要だ。それに対して道徳的なステイタスの獲得は、「悪」を叩けばいいだけなのだから、誰でも(匿名でも)可能なのだ。 そう考えれば、これからも繰り返しキャンセル騒動は起きるだろうし、欧米では現にそうなっている。それに対して個人や企業にできることは、大衆の「正義の鉄槌」が自分のところに振り下ろされないようにマネジメントすることだけだ。 リベラル化によって誰もが「自分らしく」生きられるようになれば、一人ひとりの利害があちこちで衝突し、人間関係は複雑になっていく。政治は利害調整ができずに渋滞し、行政システムは市民から批判されないよう巨大化・迷宮化し、ひとびとの「生きづらさ」だけが増していく。 リベラル化を人類にとっての光だとすれば、光が強ければ強いほど影も濃くなるのだ。

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