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PART4人を変える九原則

1まずほめる2遠まわしに注意を与える3自分の過ちを話す4命令をしない5顔をつぶさない6わずかなことでもほめる7期待をかける8激励する9喜んで協力させる訳者あとがき

1まずほめる私の友人が、ある時、クーリッジ大統領の招待を受けて、週末をホワイト・ハウスで過ごした。

彼が大統領の部屋に行くと、大統領は秘書をつかまえて、こう言っていた──「今日は、よく似合う服を着てきたね。

まったく君は美人だ」無口なクーリッジがこんなお世辞を言うのは珍しい。

その娘はどぎまぎして、頰を真っ赤にそめた。

すると大統領は「そんなに固くなることはないよ──気をよくしてもらおうと思って言ったのだから。

で、これからは句読点にもう少し注意してもらいたいね」と言った。

彼のやり方は少し露骨だったかもしれないが、人間の心理に対する理解の程度はほめてよい。

我々は、ほめられたあとでは、苦言もたいして苦く感じないものだ。

理髪師はかみそりをあてる前に石鹼の泡を塗る。

一八九六年、マッキンレーが大統領選挙に立候補した際、この床屋の流儀をそっくり真似た。

ある有名な共和党員が選挙演説の草稿を書いて、一代の名演説だと自負し、得意になってマッキンレーに読んで聞かせた。

聞いてみると、よくできたところもあるが、全体としては使い物にならない。

このままでは、非難の嵐が起こりかねない。

マッキンレーとしては、この男の自尊心を傷つけたくないし、また、その熱意は尊重してやらねばならない。

しかも、この演説に対しては〝ノー〟と言わなければならないのだ。

彼はこの難事を、見事にやってのけた。

「とてもうまくできた。

素晴らしい演説だ。

立派なものだよ。

これだけの演説の原稿が書ける者は、まずいないと思うね。

適当な場合に用いれば、百パーセントの効果があるだろう。

だが、今度の場合には、ちょっとまずいのではないかと思うんだが──もちろん君の立場からすれば、これほど立派なものはないのだろうが、私は党の立場から考えてみなくてはならないからね。

どうだろう──私の主旨に沿って、もう一度書いてくれないか。

出来上がったら届けてもらいたい」相手は得心して、マッキンレーの言うとおりに書き直してきた。

そして、有能な応援弁士として大活躍をした。

エイブラハム・リンカーンの手紙の中で、二番目に有名なのを紹介しよう(一番有名なのはビクスビィ夫人宛てのもので、彼女の五人の息子たちの戦死を悼む手紙である)。

リンカーンはこの手紙を大急ぎで書いたものと思われる。

これは一九二六年の競売では一万二千ドルで売買された。

リンカーンが五十年働いてためた金額よりも多い。

この書簡は、南北戦争で北軍が最も憂色に閉ざされていた頃、一八六三年四月二十六日に書かれたものである。

北軍は作戦に齟齬を来して、十八カ月間、負け続けていた。

死傷者の数ばかり増え、国民は色を失った。

脱走兵は数千にのぼり、共和党の上院議員さえリンカーンを退陣させようとした。

リンカーンが「今や我々の運命は破滅の淵に臨んでいる。

神の助けも頼むに足らず、一条の希望の光さえ見出すことができない」と嘆いたどん底の時期に、これが書かれたのだ。

この手紙は、国家の運命が一将軍の肩にかかっている危急の時に、リンカーンがどのようにして、その頑固な将軍の考えを改めさせたか、その間の事情を示している。

この手紙は、彼が大統領就任以後に書いた手紙の中で、最も痛烈なものである。

しかもなお、フッカー将軍の重大な過失を責める前に、彼をほめている点は見逃せない。

この過失は重大であった。

だがリンカーンは、そういう言い方はしていない。

できる限り慎重に、外交的にと心がけている。

「貴官のやり方について、私には必ずしも満足とは思えない点が若干ある」と言うあたり、まったく物は言いようだ。

これが、フッカー将軍に宛てた手紙である──私は貴官をポトマック戦線の指揮官に任命しました。

もちろん、私は確信を持って、それを決定しましたが、貴官のやり方について、私には必ずしも満足とは思えない点が若干あることも考えておいていただきたい。

私は貴官が勇猛な優れた軍人であることを固く信じています。

もちろん私は、そういう軍人が好きです。

貴官はまた、政治と軍事を混同しない人物だと確信します。

それは正しいことです。

貴官は絶大な自信を持っておられる。

絶対に必要とは言えないまでも、大いに尊重すべきことだと思います。

貴官には野心的な意欲があります。

度を越さなければ、大いに結構です。

だが、貴官がバーンサイド将軍の指揮下にあった際、貴官は功をあせるあまり、命に背いて勝手な行動を起こし、国家と名誉ある将軍とに対して重大な過失を犯しました。

仄聞するところによれば、貴官は政治並びに軍事において独裁者の必要を力説されているようですが、もちろん私はそれを承知の上で、貴官を指揮官に任命しました。

しかし、それは決して貴官の意見に同意した結果ではありません。

独裁権を認めるには、それによって成功することが保証されていなければなりません。

私が貴官に希望することは、まず軍事的に成功することであります。

そのためには、独裁権を賭けてもいいと私は思っております。

今後とも、政府は全力を挙げて他の指揮官同様に貴官をも援助します。

貴官の言動に影響されて軍隊内に上官を非難する風潮が起こり、やがては、それが貴官自身にも向かってくるのではないかと、私は恐れていますが、できる限り貴官を援助して、そのような事態の発生を防ぎたいと思います。

そういった傾向が現われれば、貴官といえども、またたとえナポレオンといえども、優秀な軍隊をつくることは不可能でしょう。

軽挙妄動を厳に慎んでください。

軽挙妄動を慎んで、最後の勝利を得るよう全力を尽くしてください。

我々はクーリッジでも、マッキンレーでも、またリンカーンでもない。

我々が知りたいのは、この方法が日常の仕事の上にどういう効果をもたらすかということだろう。

では、フィラデルフィアのワーク建設会社のゴウ氏の例を挙げてみよう。

ワーク社ではある建築工事を請け負って、指定の期日までに完成しようと工事を急いでいた。

万事うまく進んでいたが、竣工一歩手前で、突然、建物の外部装飾に用いる青銅細工の協力業者から、期日に納品ができないと通知してきた。

大変だ。

どれだけの損害をこうむるかわからない。

たった一人の業者のために、工事全体がストップするのだ。

長距離電話をかけて大騒ぎをしてみたが、どうしてもらちがあかない。

そこで、ゴウ氏が事態打開の役目を仰せつかってニューヨークへ向かった。

ゴウ氏は、その会社の社長室に入ると、まずこう言った──「ブルックリンでは、あなたと同姓の方は一人もいませんね」「そうでしたか、それは私も知りませんでした」社長が驚いているのを見て、ゴウ氏は説明しはじめた。

「今朝、こちらへ着くと、早速あなたの住所を調べるために電話帳を繰ってみたのです。

ところが、ブルックリンの電話帳には、あなたと同姓の方が一人も見当たりません」「そうでしたか。

今まで少しも知りませんでした」そう言って、社長は熱心に電話帳をのぞき込んだ。

「そう、珍しい姓ですから。

私の祖先は二百年ほど前にオランダからこのニューヨークに渡ってきたのです」彼は誇らしげに自分の家族や先祖のことを話し続けた。

それが終わると、ゴウ氏は相手の工場の規模や設備をほめた。

「まったく素晴らしい工場ですね。

よく整頓されているし、青銅工場としては一流ですよ」「私はこの事業に一生を賭けてきました。

少しは自慢していいと思います。

どうです。

工場を見学なさいませんか」工場を見学しながら、ゴウ氏はその施設や制度をほめ、他の業者には見られない優秀なものだと言った。

彼が珍しい機械を見て感心すると、社長は、その機械は自分が発明したのだと得意になり、相当な時間をかけてこの機械を操作して見せた。

昼食も一緒にしようと言って聞かない。

その時まで、ゴウ氏がまだ一言も用件に触れていないことに留意していただきたい。

昼食が済むと、社長はこう切り出した──「さて、いよいよ商売の話に移りましょう。

もちろん、あなたがいらっしゃった目的は十分承知しています。

あなたとこんなに楽しい話をしようとは予想していませんでした。

他の注文は遅らせても、あなたのほうはきっと間に合わせますから、安心してお帰りください」ゴウ氏のほうからは何も頼まないのに、目的は完全に達せられたのである。

約束どおりに製品が到着して、建物は予定の期日に完成した。

もしゴウ氏が世間普通の強硬策をとっていたとすれば、果たしてどういう結果になっただろうか?ニュージャージー州フォート・モンマスにある連邦信用組合の女支店長ドロシー・ルブリュースキーは、部下の能率を向上させた経験について、次のように報告した。

「私たちの支店で最近、出納係の見習いを一人採用しました。

この娘の客扱いは非常によく、正確で早かった。

ところが、閉店後の帳尻合わせが問題です。

出納係長がやってきて、この娘は即刻首にすべきだというのです。

『あの娘は帳尻合わせが遅くて、そのために全体の仕事が滞ってしまいます。

いくら教えてやっても、飲み込めないのです。

やめてもらうしかありません』と大変な剣幕です。

その翌日、私はこの娘の仕事ぶりを見ていましたが、通常の業務は早いし正確でした。

それに客扱いが実にいいのです。

帳尻合わせだけがなぜそんなに遅れるのか、その理由は、私には、すぐわかりました。

閉店後、私は、彼女のそばへ行って、話してみることにしました。

彼女はそわそわして、取り乱していました。

私はまず、彼女の客に対する気持ちのよい応対ぶりをほめ、正確で早い客さばきに賛辞を呈しました。

そのあと、私は彼女に『帳尻合わせの手順を一緒におさらいしてみましょうか』と言いました。

すでに私が信用していることを知った彼女は、この申し出を素直に受け入れ、ほんのわずかの時間で、帳尻合わせの作業手順をマスターしました。

この時以来、彼女にはまったく問題がありません」このように、まず相手をほめておくのは、歯科医がまず局部麻酔をするのによく似ている。

もちろん、あとでがりがりとやられるが、麻酔はその痛みを消してくれる。

人を変える原則❶|まずほめる。

2遠まわしに注意を与えるチャールズ・シュワッブがある日の正午に工場を見まわっていると、数人の従業員が煙草を吸っているのに出くわした。

彼らの頭上には〝禁煙〟の掲示が出ている。

シュワッブはその掲示を指さして「君たちは、あの字が読めないのか」と言っただろうか?シュワッブはそんなことは絶対に言わない。

その男たちのそばへ行って、一人一人に葉巻を与え、「さあ、皆で外へ出て吸ってきたまえ」と言った。

もちろん彼らが禁を破って悪いと自覚しているのを、シュワッブは見抜いていたが、それには一言も触れないで、心尽くしの葉巻まで与え、顔を立ててやったのだから、彼らに心服されるのは当然の話である。

ジョン・ワナメーカーもこれと同じやり方をした。

ワナメーカーは一日一度は、フィラデルフィアの彼の店を見まわることにしていたが、ある日、一人の顧客がカウンターの前で待たされているのを見つけた。

誰もその婦人に気がつかない。

店員は向こうの隅に集まって、何かしきりに笑い興じている。

ワナメーカーは何も言わずに、そっと売り場の中に入って、注文を聞き、品物の包装を店員に頼んで、そのまま行ってしまった。

公職についている人々は、選挙民の相談になかなか応じてくれないと、よく苦情を言われる。

確かに彼らは多忙だが、容易に会えない理由の一つは、その秘書たちが、上司のためを思って、あまり多数の訪問客に会わせないように気を配るからである。

フロリダ州オーランドの市長を長年務めているカール・ラングフォードは、自分に面会を求める人々には極力その希望をかなえるよう部下に指示を与え、〝門戸開放〟が自分の方針だと公言していた。

ところが、市民たちが市長に面会を求めると、いつも秘書や役人たちが門前払いをする。

市長は、この問題の解決策として、市長室のドアを取り外させた。

これで、市長の真意が遠まわしに下僚に伝わり、市民に開かれた行政が実施されることになったのである。

人の気持ちや態度を変えようとする場合、ほんの一言の違いが、成功と失敗の分かれ目になることがある。

人を批判する際、まずほめておいて、次に〝しかし〟という言葉をはさんで、批判的なことを言いはじめる人が多い。

たとえば、子供に勉強させようとする場合、次のように言う。

「ジョニー、お父さんもお母さんも、お前の今学期の成績が上がって、本当に鼻が高いよ。

しかし、代数をもっと勉強していたら、成績はもっと上がっていたと思うよ」この場合、〝しかし〟という一言が耳に入るまでジョニーは激励されて気をよくしていただろう。

ところが、〝しかし〟という言葉を聞いたとたん、今のほめ言葉が果たして本心だったのかどうか疑いたくなる。

結局は批判するための前置きにすぎなかったように思えてくる。

信頼感が鈍り、勉強に対するジョニーの態度を変えようとする狙いも失敗に終わる。

この失敗は〝しかし〟という言葉を、〝そして〟に変えると、すぐに成功に転じる。

「ジョニー、お父さんもお母さんも、お前の今学期の成績が上がって、本当に鼻が高いよ。

そして、来学期も同じように勉強を続ければ、代数だって、他の課目と同じように成績が上がると思うよ」こう言えば、ジョニーは、ほめ言葉のあとに批判が続かないので、素直に耳を傾けるだろう。

これで、ジョニーに変えさせようとした問題点が遠まわしに知らされたことになり、その結果、彼は期待にこたえようと努力するだろう。

遠まわしに注意を与える方法は、直接批判されることに強く反発する神経質な人たちには、驚くほど効果がある。

ロードアイランド州ウーンソケットのマージ・ジェイコブという女性が、住宅の建て増しにきた、だらしない職人たちに、後片づけをさせた話をしてくれた。

工事がはじまって最初の二、三日、ジェイコブ夫人が仕事から帰ってみると、庭は材木の切れ端が散らばってひどいありさまだった。

彼女は苦情を言いたかったが、職人たちがいい仕事をしてくれるので、喧嘩はしたくなかった。

そこで、職人が帰ったあと、子供たちと一緒に木屑を拾い集め、きれいに庭の隅に積んでおいた。

次の朝、現場監督の男を脇に呼んで言った。

「昨日は、あなた方の後始末がとてもよくて、きれいに片づいていたので、お隣から苦情も出なかったし、とても喜んでいます」その日から、職人たちは後片づけをするようになり、仕事が終わると、監督がやってきて、片づいた庭を点検してくれるというのが日課になった。

名説教で知られたヘンリー・ビーチャー師が死んだのは、一八八七年三月八日だった。

その次の日曜日には、ビーチャー師の後任としてライマン・アボットが教会に招かれ、初の説教をすることになった。

名説教師の後任とあって、彼は懸命になって説教の草稿を書き、細心の注意を払って推敲を重ねた。

出来上がると、それを、まず妻に読んで聞かせた。

だいたい原稿を読み上げるような演説は、たいてい面白くないものだが、これもその例に漏れなかった。

ところが、彼の妻は賢明だった。

「面白くないわ。

駄目ですよ。

聞いている人が眠ってしまいますよ。

まるで百科事典を読んでいるみたい。

長年説教をやっていて、それくらいのこと、わかりそうなものよ。

もっと人間らしく、自然にやれないものかしら。

そんなものをお読みになると、恥をかきますよ」こんなことは言わなかった。

もし言ったとすれば大変だっただろう。

「『北米評論』にお出しになれば、きっといい論文になるでしょう」彼女は、ただそう言っただけだった。

つまり、ほめると同時に、演説には向かないことを、遠まわしにほのめかしたのだ。

彼にもその意味がわかった。

苦心の草稿を破り捨て、メモすらも用いずに説教をした。

人を変える原則❷|遠まわしに注意を与える。

3自分の過ちを話す私の姪にジョセフィーン・カーネギーという娘がいる。

カンザス・シティーの両親のもとを離れて、ニューヨークへ私の秘書としてやってきた。

その三年前に土地の高校を終えた十九歳の乙女で、勤めの経験は皆無に等しかった。

今でこそ彼女はまれに見る優秀な秘書と言えるが、はじめの頃は、へまばかりやっていた。

ある日のこと、私は彼女に小言を言おうとした。

だが、思い直して自分にこう言い聞かせた。

「ちょっと待った。

デール、お前はジョセフィーンより倍の年上ではないか。

それに仕事の経験は彼女の何万倍も持っている。

彼女にお前と同じ能力を期待するのがもともと無理だ──もっとも、お前の能力といったところでたいしたものではないのだが。

第一、お前は十九の時どんなことをやっていたか、思い出してみろ。

へまばかりやっていたではないか」正直に、そして公平に考えてみると、当時の私よりも彼女のほうが、野球で言えば、打率が高いという結論に達した──私よりも打率が高いということは、あまりほめたことにはならないのだが。

それ以後、彼女に小言を言う時は、次のようにやることにした──「ジョセフィーン、これはいけないよ。

しかし、まあ、私が今までにやった失敗にくらべると、これくらいは物の数ではないさ。

はじめは間違うのが当たり前だよ。

経験を積んではじめて間違いもなくなるのだ。

私の若い頃にくらべれば、今のお前のほうがよほどましだ。

私はずいぶんへまをやった覚えがあるから、お前に小言を言う気にはなれないが、どうだろう──こんなふうにしてみては……」人に小言を言う場合、謙虚な態度で、自分は決して完全ではなく、失敗も多いがと前置きして、それから間違いを注意してやると、相手はそれほど不愉快な思いをせずに済むものだ。

カナダのマニトバ州ブランドンの技師、E・ディリストンは、新しく雇い入れた秘書に手紙をタイプさせると、一ページに必ず二、三カ所の誤りがあるので困っていた。

この問題の処理について、ディリストンは次のように報告している。

「技術者の例に漏れず、私も文章や綴りについては、自信がなく、何年も前から、綴りの難しい言葉を書き込んだ単語帳をつくって持ち歩いている。

ミスを指摘するだけでは、この秘書に、よく読み合わせたり、辞書を調べたりする習慣をつけることなどできそうもないと気づいて、別の手を使うことに決めた。

ある日、この秘書がタイプした手紙を見ると、例によってミスがある。

そこで私は彼女に次のような話をした。

『この単語は、どうも綴りが怪しいように思うのだが、実を言うと、この単語には私自身いつも悩まされる。

それで、私はこの単語帳を調べるんだ〔ここでそのページを広げて彼女に見せる〕。

ほら、ここにある。

私は単語の綴りにはとても気を遣っている。

世間の人は、私たちの手紙で私たちのことを判断するらしいからね。

手紙に綴りの間違った単語があると、私たちの技術にもどこか欠陥があるような印象を与えるんだよ』彼女が単語帳をつくったのかどうかは知らないが、このことがあって以来、彼女のミスは目立って減った」ドイツ帝国最後の皇帝、高慢、尊大なウィルヘルム二世のもとで、首相を務めていたフォン・ブロウ公は、この方法の必要を身にしみて感じた。

当時のウィルヘルム皇帝は、膨大な陸海軍を擁して天下無敵を誇っていた。

そのうちに大変な騒動が起こった。

イギリス訪問中の皇帝が大変な暴言を吐いて、それをデイリー・テレグラフ紙に公表させたのだ。

たちまちイギリス国中の憤激を買い、ドイツ本国の政治家たちも、皇帝のひとりよがりには啞然としてしまった。

たとえば、彼はイギリスに好意を持つ唯一のドイツ人だとか、日本の脅威に対して大海軍を建設したとか、イギリスがロシアとフランスから攻撃を受けずに安心していられるのは、彼のおかげだなどと言い、また、ボーア戦争にイギリスのロバーツ卿が勝利を得たのも、やはり彼のおかげだとも言った。

あまりにも問題が大きくなったので、さすがの皇帝も驚いた。

そして、フォン・ブロウに責任を転嫁しようとはかった。

つまり、皇帝はフォン・ブロウの言うがままにしゃべったのだから、責任はフォン・ブロウにあると宣言しろというわけだ。

「陛下、私に陛下を動かしてあのようなことを言わせる力があると信じる人間は、イギリスにもドイツにも一人もいないと思いますが……」フォン・ブロウはそう答えた瞬間、しまったと思った。

皇帝が烈火のごとく怒り出した。

「お前は、わしを馬鹿者扱いにするのか!お前なら絶対にやらない失敗を、わしがやったと言うのか!」フォン・ブロウは、責める前にほめなければならなかったと気がついたが、あとの祭りだ。

彼は次善の策を講じた。

責めたあとでほめたのである。

これが、見事な奇跡を生んだ。

彼はうやうやしくこう言った──「私は決してそんな意味で申し上げたのではございません。

陛下はご賢明で、私ごとき者の遠く及ぶところではありません。

陸海軍のことはもちろん、自然科学についてのご造詣の深さは、驚くほかございません。

陛下はよく気圧計や無線電信、X線などの説明をしてくださいましたが、私はそのたびに賛嘆するのみでございました。

私はその方面のことは、恥ずかしいほど何も知りません。

単純な自然現象すら説明できないのです。

ただ、歴史の知識を少々と、政治、特に外交に役立つ知識を多少持っているだけでございます」皇帝の顔がほころびた。

フォン・ブロウがほめたからだ。

フォン・ブロウは皇帝を持ち上げて、自分をこきおろしたのだ。

こうなると、皇帝は、どんなことでも許してくれる。

「いつもわしが言っているとおり、お互いに助け合ってうまくやろうではないか。

しっかり手を握り合って進むのだ」皇帝のご機嫌は、すっかり直ってしまった。

皇帝は、フォン・ブロウの手を何度も握り締めた。

しまいには、熱を込めて「フォン・ブロウの悪口を言うやつは、ひどい目にあわせるぞ」とまで言った。

フォン・ブロウは危ないところを助かった。

しかし、彼ほどの抜け目のない外交家も、やはり失敗したわけである。

まず最初に、自分の短所と皇帝の長所とを述べなければならなかったのに、逆に皇帝を馬鹿者扱いにしたのだ。

この例を見ても明らかなように、謙遜と賞賛は、我々の日常の交際にも、大きな効果を発揮することができるはずだ。

正しく応用すれば、人間に奇跡を生み出すこともできるだろう。

自分自身の誤りを認めることは──たとえその誤りを正さず、そのままにしておいても──有効である。

メリーランド州ティモニアムのクラレンス・ゼルーセンが、これを証明した。

十五歳の息子が煙草を吸っているのを発見した時のことだ。

ゼルーセンはこう語った。

「もちろん、息子のデイヴィッドには煙草など吸ってもらいたくない。

だが、彼の母親も父親の私も、煙草を吸っている。

つまり、ふた親とも悪い手本を見せてきたわけだ。

私は、彼と同じ年頃に煙草を吸いはじめ、ニコチンのとりことなって、今ではもうやめられなくなっていることを説明した。

私がどんなに咳に悩まされているか、息子も知っているはずだ。

そして、私に煙草をやめさせようとして、いろいろと気を遣ってくれたのは、ほんの数年前ではなかったかと、彼に話した。

私は煙草をやめさせようとしておどしたり、煙草の害を説いたりはしなかった。

煙草の誘惑に負け、そのために多大の損をしたと自分の誤りを認めただけだった。

デイヴィッドはしばらく考えていたが、やがて、高校を卒業するまでは煙草を吸わないと決心した。

その後、何年たっても、煙草を吸おうとせず、今後も吸う気はない。

デイヴィッドと話した結果、私自身も煙草をやめる決心がつき、家族の協力もあって、禁煙に成功した」人を変える原則❸|まず自分の誤りを話したあと相手に注意する。

4命令をしない私はかつて、アメリカで一流の伝記作家、アイダ・ターベル女史と食事をともにした。

私が『人を動かす』を執筆中だと彼女に言うと、話題は人間関係の諸問題に移り、活発な意見が交換された。

彼女は、オーウェン・ヤングの伝記を書いている時、ヤングと三年間同じ事務所に勤めていたという男に会って、ヤングのことをいろいろ聞いたという。

それによると、ヤングは誰に向かっても決して命令的なことは言わなかったそうだ。

命令ではなく、暗示を与えるのだ。

「あれをせよ」「そうしてはいけない」などとは決して言わなかった。

「こう考えたらどうだろう」「これでうまくいくだろうか」などといった具合に相手の意見を求めた。

手紙を口述して書かせたあと、彼は「これでどう思うかね」と尋ねていた。

彼の部下が書いた手紙に目を通して「ここのところは、こういう言い方をすれば、もっとよくなるかもしれないが、どうだろう」と言うこともよくあった。

彼はいつも自主的に仕事をやらせる機会を与えたのだ。

決して命令はせず、自主的にやらせる。

そして、失敗によって学ばせた。

こういうやり方をすると、相手は自分の過ちが直しやすくなる。

また、相手の自尊心を傷つけず、重要感を与えてやることにもなり、反感の代わりに協力の気持ちを起こさせる。

押しつけがましい命令は、あとにしこりを残す。

たとえそれが、明らかな誤りを正すためであっても、そうだ。

ペンシルバニア州ワイオミングの職業学校で教師をしているダン・サンタレリが、学生の不法駐車で学校の作業場の出入口がふさがれた時の様子を報告している。

同僚の教師がサンタレリ先生の教室へどなり込んだ。

「入口に置いてある車は誰のだ?」学生の一人が自分のだと答えると、金切り声を上げた。

「車をどけろ!今すぐにだ。

ぐずぐずしてると車に鎖を巻いて引きずり出すぞ」確かに悪いのはその学生だ。

置いてはいけない場所に車を置いたのだ。

しかしこの日から、当の学生が反発したばかりか、同じクラスの学生全員がことごとにその教師を困らせはじめ、学校勤めを不愉快きわまりないものにしてしまった。

この教師の場合、他に対処する方法はなかったのだろうか?もっと穏やかに車の持ち主を訪ね、「あの車をのけてくれたら、他の車の出入りが楽になるんだが、どうだろう」と、持ちかけたら、その学生は喜んで車を移し、他の学生まで怒らせることもなく済んだのではなかろうか。

命令を質問の形に変えると、気持ちよく受け入れられるばかりか、相手に創造性を発揮させることもある。

命令が出される過程に何らかの形で参画すれば、誰でもその命令を守る気になる。

南アフリカのヨハネスブルグに住むイアン・マクドナルドは、精密機械部品を専門に製作する小さな工場の支配人だが、ある時、非常に大きな注文が取れそうだった。

ところが、指定の期日までに納入する自信がなかった。

工場ではすでに予定がぎっしり詰まっている。

指定の納期は守れそうもない。

この注文は、引き受けること自体無理ではないかと思われた。

マクドナルドは、従業員に命令して突貫作業を強行するのではなく、まず全員にいきさつを説明する方法を選んだ。

この注文が無事納入できたら、従業員にとっても、会社にとっても、はかり知れないほどの意義があることを話して聞かせたのである。

話が終わると、次のような質問をした。

「この注文をさばく方法があるのか?」「この注文を引き受けて納期に間に合わせるには、どんなやり方があるか?」「作業時間や人員配置をどうしたらよいか?」従業員は次々とアイディアを提供し、会社はこの注文を引き受けるべきだと主張した。

こうして、従業員は自信のある積極的な姿勢でこの問題に臨み、会社は注文を引き受け、製作し、そして期限を守った。

人を変える原則❹|命令をせず、意見を求める。

5顔をつぶさないある時、ゼネラル・エレクトリック社は、チャールズ・スタインメッツ部長の異動という微妙な問題にぶつかった。

スタインメッツは電気にかけては一流の人物だが、企画部長としては不適任だった。

会社としては彼の感情を害したくなかった。

事実、彼は必要欠くべからざる人物だが、一面非常に神経質な男だった。

そこで、会社は新しい職名を設けて彼をその職に任命した。

〝ゼネラル・エレクトリック社顧問技師〟というのがその職名である。

といっても、仕事は別に変わらない。

そして、部長には、別な男をすえた。

スタインメッツも喜んだ。

重役たちも喜んだ。

あれほどの気難し屋を、顔を立てることによって、無事に動かしえたのだ。

相手の顔を立てる!これは大切なことだ。

しかも、その大切さを理解している人は果たして何人いるだろうか?自分の気持ちを通すために、他人の感情を踏みにじっていく。

相手の自尊心などはまったく考えない。

人前もかまわず、使用人や子供を叱り飛ばす。

もう少し考えて、一言二言思いやりのある言葉をかけ、相手の心情を理解してやれば、そのほうが、はるかにうまくいくだろうに!従業員たちを、どうしても解雇しなければならない不愉快な場合には、このことをよく考えていただきたい。

マーシャル・グレンジャーという公認会計士から私にきた手紙の一節を紹介しよう。

「従業員の解雇ということは、どう考えてみても愉快なことではない。

解雇される身になれば、なおさらのことだろう。

我々の仕事はシーズンによって左右されることが多く、毎年、三月になると、大量の解雇者を出す。

解雇する役は決して愉快なものではない。

したがって、なるべく事を簡単に処理する習慣が、我々の間ではできている。

通例、こんな具合にやる。

『スミスさん、どうぞおかけください。

ご承知のように、シーズンも終わりましたので、あなたの仕事もなくなりました。

はじめから忙しい間だけお願いする約束でしたね──』相手は、これでかなりの打撃を受ける。

突っぱなされたような気がするのだ。

彼らの大部分は会計の仕事で一生を過ごす人たちだが、こんなにあっさり首を切る会社には、一片の愛情も感じない。

そこで私は、臨時雇いの人たちを解雇する際にはもう少し思いやりのある方法をとってみようと考えた。

各人の成績をよく調べた上で私のところへ呼び、こう言った。

『スミスさん、あなたのお仕事ぶりには、まったく感心しています(実際に彼がよく働いたとして)。

ニューヨークへ出張していただいた時は、大変だったでしょう。

しかし立派にやり遂げてくださったので、会社も鼻が高いわけです。

あなたにはあんな実力があるのですから、どこへいらっしゃっても大丈夫でしょう。

我々はあなたを信じていますし、また、できる限りのお力添えもしたいと思っています。

どうぞこのことを忘れないでください』その結果、相手は、解雇されたことをあまり苦にせず、明るい気持ちで去っていく。

突っぱなされた気がしないのである。

会社に仕事がありさえすれば、続いて雇ってくれたに違いないと思うからだ。

会社が再度彼らを必要とした場合には、喜んで来てくれる」ペンシルバニア州ハリスバーグのフレッド・クラークは、自分の会社で起こった事件について次のような話をした。

「生産会議の席で、副社長の一人が、ある製造工程について工場主任に意地の悪い質問をしていた。

その口調は攻撃的で、手際の悪さを槍玉に挙げた。

同僚の目を気にした主任の応答は煮え切らなかった。

副社長はいよいよ激怒し、主任を叱りつけ、噓つきとまでののしった。

この衝突で、これまで保たれていた両者の協力関係は一瞬にしてくずれ去った。

この主任は、もともと優れた社員だったが、この時以来、会社にとっては無用の人物になってしまった。

数カ月後、彼は社をやめて、競争相手の会社に入り、大いに活躍しているそうだ」アンナ・マゾーンという女性は、これと似た事件が自分の会社でも起こったと報告している。

似てはいるが、彼女の会社の場合は、扱い方も結果も全然違う。

アンナは、販売部門を担当していたが、ある時、入社以来はじめての大仕事を命じられた。

ある新製品のテスト販売を担当することになったのである。

彼女の話を聞こう。

「テスト販売の結果が出て、それを見た時、私は愕然としました。

企画の段階で大変なミスがあり、テスト販売全部のやり直しが必要なのです。

おまけに、この企画について報告する予定の会議までに部長と打ち合わせをする時間がありません。

会議がはじまり、いよいよ私が報告する番になった時、私は震えが止まりませんでした。

泣きくずれそうになるのを持ちこたえるのが精一杯です。

まかり間違って涙をこぼしたりすれば、同僚の男性から『やっぱり女にマネジメントの仕事は無理だ。

すぐ感情的になる』などと言われるに決まっている。

それだけは避けようと心に決めました。

私は手短に報告し、自分に手落ちがあったので、次の会議までにもう一度調査する旨を説明しました。

私は腰を下ろし、部長の怒りの言葉を待ち受けました。

ところが、部長は、私の労をねぎらい、新しい企画には、ミスはつきものだと言い、再調査が正確で有意義なものになることを確信すると述べました。

部長は、私を信じており、私が最善を尽くして、なお失敗したのは、能力不足ではなく、経験不足からだと、全員の前で言ってくれたのです。

会議が終わって、私は、二度と部長の期待に背くまいと心に誓いながら、胸を張って部屋を出ました」たとえ自分が正しく、相手が絶対に間違っていても、その顔をつぶすことは、相手の自尊心を傷つけるだけに終わる。

あの伝説的人物、フランス航空界のパイオニアで作家のサンテグジュペリは、次のように書いている。

「相手の自己評価を傷つけ、自己嫌悪におちいらせるようなことを言ったり、したりする権利は私にはない。

大切なことは、相手を私がどう評価するかではなくて、相手が自分自身をどう評価するかである。

相手の人間としての尊厳を傷つけることは犯罪なのだ」人を変える原則❺|顔を立てる。

6わずかなことでもほめるピート・バーローというサーカスの団長と私は昔から親しくしていた。

彼は犬や小馬を連れて、各地を巡業していた。

私はピートが犬に芸を仕込むのを見て、大変面白いと思った。

犬が少しでもうまくやると、なでてやったり、肉を与えたりして、大げさにほめてやる。

このやり方は、決して新しくない。

動物の訓練には、昔からこの手を用いている。

我々は、このわかりきった方法を、なぜ人間に応用しないのだろう?なぜ、鞭の代わりに肉を、批評の代わりに賞賛を用いないのだ?たとえ少しでも相手が進歩を示せば、心からほめようではないか。

それに力を得て、相手はますます進歩向上するだろう。

心理学者のジュス・レアーは次のように書いている。

「ほめ言葉は、人間に降り注ぐ日光のようなものだ。

それなしには、花開くことも成長することもできない。

我々は、事あるごとに批判の冷たい風を人に吹きつけるが、ほめ言葉という温かい日光を人に注ごうとはなかなかしない」私の過去にも、わずかなほめ言葉で私の人生がすっかり変わった経験がある。

誰にでも、これと同じような経験があるのではないか。

人間の歴史は、ほめ言葉のもたらす魔法の例に満ち満ちている。

今から約五十年前、十歳くらいの少年が、ナポリのある工場で働いていた。

彼は声楽家になりたかった。

しかし、最初の教師は、「君には歌は向かない。

まるで雨戸が風に吹かれているような声だ」と言って、彼を落胆させた。

だが、彼の母は、貧しい農民だったが、彼を抱いて優しく励ました。

「お前はきっと立派な声楽家になれるよ。

母さんにはそれがちゃんとわかっている。

その証拠に、お前はだんだんうまく歌えるようになってきた」彼女は真っ黒になって働き、息子に音楽の勉強をさせてやった。

この母の賞賛と激励が、少年の生涯を一変させた。

この少年が有名なエンリコ・カルーソーである。

十九世紀のはじめ、ロンドンに作家志望の若者がいた。

彼にとって有利と思えるような条件には何一つ恵まれていなかった。

学校へは四年間しか通っていないし、父は借金のために刑務所入りをしている。

三度の食事にも事欠くありさまだった。

そのうち彼は仕事にありついた。

ネズミの巣窟のような倉庫の中で、靴墨の容器にラベルを貼る仕事だ。

夜は気味の悪い屋根裏で、二人の少年と一緒に眠った。

その二人というのは、貧民街の浮浪児である。

彼は自信がなかったので、誰にも笑われないように、人の寝静まった頃を見はからってそっとベッドを抜け出し、書き上げた小説の処女作を郵送した。

次々と作品を送ってみたが、全部送り返されてくる。

だが、とうとう記念すべき日がめぐってきた。

ある作品が採用されたのだ。

原稿料は一銭ももらえなかったが、編集者からほめられた。

彼は認められたのである。

彼は感激して、あふれる涙をぬぐいもせずに、街を歩きまわった。

自分の作品が活字になって世に出たということが、彼の生涯に大変革をもたらした。

もしそれがなかったら、彼は一生を穴倉の中で過ごしたかもしれない。

この少年の名は、チャールズ・ディケンズ。

五、六十年前、もう一人の少年が、ロンドンのある織物商店で働いていた。

朝は五時に起き、掃除や使い走りに一日十四時間もこき使われた。

この重労働に、彼は耐え切れない思いをしていた。

それでも二年間辛抱したが、それ以上はどうしても我慢できなくなり、ある朝、朝食もとらずに店を抜け出し、家政婦として働いている母のもとへ、二十四キロの道を徒歩で帰っていった。

彼は狂ったように泣きながら、今の店で働くくらいなら死んだほうがましだと、母に訴えた。

それから彼は、母校の校長先生に宛て、苦境を訴える長文の手紙を書き送った。

校長先生からは、折り返し返事があった。

君はなかなか頭脳明晰で、そういう重労働には向かない。

もっと知的な仕事をすべきだと言って、彼のために学校の教師の職を提供してきた。

この賞賛は、少年の将来を一変させ、英文学史上に不滅の功績を残させた。

数え切れないほどのベストセラーを著し、百万ドル以上の富をペンから生み出したこの人は、H・G・ウェルズである。

批判を手控え、ほめ言葉を活用するというのは、B・F・スキナーの教育の基本的な考え方である。

この偉大な心理学者は、人間や動物の実験によって、批判を控え、ほめるほうに力点を置けば良い行動が定着し、悪い行動は抑制されることを立証している。

ノースカロライナ州ロッキー・マウントのジョン・リンゲルスポーは、これを子供たちに応用した。

世間には、父母が子供たちをどなりつけるのが、主な対話になっている家庭が多い。

リンゲルスポーの家庭も、そうだった。

親子のやりとりがあるたびに、子供たちは良くなるよりも逆にひどくなっていき、とめどがなかった。

リンゲルスポーは、講習会で習った原則を応用してみようと決意した。

彼は次のように報告している。

「妻と私は子供たちの悪いところをとがめるのはやめ、良い点をほめてやることにした。

ところが、目につくのは悪いところばかりで、ほめる種を探し出すのは大変だったが、苦労のあげく、どうにか、ほめてやれる点を見つけ出した。

すると一両日のうちに、どうにも手に負えないようなことだけは、やらなくなった。

やがて、他の問題点も次々と姿を消していった。

子供たちは、ほめ言葉を受け止め、長所を伸ばす努力をしはじめた。

妻も私も、自分の目を疑った。

もちろん、そういった向上はどこまでも続くわけにはいかないが、とにかく、以前にくらべるとよほど良いところまで到達した。

こうなると、意識的にほめる必要はなくなった。

子供たちは、間違っている場合よりも正しい場合のほうが多くなったからである」この原則は仕事にも応用できる。

カリフォルニア州ウッドランド・ヒルズのキース・ローパーは、これを自分の印刷会社で応用した。

ある時、ローパーのところに刷り上がった印刷物がまわされてきたのを見ると、格段の出来ばえだった。

これを仕上げたのは新入りの工員で、職場になじめず苦労していた男だった。

主任もこの男が気に入らず、首にしようと考えていたのだった。

ローパーは工場に出向き、この青年と直接話をした。

自分の手元に届いた製品の仕上がりは、近頃にない出来ばえだと青年をほめ、その良さを具体的に指摘した。

こんな立派なものをつくれる青年は、この会社の誇りだとも言った。

ローパーの賞賛が、この青年の会社に対する態度を変えた。

彼は、社長との会話を同僚に話し、いい仕事のわかる人がこの会社にもいるのだと皆に説明した。

それからというもの、この青年は、忠実で、献身的な従業員になった。

この場合、ローパーは、お世辞で青年をおだてたのではなかった。

製品のどこが優れているか、はっきりと説明したのである。

そのために、ほめ言葉が、意味を持って相手の心に伝わったのだった。

誰でもほめてもらうことはうれしい。

だが、その言葉が具体性を持っていてはじめて誠意のこもった言葉、つまり、ただ相手を喜ばせるための口先だけのものでない言葉として、相手の気持ちをじかに揺さぶるのである。

我々には、他人から評価され、認められたい願望があり、そのためにはどんなことでもする。

だが、心のこもらないうわべだけのお世辞には、反発を覚える。

重ねて言う。

本書の原則は、それが心の底から出る場合に限って効果を上げる。

小手先の社交術を説いているのではない。

新しい人生のあり方を述べているのである。

人を変えようとして、相手の心の中に隠された宝物の存在に気づかせることができたら、単にその人を変えるだけでなく、別人を誕生させることすらできるのである。

これが、大げさだと思われるのだったら、アメリカが生んだ最も優れた心理学者であり哲学者でもあるウィリアム・ジェイムズの次の言葉に耳を傾けるとよい。

「我々の持つ可能性にくらべると、現実の我々は、まだその半分の完成度にも達していない。

我々は、肉体的・精神的資質のごく一部分しか活用していないのだ。

概して言えば、人間は、自分の限界よりも、ずっとせまい範囲内で生きているにすぎず、いろいろな能力を使いこなせないままに放置しているのである」これを読むあなたも、使いこなせず宝の持ち腐れになっている能力を種々備えているのだ。

批判によって人間の能力はしぼみ、励ましによって花開く。

人を変える原則❻|わずかなことでも惜しみなく心からほめる。

7期待をかける最近まで立派な仕事をしていた従業員の仕事ぶりが粗雑になってきた場合、どうすればよいか?インディアナ州ローウェルにあるトラック販売店のサービス部長レンリー・ヘンケの下で働いている機械工の仕事ぶりが目立って悪くなってきた。

ヘンケはこの男をどなりつけたり、おどしたりする代わりに、自分の事務所に呼んで、腹を割って話し合った。

「ビル、君は優秀な機械工だ。

経験も豊富だ。

君の立派な仕事ぶりを、大勢のお客さんがほめている。

だが最近、どうも仕事の能率が落ち、出来ばえも今までにくらべてもう一つのようだ。

これまで君は人並み外れた腕の持ち主だった。

それだけに近頃の君の仕事ぶりが私には不満だ。

だからこうやって君と直接に話し合い、解決策を二人で考えたいのだ」ビルは、自分の仕事ぶりが低下していることに気づいていなかったらしい。

それで、今の仕事は、自分の能力の及ばないものでは決してないので、これからもっと努力すると約束した。

この約束を、ビルは、守った。

彼は再び以前と変わらず速くて、しかも入念な仕事をする機械工になった。

ヘンケがやったように、すでに確立された定評を努力目標として示した場合、部下としては、過去の仕事に匹敵する仕事をやって見せようと努力するのは当然であろう。

ボールドウィン汽車製造会社のサミュエル・ヴォークレーン社長はこう言う──「どこかいいところを見つけて、それに敬意を表してやると、たいていの者はこちらの思いどおりについてくる」要するに、相手をある点について矯正したいと思えば、その点について彼はすでに人よりも長じていると言ってやることだ。

「徳はなくても、徳あるごとくふるまえ」とはシェイクスピアの言葉だ。

相手に美点を発揮させたければ、彼がその美点を備えていることにして、公然とそのように扱ってやるがよい。

良い評判を立ててやると、その人間はあなたの期待を裏切らないように努めるだろう。

ジョルジェット・ルブラン女史は、その著書『我が思い出──メーテルリンクとともに』の中で、シンデレラのような運命をたどった貧しいベルギー娘の話を書いている。

「近所のホテルから給仕が私の食事を運んできました。

〝皿洗いのマリー〟と皆から呼ばれている娘です。

最初、調理場の皿洗いをしていたからです。

この娘は大変不器量で、やぶにらみ、O脚、心身ともに貧相な少女でした。

ある日のこと、この娘がマカロニを一皿、赤ぶくれの手で運んできた時、私はずばりと言いました。

『マリー、あなたは自分の中に素晴らしい宝物を持っているのに、気がついていない』自分の気持ちを押し殺す習慣のついたこの娘は、しばらく無言でした。

自分の気持ちを外に出す勇気がなかったのです。

やがてマカロニの皿をテーブルに置き、一息ついてから、あどけない口調で言いました。

『奥さま、そんなこと、考えてもみませんでした』。

娘は私の言葉を丸吞みにした様子でした。

そのまま調理場へ戻り、私の言ったことを皆に聞かせたのです。

あまりにも真剣で、私の言葉を信じ切っているその様子に、誰一人としてからかったりする者はいませんでした。

その日以後、この娘は皆から温かい目で見られるようになりました。

ところが、何よりも不思議な変化は、マリー自身に起こったのでした。

自分が奇跡を内に秘めていることを固く信じ、自分の顔や姿の手入れに気を遣って、その結果、これまで押さえつけられていた若さが花開き、容姿の醜さが隠されるようになりました。

それから二カ月たって、彼女はコック長の甥と近く結婚することになったと私に知らせました。

『私はレディーになるのです』と言って、私に礼を述べました。

私の一言が、この娘の人生を変えてしまったのです」ルブラン女史は、〝皿洗いのマリー〟に期待を持たせ、それを目標に向上をはからせたのである。

つまり、与えられた評価がこの娘を変身させたのだ。

フロリダ州デイトナ・ビーチにある食品会社のセールスマン、ビル・パーカーは、最近会社で開発した製品の売り込みに意欲を燃やしていたが、得意先の大きな食品マーケットの店長がこの新製品を断り、店に置かないという。

がっかりしたビルは、一日中そればかり考えていたが、帰宅する前にもう一度その店へ行って、話してみることに決めた。

「あれからいろいろと考えてみましたが、どうも私の説明が十分でなかったようです。

今朝の説明に漏れていたところをお話しする時間を少々いただけませんか。

あなたはいつも私の言うことに耳を傾けてくださり、ご納得になると、率直に最初の決定を変えていただける広い心の持ち主だと前々から尊敬していました」これで店主は、ビルの話を聞くことになった。

自分について良い評価が与えられた以上、その評価に違わないように努めるのは人情である。

ある朝、アイルランドのダブリンで歯科医を開業しているマーティン・フィッツヒュー医師は、患者から口すすぎ用の紙コップの金属製ホルダーが汚れていると言われ、愕然とした。

患者は紙コップを使うので、ホルダーに直接口を触れるわけではないが、それにしても、器材が汚れているのは、医院として感心できることではない。

患者が帰ったあと、フィッツヒュー医師は自分の事務室でブリジット宛てのメモを書いた。

ブリジットは、週一回診療室の掃除に来る家政婦である。

ブリジットさんへ。

あなたに直接お話しするおりがあまりないので、診療室をいつもきれいに掃除してくださるお礼かたがた一筆したためます。

ところで、これまでの週一回一日二時間では時間が少なすぎませんか。

紙コップのホルダーのように、時々手入れすればよい仕事に、時には三十分ほども余分に時間をかけたいと思われるようなことがありましたら、どうぞご自由に時間を延長してくださって結構です。

もちろん、その分の給料は加算させてもらいます。

「その翌日、事務室に入ると、机は鏡のように磨き上げられ、おまけに椅子まで磨き込まれていて、危うく滑り落ちそうになった。

次に診療室に入ると、目についたのは、見事に磨かれた紙コップのホルダーだった。

私は、この家政婦に常日頃の仕事が立派だとほめ、その評価に背くまいとする気持ちを起こさせ、仕事に力を入れさせたのである。

それで彼女は、どれくらい余分に時間をかけたか?時間の延長はゼロだった」古いことわざに言う──「犬を殺すには狂犬呼ばわりすればよい」一度悪評が立ったら浮かばれないという意味だが、逆に好評が立てばどうなる?ニューヨークのブルックリンで小学四年生を受け持つルース・ホプキンズ先生は、学年のはじめに担当クラスの出席簿を一目見て、新学年への期待が不安で曇るのを感じた。

クラスの中に、学校中で一番評判の悪い〝悪ガキ〟トミーが入っていたのだ。

三年の時の担当の先生は、同僚や校長をはじめ、相手さえ見ればトミーのことをこぼしていた。

ただいたずらをするだけでなく、授業中に規律を乱し、男の子には喧嘩をしかける、女の子はからかう、先生に対しては生意気、時がたつにつれてますますひどくなるばかり。

ところが、その半面、物覚えが早く、授業内容を楽々こなすという長所もあった。

ホプキンズ先生は、早急にトミーの問題を処理する決意を固めた。

新学年の初日に教壇に立った先生は、生徒の一人一人に一言ずつ声をかけてまわった。

「ローズ、素敵なドレスね」「アリシア、あなたはとっても絵がうまいという評判よ」トミーの番になると、トミーの目をまともに見て言った。

「トミー、君は生まれながらのリーダーなんだってね。

先生は、このクラスを、今年の四年の中で一番いいクラスにしようと思っているの。

それには、君が一番の頼りよ。

頼むわね」ホプキンズ先生は、最初の数日間、トミーの行動をいちいちほめ、確かにトミーは良い子だと断言した。

良い評価を与えられたトミーは、評価どおりになろう、先生の期待を裏切るまいと努力した。

そして事実、先生の期待にこたえた。

人を変える原則❼|期待をかける。

8激励する私の友人に四十歳の独身者がいた。

その男が最近ある女性と婚約した。

ところが、相手の女性は、彼にダンスを習えという。

それについて、彼はこう話した──「私は若い時にダンスを習って、そのまま二十年間同じ踊り方をしていたので、一度習い直しておく必要は、確かにあった。

最初に訪ねた教師は、私のダンスはまったくなっていないと言った。

たぶん本当のことを言ったのだろう。

はじめからやり直さねば駄目だと言うのだが、私はすっかり嫌気がさして、その教師のところへ通うのをやめてしまった。

次の教師は、本当のことを言わなかったらしいが、そのほうが気に入った。

私のダンスは少々時代遅れだが、基本がしっかりしているから、新しいステップも、わけなく覚えられるだろうというわけだ。

はじめの教師は欠点を強調して、がっかりさせたが、この教師はその逆だった。

長所をほめて、欠点のことはあまり言わない。

リズムがよくわかり、素質もなかなかよいと言ってくれる。

そう言われてみると、自分は下手だとわかっていながら、つい、そうでもなさそうな気がしてくる。

もちろん授業料を払ってあるのだから、お世辞を言うくらいのことは不思議ではないが、そんなことを、私が考える必要はない。

とにかく、ほめられたおかげで、私のダンスは、確かに上達した。

教師の言葉で元気が出て、希望が湧いた。

向上心が起きたのである」子供や夫や従業員を、馬鹿だとか、能なしだとか、才能がないとか言ってののしるのは、向上心の芽を摘み取ってしまうことになる。

その逆を行くのだ。

大いに元気づけて、やりさえすれば容易にやれると思い込ませ、そして、相手の能力をこちらは信じているのだと知らせてやるのだ。

そうすれば相手は、自分の優秀さを示そうと懸命に頑張る。

ローウェル・トーマスはこの方法を用いている。

彼はこの道の達人だ。

人を奮起させ、自信を与え、勇気と信念を植えつけるのが実にうまい。

たとえば、こういうことがあった。

ついこの間、私はトーマス夫妻とともに週末を過ごした。

その土曜日の夜、燃え盛る暖炉のそばでブリッジをしないかと、すすめられた。

ブリッジ──とんでもない!ブリッジは、私にとっては、永遠の謎みたいなものだ。

全然やれない。

「デール、ブリッジなんてわけはないのだよ。

別に秘訣も何もない。

ただ、記憶力と判断力だけの問題だ。

君は記憶力について書物を著わしたことがあるではないか。

君にはうってつけのゲームだよ」気がついてみると、私は生まれてはじめて、ブリッジのテーブルに向かって座っていた。

うまくおだてられて、わけなくやれそうな気がしたために、こういう結果になったのである。

ブリッジといえば、エリー・カルバートソンを思い出す。

ブリッジをやるほどの者なら誰でも彼の名を知っているはずだ。

彼の書いたブリッジに関する書物は各国語に翻訳され、すでに百万部は売れているという。

彼も、ある若い女性から「あなたには、素晴らしいブリッジの素質がある」と言われなかったら、この道で飯を食っていくようなことにはならなかっただろう。

カルバートソンがアメリカへ来たのは一九二二年で、最初は哲学と社会学の教師になるつもりだったが、適当な勤め口がなかった。

そこで彼は石炭の販売をやったが、失敗した。

ついでコーヒーの販売をやったが、それもうまくいかない。

その当時の彼には、ブリッジの教師になろうなどという考えは、さらになかった。

トランプ競技は下手なばかりか、はたの者が迷惑する。

はじめから終わりまで質問のしどおしだ。

そして、勝負が終わると、ゲームの経過をうるさく検討するので、誰も彼とやるのを嫌がる始末だった。

ところが、ある日、彼はジョセフィーン・ディロンという美貌のブリッジ教師と知り合いになり、それが恋愛に発展して、ついに結婚した。

彼女は、彼が綿密にカードを分析して考える様子を見て、彼にはトランプ競技に対する天成の素質があるとほめた。

カルバートソンをしてブリッジの大権威たらしめたのは、彼女のこの激励の言葉だったという。

オハイオ州シンシナティのクラレンス・ジョーンズは、欠点は難なく克服できると激励して息子の人生を変えさせた。

その体験を次のように語る。

「一九七〇年、息子のデイヴィッドは十五歳だったが、シンシナティに住む私と一緒に暮らすことになった。

この子は一九五八年に自動車事故で頭に大怪我をし、ひどい傷跡が額に残っている。

一九六〇年、私が離婚したので、デイヴィッドはテキサス州ダラスで母親と一緒に住んでいたのだった。

十五歳になるまで、デイヴィッドはダラスの学校で遅進生徒ばかりの特別学級に入れられていた。

たぶん、額の傷のためだろうが、学校当局はこの子が普通の能力を持っていないと判断したらしい。

デイヴィッドは同じ年齢の子供より二学年遅れて、七年生だったが、掛け算の九九も覚えておらず、足し算には指を使い、字もろくに読めなかった。

ただ一つ、長所があった。

ラジオやテレビをいじるのが大好きで、テレビ技師になりたがっていた。

私はデイヴィッドを励まし、テレビ技師になるには数学が必要だと話し、数学の勉強に手を貸すことにしたのである。

まず、算数のカードを四組用意した。

掛け算、割り算、足し算、そして引き算のカードだ。

これを次々とやり、答えの合ったものは、〝済み〟のケースに入れ、答えを間違えると、正しい答えを教えたのちに、そのカードを〝やり直し〟のケースに入れていく。

こうして、カードが全部〝済み〟のケースに入ってしまうまで続けた。

正しい答えが出るたびに、大げさに喜んで見せる。

特に、はじめ答えられなかった問題を正しく答えた時は、大いにはやし立てた。

これを毎晩繰り返して、〝やり直し〟のケースが空になるまで続け、ストップ・ウォッチを使って所要時間をはかった。

私は、カード全部に八分以内で正解が出せたら、毎晩やらなくてもいいことにすると約束した。

デイヴィッドは、とうてい無理だと思ったらしいが、第一夜は五十二分、第二夜は四十八分、そのあと、四十五、四十四、四十一、そして四十分を割った。

記録が更新されるたびに、デイヴィッドも私も大喜びだった。

妻も呼んで、デイヴィッドを抱き締めたり、踊りまわったりした。

一カ月が終わる頃には、デイヴィッドは、八分以内にカード全部に正解が出せるようになった。

記録が少しでも更新できると、彼はもう一回やりたがる。

この子は、勉強が、やさしい、面白いものだという素晴らしい発見をしたのである。

当然、デイヴィッドの数学の成績は飛躍的に上がった。

数学でBの成績をもらって帰った時は、デイヴィッド自身びっくりしていた。

それ以外に、いろいろな変化が、次々と彼に起こった。

〝読み方〟も急速に進歩し、絵の才能も発揮しはじめた。

その学年のうちに、理科の先生から展覧会に出品するようにと言われた。

それで彼は、てこの原理を説明するきわめて複雑な模型をつくることにした。

それには、図面を描いたり模型をつくったりする技術の他に、応用数学の知識が必要だった。

彼の作品は校内の理科祭で一等賞を取り、それがシンシナティ市主催のコンテストに出されて、三等賞の栄冠を勝ち取った。

これが、きっかけになった。

二学年も遅れ、脳が損傷していると人に言われ、級友からは〝フランケンシュタイン〟とからかわれて、怪我で頭の中身が流れ出したなどと冷やかされていた少年に、突如として、物事を覚えることも、やり遂げることもできる自信が生じたのである。

その結果、八年生の最終学期から高校まで、優等の成績を続け、高校では全国優等生協会のメンバーに選ばれた。

勉強はやさしい、面白いものだとわかったとたんに、デイヴィッドの生活全体が変わったのである」人を変える原則❽|激励して、能力に自信を持たせる。

9喜んで協力させる一九一五年、ヨーロッパは第一次世界大戦の真っ最中で、アメリカも黙って見ているわけにはいかなくなった。

果たして平和を回復することができるかどうか、誰にもわからなかったが、ウッドロー・ウィルソン大統領は、とにかく努力してみようと決心して、戦争当事国の指導者たちと協議するために、平和使節を派遣することにした。

平和主義を標榜する国務長官ウィリアム・ブライアンは、この役目を引き受けたがっていた。

自分の名を不朽にする絶好の機会だと見てとったのだ。

だが、ウィルソンはブライアンではなく、親友のハウス大佐を任命した。

それを引き受けたハウス大佐には、重大な問題が残された。

ブライアンの感情を害さないように注意して、彼にこのことを打ち明けねばならないのだ。

当時の模様を、ハウス大佐は日記にこう書いている──「ブライアンは私からその話を聞くと、明らかに失望の色を顔に浮かべた。

彼は、自分が行くつもりだったのだと言った。

そこで私は、大統領としては、今回の使節派遣を公式にやることは賢明な策ではないという意見を持っており、ブライアンが行くことになれば、世間の注目を引き、具合が悪いだろうと言った」こういう言い方もあるのだ。

つまり、ブライアンはあまりにも大人物すぎて、この任務には相応しくないというわけだ。

これで、彼もすっかり満足した。

苦労人のハウス大佐は、こちらの提案に〝喜んで協力させる〟という人間関係の重要な原則を守ったのだ。

ウィルソン大統領はウィリアム・マッカドゥーを閣僚にすえる時にも、この方法を用いた。

閣僚といえば、誰にとっても名誉な地位である。

それを与えるのにウィルソンは、相手の重要感を倍加させるようなやり方をした。

マッカドゥー自身の言葉を借りることにしよう。

「ウィルソンは今、組閣中だが、財務長官を引き受けてくれれば、まことにありがたいのだと、私に言った。

実にうれしい物の言い方だった。

この名誉な地位を引き受ければ、それで、私が恩を施したことになるような気がしたのだ」だが、不幸にして、ウィルソンはいつもこのようなやり方をしていたわけではなかった。

彼がこの方法を一貫して用いていたら、おそらく歴史も変わっていたに違いない。

たとえば、国際連盟加入問題で、彼は上院を怒らせ、共和党を無視した。

人間関係を考えないこのやり方は、彼自身に失脚をもたらし、その健康を害し、寿命を縮めて、アメリカを連盟不参加国とし、世界史の進路を変えてしまったのである。

〝喜んで協力させる〟原則が役に立つのは、政治家や外交官に限らない。

インディアナ州フォート・ウェインのデール・フェリエは、自分の小さな息子が言いつけられた仕事を進んで片づけるようになった経緯を、次のように報告している。

「息子のジェフに与えていた仕事は、洋ナシの落果を拾い集めることだった。

これで、下草刈りをする時、手を止めて落果を拾う手間が省ける。

ジェフはこの仕事を嫌がった。

やらなかったり、やってもおざなりで、あとにいくつも落果が残っていることがよくあった。

そこで私は、ジェフを真っ向から決めつけるのを避け、次のように話した。

『ジェフ、お前と協定したいのだがどうだ?お前が拾った洋ナシを籠一杯につき一ドルで買ってあげよう。

だが、あとでお父さんが見まわり、まだ洋ナシが落ちていたら、一個について一ドルずつ差し引くことにする。

どうかね?』。

ジェフは落果を一つ残らず拾い集めたばかりか、うっかり目を離すと、まだ木についている実までもぎとって籠に入れるほど熱を入れたのである」私の知人に、義理のある筋から講演を頼まれては、それをしょっちゅう断っている男がいる。

ところが、彼の断り方が巧妙なので、断られたほうもたいして気を悪くしない。

その断り方は、忙しいとか何だとか、こちらの都合を言うのではなく、まず、依頼されたことに対して心から感謝の意を表わし、残念だがどうしても都合がつかないと告げ、その代わりに、別な講演者を推薦する。

つまり、相手に失望を感じる余裕を与えず、他の講演者のことを考えさせるのである。

西ドイツで講習会に参加したギュンター・シュミットは、自分の経営する食料品店で、陳列棚の商品に必ず正札をつける方針を徹底させた。

正札がついていないための混乱が起こり、客からも苦情が出ていたのである。

何度もこのことを係の女店員に指摘し、注意を与えたが、あまり効き目はなかった。

最後に、シュミットは、彼女を自分の事務室へ呼んで言った。

「今日からあなたを当店全部の正札係の主任になってもらうことにしました。

しっかり頼みますよ」新しい責任と肩書きを与えられたこの女店員の仕事ぶりはがらりと変わり、自分の任務を完全に遂行するようになったという。

これは、子供だましのような気がするかもしれない。

だが、ナポレオン一世も同じようなことをやった。

彼は、自分の制定したレジョン・ドヌール勲章を千五百個もばらまいたり、十八人の大将に〝元帥〟の称号を与えたり、自分の軍隊のことを〝大陸軍〟と呼んだりした。

歴戦の勇士を〝玩具〟でだましたと非難されると、彼は答えた。

「人間は玩具に支配される」このナポレオンのやり方、すなわち、肩書きや権威を与える方法は、我々がやっても、効果がある。

その例として、私の友人、ニューヨーク州スカーズデールのジェント夫人の場合を紹介しよう。

夫人は、近所の悪童たちにひどく悩まされたことがあった。

庭に侵入して、芝生を荒らすのだ。

おどしたりすかしたりしてみたが、さっぱり効き目がない。

そこで、彼女は、悪童の大将に肩書きを与えて、権威を持たせてやった。

〝探偵〟という肩書きだ。

そして、芝生への不法侵入者を取り締まる役を仰せつけた。

この策は、見事に功を奏した。

〝探偵〟は、裏庭でたき火をして鉄棒を真っ赤に焼き、それを振りかざして不法侵入者たちを追っぱらった。

人を変える必要が生じた場合、次の事項を考えてみるべきだ。

一、誠実であれ。

守れない約束はするな。

自分の利益は忘れ、相手の利益だけを考えよ。

二、相手に期待する協力は何か、明確に把握せよ。

三、相手の身になれ。

相手の真の望みは何か?四、あなたに協力すれば相手にどんな利益があるか?五、望みどおりの利益を相手に与えよ。

六、人に物を頼む場合、その頼みが相手の利益にもなると気づくように話せ。

これで、必ず相手から良い反応が期待できると考えるのは、やや単純すぎる。

だが、少なくともこの原則を応用しなかった場合にくらべると、相手を変える可能性は高くなる。

これは、大勢の人が経験している。

もし、わずか十パーセントでも成功の確率を高めたとしたら、十パーセントだけ人を変える能力を高め得たことになる。

そして、これこそ、その努力がもたらす〝利益〟なのである。

人を変える原則❾|喜んで協力させる。

訳者あとがき本書は、デール・カーネギー(DaleCarnegie)の『HowtoWinFriendsandInfluencePeople』を訳したものである。

原書は、一九三六年に初版が発行され、一九八一年の改訂版が出るまでに、世界各国語による訳書を含めると、一千五百万部、一年平均三十万部以上が売り尽くされたという。

一九三六年の原著初版を日本語に移した本書の旧版も、一九五八年第一版発行以来二十四年間で百六十九刷を重ねた。

このような驚異的な売れ行きは、とりもなおさず、本書が、社会の切実な要請に、多年にわたってこたえ続け、その評価が確立している証左であろう。

人間関係の分野では、本書は、まさに、現代の古典とも呼ぶべき位置を占め、万人必読の書となっているのである。

巻頭のカーネギー夫人の言葉にあるとおり、原著は、初版以来半世紀に及ぶ時勢の変化を織り込んで、一九八一年に改訂版が発行された。

その改訂版を底本として改訳したのが、本書である。

原著者デール・カーネギーは、アメリカにおける成人教育、人間関係研究の先覚者で、デール・カーネギー研究所の所長として、話術並びに人間関係の新分野を開拓した。

彼は、アメリカ国内のみならず、ロンドン、パリなどヨーロッパの各地にも出張して講習会を開くかたわら、ウェスティングハウス電機会社、ニューヨーク電話会社その他の大会社の顧問として、社員の教育に当たり、直接に彼の指導を受けた職業人は、二十数年間で一万五千人以上の数にのぼっていたという。

そのうちには、社会の各方面で重要な地位を占める有名人も多数含まれている。

カーネギーは、最初、このような指導を行なうにあたって、適当なテキスト・ブックの必要を感じ、手を尽くしてそれを探し出そうとした。

ところが、驚いたことには、人間関係について実際に役立つ書物は一冊も出版されていない。

やむをえず、彼は、自分でそれを書く決心をした。

そのために、彼は、新聞、雑誌、裁判記録をはじめ、心理学書、哲学書、その他、人間関係の問題に関連のある書物を片っ端から調べ上げ、助手を使って、一年半にわたる資料集めを行なった。

また、マルコニー、フランクリン・D・ルーズヴェルト、クラーク・ゲイブルなど、各界の名士を大勢訪ねて、直接にその談話を集めることもやった。

この調査の結果、カーネギーは、人を動かす原則を打ち立て、それを印刷した小さなカードをつくって講習会の教材とした。

ところが、講習会の回を重ねるごとに、このカードが増補されて、薄いパンフレットになり、そのパンフレットの頁数が次第に増えて、十五年後には、ついに一冊の本になった。

それが『人を動かす』という書物である。

だから、本書は、一朝一夕に頭だけで書かれたものではない。

十五年にわたるカーネギーの指導の現場から生まれてきたもので、著者の説は、すべて実験済みのものばかりなのである。

デール・カーネギーは、ミズーリ州の農家に生まれ、州立の学芸大学に学んだ。

その頃、彼は異常な劣等感に悩まされており、それを克服するために弁論を研究した。

大学卒業後、教師、セールスマン、食肉会社員、行商人など、雑多な仕事を経験したが、一九一一年には、ニューヨークに出て、演劇研究所に入り、地方まわりの劇団に所属した。

劇団の仕事も、あまり長続きはせず、やがて彼はニューヨークに戻って、トラックのセールスマンをはじめた。

そのうちに、彼は、自分に最も適した仕事はやはり大学時代に研究した弁論術だと気づき、YMCAの弁論術講座を担当することになった。

はじめは、一晩に二ドルの報酬しか得られなかったが、次第にこの講座の受講者が増えて、間もなく一晩の報酬が三十ドルとなった。

ついに、彼は、成人教育に自己の適性を見出したのである。

そこに至るまでの彼の放浪は、決して無駄ではなかった。

世の辛酸をなめ尽くし、社会の表裏を知り尽くして、ついに彼は人間性の秘密を探り当てたのである。

彼の成功はそこに基づいており、彼の説が我々を納得させるのもそれがためである。

昭和二十八年の夏、カーネギーは、世界周遊旅行の途中、関西を訪れ、京都を見物して香港に向かったが、その際、「日本で一番印象の深かったものは?」という質問に「それは日本人です」と言い残して船に乗った。

人間に対する彼の関心の深さを示す言葉と言えよう。

一九八二年十月訳者

デール・カーネギーDaleCarnegie1888年、米国ミズーリ州の農家に生まれ、大学卒業後、雑誌記者、俳優、セールスパーソンなど雑多な職業を経て、弁論術や成人教育の講師となり、人間関係の先覚者として名をなす。

不朽の名著『人を動かす』『道は開ける』など多数の著作がある。

※この電子書籍は、現行の公式版である『新装版人を動かす』から主要部分を集約し、本編30章を収載した文庫エッセンシャル版です。

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