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[第 5章]倒産  1997年 11月 ~ 12月  

ぼくは、完全に神経がやられてしまった。  もはや正常な心を保つには、すべての意志や野望をすべて捨て、ハイパーネットという会社をひとごとのように客観的に見ることにして、自分自身と切り離すしかなかった。  ぼくはこの会社の全責任を負っていた。債権者、株主、従業員とその家族、取引先……。会社がつぶれれば、これらすべての関係者に迷惑をかけることになる。まさに自分の招いたことだ。重い。あまりに重い。  会社がつぶれることで周囲に与える影響をまともに考えれば、ぼくは狂い出すかもしれなかった。だからこそ、あえて冷静にこの会社の状況を考え、適切な判断をしなければならなかった。  一一月下旬。ぼくや森下をはじめとするハイパーネット当事者の話は、外部の関係者にとって何の説得力もなくなっていた。  最後に期待していた例の華僑からの連絡はなかった。増資プロジェクトは、口頭でイエスを伝えてきた会社からも申し込み書類は届かなかった。リードインベスターが決まらなかったから当然である。  社員はまだ何人か残っていたが、ぎりぎりまで営業や開発の努力をする者もいた一方で、再就職先を探していたり、連絡のほとんど取れなくなった者もいた。  相変わらず銀行は連日アポイントメントもなしに来社してきた。  当社に対する風当たりは、それだけでも当社を倒産に追い込むほどの状態になっていた。広告代理店からは、当社の経営不安を理由に IMSサービスの同業他社への移管要請があった。さらに、海外における実績をニュースリリースとして発表するが、以前と異なり、どのマスコミも扱ってくれなかった。リリースを送付した一〇〇社近い媒体のどれもが記事を扱わなくなった。そして、ぼく宛のわけのわからない電話が毎日何本も入った。  もはや回復不能であった。  一一月二二日土曜日。ぼくは友人の家で目を覚ました。いや、正確にいうと携帯電話でたたき起こされたのだ。 「……もしもし?」「あ、やっと出た。俺です。森下です。いったいどこにいるんですか」  昨日の酒がまだ抜けていない。このところ、寝る前にはかならず強い酒をストレートで飲む習慣がついていた。酔っ払わないと眠れないのだ。素面のまま布団をかぶると、さまざまな悩み事が曼荼羅図のようにぼくの頭の中にひしめきあう。いろいろな人の顔が浮かぶ。悔恨の思いと絶望感が交互に現れる。こうなるともう駄目だ。夜明けまで一睡もできない。かくして酒の力を借りる。あと一カ月この状態が続けば、ぼくは立派なアル中になれるだろう。「友達のとこだよ」、すえたウイスキーの臭いをぷんぷんさせながら、ぼくは携帯電話に話し掛けた。「で、なんだよ。こんな朝早くに」「朝早くじゃない!  もう昼ですよ」森下はあきれて、こういった。「つぶれたんですよ」「は?  なにいってんだ。うちはまだつぶれちゃいねえぞ」  森下が叫んだ。「違いますよ!  山一、山一証券がふっとんだんですよ!  ほら、テレビでいまやってますよ」  友人はすでに外出したようだった。ぼくは部屋の隅の一五インチテレビのスイッチを入れた。  おそらく朝のしかも早い時間の映像だろう。普段ならば閉まっているはずの土曜日の薄暗いオフィスビルに、スーツ姿の男たちが次々に吸い込まれていく。追いすがるカメラとレポーターのマイク。手で遮りながら、扉の向こうに駆け込む社員。 「――というわけで、山一証券本社前からの映像でした」画面がスタジオに戻った。昼のニュース番組だ。もうこんな時間なのか。  ぼくはそのまま、ぼおっとニュースを眺めていた。電話の向こうで森下がいった。「日経のスクープみたいっすね。テレビじゃ朝からずっとやってましたよ」  いったん電話を切り、テレビをつけっぱなしにしたまま、カギもかけずに部屋を出て近所の駅まで歩いていき、売店で日経新聞とついでにポカリスエットを買ってきた。『山一証券、自主廃業へ、負債三兆円、戦後最大――顧客資産保護へ日銀特融』  日経新聞はこんな見出しを大きく掲げ、一面、社会面、それに経済面をたっぷり使って、山一が事実上倒産することを詳細に伝えていた。ぼくは、新聞をなめるように読んだ。テレビでは、本社前の緊急通勤風景を繰り返し放映していた。  山一の経営破綻報道を見て、読んで、このときぼくはどう思ったか。不謹慎かもしれないが、正直に書こう。ぼくはこう思った。  ――もういいや、倒産しても。  人間、本当にせっぱつまると案外つまらぬことを考えるものだ。でも、ぼくは心底こう思ったのだ。もういい。もうつぶれてもいい。あの山一がつぶれちまうんだ。おれがつぶれたって別におかしくない。  肩の力が抜けた。ぼくの中で、実にあっさりと決心がついた。  ぼくと森下は、森下の知人の紹介で西村総合法律事務所の大岸聡先生を訪問した。  ハイパーネットを法的に「処分」するためである。  弁護士は非常にクールである。ぼくたちは当然経験の無いこの状況について細かく質問をし、懸念される点について意見を言った。たとえばそれは当社の倒産によって IMSのクライアントが非常に多くの被害を受けることなどだ。  しかし大岸先生は冷静だった。当たり前である。彼はそんな会社を数限りなく知っている。建設会社が倒産したことによってビルの建築が途中で放棄され、何年も放置されているようなこともよくあることだという。  確かに、我々はもう考えを変えなければならなかった。これまでは、どうやって成長するかという思考に支配されていたが、今度は、どうやって片づけるかを考えねばならない。  この時点でぼくたちに残された決定と作業は、和議を申請するかそれとも自己破産にするかという判断、そして債権債務の詳細なリストを作成する作業である。  弁護士からの注意事項がいくつかあった。それは和議にしても破産にしても、その機密が非常に大切だということだった。つまり会社の倒産を目前にして、特定の債権者に対して会社の資産なりの回収を急がせたりするような行為に発展しないように、我々役員以外の誰であろうと、当社が和議なり自己破産

なりの準備をしているという情報を漏らしてはならないということだった。最悪の場合には刑事事件になる可能性があるという。  ぼくたちは、社内にも社外にもそれが漏れないように努力した。しかしそれは非常に難しいことだった。金融機関からの質問に対して、社員からの質問に対して、いったいどう答えればいいのだろうか?  破産もしくは和議申請を検討していることを言えないとすれば、増資がうまくいっているとでも嘘をつけというのだろうか。給与をここ数カ月受け取っていない社員からの質問に、明日払うとでも嘘をつけというのか?  ぼくと森下はなるべく債権者などとのコンタクトを避ける以外なかった。  法律事務所に行った翌日から、毎日数回の取締役会を開くことになった。  いよいよ店じまいの準備である。いずれにせよ社員や外部に知られてはまずかった。  大内は、信頼できる彼女の部下といっしょに債権債務表の作成を始めた。幸い当社はナスダック公開のための監査を受けていたので、この作業はさほど時間のかかるものではなかった。すでに資料がしっかりあったのである。  森下、筒井それにぼくは、和議か自己破産かを検討していた。  和議に賛成なのは森下だった。とにかく彼は粘り強いのである。どんな状況であれ、可能性を追いかけるのである。一方、ぼくと筒井は自己破産が妥当だと考えていた。それは IMSがあったからだ。和議申請をしても、 IMS関連の支払いができなければ、サービスが停止してクライアントから損害賠償請求を受けることは明白だった。  当時 IMSは一〇〇近いサービスを動かしていた。その中には多額の広告宣伝費を使ったキャンペーンの受付も含まれている。これらから想像される損害額は相当のものとなり、和議申請後もどんどん債務が膨らんでいく可能性があった。  もし当社が二四時間サービスの事業をしていなければぼくも和議を検討しただろう。しかし、和議の方向で話を進めれば、実際に再建可能かどうかはともかく、おそらくいったんサービスを止めなければならない。そうなると、二四時間サービスを活用しているユーザーたちに迷惑がかかるのは目に見えていた。ならば、破産を申請して、事業そのものをどこかに買い取ってもらい、サービスを止めないですむ道を選んだ方が、まだ良心的なように思えたのである。  問題は、破産のための費用である。裁判所への予納金と弁護士事務所への報酬をあわせて一〇〇〇万円の現金が必要であった。破産するにも金が要るのである。このころの当社にとって一〇〇〇万円は非常に大きな金額だった。現金があるわけがない。広告代理店からの売り上げは銀行で止まってしまうからだ。  それに和議となればさらに一〇〇〇万円ぐらいの費用が必要だった。  ぼくは自己破産の道を選ぶことを決定した。あとはそのための現金を作るしかなかった。大内は、前もって代理店からの振込口座を当社に対する債権のない銀行に変更していた。大きな代理店ではこの口座の切り替えに時間がかかる。だから小さな代理店からの売り上げを集めることで、この破産費用に当てることができた。  一一月下旬は、破産費用の調達が役員たちの仕事の一〇〇%を占めていた。  最後には特許出願権を売却しようとも考えた。ぼくは当社の特許に一番関心を持っていたマイクロソフトに打診をした。古川会長に一回お会いして事情を説明したが、その後連絡はなかった。どうやら脈はなさそうだった。  日本興業銀行の担当者ともしばらくぶりに話した。お互いに疲れていて、むしろ落ち着いた話し合いだった。この担当者の話では、興銀の内部では、ぼくの個人保証をとったことが今ごろになって問題になっているという。個人保証があると会社が倒産したときに融資額を特別損失扱いにできない。そしてそのときぼくが逃亡したらどうするのか、ということだった。銀行は、もはやぼくが夜逃げすることまでを想定しているのだ。当然の話だろうが、さすがに悲しくなった。何があっても逃げません、そういうのが精一杯だった。  一一月二五日のことだったと思う。当社を最後まで応援してくれていた NEDの担当者から面会の約束が入った。当日集まったのは、 NEDの担当者、親会社の長銀の担当者、そして長銀出身の古川加ト吉取締役である。  古川取締役が口を開いた。話はこんな内容だった。ハイパーネットの債権者の中で一番総額の大きいのは長銀グループである。そこで、ハイパーネットが立ち行かなくなる前に、特許出願権やユーザーデータベースなどの資産を加ト吉に譲ってほしい――。「それはできません」  ぼくは余計な理屈や説明を一切しなかった。長銀グループが多額の債権を当社に対して持っているのは事実だったが、倒産がほぼ確定している状況で特定の債権者に資産を譲渡することは、法的にも道義的にもできなかった。それに加ト吉がここで出てくる理由がぼくにはよく飲み込めなかった。加ト吉の加藤会長には株式を一部買っていただいたし、加ト吉からは八月に一億円融資してもらった。それは非常に感謝すべきことだが、今回の話とは別の問題である。  古川取締役はもう一度同じことを繰り返した。  ぼくも繰り返した。「それはできません」  結局首を縦に振らないまま、彼らには引き取ってもらった。  その日の午後、長銀は当社の取引先に対して、売掛金の債権譲渡の通知を送った。  債権譲渡通知というのは、当社に対して銀行が債権を持っているが、それが回収できない可能性が高い場合、当社が取引先に対して持っている債権(つまり売り上げ)を当社へ支払わずにその銀行へ支払うように要請するものである。つまり長銀は、当社が倒産する可能性が非常に高いことを当社の取引先に知らせたわけだ。  ぼくたちにとっては死刑宣告にも等しかった。が、不思議と感情が湧き上がってこなかった。言うまでもない。もはやこの会社は死んだも同然だったからである。  ここで蛇足のような話を一つ。  九七年一〇月三一日。アスキーがネットワークサービスから撤退する旨が大きく報道された。当社のハイパーシステムを利用する「アスキー・インターネットフリーウェイ」を一二月二四日(偶然にも当社が東京地裁から破産宣告を受けた日である)に、有料の「アスキー・インターネットエクスチェンジ」を翌九八年一月二四日に、それぞれサービスを打ち切る――日経新聞にこう報じられているのを見て、ぼくは正直ほっとした。  彼らのほうから業務を停止してくれたからだ。前にも書いた通り、当社の支払いの中でアスキーに対するメディア料の比率が一番大きかったのだ。当社はすでに OEMをはじめとするライセンス事業にその方針を切り替えていたから、できればアスキーのプロバイダー事業は契約をやめたかった。それを向こうから止めてくれたのである。

 一二月一日、月末の売掛金の中から破産費用を調達することができた。  財務担当役員の大内が、取引先からの入金口座を借入れのない銀行に変更してくれていたのである。破産申請日は明日、一二月二日と決まった。  ぼくはこの時から会社へいくことを止めた。それは、先にも書いたように押し寄せる債権者に破産のことを口にはできないし、かといって嘘を言うわけにもいかなかったからだ。  ぼくは一人で都内をうろついていた。いろんな思い出が繰り返し頭をよぎった。人間が死ぬときに、思い出が走馬灯のように走るというが、このような感覚なんだろうか。  街並みと自分との間に大きな溝があるように感じた。ぼくだけが別次元の生き物で、透明なまま、街を歩いているようだった。仮にぼくがそこにいる人に話しかけても、返事が返ってこないように感じた。  一二月二日、会社にいる大内から電話が入った。  会社の電子ロックの外には大勢の、多分三〇人ぐらいの債権者や取引先、それに新聞記者が来ているという。しかし弁護士はまだ裁判所に申し立てをしていないので、張り紙ができない。  大内の報告では、外に立った連中はぼくや大内の名前を叫んでいるらしい。中には女子社員の胸倉をつかんで罵声をあびせるものも出たという。  ぼくは現実から目をそむけたい気持ちでいっぱいだった。これまでのぼくは常に自身が感じる恐怖から逃れるために、むしろ現実に正面から向き合ってきた。そうすることで恐怖を恐怖と感じなくなるし、現実的に前進することもできたからである。  しかし前進というモチベーションを失ったぼくにとって、現実から目をそむけることはむずかしくなかった。しばらくして弁護士が裁判所へ自己破産の申し立てをしたことを聞いた。社員が張り紙をした。債権者はそれぞれに破産者代理人の連絡先をメモにとり、帰っていった。  ぼくはもう当事者でなくなった。当事者の能力が無くなったのである。あとは裁判所と管財人の指示の通り作業をこなすだけだ。  ぼくの一五年間にわたる起業家人生の節目であった。  金融機関がこぞって当社への融資を開始して、その残高がピークを迎えたときから一年も経っていなかった。  森下は最後まで、増資や身売りの話を模索していた。  筒井はクライアントへの損害を最低限にするために必死でサービスの移管を進めていた。  大内はぎりぎりまで時間稼ぎのための作業をしていた。  西沢さんは例の大日本印刷の提携話がなくなってから役員を辞任して、それから会社には来ていなかった。  当社に人生の夢を感じていた一部の若き従業員は、失望を隠せないでいたが、それでも自己破産というプロジェクトでさえも結構真剣に取り組んでいた。技術部門の従業員は目の前のバグと最後まで戦っていた。営業部門の残った従業員は、会社の状況をクライアントに聞かれるたびに、適当にごまかしながら、それでも少ない受注を取っていた。  そして、ぼくは途方にくれていた。少し前の流行り歌のタイトルのように。  一九九七年一二月三日。日経新聞の夕刊の三面にこんな見出しの小さな記事が載った。『負債三七億円、ハイパーネット、自己破産を申請』

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