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[第 4章]転落1997年2月 ~ 10月

   おれはもしかしたら、経営者に向いていないのではないか?  社長という肩書きを持って一五年。ぼくは年が明けて以来、ときどきこんなことを思うようになった。あまりに多くのトラブルが続いていた。一つ一つには個別の原因があったが、それらを同時期に招いたのは、やはりぼくの経営責任だ。  この気持ちを強くしたのはハイパーシステムの値下げを行ったときだ。九七年一月のことである。このころハイパーシステムのユーザー数は二〇万人を超えていた。サービス開始からわずか六カ月。ちょっとした快挙だった。このサービスを利用したプロバイダーも最初のアスキーに加え、四社に増えていた。  二〇万人という数字を聞いて、ぼくは一つの決断を下した。値下げをしよう。  ハイパーシステムの広告の値段は、テレビや雑誌などマス広告の値段の付け方とは根本的に違う。テレビにしろ新聞にしろ雑誌にしろ、ほとんどの広告媒体はその対象者を媒体毎にしか特定できない。それに対してハイパーシステムは、ハイパーシステムという媒体の中からクライアントの希望する属性の人だけを抽出して広告できる。したがってクライアントの要求次第で各広告の対象人数は大きく変わってくる。何も条件をつけなければ二〇万人全員がその対象となるし、複雑な条件をいくつも加えていけば、理論的には対象を一人とすることだってあり得る。  そこで当社では、広告価格をマスで売るのではなく、一人当たりいくらで販売することにした。そこで九六年六月のサービス開始時に、当社はハイパーシステムの広告の値段を一人当たり四〇円というところからスタートした。この値段は当初の会員数二万人をもとにしたシミュレーションからはじき出した数字だ。  それが半年後、会員数は二〇万人と当初の一〇倍以上になっていた。これならばスケールメリットを十分得ることができる。ぼくはそう考え、販売促進を狙って、一人当たりの値段を二五円まで下げる決定をしたのである。  ところがこの決定を新聞紙上で発表したところ、当社の取引代理店ばかりではなく、ベンチャーキャピタルをはじめ主要な株主から反発や苦情が殺到したのだ。  これから成長するニュービジネスで、いま値下げとはどういうことか。雑誌などでも広告の値下げなど、よほどうまく行っていないときにしかしないぞ。ハイパーネット自体の金回りが悪くなっているというのに、一体何を考えているんだ――。  ぼくは反論した。この値下げは、雑誌などマス媒体で広告単価を値下げするのとは根本的に違っていたからだ。  まず当初二万人のときに一人当たり四〇円の値段設定だから、二万人全員に広告を送ろうとすれば、広告主が当社に払うのは二万 ×四〇円で八〇万円だ。それに対して現在の会員は二〇万人だから一人四〇円のままでは支払額は八〇〇万円と非常に高くなる。  これを一人二五円に値下げすると、広告主の支払額は五〇〇万円だ。たしかに四〇円の時に比べれば三〇〇万円低い。しかしマス媒体では合計金額が広告価格なのである。だから、開始時の合計八〇万円と比べれば、一人当たりの単価を値下げしようと、会員数の増加で自動的に四二〇万円の値上げがされているのと同じことになる。  ハイパーシステムの広告価格と雑誌の広告費を比べてみればもっとよく分かるはずだ。ハイパーシステムの一人当たりの広告価格は、雑誌でいえば一冊当たりの広告費にあたる。その雑誌の発行部数が、ハイパーシステムの会員数のようにどんどん増えたとする。そうすると、計算上一冊あたりの広告費は値下げされていることになる。すなわちこれがスケールメリットである。  この理屈が、なぜか周囲のほとんどの人に理解されなかった。  ショックだったのは、当社の大株主でぼくの恩人であるあの郡司さんでさえ、この値下げに対して苦情を言ってきた。もちろんぼくは先ほどのような説明をしたわけだが、彼はこう言った。「でもその論理は、ほとんどの人が理解できないでしょう」  ぼくは愕然とした。  なぜ理解されないのか。ハイパーシステムを知っている人であれば、ちゃんと説明すれば理解できると考えていた。ところがいくら説明してもわからないという。いや、実は、この本を書いている現在も、なぜ周りの人々がこのしくみをわからないと言ったのか不思議である。本当に説明できないのなら、こうして文章になどできないではないか。  でも、そのときぼくは思った。説明の内容が悪いんじゃない。おれが悪いんだ。  会社がつぶれた後に何人かにこんなことを言われたことがある。「板倉さんはさ、アイデアを最初に考え出して起業するまではいいんだよね。でも、起業したあとに組識を作って安定的に経営するのはあんまり向いていないんじゃないの。そもそも飽きっぽいし」  ベンチャー大国米国では、アイデアを出し起業するいわゆる「起業家」とその後実際に経営を行う「経営者」が別人であるケースは、珍しくない。要するにこの二つの仕事は性格がまったく異なるものなのだ。両方の資質を持っているならばともかく、片方だけの場合、どちらかの仕事に専念した方がよいに決まっている。  ぼくもそうなのかもしれない。アイデアを思いついて事業化するまでがぼくの仕事。そのあと実際に経営するのは、他の人間に任せればいいのかもしれない。  値下げの件は氷山の一角だった。ぼくが自分を経営者に向いていないのでは、と思ってしまう出来事はいくつもあった。  ニュービジネス大賞の受賞もそうだ。身内から「調子に乗るな」と批判を受けた。ぼくは単に会社の宣伝になればよいと思っていただけなのに。でも、周りはそう思っていなかった。「目立ちやがって」というわけである。これではフェラーリを買ったときと同じだ。  結局、つきつめればぼくが悪いのだ。社長としての自分のイメージコントロールをうまくできなかったのだ。それは個人の自由だ、と突っ張った時点で「社長失格」なのである。   OEMの開始についても社外はもちろん、社内からも方針がころころ変わると批判を受けた。そう、九七年に入ってから、ぼくの知らないうちに社内にぼくを批判する声が高まっていたようだった。ようだった、と書くのは、この時点で、ぼくがその事実を正確に把握していなかったからだ。  金策に走りまわり、海外事業の見直しや OEM化など新規事業を直接担当していたぼくは、一日の大半を外部の人間との交渉ごとでつぶしていた。幹部社員を除くと、社内スタッフと顔を合わせることは、ほとんどなくなっていた。  当時のハイパーネットの社員数は八〇人。スタート時の四人に比べれば、飛躍的に増えていたものの、この程度の人数ならば、経営者は各社員の動向を正確に把握しておかねばならなかった。しかし、忙しさにかまけて、ぼくはその努力を怠っていた。  過剰なまでの自信家だったぼくだったが、いまやその自信の一角が確実に崩れようとしていた。

ある夜のことだ。ぼくは当社の財務担当役員の森下と食事をすることになった。相談がある、というのである。  おそらく地位の問題だろう。彼が取締役という立場に不満を持っていることは知っていた。  ぼくたちの乗ったハイヤーは、渋谷から六本木通りを進み、青山学院のトンネルを抜けたところで左折した。静かな住宅街の曲がりくねった道を二回右折すると、小さな屋敷の前に着いた。仏料理を食べさせるこの店には個室がいくつかあり、飲みながら商談をするにはうってつけの場所だった。  ビールとグラスが運ばれて来る前に、森下はこんなことをしゃべりはじめた。「社長。ぼくを採用するときに何ていったか覚えてます?」  まったく記憶がない。  森下は続けた。「ナンバー2にするっていったんですよ」  細身のグラスに注がれたビールが来た。仏料理の前にビールを頼むのはあまり行儀のよいことじゃないが、今日は男二人だ。構わないだろう。「うーん、そんなこと言ったかなあ」  本当に記憶がなかった。「言ったんですよ、社長は。忘れちゃった?  もう、しょうがないなあ」  ビールをくいと飲み干してグラスをおいた。「ま、いいや。そんなことはどうでもいい」  彼はいった。「社長、ぼくね、もっと経営そのものをやってみたいんですよ」  オードブルがきた。寒い日だった。ビールを一杯で止め、赤ワインを頼んだ。  テーブル脇でワインをサーブするソムリエの仕事ぶりを見ているうちに、ぼくの心の中でもやもやしていた〝何か〟が言葉になって出てきた。「じゃあ社長をやるかい?」「え?  ぼくが、社長?」  森下は飲みかけたグラスを下げてぼくを見た。  ぼくはかまわず続けた。「社長をやるってのは、それ自体相当リスクがあるぜ。債務保証だって、場合によると個人でしょわなきゃいけないときもあるし。おれはもうそうしてるけどね」  ビールの残りを飲み干すと、ぼくは彼の言葉を待った。「いいんですか?  ぼくが社長をやっても」「ああ、いいよ。ほんとにやりたきゃ」  もし森下がただの世間知らずかもしくはビール一杯で正体をなくす酔っ払いならば、ぼくも酒の肴程度の話として受け止めただろう。  しかし森下は、世間知らずでもなければ酔っ払いでもなかった。いささかお人好しのところはあるにせよ、れっきとした当社の財務担当取締役だった。当社の財務状態はぼく以上によく知っていた。公認会計士の資格を持っていた。過去に自分で会社経営もしていた。その彼が「社長をやりたい」と言う。これは冗談ではない。  森下におれを上回る経営手腕があるのなら、社長の座をゆずってもいい。ぼくはワインの回り始めた頭の中でぼんやりそう思った。とにかく、ぼくが自分の地位にこだわることによってこの会社が駄目になるような目にはあいたくなかった。  この日、ぼくは明言を避けた。増資の成功も確信できる状況だった。でも、心の中ではもう決断していた。――社長交代をしよう。  九七年二月下旬のことだった。  そしてそれから四カ月後、ぼくの決断は実行されることになる。  九七年三月。半年前の計画ならば、いまごろナスダック公開を前に米国各地で株主相手の講演でもしているところだった。カリフォルニアにプール付きの家でも買っていたかもしれない。フェラーリから乗り換えて一台一億円のマクラーレン F1で首都高を飛ばしていたかもしれない。  現実はまったく逆だった。ナスダック公開は延期になったし、フェラーリも二月の末に売ってしまった。白金の家にはまだ住んでいたが、この先、月五〇万円の家賃が払えるのか不安になってきた。  でも、ぼくはまだ前向きだった。ハイパーシステム OEM化と韓国との海外提携、増資の成功、それになんと言っても基軸事業の IMSとハイパーシステム広告営業の増収があった。  ハイパーシステム OEMの開始を皮切りに、地方プロバイダーへのハイパーシステムのライセンス供与、韓国でのサムスングループとのジョイントベンチャー、ハイパーシステムの広告パッケージ販売。いずれも書面での契約や受注があり、前にも書いたように受注額は月あたり二億円に達していた。そしてこの改善を背景に六億円の増資に成功した。  ハイパーシステムという、それまでの基軸事業の IMSの規模をはるかに超える事業を開始して六カ月。確かに相当な額の初期投資をしてきたし、これまでに多くの問題が発生した。が、ここのところの業績の改善で月次の P/ L(損益計算)は、それまでのマイナスから、いよいよプラスに転じようとしていた。  ハイパーシステムを開始する前にはもちろん毎月プラスだったが、その利益を一時的に失ってもハイパーネットのジャンプアップのために、あえてハイパーシステムを事業化した。  そして当初の鼻息荒い事業計画からみれば業績は下回っていた。自信過剰の僕の理想からはかけ離れていた。しかしとにかく月次の P/ Lがプラスかもしくはゼロにたどり着けば、事業の存続は可能だ。そうなれば後は市場の拡大を待てばよい。ここまで六カ月。ナスダック公開は延期せざるを得なかったが、どうだろう、一般的に見たら決して悪い立ち上がりじゃない――。このとき、ぼくの中にはまだこんな楽観的な考えが残っていた。  住友銀行の態度の急変は気にかかっていたが、一方では住銀インベストメントが三〇〇〇万円の増資に応じてくれている。改善がこのまま進めば、再び良いほうに話が進むだろう。例の大型融資も現実化するにちがいない――、そう思っていたのだ。  さて、ちょうど増資が成功した三月初め。取引銀行から相次いでアポイントメントがあった。  最初に連絡してきたある銀行はこういってきた。 BIS規制の関係で貸出資産を圧縮しなければならないので、三月末の(銀行側の)決算をまたぐ間、〝いったん〟可能な額を返済してほしい。  次に連絡のあった別の銀行はこういってきた。御社に対する融資残高がだいぶ増えてきたので、この時点で信用確保のため〝いったん〟一〇日間ほどでいいから可能な限りの返済をしてほしい。

 他の銀行のせりふも基本は一緒であった。どこも狙い澄ましたようにほぼ同じ週に連絡してきて、三月末までに可能なかぎりの返済を〝いったん〟お願いしたい、と言ってきた。ちなみに住友銀行も同じようなことを要求してきた。  前にも書いたが、当社への銀行からの融資はすべて短期融資である。しかも無担保で、当社の株式のみを資産として所有しているぼくの個人保証によるものだった。  ほぼ三カ月ぐらいの短期融資を期限がくると形式上いったん返済し、当日中に再び同額の融資をしてもらう。このロールオーバーという手法でハイパーネットでは融資を継続してきたのである。  今回の銀行の申し入れは、これまでのような同日の形式的な融資返済ではなく、三月を過ぎるまでの間、実際に返済してほしいというものだった。そして四月中に再度同額もしくは増額の融資をする、というのである。  なるほどそういうことか。ぼくはさほど悩まずに結論を出した。  今回の銀行の要求に答えて、融資の一部をいったん返済をする。そのときぼくが負うリスクは、そのまま折り返しの融資を得られずに資金繰りが破綻する可能性だ。けれどもそれはまずない。ぼくはそう考えた。銀行の担当者を盲目的に信じているからではない。そんなことをしたら、銀行は、融資した資金の一部を引き上げただけで残りが回収できなくなってしまう。それでは元も子もない、と判断したのである。  当社は財務資料をディスクローズしていた。当然、どの銀行も内容をチェックしている。資金の一部を引き上げたままにして折り返し融資をしなければ、資金繰りが破綻して倒産してしまうことは、彼ら銀行もよくわかっているはずだった。  ただし最悪のシナリオが現実化する可能性がひとつある。各行の融資残高の大部分をもし当社が返してしまった場合だ。この会社は業績が悪いから、可能な限り融資を引き上げ、残りの融資は捨ててしまえ、と考えるケースがあり得る。  そこでぼくは大まかな計算をした。基本的に各行の融資残高の三〇%ぐらいをいったん返済する限度額とすればいい。  その結果、九七年三月時点で、住友銀行をふくむ当社の複数の取引銀行に当社がいったん返済した額は、増資で調達した六億円を超えていた。  ただ、九七年一月時点で当社が七つの銀行から借りていたのはおよそ二〇億円。だから六億円以上をいったん返したといっても、各銀行の融資残高の三〇%を超える額は返済していなかった。いずれにせよ当社の借入れ残高は九七年二月時点で二〇億円を超えていたのが、四月には一三億円強までとりあえず圧縮されたのである。  とにかく、ぼくはこの返済をあくまで「いったん」と理解していた。  たとえば住友銀行の場合、折り返し融資について具体的な方法が提示されていた。同行からの融資は最盛期で八億円(このうちの三億円は預金担保だったので、残り五億円の無担保融資とは性格が違うが)あったが、九七年三月上旬の時点で融資総額は二億五〇〇〇万円に減少していた。というのも同行と当社の間にはいったん返済とは別に月々五〇〇〇万円の約定返済があったからである。  三月上旬に今回の「いったん返済」の件で国重さんに会ったとき、彼は「四月に元々あった五億円まで融資残高を戻す」とぼくに約束してくれていた。  二月の調査部の件で明らかに態度の変化した住友銀行であったが、それでもこの時点で依然当社のメインバンクであることに変わりはない。うちの資金繰りを圧迫するようなことだけはまずしないだろう。ぼくはそう安易に考えていたのである。もっとも、この約束はぼくだけが聞いたわけではない。当社の財務スタッフも、住友銀行から直接この約束を担当者レベルで聞いて報告していた。  甘かった。  それは三月も下旬のことだった。  ぼくは新しく始めたハイパーシステム OEMの成果の報告と以前から話の上がっていた住友銀行と提携予定のサービスについて話すため、国重さんを訪問した。  このビルのこの部屋にいったい何度通ったことだろう。ぼくは支店長室の応接で待っていた。  一〇分後、国重さんが忙しそうに部屋に入ってきた。「どうもおせわになります」  いつものように挨拶をして話しはじめようとすると、国重さんが慌ただしく切り出した。「あのね、板倉くん。あの融資の話、だめなんだ」  ぼくは彼が口にした言葉の意味がすぐには理解できなかった。一瞬、二カ月前の五〇億円融資のことをいっているのかとも思った。そんなはずはない。そもそもあれは調査部が OKを出さない限り進まない話だ。  ということは、え、うちへの融資額を四月には五億円に戻すって話してた、ついこの前話してた、こっちの融資のことか?  呆然としているぼくにかまわず、彼は話を続けた。「こちらは支店の分を全部返したと思っていたんだよね。だけど実際は本店分と両方を返して二億五〇〇〇万円になったんだよね。だから無理なんだ」「はあ、というのはどういうことで……」  彼は何を言っているんだ。ぼくはますます分からなくなった。「うーん、だからね……」  国重さんは説明を始めた。  住友の最初の二億五〇〇〇万円の融資は九五年一一月、次の二億五〇〇〇万円の融資は九六年三月であった。そしてこの二つの融資は、それぞれ支店での決済と本店での決済というぐあいに出所が異なっていた。  その後住友には毎月五〇〇〇万円ずつ返済していたから、残高が二億五〇〇〇万円になった時点で、国重さんは支店もしくは本店どちらか片方の融資決済分を完済したと思っていたというのだ。  たとえば支店での決済分がこれで完済していれば、もともと支店における融資枠の二億五〇〇〇万円を新たに追加でき、結果として当初のように融資残高を五億円に戻すことができる。ところがここまで返済した二億五〇〇〇万円は、どういう比率か分からないがとにかく本店と支店それぞれに振り分けられていたというのだ。このため、本店と支店を個別に見る限りいまだに返済額は二億五〇〇〇万円に達しておらず、結果その額の折り返し融資は無理、という理屈である。「はあ」  理屈はよく分かる。だが、それは銀行の組識の中の理屈だ。当社にしてみれば、本店と支店の決済がどちらだろうと知ったことではない。いわれた通り、この五ヵ月間で〝いったん〟二億五〇〇〇万円返済したのだ。なのにこの発言は……。  思わず、「それはおたくの中での話でうちには関係ない話じゃないですか」と、喉元まででかかった。が、ここで水掛け論をしたところで全く得るものがない。アイデアマンの国重さんだ。きっと何か対案を考えているのだろう。「で?」

 ぼくは次の国重さんの言葉に期待した。「まいったなあ」  彼は目をちょっとそらしてこういうと、黙ってしまった。  まいった?  それだけか?  もはや OEMの話どころではなかった。しかも、あからさまに困り果てた顔をしていたであろうぼくに、しばらく黙っていた国重さんは、突然こんなことを言い出したのだ。「彼だったら IMS事業を三億円ぐらいで買ってくれるんじゃないかなあ?」 「?」「ただ、板倉くんの持っている株を全部担保に入れるという形が必要だと思うけどね」  もはや言葉が出なかった。  彼?  世間でも名の通った有名起業家の名を突然彼は口にした。エンタテインメント系の流通サービス業を手がけるこの人には、ぼくも何度かお会いしている。たしか住友銀行がメインバンクだ。それにしても、なぜここで彼の名が出てくるんだ?  おそらくぼくはとんでもない目つきで国重さんを見ていたのに違いない。国重さんの表情でそれが分かった。でもこちらの動揺を、憤怒を、いま悟られてはいけない。おれは社長なのだ。ハイパーネットの経営者としてこの場を何とか解決しなければならないのだ。「それ、どういうことですか?」  ぼくは平然を装い、まずは話を聞く事にした。「確認したわけじゃないんだけど、きっと彼だったら支援してくれると思うということだよ」  支援?  なんだそれは。そんなことを頼んだ覚えはないぞ。  一瞬、ぼくの中で何かが切れた。眉間に皺が寄った。こめかみの動脈がひくついているのが分かった。喉の奥から込み上げてくるものがあった。  次の瞬間、ぼくは理性を取り戻した。まずい。ここで怒鳴ってはまずい。「ふーん。……そうですか」  とにかく考えるふりをした。とにかく今日のところは引き上げよう。こちらに次の一手はなかった。「少し考えてみます。とにかく融資の話はまったく駄目なんですね」「うん、そうだね」「わかりました」  もう一度頼んでみるにしてもすがってみるにしても、一度頭を冷やすべきだった。「それじゃとりあえず今日はこの辺で」  そっけなくそう言うと、ぼくは住友銀行をあとにした。  この日を最後に、国重さんと直接会うことは二度となかった。  ハイヤーの中で、ぼくは拳を握り締め、じっと前をにらんでいた。  こいつは大変なことになった。  ぼくは、ここではじめてハイパーネットの危険を感じた。このままではつぶれる。住友銀行はメインバンクだ。そこがもう貸せない、といっているのだ。放っておけば資金繰りが頓挫する。そうなったら短期融資でつないでいるこの会社はおしまいだ。  倒産。ぼくの頭の中でこの二文字が浮かび上がった。  三宅坂を抜けて赤坂見附の陸橋を渡るところで、ハイヤーは渋滞に巻き込まれ、前に進まなくなった。ぼくは右手のお堀端の水面をぼんやり眺めた。気持ちがまとまらなかった。裏切られた。悔しい。そして不安。脳みそが細かく振動して、目の前の景色と思考の輪郭がぼやけた。  いつのまにか渋谷のオフィスに到着していた。運転手の小野さんが声をかけてくれなかったら、気がつかなかったかもしれない。  エレベーターの中で社長の顔を取り戻したぼくは、財務部門へ直行した。「と、いうわけだ。住友の融資は期待できない」  ぼくは財務スタッフに率直に話した。  彼らも頭を抱えた。一番頼りになるはずのメインバンクがもう貸せないというのである。  それでも、スタッフたちと個別の支払案件のチェックをしたり財務諸表をひっくり返して調べた結果、一部の支払いを遅らせたり米国での事業展開を一時中断したりすれば、とりあえず当座は何とか切り抜けられそうだった。  ただし、それはある条件をクリアすれば、の話であった。すなわち残りの取引銀行六行がいったん返済した資金を再融資してくれることだ。そうすれば住友から引っ張ってくる予定の二億五〇〇〇万円分くらいは補填できるはずだ。  翌日から、財務スタッフの連中は、ほかの銀行へ折り返し融資の確認に走った。  見込み違いもはなはだしかった。  最初に訪れたある銀行で、うちの財務スタッフはこうあしらわれた。「冗談じゃない。おたくのメインバンク、住友さんでしょう。その住友が折り返しできないっていっているのに、なぜうちができると思うんですか。そんな融資、社内審査を通しようがないです」  残りの五銀行の反応も基本的に同じだった。住友銀行が貸出残高を上げない限り折り返し融資はできないと返答してきたのである。  もはやスタッフ任せにしておく場合ではなかった。社長自ら説明する必要がある。ぼくは財務スタッフと一緒に各銀行の担当者を説得することにした。別の銀行の融資担当が来社したとき、ぼくはこんな具合に説得しようと試みた。「この前の増資のときに、実は住友さんはちゃんと出資してくれてるんです」「え、でも出資者のリストには住友銀行の名前はないじゃないですか」「いや、そうじゃないんです。うちの増資のスケジュールが忙しかったから、住友銀行本体で決済する時間がなかったんです。で、代わりに系列の住銀インベストメントから増資をしているわけです。ほら、確かに三〇〇〇万円出しているでしょう」  銀行の担当者は顔を上げた。「板倉さん」、あきれた表情で、彼は口を開いた。

「それじゃあ話になりませんよ」「え?」「住友銀行は自分の代わりに系列のベンチャーキャピタルにカネを出させているわけでしょう。ということは、むしろ住友銀行自身が御社から逃げようとしている証拠じゃないですか」  なんということだ。住銀インベストメントからの増資があだになってしまうとこの銀行の担当者は言うのだ。メインバンクなのに増資総額六億円中たった三〇〇〇万円しか出していない。しかも自分で出さずに系列ベンチャーキャピタルに出させる。これは後ろ向きのなによりの証明だ、というのが彼らの解釈のようだった。  ぼくは反論すべく、まくしたてた。「そんな事ないでしょう。だって実際にお金を投資しているわけだし、それにハイパーシステムの広告枠も新たに買ってくれたんですよ。それに OEMの話……」  そこで話の腰が折られた。「その程度じゃ、住友銀行が前向きだってことにはなりませんよ。板倉さん、もうちょっと考えなきゃ」「いや、でも」「あのね、板倉さん。融資というのはメインバンクがきっちりしているからこそ、出せるんですよ。おたくみたいにメインの住友さんがぐらついているのに、他の銀行がほいほいお金を出せるわけないじゃないですか」  何を言っても無駄だった。けんもほろろというのはこういうことを言うのだろう。  ぼくはこのとき初めて、当社が簡単に銀行から資金調達ができた理由がわかった。住友銀行がメインでいるから他行もカネを貸してくれたのである。他の六行にとって住友銀行という大銀行が融資していることが、当社の財務内容や事業内容以上に重要な〝保険〟だったのだ。  住友の新規融資は期待できない。他行もあてにならない。このままで行けば倒産まで一直線だ。それを避けるには、 OEM化に続く劇的な事業転換をするしかない。  米国のビジネスの完全撤退、アスキーに支払うメディア料の変更、公開プロジェクトの一時停止……、とにかくありとあらゆる経費を削減するしかなかった。さもなければ、明日にでも会社は消滅してしまうのだ。  その後、四月の半ばだったと思うが、国重さんが日本橋支店から本店へ異動したという話を聞いた。  さらにその後については、ぼくは知らない。  なぜ、このとき銀行の態度がいっせいに変化し、融資を引き上げ始めたのか。  当時のぼくの理解では、メインバンクの住友銀行が手を引いたのが直接的な原因だと思っていた。が、現在、当時の銀行業界の事情を振り返ると、もう少し複雑な事情があったようだ。  銀行の自己資本比率という言葉をご存知だろう。貸出金や有価証券といった総資産に対して、資本金や資本準備金などの自己資本がどの程度あるのかを示す比率のことである。一般に、この比率が高いほど銀行の経営は健全とされる。国際決済銀行( BIS)基準では、株式などの含み益の一部も自己資本とみなされている。  そしてこの九七年から、日本の銀行の間で、自己資本比率の低さが問題となっていた。ビッグバンに伴う市場開放の動きの中、自己資本が相対的に少ない日本の多くの銀行は体力的にも生き残っていけないだろうというのである。  そこで、「早期是正措置」という制度がこの年クローズアップされた。この制度は金融システムの健全性を確保するため、銀行に一定比率以上の自己資本比率を義務付けるものだ。達成できない銀行は大蔵省から業務改善の指導を受け、最悪の場合、業務停止命令を受けるという。実際にスタートしたのは九八年四月からだが、すぐに対応できるわけではないから、九七年時点で各銀行は、自己資本比率の向上にやっきになっていた。  とはいうものの、不況の中、自己資本比率算定の割り算の「分子」になる自己資本を増資などで拡充するのは至難の業だ。そのため、銀行は「分母」の総資産、とりわけ貸出債権を圧縮しようと必死になったわけである。  そう、これが貸し渋りの正体だ。そしてぼくのところから銀行がみな逃げ出し始めた根本的な原因なのだろう。住友の撤退は、いわばその引き金となったわけだ。  思えば九五年のベンチャーブームに伴う銀行の無担保融資攻勢が、ハイパーネットの資金的な下支えとなった。それが今度は自己資本比率改善に伴う貸し渋りの波を受け、かきあつめたカネがいっせいに引こうとしている。なんてことはない。ハイパーネットは、九〇年代中後期の日本の金融システムの「改革」によって舞台に上がり、そして次の「改革」によって引きずり下ろされようとしているのだ。  無論、こんな分析は、いま、当時の新聞や雑誌を読み直したからできるのである。九七年春の時点で、「自己資本比率」も「貸し渋り」もぼくの頭にはなかった。とにかく、逃げ出したカネをもう一度集めようと必死だった。  九七年四月。明らかにハイパーネットは、おかしくなっていた。  そんなとき社内で、クーデター未遂が起きた。首謀者はぼくの知人であった。  当時、海外事業の強化を図っていた当社では、それまで営業統括と海外戦略を兼任していた夏野を海外戦略に専任させることにした。となると、国内営業の責任者を新たに据える必要がある。  社内に適当な人材がいないと踏んだぼくは、古くからの知人を外から呼び寄せ、このポジションに座ってもらった。一月のことだ。彼――仮に Aとしておこう――は、ところが入社して二カ月後、ぼくになんの相談もなくいきなりある取引銀行の支店長に会いに行った。  ぼくの得た情報では、彼は支店長にこういったらしい。このままでは板倉が会社を駄目にするから、銀行からの圧力で板倉をはずし、代わりに夏野をメインに据えて経営を立て直すべきだ。  ぼくは非常にショックを受けた。  ぼくの悪口を言ったからではない。文句があればどんどん言えばよい。問題は入社わずか二カ月、経営的な責任は何一つもっておらず、取締役でもなければ株主でもなく、財務状況も理解していないし、金融機関との関係についてもまったく知らない人間が、外部のそれも取引銀行支店長のところに単身押しかけてぼくの批判をしたことである。  この支店長もさすがにこんな話を真には受けてはいなかったようだ。が、とにかく Aのしたことは当社が資金繰りのみならず社内の士気についても問題があると、この銀行に思わせただけだった。  しかし、ぼくにはこの話でもっと驚いたことがあった。ぼくはこの話を後日、夏野から聞くことになったのだが、 Aが支店長に会いに行こうとしていたことを、夏野が知っていたらしいのだ。

 夏野は取締役副社長である。財務内容から取引関係までかなりの部分を知っている夏野自身が、この支店長に対してこのような話をするのであれば話は別である。基本的に問題はない。しかし今回夏野は、 Aという何の権限も持っていない一社員が勝手に銀行支店長に会いにいったことを、ぼくにしばらくの間報告しなかった。  社員たちになんの目配りもできていない。ぼくはその事実に気がついた。この四カ月、ぼくは目先の資金繰りと業績ばかりを気にしていた。社員とのコミュニケーションはおそろしく減っていた。役員達と仕事上のつきあいはあったが、彼らが何を考えているかまでは気が回らなかった。  後日、夏野が吐いた言葉にそれが現れていた。九六年の終わりごろから、自分は頼りにされていないと感じていたという。配慮が足りなかった。実際には、ぼくは彼を大いに頼りにしていた。にもかかわらずそう思われていたのである。  クーデターの真相はよく分からなかった。あえて追求しなかった、といった方が正確だろう。ただしこの件で Aを中心に裏でうごめていた二人ほどの社員は割り出した。個別に呼び出し、彼らの話を聞いた。中にはハイパーネット創立以来のスタッフもいた。  ぼくは愚かだった。ヒトは企業の最大の財産だ。特にうちのような中小企業にとっては、最後はカネじゃない、ヒトだ。でも、ぼくは資金繰りに追われて、その基本を忘れていた。  それでも組織は維持しなければならない。たとえ些末な出来事だろうと、クーデターはクーデターだ。何より当人達がそれを認めていた。  事件発覚から一週間、ぼくはクーデター関係者全員を解雇した。つらい仕事だった。  九七年四月。銀行から新たに資金調達できる見通しはほぼ無くなった。社内の足並みも揃わない。  今だからいえるが、ベンチャービジネス「ハイパーネット」は、この時点でほぼその命脈を絶たれていた。  米国の企業ならば、このときのハイパーネットのような状況に陥ると、事業もしくは会社そのものを手放す旨を市場に公表し、買い手を探す。買収先が見つかれば、人員のリストラなどの痛みはあるにせよ、事業はなんらかの形で継続されることになる。経営者はもちろん一から出直しだが、少なくとも経営破綻という最悪の事態は避けられる。  実はこの当時、ぼくもこれ以上資金調達がうまくいかないようならば、いったん会社を身売りしようと考えるようになっていた。ただ米国と違って、日本には、危機に陥った企業が自らの事業を「身売り」できるような公的な場がない。ぼくは、ハイパーネットに価値を見出し、会社ごと救ってくれるような企業を個人的に探し始めた。  三月中旬のことだ。森下が有力な人物を引っ張ってきた。かつて山一証券で法人営業部長だった西沢憲史郎さんである。彼は証券業界を渡り歩いたのち、投資コンサルティング会社を経営していた。とにかく非常に多くの実業家とのネットワークを持っていた。ぼくは初対面の西沢さんに当社の概要をプレゼンすることになった。  最初に会ったのは、各銀行に短期融資をいったん返済した直後のことだった。西沢さんはこざっぱりとしたスーツを着ていた。五〇歳。丸顔で浅黒い肌をしていた。趣味はクルーザーに乗っての海釣りだそうだ。  森下くんからすでに当社の財務状況などについて説明を受けている、と西沢さんは言った。ぼくはハイパーネットのビジネス・プランや将来性などについて話をした。もちろん二月からの増資、その後の銀行からの短期融資の返済要請についても、詳しく説明した。  話を聞き終わると、西沢さんが口を開いた。「銀行に頼って、融資額ばかり増やしていては駄目だ」  これこそぼくの待っていた言葉だ。これを言ってくれるひとを探していたんだ。「直接金融だよ。投資家を探すのさ。とにかくおれが何とかしよう」  彼の意見は、ぼくと基本的に同じだった。ベンチャーは融資に頼らず、投資家をつのるべきだ。元大手証券会社出身だけに、言うことに説得力があった。  ぼくは彼を信用することに決めた。その日以来、ぼくは西沢さんと一週間の間に数回会議を開いた。当社を評価し融資してくれる会社を西沢さんに見つけてもらうためには、まず西沢さん自身に当社を理解してもらう必要があった。会議はそのためのレクチャーである。  レクチャーが終わって数日後。出会ってから一〇日もたっていなかったはずだ。西沢さんから連絡が入った。「大物とコンタクトがとれた。それで相談がある」  二時間後、彼はぼくのオフィスにいた。「板倉さん。あなた、この会社の株をずいぶん持っているよな。だいたいどのくらいだ」  西沢さんは意外なことを聞いてきた。ややとまどいながらぼくは答えた。「ええっとほぼ六〇%です。それがなにか?」「うん、それならいい。じゃあ、あなたのその株の一部を第三者に譲渡しよう」「それで、どうするんですか」「その第三者に株主になってもらう。これでまず資金調達ができる。それだけじゃない。その後も支援を受られるはずだ」  なるほど。最後にぼくは聞いた。「その第三者って、誰ですか」  加ト吉の加藤義和会長。西沢さんはそう言った。  確かに大物だ。それにしても、なぜ畑違いの食品会社の大手が当社に興味を示すのだろう。不思議に思ったが、西沢さんの説明を受けて疑問は氷解した。加藤会長はベンチャービジネスの育成にいたく関心を持っていたのである。ベンチャーキャピタルの大株主でもあり、他の企業の再建のためにも動いていた。  ぼくは、西沢さんの提案を二つ返事で受け入れた。思ったよりもあっさり支援先が見つかりそうだった。九七年三月三一日、ぼくは西沢さん経由で加藤会長にぼくの株式の一部を譲渡し、その結果得た資金をすべて当社に入れた。そして、年度が変わった九七年四月、ぼくは都内のホテルで加藤会長に会うことになった。会議の目的は、もちろん今後の資金援助について。出席者は、加藤会長のほか、日本長期信用銀行出身の古川令治取締役、西沢さん、そして森下とぼくである。  挨拶もそこそこに、ぼくはハイパーネットの説明をはじめた。相手は御高齢でしかも畑違いの方だ。ぼくはゆっくり、そして丁寧に解説した。ハイパーシステムがインターネットを使ったいわば広告媒体のようなものであること、画面に広告を常に表示することでインターネットの接続料を無料にする事ができること、会員数はアスキーがプロバイダーをやっている東京だけで二〇万人以上いること、サービスは当社のオリジナルであり、日本と米国で特許を申請中であること、今後アジアをはじめ世界にサービスを展開する予定であること、現在資金面で大変苦境に陥っていること。  最後にぼくは、株式譲渡の礼を述べたうえで、資金の援助を願いした。その後加藤会長からいくつかの簡単な質問を受けた。会見は終わった。  会長が退席した後、残された四人で引き続き軽いミーティングをした。古川取締役は、もう心配はいらないだろうといった意味合いのことを口にした。

彼の言葉は確信に満ちているように、ぼくには聞こえた。  しかし、ここでぼくはうっかりこんなことを口にしてしまった。「もし第三者の意見が必要だったら、うちの取引銀行に聞いてください」、と。  長銀の出身である古川取締役は、我々と別れてすぐに当社の取引銀行にヒアリングを入れた。数日後、西沢さんがぼくのオフィスにやってきて言った。「板倉くん、だめだよ」。古川取締役に対して、うちの取引銀行は、「ハイパーネットは最悪の融資先」と発言したらしいのである。それが事実かどうかは確かめようがないが、古川取締役が当社に対してもはや良い印象を持っていないのはまぎれもない事実だった。  ぼくは銀行に連絡を入れた。向こうの話では、あくまでハイパーネットのような会社の場合はリスクがつきものだから融資に対する出資の比率を上げるべきと古川取締役にアドバイスしただけ、ということだった。  西沢さん経由の話と銀行側の談話に伝言ゲームのような微妙なずれがある。情報がストレートに伝わっていない。いずれにせよ、加ト吉からの資金援助は難しくなった。  ぼくがアプローチしていたのは加ト吉だけではなかった。  ミロク情報サービス(現在東証二部、当時店頭登録)にも、話を持ち掛けた。同社の是枝伸彦会長兼社長(以後会長)とは面識があった。息子で取締役の周樹氏とはすでに書いた通り、九五年一一月にラスベガスで開かれたコムデックスに一緒に行った仲である。  九七年四月一一日。四谷のホテルの一室で、ぼくは当社の社長室長同席のもと、是枝会長と周樹氏に会った。  ぼくは率直に現状を語った。「いま資金繰りに困っています。必要資金はおよそ六億円です。その援助をお願いしたいんです」  説明は延々と続いた。皆黙って聞いていた。 IMSが軌道に乗った事、そのときハイパーシステムを開始した事、銀行から二〇億円にも上る借り入れをした事、韓国でのサムソングループとの提携の事、ビル・ゲイツ・マイクロソフト会長に会った事、ハイパーシステムの事業が計画を下回っている事、それでも海外を中心にハイパーシステム OEM事業の将来が明るい事、増資が成功した事、いったん返済という銀行の言葉通り返済をしてしまった事。挙句の果てに資金繰りに困っている事――、すべてを話した。  一時間ぐらいだったろうか、もしかしたら二時間以上たっていたかもしれない。「こんなところです。とにかく財務部分が弱かったということです」「なるほど、駄目だねえ。もっとシビアにやらなくちゃ」、是枝会長は言った。「はい、確かにおっしゃるとおりです」「ところで、数字は持っているの?」「はい、これが B/ Sで、これがキャッシュフローで……」  ぼくは数字の説明を始めた。しばらくして、是枝会長が何か考えている事に気づいた。「何か?」「それじゃこうしようか。まず、ぼくがおたくの財務部長になり、銀行の相手をする。足りない資金はぼくがミロクの株を担保に銀行から借りる。その代わり、板倉君の株を譲渡してもらい、二番目のシェアをぼくが持つ」「はい」「それができれば、何とかしよう」「ありがとうございます」  ぼくは深々と頭を下げた。とにかくお礼を言いたかった。これから二部上場を控えているというのに、当社の実質上の財務担当をやってくれるという。つまり、銀行からの返済圧力に対して、是枝会長みずから交渉をしてくれるというのだ。  話としては、実質的にミロクの傘下に入ることになる。ぼくの望んでいた解決方法の一つである。これで当社が救わるのであれば、ぼくとしては満足だった。自分の事業はまた新しく始めればよい。  ただ、ぼくはすぐに返事するのをためらった。気になることがあったからだ。まず、当社の設立当初から世話になった郡司さんを差し置いて、是枝さんを二番目のシェアを持つ株主にして良いものかどうかという点。郡司さんも人助けで投資しているわけではない。  もう一つは、ミロク情報サービスの株式を担保に銀行から足りない資金を借り入れるという点だった。ぼくの財務面での失敗は、銀行からの融資といういわば間接金融に頼り切ってしまったことにある。その失敗の解決にミロクの力を借りるとはいえ再び間接金融に頼るのははたしていいのだろうか、そんな疑問が残った。  なにより並行して、西沢さんを介して加ト吉からの援助話が進んでいた。経営者としての自信が揺らぎかけていたぼくは、自分のコネクションよりも大手証券出身の西沢さんのそれの方が力があるのでは、とどこかで思っていた。  結局その日は、返事は後日にいたします、と是枝会長に挨拶するに止めた。締役会を開く必要があったし、郡司さんにも話をしなければならなかった。翌日緊急に開いた取締役会の結果は「保留」であった。役員から反対の声が強かったのではない。ぼくの躊躇している気持ちが周囲に伝わったのである。  ぼくは、是枝会長に連絡を入れ、支援の話を丁重に断った。  こちらからアプローチしたのに、なぜ断ったのか。要するに是枝会長のありがたい話よりも西沢さんのコネクションを優先しようとこのときぼくは考えてしまったのだ。この頃、西沢さんから、資金集めに関してずいぶんと勇ましい話も聞かされていた。そこで迷いが生じたのだろう。今にしてみれば、愚かな選択だった。前述の通り、加ト吉の融資話は頓挫してしまったのだから。  さて、ぼくが加ト吉からの融資の話をぶち壊し、ミロクの申し出を断った後、西沢さんは別の話を持ってきた。当社の発行する社債をファイナンス会社に引き受けてもらうというのだ。彼は食品商社大手、東食の系列会社、東食ファイナンスを連れてきた。金融業界における西沢さんの人脈は、門外漢のぼくらには想像もつかないほど広いようだった。  五月、西沢さんに根回しをしてもらった後、ぼくと森下は実際に東食ファイナンスのファイナンス担当部長を訪問した。先方のオフィスでは、すでに西沢さんが待っていた。  ぼくは、ハイパーシステムのプレゼンをした。東食ファイナンスの部長は思いのほかハイパーシステムに対する理解があった。特に顧客データベースを当社が所有するという点について非常に興味を持っていた。これには驚いた。ファイナンスを担当している、いわば銀行の審査部にあたる部長がハイパーシステムの心臓であるデータベースの重要性を理解できるとは思わなかったからだ。  プレゼンが終わると、西沢さんは、いきなり社債に関する契約書を持ち出した。(えっ、もう契約書?)

 これから審査を始めるだろうから最終決定は先の話。そう思っていた。やけに話が早い。ぼくにかまわず、西沢さんと東食ファイナンスの部長はさっさと話を進める。二人の間の事前協議でアウトラインは決まっていたようだ。「それじゃあ、返還期限は一〇月五日でいいですかねえ?  ちょうど五カ月ですし」「ええ、それで良いと思います」  ぼくはうなずいた。もちろん五カ月の間に資金繰りが完全によくなるわけがない。けれども、ロールオーバーだってできるし、こんなに簡単に社債発行できるならば、他からもわりと容易に資金調達が可能なような気がした。  ぼくは西沢さんの指示で、普段は持ち歩かない代表印を持っていた。用紙にサインし、印をついた。これで三億円の「私募債」を引き受けてもらえた。実にあっけなかった。  一カ月後の六月には、さらに二億円の社債を東食ファイナンスに引き受けてもらった。これで当社は、銀行に短期融資を返済して減ってしまったキャッシュポジションをほぼ以前の水準まで戻すことができた。  とはいっても、東食ファイナンスの社債の償還期限は五カ月後の九七年一〇月である。ロールオーバーは可能だと西沢さんから説明されてはいたが、要はただの時間稼ぎだ。その間に次の資金調達をしなければならないし、同時に新しい事業計画のもと、きっちり売り上げを上げなければならない。楽観できる状態では、依然なかった。  それでもとりあえず、直面している危機からは一時的にとはいえ脱出できた。  こんな具合に、支援先探しに右往左往している一方、ぼくと森下は新しい再建計画を携え、各銀行の間を走り回まわっていた。折り返し融資が期待できないのは承知していたが、現在の融資残高を維持するための業績説明である。五月頃の話だ。  しかし、再建計画にきちんと目を通してくれる銀行担当者は一人もいなかった。それどころか、残りの融資した分もすべて早急に返済しろと各銀行ともいっせいに圧力をかけてきたのである。  ある銀行の担当者はこんなことをいった。「御社は話ばかりでぜんぜん現実になりませんからねえ。とにかく予定通り進んでないんですから、まず返済することを考えてください」  ほんの一カ月前、どの取引銀行も、当社に「いったん」返済を要請し、その一方で再融資の口約束をした。ところが、今度は残りの融資残高すべての返済を求めてきた。その理由を挙げるかのように、彼らは、当社のぼろを容赦なくつつき始めた。  システムがバグだらけであることを、銀行にさっさとレポートしなかったこと。ナスダック公開を延期したことを銀行に相談しなかったこと。役員のだれそれの発言が気に入らないこと。そしてもちろん売り上げが計画を下回っていること――。  ハイパーネットは銀行に完全に見限られたようだった。金融機関に頼るすべはなかった。  もはや打てる手は、有力企業に支援してもらうしかなかった。でなければ残されたのは破滅への道だけである。ただ、加ト吉にせよ、ミロク情報サービスにせよ、あと一歩のところで、本格的な支援にはつながらなかった。ぼくの経営者としての判断ミスが原因だった。東食ファイナンスへの社債発行で当座は多少しのげるものの、あくまで一〇月までの期限付きである。  ぼくはソロモンブラザーズの黒部さんに電話をした。ナスダック公開計画に一番かかわっている会社だ。何かよい知恵を授けてくれるかもしれない。 「……というわけで、まあご存知だとは思いますが、資金難です」  ぼくは黒部さんに現在の当社の状況を率直に説明した。「そこでお願いがあります。海外から外資系企業の融資や投資をなんとか引っ張ってこれないでしょうか?」  黒部さんはこう返してきた。「板倉さん、ソフトバンクはどうでしょうね?」  ソフトバンク?  意外な名前が突然登場した。「黒部さん、知ってるんですか?」「いや、あくまで知り合いを通じてですが。一応トップの孫正義さんにコンタクトをとることはできます」黒部さんは言った。  孫氏がらつ腕を振るうソフトバンクに援助してもらえるならばいうことはない。そのまま買収合併される可能性もあったが、このときのぼくにとっては、むしろそうしてもらえれば、これほどありがたいことはなかった。「お願いします」ぼくは言った。「まあ、どうなるかわからないですけど、先方に連絡をとってみましょう」  黒部さんは電話を切った。  数日後、電話があった。黒部さんは人を介して、孫さんに「ハイパーネットという会社に興味があるか」と聞いたそうだ。答えは「イエス」だったらしい。  脈はありそうだった。あとは実際にお会いしてみるしかない。五月二三日、ぼくは黒部さんといっしょに日本橋・箱崎にあるソフトバンクの本社を訪問した。  ここのところ銀行に融資のお願いをしに行くにせよ投資家に言い訳をしに行くにせよ、いざ出発するとなると、気分が重くてならなかった。胃が痛くなることもまれではなかった。偏頭痛がするときもあった。この感覚ばかりは、当時のぼくのような立場に実際に立ってみないとなかなかわからないかもしれない。  でも、この日は違った。別に話が決まったわけでもないのに、遠足前のようにうきうきしていた。単純に孫正義氏という著名な経営者に会える興奮もあったのかもしれない。ぼくは唯一の愛車となったボルボのハンドルを自ら握り、同社へ向かった。ハイヤーはとっくに解約し、小野さんはもういなかった。  孫正義氏はリラックスした格好で現れた。ネクタイは締めていたが、スーツ姿ではなく、ふわりとしたカーディガンをはおっていた。  有名な起業家や経営者には何十人という単位で会ってきた。いろいろなタイプがいた。威圧的な人間もいれば、自信満々の人間もいた。せわしない人間もいれば、無口な人間もいた。孫さんはそのいずれでもなかった。おちついた物腰に、童顔だがどことなく大人の風情を感じさせるおだやかな表情の持ち主だった。  同席していたのは、ぼくと孫さんそれにソロモンの黒部さん、ソフトバンクの社長室長ら数名。挨拶をすると孫さんは言った。「ぼくのほうからお会いしたいと思っていました」  やられた。  ベンチャービジネスの世界で知らぬ者はいない有名経営者、孫正義氏が、経営危機に陥った若造経営者のぼくに対して「お会いしたかった」と頭を下げる。なかなかできることではない。  ぐずぐずしてはいられない。相手は忙しいのだ。ぼくは例によってラップトップコンピュータを取り出し、ハイパーシステムの説明をした。孫さんの印象はとてもよかった。少なくともぼくにはそう見えた。というのも、説明が終わると同時に彼は、ハイパーシステムを使えば、ソフトバンクの事業にどんな「

シナジー(相乗効果)」が生まれるか、話し始めたのである。「よくできているねえ。それじゃ、うちのメディアバンク(グループ内のプロバイダー)なんかでつなげばいいんだよね。広告営業は CC I(グループ内の広告代理店)で請け負えばいいわけだし」  こんな具合に、彼はグループ内のインターネット・プロバイダーや広告代理店の事業とハイパーシステムをどう組み合わせればビジネスになるかをすらすらと解説してみせた。  もちろん孫さんの話には細部にいくつかの問題があり、すべてが簡単に実現可能とは思えない部分もあった。でもこの時点でそんなことはどうでもいい。ぼくは、孫さんの話に「そのとおりです」と相槌を打った。「データベースのところが良く考えられている」「ありがとうございます」。ぼくは頭を下げた。  事業内容と現状、すなわち当社のすべてを説明し終わると、話題は核心に入った。  ぼくは率直にお願いした。「この会社とハイパーシステム事業を孫さんにお願いしたいんです」  彼も率直に返してきた。「いくらで、どのようなかたちで譲るつもりですか」  この質問に対する回答を、ぼくは想定して事前に用意してあった。ソロモンの黒部さんのアドバイスだった。ぼくは答えた。「すべてお任せします」  すると孫さんは大体の線でもいいから指定しろという。ぼくは繰り返した。「方法も金額も孫さんがこの会社と事業の面倒を見てくれるなら、すべてお任せします」  会社を任せるというのは、この場合、手続き上、株式の譲渡のことを指す。ハイパーネットの株式の過半数を保有しているぼくがその株をすべて譲渡すれば、同社は自動的に孫さんの会社になる。  ぼくはソフトバンクを訪れる時点で、会社さえ救えれば経営権を手放してもいい、と腹を決めていた。むろん、相手が孫さんだからである。会ってますますその意を強くした。  孫さんは質問を変えた。「今までハイパーネットに使った金はどれくらいですか」  ぼく個人がいままでどの程度の資金を会社のために突っ込んだかを聞いてきたわけだ。とっさのことで正確な金額はわからなかったが、とりあえず三億円と答えた。よく考えてみればそんなに多くはない。でもうそを言っても後でわかるはずだから、もし間違っていたら後に訂正すればいい。  孫さんは次のような提案をしてきた。まず、ぼくが今までに実際にハイパーネットに使った金額でぼくの株式を買い取る。そしてぼくは最低二年ハイパーネットにフルタイムで勤務する。銀行などの債務はソフトバンクが全面的に債務保証する。そして業績がよくなれば、インセンティブをさらにぼくに提供する。以上である。「これは可能ですか」孫さんは聞いてきた。  ここまで具体的な話がいきなり孫さん自身から提案されるとは思ってもいなかった。  ただ、このときぼくはかなり自分自身に対して自信をなくしていた。そのため、あえていうならば一カ所だけ不満な、いや不満というのはおかしい、正確には不安な点があった。ぼくがフルタイムでハイパーネットに残る点だ。ぼくが経営陣に残っては、ハイパーネットの建て直しということを考えると根本的な解決にならないのではないか。そう思ったのである。  自信をなくしていたぼくは珍しくその話をくどくど説明してしまった。「いや、ぼくが残ったままですとね、対銀行の問題などもありますし、社内のスタッフの中にも必ずしも面白く思っていない連中もいますし……」途中でぼくもあまりに回りくどいことを言っていることに気がつき、話を切り上げた。  孫さんは、この後経営会議があるのでその場で話してみると言った。そして遅くても次週の火曜日までには返事をするという。そして孫さんはその返事の際にも直接立ち会うとのことだった。  あまりに話の展開が早かったせいもあるのだろう。ぼくは呆然としていた。  帰りの車の中でぼくは黒部さんに意見を聞いた。「どうでしょうかねえ」「いい話じゃないですか。これで板倉さんも会社もハッピーってことですよ」  でも、手放しでは喜べなかった。孫さんの話はぼくにとって都合がよすぎたからである。都合のよすぎる話が実現したためしはない。ぼくは気を取り直すと、携帯電話から森下に電話して当社の財務資料をソフトバンクにすぐに届けるように指示した。  ぼくが会社に戻って、今日のことを考えていると、森下がソフトバンクから戻ってきた。「社長、行って来ました」そう言う森下は、なぜか喜んでいなかった。「ご苦労様。で、どうだった」「それが、ぼくが資料を届けに行ったら、社長室長が出てきて言うんですよ。今、孫社長みずから経営会議の最初の議題として御社の話をしています、てね。」「ほんと」「それがすごく興奮している感じで。なんかこれで決まりだな」  森下の言葉は、どこか気が抜けたような感じだった。決して明るい調子ではなかった。「どうしたの?  いい話じゃない?」「確かにね」  森下にしてみれば、このハイパーネットの未来にかけるつもりで、取締役に就任したばかりの会社を蹴って入社したわけである。だから西沢さんも紹介してくれたし、日々の業務も不休の姿勢で取り組んでくれた。しかし、ソフトバンクの話が決まれば、会社は救われるが、ぼくや森下の会社ではなくなる。  彼のそっけない態度にはそういった思いがあったに違いない。ぼくは森下以上に自分の全てをこの会社にかけてきたから、彼の気持ちはよくわかった。しかしいまはそれを口にする場合ではない。「仕方ないよ。ぼくがもっとうまくやっていればこんなことにはならなかったけど。もしこの話が決まったら、また何かやろうよ」「そうですね」森下はうな垂れた。  会社は救われたのか?  どうもしっくりこなかった。  翌週月曜日、ソフトバンク社長室長からアポイントメントがあった。当社を訪問したいという。  ぼくと森下は顔を見合わせた。二人とも考えていることは同じだった。「イエス」なら呼び付けるだろうし、孫さんみずから会うといっていた。それが、先方から来るという。しかも社長室長が、である。答えはもうわかっていた。  午後になって予想通りの返事が来た。やはり、都合のよすぎる話は実現しないのだ。

それでも孫さんに会えて、彼が当社に興味を示していただけでも満足だった。「ノー」であっても仕方がなかった。  でも一つ残念なことがあった。たとえ「ノー」であろうとも、本人から直接その答えを聞きたかった。いささか贅沢な話ではあるが――。  銀行からの返済要求は強まる一方だった。大型支援先も決まらない。とにかく、徹底して無駄を排除し、事業を回転させ、資金繰りのめどがつくか身売り先が決まるまで耐えるしかない。  ぼくは森下と社長室のメンバーを集め、具体的な対応策を練った。  長期米国出張から戻った筒井は、ハイパーシステムから外れ、当社の主力事業である IMSに専任することになった。夏野はハイパーシステムの海外戦略の専任だ。全社員には目の前にある課題をクリアするよう伝えた。  対応策の骨子は、まず IMSの売り上げの向上、次にハイパーシステムの OEMと海外へのライセンス提供、そしてリストラの三本からなっていた。   IMSは従来の路線を貫き、クライアントの獲得を地道に行う。海外展開では、六月に本格スタートする韓国サムソングループとの共同事業「ハイパーネットコーリア」の成功にかける。中でも重要だったのがリストラと経費削減の推進である。  最初に手をつけたのは人件費だ。五月時点でおよそ八〇人ほどの従業員が勤務していたが、このうち一〇人ほどの派遣社員やアルバイトなどを削減した。人を解雇するのはいやな仕事だが、やむを得ない。まず自主退社を受け入れ、次に教育段階にあった採用して間もない社員たちに辞めてもらった。  同時に削減を狙っていたのが、コンピュータシステムの経費である。というのも、契約していた日本タンデムコンピューターズのシステムが高価なわりにトラブルが多かったからである。  当社は、タンデムの設備のリース料を含めるとタンデム製ソフトウエアの使用料や設置場所の賃貸料などに毎月およそ二〇〇〇万円もの出費を強いられていた。にもかかわらず、このシステムはバグだらけだった。  タンデムもそれを認め、九七年二月、無償で新しいデータベース管理ソフト、ヴァージョン 5を投入した。ところが、この新ソフトがとんでもなかった。九七年三月二八日。突如としてそのプログラムは、月末の処理を始めたのである。何と三月が二八日で終わる設計になっていたのだ。もちろん二月の間違いである。これでは三月末まで広告を出す予定の企業広告がデータ上は二八日でストップしてしまうし、集計データも変則的になる。現場のオペレーションは混乱した。当社のハイパーシステム業務部門は連日徹夜をして、問題のデータをすべて手作業で打ち込み直す始末だった。  もうこれ以上我慢はできない。さっさとリース以外の契約を解除して月間二〇〇〇万円にも及ぶ経費を削減することにした。そのためにはタンデムを切って自前のソフトに切り替えねばならない。ぼくは社内のスタッフに九六年一二月から念のために開発を進めていたタンデムに代わるシステムの完成を急がせることにした。  そして、ぼくはタンデムへ契約解除を通知した。そればかりではない。当社はハードとソフトとシステム全体の管理まで一括してタンデムに依頼していたので、すでにリース会社の所有となっているハードウエアについても、引き上げてほしいとリクエストした。契約上は確かにリース会社と当社との関係であるが、システムがまともに動かないのでは話にならない。ハードとソフトは事実上セットなのだから当然の措置だろう。  九七年六月、自前のシステムが出来上がった。当社はこのシステムをスタート直前の韓国のハイパーネットコーリアに投入した。 UNIXをベースにした汎用性の高いシステムである。そして、多少のトラブルはあったが無事韓国でのハイパーシステムの稼動を始めた。  こんな状況にもかかわらず、九七年六月三〇日、当社は引越しをした。  渋谷駅の南口から徒歩一分三〇秒。桜ケ丘というちょっと入り組んだ細い道路に突如そびえるそのビルは、住友不動産の新築ビル、インフォスタワー。それまで渋谷の高層ビルは六本木通りの坂の途中にある東邦生命ビルだけだったから、この新築のビルは渋谷にオフィスを構えようという企業にとっては最高の場所だった。もちろん賃借料も当時坪三万円前後とかなり高かったのだが。  あまり大きな声では言えないが、ハイパーネットは特別破格の値段を提示されていた。入居勧誘のころから、このビルにはいわゆる「今風」の会社を入れたいという住友不動産側の理想があった。そのせいか当社以外には、とある有名な音楽事務所、通信関連の開発会社、大手生命保険会社、外資の服飾関連企業などが入居を決めていた。当社についても、現状はともかく、それまでの躍進するベンチャー企業というイメージがあったからだろう、住友不動産は賃借料をディスカウントしてでも入居してほしいといってきた。  我々のオフィスはこの一四階にあった。エレベーターを降りると、新しい建物に特有の建材のにおいのするじゅうたんの敷かれたホール。そのまま廊下を進んだ突き当たりの曇りガラスの瀟洒な扉がついたこぎれいなオフィス。そこが新しい仕事場だった。 1フロアおよそ三〇〇坪。それまでのオフィスとの決定的な違いは、社員全てが同じフロアで仕事ができるという点だった。  いずれにしても、とても資金繰りに困っている会社が引っ越すような場所には見えなかった。予想通りというべきか、この後数カ月倒産するまでの間、放漫経営の証拠としてこの引越しは散々叩かれた。ま、見通しが甘かったという点では、確かに放漫呼ばわりされてもしょうがないのだが、この引越しの計画は、まだ業績も悪化しておらず、銀行も態度を豹変させていなかった九六年の終わりに立てたものなのである。  そのとき引越しを計画した理由は明確だった。それまでの四年間いた渋谷の賃貸ビル二階から六階までを占めていた。二〇〇坪の面積があったが、お世辞にも奇麗ではなかった。見た目が悪いのはもちろんだが、なにより災害対策ができない点が問題だった。  たとえば停電が起きたときに作動する無停電電源装置。この装置が、ビルの設計が古いがために設置できなかった。ご存知の通り、当社の事業は IMSにしてもハイパーシステムにしても二四時間フル稼動のサービスである。停電ぐらいでサービスが止まるようでは業務展開できない。余分なコストがかかるのを承知でハイパーシステムの心臓部を無停電電源装置の設置できるコンピュータ専用の別のビルに収容していたのもそのためだ。  社員数も膨れ上がり、八〇人に達していた。システムも年々肥大していたから、九六年末ごろには、もはや足の置き場がないほど手狭な職場環境になっていたのである。  このように引越しそのものは、むしろ必然として計画されていた。しかも、実際のところ、新ビルに移ることでランニングコストの削減が達成できたのである。というのも、タンデムとの契約解消に伴い、それまでタンデムのシステムを設置していたコンピュータ専用ビルを引き払い、新しいオフィスにデータベース管理用の自社開発 UNIXマシンを併設したからだ。コンピュータ用ビルの賃借料が削減できたうえに、専用線通信費など見えない経費も大幅にカットできた。  実際に数字を比べてみると、引越し前時点で、オフィスとコンピュータ施設の賃貸料および通信諸経費の総額は月間一四〇〇万円。それが六月の引越し以降は同一一〇〇万円。月々三〇〇万円のコストダウンである。  けれども、引越しが終わって以降、この新ビルに金融機関が訪問すると、必ずといっていいほど文句をいわれた。いくらぼくが数字でコストダウンが達成できた旨を説明しても、目の前の新居が豪華だと説得力がない。毎度さんざんいやみを言われることになった。  引越しを計画してから二カ月後の九七年二月、増資後に資金が減少したときに中止も考えた。確かに毎月の経費削減にはなるが、引越しに伴い初期投資が新たに必要になるのは明白だったからである。そのため、同月の取締役会議ではいったんはキャンセルする決議をしたのだ。

それが、結局引越し決行に至ったのは、大家である住友不動産と九七年一月に結んだ一通の契約書の中身に大きな問題があったからだ。  ぼくもほかの役員も、住友不動産と結んだ契約書を深く読んでいなかった。相手が大手不動産であったせいだろうか、こちらにあからさまに不利になるような条項はないだろうと勝手に思いこんでいたのである。我々は一月の契約締結時点で手付けとして二〇〇〇万円ほどの現金を支払っていた。翌二月、社内会議で決めた通り、キャンセルしたい旨を住友不動産に伝えたところ、彼らは「契約」に基づき、すでに払った二〇〇〇万円は返すことができないばかりではなく、数億円の違約金を要求してきた。  慌てて契約書を見る。住友の要求に違法な点はない。我々はどうしようもなかった。  しかもその後、春に銀行からの追加融資を断られるようになると、新社屋の内装などのリースをお願いしていたリース会社から「おたくには貸せません」という返事が来た。  とんでもないことになった。キャンセルすれば違約金を何億も払わなければならない。引越しをすればリースができないのでキャッシュポジションを落とすことになる。行くも地獄、帰るも地獄である。  最終的な結論は引越しをするということだった。引越しした方が、違約金を払うより当座支払うカネは少なくて済む。なにより、この閉塞状況を新居に移る事で少しでも変えることができれば、という単純な動機が根底にあった。なんだか失恋 OLの引越しみたいである。いずれにせよ毎月の支払いは削減できるし、何より社員全員が同じフロアーで仕事ができるのだ。  そしてこの新居で、ぼくは当社始まって以来の大変革に手をつけた。  社長を辞めることにしたのである。  決意したのは五月のことだ。  直接のきっかけは、西沢さんの当社取締役就任である。  西沢さんはハイパーネットになくてはならない人材であった。東食ファイナンスへの社債発行、加ト吉会長への株式譲渡、ここ一 ~二カ月の資金調達は、彼なしでは実現し得なかった。  そんな折り、森下から西沢さんが取締役就任を希望していることを聞いた。  彼の仕事は、もはや当社の「外部応援団」の枠には収まりきらなかった。東食ファイナンスや加ト吉のような「投資家」側にしてみれば、うちの財務担当代表のようなものである。  さっそく西沢さんに連絡をとった。「六月の株主総会で正式就任してもらう、ということでいかがですか」。西沢さんに異論のあろうはずがなかった。  ちょうどいい、これを機会に社長を辞めよう――。代わりには森下を社長に据える腹積もりだった。そして、ぼくはそのまま代表権を持った会長になり、現場からは一歩引く。  前にも書いたが、二月頃、ぼくと森下とは二人で社長交代の話をしたことがある。あのときは森下も入社六カ月とまだ社歴が浅かったので現実には至らなかったが、いまや国内営業や資金調達面での当社の船頭役を見事にこなしていた。六月には株主総会がある。タイミングもいい。  西沢さんの取締役就任は、ぼくが社長を辞めようと決意したきっかけの一つではある。ただしそれはあくまできっかけだ。根本の理由はむろん別にある。  資金繰りの失敗をはじめ経営者としてのぼくが招いたさまざまな判断ミスに対するけじめ、という側面もあるにはある。が、最大の問題は、もはや創業者社長たるぼくが社内の人心を掌握できなくなっている点だった。ぼくは、それまで絶対的に自信のあった社員からの忠誠心という一番大切なものを失ってしまった。  その象徴が四月に起きた社内クーデター未遂事件だった。関係者は全員くびにしたが、加担はしないまでも、クーデターを知っていた社員は相当数いたはずだ。なのに事前にぼくの耳に入ってこなかったということは、現場から信用されていないなによりの証拠である。  九七年に入って、ぼくはたしかにカネのことばかりを考えていた。資金繰りのことが頭から離れず、カネ集めに走りまわった。当然、社員とのコミュニケーションはおろそかになった。  かつてぼくは一日一回以上必ず社内の全部門に顔を出し、なるべく多くの社員と話をするよう心がけていた。仕事に直接かかわる話はもちろん、趣味の話や家族の話などもよくしていた。週に最低一日は夕食を社員と一緒にとる機会を設けていた。  ハイパーシステムがスタートした九六年春以来、こうした機会は加速度的に失われていった。社員で話をするのはごく一部の幹部たちに限られるようになった。社員たちには、ぼくの〝顔〟が見えなくなったにちがいない。  するとどうなるか。以前はぼくが突如計画を変更したりしても、社員の大半はその真意を理解してくれていた。ぼくが日ごろ何を考え、何を目指しているか、そしてそもそもどんな性格の男なのかを、みな知っていたからだ。  それが今や大半の社員にとって、ぼくは〝顔〟の見えない「向こうの人」だ。新たに引き込んだ社歴の浅いスタッフや外部の人間ばかりが社長室を出たり入ったりし、ぼくと社員の間の壁は高くなる一方だった。事業方針を変更するたびに社内からあからさまな苦情や不満がよせられるようになった。そして情けないことに、ぼくは彼らの苦情や不満を蹴散らすだけの「何か」をもはや持っていなかったのだ。  ハイパーネット程度の企業規模だと、経営者の業務範囲はきわめて広い。ビジョン策定や海外進出の計画から日々の細かな労務管理、作業管理まで仕事は多岐に渡る。  ところが、ぼくは日々のオペレーションが苦手だった。将来のビジョンを打ち立て、それに向かって人を集め、事業計画を作り、成長を促すといったいわゆる「アントレプレナー」としての仕事は肌に合っていたし、うぬぼれを承知で言うとある程度才能もあったと思う。しかしその一方で、人事や財務、総務の管理それに金融機関との付き合いといった地道な作業については、どうしても体も頭もお留守になりがちだった。現場の不満がつのったのもぼくがこうした日々の仕事をきちんとこなしていなかったからに違いない。  その点、森下はすでに別の会社で社長の経験があるうえに、公認会計士の資格を持ち、細かな数字のチェックや毎日の労務管理なども得意としていた。  ぼくは考えた。森下がミクロの視点で日々の経営の陣頭指揮をとる社長として、ぼくがマクロの視点で株主への情報伝達、 PR、将来ビジョンなどを策定する会長として、役割を分担しながら二人三脚で経営にあたるのが一番いいのではないか。  ぼくとしては、社長から会長になることで、海外での展開にもっと個人的に注力したいという側面もあった。後でも詳しく述べるが、六月、待望のハイパーネットコーリアが韓国で正式始動したのである。出だしは上々だった。海外市場の開拓は、日本で閉塞状況にある当社の業績の改善に欠かせなかった。  これまでこの海外事業は夏野に任せきりだった。彼は九六年から九七年にかけて年間四〇回以上海外出張をしていた。完全なオーバーワークである。一方、米国、韓国、その他のアジア諸国。ハイパーシステムに対する引き合いは国際的にもかなりあった。もはや夏野に任せっきりにしているわけにはいかなかった。  九七年六月三〇日、株主総会は、引っ越したばかりのインフォスタワーのオフィスで行われた。  集まった株主は約一〇人。それぞれのベンチャーキャピタルの担当者、二月の増資以降の株主である企業の担当者、ぼくの友人。当社からは、ぼく、森下、

夏野をはじめ役員五人、総勢一〇人。取締役に就任する予定の西沢さんも、もちろん顔を並べていた。  資金繰りが改善していなかったこの状況での株主総会は、多少の叱責や場合によると不信任もある程度覚悟していた。しかし、それは杞憂に終わった。ハイパーシステムの OEM化を軸とした新事業計画が、意外なほど株主から評価されたのである。後で詳しく述べる韓国でのハイパーネットコーリア始動など海外の事業展開も、好意的に受け止められた。おそらく好意的でない株主は、はなからあきらめていたのだろう。委任状だけで出席してこなかった。  九七年三月期の決算では、ハイパーシステムの全始動経費が計上されていたので、当然ながら赤字であったが、以上の計画といくばくかの実績を持って株主総会は満場一致で九七年三月期の決算を認めた。売上高七億八五〇〇万円、経常赤字九億八四〇〇万円である。一般的に見ればとんでもない赤字会社である。しかしベンチャービジネスでは、事業開始直後は赤字であっても、先行投資で市場占有率を高めることをしばしば優先する。実際ナスダックでの公開を実現して数百億円を調達している米国のベンチャー企業の多くが、赤字のまま公開している。当社の場合、ハイパーシステムの事業開発経費が全てこの期に集中していた。当社の株主にしてもそこは十分承知していたようだ。  森下の社長就任、ぼくの会長就任、それに西沢さんの常勤取締役就任も事前の根回しは済ませてあったために、こちらも全会一致で承認された。  ハイパーネットは二人の代表取締役と強力な資金調達担当取締役が運営することになった。  さて、引っ越しの数週間前のことだ。九七年六月八日。ぼくは成田から JALの飛行機で、韓国・ソウルへと向かった。  一月、韓国サムソングループと事業提携の話があった。そして三月、同財閥の大手広告代理店チェイル・コミュニケーションズと合弁で新会社ハイパーネットコーリアを設立した。ハイパーシステムの韓国での普及が目的だ。当初の予定では四月スタートの予定だったが、システム開発の遅れなどもあって、この六月にサービスを開始することになった。  そしてサービス開始を祝して、サムソングループ主催のパーティが、ソウルで開かれることになったのである。金策に追われる中、久しぶりの楽しい仕事だ。  当社の技術陣と海外戦略担当の夏野は、ぼくよりすこし先に韓国入りして、準備をしていた。ぼくが韓国入りしたのはパーティの前日である。ソウルのホテルに着くと、五月以来、日本と韓国を行き来しながら技術指導をしてきた技術部長の小林が出迎えてくれた。この男はわずか数カ月でタンデムのシステムに代わるハイパーシステム用ソフトウエアを完成させた凄腕である。ここ韓国でも、わずか二カ月でハイパーシステムの投入を成功させた。「社長、安心してください。ちゃんと動いてますよ」  小林は挨拶の代わりに、この一カ月、韓国でハイパーシステムが無事機能していることをぼくに報告した。「そうか」ぼくは短く答え、小林の顔を見た。いい顔をしていた。仕事をやり遂げた顔だ。ぼくもかつてはあんな顔をすることがあったのだろう。  翌日の六月一〇日、ぼくは小林、そしてやはり現地入りしていた夏野と一緒にパーティ会場に足を運んだ。はやく自分の目で、自分の手で、ハイパーシステムがここ韓国でも動いている様を確かめたかった。  会場は「白羅」という名の豪華なホテルだった。国賓の宿泊施設らしい。日本でいえば帝国かオークラのような位置づけか。天井の高いロビーを抜け、会場に入った。  想像していた規模を絶していた。受付から会場内の隅々にいたるまで美しいコンパニオンが数十人、笑みを浮かべて立っていた。豪華な盛り付けの豪華な食事が、会場中央に鎮座していた。舞台上には大きなハイパーヴュー(韓国ではホットカフェではなく、ハイパービューというブランドである)というロゴが輝いていた。光ファイバーを使った電子看板である。デモンストレーション用の大きなスクリーンは、周囲をクリーム色に塗った合板で囲ってあり、パワースイッチやロゴマークが描かれていた。離れて眺めると、巨大なコンピュータディスプレイのように見える仕掛けだ。  韓国一の財閥グループの韓国一の広告代理店の仕事だった。盛大で、完成されていた。  用意された長テーブルにはデモ用の端末がずらりと並んでいた。ハイパーシステムが立ち上がっている。マウスを右手で操る。完璧だ。日本のそれと遜色ない。思わず、脇にいた小林にぼくは笑いかけた。これが本当にぼくのあの一年半前のアイデアからスタートしたものなのだろうか。豪華絢爛なパーティ会場を眺めると、なんだか他人事のように思えてならなかった。日本に残してきた山積みの問題も、頭から消えてしまった。  ディスプレイに向かっていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、チェイル・コミュニケーションズの専務取締役オウさんがいた。「ハロー」、お互い英語で挨拶する。彼は日本語が少しできるが、ぼくはハングル語ができない。彼はハイパーネットコーリアの設立における韓国側のキーマンであった。明るくおおらかで、そして大の酒好きだった。  ぼくは何度か日本でそして何度か韓国でオウ専務に会った。韓国で打ち合わせをしたときは必ず夜中まで酒に付き合わされた。酒に弱いほうではないが、彼らの飲みっぷりにはとてもかなわない。韓国出張のたびに、ぼくはホテルへどう帰ったか覚えていない日々を過ごしたものだ。  この日はいつものオウ専務とは違っていた。非常に神経質な顔つきをしていた。関係者に聞いてみると、今日のパーティについてずいぶん心配しているらしい。どうやら韓国一の広告代理店が日本企業と組んで新規事業を立ち上げることにかなりの注目が集まっているようだった。たしかにパーティには韓国中の要人が顔を出すことになっていた。オウ専務が緊張するのも無理はなかった。  ぼくが会場について三時間、いよいよパーティの開始だ。チェイル・コミュニケーションズのユウ社長、オウ専務、アンさん、そしてぼくと夏野は入口で招待客を出迎えた。  ぼくには誰が誰なのかさっぱりわからなかったので、とにかく笑顔で歓迎することにした。笑顔はどんな場合でも役に立つ。笑いながら頭を下げ、名刺を交換する。後で名刺を見てびっくりするような要人だと気づいたりするのだ。  チェイルの仕切ったプログラムは完璧であった。さすがに広告代理店だ。特に大スクリーンに流されたデモ用のビデオはまるで長編テレビ CMといった出来栄えだった。さらに舞台には韓国の〝タモリ〟と紹介された有名タレントとその奥さんで歌手の女性が掛け合いながらハイパーシステムの説明をした。これは参った。よくできている。  ぼくは自分がどんな役割で会場入りしたかも忘れて、ただ舞台の方を見入っていた。いつのまにか最後のステージである。ぼくが挨拶をする時間だ。舞台に上がり、ぼくは用意していた挨拶文をスピーチした。  プレゼン、挨拶の類はめっぽう得意なのだが、このときはうまくいかなかった。ハイパーシステムがらみの挨拶では、過去を通じて最悪の出来だったかもしれない。  このパーティの唯一の失敗といえば、ぼくのスピーチだった。それ以外は完璧だった。チェイルに感謝だ。実に楽しいひとときだった。  帰りの飛行機の中で、ぼくは、一年前に六本木ベルファーレで開いたプレス発表会を遠い昔のことのように思い出した。あのころは、金融機関も取引先も当社とハイパーシステムとぼくを絶賛していた。皆がこぞってカネを出した。その結果、一年間で五〇〇万円ほどだった借入残高が二〇億円まで膨らんだ。リースなども含めるとハイパーネットの借入総額は三〇億円を超えた。  そして翌年、銀行が次々と逃げ出し始めた。投資家やマスコミなど周囲の見方も一八〇度変わってしまった。なのに韓国では、日本での苦境などまったく

なかったように、豪華な旗揚げでハイパーシステムが動こうとしている。めまいを起こしそうな落差だった。  その後も韓国での事業は好調に推移した。九七年六月からスタートしたサービスは、最初 I | NETというプロバイダーが採用し、それもハイパーネットコーリアの広告収入に依存する変動支払いだった。その上でこのプロバイダーは接続を無料にした。会員数は日本でのスタートとほぼ同じペースで増え続け、九七年一〇月で二万人に達し、広告営業についても、広告料を有料化した。九七年九月には一カ月でなんと七〇〇〇万円の受注をしたという。しかしながら、現在韓国と日本両国の経済不況の影響下で業績はいまひとつらしい。  日本に戻ると、日常が待っていた。銀行からの融資返済要求をかわし、その合間に新たな支援先を見つけてくるというここ数カ月のぼくの日常が、である。  すでに取引銀行からの折り返し融資などが不可能なことは十分に理解していた。だから、九七年四月以降、銀行には新規融資の依頼など一切しなかった。  しかし銀行は手をゆるめない。残りも早く返せと執拗に迫ってきた。新居ビルの見た目の良さが、彼らの心証をますます悪くしていた。銀行の返済要求を満たすための資金と、リース会社がリースを断ってきた資金、以上をぼくたちはなんとか融通しなければならなかった。  国内で大型の資金調達をするのは、かなり難しい状況だった。西沢さんの手持ちの札もなくなった。ぼくの直接の知り合いにも頼れそうなところはほとんどなかった。  最後に残されたのは、海外との提携しかなかった。  現地企業と提携して、韓国同様他国でもハイパーシステムのライセンス販売が可能なことを証明するしかない。ぼくは海外担当の夏野に対して、当社にアプローチしてきた海外企業と LOI(契約の覚え書)をできる限り早く結ぶよう指示を出した。  当社の金融機関に対する信用はがた落ちだった。いくら合理的な事業計画を提出しても、そんなものは要らない、金を返せという姿勢になっていた。ぼくはある銀行の担当者にこんな話をした。 「IMSも売り上げが伸びて来ましたし、見てください、韓国でのハイパーシステムの発表がこんなに話題になっているんですよ、それに韓国以外のアジアの企業から……」  そこまで話すとその銀行マンはぼくの話をさえぎった。「わかりましたよ。それよりいつ返済してくれるんですか。」「ええ、ですから、ここに新しい事業計画が」「そうですか、でもおたくの話はいつも実現しませんからねえ」  やはりこの計画が〝ほんもの〟だと証明する何かが必要だ。第三者と交わした事業契約書が必要だ。それが海外企業との LOIというわけである。  九七年七月中旬、ハイパーネット USAのマネジャーがよい話を持ってきた。  アンディ・ブロダ氏という米国の投資家が、投資家グループを作ってハイパーシステムを米国で事業化したいというのだ。米国では九六年末からハイパーシステムの事業展開を始めてはいたが、その後の資金不足などが原因で、二月から凍結状態にあった。それを新たに自分たちの手で動かそうという申し出であった。  彼らの出してきた条件はこんな内容だった。まず、ライセンス開始時におよそ日本円にして七〇〇〇万円ほどの契約料、そして売上高の七%をロイヤルティとして当社に支払う。その代わり、当社は米国におけるハイパーシステムの営業権を独占的に彼らに提供する。  提携先を選ぶ余裕はなかった。ぼくはさっさとサインをして、 LOIが締結された。  これでハイパーネットの一番の出費要因だった米国での事業を、韓国でやったのと同様ライセンスビジネスにできる。後は彼らの活躍に期待するだけだ。それに当座の金も入ってくる。  これを皮切りに、世界各国からライセンス契約を結びたいという声が届き始めた。きっかけはぼくも参加している若手起業家のネットワーク YEOだ。 YEOは世界中にネットワークを広げており、ちょうど五月にアジア大会を東京で開催した。この年 YEOジャパンの副会長を務めていたぼくはハイパーシステムの講演を依頼され、これ幸いと思う存分プレゼンをしまくった。もちろん、ハイパーシステムを OEM化している点についても、である。  この講演以来、アジアのあらゆる国の起業家がぼくの元に集まってきて、それぞれの国でのライセンスがほしいと声をかけてくるようになった。中でも香港の起業家は非常に熱心だった。ぼくは夏野に交渉を引き継ぎ、結果、香港のこの起業家との間に LOIを結ぶことができた。  ほかにも当社への海外からの引き合いは非常に多かった。英国、カナダ、メキシコなどの国からあった。しかしなんといっても一番多かったのはアジアからの引き合いだった。韓国での実績がこれに拍車をかけた。  香港の次はシンガポールだった。政府の情報関連外郭団体である I TIとの技術提携とシンガポールでのハイパーシステムの事業化についての LOIを交わすことができた。  とにかく海外は意思決定が早い。米国のケースも、香港のケースも、シンガポールのケースも皆一カ月以内に返事が来ている。  これで文句はなかろう。七月下旬、ぼくは三つの LOIを携え、返済を強く求める金融機関に新事業の展開を説明した。  結果はけんもほろろである。もはや、当社の事業実績などどうでもよかったのかもしれない。彼らを説得する材料を用意したつもりだったがまったく意味はなかった。  最初に強引に迫ってきたのはある都市銀行だった。  九七年八月、この銀行からの融資残高は約二億円。最高三億円まで融資してもらっていたときもあったが、二月の「いったん返済」のときにすでに一億円を返済していた。  当社を訪れた同行の担当者はいった。「板倉会長。じゃあ、とりあえず八月末までに二〇〇〇万円を預金してください」  預金というかたちでの実質的な取りたてである。銀行のよく使う手だ。「知ってるでしょう。預金できるお金があるのなら、とっくに返してますよ。申し訳ないけれど、そんな資金はうちには今ないです」ぼくはこういった。説明するまでもなかった。先方も十分それを承知しているはずなのだ。「いやね、無理をいうつもりはないんですよ。でも、これは本部からの指示なんです。手ぶらで帰るわけにはいきません」  本部からの指示。手ぶらで帰るわけにはいかない。これまた銀行の常套句だ。ほかの銀行の担当者も同じようなせりふをいう。  とにかく、ない袖は振れない。ぼくたちは何度も、いま二〇〇〇万円を預金するのは現実的に無理であり、もし無理におかねを作ってそちらの口座に預金すると、別のどこかにしわ寄せがいって、今後の事業継続に支障をきたす、そう主張した。  何回か綱の引っ張り合いをやった挙げ句、担当者は最後にこういった。

「それでは、会長はハイパーネットがつぶれてもいいのですか」  この日、この銀行の担当者はそれ以上具体的な話をしなかった。が、いわんとしていることはよくわかった。少なくともぼくにはこう聞こえた。二〇〇〇万円を積まなければ、手形をまわして不渡りにします。それがいやならさっさと預金してください。  担当者が帰ってから、取締役を集めて協議した。結局、西沢さんの経営する会社から資金を借りて銀行に二〇〇〇万円の預金を積むことにした。銀行とこれ以上険悪になるのは避けたかったからだ。いずれにせよ一時しのぎの策に過ぎなかった。  だがこの預金が、各行の融資引き上げ競争のまさしく合図となってしまったのである。  九七年九月。当社は二〇〇〇万円を先の銀行に預金した。にもかかわらず、この銀行からの返済要求は止むことがなかった。ちなみに他行に関しては、返済要求はあったが、ここほど強引ではなかった。  この銀行の担当者はとにかく「熱心」だった。彼らは連日やってきた。九七年九月の一カ月、彼らが当社に顔を出さなかった日は、おそらく一〇日以下だったと思う。ぼくと森下はその対応に費やす時間を別の資金調達や事業計画に使いたかったのだが、そうもいかなかった。  ある日、いつものように来社したこの銀行の担当者は、ぼくに一つの書面を見せた。その書面というのは、当社への融資継続にあたり、第三者の債務保証を求めるものだった。彼らはその書類をぼくと同席した森下に見せてこういったのである。「これで本部を説得します。ですからここに〝お父さん〟のサインをもらってきてください」  お父さん?  おれや森下の父親のことか。そうだろう。他に該当する人物はいない。さすがにびっくりして、銀行員のまじめそうな顔を眺めた。  確かにこの会社の創業者は会長であるぼくだし、会社向けの融資をしてもらうにあたって、個人保証もしている。この銀行の融資に関しても同様だ。そうはいってもハイパーネットは、れっきとした株式会社だ。その株式会社が、銀行から融資継続をお願いするにあたって、なんの関わりもない経営陣の親のサインが必要だとはぼくも知らなかった。もしかしたら、ぼくの父の兄弟や親戚に開業医が多いために、父までが裕福だと思われているのかもしれない。しかし、本書の冒頭でも書いたが、ぼくの父は医者ではないし、特に金持ちというわけでもない。しかもハイパーネットを始めて以来、親の世話になったことは一切ない。なのに……。  この日以来、この銀行の担当者たちは連日当社を訪問して「お父さんのサイン」を求めてきた。しかも念のいったことに、個人保証をしているぼくの実家の写真まで手に入れていた。言うまでもないが実家は僕の所有物ではない。  ぼくはハイパーネットを創業して以来、どんなに困ってもサラ金には手を出さなかった。いざというとき、親の保証などを求められても困るからだ。そこで、融資をお願いするのは、都市銀行に限っていた。しかしまさか銀行相手にこんな目にあうとは思わなかった。  毎日のようにやってくるこの銀行の担当者の方々に、ぼくと森下は「親には関係がないからそれはできない」という主張を繰り返した。  すると彼らも繰り返した。「それでは会長と社長はこの会社がつぶれてもいいというのですね」  銀行の方々との「ご歓談」の時間をとるために、ぼくたちは九七年九月以降、少なくとも二日に一回、一時間から二時間程度の時間を割く必要があった。あまりに頻繁にやってくる彼らに、ある日、それまで感情を抑制していたぼくの中でなにかが切れた。思わず大声が出た。「いったい、なんでおたくだけそんなに強引なんですか!」  すると彼らはこういうのである。「いやあ、ぼくが知っているところによると、うちよりもしつこく日参している銀行さんがあるらしいじゃないですか」  冗談ではない。確かに他行も回収には熱心であったが、この銀行のように毎日のように来社したり、ましてや「親を出せ」というような取引銀行はまったくなかった。  九月末日が近づいてきたある日、いつものように当社に来たこの銀行の熱心な担当者は、いつまでたっても親のサインを認めないぼくたちにこういったのである。「じゃあ、いまからぼくといっしょにお父様のところへいきましょう。事情はぼくが説明しますから安心してください」  これが都市銀行のいうことなのだろうか。いや実際に目の前でやっているわけだから、ぼくの認識の方が間違っているのだろう。ここまで来ると、彼らにとって当社の業績や事業などどうでも良いことだったのかもしれない。たとえ当社がつぶれても資金さえ回収できれば問題ないのだろう。  この銀行担当者の方の親切な申し出は、もちろん丁重にお断り申し上げた。  さて、この銀行の熱心な活動ばかりに紙面を割いてしまったが、その間、他行がぼんやりしていたわけではもちろんない。  先ほども書いたように、八月末日、同行に対する二〇〇〇万円の預金をきっかけに、他行の返済要求も一気に強まったのである。  当社は毎月取引銀行の求めに応じすべての財務資料を提供していたが、その中にはもちろん現預金残高というものがあった。当然、他行がこの銀行に対する預金に気がつくのに時間はかからない。財務資料に記された同行への二〇〇〇万円預金を見つけた瞬間、各行の担当者の目の色は一斉に変わり、すべての銀行が完全に回収モードに突入したのである。訪れた担当者の最初の言葉は皆同じだった。「なぜあの銀行にだけ預金を積むのですか」。彼らにしてみれば当然の言葉だろう。  そもそも複数の銀行からの融資というのがいけなかった。  銀行は、基本的に横並びで行動するのだから、金を貸すときも、金を回収するときも、みな仲良くいっしょに動く。思えば、当社に住友銀行が億単位の融資をいきなり実行したからこそ、複数の銀行がわれもわれもとお金を貸してくれたのである。その結果がたった一年で二〇億円まで膨れ上がった借入残高である。これは金を回収するときもまったく同じである。今回はこの銀行が強硬に返済を迫り、二〇〇〇万円だけではあるが預金というかたちで返済を一部実現した。となれば、他行がこれに続くのはむしろあたりまえであった。  ぼくと森下は、毎日数件に及ぶ取引銀行からの問い合わせに対して、海外での実績やリストラが進んでいることを事細かに説明していた。  たとえば、当社はリストラの結果、九七年二月には月次で一億八〇〇〇万円ほどの支出があったものを、九七年一〇月には七〇〇〇万円まで縮小することができ、さらに IMS事業の健闘もあって、単月ベースではとんとんのところまで収益構造が改善されていた。一般的に考えて、それまでの事業( IMSのことである)をはるかに超える事業規模(ハイパーシステムのことである)をスタートしてわずか一年で収支がとんとんになったのは、悪い成績ではないだろう。確かにハイパーシステムの開始当初に鼻息の荒かったぼくの書いた絵とは程遠い現状ではあったが。あとは韓国をはじめ海外の業績を待っていれば、じきにロイヤルティが利益という形で入ってくる。そうなれば、単月ベースの黒字も間近だし、ロイヤルティ収入を考えれば、経営はさらに改善されるはずだった。「だからもう少し待ってください」ぼくたちは毎日、こういって銀行の方々に頭を下げた。  こんな文句も口癖になっていた。「ぼくは借りた金の一部を返すことより、全部を返したい。だからしばらく様子を見てください」  しかし「回収モード」に切り替わった各銀行は、我々が提出する事業説明やぼくの言葉に耳も目も貸してくれなかった。一〇月に入ると、森下、それから経理担当の大内、それにぼくの三人は一日のほとんどの時間を銀行の対応に使っていた。これでは事業推進や資金調達どころではない。何とかしなくては

ならない。  状況はどんどん悪化した。この頃から銀行に加えてリース会社までが支払い要求に訪れるようになったのである。実はこのところの資金繰りの悪化で、リース料の支払いが一部滞っていた。当社は、例のタンデムをはじめコンピュータ機器のほぼ全てをリースしていた。  リース会社とすれば、当然機材の引き上げを要求してくる。一方、 IMSにしてもハイパーシステムにしても当社の設備のほとんどはリースに頼っていただけに、これらを持っていかれるとサービスが止まってしまう。そうなればもはや事業を継続できない。そればかりかプロバイダーや広告代理店をはじめクライアントからの損害賠償などの訴訟が相次いで起こるおそれがある。無論、会社はそこでおしまいである。我々は必死に説得にあたった。  銀行にしてもリース会社にしても、違法なことをしているわけではなかった。銀行の場合は短期融資だから期日に返済要求されて返せない我々が悪いし、リース料の滞納をしている我々が悪い。機材を引き上げるといわれても、文句は言えない。彼らは正当な要求をしているのだ。ぼくもそれは十分理解している。すべてはわれわれの契約不履行が原因なのである。  それでも、ぼくの中には、ある意味で理想主義的な、言葉をかえれば極めて甘い発想がまだあった。  リース会社が規則に従って機材を引き上げれば、当社は事実上倒産してしまう。倒産してしまえば未払いのリース料や借入金は支払うことができなくなってしまう。そもそも、リースにおいてはコンピュータ設備を転売したところで二束三文である。これではお互いに損なだけだ。だから、もっと仕事をさせてくれ――。しかしぼくのこの説得はなんの効力もなかった。すでに銀行やリース会社の当社に対する信用はゼロに等しかった。  九月初旬。長銀系の日本リースから電話が入った。ここはハイパーシステムのコンピュータ機器の多くをリースしている。当社としてはもっとも取引の大きなリース会社だ。「いまおたくのビルの前からなんですけどね」  日本リースの担当者はぶっきらぼうに言った。「車をつけているんですよ」  いよいよ実力行使だ。今すぐにでも先日付の小切手を切るか、現金を出せというのだ。  ぼくは小切手を切ることにした。実はこの日の段階では、支払いの可能性がほとんどない小切手だった。でも、今日機材を運び出されるのはまずい。少なくとも小切手を切れば、しばらく時間稼ぎができる。  銀行のときと同じだった。この日を振り出しに、次々とリース会社が訪れるようになった。皆さんトラック持参で、自分たちの機材を持っていこうとする。こうなるといつまでも小切手攻撃は通用しない。  そんなとき、筒井と小林の率いる技術陣が知恵を絞ってくれた。ぼくは機材引き上げの影響を直接受ける技術部門の彼らに事情を説明した。「いつ、どの機材が持っていかれるか、もはやわからないほど事態は切迫しているんだ」  ぼくがそう話すと、筒井が聞いてきた。「板倉さん、どの機材がどのリース会社の名義で、それがこのままでいくといつ引き上げられるのか、全部リストアップできますか」  突然、不思議なことを聞いてくる。ぼくは答えた。「ちょっと手間がかかるが、まあ経理の連中の力を借りればできると思う。でも、そんなことさせていったいどうするつもりだ?」  今度は小林が口を開いた。「いや、必要最低限の機材を残しておけば、表向きはサービスは継続している程度に動かすことはできるはずですよ。機能は絞られますけどね」  おかげで時間を稼ぐことができた。筒井と小林の言葉に嘘はなかった。リース会社が一部の機材を回収した後も、システムは一応稼動したのである。  ぼくは連中に軽口をたたいた。「これじゃあ、最初っから、こんな高価な機材はいらなかったんじゃないの?」  筒井がやり返した。「小林がリース屋とコンピュータ会社からの回し者だったんですよ。どんどん買わせるための、ね」  現場の連中のなかには、このようにまだジョークを言うだけの力が残っているものがいた。ぼくがここで投げ出すわけにはいかない。  当社が滞納していたのは銀行の融資やリース料だけではなかった。  九月、当社にはすでに支払期日の過ぎた三億円の未払いがあった。その中に含まれていたのが、アスキーへのメディア料である。  このころ、アスキー・インターネットフリーウェイの会員数は三〇万人に迫る勢いだった。結果、当社からアスキーへのメディア料の支払額は毎月四〇〇〇万円に達していた。当社の支払分類の中では一社単位で見ると一番大きかったのが、このアスキーだった。額が多いだけにアスキーへの支払いは困難を極めた。そこで、ぼくはアスキーにこんなお願いをした。  当社は現在資金難のため、アスキーに対するメディア料の支払いが困難である。よって当社が九八年二月と九九年二月にアスキーから受け取るはずになっているハイパーシステムの独占契約料と相殺してくれないか――。  これだけでは、ぼくが何をお願いしているのかおそらく理解できないだろう。そこで、少々アスキーと当社の契約の内容を説明したい。  アスキーとの契約は大きく三つに分かれていた。  一つは日本橋に借りていたプロバイダー設備のリースに関して。これは当社を経由してアスキーに又貸ししているもので、リース料は、アスキーから当社へ、当社からリース会社へと支払われていた。九六年二月にそれまで当社で準備していたプロバイダー部門を慌ててアスキーに引き渡したためだ。あまりに面倒な契約のために、これに関しては、九七年七月頃、当社をはずしてリース会社とアスキーとの間で直接契約してもらうことで話が進んでいた。  二つめはメディア料。これはユーザーの利用時間に応じ、当社からアスキーに支払うものだ。広告代理店が TV局などのメディアに支払うカネと性格は似ている。ちょっと違うのは、当社からアスキーへの支払いは当社の広告販売の高低にリンクしていない固定支払いだった点だ。すなわち広告が取れないと、当社のリスクは相対的に高くなる。この部分の支払いが一番痛かった。  三つめは、アスキーへの独占供与の契約に関する支払い。ハイパーシステムがスタートした九六年四月から六カ月間、アスキーと当社は独占供与に関する契約を結んだ。そしてこの対価として三億九〇〇〇万円をアスキーは当社に支払うことになっていた。このうち二億円は契約時に支払ってもらったが、アスキー側の資金繰りの都合ということで、残りの一億八〇〇〇万円は、九〇〇〇万円ずつ、九八年二月と九九年二月に分割で支払うことになっていたのである。  我々は九六年四月からの六カ月間、契約どおりアスキーに対して独占的にシステムを供与したから、アスキーに対する債権の一億八〇〇〇万円は間違いなく成立していた。ぼくはこれを持ってメディア料と相殺してくれと頼んだわけである。  けれども、アスキーの回答は、この提案を拒否するものだった。問題はその理由だ。ぼくは最初、てっきりあと二回の支払期日がきていないので相殺できない、といっているのだと思っていた。ところが、アスキーの回答では、そもそもの話、一億八〇〇〇万円のアスキーに対する債権は確定していないというのである。

 この部分に関する契約書には、アスキーに対する五年間のハイパーシステムの供与と、例の六カ月間の独占使用に関して明記されていた。その対価である三億九〇〇〇万円は、どのように読んでも、六カ月の独占権の対価と読めるものだ。というよりはっきりと「独占使用に対する対価として」と書いてある。しかしアスキーは、同じ契約書に書いてある五年間の供与という部分こそがここでいう「期限」であると主張したのだ。その論法でいけば、まだその期限が満了していない。よって債権は確定していない、というのだ。  それにしても困った話だ。アスキーは店頭公開会社である。当然監査法人の監査を受けている。アスキーの監査法人からは毎期、中間決算と期末決算時に債権債務の確認状が届くのだが、これにもはっきりとアスキーが当社に対する一億八〇〇〇万円の未払いがあるとの確認がきている。それも材料に何度か交渉したが、先方は態度を譲らない。  ぼくは今更ながら後悔していた。やっぱり浜田さんがアスキーを辞めたときに、契約を打ち切ればよかったのだ……。  どちらにせよ、アスキーが主張を曲げないようならば、当社としても対応を変えざるを得なかった。たしかに、これまではこちらの資金繰りが苦しかったがゆえに、アスキーに対するメディア料の支払いは遅れていた。その点に関しては、アスキーが苦情をいうのは当然であるし、非はもちろん当社にあった。  ところがアスキーは、当初の契約で明記したアスキーに対する一億八〇〇〇万円の債権の存在すらもみとめようとしない。この債権を否定されるのは、当社にとってまさしく死活問題である。そこでやむを得ず、当社はアスキーに支払うべきメディア料の総額がこの債権の総額に達するまで、支払行為を止めることにした。  すると、対するアスキーは、日本橋のプロバイダー設備のリース料の支払いを止めた。このリース料金は契約でアスキーが支払うことになっていたものである。おそらくこの措置は、当社がメディア料を支払わないことに対するアスキー側の制裁行為なのだろう。  しかし、我々も、当社とリース会社との間で結んでいたリース契約と一文字一句違わない契約書を、念のため当社とアスキーとの間で結んでいた。彼らが支払いをしなければ、当社がリース会社から求められるのと同様、彼らは当社からリース契約の解約金を請求されるのである。  ただ、ここでアスキーと言い争いを続けても時間と金がいたずらに浪費されるだけだった。  結局、アスキーとの論争は双方譲らぬ姿勢のまま、当社は倒産を迎えることになる。  さて、話は一カ月ほど溯る。九月に入ったばかりのこと。久しぶりに、西沢さんが支援の話を持ってきた。(彼は、当社の役員ではあったが、毎日出社していたわけではなかった)。  相手は大日本印刷だった。西沢さんは多くの有能な企業人を知っているが、大日本印刷の佐藤通次専務もその内の一人だった。大日本印刷はこのところ、デジタル分野への進出を急速に進めており、インターネット関連の事業にも強い興味を持っているということだった。  西沢さんは、ぼくと森下に言った。「佐藤専務と大日本印刷の取締役に対してプレゼンをしてほしい」  ぼくは西沢さんの指示を受け、すぐに大日本印刷の方々にハイパーシステムと当社の現状についての説明をした。ぼくは当社の将来性を語り、それと同時に現在の苦境をすべてさらけ出した。プレゼンの成果だろうか、その場に居合わせた大日本印刷の取締役の一人は、当社の事業を評価してくれ、「前向きに検討させてください」とまで言ってくれた。  その日以来、我々は数回にわたって佐藤専務はじめ大日本印刷の役員の方々に会い、当社の財務状況について話し合った。その後、ぼくは西沢さんを通じて、大日本印刷が口頭ではあるが、当社を支援する方向であると聞いた。  大日本印刷の支援が実現すれば、株式所有比率は大きく動く。ぼくは社外ナンバーワン株主である郡司さんに報告にいった。久しぶりの面会だ。二月の増資の相談以来だろうか。  ハイパーネット設立当初、ぼくは困ったことがある度に郡司さんに甘えていた。だから逆にここ数カ月の深刻な状況を郡司さんにはいえなかった。だが、今回の大日本印刷の支援はけっして悪い話ではない。「どう?  大変みたいだね」。郡司さんはいつも冷静である。状況も把握しているようだ。「ええ、このところ資金難が続いています。いろいろなところに支援の申し出をしているのですが、最後の最後でボツになることが続いています」「うん」「それで、まだ正式に決まったわけではありませんが、やっとこの状況を脱出できるかもしれません。大日本印刷の専務とお話したところ、当社を支援してくれそうなんです」「ほんとう」「ええ、それで資本の移動があると思います、大日本の支援が実現すれば、彼らに大きく株式のシェアを譲らなければならないでしょう」「そうだろうね。わかった。事態が進展したら、また連絡してください」  郡司さんは事態の飲み込みが早かった。この状況下で株式シェアにこだわったりしない。むしろ、ほっとしたような顔で、彼は基本的にこの提携を承諾してくれた。  その後、ぼくと森下は、佐藤専務に同行して、日本興業銀行の齋藤宏常務を訪問した。いくら大日本でも、いきなり当社に資金を投入するわけにはいかない。そこで佐藤専務の力を借り、大日本のメインバンクである興銀に当座の援助をお願いすることになったわけだ。  実は、ぼくは齋藤常務には何度もお会いしたことがあった。彼は以前東京支店の支店長をしており、当社が興銀から最初の融資を受ける際、ぼくは住友の国重さんの紹介で齋藤さんを訪問したのである。以来、興銀に対する当社の事業説明は、齋藤さんにしていたのだ。彼が常務に昇格するとともに、当社の担当は興銀の東京支店から本店のメディア通信営業部へと移った。その齋藤常務は佐藤専務の一連の支援要請を聞いた後、ぼくに聞いてきた。「住友の融資残高が随分減っているようだけど、国重さんの異動と関係あるんですか?」「いや、それは、ぼくにはわかりません」  ぼくは言った。知る由もなかった。「そうですか。ところで事業はどんな具合ですか」、齋藤常務は質問を変えた。「当初の事業計画を大きく下回っています。そこで、事業方針も変更しました。広告収入に頼りきりにならず、ハイパーシステムをライセンス化して展開する方向です。すでに韓国では実績がありますし、他にも海外から引き合いがきています」「そうですか」  それから、いくつかの簡単な質問があり、お開きとなった。  佐藤専務は「齋藤常務が動いてくれそうだね」と話した。ぼくにはよくわからなかった。もはやその言葉を信じるしかなかった。いずれにせよ、この話

が実現すれば、営業上の支援を大日本印刷にお願いし、資金面な支援を日本興業銀行にお願いするという段取りになる。あとはアクシデントがないことを祈るばかりだ。  九七年九月下旬の土曜日、当社の社長室のメンバー、西沢さん、森下、ぼく、それに大日本印刷の企画部長が集まり、日本興業銀行に当社と大日本印刷の連名で提出する事業計画書を作成した。できあがったのは日曜日の深夜だった。当社の財務状況を一万円単位で細かく調べ上げ、未払いの金額や将来必要な資金などもこと細かに積み上げた詳細な内容だった。  ぼくはこのとき、良くも悪くも大企業の現場がどんな論理で動いているのか、大日本の企画部長を通して知ることになった。たとえば、将来の目標数値のできあがる根拠と現在の数字の正確さとを天秤にかけると、将来の数値の根拠よりも、足元の数字の正確さ、それも数万円数千円単位の違いにまで神経質に追求することを重んじる。ぼくの経営とはまったく逆だった。数万円の違いより、数カ月先の売り上げ予想根拠のほうを重んじてきたのがぼくの流儀だった。文化の違いを感じた。でも提携が実現したら、そんな違う文化をお互いに取り入れるのもいいかもしれない――。このときは、そんな風にのんきに考えたりもした。  九月二九日月曜日。ぼくたちは、朝早くから出勤していた。  大日本印刷から電話がかかってくるのを待つためだ。この日、大日本印刷が当社と共同で作成した事業計画書を携え、正式に興銀を訪問する。そして、大日本印刷と興銀の間で、我々が興銀の担当者にお目にかかって事業計画を説明する日時を決定してもらう。そういう段取りだった。  ぼくと森下そして社長室のメンバーは、事業計画書の変更や突然のプレゼンに備えるため、すべての予定をキャンセルして待機していた。この日ばかりは金融機関からの返済要求のアポイントメントもすべて断っていた。大日本印刷との提携のための打ち合わせと話すと、彼らも遠慮してくれた。  新建材の臭いがまだ漂う会長兼社長室で、ぼくは森下とこれまでの半年間を振り返りながら話をしていた。二月の増資がうまくいったこと、銀行のいったん返済話をうっかり信用したこと、インターネット広告市場の成長が遅いこと、森下が以前取締役に就いていた会社が経営破綻して新聞で取り上げられていること、是枝さんの好意を断ってしまったこと、孫さんと会ったこと、それに最近の自分も含めた役員達の資金難のこと。当社の役員は二月以降報酬を全く受け取っていなかった。話が尽きれば、また出来上がったばかりの事業計画書を何度も読み返す。それにしても久しぶりに静かな一日だった。  話も尽きた。すでに八時間が経過した。そろそろ日も落ちる。なのに一向に連絡はない。  ぼくはしびれを切らして、森下に連絡を取ってみるように促した。  森下は西沢さんに電話をいれた。「いま、こっちから連絡しようと思っていたところだ」  西沢さんは言った。いやな予感がした。  西沢さんの話によれば、興銀内部で当社に対する支援を保留したほうがいいという意見が出たらしい。アスキーとの間の問題などが取りざたされたようだった。  大日本印刷の支援話は立ち消えとなった。そして数日後、西沢さんは当社の役員を辞めた。  大日本印刷との話では、九月末日一億三〇〇〇万円を緊急支援するということになっていた。日本興業銀行に融資をお願いできたとしても、とても九月末には間に合わないからである。大日本印刷の企画部長と我々で作成した事業計画にしても、実はそのほとんどが足元の数字に関するもので、そこに九月三〇日のこの一億三〇〇〇万円の支援が織り込まれていた。  しかし前項のトラブルから、大日本印刷から支援を受けられないことは明白だった。  当社はこのとき初めて、社員に対する給与遅配をせざるを得なくなった。緊急の全社集会を開いた。およそ七〇人の社員を一堂に集める機会はそうめったにない。  ぼくはオフィスに集まった七〇人の社員を目の前にして、改めてことの重大さを思い知らされた。ぼくたちの経営次第で彼らの生活は確実に脅かされるのだ。  しかし九月末については、もうどうにもならなかった。ぼくはすべて隠さずに説明し、社員の了解を取るように話した。社員は動揺していたが、罵声が発せられたりすることはなかった。また特別に質問もなかった。ぼくは、個別に質問や文句がある場合は、直接担当の役員にするように、と伝えて、この場を終わりにした。  大変なことになった。しかしぼくには、状況を説明する以外、社員たちにできることはなかった。  一〇月に入って数日たったある日。夏野がぼくに話があるとやってきた。  彼は退社を希望していた。彼によれば、個人の生活が苦しくなっているとのことだった。実はこの日、彼はぼくの手元に一通の電子メールを送っていた。その内容は、あとで確認すると、彼の退社理由をこと細かく書いたものだった。しかし、彼が辞めたがっていることを薄々感じていたぼくは、あえてこのメールを開いていなかった。そこで夏野はぼくの部屋に入ってきて、自ら退社を申し出てきたのである。  夏野を含め、当社の役員は九七年二月から役員報酬を全く受け取ることができなかった。このぼくも月五〇万円の家賃をすでに四カ月滞納し、自宅にあったオーディオを全て売却し、フェラーリも九七年二月の増資時に売り払っていた。幸いどちらも比較的いい値で売れたので生活は何とか維持できたが、苦しいことに変わりはなかった。  ぼくよりひどかったのは財務担当をしていた大内である。大内とぼくは一五年前の創業時からのチームだ。彼女とぼくはこんな状況を何度も経験している。そして何度もそれを乗り越えてきた。しかし彼女も家賃滞納によって二度の引越しを余儀なくされていた。保険を解約したりしながら、換金できるものはすべて現金に変えながら何とか生活していた。  森下も同じだった。ただ彼がほかの役員より環境が良かったのは実家に住んでいたことである。やはり究極の状況では、衣食住のうち、住が現実的に大きな負担となる。  ぼくの場合、白金の家に関しては、最初に保証金を多く入金していたので、四カ月の滞納でも追い出されることはなかった。しかしいずれにしても会社以上に役員の個人生活はぼろぼろであった。何とかこの会社を救おうとそれぞれに苦しい状況に耐えていたのである。  ぼく、大内、森下それに筒井はそれぞれに経営という現実を知っていた。ぼくと大内はこの一五年で、森下は自身で会社を経営したこともある。筒井は父親が経営者だった。  それに対し、夏野は自身の経験も環境もなかった。もともとが一流企業でエリートコースを歩んできた男である。実家からの借り入れなどでこれまでしのいできたというが、この一〇月末で家賃が滞納となってしまうという彼を引き止めるすべはなかった。「いままで良く耐えたね」  ぼくはそう言って彼を見送った。  実のところ、ぼくは五月のクーデター未遂事件以来、彼に対する見方が変わっていた。確かに仕事はできる。あの事件以降も精力的に仕事をしているし、

実際海外での実績が出てきていた。にもかかわらず、ぼくは彼に全権を委任して海外事業を任せきる自信がなかった。一度芽生えた不信の種が最後まで拭い去れなかったのである。  一〇月に入って、我々役員は連日会議を開いていた。もう中期的な対策などではなかった。毎日毎日押し掛ける金融機関への対応についての議論だけで精一杯だった。  例の銀行は相変わらず「お父さん」を繰り返している。ぼくと森下はかわるがわるこの対応にあたっていた。ほかの銀行も広告代理店からの売上金を直接拘束することで、我々から実質的にカネを取り上げていた。代理店からの売り上げが銀行に入る。もちろんその金を当てにして給料やその他の支払いにまわすつもりでいるわけだが、彼らはそれを融資の返済として拘束する。もちろん彼らは法律に反しているわけではない。しかし我々は明らかに収入を断たれてしまった。  九月中は、大日本印刷の支援があると称して銀行からの追求をなんとかかわしていた。それが駄目になった今、我々に盾となるものはもはや何もなかった。未払い金額は五億円に達していた。ちょっとしたソフトの開発を依頼している企業、インターネットの回線を契約している通信会社、広告を依頼している代理店などの取引先からの支払要請も強くなってきた。特に中小、零細企業だ。当社を信用して仕事をしてきたのに、カネが支払われない。本当に申し訳が立たない。しかし我々には何もできなかった。  毎日のようにやってくる債権の取り立てに対して、ある時はぼくの個人保証を書面で提供することによって、ある時は先付け小切手を切ることによって、なんとかきり抜けた。  ここで取り立て業務について述べておこう。実際には銀行などの金融機関を除く債権者からの取り立ては当社の経理部門が対応していた。  ときには、当社の経理担当の女性社員が胸ぐらをつかまれて怒鳴られる事もあった。この時はその女性社員が気転を利かせ、わざと泣き出してみせて追い返したという。またある時は当社の電子ロックの外に二 ~三人で何時間も居座り、出入りするうちの社員に対していろいろ話し掛けたらしい。「おたく、ハイパーの社員?」「はいそうです」「へえ ~、でさあ、先月給料出たの?」 「……」  こんな具合である。典型的な嫌がらせだった。  サラ金や街金融からの融資を全く受けていなかったはずなのに、電子ロックのドアの外には、その関係者とおぼしき人が何度か顔を出していた。うちの債権者の借金先なのかもしれなかった。いずれにせよ、ぼくの耳にはこういった話が毎日いくつも報告された。取引先の数は優に三〇〇社を超えていたから、押し掛けてくる人たちもほとんどぼくが見たことない方々だった。いずれにせよ、ぼくではなく、社員に圧力をかけられるのには参った。  ぼくの携帯電話に直接連絡してきたり、ぼく宛に面会を要求される方がはるかにましだった。ぼくが事情を説明し、必要ならばぼくが個人保証することで、相手もある程度は納得してくれるからだ。  問題はこのように間接的なプレッシャーをかけてくるやり方だった。社員の間には動揺が走り、社内は騒然とした。  我々は疲弊しきっていた。どんな対策を打ち出しても、どんな実績を持っても、誰もそれを聞いてはくれない。ぼくと森下はそれぞれ、金融機関との面会の隙間をぬって、商社をはじめ大企業へ救済を打診していた。丸紅、伊藤忠、セコム、 CSK……、数え上げたらきりがない。しかしここまで状況が悪化してしまうと、どの会社も支援を躊躇する。当然の話だ。  彼らの返事は、いつもこうだった。「事業には大変興味はあるが、一社では重過ぎる」  ぼくの脳裏を「破産」という言葉がちらつきはじめた。  森下が、ひとつアイデアを出した。「増資をしたらどうだろう」  つまり事業内容に対しては評価するが一社で負担するには重過ぎる、と各社がいうのならば、増資によって複数の企業から資金を調達したらどうか、ということである。  この段階で増資。かなりとっぴな案だが、悪くない。ぼくは賛成した。ただし一つ条件をつけた。  増資を実行するのは、当社が現在の苦境を脱するだけの資金が十分調達できると判断したときに限る。一時しのぎにすぎないような額しか集まりそうにないと判断したときは増資をしない。一時しのぎは、次の一時しのぎを生む。そして最後に待っているのは破滅だ。そうなれば、増資に応じてくれた人に損害を与えることになる。もう、この会社を評価してくれてきた人々に損害を与えるような真似はしたくなかったのだ。  とはいうものの、当社が完全に復帰するためには相当の額の増資が必要だった。単純に資金繰りの不足額だけでも五億円。そのほとんどが銀行からの返済要求を満たすためである。それに、これまでの信用不安による受注減などの影響を考えると優に一〇億円は必要だった。給与遅配や信用不安などもあって、売り上げは最盛期の三分の一以下、月額三〇〇〇万円まで落ち込んでいた。  一方、増資の案に筒井は反対だった。彼が担当していた IMSの問題があったからである。実は、筒井は九月頃から IMS事業を外部に売却できないか調査していた。 IMSは多数の広告クライアントを抱えているだけに、もし当社に万が一(もはや万が一とはいえないのではあるが)のことがあったら、非常に多くの関係者に迷惑をかけることになる。  幸い IMSの事業自体は広告業界を中心に評価が高かったため、この事業をクライアントごと他社に売却することで、ユーザー保護と資金調達の両方を同時に達成しよう、というのが筒井の腹積もりだった。ただ、増資を成功させるために IMSは欠かせなかった。増資をするならば IMSを外部に売却するわけにはいかなかった。森下とぼくは最後の賭けに出ることを、筒井は目の前の現実を見据え IMSの売却を、と議論は続いていた。  ぼくは迷っていた。増資の可能性は非常に薄かった。だから現実的な路線を取って IMSを売却するべきなのかもしれない。筒井の話には説得力があった。  将来のことは、結局自分で決めるしかない。ぼくは十数年間の起業家生活で何度も苦境を経験し、いつも奇蹟か魔法かというような資金調達を果たして乗り切ってきた。  決断のときだった。ぼくは決めた。最後の賭けに出よう。  ぼくは、筒井の反対を押しきり、増資を決定した。  とにかく、一番大切な社員の給与をどうしても支払いたかった。ぼくはありとあらゆる当社の資産を金に変えることを考えていた。  その中にハイパーネットコーリアの株があった。  もちろん他にもハイパーシステムの三〇万人にも及ぶデータベース、ハイパーシステムの特許出願権、さらに筒井がこだわっていた IMS部門等々、売り物

になりそうなものは社内にまだあった。ただしそれらはいずれも売却してしまったらその後の事業展開に大きく支障をきたす。  その中にあってハイパーネットコーリアの株式だけは性格が違っていた。当社はハイパーネットコーリアからのロイヤルティ収入という契約があった。このため同社の株式を売却すれば、将来のキャピタルゲインを失う可能性はあった。が、ロイヤルティは確保できる。それよりも現状の苦境を脱することが先決だ。  幸い、出資当時日本円で約七〇〇〇万円だったこの株式を、ある人が引き取ってくれるという。その人は二月の増資に乗ってくれた当社の取引代理店の方だった。  ぼくは、どうしても支払わなければならない社員の給与や小切手決済のための資金を、これでまかない、一一月末の増資までの時間稼ぎをすることにした。  先方の広告代理店の方とは、一〇月末日にハイパーネットコーリアの株式の売買費用を振り込むという話で進んでいた。ぼくは九月の給与遅配から毎週のように行われていた全社集会でこの話をし、一〇月末には給与の未払い分を支払えることを社員に告げた。  一〇月末の振り込み日、先方から電話があった。これから当社にくるというのである。  いやな予感がした。  先方が到着すると、この方は申し訳なさそうに話した。  株式の買い取りはできなくなった、ということだった。  実は買い取りの資金は、先方の取引のある銀行から融資を受ける予定だったそうだ。ところが実際に融資を受け取るその日に、その銀行から用途を聞かれて当社の名前を告げたというのだ。するとその銀行は、あそこに投資するのはやめなさいと言い、この方への融資を突然断ってきたというのだ。ちなみにこの銀行、もっともつき合いの深い銀行の一つだった。  やられた。  自暴自棄というのはこういう感覚なのだろう。ぼくは本当にどうでもよくなってきた。  そして同じ日の午後。  またも給与を当日になって支払えなくなってしまった。これで二カ月目である。  夕方、ぼくは総務に指示をして、オフィスにいた六〇人ほどの社員を集め、事情説明をすることにした。オフィスの入り口近くのスペースに皆を立たせ、ぼく、森下、大内ら役員が前に並んだ。  気が重かったが、ぼくは率直に話すことに決めた。「今朝、予定していた入金が先方の都合で突然キャンセルされた。……そこで先月に引き続き、給料が支払えない」  ぼくの顔を見つめていたスタッフの間にざわめきが走った。かまわず話を続けた。「みなさん、未払いの給料がどうなるのか、非情に心配だと思います。ただ、いろいろ策は打っていますが、いま確実にいえることは何もありません。申し訳ない」  意見する者は誰もいなかった。彼ら社員も、我々役員も、ただ立ち尽くしていた。ところどころでささやき声が聞こえるだけだった。いっそ罵声を浴びせてもらった方が、まだ気が楽だった。  一分程度の時間だったのだろうが、ぼくにとっては気が遠くなるほどの時が過ぎた。ようやく何人かが質問をしてきた。よほど動揺していたのに違いない。ぼくは、何を聞かれどう答えたか、今でも思い出すことができない。  質問が一巡した。誰も動こうとはしなかった。隣で立っていた森下がぼくの方を向いた。ぼくは黙っていた。彼は再び皆の方に顔を向けると、この「会議」の締めの台詞を口にした。「以上です」。いつもならばこの台詞を言うのはぼくの役目だった。  それでも社員たちは、しばらくその場に立っていた。そして、まるでスローモーションの画像を見るかのごとく、彼らは一人、また一人とその場からゆっくり離れていった。皆が立ち去るまでぼくは金縛りにあったように動けなかった。声をかけてくる者は誰もいなかった。  翌日から日に日に、営業部門を中心に出社する社員が減っていった。再就職先をさがし、面接にいく者、個人的な資金調達にいく者などが増えていった。もちろん、こちらにそれを止める権利はなかった。  しかも一一月に入ると、突然当社内に労働組合ができた。ある社員が弁護士に相談し、設立したらしい。我々と対立するためにつくったわけではないが、目的は明白だった。労働賃金の可及的速やかな回収である。参加した社員は全体の八割。ぼくや財務担当に対する彼らの質問は専門色を帯びてきた。しかしこの時点で労働基準法などを持ち出されても、対処のしようがなかった。  彼らのやっていることは間違ってはいなかった。自分が同じ立場だったら、やはり最低限得るべき権利を主張するだろう。間違っているのは、会社を傾けてしまったぼくの方だ。迷惑をかけているのもぼくの方だ。そう理屈では分かっていても、やはりぼくは脱力しつつあった。  何のために、誰のために、おれは会社を維持しようとしているのか。株主か?  金融機関か?  ユーザーか?  クライアントか?  それとも社員か?  いや、やはり自分のためか?  もはや誰のためでもないような気がしてきた。誰も望んでいないような気がした。それでもまだどこかで、「ここでつぶしてたまるか」という声がしていた。その声だけがぼくの頼りだった。  増資には、臨時株主総会を開く必要があった。そして、これが心配の種だった。  今回の増資を実現させねば、もう後がない。そのためにはしかし、株価を下げる必要がある。そこで当社では前回二月の増資のときの一二〇万円という株価を大幅に下げ、一五万円という設定にした。となると、二月の増資のときに出資してくれた株主は怒るに違いない。いや怒って当然だろう。わずか数カ月前の増資から一気に株価が八分の一になるのだから。  それでも株主に納得してもらうほかなかった。いま高い株価を設定すれば、今回の増資は難しい。増資ができなければ倒産する。倒産すれば既存株主にもっと迷惑をかける。ぼくは腹を決めた。  一〇月一四日、臨時株主総会の日である。  ぼくは、時間になるまで社長室で待っていた。社長室にいた社員に出席や委任状の状況を聞いた。当時の株主は六〇人ほどだが、参加者はわずかに四人、その他はほとんど委任状による処理だった。すこし肩の荷が下りたような気がした。  株主総会は特に問題なく進み、満場一致でこの増資を可決した。よく考えてみればぼくより株主のほうがよっぽど利口なのである。いまさらここで騒いでも仕方ないといった諦めがあったのだろう。実際に総会に出席してくれたのは、今回の増資を最初に支持してくれたベンチャーキャピタルとぼくの友人だけだった。  あとは、全力で増資に走るしかない。ぼくと森下はそれまでかわるがわるやっていた金融機関の対応などを完全に分業することにした。森下が金融機関

などの対応、そしてぼくが増資関係である。一人の人間が、金融機関などを相手にした後ろ向きの話をしながら、増資のような前向きの話をするのは不可能だった。冗談ではあるが、増資の説明をしているときに混乱して、「ですから来月まで待ってください」なんて言いかねないのである。それほど我々は疲れていた。  金融機関の対応から開放されたぼくは、増資に走り回った。一一月はじめのことだ。まず訪れたのはベンチャーキャピタル。出だしは好調だった。最初に当社の増資の話に乗ってくれそうな反応を見せたのは JAFCO。一億から二億円はやりましょうといってくれた。もちろんこの段階では口頭での返事である。それでもまあ、最初が肝心だ。  次はニッセイキャピタルだった。同社は二月の増資のときにも投資してくれている。いわば、今回の株価大幅値下げに伴う増資で一番被害に遭っているベンチャーキャピタルでもある。にもかかわらず、担当者からは、「他社が出すのであれば、うちも出しましょう」と返事をもらった。  それから商社、事業会社とぼくは調子良くどんどん走っていった。ただし、いくつかの候補先から口頭でのいい返事をもらってはいたが、皆一様に同じ条件をつけてきた。すなわちリードインベスターがいた場合にのみ、増資をしましょうという話である。  一一月一〇日時点、当社は六億円前後の増資見込みを確保していた。問題はいまだにリードインベスターがいなかった。二月の増資時にリードインベスターとなってくれた NEDは、もはやリードインベスターどころか増資にも応じないという。現在、 NEDがどうなったかを考えれば、この対応もやむをえなかったのだろう。  もはや時間がない。口頭での返事をいくら集めても、リードインベスターがいなければ増資は実現しない。そんなとき、森下が自分のネットワークの中から華僑とコンタクトのある人を紹介してくれた。「この華僑はかなりの有力者らしいです」森下は言った。「うまくすれば、あるいはリードになってくれるかもしれません」  森下の話では、華僑の人間が一一月一七日に当社にくるというのである。あと一週間。しかもその日は、増資の申込書の期限であった。もちろん期限なんて気にしている場合ではなかった。  森下の得た情報によれば、その華僑は香港の超優良企業グループの長男だという。そしてその一族の将来の総帥らしい。その男が来社するというのだ。  ぼくは大いに期待した。一方で、ぼくの友人も偶然、こちらは台湾の華僑グループを紹介するといってきてくれた。しかしぼくには時間がなかった。両方同時に交渉するのは不可能に思えた。ぼくは一週間後に来社するという香港の華僑に賭けることにした。  現れた二〇代後半の彼は、絵に描いたように上品なお坊ちゃまであった。色白で少し太っていて、丸顔で、髪型はまるでリクルートカットである。スーツは見るからに英国風のかなり値の張るものだろう。彼に、ぼくはすべてを伝えた。  彼は真剣にこちらの話を聞いてくれていたようだが、通訳を通じて、「この場では決断できない」と言った。グループの代表者に判断を仰ぐ必要があるというのである。しかも一週間ほどの時間が要るとのことだった。言うことはよくわかった。時間はもはやないが、待つしかない。しかし、あと一週間か……。もはやデッド・ラインだ。  というのも、この話とちょうど同じ頃、引き金はすでに別のところで引かれたのである。  きっかけは、当社と取引のあるもう一つの都市銀行だった。  この銀行からの融資の残高は、当社の取引行のなかでも最も少なく三〇〇〇万円に過ぎなかった。しかし、一一月中旬、当社は約定弁済の五〇万円すら支払うことができなかった。このままでは不渡りが出る。そこで森下が、手形決済の前日にこの銀行に出向いた。なんとか決済を待ってほしいと交渉しに行ったのである。  森下が銀行に行ったその日、社会保険事務所に対する小切手の決済があった。社会保険事務所に対してはどんな交渉をしても無駄なことを、ぼくは過去の経験からよく知っていた。決済のための資金五〇〇万円をなんとか都合し、小切手の振出口座である先ほどの銀行に預金した。  さて翌日の午後二時すぎ、経理担当の大内が血相を変えてぼくと森下の部屋に入ってきた。「例の銀行から連絡があって、社会保険事務所の小切手が不渡りになるって」「えっ、昨日五〇〇万円入れたじゃないか」  ぼくは彼女に聞いた。「そうなんですよ。でも銀行の方が先に五〇万円落としたみたいなんです」「なんだ、それ?」  要するにこの銀行が社会保険事務所より先に自社の五〇万円の小切手を落とした、というのだ。無論、約定弁済の五〇万円分だ。その結果、残高は四五〇万円になる。結果、五〇〇万円の社会保険事務所の小切手が不渡りになったというわけである。「今何時?」。ぼくたちはみんなで時計を見た。「二時半」。大内が眉間に皺を寄せ、怒気を含んだ声で言う。「なんで今ごろ連絡来るんだよ。おかしいよ」思わずつぶやいた。  ぼくの経験では、当座預金の残高がマイナスになって不渡りが出そうなときは、通常午前中に銀行から連絡が来るものである。そうすればこちらの方も銀行の営業時間終了までに何とか不足金を手当てできる可能性があるからだ。  それをなぜこの銀行は営業時間終了三〇分前になって初めて連絡して来るんだろう。大内が怒るのももっともである。しかしここで文句を言っても始まらない。とにかくこの状況を回避するしかないのだ。ぼくたちは、足りない五〇万円をかき集める事にした。ぼくは聞いた。「わかった。いま会社にいくらある?」「二〇万円ぐらいです」。大内が答えた。「よし、今から誰かぼくの家に行って金を取ってきてくれ、多分二〇万円ぐらいあると思う」  この数カ月間、ぼくは全くの無収入だった。だから家財道具を質屋に入れたりしながら生活していた。この時はたまたま、オーディオ一式を下取専門店に入れたばかりだったため、そのくらいの金はあった。「おれも少し持ってる」  森下が財布の中から一万円札を何枚か出した。「ああ、これでまたカードの支払いができなくなる」  森下がにやっと笑う。もちろん冗談じゃない。本当の話だ。けれど軽口のひとつでもたたかなければ、もうやっていられなかった。「じゃあ、とにかくおれの家に行って金がそろったら、あの銀行に行ってくれ」「わかりました」大内は答えた。  もちろん銀行の方は何ら違法なことをしたわけではない。それにしても、なぜ二時三〇分などという取引終了時間のぎりぎりになってそれを伝えてくる

のだろう。いずれにせよ、ぼくたちは五〇万円をみんなの財布の中から集めて、銀行へ持っていくしか方法がなかった。そうしなければ、増資の前に不渡りをくらってしまう。  ぼくの家からカネを調達した大内は五〇万円をもってこの銀行の支店へ急いだ。すでに三時を回っていた。ただ一般的にいって銀行は不渡りになるような状態であれば、六時ごろまでは資金を受け取ってくれる。ぼくと大内は過去の経験からそれを知っていた。「残念ながら、もう時間をすぎました」銀行の担当者は大内をこういってあしらおうとした。もう手後れだというのである。まだ四時だ、そんなはずはない。「この五〇万円で本日の不渡りを回避したいわけですね」「ええ、そうです。お願いします」「わかりました。じゃあ、一二月一日の日付で残りの融資残高二九五〇万円の小切手を切ってください。そうすれば本日の五〇万円は受け取りましょう」  何てことだ。一二月一日に全部耳を揃えて返せだと。  緊張の糸が、ここでぷっつりと切れた。  ぼくは、銀行が用意した紙にサインをした。五〇万円は受け取られ、とりあえず不渡りは回避した。そして同時にハイパーネットの Xデイが決まった。サインした小切手は二九五〇万円。そんなカネ、どこを見渡してもあるわけがない。  実は以前から、この銀行はぼくがどこかに個人資産を隠しているのではとしばしば追及してきた。会社の状況をいくら説明しても、うちから借りている三〇〇〇万円ぐらいは個人で持ちあわせているに決まっていると主張していた。もちろんぼくにそんなカネはない。三〇〇〇万円はおろか三〇万円もなかったのだ。  そう話すと、銀行の担当者は、それなら資産がない証拠を出せという。いったいどこの世界に資産がないことを証明する方法があるだろうか。むろん、彼らはぼくに三〇〇〇万円を返してもらう権利があり、ぼくは彼らに三〇〇〇万円を返さなければならない義務がある。すべては義務を果たしていないぼくの責任なのだ。  いずれにせよ、終末の日は決定した。  この頃、当社の取引先から奇妙な情報が寄せられた。当社が不渡りを出したというのだ。そんな事実はなかった。どこからそんな情報を得たのかとその取引先に聞くと、ある有名経済誌の記者が当社の複数の取引先に電子メールで「ハイパーネットの不渡りについて意見を聞きたい」という質問状を送ったということだった。  ぼくはすぐに、その経済誌の記者の出したメールのコピーを受け取り、同誌にクレームを入れた。当然なしのつぶてである。当社には営業妨害や名誉毀損などの訴訟をする時間も金もなかった。むろん彼らはそれを承知の上でやっているのだろう。  またちょうど同じ頃、ぼくの電話に住友銀行の調査部と称する人間から電話があった。この男はぼくに対して、当社が和議を申請したとの情報を得たというのである。おかしい。それがもし本当ならば、取引銀行がそんな情報を知らないわけがない。問い詰めると、男はいきなり電話を切った。住友の名をかたった嫌がらせ電話である。  当社の社員が大勢、再就職先を探していて、ぼくの知り合いの会社に集団でやってきたという、嘘か真かわからない情報も入ってきた。  自宅にも妙な電話が夜な夜なかかってきた。仕事に追いまくられていたこの当時、ぼくが家に戻るのは夜中の一二時をとうに過ぎていたのだが、そんな遅くに何本もの電話がかかってくる。受話器を上げる。と、同時に切れる。こんなのが毎夜続く。どう考えても嫌がらせであった。  さらに自宅には、個人保証をしているぼく宛に金融機関からの内容証明が毎日届く。もちろんぼくにはそれに対する資産なんて何もない。  いずれにしても、もはや残された手だてはなかった。一時は心機一転増資に走ったぼくだったが、もはや気力はなかった。当社の負債の九〇%は銀行やリース会社のものだった。ところがその銀行が、ぼくが必死で実現しようとした改善策、延命策を絶ってしまうかのような措置をとる。その繰り返しだった。助けようとしている人間に首を絞められているような気分だった。  生まれてこのかた、一度も思ったことのない感情がぼくの心の隅に宿り始めた。  ―――はやく、死んで、しまいたい。  それでも、まだ経済的にも肉体的にも死を遂げるわけには行かなかった。会社もさることながら自分のプライベートにおいてもさまざまな問題が山積みだった。まず家賃の滞納。だから引越しをしなければならないけれどその費用がない。個人の電話料、食費……会社とはケタが違っていたが、こうした問題はぼくの個人生活を直撃していた。  ぼくは疲れきって帰宅した。いつものように二匹の犬が大歓迎でぼくの帰宅を迎えてくれる。彼らには今のぼくの状況を理解してもらうことは不可能だ。むしろその無邪気な姿がぼくを少しだけ励ましてくれる。  問題は九六年一月からこの家で一緒に暮らすようになった彼女だった。  付き合ってから一年はすばらしく楽しい日々が続いた。ぼくにとって初めての家族だった。かわいい彼女と二匹の犬。自宅でのカラオケ大会。映画鑑賞。フェラーリでのドライブ。夏には犬を連れて家族全員でキャンプ。もちろん釣りも一緒に行った。それらの幸せな生活も会社の状態とともに徐々に崩れていった。「殿。もう食費がない」彼女はつかれきって帰ってきたぼくにこういう。「ああそうだったね。それじゃ、これ」ぼくはそう言って、財布の中から一万円札を彼女に渡す。「それから、保険料の支払いが遅れてるの」「ああそうか、いくら」  ここ数カ月、毎日このような話が続いていた。彼女に罪はないが、このころのぼくは、別の言葉を彼女に期待していた。慰めて欲しかった。励まして欲しかった。  でも無理はない。ここのところ会社の状況に押されていたせいか、彼女に対して何もしてやれなかった。それどころか、ときには彼女に対して暴言を吐いたこともあった。「あのお」、犬とじゃれていたぼくに、彼女が言いにくそうに切り出した。「何?」「私、殿の怒鳴ったりするところが、あんまりすきじゃないから、ちょっと考えさせて欲しいの」「えっ」  予想していなかったわけではないが、とどめの一言だった。  確かにそれも彼女の本当の気持ちであろう。しかもぼくは彼女の母と妹の生活費も援助していた。それも滞りはじめていた。これでは、彼女が逃げ出す

のもしょうがない。「考えるぐらいだったら、もう別れよう」  ぼくは、きっぱりと整理したいという気持ちをこめて、そう言った。そう、ぼくにしても、会社で必死に資金調達に動いている彼らと、彼女の気持ちの落差に満足できないでいた。もちろん彼女にはそんな義務はない。しかし当時のぼくはそれを納得できないでいたのも事実だった。  ぼくには究極の状況でぼくを支えてくれる人がいないことを実感した。そしてそれは結局それまでのぼくがいたらなかったせいだということもわかっていた。会社を早々に辞めた社員にしても、この彼女にしても同じだった。ぼくの配慮が足りなかった。  まさにそのつけがぼくに回ってきたわけだ。  次の朝、ぼくは引越しサービス会社に電話をした。数日後、ぼくの荷物(といっても釣り道具くらいだが)と犬はぼくの実家に、彼女の荷物と彼女は、彼女の母親の部屋へと去っていった。  白金の家ともこれでおさらばだ。ぼくは最低限の荷物を旅行カバンに積め、友達の部屋やホテルなどを転々とすることにした。一五年前、浪人時代に父親と喧嘩して、家を飛び出たときと、同じ境遇に戻ったわけだ。一一月も下旬にさしかかる頃だった。

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