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[第 2章]展開 1992年 10月 ~ 95年8月

 ハイパーダイヤルは、ダイヤルQ2の規制で出鼻をくじかれてしまった。だが悩んでいても、事態は好転しない。とにかく客を増やそう。ぼくは雑誌媒体と提携を結ぶべく、とりあえず営業活動に力を入れた。  九二年一〇月、新人女性社員を一人連れてぼくが訪れたのは、あるサッカー雑誌の編集部だった。当時はJリーグがスタートしたばかりで一大サッカーブームが巻き起こっていた。これを利用しない手はない。ぼくはハイパーダイヤルにサッカーフォーラムをつくり、スポンサー獲得を急いだ。このサッカー雑誌もスポンサー候補の一つというわけである。  編集部の片隅の応接間で、ぼくは、編集長にハイパーダイヤルのプレゼンを始めた。ざっとこんな具合だ──。  まず、弊社のハイパーダイヤルに、そちらの雑誌の読者専用のコーナーを作り、誌面で告知します。雑誌の告知を見て興味を持った読者はこのコーナーへ電話をかけ、サッカーに関する伝言や会話を楽しむ、というわけです。読者に喜ばれるのはもちろん、雑誌の方でも毎回最新号の発行情報などをタイムリーに宣伝できます。どうです一石二鳥でしょう──。  二〇分ほどでプレゼンが終わった。「いかがですか。雑誌のファンを増やすのにうってつけの手段だと思うんですが」 「……」 「(うーん、駄目かな)、あのお、どうでしょう?」  編集長は口を閉じたまま、机の隅に積んであったはがきの束を取り上げた。そして、こちらの質問には答えずに、「実はさあ、ここにある応募はがきの処理で困ってるんだけど、オタクなら何とかできるんじゃない」と言って、その束をぼくに渡した。「え?」  はがきの束は、雑誌のプレゼント・コーナーに応募してきた読者からのものだった。ちなみにその雑誌の読者プレゼントの中身は、Jリーグの選手が着ていたシャツやシューズなど。ブームの真っ最中だけに、読者の人気たるやすさまじいものがあった。当然のごとく応募はがきの数も数万通という大変な数になった──ということだった。  読者プレゼントというのは、雑誌にとって二つの意味を持っている。まず一つはプレゼントをエサに読者を獲得すること。そしてもう一つは、アンケートはがきに答えてもらって読者の情報ニーズを探ることである。  そういう意味で大量のはがきが届いたというのは、読者獲得というプレゼント第一の目的を果たしたわけだ。ただし、一方で、あまりに大量のはがきが集まると、アンケート結果の集計に手が回らなくなってしまう。すなわち二番目の目的が果たせなくなる。そのうえ、はがきの保管スペースも用意しなければならないという物理的な問題までが生じる。  そこで、この編集長はぼくに、代わりに集計してくれないか、といっているのであった。ぼくはとにかく返事をした。「ええ、なんとかなりますよ」  全然なるわけがない。思わず勢いでイエスと言ったものの、具体的な手段はもちろん、ぼんやりとしたアイデアすらなかった。となりに座っている新入社員の手前、みっともない姿は晒したくない、という見栄も働いていたかもしれない。編集部を後にして、ぼくらは車に乗り込んだ。「どうする?」「どうしましょう?」「うちの機械でさっきの読者アンケートみたいなものを受け付けられるかなあ」  新米社員から有効な答えが返ってくるとは思わなかったが、とりあえずぼくは聞いてみた。「できるんじゃないですか」  きょとんとした顔で、彼女は言った。「おまえなあ」  ぼくはあきれてこの新米社員をにらみつけた。「よくいうよ。技術の事なんかわかんないくせに」「えっ、でも、できるとおもいますよ」  なかなかにめげない子である。「ほんとかよ」  たわいないやりとりの間、ぼく自身は技術的にはなんとか実現可能じゃないか、と思い始めていた。それにしても、この新人社員のポジティブといえばポジティブ、何も考えてないといえば考えていない楽観主義にはあきれてしまった。  でも、今のぼくにはこのくらいの楽観性が必要だった。ダイヤルQ2の規制が進めば、いくら営業に力を入れようがハイパーダイヤルの事業が好転することはまず考えられなかった。そんな時にあまり深刻に考え込んでもしょうがない。とにかく商売のネタになりそうな話は、たとえどんなに小さなものであっても拾ってしまおう。  そう思って訪れたのが例のサッカー雑誌の編集部だった。で、我々は、とりあえずネタになりそうなものを一つ、拾ってきた。このネタを事業化できるだろうか。ぼくは、「できるとおもいますよ」と軽く答えた新米女子社員の一言にかけることにした。  数週間後、ぼくの頭には新しい事業のアイデアができあがっていた。骨子は実に単純だ。要するに、はがきを使う代わりに、電話でプレゼント応募の受付とアンケート調査をするのである。それも人が対応するいわゆるテレマーケティングではなく、コンピュータを利用した音声応答装置を活用する。こうすれば、人件費の節約になり、一通話あたりのコストを相当下げることができる。実現すれば、件のサッカー雑誌の編集長の悩みを解決するばかりでなく、我々に新たな事業への道を開いてくれるはずだ。  もちろん問題はあった。当選者に実際にプレゼントを送るためには相手の住所が必要だ。アンケートの回答自体は、プッシュボタンで音声ガイダンスにしたがって入力してもらえれば簡単に集計できるが、住所や名前といった情報は、この方法では集計できない。相手に話してもらいその音声をもとに集計するとなると、相応の技術がいる。が、逆にいえばこの問題を解決する技術を持てば、当社にとって商売上の強力な武器になるはずだ。  ぼくはこのアイデアを事業化すべく、一般消費者から寄せられる住所や氏名を効率よくテキストに変換するシステムの開発に着手した。とはいっても、音声認識なんて高度な技術がうちの会社にあるわけがない。無論、そんな機械も持ってない。ならば、どうする。  こんなときは、頭を使う。音声認識とはそもそもなにか。簡単に言えば、ひとのしゃべった音声をしかるべき機械が認識して、テキストデータに「書き

起こす」システムである。今回の場合、電話でユーザーが伝えた音声情報の中身を「効率よく」テキストデータに変換する「仕組み」をつくれば、それは音声認識システムを利用するのと結果として変わらない。「音声 →テキスト」変換の作業自体は、別に「しかるべき」機械を使わなくてもいいのである。極端な話、もしできるならば、猿に任せても構わない。クライアントにとって重要なのは、どんな技術で情報を処理するかではなく、いかに速くいかに安く処理するか、だからだ。  ここまで説明すれば、だいたいわかるだろう。ぼくの考えた方法では、機械の代わりに人間を使う。オペレーターが、ユーザーから電話を介して伝わった音声情報を聞き取り、そのままテキストデータとしてパソコンに入力する。種を明かせば、馬鹿馬鹿しいくらい単純なやり方だ。  ただし、オペレーターもプロを使うと高くつく。だからといって新米に任せると聞き取りに時間がかかり、入力が遅れる。そこで、もう一度頭を使う。今回の場合、聞き取ってほしい情報とは、ユーザーの「住所」である。ということは、オペレーターに求められるのは、ユーザーが電話口で伝え、いったん録音された住所を間違えることなく聞き取り、入力することである。すなわち、未熟なオペレーターでも正確かつ素早く住所を聞き取れるような工夫が必要だ。  ぼくはいろいろ考えた挙句、まず、都道府県から市町村、さらに細かな町名まで、とにかく日本全国のあらゆる地名のデータベースを作ることにした。オペレーターは、このデータベースから応募者が言った住所と合致する地名を端末画面から探し、選択するわけだ。こうすれば、高給で熟練オペレーターを雇う必要はない。作業が簡単だから人集めもたやすい。  もちろん改良しなければならない点はいくつもあった。本格稼動後にわかったことだが、例えば、「なまり」の問題。ユーザーの発音になまりがあるとオペレーターも住所を認識できなくなってしまうことがある。それから、ユーザーがよどみなく自分の住所を言えるとは限らない。すなわち、言葉のあいだに、「あー」「えー」「う ー」などと間投詞を入れてしまうケースが多々ある。そうなるとオペレーターの聞き取りや打ち込みにどうしても時間がかかってしまう。  そのあたりは、仕方がない。ベンチャー事業のしょっぱなに問題はつきものだ。  一一月、つぎはぎだらけではあったが、なんとかシステムが完成した。ぼくはこのシステムに IMS( Interactive Marketing Service)という名をつけ、営業を開始した。営業部隊、といってもメンバーはたった二人。ぼく、そしてぼくと一緒にサッカー雑誌を訪れた新人女性社員である。   IMSの売り込み先としては、さまざまな分野が考えられた。開発のきっかけとなった雑誌のアンケート調査はもちろん、企業の懸賞広告から通信販売まで大規模な電話受付業務のあるところは、すべて商売の対象になるはずだ。我々の試算では、従来の人手(しかも、コストのかかる専門オペレーター)に頼ったテレマーケティングに比べ、 IMSは最大十分の一までコストを押さえることができる。だから、その市場競争力には自信があった。  例えば、ある企業が電話受付による懸賞広告を活用して自社商品に興味のある「見込み顧客リスト」を作成する、と考えてみよう。この場合、従来の専門オペレーターを使ったテレマーケティングは使えない。実際に商品が売れる通信販売の場合ならば、マーケティングコストをあらかじめ商品価格に上乗せすればよいが、懸賞に応募してきただけの客に応対するのに一対話数百円もの費用はとてもかけられないからだ。でも、その問題も IMSの活用で解決できる。マーケティングコストを大幅に削減できる。   IMSが売れる、とぼくがにらんでいたのには、もう一つ理由がある。以前から雑誌や新聞の広告がどの程度効果を持っているのか疑問に思っていた。前にも書いたが、例のハイパーダイヤルでいろいろな雑誌に広告を打ったときにどの程度客寄せに役立ったかが今一つ見えなかったからだ。だからこそ、ぼくは、多くの広告主が自分と同じような疑問を持っているに違いないと感じていた。  広告がどれほどの人間に情報を伝え、さらにそのうちどれだけの人が興味を示し実際に商品を購入してくれるか──。広告主としては、この「広告効果」を具体的に知りたい。そこで IMSによるテレマーケティングの出番である。うまく活用すれば広告の効果を詳細なデータとともに掌握できるからだ。  一例が先ほどから話に出ている「懸賞広告」だ。商品広告の中で電話受付による懸賞を実施すれば、その商品に興味のある人間に関する名前、住所、簡単なプロフィールといったデータを集められる。しかも、広告媒体ごとに掲載電話番号を変えておけば、どの媒体の広告を見て電話した人間が多かったかが判明する。すなわち媒体ごとの「広告効果」がわかるのだ。  消費者にとっても、電話を使ったアンケートは気軽でアプローチがしやすい。たとえ魅力的な懸賞がついていても、懸賞マニアを除く一般の人々にとっては、いちいち官製はがきを買ってきて必要事項を記入して投函するのはかなり面倒な作業だ。それが、 IMSを活用することで、企業の広告に興味を持ったけれどアンケート付きの懸賞にいちいち応募するほどは……といった消費者層の反応も期待できる。  それに、我が社にとって IMSは初期投資のほとんどいらない新規事業だった。ハイパーダイヤルで利用していたリソース(音声応答装置や電話回線やそれらを駆動していたソフトウエア)がすべて流用できたからである。  結局、最初にアプローチをしたサッカー雑誌から受注はなかった。でも受注より大切な事業のヒントをもらったからそれでよしとするか。  この IMSをどうプロモーションするか。ぼくが考えたのは、まず新聞に紹介してもらうことだった。残念ながら当時のハイパーネットに、宣伝費にお金を割ける余裕はなかった。となれば、やはり記事として取り上げてもらうのが、一番効果的である。  ボイスリンクのころから、ぼくは、どんな風にニュースを流せば新聞が記事として取り上げてくれるか、いろいろとノウハウを学んでいた。大手新聞が記事にすれば、下手な広告よりもはるかに宣伝効果がある。いろいろな企業が飛びついてくるに違いない。とまあ、ぼくはやや安易に考えていた。さっそく、うちに取材に来たことのある何人かの新聞記者にプレス・リリースを送った。  ところが、待てど暮らせど、誰も取材にこない。  考えてみれば、まだ何の実体もない話である。いかにユニークなアイデアであろうと、すぐに新聞記者が飛びつくだろうというのは、いささか身勝手な考えだった。どうやら、自分の思いつきに酔いすぎた。  こんなときはどうする。やはり、地道な営業しかない。自らの足で営業しなければ、どんなに良いものでも売れないのだ。正攻法でいこう。ぼくはメディア頼りの甘っちょろい態度を改め、広告代理店という広告代理店を片っ端から訪問することにした。  九二年一二月、ぼくは中堅広告代理店、エスピー三晃を訪問した。知人がそこの専務と面識がある──、この会社とのコネクションはそれだけだった。名刺を交換したぼくは、いつものように IMSのプレゼンを始めた。  しかし、専務の反応は今一つだった。「うーん、ピンとこないなあ」「え、どうしてですか。顧客に対するサービス水準も上げられるし、潜在需要も把握できる。一石二鳥じゃないですか」「いやね、そもそもの話、電話で、というのが引っかかるんですよねえ」 「?」「板倉さん、うちのクライアントは結構大手が多いんですよ。例えば、日本航空さんとかヤマハ発動機さんとかね。で、このクラスの企業のサービスや商品を購入するお客さんは、電話で受け付けるっていうのは、嫌がるんじゃないですか。ぼくはそう思うなあ」

そんなことはない。反論したかったが、反証材料は何もない。ぼくは IMSを利用したマーケティング効果について力説したが、もはやほとんど相手にしてもらえなかった。  営業を開始して二カ月、受注はまったくなかった。当初の意気込みはどこへやら、ぼくは暗い年末年始を送る羽目に陥った。  年が明けて一九九三年正月。唐突だが、ぼくは元気を取り戻した。新年早々、 IMSの受注を成し遂げ、何とかこの会社を軌道に乗せよう──、何の根拠も無かったが、ぼくはこんな具合に意気込んでいた。落ち込んでいたのはほんの一〇日前のことである。そんなすばやく立ち直れるのか?  そう思われてもしょうがない。ここで立ち直ってしまうのが物心ついた頃からのぼくの性分なのである。そもそもこの程度でずっと落ち込んでいたら、ベンチャー経営者なんかやってられない。  一月七日、ぼくは、新年初出社の朝に、日本中のどの会社もそうであるように全社員をオフィスに集め、新年の挨拶を行い、気勢を上げていた。だが、元気がよいのはどうやらぼくだけのようだった。目の前の社員たちはあからさまに元気がない、少なくともぼくにはそう見えた。  困ったもんだ、内心いらいらしてきたところに、一本の電話がかかってきたのである。  近くにいた社員が電話をとった。「社長に御電話です」「誰からだ?」「広告代理店です。ええっと、えす、えすぴ……」  電話は、エスピー三晃からだった。昨年専務のところにプレゼンに行ったときは、まったく気のなさそうな様子だったのに……、ぼくは受話器をとった。「板倉社長ですか。あけましておめでとうございます」  電話の向こうから聞こえてきたのは、専務の声ではなかった。「この前、弊社の専務と同席させて頂きました × ×です」  思い出した。専務の横に座って、ぼくのプレゼンを聞いていたエスピー三晃の若い営業マンだ。あの時は、専務の陰に隠れていたせいもあって、ほとんど言葉を交わさなかった。その彼がいったい何の用だろう。戸惑っていると、彼は言った。「ぜひ、当社で IMSを使わせてください。お願いします」  さすがにぼくも驚いた。新年早々いきなり初の受注が決定してしまった。それにしてもどういう風の吹き回しだ。受注した嬉しさに酔う、というよりは、事態の急展開をいぶかしむぼくに、電話口の相手は、「ハイパーネットさんが弊社にいらしたわりとすぐ後の話なんですけど……」と説明を始めた。「ほら、あのときも名前の挙がってたヤマハ発動機、そのヤマハさんが、うちも含めた広告代理店四社に対し競合プレゼンをやったんですよ」  競合プレゼンというのは、一つの広告クライアント──ここではヤマハ──が、複数の広告代理店に企画内容や請負価格などの面で競わせ、最終的にどの代理店に広告を依頼するかを決めるものである。彼の話では、ほかの三社はいずれも名の知れた大手広告代理店だったという。「ところが、最終的にヤマハさんが指名したのは、うちだったんです」  ははあ、そういうことか。ぼくにも察しがついてきた。彼は喋りつづけた。「実は、この前お会いしたときは口にしなかったんですが、板倉社長のお話を聞いたとき、私、ハイパーさんの新しい事業、 IMSでしたっけ、あれ、結構広告の世界で使えるんじゃないかと、まあ、そう思ったんです」  そこで彼は、ぼくと会った直後のヤマハのこの競合プレゼンに IMSの活用を想定した企画を盛り込んでみた、という。「そう、そうしたら、ヤマハさんからこう言ってきたわけです。エスピーさんのあの電話で受付をやるマーケティングのアイデア、あれ、ぜひうちの広告でやってください、と」  さて、この電話を切った後、ぼくは喜んだか?  喜んだ。記念すべき初受注である。喜ばないわけがない。社員の皆にとっても、正月早々の吉報である。でも、実のところ、せっかく仕事が入ったにもかかわらず、ぼくは喜びよりも心配が先に頭をよぎった。──本当にシステムが動くだろうか?  かくして、ぼくたちはその日から連日徹夜で準備作業にとりかかることになった。  ヤマハがエスピー三晃に依頼したのは、自動車・オートバイ関係の業界団体、日本自動車工業会の告知広告である。若者の原付バイクの無免許運転増加を防ぐべく免許取得を呼びかけ、免許を取るための教則本やヘルメットなどをプレゼントする、というのがその内容だった。このプレゼント企画で、当社の IMSを利用し電話で応募できるようにする。  クライアントのヤマハにしてみれば、プレゼントの応募者を増やせる上に、これから原付バイクの免許を取ろうと考えている消費者のリストが手に入る。一石二鳥の仕掛けだ。広告掲載は一カ月後の九三年二月。時間はほとんどなかった。  まずは広告を見た消費者が電話をかけたときに流れる音声ガイダンスを作らなければならない。ハイパーダイヤルのころから仕事を頼んでいたアナウンサーにいろいろと手直ししながら音声を録音してもらうことにした。  一方、技術担当の筒井は、この音声を応募者のプッシュ操作に沿って適切な音声が流れるようにプログラムを進めていった。もちろん利用者が発した住所や氏名をどんどんコンピュータのハードディスクに記録していく。そしてさらにその録音された音声を端末で聴けるようにして、テキスト変換する仕組みである。  という具合に、プログラムづくりから音声の編集、バイトのオペレーターの手配などなど、やることは膨大にあった。スタッフ全員、ほとんど毎日徹夜状態である。  締切まであと数日、とりあえず準備は整った。システムの稼動テストのために、ハイパーネットの全社員六人、それにぼくの友達を総動員し、実際に電話をかけてもらってテストを繰り返した。  とりあえずシステムは動くことが、このテストでは証明された。とりあえず、としかいえないのは、実際に広告掲載されれば、とてもじゃないがこのテスト程度の人数とは比べものにならないほどの電話がかかってくるはずだからである。とにかくやることはやった。後は広告掲載日を待つだけである。  二月某日。日本自動車工業会の広告の載った雑誌の発売日。一〇〇回線ほど用意しておいた IMSの回線は、朝から満杯になった。なんてこった!  やっぱりおれは天才だ!  話が前後するが、この企画が決まった直後、マスコミが IMSの企画を取り上げてくれた。一月二一日付の日経流通新聞が、『ハイパーネット社長板倉雄一郎氏──消費者アンケート電話で回答・集計』という見出しで、「音声応答システムを使った情報サービス会社のハイパーネット(東京・渋谷)は、消費者アンケートに際し、消費者から電話でアンケートに答えてもらうシステムを企画した……」という内容の記事を掲載したのである。   IMSの初仕事は無事終了した。しかも、後日電話をかけてきた応募者のリストなど最終データをクライアントに納品した際に、クライアントは、思いがけないほどの反響が消費者からあったことを教えてくれた。

この広告では、ヘルメットが当たった応募者は自分の頭のサイズを葉書で広告主の自動車工業会に知らせることになっていた。この応募者から届いた葉書の多くに、電話での受付が非常に便利で良かった、というコメントが寄せられていたというのである。これはいける。ぼくは IMSの将来性に確信を持った。消費者がこのシステムを受け入れてくれたからだ。   IMSの活用でカネを払うのは当然ながらクライアントの企業である。が、実際に IMSのシステムに触れる、すなわち電話で各種申し込みをするのは、一般消費者だ。だから、クライアント企業が IMSをいったん採用しても、一般消費者がそっぽを向くようならば、結局 IMSの採用は取り止めになるに決まっている。逆に、消費者が従来の方法に比べこのシステムを便利だと感じてくれれば、 IMSを導入する企業の数は飛躍的に増えるはずだ。ぼくはそう予想した。  九三年三月期、ハイパーネットの二回目の決算が巡ってきた。売上高の欄には、ハイパーダイヤル、ハイパー PCとならんで、わずか一九六万円ではあったが、 IMSのこのキャンペーン広告の売り上げが計上された。  上々、とはまだまだ言えないが、とにかく IMSは動き始めた。  あの広告は、いったいどんな仕掛けを使ったんだ──。   IMSを利用した日本自動車工業会の広告が世に出てから、エスピー三晃には、複数の広告代理店からこんな問い合わせがあったという。しかも、ありがたいことに、こうした問い合わせに対し、エスピー三晃は、ハイパーネット社を紹介してくれたのである。結果、十数社を超える広告代理店から、仕事の話が殺到した。  その中から、 IMS二番目の仕事が決まった。何とあの電通からのオーダーである。クライアントも大手オーディオメーカーのパイオニアだ。一気に大手代理店を介して大口の仕事がやってきてしまった。一五〇〇万円の受注である。もう浮かれている場合じゃない。  過去のビジネスの経験からだが、ぼくには予感があった。これから急速に受注が伸びる。が、その一方で、現時点での IMSは、万全とは言いがたい。サービス体制や営業体制、それにシステムの拡張や安全性を確保するためにすぐにでも改良しなければならない点は山ほどあった。  まず、先に説明した日本全国の住所データベースが完璧ではなかった。郵便局発行の住所リストを見ると掲載されているのに、うちのデータには登録されていない、という住所がずいぶんとあった。このデータベースを完璧なものにする必要があった。  また、そもそも IMSの稼動しているシステムはハイパーダイヤルを流用したものだった。そのためかどうか、いきなりシステムが停止したりすることがままあった。これは大変にまずい。大手クライアントのへたをすると何億、何十億円もかけている広告の受付を代行しているわけである。消費者が電話をかけたら通じないでは、話にならない。  とにかくシステム全体を作り直すぐらいの覚悟が必要だった。  この頃から、ぼくの仕事は広告代理店との折衝が中心になっていった。一九歳のときにゲームソフトのプログラマーとして起業したぼくが、いつのまにか広告代理店と昼夜を通じて付き合っている。なんとも奇妙な感じである。自分の知らない世界だ。  そして、その知らない世界で出会ったのが、ダイレクトマーケティングの専門代理店、電通ワンダーマンダイレクトの担当者、 Hさんである。地味なスーツをきちんと着こなし、いつも猫背で歩いていた。どこか疲れたような印象は、その姿勢のせいだろうか。口数は決して多くないけれども、静かに笑いを取る落語家のような付き合いのよさそうな顔つきをしていた。着物が似合うにちがいなかった。いずれにせよ毒々しいまでの派手志向の人間が多い広告業界には珍しいタイプだった。   Hさんはぼくの話を真剣に聞いてくれた。時に笑顔で、時に驚きながら。彼は、どうやらぼくのやっていることに興味を持ったようだった。「板倉さん、あなたのアイデアは非常に面白い」   Hさんは言った。「広告業界の中からは決して出てこない斬新な手法です」  ぼくの企画は、眼鏡にかなったようだ。 Hさんは、電通ワンダーマンダイレクトを介し、親会社の電通の仕事をいくつも回してくれるようになった。  この頃のトヨタ自動車の広告の大半に IMSが利用されたのをご存知だろうか。対象は、カローラ、クラウン、マーク Ⅱ……、車好きのぼくでも思い出せないほどの数だった。例えば、クラウンの広告。全国版の有名新聞にクラウンのフルモデルチェンジの広告が載る。するとその広告の下のほうに、「クラウンのビデオ、プレゼント」という案内があって、その応募方法に「電話をかけてください」とある。もちろんその電話が着信するのは、渋谷のハイパーネットのビルの中の音声応答装置、つまりぼくの机の目の前にあるマシンだ。  電話がつながると、クラウンのテレビ CMで使われているのと同じ音楽が流れ、イメージ・トークが始まる。しばらくすると、今度は電話口の消費者にいろいろと質問をはじめるわけだ。住所、氏名(もちろんここまでは懸賞応募だからあたりまえである)、年齢、現在乗っている車の車種、年式……とにかくどんどん質問する。  ハイパーネットでは、そこで吸い上げた消費者のプロフィールを順次テキスト・データに変換してデータベース化する。キャンペーンが終わると今度は集計だ。トヨタのディーラーはそれぞれに販売地区を持っている。そこで応募してきた「見込み客」の住所を頼りにディーラーごとに整理し、最後にこの「見込み客」リストを全国に数百あるトヨタのディーラーに FAXで送る寸法だ。リストを受け取ったディーラーの営業マンは、数日前の新聞広告に反応した「見込み客」のリストが手に入る。あとは競合車種に乗っていて、かつ車検切れ寸前の人を狙い打ちにするだけだ。「おめでとうございます。応募されたビデオがあたりました」といった感じで訪問販売のきっかけにするわけである。  これはほんの一例だ。 IMSは数々の実績をあげていった。  電通が動けば、他の代理店も動く。この勢いを利用して、ハイパーネットは次々に大手代理店からの仕事を獲得していった。 IMSの売り上げは一気に伸びた。九三年三月期一九六万円からスタートしたのが翌九四年三月期は三〇〇〇万円、九五年三月期には一億円を超えた。九六年三月期の決算では、 IMSに加え、後ほど詳しく語ることになる新開発のハイパーシステムのライセンス料が手に入り、総売上高七億七〇〇万円を計上、そして経常利益は一億九四〇〇万円を計上した。(ただし、後に会計基準を日本の税制から米国店頭市場ナスダック公開のために米国税制へと変えたことで、この利益は会計上ほとんどなくなったのだが)。  とにもかくにも、 IMSのおかげで、ハイパーネット社はダイヤルQ2の規制以来陥っていた苦境をどうにか脱することができた。いや、それどころではない。どうやらぼくは、まったく新手の手法で広告業界に眠っていた大きな金脈を発見してしまったようなのだ。  ぼくはこの分野の開拓者になったのだ。まったく門外漢の広告市場で。  ハイパーネットが順調に成長を始めたのにはもう一つ大きな要因があった。野村證券の子会社にして日本最大のベンチャーキャピタル、 JAFCOの出資があったのである。   IMS事業をスタートして一年半、九四年九月のことだ。 JAFCOの若い営業マンがうちの会社を訪問してきた。どうやら IMSの新聞記事を見てきたようである。

「西村と申します」  これが、後にうちの社長室(要するにぼくの直属だ)で、ハイパーネットのナスダック公開プロジェクトを担う男との出会いである。そうそう、本書を読み進めばわかることだが、ハイパーネットの社員というのは、この西村のようにもともと取引先だった連中が少なくない。ベンチャービジネスにおける人材確保の常套手段の一つが、この「取引先を社員にする」である。  さて、その日 JAFCOに関する簡単な説明をしただけで帰っていった西村は、数日後、上司である Oさんをつれて現れた。「わかりました。ウチがお金を出しましょう」   Oさんの決断は実に早かった。ぼくの話をちょっと聞いただけですぐにハイパーネットへの投資を決めてしまったのである。株価は一〇万円。それまでうちの株式は額面五万円だった。単純にいえば、一気に会社の価値が二倍になったわけだ。そしてこの日以来、ぼくは Oさんから、資金調達から経営戦略にいたるまでさまざまな仕事上のアドバイスを受けることになった。  それにしても、 JAFCOとこんな形で〝再会〟するとは、正直思ってもみなかった。前にも触れたが、ぼくは事業資金に困って以前 JAFCOを訪れている。しかしこのときは、正直まったく相手にされなかった。ところが、今では向こうの方からぼくのところにやってきて、資金を提供してくれる。ほんの数年で変われば変わるものである。  閑話休題。ベンチャーキャピタル JAFCOが出資する──。これは、近い将来ハイパーネットの株式の公開を意味する。ほんの一年前まで売り上げすらほとんど見込めなかった会社が、一転、店頭公開を目標としている。嬉しい反面、ぼくは戸惑いを隠せなかった。   JAFCOとの付き合いが始まったのと相前後しての話だが、ぼくは、コンピュータ分野のベンチャー企業が集まる「業界交流会」に顔を出した。以前からこの会に参加していた知り合いに誘われたのだ。某ホテルの一室を借り切った交流会には、三〇人ほどのベンチャー経営者が顔を揃えた。  この会自体は特にはっきりとした目的を持ってはいなかった。あえていうならば、業界内の経営者が集まって「人間関係」をつくるのが目的といえば目的か。その程度の会だったから、ぼくも特に何の期待もせず、ふらりと会場に足を運んだ。そこで出会ったのが、 Nさんだった。   Nさんは、会場となったホテルのオーナーの長男だった。歳はぼくよりも一回り以上うえだった。おそらく四〇歳も半ばを越えていただろう。彼はホテル業を継がず、自身で通信関連の会社を起業していた。「板倉さん……でしたよね」  顔見知りがほとんどいないため会場でぼおっとしていたぼくに、 Nさんは声をかけてきた。どうやら新聞や雑誌の記事で、ぼくのことを多少知っているようだった。初対面だったが、ぼくは Nさんと妙に息が合った。そんなこともあってこの日以来、何度となく Nさんとは顔を合わせた。  二人で会うようになって何回目になるだろうか、ある日、飲み屋で Nさんはぼくに突然こう切り出した。「板倉くん、ベンチャーやるんだったら、やっぱり銀行の知り合いは必要だよ」 「……」  ぼくはすぐに返事をしなかったが、彼の言うことは身にしみてわかっていた。ベンチャービジネスにもっとも欠けているもの、それはアイデアでもヒトでもない。カネだ。ところが、日本の銀行というのは、大企業の看板か土地か株を持っていないものには基本的にカネを貸してくれない。だからこそ、銀行とのコネクション作りは、すべてのベンチャー経営者共通の課題といってよかった。「で、実はさ。板倉くんに、ちょっと紹介したい銀行の人がいるんだ」   Nさんは目のふちをほんのり赤くした顔をこちらに向け、ぼくに二人の銀行マンを紹介することを約束してくれた。  最初に紹介された高山照夫は、三和銀行の行員だった。ベンチャービジネスに強い興味を持っていて、一銀行員という立場を離れ、個人的にネットワークを広げているらしい。彼は Nさんと一緒にぼくのオフィスにやってきた。彼はしばらくして後、銀行を辞めて、ハイパーネット社の監査役に就任する。取引先転職組の第二弾だ。   Nさんが紹介してくれたもう一人の銀行関係者は住友銀行丸ノ内支店の支店長(後に日本橋支店長)を務める国重惇史氏。くにしげ、名前からして大物のにおいがする。  都銀支店長を呼びつけられるほどぼくは偉くない。 Nさんに付き添われ、こちらから国重さんのオフィスを訪れることにした。ぼくはそれほど期待はしていなかった。生まれてこのかた、銀行の支店長なんかに会ったことがない。それに恐らく向こうだってこちらのビジネスの中身を理解できないだろう。ま、とりあえず、名刺を交換して、うちの会社説明でもできればよしとしようという気持ちだった。  秘書の女性に連れられて、ぼくたちは「支店長室」と記されたドアの奥へと進んだ。  忙しい最中、ベンチャービジネスの経営者なんていうどこの馬の骨だか分からない奴の話なんぞを聞くのは時間の無駄なんだが──といった表情の倣岸不遜の中年男がソファにふんぞり返っている様を想像していたぼくは、拍子抜けした。  目の前に立っているスーツ姿の男性は、満面の笑みを浮かべて、我々を出迎えてくれたのである。「いらっしゃい、どうぞこちらへ」「はい、失礼します。お忙しいところ時間をいただきましてありがとうございます」「いやいや、こちらの方こそ。ところで Nさん。どう、最近の調子は」  挨拶もそこそこに、国重さんは Nさんと話を始めた。「いやあ、まあまあですね。国重さんの方はどうですか」  どうやら、 Nさんと国重さんはずいぶんと仲が良い様子である。しかも、話の内容はどうやら仕事とはまったく関係がなさそうだ。いずれにせよ気さくな人だ。想像していた都銀役員のイメージとは随分違う。  おっと、仕事を忘れちゃいけない。二人の会話が途切れるのを見計らって、ぼくは IMSの説明を始めることにした。 「IMSは、アンケート調査とか懸賞応募に利用すれば、絶大なる効果があります」「ほほう」「実際にですね、大手のクライアントが、ほら、こんなにいるんですよ」「へえー」  国重さんは、にこにこしながら、ぼくの話を聞いている。親戚のおじさんに学校の成績の話をしている小学生になった気分だ。  初対面だったが、ぼくは国重さんのことが好きになっていた。銀行の支店長なんかにおれのやってることがわかるわけはない、と勝手に決め付けていた。でも、国重さんはどうやら想像していた人種とは違うようだ。ぼくの話が本当に理解できているのかどうかはわからない。が、少なくとも、彼は聞く耳を持っている。  この日は、事業のさらっと説明をしただけで帰ることにした。国重さんに会えただけで、ぼくには十分に収穫があった。  そしてこの国重さんが、後にぼくのビジネスの成功と挫折の大きなカギを握ることになる。

JAFCOから投資の話が舞い込んでから、ぼくのところには急にいくつものベンチャーキャピタルがやって来るようになった。その数ざっと一〇社以上。経営資金は多いに越したことはない。ぼくは積極的に彼らに対応をすることにした。  とはいっても、むやみやたらと金の無心をベンチャーキャピタルにするような真似だけは避けていた。というのも、九五年ごろ世の中はベンチャーブーム。とにかくベンチャーと名がつけば、ベンチャーキャピタルはどんどん企業に金を出していた。供給過剰気味といっても過言ではなかった。  だからこそぼくは、彼らから出資の申し出があっても、じっくり契約内容を吟味することにしておいた。経営にうるさく口を出してくるのではないか、株式公開を急がせるのではないか──。こちらからすれば不安はいくつもあったからである。  そんな中、ぼくは、船井キャピタルの担当者と知り合った。富士銀行から船井キャピタルに移った彼は、もともと新聞記事で当社に興味を持って来社してきたベンチャーキャピタルの一担当者に過ぎなかった。  しかし、銀行出身だけに彼の言葉には、妙に説得力があった。特に彼の資本構成に対するアドバイスに、ぼくは耳を傾けるようになっていた。彼によれば、ベンチャー企業の資本構成を考える際にポイントとなるのは、資本参加するベンチャーキャピタルをどう組み合わせるかという点だった。一つのベンチャーキャピタルに頼ってしまうのはリスクが大きい。かといって、やたらに多くのベンチャーキャピタルから金を引っ張ってくるのも、船頭多くして……、ということになりかねない。銀行系、証券系、それに独立系のベンチャーキャピタルをバランス良く組み入れて、資本の充実を図るべきだ、というわけである。  なるほど。ぼくは膝をたたいた。こんな視点でベンチャーキャピタルを組み合わせて活用すればいいのか。当社には実に都合がよい考え方だ。まず、株式の公開を前提にするならば、証券系のベンチャーキャピタルは大きな力になってくれるだろう。経営規模を拡大する上で銀行との関係は欠かせないから、銀行系との付き合いも当然必要だ。そして、親会社を持たない独立系も資本参加してくれれば、証券や銀行の立場とは違った立場から経営に対する意見が聞ける。  ぼくは彼のアドバイスにしたがって、第三者割当増資を実行することになった。  九五年一〇月、第三者割当増資とワラント債の発行がきまった。独立系からは船井キャピタル、銀行系からはすでに当社で唯一借入れの実績のあるさくら銀行系列のさくらキャピタル、それに今後の事業展開に絶対に欠かせないリースをしているオリックス系列のオリックスキャピタル、それにもう一つ、日本長期信用銀行系の NEDが新たに出資することになった。証券系はすでに JAFCOからの出資を受けていたから、今回は加えなかった。トータルの出資額は二億円。そのすべてをワラントの発行という形を取った。ワラントのうち一五%を彼らベンチャーキャピタルが取得して、残り八五%をぼくと個人出資者の郡司さんのストックオプションとしたわけである。  この結果、ぼくとベンチャーキャピタルとの関係は非常に強まった。そしてぼくは、船井キャピタルや NEDに、最後の最後まで世話になることになる。  振り返ってみても、九四年終わりから九六年初頭までの金融機関の投融資攻勢はすさまじかった。  そういえば、「第三次ベンチャーブーム」などという言葉がメディアを飛び交っていた。  ベンチャーにお金を出すのが使命のベンチャーキャピタル以上に、銀行本体が融資に熱心だったことを、ぼくはよく覚えている。渦中にいたぼくは、そのとき冷静に状況を把握できていなかったが、いま当時の新聞記事を眺めてみると、自分がどんな流れの中に身を置いていたかがよくわかる。  九五年七月一七日付の日経金融新聞には、こんな記事が載っている。『都市銀行がベンチャー企業の開拓を目指して無担保・無保証融資や新たなベンチャーキャピタル設立などに動き出した。資金需要の低迷を成長企業への融資で打開する一方、投資先の株式を保有して新たな含み益を作るのが狙いだ。  だが高いリスクを負担し創業間もない企業を育てていく難しさは過去二回のブームで経験済みだ。成否のカギは未知の技術を評価する手法の確立と末端の行員に至るまでの意識改革。成長企業を取り込み、三度目の正直とすることが出来るか』  出来なかった、のだな、とぼくは思う。少なくとも当社の倒産は、まさにこの記事に書いてある各行の相次ぐ無担保融資とその後の貸し渋りが直接の原因だったからだ。  しかし、九五年時点でそれを予測できた人間は、ぼくはもちろん銀行にもほとんどいなかった。それは、当社に融資をしてくれた銀行が、この頃ベンチャービジネスにいかに大きな期待を寄せていたかを見れば、一目瞭然だ。  たとえば、後に当社のメインバンクとなる住友銀行は他行に先がけて、九五年の三月にバンダイと共同でマルチメディア産業への投融資を目的に新会社、マルチメディアファイナンスを設立している。同年一一月一五日付けの日経産業新聞の記事によれば、「融資の対象は映像・音楽ソフトや教育・ゲームソフト、将来はビジネスソフトも手掛けたい」だそうで、ソフトの評価から融資までを一貫して手掛けるのが目的だったようだ。この会社がいまどうなっているか、ぼくは知らない。  それから同年一一月七日の日経産業新聞にはこんな記事もある。『日本興業銀行がソフトの著作権、特許権など知的所有権を担保にした融資に踏み切ったのをはじめ、あさひ銀行がニュービジネスにかかわるベンチャー企業との取引を強化するなど、各金融機関は矢継ぎ早にベンチャー支援策を打ち出している』。興銀にあさひ、どちらも当社の取引行である。  さらに、もう一つのメイン取引銀行、日本長期信用銀行は、九五年四月一九日付日経産業新聞の記事によれば、こんなことをやっていた。『日本長期信用銀行で、「新与信管理手法の策定」というプロジェクトが進行している。担保になる資産は乏しいが、技術開発や創造力に優れている企業への融資基準を作ろうという試みだ。営業企画部と審査部の部員が中核となり、長銀総合研究所や海外支店のメンバーも議論に加わる』  ありがたくて涙が出る。まるでハイパーネットへの融資基準をつくってくれているようではないか。この記事の掲載日の二年半後に当社が倒産し、さらに三年半後に当の長銀そのものが経営危機に陥っていることを思うと、さらに涙が出る。  今だから言えるが、このとき日本の銀行は、はじめてベンチャーに本格的にカネを注ごうとしていた。資産担保に頼らず、相手の技術力や将来性に融資するという発想は、保守的な銀行界において、実に新しかった。なんの後ろだてもないぼくに、後に大きな融資を実行してくれた住友の国重さんは、まさにそういった新時代の銀行の象徴だった。  残念ながら以上の動きは「ブーム」で終わってしまった。追い風に乗り切れなかった我々ベンチャーの力の足りなさ、国際化やビッグバンの波にさらされ、あっという間に方針を変えざるを得なかった日本の銀行の根本的な体質の問題、おそらくどちらもがこの動きを止めた原因なのだろう。  いずれにせよ当社はこうした銀行のベンチャーへの融資ブームの先行事例だった。むろん、二年後、今度は〝貸し渋りブーム〟の先行事例にもなるのだが。  さて、話を九五年当時に戻そう。   IMS事業は順調に成長していた。  ぼくの仕事といえば、こちらのミスでトラブルが発生したときに謝りに行くこと、それに増え続ける受注をさばくための設備投資を承認する、それくらいだった。業績も上がっていたから、もはや設備投資のための資金調達でぼく自身が走り回ることもなかった。財務部門が勝手に話を進められるような状況

になったのである。  そんなわけで、ぼくは、このころから自分の仕事時間のほとんどを来るべき株式公開のための準備に注ぐことになった。株式公開?  左様、株式公開である。なぜ、いくつものベンチャーキャピタルがわがハイパーネット社に貼りついているのか。当然、当社の株式公開が目的だ。  毎日、会議、会議の連続である。公開コンサルティング会社との会議、当社に設置した公開プロジェクトの会議……。ぼくの予定表は、財務会議に公開コンサルティング会社との会議で埋め尽くされた。  会議の内容といえば、ほとんどが就業規定や社内管理システムの構築など総務的なものばかりである。はっきりいって退屈極まりない。会社の資産に番号を振って資産管理をしろ、あなたは社長なのだから車を自分で運転しちゃ駄目──。勝手気ままにやってきたぼくからすると、ほとんど金縛り状態を強いられる「命令」が次々と下された。  総務からは就業規則の原案ができたので見てくれと依頼され、財務からは支出の管理のための伝票ができたので一万円以上は社長がハンコを押せと指図され……、ええい、そんなの誰か適当にやっといてくれよ!  ぼくは自分のエネルギーをもてあますようになっていった。 IMSの業績から判断すれば、株式公開は近い将来できるはずだった。でも、何かが今のビジネスには欠けていた。もっと別の何かが欲しい。もっと刺激的なビジネスがやりたい……。  ぼくの中で、「いつもの」欲望がむくむくと湧き上がってきた。

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