一九八四年一一月一六日。時計はそろそろ正午を示そうとしていた。前日の深酒が祟ったのか、その日は朝から体調がよくなかった。布団から身体を起こすのがおっくうだった。駄目だ、今日は会社を休もう。ぼくは受話器を取って耳にあて、オフィスに電話をかけようとした。 この年の二月、ぼくは、友人二人とゲームソフト会社「ザップ」を設立した。資本金は一〇〇万円。オフィスは下北沢のパソコンショップの屋根裏に間借りしていたが、すぐに六本木に一五坪九万円の部屋を見つけて移転した。二〇歳になってまだ二カ月とたっていない頃だ。 仕事の中身は、前年六月スタートしたアスキーのパソコンハードウエア規格「 MSX」に対応したソフトをつくること。ドライブゲームのはしりで巷で結構人気のあった「ハイウェイスター」も、実はぼくらの作品だった。 運と時代とそれから腕もまあ悪くなかったのだろう。成人式を迎えたばかりの若造の始めた事業として、ザップはまずまずのスタートを切った。オリジナルソフトの制作にゲームセンター用ソフトの MSXへの移植。仕事は、放っておいても次々に入ってきた。 ぼくは、以前から一人で住んでいた世田谷・経堂の家賃月六万五〇〇〇円のアパート(風呂・トイレ付)の近くに駐車場を借り、当時やたらと流行っていたツートーンカラーのトヨタ・ソアラを購入した。 これから語る奇妙な体験をしたのは、ちょうどそんな頃だった。 六本木のオフィスの電話番号を押し、ぼくは受話器を耳にあてた。 おかしい。 いつも聞こえるはずの「ツー」という発信音が聞こえない。こっちの身体の具合が悪いのが電話にまでうつったのか。ぼくは何度か受話器を置いては取り、置いて取りを繰り返した。 数回目、ぼくは置こうとした受話器をあわててもう一度耳にくっつけた。 人の声が聞こえる。 それは普通の電話で会話するよりはるかに小さな音量ではあった。が、確かに人が会話する声が聞こえるのである。どうやら回線が混線しているようだ。 ぼくは心を弾ませた。もしかしたら、他人の会話を盗み聞きできるかもしれない。体調が悪かったはずのぼくは、すっかり身を起こし、耳を澄ませた。――やっぱり聞こえる。人の会話だ。 よく聞いてみると、通常二人で交わされる電話の会話とはちょっと違っていた。もっと多くの声が聞こえるのである。多分五、六人の声。ぼくはわくわくした。複数の会話を盗み聞きできるかもしれない。しかし、じいっと耳を傾けていると、複数の会話が同時に聞こえているのではないことがわかった。五、六人の声がひとつの会話に参加しているようなのだ。 しばらく聞いていたぼくは、ふと思った。おれの声も伝わるんじゃないか。 恐る恐る声を出してみた。「おーい」 するとどうだろう、今度はそこで会話していた何人かの人から返事が返ってきたのである。「お、新入りだ、だれ?」 ぼくはこの時のことを今でも鮮明に覚えている。それだけ衝撃的な出来事だったのだ。 この「混線」の原因は、覚えていらっしゃる方もいるかもしれない、東京世田谷区で起きた電話局火災事件である。九万三〇〇〇回線を混乱に陥れ、復旧まで一〇日を要した、電話関連の事故としては未曾有の規模のものとなった。「混線事件」から数日後、ぼくは、当時住んでいた世田谷区経堂の小田急線の駅前に向かった。会話に参加した連中で一回集まってパーティでもやろうぜ、ということにいつの間にかなったのである。集まったのは五、六人どころか、なんと三〇人以上、ほとんどがぼくと同世代だった。電話局の火災が無かったら絶対に会うことのなかった連中だ。 事件がきっかけで偶然知り合った連中と集まって酒を飲む――。この出来事は、ぼくに奇妙な興奮をもたらした。しかし、その興奮が五年後、ぼくに新しいビジネスのタネをもたらすことになるとは、もちろんこのときは思いもよらなかった。 一九八七年。二三歳になったぼくはザップの仕事に不満を抱き始めていた。 ゲームソフト制作の商売は、創業以来好調に推移していた。オフィスを六本木から港区芝公園のより広い部屋へと移し、制作スタッフの人数も増やした。ぼく自身も経堂のアパートを引き払い、世田谷・駒沢公園に面した七〇 、家賃三〇万円のマンションに移った。車は、新型ソアラに、そしてポルシェ 928からさらに BMW 635 csiクーペに変った。Tシャツにジーンズの姿は、南青山の本店で買ったブルックス・ブラザースのトラッド・スーツにピンクのボタンダウン・シャツ、派手なレジメンタル・タイに変わっていた。 そして、ぼくはそんな状況にいらいらしていた。 小さいときから、人の真似をするのが大嫌いだった。 ぼくは一九六三年一二月二六日、千葉県船橋市のちょっと変わった家に生まれた。一族は代々医者の多い家系だったらしい。父の兄弟である二人の叔父はそれぞれ医者になり、片方は福島市で開業していた。父は生来の遊び好きがたたってか、医者にならずにふらふらしていた。兄弟の病院の事務のようなこともやっていたようだが、ぼくも小さかったから、本当のところはよくわからない。 ここまでは別に珍しくない。変わっていたのは、二人の叔父に子供がいなかったこと、そしてそのために、一族中が、たった一人の男の子であるぼくを医者にしようと虎視耽々と狙っていた、ということである。 おかげでぼくは養子でもないのに、小学校の頃から、船橋の実家と福島で開業している叔父の家を行ったり来たりするようになった。テニスのラリーよろしく、船橋と福島、二つの学校の間で頻繁に転校を繰り返した。 かくして、ぼくはプロの転校生となった。転校生のプロとは何か。それは、新しい環境に一瞬のうちに溶け込めるだけの状況判断を持ち、同時に自分の力を実力以上にしかも嫌みなくプレゼンテーションできる子供である。初対面の人間をあっといわせて、自分の味方につけられるのが、転校生のプロだ。そのプロになりきれない転校生は、往々にしていじめられっ子になる。 小学校高学年にして「プロ」になったぼくは、自分の中に二つの行動様式が確立したのをぼんやりとではあるが、実感した。すなわち、「目立ちたがり」
と「人真似が嫌い」。その結果、ぼくは、なかば必然的にアンチ・サラリーマン的人生を歩むことになった。 中学校では勉強ができたため、県下一の進学校、福島高校に難なく入学した。目立ちたがりにとって地元有名校に行くのは悪いことではない。しかし、別に勉強が好きなわけではないから、さすがに秀才ばかりの高校に入ると成績は直滑降の勢いで落ちた。 成績が悪いのは、全然気にならなかった。当時はもっぱらバンド活動に打ち込んでいたからである。しかもぼくが凝っていたのは、音楽活動ではなく、むしろプロモーター活動の方だった。地元のバンドを数組集め、会場を押えて、チケットをさまざまなコネで売る。友人関係の広さと押しの強さもあって、ライブの後は、数十万円の現金を手にしていた。 それでも雄一郎はいずれ医者になる、親戚一同は皆そう思っていたに違いない。でもぼくは医者という職業に何の興味も湧かなかったし、第一、学校の成績が、「おまえは医者になるな」と告げていた。一九八二年春、高校卒業後、浪人したぼくは、代々木ゼミナールに通うため、福島の叔父宅から数年ぶりに船橋の実家に戻った。そして翌八三年二月、私立大の受験を数日後に控えたとき、父親と喧嘩をして、家を飛び出した。 受験は、福島から東京に上京していた友達の下宿を根城に、とりあえずこなすことにした。ぼくはいくつか受けた大学のうち、上智大学の理工学部に何とか合格した。 一九八三年三月。大学は合格したが、家に戻るつもりはなかった。当然金がないから、このままでは入学金も払えない。でも、ぼくの中では、答えはもう決まっていた。「大学なんか、受かっちまえば、後は一緒だ。行っても行かなくても関係ない。それよりも、働いてまず自立しよう」。 ぼくは大学に行く代わりにアルバイトニュースのページをめくり、代々木の中古マンションの一室に居を構えたゲームソフト会社への就職を決めた。 バイト先にソフト会社を選んだのは、高校時代にパソコンソフトを制作した経験があったからだ。 その頃、一九八〇年代初頭の日本は、まさにパソコン黎明期。 NECが 8ビットマシン「 PC 8800シリーズ」を出し始め、富士通が FMシリーズで対抗していた頃だ。高三のぼくも、母親にねだってシャープの MZ 80 Bを手に入れた。おそらく、プログラム制作にもともと頭の構造が向いていたのに違いない。ぼくはさしたる苦労もなく、すぐにいくつかのソフトを自作した。そのうちの一つが、今でいう「マイクロソフト・エクセル」のような表計算ソフトだった。機能的な面はともかく発想自体は今思い出しても画期的だったと思う。このソフトをぼくは近所のパソコンショップに置いてもらった。四〇〇〇円くらいの値段をつけたぼくのソフトは三 ~四本売れたように記憶している。 それから一年あまり、ぼくはパソコンと縁のない浪人生活を送っていたわけだが、大学に合格したばかりの三月、アルバイトニュースに「ゲームソフト制作者求む」の一行を見つけた時、ぼくはこれだと思った。 あの仕事なら簡単にできる――。 大学入学の代わりになぜか早々と就職してしまったぼくは、初任給が振り込まれるのを待って友達の下宿を引き払い、経堂のアパートに引っ越した。 ソフト会社ではゲームの制作などを担当したが、何せ数人でやっている小所帯だったから、しばしば、納品先のお偉いさんとも会う機会があった。中でも、ぼくを気に入ってくれたのが、当時新しいパソコン規格の MSXを発表したばかりのアスキーの役員だった浜田義史さんである。 ゲーム業界はソフトの玉数がそろわなければ市場を席巻できない。アスキーはとにかく大量のソフトの制作を望んでいた。しかも一本五〇〇万円出すという。当時のぼくの月収は一五万円だ。これは人の会社で使われている場合ではない。 ぼくは「医者になるから」と嘘をついて会社を辞め、友達二人を誘って、自前で MSX用のゲームソフトをつくり始めた。ただ、つくったはいいが、どうやって売ったらよいか、とんとわからない。そこで、ぼくは無謀にも自作ソフトを携え、アスキー本社に赴いて知恵を借りることに決めた。そこで、ぼくらのつくったソフトに偉く感動してくれたのが、先の浜田さんだった。彼の尽力もあってゲームはアスキーを介して発売され、幸いにも好評を博した。 これらの仕事ぶりを評価してくれた浜田さんは、八三年も終わりのある日、こう言った。「板倉君さあ、君は若いんだから、自分の力をもっと自由に試したほうがいい。独立して会社をつくりなよ」「目立ちたがり」で「人真似嫌い」の人間にとって最大の弱点、それは「おだてに弱い」点である。かくしてぼくらは二カ月で会社を設立した。それがザップというわけである。 それから三年たった一九八七年。ザップは、零細ソフト屋としては悪くない売り上げを記録していた。でも、ぼくにとってゲームソフトの世界は、すでに新味が感じられなくなっていた。 何か、新しいことはできないか――。 ぼくは、ゲームソフトの商売が儲かっているのをいいことに、社内にいたハードウエア好きのスタッフと画像処理マシンの開発に着手した。結果は惨敗である。 研究施設もろくにないちっぽけなソフト会社がいきなりハードの開発をやってうまくいくわけがない。数カ月で二〇〇〇万円がふっとんだ。しかも悪いことは重なる。当時開発を請け負っていたゲームソフトの開発が遅れたために、発注元の会社が金を払わなかった。創業以来はじめて直面する経営危機である。 このままでは、二〇人ほどいるスタッフに給料が払えない。下手をすれば、会社自体がつぶれる。 ぼくはまず浜田さんにすがった。幸い、彼の厚意でアスキーから一〇〇〇万円を借りることができた。カネの問題はこれで当座はしのげる。 事業も従来のゲームソフト制作を軸にすえ直した。 さらに、自らを律する意味でも、翌八九年早々に、ぼくは駒沢の高級マンションを引き払い、東急東横線の学芸大学駅近くのワンルーム・マンションに越した。車も BMWを手放し、中古のトヨタ・マーク Ⅱに乗り換えた。 八九年九月、アスキーからの借金は完済した。ただし、資金的にはまだまだ決して楽な状態ではなかった。ぼくは、一〇月、浪人時代に飛び出して以来一回も足を向けなかった父のところに数年ぶりに顔を出し、頭を下げて船橋の実家を担保に国民金融公庫から二〇〇〇万円を借りた。 これで、ザップはなんとか立ち直るめどがついた。ゲームソフト事業自体は相変わらず好調だったから、この程度の借金ならば返済にさほどの苦労はしないことは目に見えていた。 だがここに至って、ぼくは完全にゲームソフトの世界に見切りをつけるようになった。もううんざりだった。 ゲームソフトの開発は、当たるも八卦当たらぬも八卦である。だから、ソフトをたくさん開発して世に出せば、大ヒットの可能性も増える。ヒットが続けば、当然ロイヤルティ収入も増える。結果、会社は成長する。 しかしどうだろう。現実に大ヒット商品なんてそう簡単にできるわけはない。ましてや毎年出し続けるのはきわめて困難だ。しかも当時複数のゲームメーカーが続々と店頭公開を果たしていた。すでに先を行く他社に今から追いつくのは難しい。 と、いろいろと言い訳はできるけど、要するに一言でいえば、「もう飽きた」のである。ゲームソフトの商売が「つまらなくなった」のである。というわけで、ぼくは日々夢想した。何かほかに面白い商売はないだろうか。 迷っていたぼくがふと思い出したのが、冒頭で紹介した「電話混線事件」だった。 思い出したのは、一九八九年六月のことである。なぜ突然数年前の事件が頭に浮かんだのか、今考えてもよくわからない。が、とにかくあの事件のとき
に胸に湧き上がった興奮は、五年たって、突然ぼくの中でひとつのかたちとなった。「あれは、ビジネスになる」 ゲームソフト開発に見切りをつけ、新たな事業を起こそうと模索していたぼくは、興奮が冷めぬうちに、と急いで事業計画を作成した。 ぼくが考えたのは、電話回線を利用して三人以上でも同時に会話できる、いわば「電話会議」サービスである。事業のイメージははっきりしていたから、計画書はわりあいスムーズに完成した。あとは、資金集めである。とにかくあたれる人には全て計画書を持って資金調達に走った。 起業の際の資金調達先、と聞いてすぐに思い浮かべるのが、ベンチャーキャピタルである。ぼくの場合も例外ではなかった。大手の一つで野村證券の系列会社、日本合同ファイナンス( JAFCO)のところへ、我ながら自信作である事業計画書を意気揚々と持ち込んだ。しかし、これがまったく相手にされなかった。数年後、 JAFCOは、向こうからわざわざ出資したいとぼくのもとへやってくることになるのだが、このときは歯牙にもかけてもらえなかったわけである。 資金調達を開始して一カ月、事態が好転せずさすがに焦りを感じ始めた頃、ぼくに会いたい、という人物が現れた。なぜかぼくの事業計画に興味をもったというその人は、横浜で不動産会社を経営し、他にもいくつかの事業を手がけているという。 誰でもいい。お金を持っていて、おれの企画に興味があるなら――ぼくはその人物を訪ねることにした。 面会の場所はその人物が経営する横浜のある病院だった。聞くところによると彼はこの病院をはじめ、結婚式場や海外での飲食店経営までこなすいわゆる実業家であるという。以上の情報だけでも、その人物の懐が、ぼくの事業に投資する原資くらいは軽く出せるだけの余裕があることは想像がついた。とにかく彼に会って何とか口説き落とそう! 病院に着くと、ぼくは秘書の女性の後ろについて、部屋に入った。 その人物は、先客の中年男とソファに座りながら話をしていた。入ってきたぼくたちの方にちらと目をやり、すぐに視線を相手に戻した。 会話の真っ最中にお邪魔をしてしまった居心地の悪さは感じてはいたが、せっかくの機会だ、その人物をぼくは観察することにした。 年齢は四〇歳前後。やや浅黒い肌に短めに整えられた黒髪と太い眉が、演歌歌手の山本譲二を連想させる。左腕の袖からは、不動産業者のご多分に漏れず金色のロレックスが顔を出している。ただ、地味だが仕立てのよさそうな濃紺のスーツ姿が板についているせいだろうか、いわゆる「バブル紳士」的な成金趣味の匂いは不思議と漂ってこなかった。 何よりぼくの目を引いたのが、その笑顔を絶やさない話しぶりだった。相手が何か提案をする。すると間髪いれずに答えを返す。「イエス」のときは大袈裟に笑って。「ノー」のときはこれまた笑いながらしかも誰が聞いても「ノー」とわかるように。とにかくレスポンスが早い。仕事でつきあうには、理想的な人間のように見えた。 ぼくが入室して二、三分もすると、その人物は、先客との会話を突然切り上げた。相手の男も彼をよく知っているのだろう、ドアの脇に立っていたぼくに軽く会釈すると、ぐずぐずせずにあっさり部屋から出ていった。 上着の内ポケットの名刺入れを探しながら挨拶をしようとすると、その人物は、「おう、どうぞ」と、先客が座っていたソファを勧めた。気勢をそがれたぼくがあたふたと名刺を出し、「はじめまして、板倉と申します。お忙しいところ時間を……」と話し始めると、彼は最後まで聞かずにいきなりこう言ってきた。「それじゃあ、役員構成はどうする?」 その人物はすでにぼくの事業計画書を読んでいたのである。そればかりではない、すでに投資をして事業化することを決めていたのだ。ぼくは面食らった。 数カ月後、資本金五〇〇〇万円の株式会社国際ボイスリンクが設立された。出資比率は、その人物が六〇%、我々の間に立って紹介してくれた人が三〇%。お金の無いぼくは一〇%出資するのがやっとだった。それでも、資金不足に喘いでいたぼくにとって、代表取締役にしてもらっただけで十分だった。これで新しい事業をスタートできる。一九八九年秋、電話混線事件を思い出してから半年もたっていなかった。 ここで、ボイスリンクのサービス内容を説明しておこう。 仕組みはいたって簡単だ。要するにあの世田谷電話局火災での楽しい出来事を能動的にやってしまおうということである。 まず、複数回線で会話ができるように設計したハードウエアをサービスセンターに設置する。サービスを利用したい〝客〟は、このサービスセンターに電話をして、伝言ダイヤルでおなじみの任意の八ケタの〝連絡番号〟をプッシュボタンで入力する。この〝連絡番号〟が、電話会議の部屋に入るいわばカギである。同じ〝番号〟を知る人間が、最大八人まで一つの電話会議に参加できる仕組みだ。 ぼくは結構凝り性なので、この基本サービスにいくつかのオプション機能を付け加えた。まずは会議のモニター機能。会話には加われないが会議室の模様をモニターできる。とはいっても、会議室の性格によっては、外部に会話の内容を聞かれたくない場合もある。そこで、会議室の参加者があらかじめ外部モニターが可能か否かを調整できる機能も設けた。さらに会議室の会話に参加するための暗証番号まで設定できる機能もつけた。 電話というメディアに対し人々がどんな顕在需要および潜在需要を有しているか、ぼくは、個人的な経験からわかっていた。というのも、このころ仕事以外に一番はまっていたのがテレクラだったのである。どんな具合にはまっていたか、詳細な説明ははぶくが、非常に具体的に思い浮かべることができた。 これだけのオプション機能を備えたサービスならば、見知らぬ女(無論、男の場合もある)と友達になりたいテレクラ的利用者からビジネス目的の遠距離会議までさまざまなニーズを発掘できる。ぼくはそう確信していた。 サービスはスムーズに立ち上がった。一時は全国に八拠点を構える電話会議サービス会社として、ボイスリンクは初年度にして億単位の経常利益を出すことができた。 ただしふたを開けたら、サービスの利用者のほとんどは、例の世田谷電話局火災での参加者のような「遊び」モードの人ばかりで、ビジネス利用なんていうのはほとんどなかった。このあたりは、テレクラの利用実態とよく似ている。 中には三、四人の男女が「いかがわしい会話」にいそしんでいる場合もあったようだ。こんなケースに限ってその会議室はモニターできる設定になっていて、モニターの人数だけで多いときには三〇人、なんて時もあった。ほとんどストリップ小屋である。いや、ピーピング(覗き見)ショーといった方がいいか。電話の匿名性、覆面性がなせる利用形態だろう。顔が見えない、という状況は、思った以上に人を大胆にさせるらしい。 まあ、いろんな利用方法があったし、そのほとんどはぼくの期待とは違っていたのだが、そこは NTTが不倫や売春行為のために電話を利用しないでくださいと言えないのと同じである。ぼくも電話会議室というメディアを市場に提供しているに過ぎない。基本的に利用法に文句をつけるのは不可能だった。 いずれにせよ、ボイスリンクはちょっとした金鉱を掘り当て、一気に利益を積み上げていった。九〇年七月、三〇回線の東京サービスセンターを開設した初月の売り上げは約三〇〇万円。それが翌八月には三〇〇〇万円に達した。一カ月で一〇倍というすさまじい伸び率である。回線はあっという間に二四時間満杯の状態になった。 当時、ダイヤルQ2サービスの世界では、業者の間で回線が奪い合いになっていたために、ニーズがあるにもかかわらずすぐに回線を増やすのは難しかっ
た。そこでぼくは他の業者が手薄な地方へとサービスを展開することにした。東京地区では回線が思うように手に入らないが、地方に行けば多少は余裕がある。 狙いは当たった。九〇年一二月には、東京、大阪、名古屋、横浜、博多、仙台、札幌、千葉と、全国主要都市でどんどんサービスセンターを増やし、一時は月間で一億円に迫る売り上げを誇った。しかも手間がかかってないだけに、売り上げのほとんどが利益といった状態である。世はバブルのピークが過ぎ、熱かった市場に、ときおりひんやりとした風が吹くようになった頃。そんな御時世で、ボイスリンクは経済の流れに逆行するかのように、急激な成長を遂げていた。 だが、日本経済に遅れること約半年、秋風はわが新規事業にも吹き始めた。それも急にである。 利用者が減ったわけではない。実は、売り上げが伸びた頃から、ボイスリンクに投資してくれたかの人物とぼくの間で意見の対立が始まったのである。 原因は至極単純なものだった。事業から生まれる利益を、ぼくは後に起業することになるハイパーネットのような新しい事業の展開に使いたかった。一方、このオーナーは、節税対策と株主への利益還元を優先しようとしたのである。 もちろん株主への利益還元ということならば、こちらにも利益は入る。お金はぼくも大好きだ。ただしこのときのぼくは、目の前の金よりも新事業を興すことにより興味があった。 これでは双方の意見がかみ合うわけがない。経営者としてのぼくの意見も、株主としてのオーナーの意見も、どちらも間違ってはいなかったし、正当な主張だった。 ただ、ぼくは満足できなかった。単純に金を儲けるためだったら、ゲームソフト会社を続けていた方がはるかに楽だった。が、ぼくがやりたいのは、ただの金儲けではない。新しい事業に挑戦し続けることだったのだ。 こんなときは人生の先達の話を聞くに限る。ぼくは、例によってアスキーの浜田さんに相談することにした。「君自身の才能一本でやっている仕事だろ。そんな不満を持ってるんだったら、将来のことを考えてもう一度やり直したほうがいいよ」 浜田さんは率直な意見をいった。「うーん」。ぼくは頭を抱えた。 せっかく良いアイデアを思いついて、寝る暇もなく働いて起業したのに、またゼロからやり直すなんて。それにこのまま会社を続けていれば、少なくともお金は毎日確実に入ってくる。 でも――、ぼくは決断した。やっぱり、辞めよう。 理由は簡単だった。ぼくはまだ若い。 今になって思えば、非常に身勝手な話である。人に金を提供してもらって、あげくのはてに、方針が違うということで飛び出てしまったわけだから。円満、とは無論いかなかったが、九一年春、とにかくぼくは国際ボイスリンクを退社した。 それと前後して、ぼくは浜田さんをはじめ幾人かの知人友人からお金をかき集め、退社から数カ月後の九一年六月、資本金一七六〇万円で株式会社ハイパーネットを設立、代表取締役に就任した。ちなみに浜田さんは、ハイパーネットが順調に立ち上がったころに、持っていた株式をぼくに譲渡してくれた。 読者の方々は、ここで疑問を持つかもしれない。なぜ、こんなに早く次の事業を計画し、スタートできたのか。当然である。会社をつくったのはいいが、この時点で、ぼくは次に何をやるのかまったく決めていなかったのである。 事業なき新会社、ハイパーネットはどこへ行くのか? ハイパーネット社の陣容をここで紹介しておこう。 設立時のメンバーは四人。まず、一九歳のときからいっしょに事業を手伝ってきてくれた大内朱美。経理の達人であり、福島の高校時代からの知り合いだ。ぼくがもっとも信頼している人間である。技術担当は木村尚人。彼は早稲田の学生時代に、ザップのアルバイトとして働いていた。大学卒業後はコンピュータを使ってプリント基板の設計などを行う C AD― CAMの会社に就職していたのだが、そこを口説いて会社を辞めさせ、取締役になってもらった。総務関係は伊藤良成。高校時代からの友人で、いっしょにバンド活動をしていた仲だ。彼の実家は地方都市で地域最大のスーパーマーケットチェーンを展開している。 彼らと代表取締役のぼく、たった四人での創業であった。会社はできた。しかし事業がない。なんともお粗末な話である。ぼくは出資者を募る段階で、非常に簡単な事業計画しか持っていなかった、しかもその内容ときたら、ボイスリンクでやっていたことを、大幅に、とはいえ、ただバージョンアップするだけである。 それでもいい。ぼくはこの時そう思っていた。事業そのものより、事業をする上での環境作りを先決しようと考えたからだ。とにかくまず誰に出資してもらうか、そして自分の出資比率をどのくらいにするか、役員はどういった顔ぶれで構成しようか……、こういった会社の基礎を固めること、それを優先したかった。だから事業の具体的内容を煮詰めるのは二の次でいい。会社の体裁が整えば、事業の具体的アイデアはいくらでも、そしていつでも作り出せる。ぼくはこんな具合に楽観していた。 とはいってもとりあえずなんでもいいから実際にビジネスを始める必要がある。でなければ会社の体裁をなさない。それに何しろ食っていけない。そこで、ボイスリンクで実施していた音声電話会議に、伝言機能とファクス、それに伝言メール機能を付加した、当時一世風靡したダイヤルQ2のサービスを始めることにした。サービス名は「ハイパーダイヤル」と名づけた。 ただしサービスを始めるには、当初の資本金だけではとても無理だった。国際ボイスリンクのときもスタート時点で一億円は必要だった。しょうがない、もう一度資金集めだ。ぼくは、再び浜田さんのところへ出向いた。 ぼくの厚かましい依頼を浜田さんは快く聞いてくれ、すぐに人を紹介してくれた。郡司明郎さん。コンピュータ業界に詳しい方ならば周知の名であろう。アスキー元会長である。元、というのは、アスキーを九一年七月に退社したばかりだったのだ。 創設者西和彦氏との対立で代表取締役会長の座を辞し、個人事務所を開いていた郡司さんは、ぼくにとって代え難い人だった。何せアスキーの大株主、資金は豊富にある。それに当然のことながら、コンピュータやインターネットに関して豊富な知識と経験を持つ。そんな郡司さんならば、こちらが目指す事業にきっと興味をしてくれるに違いない。ぼくは、彼へのアタックを開始した。 煙草とゴルフ。郡司さんの顔を思い出そうとすると、最初にぼくの頭に浮かんでくるのはこの二つだ。とにかくヘビースモーカーである。酒をやらない。その代わり、かどうかはわからない。無類の煙草好きだった。ぼくも結構な煙草好きだが、彼のそれは常軌を逸していた。一時間も話をするとあっというまに二〇本ほどの吸い殻(しかもショートホープ!)が目の前の灰皿にてんこ盛りになる。ぼくも吸うから、灰皿が二つ、いやときには三つ、四つ必要になる。 幸いなことに、郡司さんと仕事の話をするのは、密室よりも屋外、正確にいえばゴルフ場の芝の上が多かった。煙草以上に郡司さんが愛するもの、それ
がゴルフだった。そしてかなりの腕前の持ち主である。ぼくはといえば、はっきりいってゴルフは好きじゃなかった。要するに下手だったのだ。でも、それが効を奏した。 ぼくは、郡司さんとアスキー在籍時代から面識があった。そのときの印象は非常に保守的で慎重派。だからぼくはいきなり事業資金の話をするのではなく、時間をかけて親しくなってから、カネの話に入ろうと考えていた。 この件で顔を合わせるようになって何回目だったろうか、あるとき郡司さんは突然ぼくをゴルフに誘った。腕に自信のないぼくは気乗りがしなかったが、まさか断るわけにはいかない。それまでグリーン上でのプレイ経験が一〇回に満たなかったぼくは、予定した日までの一週間、毎日有明にあるゴルフ練習場に打ちっぱなしに行った。 ゴルフをやる人なら結果はすでにご承知であろう。プレイの前に練習しすぎるとろくなことにならない。スコアはあまりに恥ずかしいのでここでは伏せるが、ゴルフ場であんなに何回もスイングする羽目になるとは思わなかった。 しかし肝心な仕事の方では、このへぼゴルフが思わぬ効果を生んだ。郡司さんは、結構な「教え魔」だったのである。下手でよかった。この日以来、ぼくと郡司さんとは、師匠・弟子の関係になり、急速に親しくなった。ゴルフの腕の方は、才能がないのかやる気がないのかさっぱり上達しなかったけれども、プレイの合間合間で交わした事業資金に関する話は、少しずつだが進んでいった。 ゴルフが終わって東京へと高速道路を走らせている途中に寄ったサービスエリアで、郡司さんが事業について質問してきた。「ところで、本当にこんなにもうかるの?」「ええ」 いよいよカネの話に入ってきたな。ここが勝負だ。ぼくはこう答えた。「以前にぼくがつくったボイスリンクという会社ではこれ以上の利益が出ていました。そのときのシステムをバージョンアップするのが今度の事業ですから、まず間違いない数字です」「株式比率については?」「ボイスリンクで失敗したのは、まさにその株式比率が原因でした。で、御相談です。ぼくは単純な人間ですから、一生懸命働くための〝にんじん〟が欲しいんです」「ほう」「だからぼくを筆頭株主にしていただいて、郡司さんには二番目のシェアをとってもらいたい、とまあ、こう思っています」「なるほど……」 ぼくのずうずうしいリクエストに対して、郡司さんはうなずいたまま返事をしなかった。言い過ぎたかな。少々心配したが、それでも言いたいことはこの機会に全部言っとくべきだと思い直した。もし郡司さんがこの事業に参加してくれるとなれば、間違いなく長い付き合いになる。それをこの場で控えめな話ばかりをして取り繕ってしまうと、せっかくの資金調達は一時しのぎに終わり、後々面倒なことになろう。となれば、こちらの希望はとりあえずすべて話しておく必要がある。 ぼくは郡司さんの返事を待たずに続けた。「資本だけでなく、当社で必要な機材のリースもお願いしたいんです。そうすれば店頭公開するまでのあいだ、郡司さんに利益が入らないという事態を回避できますし、当社の資金繰りと税務対策が有利になります。あ、そうそう、それからぼくの株式保有シェアを増やすために、個人的にもお金を貸していただきたいのですが」 さすがに最後の一言は厚かましいにもほどがあったかもしれない。あまりにぼくに都合が良すぎる話ばかりである。しかし後になって、言いそびれた事があるよりましだろう。 その日、郡司さんは話を聞くだけで、イエスともノーとも返事をしなかった。数日後、彼は、資金の提供方法に関するミーティングを要請してきた。つまりイエスである。そればかりか、最終的に彼は当社に対するあらゆる角度からの支援を承諾してくれたのだ。言ってみるものである。 資金のめどはついた。後は、サービスを開始するだけである。いや、その前にやることがあった。そのサービス自体をまず開発しなければ話が始まらない。さて、どうするか。 ハイパーダイヤルは、ボイスリンクでの電話会議サービスに、いわゆる伝言ダイヤル機能と伝言メール機能を付加したものだ。電話会議サービスの特徴は、リアルタイムで複数の参加者が会話できる点だが、その反面、参加者が同じ時刻に揃わない限りサービスは実現できない。しかし音声伝言機能を付加すれば、参加する人の時間差を吸収できる。 さらに伝言機能だけでは特定の相手に対するコミュニケーションができないから、参加者一人一人にユーザー IDを与えて、その IDで個々間の音声メールの送受信ができるようにした。 たとえば、コンサートのチケットが余ってしまったので、これを誰かに売りたい、という人がいるとする。そんなときこのハイパーダイヤルを介してまず不特定多数に「チケット売りたし」の情報を「伝言版」に音声で残す。それを聞いた利用者の中で、そのチケットが欲しい人がいれば、伝言を残したチケット所有者に音声で「チケット買いたし」のメールを送れる仕組みだ。 要するに、音声版のパソコン通信である。扱えるデータが音声だけ、という点ではパソコン通信にはかなわないが、何といっても電話一つで利用できるところが大きい。パソコン通信と違ってパソコンがいらないのである。当たり前の話だが。 こんな具合に構想は固まってはいたのだが、実際にこのシステムをどう開発していくか、思案のしどころだった。ぼくはあえて日本国内での開発を止め、米国でハードウエアを調達し、ソフトウエアを開発することにした。ある人の紹介で、米国で電話関連システムのディーラーを展開するジェイ・シャアと知り合ったのがきっかけだった。ちなみにこのジェイ、後にハイパーネット USA社長に就任することになる男である。ちょっと変わったファミリーネームは、ジェイの両親がインド人だからである。両親は一九六二年に米国に渡り、そして二年後の六四年彼が生まれた。ぼくとほぼ同い年だ。 八月の暑い時分だったと思う。カリフォルニアで会ったジェイは、紳士的な好人物だった。何よりスーツを着ていた。これは驚くべきことである。カリフォルニアのコンピュータソフト業界でスーツ姿に巡り合うのは、日本のコンピュータソフト業界で納期を守る人間を探すより難しい。彼らの制服はTシャツと相場が決まっている。 親譲りの浅黒い肌に縮れた黒髪、背はぼくと同じくらいだから、百七〇センチ前後といったところだろう。そして彼はハンディキャップだった。片足をひきずるように歩く。後から聞いた話だが、出産のときに立ち会った医者のミスで足が不自由になったそうだ。自分の意見を主張する時には、意味ありげな笑みと共にウインクするのが癖だった。 とにかくよくしゃべる男だった。甲高い声で、日本人相手なのにお構いなしでぺらぺらと西海岸英語を喋りまくる。何か言うたびに「 Do you understand?(わかる?)」を付け加える。これはぼくも一緒だ。「わかります?」と念を押すのがぼくの口癖だ。 そのジェイが経営する会社、テレシステムは、カリフォルニアのシリコンバレーに本拠を構え、当時年間一〇億円程度を売り上げていた。 PB Xや電話機
など通信に関連する設備は何でも取り扱っていた。ぼくが注目したのはその点だった。大規模な音声応答装置と多人数会議システム、いずれもハイパーダイヤルを実現するために不可欠な商品だが、それらすべてを同社はラインナップしていたのである。 ジェイは、ぼくの事業構想にいたく興味を抱いたようだった。 日本同様米国でもこのハイパーダイヤルと似たコンセプトのサービスが急速に成長し、大きな利益を上げるようになっていた。利用実態はといえば、ほとんどが「ポルノ需要」だったようだが、注目市場には違いなかった。そしてジェイは以上の状況をよく知っていた。彼のクライアントの中にこうしたサービスを展開する会社があったからだ。 「OK、うちで面倒みようじゃないか」 ぼくとジェイは固く握手を交わした。交渉成立である。ジェイはソフトウエア開発を代行する現地企業を手配してくれたうえ、米国における新会社の代理人を買って出た。 郡司さんから商品をリースするという形で資金協力を得、我々は米国でシステム開発に入った。技術担当の木村はすぐに米国に飛んだ。ソフトウエアの開発を担うのは DRTというシリコンバレーにある専門企業で、無論ジェイの紹介だ。木村はこの DRTのスタッフの先頭に立ち、ハイパーダイヤルの設計の指揮をとった。ぼくも何度か開発の状況を確認するために渡米することがあったが、彼に任せておけばまず間違いなかった。 そこでぼくはもっぱら日本で資金調達やオフィス探しに明け暮れた。そんなある日のこと。総務担当の伊藤が我々のオフィスにうってつけの不動産を見つけてきた。 渋谷三丁目の七階建ての小さなオフィスビルだ。ワンフロア二〇坪。機械を置いたら座る場所はほとんど無い。しかし人がどこに座るかどうかは、このさいどうでもよかった。というのも、腰掛けるスペースも望めないほどに狭苦しいこのビルは、数百回線の電話回線を設置できたからである。 サービスを始めるにあたって絶対必要なもの、それは大量の電話回線だ。それだけの回線を最初から備えた物件などあるわけがない。当然新規工事が必要である。そして運がいいことに、渋谷一帯に複数のビルを所有するこのオフィスビルの持ち主は、快くその工事を認めてくれたのである。 米国でのシステム開発が一段落したのは、開発を開始してから三カ月ほどたった九二年の一月。改善すべき点はまだ残されていたが、もうのんびりしているわけにはいかない。我々は米国での開発を切り上げ、日本にすべてのシステムを移動し、サービス開始にむけて準備に取り掛かった。 九二年四月、ハイパーダイヤルがスタートした。 ハイパーダイヤルは、いわゆるダイヤルQ2を利用したサービスであり、一般大衆を対象とした課金ビジネスである。それゆえ、このサービスを広く利用してもらうために、告知広告を派手に展開する必要があった。 ぼくは数々の雑誌にハイパーダイヤルの広告を掲載した。メインターゲットは過去の経験から、一〇代後半から二〇代前半の若者を想定していた。そこで、テレビ週刊誌、アイドル雑誌などを中心に広告を打った。おそらくそこそこの効果はあったのだろう。広告を打ち始めて以来、売り上げは徐々にではあるが確実に伸びていった。 ぼくは、いろいろな雑誌に広告を打つ過程で、後のビジネスにつながる貴重な経験をした。一般に広告というのは、いくら打っても、はたして本当に効果があったのかどうかがわかりにくい。しかしこのとき実施した雑誌広告では、その効果を非常にはっきりと確認できた。広告を掲載した雑誌の発売日の直後、ハイパーダイヤルに対するユーザーからのコールが明らかに増えたからである。 それだけではない。ぼくには各雑誌の広告費用対効果をはっきり知ることができた。例えば、ある雑誌は公称発行部数が非常に多いために広告掲載料は高い。にもかかわらず、この雑誌に広告を打ってもユーザーからのコールはまったく増えない。一方、別の雑誌は発行部数は少ないが、少なくとも当社の広告に対するユーザーからの反応は多い。 ぼくは思った、広告とはなんと不思議なものなのだろう。雑誌に支払う広告費の額と、広告効果がまったく比例していない。それが許されるのも、大半の広告主が、大枚はたいた広告の費用対効果をほとんど知らないからだ。 このときはまだはっきりと気づかなかったが、ここに後にハイパーネット社で展開する IMSやハイパーシステムといった新サービスを構築するヒントがあった。その話に関しては、後ほど詳しく語ることにする。 先行投資でたくさんの広告を打ったこともあり、徐々に売り上げは伸びていった。 ただしその一方で、システムのバグ(間違い)がサービス稼動後も相変わらず頻繁に発生していた。突貫工事でサービスを立ち上げただけに、バグの発生は半ば不可避であった。技術担当の木村は、サービス開始以来、毎日バグをつぶし、システムを改善するために、文字どおり不眠不休で作業を続けていた。 事件は、そんなときに起きた。 九二年九月某日、ぼくが夜遅くにオフィスに寄ると、何とシステムが停止しているではないか。またシステムトラブルだ。一人で対応できる状況ではなかった。ぼくはすぐに木村を電話で呼び出した。「もしもし、木村か。おれだ、板倉だ」 「……なんすか」「またシステムが止まっちまったんだよ。おれ一人じゃどうにもならん。わるいけどすぐ来てくれ」 「……」「おい、聞いてるのか」「もう、嫌です。おれ」「はあ? 嫌じゃないだろ、嫌じゃ。あのな……」 「……(ブチッ)」「っと、おい木村、木村っ!――畜生、切りやがった!」 一度切れた電話は二度とつながることはなかった。以来、木村は行方不明になった。 トラブル続きでかなり疲れていたのだろう。それにしても困ったことになった。コンピュータの世界では、ストレスの溜まった技術者が仕事を放り出して失踪するのは珍しい話ではない。以前にも経験がある。かつて経営していたゲーム会社でも、雇っていたソフト開発技術者がある日逃げ出してしまう事件は一度ならず起こっていた。ただ、彼らの多くは技術者といっても学生のアルバイトだった。それが今度いなくなったのは社員わずか数人の零細企業で技術の中核を担う取締役である。これには参った。 でも、途方に暮れている場合ではなかった。ハイパーダイヤルは二四時間サービスだ。一刻も早くトラブルから復帰しなければならない。音信不通となった木村にコンタクトするのをあきらめたぼくは、このバグだらけのできそこないソフトを作った米国の開発会社に問い合わせ、昔ソフトを開発してた頃を思い出しながら、毎日応急処置をとり続けた。
何とかしなきゃ――。社長(一応ぼくのことだ)自らがバグ取りをやっているようでは、いつまでもたっても事業を大きくできない。木村に代わる新たな技術担当者を探さねば。誰かいないか。思い出した。一人いる。 この事件から半年ぐらい前の話だ。ぼくは、新会社の技術部門を充実させるために、知り合いに「優秀な開発技術者がいたらぜひ紹介してくれ」と声をかけていた。長瀬友喜さんもそのうちの一人だった。彼はぼくの友人で、コスモテクノロジーというソフト開発会社の社長を務めていた。 しばらくしてその長瀬さんから連絡があった。まだ木村が行方不明になる前のことだ。「板倉さんのお眼鏡にかなう技術者がいる。ぜひ紹介するよ」「え、ほんとですか!」「おっと、ひとつ忘れてた。まだ他の会社に勤めてんだ」 キヤノンで電話交換機の開発をしている、というその技術者に、ぼくはさっそく会ってみることにした。 初対面の印象は、「お、なかなかの美男子だな」。 断っておくが、ぼくはホモセクシュアルではない。でも一緒に仕事をするからには、男でも見てくれが良いに越したことはない。「筒井です。よろしくお願いします」 差し出された名刺を見れば名前は雄一朗、おれと同じ名前じゃないか。もっとも最後の「ろう」の字が違うが(ぼくのは「郎」だ)。初めて会ったにもかかわらず、ぼくはこの筒井という男に親しみを感じた。経歴は申し分ない、見栄えもいい、物腰は紳士的、しかも名前が自分と同じときてる――。ぼくはいつのまにか彼を口説いていた。もちろんビジネスパートナーとして、である。 その後、ぼくは技術担当の木村を同席させ、何度か筒井と会い、さまざまな条件を提示して、ヘッドハンティングの交渉を続けた。しかし、彼は一向にぼくの誘いにのってくれない。そんなとき、木村の逃亡劇が起きた。 事業のキーマンに逃げられたぼくは、筒井のことを思い出した。あいつしかいない。ぼくは、もう一度彼を口説こうと決意した。久しぶりに会った筒井に、ぼくは現状を率直に話すことにした。木村が逃亡して大変困っていること。代わりを務められるのは君しかいないこと。だから、ぜひうちの技術担当を引き受けてもらいたいこと――とまあこんな具合に、あらいざらいしゃべった。 でも、ぼくは彼がすぐに首を縦に振るとは正直思っていなかった。いままでまったく誘いにのってこなかった男である。大企業でのキャリアを捨てて、すんなりうちの会社に来てくれるわけはないだろう。 ぼくの話は終わった。じっと耳を傾けていた筒井が口を開いた。「わかりました。そちらで働きます」 拍子抜けするほど、ヘッドハンティングはあっさり完了した。しかし、いったいなぜ今になって当社への転職について前向きになったんだろう。ぼくは不思議に思った。「いや、今だからいいますけどね。木村さんがいなくなったからですよ」「え?」「つまりですね」 筒井は顔を上げた。「技術担当の取締役をやってた木村さんがいなくなったことで、自分が技術部門のトップとして仕事ができる。だからそちらに移ろう、そう決断したんです」 なるほど。なかなかしたたかな男である。大企業からリスクだらけのベンチャー企業に転職するからには、自分の担当分野でトップになれなければ面白くない。彼は、最初からそう考えていたのだ。筒井の仕事に対するこの自信に、ぼくはなおさら期待を寄せるようになった。 筒井は想像以上に〝できる〟男だった。開発当事者の失踪で、誰もレクチャーする者がいないにもかかわらず、彼はあっという間にハイパーダイヤル全体の技術的な特徴をつかみ、かつさまざまなバグをどんどんつぶし、ついには自分のシステムとして手中に収めてしまったのである。作業を始めて三カ月もかからなかった。 ハイパーダイヤルの機能とは、前にも説明したが、パソコン通信のいわば「音声版」である。そして当初は、単純に音声伝言板、音声メールや会議システムといった通信環境を一般消費者に提供するだけであった。 売り上げは少しずつ伸びてはいたが、ぼくには大きな不満があった。 事業のプロモーションには、前述のように主に雑誌広告を使っていた。広告を打つと確かにその分売り上げは伸びる。ただ、その伸び率は決して満足いくものでなかった。広告の費用対効果は悪かった。では、どうすれば、一回の広告でより多くの顧客を獲得できるだろうか。 ぼくは考えた。パソコン通信でおなじみの「フォーラム」機能をつけよう。 フォーラムとは、パソコン通信のような通信環境の中に特定の話題に関する「場所」を設けて企業スポンサーをつけ、その話題に参加したいユーザーを集めて運営するものだ。 このフォーラムをハイパーダイヤルという通信環境にいくつも設置し、それぞれのフォーラムに関して広告主を募る。そうすれば、広告主たる各企業は、今度は自社広告や各種プロモーションの中でこのフォーラムの宣伝をしてくれるはずだ。わが社としても、広告主を集める手間はそれぞれ一回で済む。後はその広告主が自分で勝手にハイパーダイヤルのフォーラム機能を「宣伝」してくれるからである。 果たしてこの企画はうまく行った。アイドル雑誌、アマチュアバンド雑誌、パチンコ雑誌などあっという間に二〇社ほどのスポンサーを獲得できたのである。 広告主の多くは「趣味の雑誌」だった。特定の話題を扱うという点では、フォーラムの参加者とこうした雑誌の読者はずいぶんと重なるからだろう。しかもうれしいことに、これらの雑誌の多くは読者サービスを兼ねて、誌面でハイパーダイヤルを無料で紹介してくれたのである。おかげで当社は自腹をほとんど切ることなく、ハイパーダイヤルのプロモーションができるようになった。狙っていた以上の効果である。 中でも評判を呼んだのが、アマチュアバンド雑誌が広告主となったフォーラムだった。この雑誌は、読者からのバンドメンバー募集というコーナーを持っている。しかし、雑誌の場合、読者が自分のバンドのメンバー募集を読者伝言板に載せたとしても実際に店頭で雑誌が売られるまでに最大で三カ月ぐらいのタイムラグがある。 ぼく自身高校時代にバンド活動をしていたから、このタイムラグが致命的であることをよく知っていた。バンドのメンバーなんていうのは明日にでも来てもらわないと練習ができない。三カ月も待っていたら、バンド自身が解散である。 しかし、ハイパーダイヤル上のフォーラムに参加すれば、読者はタイムリーにメンバー募集ができる。バンド雑誌の方も、読者の求めているニーズに的確に応えられるようになったわけだ。 紆余曲折はあったものの、ハイパーダイヤルは、どうやら軌道に乗りそうなところまでやってきた。しかしそこは、挫折と失敗がつきもののベンチャー
ビジネス。ハイパーダイヤルにも、意外な落とし穴が待ち受けていたのである。 ダイヤルQ2の規制だ。 ご存知の通り、ダイヤルQ2は、 NTTが提供する課金代行サービスである。ハイパーダイヤルでも、一般消費者から代金を徴収する手段として、このダイヤルQ2を利用していた。ところが、このダイヤルQ2が大きな社会問題となってしまったのだ。といえば、もう何のことかおわかりだろう。そう、 Q2の「アダルト」利用に対する糾弾である。 当時、 Q2のサービスを利用していた中身のほとんどが「アダルト」であった。アダルト雑誌のモノクロページを開くと、細かな広告が誌面からはみ出しそうなくらいぎっしりと載っている。そのうちの一つの広告に記された電話番号にかけると、女性が電話口に出て、「アダルト」な会話ができる――、これが Q2を利用した典型的な「アダルト」サービスだ。また、 Q2の伝言機能を使って、遊びの相手を探している男女が連絡を取り合う、などというのもこの頃マスコミに盛んに取り上げられていた利用法だ。 問題は、利用者の中にかなりの数の未成年や学生が含まれていたことだった。 Q2サービスの実態が、マスコミで盛んに報道されるようになると、公序良俗の点から NTTは世間からの批判の矢面に立たされた。 そこで NTTはダイヤルQ2を利用できるエリアを局番ごとにどんどん絞っていった。このため、地域によっては、ダイヤルQ2がまったく利用できなくなった。これまではといえば、全国五〇〇〇万回線の電話機すべてで Q2サービスを享受できた。それが一時は、そのうちの三分の二の電話で利用が不可能になってしまった。 もちろんハイパーダイヤルでは、アダルト系のフォーラムやそれに類する伝言利用サービスなどは一切行っていなかった。けれども、このように Q2サービス自体を制限されてしまったら打つ手はない。わがハイパーネットのサービスは、 NTTのこの措置に大打撃を受けたのである。月次収支がやっとプラスに転じようとしていたまさににその時だっただけに、痛手は大きかった。 フォーラムの提携先はどんどん増えるが、売り上げが思ったように伸びない。ダイヤルQ2以外の課金方法も検討したが、代わる方法が見つからない。しかも運の悪いことに、わが社は、このハイパーダイヤルとは別に実施していたマッキントッシュユーザー専用のパソコン通信サービスでも、ダイヤルQ2による課金をしていたのである。 このままでは、商売はジリ貧だ。早急に手を打つ必要があった。
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