午前十時のオールウェイズ・アサイン社。遅刻してくる社員がほとんどいなくなったオフィスでは、社員たち全員がすでに業務に就いていた。 ズラリと並べられたデスクを、キーボードを打つ音が包み込む。 どこかで電話が鳴れば、一コールでその場の誰かが応答し、すぐに担当者の内線に繋がれる。 春先のオールウェイズ・アサイン社のオフィスでは考えられなかった光景が、現実となっていた。秋も深まり、冬の気配すら感じさせるこの時期に、フロアはかつてない熱気に溢れている。 皆がせわしなく働くなか、静かな廊下を抜けた先にある社長室には二人の男の姿があった。 部屋に置かれたソファに、テーブルを挟んで若宮と安藤が向かい合って座っている。「それでは、研修を始めます」 まだ暑さも本格的ではなかった季節から、すでに何度もオフィスに響いてきたその言葉は、今度は社員たちに向けてではなく、社長である若宮一人に発せられていた。 今日から、社長である若宮自身の識学研修が再度、開始されるのだ。 若宮は識学のマネージャー研修や全社研修を始める前に、安藤から一通りの経営者向けの研修を受けていたため、本来はもう研修を受ける必要はない。しかし先日、社長室で部下の相談に個別に乗っていたことを安藤に指摘され、「自分には、まだ識学の考えがしっかり身についていないのかもしれない」と反省し、安藤とも相談して、この機会に識学についてより深掘りしようということになったのだ。 全社研修で多忙を極める安藤だったが、若宮からの二度目の研修の申し出は快く受け入れた。むしろ、社長である若宮が識学の考えを完全に理解しないうちは、社員たちを教育することは難しいのだと言って、すぐに研修の日程を組んでくれた。 静かな社長室で若宮はソファに座り、全社研修を受ける社員たちと同じ真剣な表情で安藤の言葉に耳を傾けている。「以前にもお話ししていますが、もう一度おさらいしていきましょう。まずは、ルールで組織運営をすること。ここに関しては、もう大丈夫ですよね?」「はい。コミュニケーションの齟齬が生まれないよう、責任者がルールを明確にし、社員たちが迷わず行動できるようにする、ということですね」 安藤が復習を兼ねて質問すると、若宮は頷きながら答えた。「そうです、完璧です。会社という組織に集まった、まったく違った環境で生きてきた多数の人間を束ねるには、そこに一定のルールが必要だ、という話でした」 しっかりと理解している若宮に感心した安藤は、彼の回答に頷くと続ける。「では、『競争環境』についてはいかがですか? 覚えていらっしゃいますか?」「競争環境、ですか……。すみません、ちゃんと覚えていないので、もう一度説明してもらえますか?」 素直に聞き返す若宮。彼のこの素直な性格は、若宮の最大の弱点にもなりうるが、最大の強みでもある。安藤もそれを理解して、評価していた。 人というのは、地位が上がるほど、財力を持つほど、横柄になり素直さを失う。初心を忘れないようにと言うのは簡単だが、実際の生活で常に自分を律し、他人の意見や新しい物事に素直に接し続けられるのは一握りの人だけだ。 識学という有効な改革案を提示されても、まだ実績がなかったそれを素直に自社に導入してみよう、という決断ができた経営者は多くない。 しかし若宮は、当初は渋っていたとはいえ、未知の存在である識学にしっかりと向き合い、部外者である安藤の意見にも耳を傾けてきた。それは、たとえ会社の業績が悪化し、藁にも縋りたい状況にあった、という事情があったにしても評価されるべきことだ。 安藤はそんなことを考えながら、改めて若宮に説明を始めた。「わかりました。そうですね、今の若宮さんには、この考えが足りないかもしれない」 安藤はそう呟くと、メモ用紙に『競争環境』と書いて若宮に見せ、説明を始めた。「競争環境を保つことは、会社の業績を伸ばすために不可欠です。 競争環境がある組織では、言い訳をする人間が激減します。社内での競争相手も同じ環境で必死に努力しているのですから、環境を言い訳にできなくなるからです。そして一人ひとりが言い訳をする感覚をなくし、業務に集中して取り組むようになれば、必然的に全体の業績も伸びます。 その競争環境を作るには、社員たちを、彼らの生み出した結果のみで評価することが大切です。 日本の会社では、結果だけでなく仕事に対する姿勢や、上司から気に入られているかどうかまでを含めて、総括的に評価することがあります。しかし、それでは純粋な評価や競争は生まれません。 総括的な評価と言えば聞こえはよいのですが、部下から見れば、それは上司の思いつきや恣意的な判断にすぎません。自分が何を基準に評価されているのかが曖昧になり、何を基準に競争してよいのかもわかりません。これではだめです。 社員が生んだ成果物にだけ焦点を当て、正しく評価し、社員同士を結果で比較する。そうした結果のみによる評価があるところに、正しい競争が生まれます。 先ほどの『ルールを厳守する』ことが社内の守りを固めることであるとすれば、『競争環境の構築と維持』は、業績を上げるための攻めの方策と言えるでしょう」「社員の出した結果や成果物だけで評価して、お互いに競争させる……」 若宮は安藤の説明のうち大事な部分を繰り返す。「そうです。今までの御社には、結果や成果によって社員を評価をする姿勢があまりにも足りなかった。ないわけではありませんでしたが、ほかの要素も評価の対象にしてしまっていた。成果だけで社員を評価してしまうと、できていない人を傷つけてしまう、という感覚が強かったのでしょう。しかし、楽しいだけの組織は数字を生みません」 安藤がもう一度説明している間、若宮はどこか虚ろな様子だった。「若宮さん? どうかしましたか?」 それに気がついた安藤が若宮に尋ねると、「すみません、なんでもありません」と首を振る。しかし、その内心は「なんでもない」どころではなかった。 そのとき若宮の頭に浮かんでいたのは、佐伯の姿だ。 先日、若宮は佐伯に降格の辞令を告げた。オールウェイズ・アサイン社のなかでも相当の古株であり、執行役員でもあった彼を降格することは、簡単な決断ではなかった。
もしかすると、彼も元副社長の添田のように辞めてしまうかもしれない。 しかし、業績が低迷している彼を助けるのに、降格以外の方法は考えられなかったのだ。 佐伯は基本的には穏やかな性格をしているが、仕事の面では善くも悪くも多少粘着質なところがあり、野心家の顔も併せ持つ強かな男だ。 若宮はそんな佐伯の性格を理解していたから、降格という厳しい処分をきっかけに、持ち前の負けん気を発揮してきっと頑張ってくれると信じていた。しかし、信じていたとしても感情は揺れる。 すでに彼を降格させた今、自分がこれ以上ブレてはいけないと考え、安藤へもう一度マンツーマンの研修を提案した面もあったのだ。 若宮は少し間を置いて、安藤に尋ねる。「競争もいいんですが、あまり厳しい環境に社員たちを置き続けると、また大量退社、なんてことにはならないですかね……?」 今までのオールウェイズ・アサイン社では、社員にとっての明確な競争環境は存在していなかったと言っていい。 営業部の成績発表会を行うなど、他社がやっているようなごくありふれた施策は行っていたし、もちろん評価には各社員の出した成果も一部反映させていたが、結果で社員同士を明確に比較するような状況を作るのを、若宮自身が避けていたのだ。「公正なルールの下ではそれは起きません。むしろ、どんどん人が成長していきます。厳しい環境のなか、人もどんどん増えて、業績も上がっていきますよ。若宮さんは社長業に専念できるようになるはずです」 安藤は眉頭に少しシワを寄せながら答えた。公正なルールの下で行われる適正な競争。それが、彼の掲げる識学の理念だ。 安藤の言葉に、若宮は膝の上に置いた自分の手の甲を見下ろしながら、「そうですね。それが我が社のためだ」と力なく返した。 自らの命令ですでに佐伯を降格させている今、そもそもの競争環境の構築を否定すること自体が己のエゴなのかもしれない。佐伯を降格させた時点で、もう自らの手で競争を始めさせているのだ。(俺はいつまで迷うつもりだ……) 頭を抱えそうになる若宮の心に、聞き慣れた声が響いた。『お前のことは信じてる。自分の思う道を歩んで、お前がこの会社を救え』 それは、去って行った添田の言葉だった。 彼は自分が会社を辞めるときにも、若宮のことを信じてくれていた。(俺も、いい加減に自分の選択を信じないとな……) 第一営業課長への降格を命じたときの、佐伯のショックを受けた顔が忘れられない。 けれど、彼の今後の復活と成長をサポートできるかは、これからの若宮の経営手腕にかかっている。(社員のみんなが成長していけるような競争環境を作る。それが、今の俺のやるべきことだ) そう考え、若宮はもう一度、顔を上げて安藤に正面から向き合った。「わかりました。競争環境、作っていきます」 その若宮の宣言で、その日の研修が終わった。 * * * 同日、午後七時。日が落ちると昼間とは比べ物にならないくらい室内が冷え込むため、夕方にはエアコンが全開でつけられ、オフィスはしっかりとあたためられていた。「うわぁ。外、寒そうだなぁ。今年は雪降るのかなぁ?」 外気との温度差で白くなった窓に指で線を描きながら、男性社員が窓の外を眺めている。その後ろ姿を、美優はなんとなく見つめていた。たしかに、寒いなか帰るのはちょっと憂鬱だ。 定時も過ぎ、その日の仕事を終えた社員たちはそろそろ帰ろうと支度を始めている。 そんななか、その日のタスクをもう少しで全部終わらせられる、というところまできているのに、美優は暗い顔をしていた。「社長、やっぱり返信してくれない……」 オフィスチェアに座り、膝に乗せたスマートフォンを人差し指で恨めしく小突きながら、大きなため息をつく。 広報課に異動して早数ヶ月。仕事も順調に覚えてきており、部のなかでも少しずつ役に立てていると実感するこのごろ。仕事にはやりがいがあるし、部内の先輩たちも優しくて、新しい職場に馴染めているのを実感していた。 急な異動にもちゃんと対応できている自分を褒めてあげたいし、誰かに褒めてももらいたい。以前のオルインなら飲み会で若宮に報告して、美味しいお酒を飲みながら存分に褒めてもらえただろうが、最近はそもそも若宮に会う機会がほとんどない。 若宮は、美優を含め社員たちと顔を合わせる機会を意図的に減らしていて、以前のように同じフロアで社員と雑談したり、帰りにみんなで飲みに行くなんてことは一切なくなっていた。 廊下ですれ違っても、軽く挨拶する程度で、笑顔もなしに去って行く若宮からは、かつての優しい社長の面影は消えている。 最初のうちは社員のみんなも若宮のことを心配していたが、安藤によって厳しく規定されたルールによって、用もなく社長室に出向いたり、上司と長々と談笑したりするようなことは禁止されたため、次第に社長の態度や行動について社員同士で話すことも少なくなっていた。 美優が送ったメッセージにも一切返信をしてくれない日々が続いている。数週間前に送った飲み会へのお誘いの連絡にも、結局返信はなく、美優のスマートフォンには会話の止まったメッセージ画面だけが虚しく表示されていた。(返信どころか、既読すらつけてくれないのは、あんまりじゃないのかな) 美優が一人、唇を尖らせていると、後ろから「西村さん、ちょっといい?」と誰かに呼びかけられる。急に自分の名を呼ばれて、考え込んでいた美優が驚いて振り向くと、美優と同じくらいびっくりした顔をした上司の布施がいた。「あれ? 驚かせた? ごめんね?」 美優を驚かせたことに申し訳なさそうな顔をする布施は、小さいころに読んだ童話に出てきた「くまのお父さん」を彷彿とさせた。「いえ! 私がぼーっとしていただけなので! どうかしましたか?」「それがさ、この前の資料なんだけど……」 布施が何かを差し出す。「あ、これ私が作った資料ですね」
それは広報課の新しいプロジェクトで使われる資料だった。「そうそう。それがさ、ここと、それからここに不備があったから、直してほしいなと思って」「ええ!? すみません! すぐに直します!」 美優は自分のしでかしたミスに気がつき、慌てた。 昔から細かい作業は得意なほうで、学生のころのレポート作りも難なくこなすタイプだったので、広報の資料作りも得意分野と言ってよかった。だから、凡ミスをした自分に余計に腹が立った。「大丈夫、大丈夫。すぐに直してくれれば問題ないから。それより……」 布施は急に心配そうな表情になった。「西村さん、最近、大丈夫? なんか落ち込んでいるように見えるし。あんまりこういうミスをするタイプじゃないから、心配になるよ。なんかあったら、いつでも相談してね。……おっと、これは識学的には、あんまりよくないのかな……」 布施が心配してくれたことが素直に嬉しく、美優は「なんでもないですよ」と首を振った。「心配してくださって、ありがとうございます!! ミスはミスなので、ご迷惑おかけしてすみません。早急に直しますね!」 美優がニコリと笑うと、布施はパッと明るい顔になって、「じゃあ、よろしくね。くれぐれも無理をしないでね」と手を振って、その場を去って行った。 上司のふっくらとした後ろ姿が、彼が歩くのに合わせて左右に揺れながら遠ざかるのを見て、美優は妙な安心感を感じて心が和らいだ。(布施さん、優しい人だな。正直、オルインでこれ以上働き続けるのはしんどいかもって思ってたけど、広報の仕事も楽しくなってきたし、もうちょっと頑張ろ) 美優は膝の上で見ていたスマートフォンの画面を暗くし、すぐに資料の修正作業に移った。「社長が返信くれないなら、一人で飲みに行っちゃうもんねー。今日はパーッと飲もうっと」 自分を励ますために呟いた強がりは、誰の耳にも届いていない。 これから二度と若宮と飲みに行けなかったとしても、寂しく感じない自分になれるだろうか? 美優はそんなことを考えながら、パソコンの画面に向き合っていた。 * * * 時は刻々と過ぎ、いつの間にか時計の針は午後十時を示していた。 オールウェイズ・アサイン社のオフィスには、もう誰もいなくなっていた。真っ暗になったオフィスの奥で、一室だけ電気のついたままの部屋がある。社長室だ。 若宮は一人で会社に残り、今後の経営の方針について考えながら、残っていた業務をこなしていたのだ。安藤が教えてくれた識学の考え方を会社全体に反映するには、これからもまだまだやらなければいけないことがある。社長である若宮が弱音を吐いている時間はなかった。「もうこんな時間か……」 若宮は一通り仕事を終わらせると、壁にかかった時計を見ながらグーッと伸びをして、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。 もともと作業中はほとんどスマホを見ないようにしているから、たくさんの通知が溜まっていた。そのなかには「西村美優」の文字も見えた。もう何週間も、彼女からの連絡に返信していない。きっと、なかばムキになって返信を待っているのだろう美優のことを考えると、心が痛まないわけではなかった。しかし、安藤の指示通りに会社を運営していくには、こうするほかはなかった。 若宮は気晴らしにデスクを立って、窓にかかったブラインドを開ける。 外はすっかり真っ暗で、窓の外で燦然と輝く街の明かりが眩しかった。 夜の明かりを見て、若宮はあの、毎日のように飲みに行っていた日々を思い出す。 まだ早朝でもあたたかかった春、泥酔して入ったファーストフード店で、店員に怒られた自分を思い出し、苦笑した。今の自分もまだまだだが、あのときの自分はもっと情けなくて、思い出すのも恥ずかしい。「つい最近の話なのに、もう随分前のことように思えるな……」 若宮は独り言を呟きながら、深い呼吸をした。 あのころ、会社の業績は急激に悪化していたが、それでも社員たちと騒いで過ごす時間は楽しかった。 思い出はいつも輝いて見えて美しい。しかし、楽しいだけでは現状維持すらできず、会社は成り立たないという現実も、この半年ほどで嫌というほど思い知らされた。 会社も、社員も、そして自分も、常に変わり続けないといけないのだ。 その成長をリードしていくことが社長としての仕事なのだと、識学に、安藤に教えられたのだ。「さて、あと少し頑張って、さっさと帰るか」 若宮は自分の頬をパチンと軽く叩き、デスクに座り直す。 窓にかかったブラインドは、なんとなく、開けたままにしていた。
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