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6  受容

 月曜日のオールウェイズ・アサイン社のオフィスでは、出勤時間の朝九時ぴったりにも関わらず、多くの者が第二会議室に集まっていた。  かつてなら遅刻してくる者が一人や二人は必ずいたのだが、今は皆、あくび一つせずに識学の全社研修の開始を待っている。  それもこれも、安藤が出勤時間を守ることを徹底してきたからだ。  そんなに簡単に社内を変えられるのかという懸念もあったが、朝起きるのが苦手な社員たちには、早起きに適した睡眠法などの資料を安藤自身が準備してくるなど、彼の熱意はたしかなものだった。その努力が、オールウェイズ・アサイン社全体を着々と変革している。「皆さん、本日もお集まりいただき、ありがとうございます。今回から、新たに中途採用された社員の皆さんにも当研修を受けていただくことになりました。どうぞ、よろしく」  安藤の挨拶を聞き、美優は会議室を見回した。たしかに、いつもよりずっと人数が多い。それは中途採用された社員も参加しているのが理由だったようだ。  先日の大量退職騒動で、入社一年目の社員の約半分に加えて、数名の二年目以降の社員が辞めてしまった。しかしその分、会社に残った社員は比較的に自己主張が強くない、真面目なタイプの者が多かったから、安藤が統率をとるにはむしろ都合がいいらしい。若宮は今、安藤のアドバイスで中途採用に力を入れていて、新たな社員を増やして、社内の人員バランスを安定させようとしている最中だ。  新しく入ってきた人材には、識学をすでに学んだ社員が教育係につき、日々、仕事と識学の考え方をしっかりと教え込んでいる。そのおかげか、大量の人員の入れ替えがあったにも関わらず、今のところ大きなトラブルは起こっていないようだ。  ちなみに、新入社員の歓迎会などの飲み会や各種の社内イベントは一時中止され、今は会社の再建と社員教育に全力集中する、との会社方針も示されていて、安藤は会社の飲み会に苦手意識を持っていた一部の社員からの支持も受けるようになっていた。  結局のところ、美優のように社内での飲み会やイベントを好む社員たちが多かったオールウェイズ・アサイン社のなかにも、仕事とプライベートはきっちりと分けたい、という社員は一定数いたのだ。安藤がくるまでは、そうした存在には光が当たっていなかった、というのが現実だった。  一方を大事にするあまり、もう一方への気遣いが足りていなかった。その点に気づいた若宮は、かつての自分の至らなさを反省したようで、社内イベント開催への意欲が余計に削がれているらしい。  そんな状況のなか、識学の講義が始まる。「それでは、さっそく全社研修を始めます。前回のおさらいと続きからです」  安藤が電源を入れて、会議室の前面の壁にモニターを映す。『組織はルールで運営する』  モニターには、そんな言葉が表示された。「組織はルールで運営する。前回の研修でもルールについて説明しましたね。前回は、できる・できないが存在しないルールを徹底的に守る組織になることで、基礎を作りましょうという話でした。今回は、さらに発展させて組織運営をすべてルールに基づいて行っていこうという話です」  安藤がそう言うと、参加者のうちの一人が手を上げた。「すみません」  声のほうを見ると、手を上げているのは、ついこの間、中途採用で入社したばかりの男性社員だった。  安藤は「どうしましたか?」と返事をする。  すると、その彼は手を下げて「質問をしてもいいですか?」と聞くのだ。  今まで、研修が終わったあとに質問をする山岸のような者はいても、研修中にまで意欲的に安藤に質問を投げかけるような者はおらず、美優は少なからず驚いた。  驚いたのは安藤も同じだったようだが、彼は人差し指で軽く眼鏡を直す仕草をしただけで、「ええ、どうぞ」とすぐに質疑に応じた。「安藤さんはなぜ、組織運営においてルールがそこまで重要だとお考えになられるのですか?  最近の世のなかの風潮では、ルールで組織を縛るより、各自が自由に働いたほうがよい、という考え方が多いんじゃないかと思っていまして」  男性社員の質問を、安藤は深く頷きながら聞いた。「それはよい質問ですね。たしかに最近の風潮では、ルールを最小限に減らし、社員の自由な発想を促す、という考え方が増えてきています。そうしたやり方のほうが理想的ではないかと考える方も多いと思いますが、私は、そのやり方では正常に組織を運営していくのは不可能だと考えています」「どうしてですか?」  男性社員が不思議そうな顔をして聞く。「組織運営においては、同一のルールがなければコミュニケーションにズレが生じるからです。  人は置かれている状況や育ってきた環境によって、それぞれに異なる常識や価値基準を持っています。つまり、独自のルールを持っています。  会社という、それぞれがまったく違う環境を経験してきたメンバーが多数集まっている組織においては、その独自ルールの違いは非常に顕著なものになります。  各個人が持っている独自の『普通』が違うのです。そして、『普通』が違う者同士がコミュニケーションをとると、当然そこにはズレが生じる。そうしたズレの発生を防ぐのに有効なのが、社内で統一されたルールということですね。  組織を構成するメンバー全員が同じルールの上にいれば、コミュニケーションの齟齬が生まれるのを未然に防ぎ、効率的に業務を回すことができます。その決められたルールのなかで、自由に発想をすればよいのです」  これまでのオールウェイズ・アサイン社には、明確なルールが存在しなかった。  いや、あるにはあったのだが、誰も守ろうとしていなかったため、最初からないようなものとして扱われていたのだ。  安藤の丁寧な答えに男性社員は納得したのか、「ありがとうございます!  よく理解できました」  と満足げな顔をしてメモをとっている。「皆さんも、わからないことがあれば遠慮せずに質問してくださいね」  一方の安藤も、いつもより穏やかな表情だ。(みんな、安藤さんに慣れてきてるのかな)

以前よりも安藤の存在がオールウェイズ・アサイン社に馴染んでいるような感覚がして、美優はなんとも納得がいかないものを感じた。  ルールでの運営。  安藤は一時間ほどの研修で、組織のルールを守ることがいかに重要であるかを参加者に教え込んだ。社員たちも安藤の言うことに納得しつつあるのか、皆だんだんと真剣な表情になっていった。導入当初は誰にも見向きされず、むしろ嫌われていた識学が、すでにこの会社を大きく変え始めている。美優は、その変化を誰よりも強く感じていた。『仕事って、楽しいだけのものなのかな』  生ビールのほろ苦い味とともに、仕事終わりの居酒屋で親友にかけられた言葉が頭のなかで再生される。    よい仕事をするためには、やらなければいけないこともある。  彼女が言いたかったのは、そういうことだったのかもしれない。(識学って、なんなんだろう……)  今までの研修の内容を思い出し、さらに考えを巡らせようとしている自分に気づき、美優は頭を振った。(だめだめ!  私はそもそも反対派なんだから!!  まったく、何考えてんだか)  そう呟きながら、脳裏に浮かんでいた「識学」の二文字を振り払った。 *     *      *  その日の全体研修を終えた安藤が次に向かった先は、社長室だった。  研修の進捗状況を若宮に伝えるためだ。「若宮さん、お疲れさまです」「ああ、安藤さん、お疲れさまです。ちょっと、待ってくださいね」  安藤が社長室に入ったとき、若宮は若い社員となにやら話し込んでいるところだった。  若宮は「ちょっとごめんな。またあとで呼ぶから」と、安藤との面談を優先させるためにその部下を部屋から出るように促した。「あ、わかりました!  失礼します!」  安藤を見て空気を読んだのか、やたらと元気のいい男性社員は、明るい挨拶をして社長室を去って行った。  バタンとドアが閉まるのと同時に、安藤が若宮に問いかける。「申し訳ございません。ミーティング中でしたか?」「いや、大丈夫です。彼が相談事があるって前から言っていて。それを聞いていただけですから」  若宮が事もなげな様子で答えると、安藤は眉をしかめた。「社長自ら、社員の相談に乗っていらっしゃるということですか?」「そうですが、どこか問題でもありますか?」  訝しげな表情をする安藤に、若宮は尋ねる。すると安藤は、「随分な問題ですよ、それは。若宮さん」と頬を引きつらせた。「最近は安藤さんの指示で、飲み会も開いてませんし。こうやってたまに部下の相談を聞くのも、必要なことだと思うんですけどね」  若宮が自分の考えを伝えたが、安藤の表情は変わらない。「若宮さん、聞いてください。今日の研修で社員の皆さんにも説明しましたが、会社という組織は、ルールで運営していかねばならないものです。それは、以前に若宮さんにもお話しましたよね?」「はい、聞きました。それとこれに、どんな関係があるって言うんですか?」  若宮が首をかしげる。「ルールで運営するにあたって、一番やってはいけないこと。それは、ルールを決める側の人が、感情に任せて物事を決めることです。  自分はそんなつもりがなくても、社員の皆さんからそのように思われてしまってはいけません。ルールが社長の感情で決まっていると思われると、ルールが社長の個人的な思いつきであるように受け止められ、ルールだとの認識が薄くなってしまうからです。  その上で、社長が直属の部下ではない特定の社員と親しくすると、つまり、特定の社員との距離だけが短くなると、社長が個人的な好き・嫌いという感情で物事を決めているのではないかと周りから思われてしまうのです。  ……ご理解いただけましたか?」 「……部下ともっと、距離を置いたほうがいいということですか?」  安藤の説明を理解はしたものの、すぐには納得まではできなかった若宮は、デスクの下でスーツの端を握りしめた。「はい。端的に言うと、そういうことになりますね」  安藤によって、会社はたしかに変わり続けている。  しかし、識学が推奨する会社経営では、今まで若宮が必死に築き上げてきた社員との関係まで犠牲にしなければならないのだろうか?  若宮はやるせなさを感じて奥歯を噛み締めるが、「わかりました、以後は気をつけるようにします」と頷くよりほかにできることはなかった。「ご理解いただけて何よりです。全社研修ですが、かなり順調に進んでいます。本日はそれをお伝えしたかっただけです。それでは」  若宮を気遣うでもなく、安藤はそのまま社長室をあとにした。  室内にしばしの静寂が訪れる。窓にかかったブラインドの隙間から漏れ出た陽光が、どこか薄暗く見える室内をまばらに照らす。いつくかの光の束が、目に直接差し込んでいたのが眩しくて、若宮はブラインドの隙間を閉めるとデスクに突っ伏した。  デスクを枕に目を閉じた若宮から、大きなため息が漏れた。『社長は孤独であれ』  安藤にはそう教えられている。実際、できる限り社員とは距離を置くように意識しているのだが、誰よりも社員思いの若宮にとって、それは苦渋の選択にほかならない。(落ち込んでいても仕方がないか……)  経験から、そう思うだけでは気分は晴れないと知っていた若宮は、勢いよく身体を起こし、ネクタイを軽く締め直した。

「仕事に戻るか」  独り言を呟いたとき、ピロリンと若宮のスマートフォンが通知音を鳴らした。  画面に表示されたのは「西村美優」の文字。名前に続けて、「今日は飲みに行けませんか?  久しぶりにパーッと騒ぎましょうよ!」というメッセージが見える。  美優は若宮が社員のなかでも特に可愛がっていた部下の一人だ。大量退職の影響を緩和するために広報課に異動させることになったが、若宮自ら彼女に仕事を教えようと、以前は社長室への配属もしていた。  美優からの能天気な連絡に、若宮は一瞬心が揺らぐのを感じた。このまま彼女や、他の部下を連れて、飲みにでも行けたら……会社の厳しい状況は変わらないとしても、部下と飲みに行ければ、自分のやるせない気持ちは癒せるだろう。  しかし、今の自分にはそんなことは許されない。  若宮は、俺にもっと経営の才能があったら、こんなことにはならなかったのかもしれないなどと、どこか自虐的な気分にすらなった。  せめて断りの返事だけでもしようかと悩んだが、一瞬の間を空けて、若宮はそのまま何事もなかったかのようにスマホの画面を暗くした。  今の若宮は、可愛がっていた部下の連絡に既読をつけることすらできないのだ。  彼は改めて、全身に力を入れてデスクに向かう。パソコンのモニターの青い光が、若宮の顔を照らしていた。 *     *      *  朝一の研修が終わり、通常業務に戻った美優は、スマートフォンをチェックしては暗い顔をしていた。  若宮に何度も連絡をしてるにも関わらず、返信がこない。それどころか、ここ数日は既読すらつかなくなった。通知機能でメッセージの内容は確認されているのかもしれないが、しっかりとは読まれることがなくなった自分のメッセージを幾度となく確認して、ため息をつく。(忙しくて返事をできないのはわかるけど、既読もつけてくれないなんて)  スマートフォンをポケットにしまって、肩を落とす。(これも、識学のせいだよね……)  安藤の言っていた「理想の上司を捨てる」というのは、今までの若宮も捨てるということだろう。飲みに連れて行ってくれる若宮も、カラオケで一緒に歌ってくれた若宮も、もうこの会社には存在しない。すべて過去のものとして、消えてしまったのだ。  わかってはいたが、受け入れるにはまだ時間がかかりそうだ。「仕方ないか……」  美優の呟きは、もう誰の耳にも届かなかった。 *     *      *  そうして、社内で安藤の存在が定着しつつあるなか、いまだ識学に反発し続けていたのは西村だけではなかった。なかでも目立って反発を続けていた社員、それはオールウェイズ・アサイン社の執行役員であり、営業部長でもあった佐伯だ。  若宮によって安藤が初めて各部署の責任者に紹介された、あの緊急会議の日から、佐伯は識学に対して一貫してよい印象を持っていなかった。  できることなら、この会社から安藤を追い出したい気持ちでいっぱいだったのだが、一方で、佐伯が統括する営業部全体の業績が落ち込んでいたことも事実であった。業績のテコ入れのために、社長が新しく導入を決めたコンサルのやり方に異を唱えるような発言が、当時の自分に許されるとは思っていなかったのだ。  しかも、安藤はたった三ヶ月で、実際に営業部の「お荷物」状態だった第三営業課の業績を二倍にまで引き上げたのだから、なおさらだ。  マネージャー研修の多くをサボタージュした結果、再度の参加を指示された全社研修にも、佐伯は嫌々ながら出席するようにしていた。  添田が辞めてしまった今、執行役員の佐伯は自動的に社内でナンバー2のポジションとなっていた。それなのに、思うように数字を上げられない自分と、劇的な改善を実現した安藤。  佐伯にかかるプレッシャーは、日を追うごとに増していた。  そんな佐伯に追い打ちをかけたのが、つい最近の出来事だ。  仕事を終え、ちょうど会社を出ようとしていたところを社長室に呼びだされた佐伯は、若宮にかけられた言葉の意味がすぐには理解できず、その場に立ち尽くしてしまった。「佐伯、お前には執行役員と営業部長から降りて、来月からは第一営業課長になってほしい」  若宮が無表情に吐いた言葉が、佐伯の耳を打つ。  その言葉は、立ち尽くした数秒の内に佐伯の脳内で何度も再生され、そして次第に現実となり、彼の心に激しい痛みを生じさせた。「社長、それは……それは、つまり降格ということですかっ!?」  佐伯が若宮に詰め寄る。  識学が導入されたことで、今後は降格の人事判断もありうるだろうとは予想できていた。  あの安藤という男は、この会社の組織を抜本的に変えなければならないと考えている。抜本的に変えるということは、従来の慣例にとらわれない人事異動があっても、なんら不思議ではない。いや、むしろいつかは必ずそれが行われるだろう、とまで佐伯は考えていたのだ。  彼自身も、一部のやる気のない社員やマネージャーの存在には呆れていた。そのため、もし彼らが降格されるのなら、それは仕方がないことだろうと、他人事として考えていたのだ。  まさか、その初めての降格人事が、自分になるとは思っていなかった。  たしかにここ数年は営業成績が芳しくない。しかし、なぜ役員でもある自分が?「ああ、降格ということになるな」  表情を変えずに佐伯の言葉を肯定する目の前の男に、佐伯は苛立った。長い付き合いの仲間、今までともに会社の発展のために頑張ってきた自分を降格させるなんて、薄情にもほどがある。「理由を教えてください!!」  納得できない佐伯は、一歩若宮のほうへ近づく。床を踏んだ靴底が、ギリッと軋んだ音を出した。

「理由は佐伯自身もわかっているだろう。安藤さんのアドバイスで第三営業課の業績は改善したが、営業部全体の業績はそれまでずっと右肩下がりだった。今も大幅には改善していない。このところは多少持ち直してきているが、気を抜けばまた落ち始める気配さえある。  評価は結果でする。佐伯には、第一営業課の課長として、もう一度頑張ってほしいんだ」  若宮の目の奥で、悲しさがゆらりと揺れる。できる限り平静を装っている若宮だが、やはりこれまで懸命に努めてきてくれた佐伯を降格させるのは、辛い決断だった。  それでも。自分が嫌われてでも、佐伯に本来の力を取り戻してほしい。  佐伯をもう一度頑張らせるには、降格以外に方法がない。安藤のアドバイスも受けてはいたが、それは、若宮自身が行った決断だった。  自分のなかの迷いや悲しみを佐伯に悟らせないよう、若宮は意識して表情を固めた。  佐伯は若宮の言葉に、それ以上、反発ができなかった。  自分自身が長期間、営業部の業績を上げられなかったのも、いまも思うように上げられないでいるのも、変えようがない事実だからだ。 「……そうですか、わかりました」  佐伯は拳にぐっと力を入れて、静かな声で言う。これ以上、自分に異議を唱える余地がないのは明らかだ。悔しさに奥歯を噛み締め、若宮に挨拶する余裕もなく社長室をあとにした。  幸い退社時間を過ぎていて、オフィスには人が少なく、打ちひしがれた情けない姿を同僚に見せずに会社を出られた佐伯は、ただ呆然と歩きながら、降格を告げられた瞬間を何度も、何度も頭のなかで反芻した。思い出したくなんてないのに、強制的にその映像が頭のなかに流れるのだ。  いつのまにか訪れた秋の冷たい風が頬を撫でつけ、佐伯の心に悲哀を運んだ。  このまま家で強い酒でも飲んで、全部忘れて潰れてしまえたらラクなのだが、安心できるはずの我が家へ帰ることも、今の彼には気が進まないことだった。  家での居心地が悪いのは、自分の責任だということもわかっていた。  このところ、高まる仕事のストレスに耐えかねた佐伯は、家に帰れば大酒を飲んで、若宮や安藤を非難する形で愚痴をこぼすことが多く、妻も一人娘もそんな父親にうんざりしているのだ。しかし、自分ではどうにもコントロールすることができなかった。  それでも、自宅へ向かう電車のつり革に掴まり、佐伯は電車の揺れに身を任せる。  車窓からもうすっかり暗くなっている外の景色をぼんやり眺めていると、家々の明かりが点となって流れていくのがいくつも目に入った。  あの明かりのなかには、きっとそれぞれにあたたかい家庭があり、幸せな生活があるのだろう。佐伯家もかつてそうだったように。仕事がうまくいっていたときは、社長とも家族ともこんな悪い関係になることはなかったのだ。(それもこれも、すべては俺の力不足だ……)  佐伯はうなだれ、落ち込んではいたものの、決して諦めてはいなかった。  社長との関係性も、仕事の業績も、そして家族との幸せも、すべて自分の手で取り戻したかった。そうじゃないと、もう自分に自信を持って生きることができなくなる。  そのためには、どうしたらいいのか。不甲斐ない自分への怒りや降格への悔しさで熱を帯びているように感じられた佐伯の頭だが、思考回路は思いのほか冷静に回りだしていた。  感情的になっても、すぐに冷静な状態を取り戻せる。自分がそういう人間だと、佐伯は自負している。焦って落ち込んでいる場合ではないのだ。  この状況から這い上がる。それには、これまでは反発してきた識学を大いに利用するのが得策だろう。このまま社内で識学に反発していても、社長や安藤に煙たがられるだけで、マイナスの効果しかない。むしろ識学を徹底的に学び、そのノウハウを利用できたなら、復活の目が出てくるかもしれない。実際に第三営業課は識学で復活したのだ。  その発想がいいか悪いかはわからない。しかし、今の佐伯にとってはほかに選択肢がない。(仕事のためなら、家族のためなら、識学でもなんでも利用してやる……!!)  佐伯は熱い思いを胸に、つり革を握る手に強く力を入れた。

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