MENU

5章成果達成指導

目次

5・1成果は顧客によって得られる

企業の本当の支配者は、社長でもなければ株主でもない。それは顧客なのである。

企業の製品もサービスも顧客あっての話なのだ。このあたりまえの、あまりにもあたりまえのことが、とかく忘れられてしまうのである。

顧客は、企業に対して直接命令をくだすことはない。多くの場合、どのような製品を開発せよともいわないし、廃棄せよともいわない。

ただ自分の気にいらなければ、その製品を買わないだけである。なんの予告もなしに、その会社を見捨ててしまうのだ。

ここに顧客のおそろしさがある。だからこそ、企業は、顧客が何を要求しているかを、自分のほうから知ろうとつとめなければならないのだ。

しかも、顧客に潜在している要求を誤りなく知る方法を、われわれはまだ知らないのだ。ということは、われわれは、さらにもっともっと顧客の潜在要求を知ることに努力しなければならないことを意味している。

顧客の要求を知るかどうかが、企業の死活問題につながるのである。

それにもかかわらず、そうしたことは営業部門の担当であって、他の部門の仕事ではないかのごとき考え方や行動が企業内に多すぎる。

顧客の潜在要求どころか、ハッキリとした意志……注文に対してさえ、顧客の立場に立って考えようとせず、自社の立場から考えている人びとが非常に多いのである。

つまり、お客の要求はムリである、「一升マスに一升五合は入らない」というわけである。そして、マスを大きくする努力をはらおうとしないのだ。

もっと悪いのは、内部の人間関係を重視するあまり、顧客を忘れてしまうことである。どこまでたたる人間関係であろうか(*1)。

わが国の企業で、顧客第一主義を明確に社是にうたっているものが何パーセントあるかを、筆者はいつも考えるのである。

経営者自体に、社内の「和」を考えても、「顧客」を考えない人が多すぎる。顧客を忘れる企業は、やがては顧客から忘れられるのだ。

成果達成指導について、トップおよび経営担当者は、まず自ら反省してみる必要があろう。

そして、社内に対して顧客第一主義について、どのような指導をしているか、その結果はどうなのかをよく注意し、会社ぐるみで顧客の要求に応ずる態勢が必要である。

5・2結果に焦点を合わせる

「目標は一つでも、手段は無数にある」という指導理念に徹する必要がある。やり方はどうでもよいのだ。要は結果を手に入れることなのである。

松下電器では、「こうせえ、ああせえ」とはいわない。「こうしたらどうや」という。これが本当なのだ。

あくまでも「過程主義」ではなく、「結果主義」に徹しているのはりっぱである。

ところが、従来の指導理念は、「目標はいくつあっても、手段は常にただ一つである、という哲学にこり固まってしまっている」(ドラッカー)、いわゆる「標準化」の理論である。

そして、標準化の理論は、きまりきった日常のくり返し仕事──これは現場の人びとの役目であって、経営担当者の仕事ではない──には役にたっても、革新、変化への対応という企業の未来を築く仕事には、まったくあてはまらない理論なのだ。

この点をはっきりと認識していないと、混乱が起こる。

そして、まさに、伝統的な標準化の理論は、変化への対応にブレーキをかける危険を、常にその裏にもっていることを忘れてはならないのである。

これからの経営担当者に期待される能力は、きまりきった日常のくり返し仕事をうまく処理してゆく能力ではない。それは、未知の未来への挑戦によって、経済的成果も高めてゆく能力なのだ。それでは、標準化の理論は、まったく捨て去らなければならないのかというと、そうではない。

標準化は別の意味で変化への対応、革新というものに貢献しているのだ。

それは、日常のくり返し仕事を標準化することによって、未熟練者に熟練者の仕事をさせることができる。これによって経営担当者は日常業務から大幅に解放される。そして、未来を築く仕事に大部分の時間を投入することができるからである。(*2)

このような意味で、標準化の必要性はますます高まってゆく。

それにもかかわらず、そのきまりきった日常のくり返し仕事の標準化さえ、現実の企業体の中では、お世辞にもすすんでいるとはいえないのである。

せいぜい「標準作業法」がその実用性に疑問はあっても、形の上でできている企業が、だんだんふえているくらいである。

それ以外は、スタティックな規定や、具体性のかける制度があるくらいだ。

ところで、それらのものは、筆者がマネジメントを勉強しはじめた三〇年前と比較して、枝葉末節に多少の進歩があるだけで、実質的には、ほとんどなんの脱皮も変化もないといえる。

これは、企業にとっては大きな不幸といわなければならない。改善、進歩、脱皮を常に叫んでいるマネジメントの理論こそ、実は最も保守的なのだ。

本当に大切な標準化は、作業の標準化というよりは、むしろ「仕事の標準化」なのである。

仕事というのは、他の人からバトンタッチを受けてから、つぎの人ヘバトンタッチをするまでの、当人の責任において処理しなければならない、異種作業を統合した一連の業務であり、当人に任された単位業務なのである。

それにもまして、さらに重要なのは、「仕事の流れ」の標準化である。指令系統は階層を縦に縫ってゆく。それだけに、これに対する論議はゴマンとある。

しかし、仕事は部門の間を横に流れる。そして、それに対する論議はほとんどない。

ただ一つ、チームワークという抽象的な概念があるだけなのだ。

抽象的なチームワークや協働という考え方だけでは、たんなる心構えを説いているだけで、分掌主義によるセクショナリズムや責任のがれに対しては、ほとんど実際の効果はない。

だから、部門間を横に流れる仕事は、そのさかい目でたえず問題を起こしている。

このようにして、日常の仕事とその流れの標準化ができていないための問題が、あとからあとからと起こり、その処理に追われて、肝腎な未来を築く仕事に時間をさくことができないでいるのが、多くの企業の姿なのである。

現在の仕事をどのようにりっぱに果たしても、そこからは、未来にわたってより多くの結果を期待することはできない。

それどころか、逆にだんだんと成果を得ることがむずかしくなる。本当にすぐれた成果をあげられるものは、革新なのだ。

だから、結果に焦点を合わせるということは、「未来の仕事に焦点を合わせる」といいかえることができよう。

現在の仕事から関心をそらせて、これを未来の仕事に投入することこそ、経営担当者の正しい態度といえよう。ここにも、明らかに、伝統的マネジメント論の脱皮の必要性があるのだ。

5・3「誤りの法則」とZDは矛盾するか

シュレイは、権限について〝誤りの法則〟という新しい概念を、われわれの前に提示した。

われわれの仕事というのは、結果を手に入れるためであるから、結果さえよければ、やり方はどうでもいいというのだ。従来のやり方に焦点を合わせた考え方は捨て去らなければならない、というのである。

やり方は当人に任せる、当人は新しい方法をどんどん試みることができる、新しいやり方には当然のこととして誤りも起こる、その誤りは「大目にみてやる」必要がある、というのだ。

そしてまた、権限というのは、この「誤りをおかす自由」のことである、というのである。まことに当然のことながら、伝統的管理論の革命である。筆者もこの考え方には賛成である。

ところが、一方に、「ZD運動」という思想がある(*3)。

「欠点を零にする」というZDの思想と、「誤りを大目にみる」という目標管理の考え方が、同一の企業に同時に導入されて、現実に混乱が起こっているのである。

これについては、目標管理の先生がたも、ZDの先生がたも、何もふれていない。

マネジメント論の被害者は常に企業体の人びとなのだ。この二つの矛盾したような考え方は、実は矛盾していないのである。ただ、教える先生がたが知らないだけなのだ。

誤りには二種類がある。

一つは意志決定の誤りであり、これを「エラー」という。もう一つは実施の誤り、つまり結果が間違っているのであり、これを「ミス」という。

設計の誤りがエラーであり、加工の誤りがミスなのである。

目標管理で誤りというのは、エラーのことであり、ZDの欠点というのは、ミスのことなのである。

エラーは、あるところまでは許されるというのは当然のことである。これを許さないということになれば、新しい試みはだれもやらなくなる。

誤りをおかすことによって、人間は反省し、向上するのだ。しかし、ミスはそのままにしておくわけにはいかない。

たとえそれがエラーから導き出されたものであっても、実施上のミスであっても、いかなる理由があろうとも、ミスをそのままにしておくことは許されない。

正しい結果が出るまで、やりなおすのである。

以上を要約すれば、「意志決定の誤りは大目にみてよい。しかし、結果に誤りを織りこんではいけない」ということなのである。

エラーとミスの区別をよくわきまえておれば、混乱することはないのだ。

5・4上を向け

伝統的な管理論は、「部下を管理する」ことのみに関心を示し、「上司の意図を理解し補佐する」という、経営担当者の最も大切な役割については、ぜんぜん教えようとしない。

まことに不思議な思想である。

皮肉ないい方をすれば、「上司は部下のためにある」という思想である。上司は部下のためにあるのではなくて、部下が上司のためにあるのだ。

経営担当者は、まず上を向かなければならない。

上司の意図をよく理解してはじめて、部下に何をさせたらいいかがわかるのであり、客観情勢の変化を知らずに、これに対処することはできないからである。

目標が示されているからといって、経営担当者は上を向かなくてよいということにはならない。客観情勢が変われば、目標は変わらなくても上司の方針が変わることもある。

客観情勢の変化と、それに対処するトップの方針を常に知っていなければ、これからの経営担当者はつとまらないのだ。

伝統的な管理論は、上役として必要なことは、「部下は自分に何を期待しているか」を知り、部下の期待にこたえてやるというのだから、どう考えてもおかしい。

部下の個人的な期待ならいざ知らず、会社の仕事についてこのように考えるのは、明らかに間違いなのである。こんなことをしていたら、企業の目標は見失われ、会社はどこへゆくのかわからなくなってしまうであろう。

だから、経営担当者は、部下に対してよりは、まず上役との接触を重視しなければいけないのだ。たえず上役と連絡をとり、新しい外部の情勢やそれに対処する上司の方針を知ることにつとめなければならないのである。

そして、それをただちに部下に流し、部下に対する要望(手に入れてもらいたい結果)を明瞭に示すのである。こうなってこそ、部下は働ける。

新しい事態もわかり、それに対する会社の方針を知れば、それにそって努力をするのが人間なのである。部下のほうばかり向いている経営担当者は、客観情勢の変化に対処することを知らず、顧客の要望が二のつぎになる。

このような経営担当者は、企業にとって最も好ましくないタイプであるだけでなく、部下のためにも、けっしてよい上司とはいえない。

5・5「権限は上司から奪い取るもの」という教育を行え

組織論で常に問題になるのが、「責任権限論」である。

伝統的な責任権限論のおかす誤りは、拙著『マネジメントへの挑戦』に詳述してあるから、ここでは大切なことを一つだけ述べることとする。

それは責任も権限も、すでに企業が経験した事柄についてきまっているだけで、経験しない事柄についてはきまっていない、いや、きめたくともきめられないのだ、ということである。

ところで、これからの企業はたえず、いままで経験したことのない新しい事態にぶつかる。

そのときに、担当者が「責任も権限もきまっていない」といっていたのでは、何もできない。いや、新事態に対処する時期を失する。

経営担当者は、責任のみ重く権限はないもの、と思って行動しなければならないのだ。この意識が大切なのだ。

しかし、現実に権限がなければ、自分の任務を果たすことはできないこともたしかである。ではどうすべきか。それは、つぎのように考え、行動する以外にない。

経営担当者が新事態にぶつかったときに、なんらかの決定にせまられる。その決定を、自分に与えられている権限で処置していいかどうかを判断するのだ。

もしも、権限が与えられていないと思うならば、それについて、どのような権限がほしいのか、担当者から上司に要求するのが本当なのだ。

これならば上司は、それについての権限を与えるのか、上司自らが処置するのかについての決定をくだせるのである。このように、これからの企業にとっては、権限を明らかにする責任は担当者にあって、上司にあるのではない。

これが変化に対応する理論なのだ。だから、「権限が与えられていない」というのは、担当者の責任のがれ以外の何ものでもないのだ。

ここのところを、よく部下に説明し、理解させておく必要がある。

こうした考え方の革新をしておかないと、権限に対する論議がたえず企業の中に起こり、これが上司への批判という形をとってくるからおそろしいのだ。

伝統的な責任権限論のおかす罪悪をみれば、よくわかることである。

部下に任せるということは、部下に自由に行動させるということであることはもちろんである。

しかし、もっと大切なことは、上司が前進するための時間を生み出すことができることである。

客観情勢の変化に対応することが最も重要なことであることを認識すれば、権限を委譲するということに、このような新しい意義を見つけ出すはずである。

この新しい理念を身につけてこそ、企業の要請する未来事業主義の経営担当者となりうるのである。

5・6分掌主義よりプロジェクト主義へ

伝統的組織論の特色である「分掌主義」は、変化に対応してゆくという企業の要請にとって、きわめて好ましくないものになってきた。

分掌主義は、職務を制度として固定してしまう「固定的分担主義」である。

ところが、企業というものは、全部の部門が同時に忙しいこともなければ、特定の部門が年中忙しいこともない。

特定の部門が特定の期間忙しいのである。忙しい部門に他部門の応援はない。自分の受持ち以外の仕事は自分の責任ではない、ということになっているからだ。これが困るのだ。

忙しい部門でも、応援してもらいたいとは思わない。

忙しいときに、仕事のよくわからない他部門の人間がきても、足手まといで、ありがた迷惑だからである。それよりも、自分の部分で忙しいときに間に合うだけの人員を確保しよう、と増員を要求する。

ひまなときも、また忙しくなるときにそなえて、人員を減らそうとはしない(それだけでなく、部下の数が多いほど偉いという信仰がある)。

こうして、間接部門の人員がふくれあがってゆく。このように、人員ばかり多くても、忙しいのはごく一部の人員であり、他はそれほど忙しくないということになる。

会社全体の非能率もさることながら、もっと大きな問題は、変化に対応する弾力性と機動力に乏しいということである。

しかも、新事態にどのように対処するかが、企業の将来に大きな影響をおよぼすことを考えれば、どうしても分掌主義をすてて、プロジェクト主義への転換を必要とするのだ。

重要なプロジェクトについては、プロジェクト・マネジャーが任命されて、全責任をもち、そのもとにそれぞれの担当者によってチームが組まれ、一つの目標達成に協力する。

そのプロジェクトが完成すればチームは解消する、というきわめてダイナミックなものである。そのためには、従来の分掌主義は、むしろじゃまになる。

最近、多くの企業で課長制を廃止したり、部課を大幅に統合したりするのはこのためである。これは、同時に間接部門の縮小にもなる。

これこそ、変化に対応して生き残るための企業の知恵であって、いつまでも古くさい組織論などにとらわれている企業は消え去らなければならないのである。

あくまでも生き残る要請から、わが社はどのような目標を設定し、それを達成するために、どのような態勢をとるか、その態勢のもとで、どのような活動をするかを考えてゆくことが大切なのである。

その中で、各成員は、共通の目標に向かって努力することができる。そしてまた、成員の能力向上のためのよき土俵ともなるのだ。

密度が高く効率的という、企業にとっても成員にとっても好ましい方式である。

客観情勢の変化、顧客の要求に応じて、適切なプロジェクト・チームを組み、明確な責任態勢のもとに、目標達成に努力することこそ、これからの組織運営の理念でなければならないであろう。

プロジェクト主義でなくても、その精神で組織を運営することはできる。いや、そうすべきである。

実例を紹介しよう。

筆者がある商社にお伺いしたときに、「組織図を拝見したい」と申し入れたところ、「うちには組織図はありません」という返答である。

わが国のベスト・テンに入る大商社に組織図がないというのだ。

その理由をきいたところ、「組織をつくっても、二カ月もたてば情勢が変わって、実情に合わなくなる。そんな組織のままでいたら、企業戦争は負けです。

うちは組織ではなく、情勢の変化に応ずるための職制が、随時、手書きをコピーしたもので指令されてきます」ということであった。

すばらしい業績をあげている企業には、やはりそれなりの明確な理由がある。

これがその理由の一つである。組織図のないのがすぐれているのではなくて、その態度がすぐれているのだ。

5・7制約条件を取り除いてやれ

S工業に調査に出向していたときのことである。たまたま新しい仕事を始めようとしていた。注文しておいた機械七台が、一カ月も遅れて入荷した。

やれやれというわけで、大急ぎで設置して作業を始めようとしたが、不具合な個所があって使えない。すぐさま機械をメーカーに返送して、手なおしを頼んだ。

製造部長にきいたところ、一週間に一台ずつ手なおしができてくる、というのだ。冗談じゃない。それでは手なおしに二カ月もかかる。

代金はときくと、納入と同時ということで支払ってしまったというのだ。こういうのを、殿様商売という。

あまりのことに、筆者は製造部長に、つぎのような苦言を呈した。

「機械代金の支払いというものは、所定の位置にすえつけて、立会試運転をすませてのちに支払うものだ。納入時とは、品物が納入されたときではない。使用できる状態になったときだ。

しかし、払ってしまったものは仕方がないとして、手なおし品についての部長の処置は間違っている。ただでさえ遅れて入荷したものが、さらに手なおしで遅れるのだ。

それを、ノホホンと机に座って、〝一週間に一台手なおしができてくる〟といっている(部長は、強引に交渉して、二週間に一台というのを一週間に一台にしたので、もう自分の役目がすんだと思っていた)。

これでは、いくら部下に気合いをかけても働くわけがない。ちょうどいまは、他に特に重要な仕事はないらしい。あなたは、いますぐメーカーのところへとび、手なおし完了まで、つききりで督促するのだ。

毎日、先方の社長室にがんばっているのだ。もちろん、旅費交通費は先方もちである。

こうすれば、おそらく、あれくらいの手なおしは、一週間か一〇日で終わるはずである」

部長は、「また君にしかられた」といって、出張の用意を始めた。仕事には、このような担当者にはどうにもならない制約条件があったり、発生したりするものである。

得意先からスペックがこない、特殊材料が支給されない。スペースがたりない、絶対人員の不足、……。

目標を与えて、あとは任せる、やり方は問わない、といってみても、実戦の場には以上のような制約条件が常につきまとう。

それらのものまで任せる、という理由で放置されるようなことがあってはならない。

それらの制約条件を上司の力で、すみやかに取り除いてやることは、百万言にまさる督促なのだ。

こうすれば、担当者は黙っていても働く。

くだらない人間関係にいくら気をつかっても、上司の職務それ自体に大きな誤りや怠慢があるならば、部下は一生懸命働こうとはしないものだ。

上司自らの目標達成の意欲と行動こそ、部下をふるいたたせるもとになるのである。

*1「たたる」とは、あることが原因で、悪い結果が起きること。

*2標準化については、『マネジメントへの挑戦・復刻版』の「4・11仕事の流れを悪くする職務分掌」に詳しい。

*3ゼロ・ディフェクツ(ZeroDefects)の頭文字を取ったもので、無欠点運動とも呼ばれる。

1960年代に米国で始まった取り組みで、その後日本でも普及した。

日本能率協会コンサルティングのウェブサイトによると「ZDのもっとも大きな特色は、その名のとおり欠点をゼロにすることである。

欠点とは不良、故障、災害などであり、これらをゼロにすることは〝あるべき理想の姿〟である。従来の欠点をゼロにする方法としては、たとえば不良品を出してから良品と選り分けたりしていた。

しかし、ZDでは『はじめから正しく仕事をする』ことによって、不良品をつくらないようにする」としている。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次