立派な仕事は「完璧主義」から生まれる
戦時中、私の叔父は、海軍の航空隊で整備士をしていました。その叔父が、戦地から帰ってきて話したことを、私は今でも覚えています。
当時、爆撃機には、整備士が機関士として必ず乗らなければならなかったのですが、ほとんどの人が自分の整備した飛行機ではなく、同僚の整備した飛行機に乗っていたそうです。
整備は一生懸命にしたけれども、それが「完璧か?」と問われると、自信を持って「完璧です」とは答えられない。
そのように自分に自信が持てないから、万一のことを考えて、同僚が整備した爆撃機に乗り込むわけです。同じような話を聞いたことがあります。
自分の子ども、妻、両親が重病になった場合、自信を持って診断できない医師が多いというのです。手術となればなおさらで、自分が信頼する医師に任せるというのです。
「肉親の情が先に立って手が震える」といった理由も考えられますが、私はそうではないと思います。この場合も、「自分に自信が持てない」からなのです。
もし私が外科医であり、肉親が手術を必要とするのなら、誰にも任せないで自分で執刀をするだろうと思います。
なぜかと言えば、私にとっては「毎日」が真剣勝負であり、その日々の積み重ねを通じて、仕事と真正面から向き合い、自分自身の腕に自信を持っているであろうからです。
「完璧主義」とは、毎日の真剣な生き方からしか生まれません。日々「完璧を目指す」ことは厳しく、難しいことです。しかし、本当に満足できる仕事を目指すなら、「完璧を目指す」ことしか方法がないこともまた、歴然たる事実なのです。
最後の「一パーセントの努力」で決まる
私は若いころから、「完璧主義」を貫くことをモットーにしてきました。
それは、私の持って生まれた、先天的な性格であると同時に、ものづくりという仕事に従事した経験から身についた、後天的な考え方でもあります。
ものづくりにおいては、九十九パーセントまでうまくいっていても、最後の一パーセントの努力を怠ったがために、すべてがムダになることがしばしばあります。
とりわけ、ファインセラミックスの製造では、たった一つのミスや、ほんのわずかな不注意が命取りになることも少なくありません。
ファインセラミックスは、たとえば粉末状になった金属の酸化物――酸化アルミニウム、酸化シリコン、酸化鉄、酸化マグネシウムなど――の原料を混ぜたものを型に入れ、プレスなどをして形をつくり、高温の炉の中で焼き上げます。
それをさらに研磨したり、表面を金属加工するなどしたりして、製品として完成するまでに長い工程を必要とします。
また、そのどの工程においても、繊細な技術が要求され、息の抜けない仕事が続きます。だから、完成品をつくるには、九十九パーセントの努力では足りません。
一つのミス、一つの妥協、一つの手抜きも許されない、百パーセントを目指す「パーフェクト」な取り組みがいつも要求されるのです。
最後の一パーセントの努力を怠ったがために、不良品が発生したら、材料代、加工賃、電気代は言うに及ばず、それまで注ぎ込んできた時間、努力と知恵など、あらゆるものがムダになってしまうのです。
いくつもある製造工程のうちの一つの工程における、わずかなミスであっても、それまでのすべての努力が水の泡となってしまうのです。
製品の出来上がりを待っていただいているお客様にも、多大な迷惑や損害を与えることになってしまいます。
京セラが生産する電子工業向けの各種ファインセラミックス部品は、ほとんどが客先からの受注生産です。
電子機器メーカーなどの客先から、「うちの機器の基幹部品に、おたくのファインセラミックスを使いたい。仕様はこうだから、いついつまでに納入してほしい」と、営業マンが注文をいただいてくるわけです。
お客様は、京セラからの納品日に合わせて、機器の生産予定を立てておられるので、納期は厳守しなければなりません。
しかし、たった一つのミスが、その納期の約束を反故にし、さらには会社の信用までぶち壊してしまうことになるのです。
たとえば、納期間際になって、不注意から製品の不良が発生してしまう。
製品の全工程が二週間かかるものとして、最終出荷の手前の段階であれば、やり直すのに二週間かかることになります。
そうなれば、営業マンがお客様のところに飛んで行き、平謝りに「あと二週間待ってください」とお願いするわけですが、「おまえのところみたいな会社に頼んだばかりに、うちの生産ラインが止まってしまうではないか」とこっぴどく叱られることになります。
ときには、「おまえの会社とは二度と取引はしない」と怒鳴られ、大の大人が半ベソをかきながら、会社に戻ってくることにもなります。
このような経験から、私には「完璧主義」が身にしみているのです。ミスを未然に防ぐには、最初から最後まで、神経を鋭く行き渡らせていくしかありません。また、どんなささいなことにも気を込めて取り組まなければなりません。
そのように意識して集中していくことを、「有意注意」と言います。一方、音がしたから振り向き、注意を向けるというのは、「無意注意」と言います。
「有意注意」を持って仕事に臨むことは難しいことですが、日ごろから意識して続けていけば、習慣になっていくはずです。
そして、「有意注意」を持って、どんなことにも気を込めて取り組むことができるようになれば、ミスが少なくなるどころか、何か問題が起き
たときでも、すぐに問題の核心をつかみ、解決できるようになります。どんなささいなことにも気を込め、百パーセントの力を注ぎ続けなければなりません。そのような「完璧主義」を貫くことで、京セラは創造的な製品をつくり出すとともに、成長発展を続けてきたのです。
消しゴムでは、絶対に消せないもの
仕事ができる人というのは、「完璧主義を貫く」姿勢が身についている人です。これは製造業に限らず、あらゆる業種、職種にあてはまることではないでしょうか。
京セラがまだ小さな会社だったころ、こんなことがありました。
当時、私は経理面で理解できないことがあると、経理部長にいちいち質問をしてさんざん悩ませたものです。
財務諸表の見方や複式簿記の処理方法など、「経理のケの字」も知らないような男がいろいろと質問するものですから、そのたびに年長の経理部長はイヤな顔をしていました。
ただ、私は年齢は若くても上司にあたる人間ですから、彼もおざなりの対応をするわけにはいきません。「訳のわからないことを言ったり、幼稚な質問をしたりする奴だ」と、内心思いながら、渋々答えていたのでしょう。
あるとき、経理部長の説明する数字に納得のいかなかった私は、次から次へと質問を重ね、彼を問い詰めていきました。
最初は私のことをなめてかかっていた経理部長も、問い詰められていくうちに、数字に誤りがあることが判明しました。さすがにまずいと思ったのでしょう。
軽く「すみません」と言いつつ、すぐに消しゴムで数字を消そうとしたのです。私には、その行為がどうしても理解できませんでした。
たった一つの文字、たった一つの数字のミスであっても、仕事においては致命傷となることがわかっていないのです。これがファインセラミックスの製造であれば、すべてダメになってしまいます。ですから、そのとき、私は烈火のごとく叱りました。
経理の人間というのは、後で消せるように鉛筆で数字を書いて、間違っていたら消しゴムで消して書き直せばすむと思っているのか――。
そのような心構えでいるから、いつまでも単純なミスがなくならないのではないか――と。
残念ながら、ミスが発生すれば、そのように消しゴムで消して、やり直せばいいと思っている人が少なくありません。仕事においては、消しゴムでは絶対に消せないときがあります。
また、「やり直しがきく」という考え方でいる限り、小さなミスを繰り返し、やがて取り返しのつかないミスを犯す危険性をはらんでいると言っていいでしょう。
いかなるときでも「やり直し」は絶対にきかないと考え、日ごろから「有意注意」を心がけ、一つのミスも許さない、そんな「完璧主義」を貫いてこそ、仕事の上達があり、人間的な成長もあるのです。
仕事で一番大事なことは「細部にある」
完璧な仕事をするために、必要不可欠なことがあります。私がそのことを知ったのは、ファインセラミックスの研究開発を始めたばかりのころのことです。
ファインセラミックスの粉を混ぜ合わせるには、ポットミルと呼ばれる陶磁器製の器具を使います。
中にはボール状の石がいくつも入っていて、ミルを回転させると、その石が動いて原料の粉を細かく粉砕してくれるのです。
ある日のことです。
私の先輩にあたる技術者が洗い場に座り込んで、そのポットミルと粉砕用の石を時間をかけて、一生懸命にタワシで洗っているのを見かけました。
いつも真面目に仕事をこなす、寡黙で目立たない人でしたが、そのときも、その地味な作業を黙々とこなしています。
「サッサと洗ってしまえばいいものを、なんと要領の悪い」 私は内心でそうつぶやき、その場を立ち去りかけて、ふと足を止めました。
よく見ると、先輩は粉砕用の石を、ヘラを使ってきれいにしているのです。
石の中にはたまに欠けているものがあって、そのくぼみに実験で使った粉がこびりついたままになっていることがあります。
先輩はそれを丹念にヘラでそぎ取り、その跡をタワシでていねいに洗っていました。それだけではありません。腰から下げたタオルで、洗った石を一つひとつ、なめるように拭いていたのです。
それを見た瞬間、私は頭を殴られたような衝撃を受けました。
ファインセラミックスというのはきわめて繊細な性質を持っているため、ポットミルの中に原料が残っていると、それが「不純物」となって、正しい原料の混合ができなくなってしまいます。
そこで、毎日の実験が終わるたびに、使った器具をきれいに水洗いする必要があります。当時の私は、その洗浄作業を、研究開発とは直接関係のない雑作業だと考えて、手早く要領よくすませていました。
そのような雑なことをやっているから、不純物が混入し、思った通りの実験結果が出ないのだということに思い至った私は、恥じ入るとともに大いに反省をしました。
いい仕事をするために必要不可欠なこと――先輩にあって自分にないものを、眼前に突きつけられたような思いがしたからです。
それはなんでしょうか。
一つは、「細部まで注意を払うこと」でした。
実験で使った器具を水洗いするという、雑用のような単純作業でも、いや、単純作業であるからこそ、丹念にていねいにこなす必要があります。
「神は細部に宿りたまう」というドイツの格言があるように、仕事の本質は細部にあります。いい仕事は、細部をおろそかにしない姿勢からこそ生まれるものなのです。
二つには、「理屈より経験を大切にすること」でした。
無機化学の教科書を読むと、ファインセラミックスは、酸化アルミニウム、酸化シリコン、酸化鉄などの原料を混ぜて成形し、高温で焼くと出来上がると書いてあります。
たしかに、理論的にはその通りなのですが、実際にはそう簡単ではありません。
現場で実際に手を汚し、試行錯誤を繰り返してみないと、わからないことのほうが多いもので、ポットミルの洗浄も同様です。理論と経験則がかみ合ってこそ、素晴らしい技術開発が可能になるのです。
そして三つ目は、「地道な作業を続けていくことを厭わないこと」でした。
仕事は、日々、継続してこそ進歩があります。洗浄といった地味な仕事を、日々続けていく中でこそ、確かな技術と経験が蓄積されていきます。
そのような地味な努力を厭わず、「継続する力」がない限り、優れたものづくり、自他ともに満足するような仕事は不可能と言っていいでしょう。
このような仕事に取り組むための根幹となる考え方、いわば働く基本姿勢といったものを、私はそのとき、一人の先輩から無言のうちに教えてもらっていたように思います。
「手の切れるような製品」をつくれ
製品とは、「手の切れるような製品」でなくてはならない――。私はつねづね、そう考えてきました。
「手の切れるような製品」とは、真新しい紙幣の手触りや質感のように、見た目にも美しく、非の打ち所がない、まさに価値ある製品をたとえた、私流の表現です。
以前、このようなことがありました。
半導体パッケージ(電子機器に使われる半導体チップを、外部環境から保護するとともに、電気的な接続の役目を果たす容れ物)をファインセラミックスでつくるために、ある技術者をリーダーとして研究開発を進めていたときの話です。
その研究開発は、京セラがそれまで経験したことのないほど、高度な技術が要求され、過酷な作業の連続でした。サンプルができるまでにも、想像を絶するような苦労と時間を費やしました。
そしてついに、研究開発部門のリーダーが「社長、苦労しましたが出来上がりました」と、私のところへ完成したサンプルを持ってきたのです。
私はそれを手に取って、しばし眺めました。言われるまでもなく、それが研究開発グループが苦心惨憺してつくり上げた技術の粋であり、汗の結晶であるのはわかりすぎるほどわかっています。
しかし、一目見て、私はそれが自分が目指していた、理想的な製品ではないと思いました。どことなく「薄汚れている」ように見えたからです。
セラミックス半導体パッケージは、ファインセラミックスの原料を窒素と水素の混合ガスの中で焼き固めてつくります。
もしその上に脂肪分などがわずかでも付着していれば、焼成時にそれが炭化して、少し灰色がかった製品になってしまいます。
それを私は、「薄汚れている」と感じたわけです。私は、開発した彼にとっては非情とも言える言葉を口にしました。
「性能はともかく、これではダメだ。色がくすんでいる」 リーダーの顔色が変わりました。
全精力を傾注してつくり上げたものを、その「性能」でなく、「外見」で判断されたのですから、無理はありません。果たして彼は気色ばんで食ってかかってきました。
「社長も技術者なのですから、論理的に評価してください。色がくすんでいることと製品の性能は関係ないはずです」「たしかに性能面での要件は満たしているかもしれない。しかし、これは完成した製品ではない」 そう言って、私はその製品を彼に突き返しました。
立派な特性を備えているものは、見た目も美しいはずです。なぜなら、外見とは「一番外側にある中身」のことなのです。見た目が美しいものは、必ず、その特性も優れているに違いありません。私は言葉を重ねました。
「セラミックスは本来、純白であるべきだ。見た目も、触れれば手が切れてしまうのではないかと怖くなるくらい、美しいものでなければならない。見た目がそれほど素晴らしければ、特性も最高のものであるに違いない」
こうして、私は「手の切れるような製品をつくろう」と呼びかけたのです。
あまりに素晴らしく、あまりに完璧なため、手を触れたら切れてしまいそうな、それほど完全無欠のものをつくることを目指すべきだ――そういうことを訴えたかったのです。
思い返せば、「手の切れるような」という形容は、幼いころに私の両親がよく使っていた言葉でした。
目の前に本当に素晴らしいものがあるとき、人間はそれに手を触れるのもためらわれるような憧憬と畏敬の念に打たれるものですが、両親はそれを「手の切れるような」と表現していました。
それが私の口からもついこぼれ出たのでしょう。
「もう、これ以上のものはない」と確信できるものが完成するまで、努力を惜しまない――そのような「完璧主義」が、創造という高い山の頂上を目指す者には、どうしても必要になるのです。
「完成形が見える」なら必ず成功する!
仕事において何かを成し遂げようとするときは、つねに理想の姿を描くべきです。また、その理想を実現していくプロセスとして、「見えるまで考え抜く」ことが大切です。
それは、私が人生のさまざまな局面で体得してきた事実でもあります。第二電電(現KDDI)が、携帯電話事業(au)を始めたときのことです。
「これからは携帯電話の時代がやってくる」と私が言い出したとき、周囲の人たちはみんな首を傾げるか、そんなことはあり得ないと否定論を口にしました。
しかし、私には、未来がハッキリと「見えていた」のです。携帯電話という無限の可能性を秘めた製品が、どれぐらいのスピードで、どう普及していくか。
またどのぐらいの値段や大きさでマーケットに流通するのか。そのイメージが、事業を始める前にクッキリと見えていたのです。
なぜなら、京セラが手がけていた半導体部品事業などを通じて、私は携帯電話を取り巻く技術革新の進展やそのスピードについて、十分な情報や知識を持っていたからです。
当時、未だショルダーフォンと呼ばれ、肩からかついでいた大きな「携帯電話」を構成するさまざまな電子回路が、やがて小さな半導体に組み込まれることによって、携帯電話が飛躍的に小さくなること、またそのことによって、携帯電話という新しい商品がとてつもなく大きな広がりを持つことを、かなりの精度で予想することができたのです。
そのため、「契約料はいくら」で「月ごとの基本料金はいくら」「通話料はこういう値段」と、将来の料金設定までハッキリと予想できました。
そのとき、私が言った料金設定を、ある幹部が手帳にメモしていたのですが、実際に携帯電話事業がスタートしたときに、彼が改めてそのメモを眺めたところ、なんとそれが、そのときの実際の料金体系とほとんど変わらなかったのです。
これが「見える」ということなのです。考えに考え抜き、シミュレーションを繰り返していたから、未来さえ見えるようになったのです。
「こうありたい」と夢を描いたら、その思いを強烈な願望へと高め、四六時中そのことを考え尽くし、成功のイメージが克明に目の前に「見える」ところまで持っていくことが大切です。
そのようにして、すみずみまで明瞭にイメージできたことは、間違いなく成功します。
最初は「思い」でしかなかったものが次第に「現実」に近づき、やがて夢と現実の境目がなくなって、すでに実現したことであるかのように、その達成した状態、完成した形が頭の中に、あるいは目の前に克明に思い描けるようになる。
しかも、白黒で見えるうちはまだ不十分で、より鮮明にカラーで見えてくる――考えに考え抜けば、このようなことが実際に起こってくるのです。
逆に言えば、そのような完成形が見えるまで強く思い、深く考えていかなければ、仕事や人生での成功はおぼつかないと言えるでしょう。
「感度を研ぎ澄ます」
製造現場で、機械が異常な音を出していることがあります。そのようなとき、私は「機械が泣いているではないか」と言って、担当者をよく叱ったものです。
機械の不調は、往々にして音に現れるものです。昨日までは心地よい音を発していたのに、急に変な音を出したりするのは、機械に異常が発生したからに他なりません。
それにもかかわらず、機械の見た目の動きは変わっていないという理由で、その異常が見逃されるケースが少なくありません。
私は、現場の人間の「感度」の悪さを問題視して、「感度を研ぎ澄ます」よう厳しく注意してきました。
そのような習性が身についているせいか、会社の車に乗っているときでも、いつもと違った異音を耳にすれば、「ちょっと、おかしくないか」と運転手さんに言うことがよくありました。
ただ、そのようなとき、ほとんどの運転手さんは「いつもと変わらないと思います」と答えて、何もないような顔をしています。これは、「感度」の違いなのです。
「感度」が違うから、一方は「変わらない」と言い、一方は「変わっている」と言う。
実際に、その車を修理工場で調べてもらうと、ベアリングの玉が一つ欠けているなど、どこかに異常が認められることがよくありました。
このような繊細な「感度」が、仕事で「完璧主義を貫く」には欠かせないものなのです。
「感度」が鈍いと、製品が問題の発生やその解決策をせっかく語りかけてくれても、聞き逃してしまうことにもなりかねません。
同じように、私は社員に対して、整理整頓を口やかましく注意しました。これもまた「感度」の問題と言えるでしょう。
私がよく注意しているせいか、ふいに現場に行っても、だいたいきれいになっていますが、ときには検査机や事務机の上の資料が、あちらを向いたりこちらを向いたりしていることがあります。
机も紙もその形は四角なのですから、机の上の資料が斜めに置いてあったり、横向きになっていたりすると、私には奇妙な感じがしてなりません。
「机は四角形なのだから、それに合わせてものを置かなければ調和が取れず、気分が悪いでしょう。四角いところには四角になるよう、辺をそろえておきなさい」 そう言っては、資料や筆入れが斜めを向いていたら、それが机の辺と平行になるように片っ端から置き直すのです。
ものの置き方一つを取っても、そこには「調和の感覚」といったものが必要になります。
それは仕事においても同様です。四角い机の上に、四角い書類がバラバラに、いろんな方向を向いて置かれているのを見て、それに違和感を覚えないような「感度」では、「完璧な仕事」ができることはおろか、「完璧な仕事とはどのようなものか」を理解することもできないのではないでしょうか。
机の上に置いてあるものがバランスを失っていると、どうも落ち着かない――そんな繊細な「感度」があるからこそ、問題が発生したときに、「何かがおかしい」ことにすぐに気づき、対策をこうじて、完璧な仕事をやり遂げることができるのです。
「ベスト」でなく「パーフェクト」を目指す
京セラを創業してから、二十年ほどたったころのこと、フランスの大手企業である、シュルンベルジェ社のジャン・リブー社長が来日しました。
シュルンベルジェ社は、石油を掘削する際にどのくらい掘れば石油の層に突き当たるのか、電波を使って地層の測定などを行なっている会社で、その分野ではきわめて高度な技術を持っている優良企業でした。
リブー社長はフランスの名門の出身で、当時のフランス社会党の有力政治家とも交友関係があり、一時はフランス政府の閣僚候補にもなった人物です。
そのリブー社長が来日中、多忙な合間を縫って、わざわざ京都まで私を訪ねてこられました。
「まったく畑違いの企業のトップが、なぜ私に?」と不思議に思いましたが、聞けば、私と経営哲学を語り合いたいとのことです。
当時の私は、シュルンベルジェ社のことも、リブー社長のこともよく知りませんでした。
しかし実際、彼に会ってみると、さすがに同社を世界有数の企業にした人物だけあって、素晴らしい経営哲学を持っていました。
私たちは初対面にもかかわらず意気投合し、後日、彼の誘いを受け、アメリカで落ち合い、夜遅くまで語り合う機会を持ちました。
そのとき、リブー社長が、「シュルンベルジェ社ではベストを尽くすことをモットーにしている」と話しました。
それに対して私は、賛意を表しながらも、次のような持説を述べました。
「ベストという言葉は、他と比較して、その中ではもっともいいといった意味で、いわば相対的な価値観である。したがって、レベルの低いところでもベストは存在する。しかし、私たち京セラが目指すのはベストでなく、パーフェクト(完璧)である。パーフェクトはベストとは違って絶対的なものだ。他との比較ではなく、完全な価値を有したもので、他がどうであれ、パーフェクトを越えるものは存在し得ない」
私は、このように主張しました。その夜、私とリブー社長の間で「ベスト対パーフェクト」の議論が深夜まで続きました。
そしてついに、リブー社長が、「あなたの言う通りだ。今後はわが社でもベストでなく、パーフェクトをモットーにしよう」と、私の意見に同意してくれたのです。
私の考える「完璧主義」とは、「よりよい」ものではなく、「これ以上はないもの」を、仕事において目指し続けるということなのです。
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