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5章《忘れてはならない〝世の中のルール〟》「社会」とどう向き合っていくか

「礼儀」を尽くす非礼、無礼な人間に未来はない『孟子』をはじめとする儒家の思想では、規範を形成する大本として、四つの心を説いています。一つ目が「惻隠の心=仁」……困った人を見たら気の毒に思う精神。二つ目が「羞悪の心=義」……自分の不善を恥じる精神。三つ目が「辞譲の心=礼」……譲り合いの精神。四つ目が「是非の心=智」……人として正しいか否かを判断する精神。これらは「四端」と呼ばれ、人間が社会・他者と関わって生きていくうえで、非常に重要な概念とされています。現代流にいえば、「仁」と「礼」が人間性、「義」と「智」が社会性を養うもとになる規範だということです。もし、四十代で「四端」が身についていないとしたら、リーダーになる資格はないといっても過言ではありません。『孟子』に至っては、「惻隠の心無きは、人に非ざるなり。羞悪の心無きは、人に非ざるなり。辞譲の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり」と断じているほど。「四端の備わっていない者は人間じゃないよ」と非常に手厳しい。それほどに「四端」は重要だということです。この項ではとくに「礼」にフォーカスしましょう。『論語』に「克己復礼」という言葉があります。弟子の顔淵に「仁とはどういうものか?」と問われて、孔子がこう答えているのです。「己に克ちて礼を復むを仁と為す」「己に克つ」とは、自分の内にあるよからぬ考えや、私欲に走ろうとする気持ちなどに流されず、立派な人間性を形成することです。たとえば、困った状況になったときにその場しのぎの噓をついたり、目先の利益に目がくらんで悪事を働いたりすれば、それは己に負けたことにほかなりません。当面はそれでうまくいったとしても、やがて〝天罰〟がくだります。また「礼を復む」とは、すべての人に敬意を持って接し、人間としての規範を守って礼儀正しく振る舞うことを意味します。つまり、年齢や地位、財産などで相手が自分より上か下かを判断し、上の者には媚びへつらい、下の者には横柄に振る舞うなどもってのほか。礼儀を失した行動に終始する人は、やがて世間から疎んじられます。とりわけリーダー的立場にある四十代は、この「克己復礼」を実践することが大切です。これができないと、自分の率いる集団が非礼・無礼な人ばかりになり、秩序が乱れる一方です。リーダーが「克己復礼」の手本を自ら示して初めて、集団の一人ひとりが「見習わなくては」と啓発され、秩序が整うのです。もう一つ覚えておいてほしいのは、「脩己治人」という儒教思想の根本概念です。まず大事なのは「脩己」――気まま・わがままに振る舞う自分の身を厳しく律して修めることです。これができると、自然と人を治める能力、つまり「治人」が可能になります。なんといっても御しがたいのは「自分自身」。その自分を律することができれば、他人を厳しく律することなどずっと簡単です。それに、自他ともに厳しい人間は、周囲から信頼されます。これは逆を考えてみると、よくわかります。行動がちゃらんぽらんな人のことなど、とても信頼できないではありませんか。さらにいうと、己に克つこともできないような人間は、競争社会を勝ち抜くこともできません。なぜなら、社会・他者に対するいい影響力を持ちえないからです。その意味では、「克己復礼」「脩己治人」――これは、「競争社会に振り回されない、強い自分をつくる」キーワードということもできます。

「常識」を外さないどこに出ても恥ずかしくない人間になれ四十代は自信満々の時期であるだけに、気概がありすぎて、常軌を逸した行動に走りがち。〝オキテ破りの無礼者〟になりかねません。前項で述べた「礼」にはまた、「社会の常識を大事にする」ことも含まれます。『菜根譚』には、そのことを戒めた、「気象は高曠なるを要するも、疎狂なるべからず」という言葉があります。「気概に満ちていることは必要だけれど、並はずれて粗雑になってはいけない。常識的な判断ができなければダメだよ」としています。よく「日本の常識は世界の非常識」などといわれますが、四十代はそういう状況に陥りやすいのです。とりわけ注意が必要なのは、自社の中では半ば常識として通用していることをそのまま、他社の人たちと行動をともにする場に持ち込んでしまわないようにすることです。「自社の常識は社会の非常識」ということがありうるからです。私が閉口した例を一つ、紹介しましょう。それは、同業他社の集まりがあったときのことです。ある提案があって、議長が「いまの件について、自由に発言していただきましょう」といった瞬間に、待ってましたとばかりに、一番若い人(といっても四十前後)が「はい」と手を挙げました。そして、あろうことか、「残念ながら、私はいまのお話には賛成しかねます。なぜなら……」と自らの否定的見解を長々としゃべったのです。見かねた私は、会合が終わったあとで彼を少々叱責しました。「今日は建設的な意見交換をするための会だよ。君がいきなり否定したから、場の空気が冷え込んでしまったじゃないか。そもそも、君はメンバーの中で一番若いのだから、まずは年長者のご意見を拝聴して、そのあとで発言するべきだ。それが礼儀というものだよ」すると、彼は、「いや、うちの会社では年齢もキャリアも関係なく、堂々と自分の意見をいうことが重視されているんです」というではありませんか。私は、「君の会社ではそうでも、社会の常識は違う。そんなふうだと社会から認められなくて、そのうち必ず行き詰まるよ」と諭しました。最近は、この種の非常識な人間がだんだん増えてきたような気がします。常識的な判断ができず、しかも「場の空気を読む」力もなければ、社会から「無礼な人間だ」と断罪されるだけ。四十代の力量としては、はなはだオソマツです。ついでながらいっておくと、最近の四十代は、パーティなどでの挨拶が下手すぎますね。たとえば、私はとくにこの十年、結婚披露宴に招かれる機会が多いのですが、主賓格に祭り上げられた四十代の上司がまるで〝友人代表〟のような挨拶をするのです。本来なら、「諸先輩方がご列席のもと、私ごとき若輩が真っ先にご指名いただきまして、ご辞退申し上げるべきところを僭越ながら……」といったことから入るべきところを、いきなり「〇〇君、おめでとう!」などとやってしまう。また、某銀行のパーティでは、出世頭なのか、四十代若手の常務取締役が挨拶に出てきたのはいいけれど、内容がくだけすぎ。受け狙いなのか、話の導入がゴルフをしたときの「女性陣の短いスカートが気になって、スコアのほうが……」なんて、場にそぐわないエピソード。失笑を買ったことはいうまでもありません。四十代になると、そういった場で挨拶する機会も増えるので、みなさんも礼を失しないよう気をつけてください。きちんとした人の挨拶を聞いて、どういう話し方がいいのか、しっかり耳でトレーニングをしておくことが必要です。

「恥」を知る死ぬまで成長し続けるために年を取れば、容色は衰えて当たり前。四十歳を過ぎると老化が進むものです。しかし、四十代をどう生きるかによって、事情は違ってきます。内面をいっそう充実させ、立派な人格を磨き上げることによって、若い人にはない魅力で輝くことは可能です。逆にいうと、五十歳を過ぎて本格的に体力も容色も、将来に向かって進むエネルギーも衰えてしまわないようにするには、四十代で〝仕込み〟をやっておく必要があります。そのときに一番重要なのが「恥を知る」ということです。これまでも述べたように、四十代になると、人はちょっといい気になるところが出てきます。そのために慣れからくる、ずうずうしさが目立つようになるのです。このあたりを戒める言葉が、佐藤一斎の『言志後録』にあります。「婦人の齢四十も、亦一生変化の時候と為す。三十前後猶お羞を含み、且つ多く舅姑の上に在る有り。四十に至る比、鉛華漸く褪せ、頗る能く人事を料理す。因って或は賢婦の称を得るも、多く此の時候に在り。然れども又其の漸く含羞を忘れ脩飾する所無きを以て、則ち或は機智を挟み、淫妬を縦にし、大いに婦徳を失うも、亦多く此の時候に在り」訳してみましょう。「女性は四十歳が人生の曲がり角だ。三十歳前後はまだ恥じらいがあって、舅・姑がにらみをきかせているから、しおらしいところもある。それが四十歳になる頃には、飾り気が薄れる一方で、世慣れて人あしらいもうまくなる。周囲から『賢婦人』などと称えられるのはこの頃だ。しかし、だんだんに恥じらいを忘れて、きれいに見られたいと思う気持ちもなくなってくる。経験からくる手練手管を弄して安易に物事をさばくようになり、さらには身持ちを崩す人もいる。多くの場合、この頃に賢婦人としての徳を失う」ずいぶん辛辣な言葉です。しかし、失礼ながら、当たらずとも遠からず。仕事をしている人も、主婦の方も世慣れてくる部分はあります。仕事にしろ、家事・育児にしろ、そろそろベテランの領域に入ってくるだけに、どうしても慢心して手を抜くようなことをしがちなのです。もちろん、四十代だとまだ色気は残っていて魅力的だし、現代の女性は四十代でもまだまだ若々しい。アンチエイジングの名のもとに、美に気を使っている方が大半でしょう。ただ、気をつけないと、しだいに恥じらいをなくして、ずうずうしくなり、いわゆる〝おばさん街道〟を走っていく危険があります。男性のみなさんも「そう、そう」なんて笑っている場合ではありません。ここでは一斎の女性観が述べられていますが、男性だって四十歳ぐらいは人生の曲がり角です。たとえば、仕事に慣れ切って慢心し、いまの地位にぬくぬくしている間に時代の変化についていけなくなるのはこの頃です。過去やってきた仕事に慣れただけで、本物の実力がついたわけではないことを自覚する必要があります。慣れだけで続けていけるほど、仕事は甘くないのです。また、四十代は一番エネルギッシュなときだから女性にもてたりしますが、もてるぶんだけ人生を誤る危険も高まります。それに、うかうかしていると、食生活の乱れからメタボの冴えないおじさんになっていくのは必至でしょう。男性も女性も四十代になったらいま一度、「恥」の概念を思い出すことが必要です。「老境に入ったときに輝きを失っていたら恥ずかしいじゃないか」と。孔子は『論語』の中で、弟子に「立派な人間とはどういう人ですか?」と尋ねられて、こう答えています。「己を行うに恥有り」恥を知る人には、自分がどんなに成長してもなお「まだまだだな」と恥じる心があります。自分の中に「自己向上のメカニズム」を持っているのです。そういう視点から、四十代の人生を「ここからが勝負」と仕切り直しましょう。

「風格」を身にまとう「知者」のように、「仁者」のように生きるところで、「人生を楽しむ」とは、どういうことでしょうか。『論語』に、四十代にふさわしい人生の楽しみ方のヒントがあります。「知者は水を楽み、仁者は山を楽む。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽み、仁者は寿し」ここでは、賢く教養のある「知者」と、人格者である「仁者」に分けて、人生の楽しみ方を提示しています。「知者は川の流れのように移ろいやすい流行を楽しみ、仁者は山のように不動・不変の真理を追究することを楽しむ。知者は活動的に人生を楽しみ、仁者は心穏やかに日々を過ごして長寿をまっとうする」直訳するとこうなります。孔子は私たちに、「知者として生きるか、仁者として生きるか」と問いかけているわけではありません。どちらがいい・悪いではなく、人生を楽しむにはどちらも大切だとしている。そう解釈するといいでしょう。四十代は「知者」であり、そして「仁者」であって然るべきです。第一線で活躍するビジネスパーソンとして、時代の流れを敏感に察知し、対応しながら新しいチャレンジに取り組んでいくことが求められます。それは、「知者」のように、アクティブに日々を過ごすことを楽しみとすることです。一方、組織のマネジメント層に近いポジションにある者として、常に不変の真理を探究し、それを軸にした指示を通して、揺るがない存在感を発揮しなければなりません。それは、「仁者」のように、落ち着いて毎日を暮らすことを楽しみとすることです。四十代のうちはまだ「知者」の部分が大きくてよいのですが、五十、六十と年齢を重ねるにしたがって「仁者」の風格が身についてくるのが理想です。好きなこと、面白がって挑めることがたくさんある。楽しみの尽きない毎日でありながらも、ときには心穏やかに哲学的思考に沈潜することを喜びとする。四十代以降の人生をそんなふうに送れれば、愉快、愉快の人生をまっとうすることができます。知者のように、仁者のように、人生を楽しみましょう。

「責任」を取る「誰が悪い、何が悪い」を捨て去る私が多くの人から悩み相談を受ける中で実感しているのは、その悩みが生じた原因を社会や会社、他人のせいにしている人間がじつに多いことです。気持ちはわかります。自分の思いどおりに事が運ばなければ、誰しも「あいつがヘマをしなければ……」「あいつが裏切らなければ……」「会社が不当な評価をしなければ……」「社会がちゃんとしていれば……」などと、他者のせいにしたくもなるでしょう。そのほうが自分を責めずにすむぶん、当座は気持ちが楽になるからです。しかし、そんなふうでは、悩みがいっこうに解決しないばかりか、自分自身を大きく成長させていくことはできません。実際、大物になった人の共通点の一つは、「起きたことすべての責任は自分にある」としていること。「自責の人」であること。そうでなければ、成長は止まるし、いつも悩んでばかりで心が病んでしまいます。心がけとして大事なのは、「たとえ自分に責任がない」ことが明確であっても、「自分に害をおよぼした人を裁くのは天である」と自分に言い聞かせることです。『老子』に、有名な言葉があるではありませんか。「天網恢恢、疎にして失わず」これは「天網恢恢、疎にして漏らさず」という慣用句としても知られていますが、もともとは老子の言葉です。「天の網は広大で、目が粗いから目に見えないが、絶対に悪人を漏らさずに捕えることができる」という意味です。俗にいう「お天道様は見ている」ということです。さらにいえば、これからが伸びどきの四十代には、「誰が悪い、何が悪い」と心を煩わせている時間などないのです。裁きは天に任せて、脇目もふらずに自分のやるべき仕事に取り組む。そのほうが、ずっと有意義な時間となります。たとえば、ある知人に女性スキャンダルが取りざたされたことがあります。どうやら、そのスキャンダルは彼を陥れようとする人たちの企みだったようです。見るからに派手な女性に〝やらせチュー〟をさせて、その場面を週刊誌に書き立てさせたわけです。「私はハメられた。誓って潔白だ」と怒った彼は、法的手段に訴えました。結果、裁判には勝ったのですが、相手に賠償金を払わせてもなお、彼の気持ちは晴れなかったのです。そこで、私はいいました。「法的に決着がついても、天は君を許してくれないよ。週刊誌に狙われた自分に対して、どこか悪いところがなかったか考えてみなさいよ」と。最終的に彼は、自分の態度にも問題があったと反省しました。そのときです、相手が心からの詫び状を送ってきたのは。これで一件落着。自責がいかに大事か、ということです。

「シンプル」に生きる余計なことは「減らす」「手放す」「忘れる」仕事に忙殺され、心身ともに疲弊している。それなりの成果を出しているのに、いまいち評価が低い。出世競争で勝ち抜ける見込みが薄くなった。職場での人間関係がぎくしゃくしている。妻や子どもの信頼を得られない。……など、四十代は「悩み多き世代」でしょう。悩みが多ければ多いほど心は晴れないし、体の疲れも取れません。そんな悩みの深い穴にはまらないためには、「あれこれ考えすぎずにシンプルに生きる」ということに徹する。それが解決策になります。『菜根譚』にいい言葉があります。「人生は、一分を減省せば、便ち一分を超脱す。如し、交友減ぜば、便ち、紛擾を免れ、言語減ぜば、便ち愆尤寡く、思慮減ぜば、則ち精神耗せず、聡明減ぜば、則ち混沌完くすべし」訳してみましょう。「余分なことを少しでも減らそうとすれば、そのぶんだけ悩みから解放される。友人とのつき合いを減らせば、そのぶんだけいざこざを避けられる。発言を減らせば、そのぶんだけ過失も少なくなる。思案するのを減らせば、そのぶんだけ精神的苦痛はなくなる。賢さを減らせば、そのぶんだけ人間本来の心のままに振る舞える」しごくもっともだと思いませんか?余計なことをいったり、したりするから、悩みが大きくなるのです。『孟子』は、「どうして、人間は余分なものを減らそうとせずに、逆に増やすようなことばかりするのか。それでは自分で自分の人生から自由を奪うようなものだよ」とまでいっています。私もこの考え方には大賛成です。たしかに、どうでもいいつき合いまで手を広げると、どうでもいい問題を抱えることになるのです。つい余計な発言をして、トラブルを招くこともあります。結論の出ない悩みにいつまでもかかずらっていれば、心はずっと悶々としたままです。頭で考えてばかりだと、消極的な行動に終始します。どれも無駄。さらにつけ加えると、過ぎてしまった過去のことに「あんなこと、しなければよかった。いわなければよかった」と、くよくよする。あるいは、どうなるかわからない先のことを憂えて、「こうなったら、どうしよう」などと心配する。そういった「結論の出ない悩み方」は、しても意味がありません。過去はもうやり直しがきかないのですから、後悔ではなく反省をして前に進まなければいけません。取り越し苦労をする暇があったら、そうならないよう手を打つ行動に出るべきです。とにかく四十代は、無駄な悩みで時間を浪費するほど暇ではないはず。「余計な感情をいかに削ぎ取っていくかが勝負」なのです。私は弊社の社員にも余計な感情を減らしてもらおうと思って、「イメージプラン三則」なるものを掲げています。参考までに紹介しましょう。一つは「悪口をいわない」こと。上司・部下・同僚の悪口というのは、居酒屋でのかっこうの肴のようです。けれども、悪口をいえばいうほど、自分の価値を貶めることになります。なぜなら、悪口の裏には必ず、嫉妬が潜んでいるからです。しかも、その悪口がどこかから本人にもれて、人間関係が悪化する恐れもあるし、悪口を利用した足の引っ張り合いが生じるなど、争いのもとにもなります。何かいいたいことがあるなら、陰で悪口をいうのではなく、本人に直接意見するなり、議論を戦わせるなりしたほうがいい。感情のもつれをなくし、職場を自由闊達な意見交換の場にできるでしょう。二つ目は「否定語を使わない」こと。これには、①NOをいわない②嫉妬はやめる③自己憐憫はやめるという三項目があります。たとえば、受けた指示に対して、できない理由を数え上げるのがクセになっている人がいます。そういう思考に入ってしまうと、指示を出したほうも、出されたほうも頭がもやもやして、仕事が停滞するだけ。まず「どうすればできるか」を考える。それが悩まないコツです。また、妬みは非生産的な感情の極致です。たとえば、同僚が自分より先に課長になったとしましょう。それを「なんだよ、あいつはまだ課長の器じゃないよ」などと妬むと、課長というポジションそのものを否定してしまうことになります。妬んでいる限り、自分が課長になる芽は出ず、心のもやもやはなくなりません。そういうときは大きな声で「〇〇君、昇進、おめでとう!」というといい。遅れを取った悔しさがきれいになくなり、新たな気持ちで頑張れます。それから自己憐憫もいけません。どういうわけか、人から「大変ですね」といわれるとうれしい人が多いようです。待ってましたとばかりに、「ほんとに大変なんですよー」と、とうとうとしゃべり始めるのです。自分では大変さを周囲にアピールして「すごいな」「頑張っているな」と思ってほしいのでしょうけど、それになんの意味があるのか。なかには「大変さは無能の裏返し」としか受け取らない人だっているでしょう。「大変だ」と思えば、すべてが「大変」です。その「大変さ」を自分に許してしまうと、何をやっても「大変だ」となってしまいます。能力の伸びしろを自ら小さくすることになると、自戒していただきたいところです。

三つ目は「時代を語ろう」ということ。これは、いまこのときにこそ、実践してほしいことです。①仕事に面白さを見出し、さまざま新しいアイデアを提案する②独自性を追求する③出会いに感謝するという三項目を打ち出しています。「余計なことや難しいことを考えたり、したりしないで、これだけをやろう」という思いで、「イメージプラン三則」の一つに入れています。ともあれ、余計な悩みを捨て、シンプルに生きるのが一番です。四十歳からは、常に心をスッキリさせて、巧みに生きることを心がけましょう。

「終わり」を意識する成功者は、最後の詰めを怠らない『貞観政要』に、「終わりを慎む十箇条」というのが出てきます。これは、のちに「貞観の治」と呼ばれる善政を敷いた君主の太宗に対して、側近の魏徴が最後の諫言をしたところです。魏徴は諫議大夫という、皇帝の〝ご意見番〟のような役職にある人物。太宗の治世が十三年におよんだ時期に、「近ごろは即位した当初の志が感じられない。このままだと、終わりを慎むのは難しい」と、じつに長々とした説教をしたのです。魏徴はその冒頭で、古典の二つの言葉を引用しています。「之を知ることの難きに非ず、之を行うこと難し」「之を行うことの難きに非ず、之を終うること難し」一つ目は『書経』、二つ目は『春秋左氏伝』からの言葉です。二つ合わせて、「知ることは誰にでもできるが、実行することは難しい。しかし、それよりも難しいのは、最後まで実行し続けることだ」という意味です。普通の人でも、地位や給料が上がるにつれて傲慢になったり、虚栄心が大きくなって贅沢をしたりするもの。中国という広大な帝国の帝王ともなれば、なおさらでしょう。太宗は、「ここでふんどしを締め直さないと、晩節を汚すことになるよ」と諫められたわけです。「終わりを慎む」とは「有終の美を飾る」ことです。この十箇条のすべてを解説するには紙幅が足りないので割愛しますが、ようするに魏徴はこんなことをいっています。「陛下は政権を担った当初、他国からの贈り物も受け取りませんでしたね。質素倹約を大事にし、自分が贅沢をするために人民をこき使うこともありませんでした。人材登用においては、イエスマンよりも優秀な人材を厚く遇しました。権力を笠に着て威張ることもなければ、日がな狩りに熱中するようなこともありませんでした。ところが、いまはどうでしょう?人民のことはそっちのけ。部下を心にかけることもなく〝小物〟ばかりを周囲に集め、驕慢で贅沢な暮らしにうつつを抜かしているではありませんか。どうか初心に返ってください」このときの太宗は四十歳を少し過ぎたくらいの年齢です。ちょうどみなさんと同じくらいです。治世はその後十年ほど続き、魏徴の進言が「終わりを慎む」ためのカンフル剤になったことを考えると、他人事とは思えないのではないでしょうか。そろそろ「サラリーマン人生をどう締めくくるか」を視野に入れて、初心に返って「もうひと花咲かせる」気概を持っていただきたいところです。そのために私から提案したいのは、「新入社員のやることをやってみなさい」ということです。たとえば、準備や後片づけ。四十代になると、ちょっと偉くなりますから、準備は部下任せ。仕事が終わると、「あとはよろしく」と、片づけも若手に任せてしまうことが多くなります。場合によっては、仕事の途中で「どう、うまくいってるか?」なんて調子で出てきて、終わりが見えたところで早々に現場を立ち去ることもあるでしょう。それを悪いとはいいませんが、ときには準備から後片づけまで全部、責任を持って自分でやるようにしてみる。これは「始末をつける」といって、とても大事なこと。仕事人生の「終わりを慎む」にも通じる精神です。もう一つ、『書経』にいい言葉があります。「山を為ること九仞にして、功を一簣に虧く」これは「九仞の功を一簣に虧く」という慣用句としても知られているもの。直訳すると、「最後に一杯のもっこの土を欠いても、山は完成しない」という意味で、「事を九十九%まで成したところで、最後にわずかな油断をしたために失敗する」ということをたとえています。あなたにも覚えがありませんか?「もう大丈夫だな」と、自分で最終チェックすることを怠り、部下に任せたために、とんでもない問題が生じたというようなことが。とくに四十代は管理職として、しっかり最終チェックをすることが重要な仕事ですから、「終わりを慎む」精神でぬかりのないよう心がけましょう。(了)

◎参考文献『論語の一言』光文社/田口佳史『新釈漢文大系〈1〉論語』明治書院/吉田賢抗『佐藤一斎全集第一巻〈政教論考〉』明徳書院/岡田武彦『中国古典名言事典』講談社/諸橋轍次『菜根譚』講談社/中村璋八・石川力山『荘子物語』講談社/諸橋轍次『論語増補版』講談社/加地伸行『荘子第一冊〈内篇〉』岩波書店/金谷治『新訂孫子』岩波書店/金谷治

田口佳史(たぐち・よしふみ)1942年東京生まれ。東洋思想研究者。日本大学芸術学部卒業後、日本映画新社入社。新進の記録映画監督として活躍中、25歳のときにタイ国で重傷を負い、生死の境で「老子」と出会う。以後、中国古典思想研究に従事。1972年株式会社イメージプラン創業、代表取締役社長を務める。東洋リーダーシップ論を核に置き、2000社にわたる企業変革指導を行なう。企業、官公庁、地方自治体、教育機関など全国各地で講演講義を続け、1万名を超える社会人教育の実績を持つ。1998年に老荘思想的経営論『タオ・マネジメント』(産調出版)を発表。2009年から慶応丸の内シティキャンパスで担当している「論語」「老子」講義などが人気となる。東洋思想をベースとした仕事論、生き方論の第一人者である。主な著書に『超訳孫子の兵法「最後に勝つ人」の絶対ルール』『超訳老子の言葉「穏やかに」「したたかに」生きる極意』(以上、三笠書房《知的生きかた文庫》)のほか、『リーダーに大切な「自分の軸」をつくる言葉』(かんき出版)、『社長のための孫子の兵法』(サンマーク出版)など多数がある。

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40代から人として強くなる法電子書籍版発行日2016年6月22日著者田口佳史(たぐち・よしふみ)発行人押鐘太陽発行所三笠書房〒102−0072東京都千代田区飯田橋3−3−103−5226−5731http://www.mikasashobo.co.jp制作誠宏印刷株式会社(C)YoshifumiTaguchi●三笠書房『40代から人として強くなる法』(2016年6月22日初版第1刷発行)に基づいて電子書籍版は制作されました。

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