夏真っ盛りの八月。 オールウェイズ・アサイン社のオフィスでは、クールビズへの取り組みのため、いつもはスーツを着込んでいる社員たちもネクタイを外し、シャツの腕をまくるなど、比較的ラフな装いで業務に向かっていた。 女性陣も、長い髪をお団子にしたり、なかには「夏になると邪魔だから」とショートカットにばっさり切った者もいるらしい。皆、思い思いに夏の暑さを乗り越えようと意気込んでいた。 そんななか、第二会議室ではエアコンが強目に設定され、室内の空気がオフィスのどこよりも冷やされていた。スモーキーブラウンの長方形のテーブルを囲こむのは、各部署のマネージャーたちだ。 カツン、カツン、カツン 三十人近い大人が詰め込まれた室内に、プラスチックが何かに衝突する乾いた音だけが小さく響く。音の出どころは、眉間にシワを寄せた副社長の添田が、無意識にかリズムを刻むようにテーブルに打ちつけているボールペンだ。 カツン、カツン、カツン すでにマネージャーが全員集まってから約五分。誰が話すわけでもなく、静かな会議室内で一定の間隔で続くボールペンの音は、それだけでも耳触りだ。というのに、明らかに不機嫌そうな添田の表情が、その小さな音をより不穏なものへと変えていた。 普段は感情をあまり表に出さない副社長が放つ、今にもテーブルをひっくり返すのではないかという黒いオーラに当てられて、彼の斜め前に座っている女性マネージャーなどは怯えた子ウサギのように首をすくめている。 そうした周囲の様子にもお構いなしで、添田はボールペンをテーブルに打ちつけ続ける。怯えたマネージャーたちの様子にも、内心の怒りでまったく気がついていない。(若宮のやつ、識学について会議を行うって……) この日、社内のマネージャー相当の人員全員が集められたきっかけは、「識学についての話を進めよう」という若宮からの連絡だった。(会議と言ったって、識学を取りやめる気なんてないだろうが……) 添田が憮然とした表情でボールペンをテーブルに打ちつける音が、いよいよ大きくなり始めたところで、ガチャリと音を立てて会議室のドアが開いた。 皆の視線を集めながら会議室に入ってきたのは、まさに彼らが待っていた社長の若宮。そして、その若宮に付き従うように安藤の姿もあった。「みんな、おはよう! 急に集めてごめんな。それと、遅れてごめんなさい」 ハハハと笑いながらおどけて入ってきた若宮のおかげで、室内に漂っていた冷房によるものとは違う冷たい空気も一瞬緩んだ。 しかし皆の安堵とは逆に、添田は若宮の軽い調子の挨拶にさらに苛立ったのか、若宮の顔を鷹のような鋭い目つきで睨みつける。それにより、いったん緩んだ空気も一目散に逃げていく。 安藤は会議室に舞い戻った冷たい空気を特に気にした様子もなく、皆に向けて軽く頭を下げた。 「……それじゃあ、始めようか」 マネージャーたちの気まずそうな雰囲気を感じ取りながらも、若宮はそれには何も反応せず、すぐに本題に入った。「みんなと今日話したいのは、昨日連絡した通り、識学についてなんだ。この一ヶ月、ここにいるマネージャーのみんなには識学の研修を受けてもらったんだけど、どうだっただろう?」「識学」。その言葉を聞いて、全員がゴクリと唾を飲み込んだ。 それは、今まさに会社全体を巻き込んでいる嵐の中心点にある言葉だ。 先月から始められた識学のマネージャー研修は、すでに開始から一ヶ月が経過しようとしている。いまだ識学の導入に関しては反対の意見が多いが、前回の緊急会議のころとは少し様子が変わってきたところもあった。 以前のように識学に対して反発する者ももちろんいるのだが、なかには識学の考え方や組織改革のノウハウに対して、好印象を抱くようになったマネージャーも出てきていた。 特に経理部や総務部といった、他部署よりも業務に神経を遣うものの、普段は裏方に回ることが多い部署では、安藤が語る「ルールが統一され、一定の基準で成果を平等に評価される」という考え方を支持する傾向が強かった。 添田は、社内のそうした変化を敏感に感じ取っているからこそ、余計に腹を立てているというわけだ。 その一方で、今まで熱意とプライドで契約を勝ち取ってきた各営業課では、やる気や頑張りといったプロセスを重視しない識学の発想が気に食わないらしく、依然としてマネージャーの大半が反対派だ。 各営業課では日ごろから上下関係が厳しく、団結力も強いために、マネージャーである上司が反対するのであれば部下たちもその意見に賛同するだろうと若宮は懸念していた。(意見が割れてはいるが、識学に対して肯定的な意見を持つマネージャーも、増えてきているのはたしかだよな……) 若宮は今いる識学肯定派に一縷の希望を抱いていた。彼らの賛同を得て、識学をマネージャーのみの研修に留めておくのはもったいないと、全社員向けの研修に発展させる。──そういうふうに提案すれば、ある程度は受け入れられると考えていた。 しかし、若宮がいざ実際にそうした提案を行うと、反対派のマネージャーたちからの大ブーイングを食らう結果となった。「みんな、反対する気持ちもわかるが、今までマネージャーのみんなに受けてもらった研修を、一度、全社員を対象にして実施しようと思っているんだ。試験的でもいい。それで、社員たちの反応が見たい」 若宮が放った言葉で、一瞬にして会議室がピリついた空気に覆われた。「識学を全社研修に、ですか? それは反対です。このマネージャーだけのミーティングでも意見が分かれているのに、いきなりの全社研修は無謀すぎますよ」 一番に反対の声を上げたのは、営業部長の佐伯だった。 彼は副社長の添田に続く、強硬な識学反対派の一人だ。執行役員でもある彼の意見には、普段なら耳を貸さないわけにはいかないが、今回に限っては若宮は折れなかった。「あくまで実験だよ。これだけマネージャーたちの意見が分かれるのなら、いっそ社員全員に識学の効果を判断してもらえばいいじゃないか? 多数決とまでは
いかないが、会社全体によい影響が出るのなら続ければいい。そうでなければやめればいい。そうですよね? 安藤さん」 若宮が隣に座っている安藤に聞くと、安藤も深く頷いた。「識学は、実際に業務で使っていただかない限りはただの理論にすぎず、意味を成しません。まずは一度、試用するのも手ではないでしょうか」 静かに発言する安藤に、識学肯定派のマネージャーたちはお互いに軽く目配せをして、周りの参加者の反応を読み取ろうとする。若宮や安藤の提案に頷きたいと思っているものの、添田と佐伯の手前、あまり態度には表しにくいのだろう。「それでは、まるで社員たちを実験台にするようじゃないですか? 社員は家族ですよ? 若宮社長自身も、以前はそうおっしゃっていましたよね」 そう言ったのは添田だった。クールな印象の彼は、冷徹な眼光で若宮を射抜く。「家族だからこそ、生の意見を聞かないといけない、と言いたいんだ! 実験台だなんて、そんな言い方をしないでくれ!!」 若宮も負けじと言い返すが、添田の表情は変わらない。二人の関係に深刻な亀裂が生じているのは、その場の誰が見ても明らかだった。「とにかく一度、定期的な全社研修をスタートさせてくれ。うちにはもう、時間がないんだ」 若宮はそう言いきったものの、すぐに自分の放った言葉の重さに気づいて、焦る。(しまった、まだ財前との件は、安藤さん以外には話していないんだった……!!) 勢い余って口を滑らせた若宮は、自分の最後の発言に疑念を抱く者がいないことを願ったが、頭の切れる添田がその言葉を聞き逃すはずもなく、「時間がないって、どういうことですか?」 と、見事に聞き返されてしまった。 添田が若宮を見据える視線は、先ほどよりさらに鋭くなっている。真正面に構えたら、眼力だけでも怪我をしそうなその視線に、若宮は少なからず怯んだ。「いや……みんなを不安にさせないように、まだ黙っておこうと思ってたんだが……」 恐る恐る、といった様子で、若宮は財前との間で交えた一悶着について話しだした。「待ってください、それで本当に融資が受けられなくなったら、会社はどうなるんですか?」 若宮の話を聞いて、不安そうに尋ねてきたのは第二営業課長の山岸だった。若宮は申し訳ない気持ちになりながらも、言葉を選んで正直に答える。「それは……今のうちの会社の状況を考えると、融資が受けられない限りは資金繰りが難しくなるだろうな。会社の存続自体が難しい状況になる可能性もある……」 若宮の言葉に、彼女は目を見開く。「それって会社が、オールウェイズ・アサイン社がなくなるかもしれないってことですよね!?」 悲鳴にも似た声を上げ、どうしよう、と泣きだしそうになる彼女を見て、若宮は慌てた。「いや! まだ会社がなくなると決まったわけじゃないんだ!! 可能性があるってだけの話で!! 仮にそうなったとしても、みんなの生活は守れるように、俺がどうにか手を尽くすから」 早口で説明する若宮の両手には、大量の汗が滲んでいた。 しかし、若宮の必死のフォローにも、その場にいたマネージャーの多くが困惑の表情を隠しきれずにいる。「社長、なんでそれをもっと早く言ってくれないんですか!? 社員全員じゃなくても、マネージャーだけとか、少なくとも役員の私たちにくらいは話してくれたって」 口もとを震わせながら言う佐伯。その目には若宮に対する不信感が宿っていた。「話すって言っても……」 お前らに何ができるって言うんだよ。 危うく零しそうになった言葉を、若宮は飲み込んだ。(俺、何言いそうになってるんだよ。会社が傾いてるのは、社長である俺の責任じゃないかよ。それなのに……) 会社の業績悪化の責任を、社員になすりつけようとする発想が自分の頭のどこかに存在していると気がついて、激しい自己嫌悪が若宮を襲う。「みんな、すまん。本当に、すまん」 謝ることしかできない若宮にマネージャーたちが困惑した視線を向けるなか、若宮に助け舟を出したのは、この場ではもっとも発言しにくいであろう安藤だった。「皆さん、会社の状況が悪いのは今に始まったことではないんです。会社というものは、じわじわと時間をかけて傾いていくものです。その原因は、社長である若宮さんにはもちろん、社員である皆さんにもある。いや、誰かが悪いと言うより、会社自体の仕組みが悪かったのです。識学は、その仕組み自体を変えていくものです」 そう言いながら、安藤はマネージャーたち一人ひとりを見回す。誰もその言葉に言い返すことができず、しばしの静寂が訪れる。安藤が話を続ける。「識学を、全社に導入させてください。会社が窮地に追いやられている状況で、今までと同じ対応をしていたのでは変化はありません。時間がない今だからこそ、改革が必要なのです」 皆が沈黙するなかで、安藤の言葉だけが会議室に響いた。 安藤はそれだけ言うと、「それでは失礼します」とそのまま会議室を出ていった。 誰もが顔を見合わせていると、「そういうわけだから、みんなよろしく頼むよ」 と力なく言った若宮も、安藤に続いて部屋をあとにした。 オールウェイズ・アサイン社始まって以来の嵐は収まるどころか、さらに大きくなるだろうと、会議に参加した誰もが予感していた。 * * * 嵐の全マネージャー会議が終わって数日、いよいよ識学の全社研修が始まった。 識学の基礎について、安藤が約一時間の講義を週に二回のペースで行う。 業務に支障が出ないよう、一度に全員を集めるではなく、各部署からすでに研修を受けているマネージャーを除いて数名ずつが集められ、順番に研修を受ける体制が作られた。 社員は基本的に強制参加で、遅刻は厳禁。普段から緩んだ空気のオールウェイズ・アサイン社で、あえて緊張感のある研修を実施することが安藤の狙いらしい。
「それでは、本日の研修はこれで終わりです。皆さん、後日アンケートをかならず提出するようにしてください」 一回目の全社研修が終了し、第二会議室に安藤の声が響く。「ふぅ、疲れたぁ」 安藤が会議室を出ていくと、そこかしこでそんな声が聞こえてきた。 多くの社員にとっては、入社以来の大々的な研修だ。緊張も相まって、疲労感があるらしい。「アンケート、めんどくさいなぁ」「識学に対してどんな印象ですか? だってさ。どうもこうも、厳しすぎるよなぁ」 アンケートは研修前に用紙を渡され、講義を受けたあとに識学についての感想や評価を答えるように指示されていた。率直に回答できるよう、匿名で記入することになっている。 このアンケートへの回答を参考に、今後の識学の研修を進めていこうというのが、若宮と安藤が決めた方針なのだ。「俺は識学には反対だよ。だって、厳しいし、めんどくさいじゃん。なんか宗教っぽいし?」「だよなぁ。仕事なんて適当にやって、給料さえもらえればあとはどうでもいいし、サボっていることさえバレなければ、みんな優しいしさ」 若い男性社員が集まって口々に言い合うが、その場にいる同僚の女性社員が、ムッとした顔で言い返した。「私は識学、悪くないと思うけどな。真面目にやっている人が、ちゃんと評価される方式なんでしょ? それって、理想じゃない?」「そうなんだけどさぁ、かったるいじゃん? そういうの。うちの会社は、そういうんじゃないっていうかさ」 双方ともに自論を譲らない空気を察して、近くにいた数人が「まぁまぁ」と間に入って二人を止めた。「まあ、アンケートには自分の素直な意見を書いたらいいじゃん。どうせ、決めるのは社長なんだからさ」 誰かのそんな一言でその場が収まったところで、第二会議室のドアがバタリと開いた。 入ってきたのは、佐伯だ。「研修が終わったら、みんな速やかに業務に戻るように! 仕事サボるんじゃないぞ!」 ハリのある声でそう言う。どうやら部下たちの様子を見にきたらしい。「げっ、佐伯さんじゃん……」 さっきまで女性社員と言い争いをしていた男性社員が、佐伯の顔を見て、苦虫を噛み潰したような表情で呟いた。「え? 何、嫌いなの?」 言い争いの相手の女性社員がそう聞くと、彼は佐伯には決して聞こえないよう、小さな声で返答する。「いや、嫌い、とかじゃないんだけどさ。あの人、最近ピリついてるんだよね。仕事とか家庭がうまくいってないって噂でさ。それで、機嫌を損ねると理不尽に怒られるんだってよ。八つ当たりすんなっての」「え、それ最悪じゃん。あの人、前はそんな印象なかったんだけどなぁ」 ヒソヒソとそんな会話がされている間にも、佐伯の声を聞いて、会議室にいた多くの社員がそそくさと手荷物をまとめ、出ていく準備をする。皆、最近の佐伯の横暴ともとれる態度については見聞きしているらしく、深くは関わりたくないのだろう。 そんな社員たちからの評判も知らず、佐伯は会議室を見回すと、室内に最後まで残っていた男性社員の一人に声をかけた。「おい、研修はどうだった? 安藤さんとか」 急に佐伯に声をかけられた男性社員は顔を真っ青にするが、佐伯自身は彼のその様子に気がついていない。「い、いや、よくわからなかったっす。自分には難しい、というか」 焦って答えながら、彼は目の前にいる上司の顔色をうかがった。(なんで急に佐伯さんが声かけてくるんだよ!? 今の答えで合ってるのか!?) 男性社員は、次に何を言われるかと内心冷や汗を垂らすが、佐伯は、「そうか、うん、そうだよな。わけがわからないよな」 と満足そうな顔をして、そのまま立ち去っていった。「な、なんだったんだろう……?」 わけがわからないのはアンタのほうだよ、とツッコミたいのをこらえて、佐伯に声をかけられた男性社員もその場をあとにする。 誰もいなくなった会議室はしんと静まり返って、ホワイトボードに書かれた「識学」の文字だけが取り残されていた。 * * * 一回目の識学全社研修の終了後、若宮は社長室で安藤がまとめたアンケート結果を見ていた。「うーん、やっぱり反対派が多いかぁ」 集計結果の数字を見て、ため息をついた。 全社員のうち研修を受けたのは、マネージャー研修への参加者を含めればすでに約一〇〇名。そのうちの大半は、識学に対してあまりよい印象を抱いていないらしい。(しかし、二割ほどは肯定派もいるから、これから研修の回数を重ねていきながら経過を見るしかないよな) 結局、マネージャーたちの識学に対する評価と、他の一般社員たちの評価では、肯定派と否定派の割合に変わりはなさそうだ。「あー、識学、ほんとにうまくいくのかね……」 若宮は腕時計をつけた片腕をしきりにさすりながら、小さな声で不安を漏らす。 チラリと目を向けた窓の外は、猛暑の熱気で景色がかすかにゆらゆらと揺れて、室内から見るだけでも息苦しくなりそうだった。しかし、エアコンが効いて涼しいはずの室内にいても、心のざわつきはやまない。若宮はもう一度、大きなため息をついた。 * * * そのころ、安藤はというと、その日に予定していた講義を終えて、いつものようにデスクで何やら作業をこなしていた。 カチャカチャと規則正しく鳴り続けるタイピング音に、表情の乏しい安藤の様子が相まって、どこか機械じみた雰囲気を醸し出す。彼に話しかける社員は、誰一人としていなかった。
そんな安藤の手もとには、数十枚もの紙の束があった。先日の研修が終わったあとに回収したアンケートだ。 回収後にすべて集計し、若宮にデータとして送ったが、若宮に送られているデータと安藤の持っている書類には一つだけ違いがあった。若宮に送ったデータでは、アンケートの一番最後にあった自由記述項目の内容を削っていたのだ。 自由記述欄は、識学についての素直な意見を書いてもらおうという意図で設けたものだったが、実際に書かれた意見のなかには、「素直」という言葉の解釈を間違えた酷いものも含まれていた。 安藤を名指しした誹謗中傷のような意見もあり、匿名でのアンケートだからと、記入者の悪意がストレートに表出されていた。 そうした記述を目にした安藤は、記入者のあまりの姑息さに驚いたものの、若宮にはそうした記述についてはあえて報告しなかったのだ。(今の若宮さんは、非常に不安定な精神状況にある。これまで信じてきた社員のこんな醜態を知れば、またひどく思い悩むことになるのは明白だ) そう思いながら、安藤は集計が終わったアンケート用紙をシュレッダーに持っていく。 オフィスに置かれたシュレッダーは、その機能を存分に発揮し、安藤の手のなかにある悪意をまたたく間に吸い込み、切り刻んでいった。(それにしても、最近はまた何かと嫌がらせが増えてきたな) シュレッダーに飲み込まれていく紙の束を見ながら、安藤は最近の出来事を思い出していた。 識学のマネージャー研修に使う予定の資料が切り刻まれた事件以降、実は、絶えず同様の陰湿な行為が続いていた。 整理していた書類がぐちゃぐちゃに荒らされていたり、安藤の私物のボールペンが何者かによってゴミ箱に捨てられているなど、証拠が残らず、もしバレても言い訳が効くようなことばかりが起きるので、安藤もだんだんとうんざりし始めていた。(誰がやっているのかは、おおかた見当がつくが……) 以前から識学に対して強く反発しているのは、副社長である添田と、執行役員の佐伯。 あの二人自らがこんな嫌がらせに及ぶとは考えにくいが、彼らの部下ならありえる。 佐伯は社内での評判があまりよくないらしいが、添田は創業メンバーということで一定の信頼がある。また、仕事ができ面倒見がよい彼を慕う部下も少なくない。恐らくは、そのなかの数名が……。(が、今は犯人探しをしている場合ではないな) こんな嫌がらせが平気で横行している時点で、この会社の先行きは危ういのだ。 まずは識学をしっかりと浸透させ、よい組織に変えていくことこそが安藤の仕事だ。(とにかく、今は全社研修に集中しよう) 心の内にそんな熱い気持ちを抱いて、安藤はもう一度デスクへと向かい直した。 * * *「識学なんて、まやかしじゃないですか。添田さんも、社長になんとか言ってくださいよ」 その日、副社長である添田のデスクには、五〜六人の社員たちが集まって、識学に対する抗議をしていた。 安藤の全社研修が進むにつれ、彼らの不満は高まっていた。「無用な理想を捨て、会社の業績を上げることに集中する」という識学の考え方は、そもそもオールウェイズ・アサイン社には合わないのだと、皆、口を揃えて主張していた。 反対派の社員のなかには、社長に直談判する者もちらほら見られた。社長の若宮も、そうした社員たちの声を聞いてその都度悩むものの、「もう少し経過を見てみよう。きっと、識学はうちの力になってくれるはずだ」 と言うばかりで、いっこうに識学の導入をやめようとはしない。「社長がだめなら、副社長に相談しよう」ということで、こうして添田のもとに集まる者があとを絶たないのだ。「いいから、落ち着きなさい。俺だって不満に思っていないわけじゃないんだ」 添田は眉間にシワを寄せながら、応じる。「じゃあ、添田さんからも社長に言ってくださいよ! 俺たちじゃ、社長に意見を聞いてもらえないんです!」 怒っているような、悲しいような表情をする社員たちに懇願されて、添田の眉間のシワはより一層深くなった。 最初のマネージャー研修のあと、添田は社長にたしかに抗議しに行っていた。 しかし副社長の添田の意見でさえ、やはり検討材料となるだけで、若宮の意思を覆す決定的な抗議とはならなかった。 それだけ若宮の意思が固いということではあるものの、やはり急に導入された識学に対して、添田はまったくいい印象を抱いていなかった。 現に添田は、あの日以来、一度も識学の研修に顔を出していない。「そもそも、あの識学って会社、まだ設立したばかりだって聞きましたよ」 集まった反対派社員の一人が投げかけた言葉で、その場がどよめいた。「え、何それ? 本当か?」「うん、うちの会社が初めての取引先だって」「じゃあ、あの組織経営論? も、まったく信憑性がないじゃないか。添田さんは、そのこと知ってたんですか?」 騒ぐ部下から急に投げかけられた質問に、添田は曖昧に頷いた。 そのことを添田自身は知っていた。しかし、いきなり導入された識学に、特に実績はないのだと社内に知れ渡れば、社員たちの不満が爆発するかもしれない。そう思って、公に言うことはしなかったのだ。添田の懸念は的中したようで、社員たちは明らかに不安げな顔をした。「このままオルインが変わっちゃうんじゃ、俺、ついて行く自信、ないかも……」 誰かがポツリと呟いた言葉が、たしかな重みとなって、その場の全員の心にのしかかった。 添田はその言葉を聞いて、創業当初の若宮を思い出す。「俺は、社員第一で会社をやっていきたいんだ。この東京で、家族みたいなあたたかい会社を築きたい」 どこか遠くを見つめるような目をしながら、かつての若宮はそう言っていた。 オールウェイズ・アサイン社をともに立ち上げたのは、若宮の持つその誠実さや愛情深さが、添田の心を打ったからだった。「お前は、昔からそういうやつだよな」
創業を決めたあの日、添田は若宮と笑い合ってそう言った。そうして、東京でもっとも社員を幸せにできる会社を目指して、ここまでやってきたはずだ。 しかし、今の若宮は変わってしまった。あの識学とやらに傾倒したことで。 オールウェイズ・アサイン社の業績が悪化していることは、添田もたしかに把握していた。 にも関わらず、追い詰められていた若宮の助けになれなかったのは、副社長の自分にも責任があるだろう。 それに加えて、あのいつもヘラヘラしている東京すばる銀行の財前。あんな男に、会社に対してどうこう言われるのに腹が立った気持ちもわかる。(でも、だからと言って、あんな信用できない経営コンサルに頼ることはないだろう……) 添田にとって、若宮と歩んできた道はそうラクなものではなかった。今までも、会社のピンチやトラブルは何度もあり、それでもどうにか力を合わせて切り拓いてきた道だ。 それなのに、今回はどうして自分を頼ってくれなかったのだろう? 自分では、力不足だったのだろうか? そんな怒りとも悔しさとも判然としない感情が、添田のなかで渦巻いていた。(このままでは、業績の改善はおろか、社員たちまで離れて行きかねない状況だぞ。若宮、おまえ、一体どうするつもりなんだよ?) 添田は奥歯を噛み締め、拳を固く握る。 そんな彼の変化に気がついたのか、先ほどまで騒いでいた社員たちが、心配そうに添田の顔を覗き込んできた。「副社長? どうしたんですか?」 普段、感情をあまり表に出さない添田が暗い顔をしていることに驚いたのだろう。「大丈夫だよ。みんな、話はそれくらいにして、そろそろ仕事に戻りなさい。若宮には、俺から話しておくからな」 そう力なく言う添田に対して、部下たちは心配を拭いきれない様子だったが、程なくして静かに解散して行った。 添田は先ほどよりももっと強く、握った拳に力を入れる。 そして、大きなため息をついたあと、無表情で仕事に戻った。 どんなに嫌な思いをしたとしても、日々の業務は続く。 会社が傾いているとわかった以上は、落ち込んで手を休めている暇などないのだ。(今は頭を空っぽにして、とにかく目の前のことに集中しよう) そう言い聞かせて、添田は珍しく荒ぶっている自らの感情を鎮めようとしていた。 * * *「添田さん、お疲れさまです。お先、失礼します」 すっかり集中しきっていた添田を我に返らせたのは、挨拶をしにきた部下だった。 その日は一日、心ここにあらずというふうに仕事をこなしていた添田を心配していたのだろう。気を遣って、声をかけにきてくれたのだ。「おお、おつかれ。気をつけてな」 添田はハッとして、手もとのスマートフォンで時刻を確認すると、もう午後八時を過ぎようとしている。いくら日が長い夏といっても、すでに外は真っ暗だ。「添田さん、今日なんかありましたか? すごく疲れていません?」 部下が心配そうな顔で首をかしげている。そんなに疲労感が滲み出ているのだろうか? 添田は、「大丈夫だよ」と言いながら部下に軽く手を振った。「無理しないでくださいね」 これ以上、詮索しても仕方がないと思ったのか、そう言い残して部下はオフィスを出ていった。フロアにはもうほとんど人がいなくなっており、静かなオフィスで時計の秒針が動く音だけがやけに大きく聞こえた。(はぁ、今日は疲れたな) 部下の背中を見送って、一息つくと、思ったよりも自分の体に疲労が溜まっていたことに気がつく。それに、長時間に渡って集中していたせいか喉もカラカラだ。「コーヒーでも飲んで、俺もそろそろ帰るかな」 そう呟きながらフロアの入口付近に置かれたコーヒーマシンまで移動したときに、添田はふと気がついた。もうほとんど人がいないはずのオフィスのどこからか、小さな話し声が聞こえてくるのだ。 耳をすますと、どうやら声は隣の部屋からパーテーション越しに聞こえてくるらしい。 「……あんなやつ……いいから……っ」 「……早く…」 声はよく聞き取れないが、数名が集まって話しているようだ。(隣の部屋は営業部のやつらが使っているはずだが、こんな時間に、まだ誰か残っているのか?) いくら忙しいと言えど、繁忙期でもないこの時期に好き好んでこんな時間まで残っている社員は少ない。不思議に思った添田は、首をかしげながら、隣室のドアを開く。 部屋のなかを見回すと、端のほうのデスクで、何やら男性社員三人が集まっているのが見えた。しかも、よく見れば自分が仕事でも特に世話を焼いている顔ぶれではないか。 添田は目を凝らして見るが、多少距離があり彼らが何をしているのかはよく見えない。どうやら、彼らもまだ添田の存在には気がついていないらしい。(あそこの席は、たしかあの安藤とかいうコンサルの席だよな。あいつら、何してるんだ?) 不穏な空気を感じ、思わず息を凝らして近づいた添田は、近づくにつれてはっきりと見えてきた光景に思わず怒鳴り声を上げた。「おい!! お前ら、何してんだ!!?」 急に鼓膜を襲った添田の怒号に、三人組はびっくりしたのか、うち一人は腰を抜かして尻もちまでついている。そして、その場で立ったまま固まった二人の手に持たれていたのは、ビリビリに破かれた書類の束だった。「ひぃっ!! 添田さん!!? ごめんなさい!!!」
明らかに怪しい行動をとる部下たちに対し、鬼のような形相で向かっていく添田がよほど恐ろしかったのか、部下たちは半泣きになって頭を下げた。「謝るんじゃなくて、何やってんだって聞いてるんだよっ!! それ、安藤さんの机だろ!! なんで、お前らがその机の書類を破ってるんだ!」 勢いが止まらず、怒りを顕にする添田に言葉が出ないのか、三人の喉からほぼ同時に唾を飲み込む音がする。この上司がこんなに怒っている姿を見るのは初めてだ。自分たちがどんなに大きなミスをしようと、ここまで感情的になったことはない。あまりの迫力に、三人のうちの誰も、声を出すことすらできなかった。「答えろ」 それでも、短く、有無を言わせぬ口調で問いただす添田に、先ほどまで腰を抜かして尻もちをついていた部下が震えながら立ち上がり、「安藤のやつを、どうにか追い出したくて……」 と呻くような声で答えた。「追い出す? そのために、こんなことをしたのか!?」 ますます怒る添田に、三人は再びビクリと身体を震わせた。 普段から道理の通らないことを嫌う生真面目なこの上司の、触れてはいけない逆鱗に触れてしまったのだと、彼らが理解した瞬間だった。「いや、だって! 添田さんが! 添田さんも、安藤のことは目障りだって言ってたじゃないですか!!?」 とっさに出た部下の本音を耳にして、添田は目を剥いた。「俺が目障りだと言ったから、追い出すために安藤さんの書類を荒らしてたって言いたいのか? いい大人が、揃いも揃って何考えてるんだよ!!」 やっと威勢が出てきた部下たちは、明らかな正論をぶつけられて再び縮こまる。どちらの意見が正しいかなんて、最初からわかりきっていることだ。 添田は怒りで、握りしめた拳に力を入れた。その怒りは、部下たちへのものだけではない。自分への怒りもあった。(俺がこいつらを不安にさせたせいで、こいつらが、こんな馬鹿な真似をするようになっちまったのか……。いや、そもそもこんな行動に出ないように、ちゃんと教育しておくのが俺の仕事のはずだろ!) 鈍器で頭を殴られたようなショックが添田を襲う。もちろん、部下たちの行動は本人自身に責任がある。しかし、その行動の動機の一端が、自分自身の言動であったという事実に、添田という男は耐えられなかった。 わなわなと震える唇に必死に力を込めて、「とにかく、その荒した机は片づけて、破った書類は明日持ってこい。安藤さんに謝罪をしに行くぞ」とゆっくりと言う。 添田の怒りに完全に打ちのめされた部下たちは、うつむいたままコクリと頷いて、先ほど自分たちが荒したデスクの上を少しずつ片づけ始めた。「こういうの、初めてじゃないのか?」「え?」 添田の問いが聞き取れなかったのか、思わず聞き返す部下に睨みが飛んでくる。「こういう嫌がらせみたいなことだよ。安藤さんに今までもやってきたのかって聞いてる」 張りを失い、重く低く響く添田の声が、先刻浴びせられた怒号よりもずっと恐ろしく部下たちの耳に届く。「はい、何度か……」「ほかには何をした?」「いえ、あの、安藤さんの私物をゴミ箱に入れたり、その、今日みたいに書類をわざと破ったり」 自分が大事に育ててきたはずの部下たちの、幼稚で姑息な行為を知り、添田は心臓が縮むような痛みに苛まれた。「そうか。……それも含めて、明日は朝一番に安藤さんに謝りに行くからな。八時までには出社しろ。遅れてきたら、俺は、お前らのことを一生許さない」 もう睨むこともなく、無表情で淡々と伝えた添田は、「とにかく、今日は早く帰るように」とだけ付け加えて、部屋をあとにした。 その場にいた三人は、尊敬してやまない添田を怒らせてしまった罪悪感と、間違った正義感によって自分たちが犯した罪に苛まれて、うなだれた肩を上げられないでいる。 窓にかかったブラインドの隙間からは、ただただ眩しいだけのビル群がこちらを覗くように瞬いていた。どこかで車のクラクションがけたたましく鳴っている。五反田の夜はまだ長い。 * * * 明くる日の午前八時。 安藤は研修の準備のため、いつもより少し早めにオフィスに到着していた。 オールウェイズ・アサイン社は始業時間にはそれほど厳しくないため、九時〜十時の間に出社し、各自業務さえきちんとこなしていれば、都合次第で早めの退勤も可能だ。 というのも、社長の若宮自身が朝に弱いタイプであるために、会社自体も比較的時間に自由な、悪く言えばルーズな社風が染みついている、というわけだ。 安藤はその点にもあまりよい印象を抱いてはおらず、改革の余地があると感じていた。 だからこそ、自分が誰よりも早く出社することで、会社に新しい文化を持ち込もうと考えているのだ。 しかしその日は、誰もいないであろうフロアのドアを開くと、今まさに自分が向かおうとしているデスクの前に四人の男性社員が立っているのが見えた。(今日は若宮さんからも、早く出社するようにといった指示は出ていないはず……) そう考えながらそのままデスクに向かうと、四人のうちの一人が、先日から識学や安藤に対して猛反発をしている副社長の添田だということが見て取れた。四人とも、何か深刻そうな顔で話し込んでいるように見える。「添田さん、おはようございます。何か、ございましたか?」 安藤が挨拶をすると、添田はやっと気がついたのか、安藤に向かってその場で勢いよく頭を下げた。「安藤さん、申し訳ない!!」 腰を痛めてしまうんじゃないかと思われるほどに、急に頭を低く下げられた安藤は、驚いて目を白黒させる。「えっ!? 急にどうしたんですか?」
オールウェイズ・アサイン社をいかにして改革するか、最近はそのことばかりで頭がいっぱいになっていた安藤は、嫌がらせのことなどすっかり頭から抜けていたため、一瞬、珍しくポカンと首をかしげる。 そうこうしているうちに、添田の後ろにいた三人も、上司に合わせて慌てて頭を下げた。 その様子を見て、安藤は「ああ」と思い出したように呟いた。 安藤の声を聞いて、添田は頭を下げたまま続ける。「私の部下が、安藤さんに対して、大変失礼で迷惑な行動をとっていたというのを昨夜、私自身が実際に目にした。その件で、どうか謝罪させてほしい」「本当に、申し訳ございませんでした!!」 添田に続いて、部下だと言われた男性社員たち三人も謝罪の言葉を口にする。「部下たちがこのような卑劣な行為に及んだのは、すべて私の責任だ。彼らは、私が識学に対して不満を持っているから、私の思いを汲んでくれようと思った結果、こんな行動をとっていたんだ。私からも改めて、謝罪する。本当にすまなかった」 添田の声は、申し訳なさと、自らに感じているのであろう不甲斐なさからか、少し震えていた。 なかなか頭を上げようとしない四人に対し、安藤は「そうですか、まずは皆さん、頭を上げてください」と声をかける。 上司の動きに合わせて、恐る恐る頭を上げた部下たちは、安藤が怒り心頭であるだろうと予想していた。しかし、目の前の安藤は意外なほどに穏やかな表情をしていた。「正直、こうも忙しい毎日ですからね。あなた方の嫌がらせなんて気に留めている場合じゃなかったんですよ。だから、もう大丈夫です」 どこか突き放すような言い方ではあったが、安藤の言葉には怒りや憎しみはこもっていなかった。それどころか、「添田さんは、随分と尊敬されているみたいですね。それ自体は素晴らしいことですが、今回の彼らの行いはいただけない。しかしね、そんな会社や社員の皆さんを変えていくのも、私の仕事なんですよ。こうして直接謝りにきてくださっただけでも、十分です」 と言う。すべて許すと言うのだ。 安藤の拍子抜けするほどの対応に、昨夜、添田にこっぴどく怒鳴られた部下たちは涙目になっていた。「寛大な対応、痛み入る。本当にすまなかった」 そう言って、添田はもう一度深く頭を下げた。「この数ヶ月間、あなたの仕事を見てきた。私はあなたの考えには賛同できないが、社長の若宮は私よりもあなたの力を必要としているらしい。安藤さん、どうかこの会社をお願いします」 添田は頭を下げたまま言った。その後ろで、部下たちも頭を下げている。 添田の言葉に安藤はどこか引っかかるものを感じたが、今はそれを問いただすタイミングではないだろう。そう思って、安藤は何も言葉を返すことなく、その場を収めた。 ブラインドを上げた窓からは、室内にまばゆいほどに真っ白な朝日が差し込んでいたが、頭を下げ続ける添田の表情は、安藤にはうかがえなかった。 * * * それから一週間ほど経ったある日のこと。 朝から抜けるような晴天で、猛暑ではあるものの、清々しい空気が街全体を包み込んでいた。 そんな空気のなかを気持ちよく出勤してきた美優は、社内に入るなり異変を感じた。 理由はわからないが、何やらオフィス全体がざわついている。(どうしたんだろう? また安藤さんのことで、誰かが揉めてるのかな?) 以前のマネージャー研修で目にした添田と安藤との間の衝突を思い出しながらそう考えていると、美優の姿に気がついた秋元が小走りでこちらに近づいてきた。「美優ちゃーん、おはよう ー!」「秋元さん、おはようございます。あの、どうしたんですか? なんか社内の様子がおかしいような……」 美優が心配そうに尋ねると、秋元は少し声をひそめる。「そうそう、それがね……」 美優は秋元が囁く声に耳をすませる。「入社一年目の若手が、しかも全体の半分近くが、急に辞めるって辞表を出してきたらしいの」「え、ええっ!?」 あまりの驚きに美優は大きな声を上げてしまう。「ちょっと、美優ちゃん、静かに! シッ!」 秋元は人差し指を口もとで立て、美優をたしなめる。「だって、どういうことですか!? みんな、いきなり辞めるって……」 美優は秋元に抑えられつつも、動揺を止められずにいた。 あたりを見回してみると、たしかに、今日はオフィスにいる人の数が明らかに少ない。 みんな忙しくどこかに出かけているだけかと思いきや、まさか辞めていくなんて。 思いもよらない状況に、美優は目を白黒させていた。 秋元もやはり驚いているのか、ふくよかな身体を揺らしながら、話を続ける。「原因は例の識学よ……。あのマネージャー研修に出ていた人たちの何人かが、識学の導入にかなり不満を持っていたらしくてね。ほら、若宮社長も、最近社員に冷たいじゃない? そんなことなら辞めてやるって言って、マネージャーが何人か出て行っちゃったみたいなの」「それでも、新人でマネージャー研修に出ていた人なんて、そんなに多くないですよね? どうして半分以上も?」 安藤のマネージャー研修には、藤川などのように入社一年目の社員からも何人か、上司に期待されている人材が「マネージャー見習い」の扱いで参加していた。しかし、基本的には参加者は管理職や、美優のようなマネージャー志望の若手などで、その人数は限られていたはずだ。それに、マネージャー研修自体に出る人も日に日に減っていた。反対派も多く、皆「業務が忙しいから」などと適当な理由をつけて、回を追うごとに一人、また一人とサボるようになっていたのだ。
マネージャー研修に出ていた一年目の社員の全員が辞めたとしても、人数の計算が合わない。「それが、ほら、うちの会社ってみんな仲がいいじゃない? それぞれのマネージャーも人望があるから、先輩が辞めるなら俺も辞めますって感じで、熱量のある子たちは一緒に辞める流れになちゃったらしくて。それに……」 秋元は声をもっと小さくする。「副社長の添田さんも辞めるらしいのよ」「副社長まで!?」 副社長と言えば、若宮とともにオールウェイズ・アサイン社を立ち上げた、この会社にはなくてはならない存在のはずだ。そんな彼が辞めるということは、会社にとっても、社長の若宮にとっても一大事。美優は状況を把握して青ざめた。(社長、どうするんだろう……) その若宮は、社長室で絶望に打ちひしがれていた。 目の前には、何通もの辞職届が並べられている。 皆、可愛がってきた若手社員や、信頼していたマネージャーのものだ。 さらにそこには、同志として創業以来ともに歩んできた、副社長の添田の名前が書かれているものまで混じっていた。 若宮は膝に肘をつき、頭を抱えるような体勢で床を眺めていた。(まさか、こんなに辞めてしまうなんて。それに、添田まで……) 数人の辞職は覚悟していたが、目の前にある辞職届のあまりの多さに、若宮は頭が爆発するのではないかというほど愕然としていた。 社長室には、若宮だけでなく、安藤もいた。社員の大量辞職について話し合うため、若宮が呼びだしていたのだ。「安藤さん、社員がどんどん辞めています。このまま改革を続ければ、組織自体が壊れてしまうかもしれない」 若宮の焦りを含んだ暗い声が響いた。 たしかに、識学を導入してから、多くの部署で業績の向上が見られた。しかし、大胆すぎる改革は、以前のオールウェイズ・アサイン社に親しんでいた社員たちには合わなかったのだろう。現実にこうして生じた離反の数々に、若宮はショックを隠しきれなかった。(俺が守ってきた会社が壊れるかもしれない……。識学を導入したことは、本当に正しかったのか……?) 若宮が自問自答を繰り返すなか、安藤は顔色一つ変えていなかった。「若宮さん。組織が大きく変化するときには、一時的に去る人が出るのは仕方がないのです。 副社長に関しては、そもそも部下から社長と同格に見える立場の人がいる、ということのマイナスの影響も大きいのです。社長としっかり上下関係が作れないのであれば、いないほうがよい、とも言えるでしょう」 そう冷たく言いきったのだ。 結局、安藤はあの嫌がらせ事件のことも、添田の謝罪のことも若宮には伝えていなかった。そんな事件を知れば、若宮は余計に混乱するだろう。今は会社のことだけを目いっぱいに考えてもらわなければいけない時期なのだ。『安藤さん、どうかこの会社をお願いします』 先日、添田は安藤に対してそう言った。 その言葉がどうにも引っかかっていた安藤だったが、今回の退職騒動ですべて合点がいった。添田は、あのときすでに会社を辞めることを決意していたのだ。 しかし若宮はそんなことはつゆ知らず、唐突に突きつけられた数々の辞職届に、今までにないくらい狼狽している。安藤に説得され、気を取り直そうとするが、気分は沈んだままだ。 安藤の言うことを必死で信じようとするのだが、実際にこんな事態が起こってしまうと、識学についての疑念が頭をもたげてくるのも事実だった。 ひとまずオフィス内の様子を見に行こうと若宮が廊下に出ると、見慣れた後ろ姿がエレベーターに入っていこうとするのが見えた。「添田!!」 後ろ姿は、ゆっくりと振り返る。ちょうどオフィスを出ようとしていた添田だった。「若宮」 添田は手を上げて応えた。「添田、本当に辞めるのか?」 若宮が添田に駆け寄って、聞く。「辞めるよ、すまん」 添田は謝罪とともに頭を下げた。 深々を頭を下げる添田に、若宮は眉間にシワを寄せる。「辞めるにしても、どうして俺に相談をしてくれなかったんだ」 若宮が続けて聞くと、添田は若宮を睨みつけて、堰を切ったように、それまで溜め込んできた不満を述べ始めた。「おまえが、おまえが俺に相談もせずに、識学なんか持ってきたからだろう!」 語気を荒げる添田。厳しい口調とその表情には、悔しさや怒りなど、言葉では表現しきれない感情がこもっている。若宮はハッとした。たしかに、自分は独断で識学と契約を交わしたのだ。それなのに添田の辞職に意見するのは、そもそもお門違いなのかもしれない。「そうか、それは、本当に申し訳なかった……」 小さな声で詫びる若宮に添田は返す。「とにかく、俺は、もう辞める。あとはお前一人だ。一人で、頑張れ」 添田の発した、「一人」という言葉が若宮に重くのしかかってきた。添田がいなくなる今、オールウェイズ・アサイン社を支えられるのは、もう自分だけになったのだ。 自分の判断に対して疑心暗鬼になっていた若宮にとって、その言葉はことさら重く感じられた。「添田、最後に聞かせてほしい。識学の導入は、間違っていたと思うか……?」 若宮の最後の問いに、添田は少し沈黙した。
「若宮、俺はお前の信念についてきた。ほかの社員たちだって、そうだ。お前自身についてきたんだ。だから、お前があの識学を使うと言うなら、俺はもうついてはいけない」 苦しそうな顔をする若宮に、添田は続ける。「でもな、お前が信じたものなんだろ? あの識学ってやつは。それなら、お前自身が思いを揺るがせてどうするんだよ」 添田は叱責するが、その言葉の裏には、たしかに若宮への激励があった。「俺は副社長だったけど、オールウェイズ・アサイン社はお前の会社だ。お前が舵を切って行かなきゃいけない。だから、信じるなら信じきれ。じゃないと、お前にこれからもついてきてくてれようとしてる社員たちに失礼なんじゃないか?」 若宮の心を、添田の言葉が強く打つ。「俺はもう、ついてはいけない。それでも、お前のことは信じてる。自分の思う道を歩んで、お前がこの会社を救え」 そう言って、沈黙する若宮を残して添田はエレベーターに乗った。「応援してる」 エレベーターの扉が閉じる直前、扉の隙間から小さな声が聞こえた。 若宮だけが、その場に取り残される。 毎晩飲み歩き、会社の業績悪化に苦しむ日々で、若宮は自分が一人だと思っていた。 しかし、違ったのだ。自分には支えてくれようとする仲間がいた。それなのに、その力をうまく借りられずにいたのは、ほかでもない自分自身だったのだ。(俺は、本当に一人になったんだな) 立ち向かおうとしているのは、オールウェイズ・アサイン社始まって以来の大きな危機。 そこから会社を救えるのは自分しかいない。(でも、俺はこの会社のトップだ。まだ、残ってくれている社員がいる。弱気でいるわけにはいかない。絶対に、この会社を建て直すんだ)
コメント