三ヶ月かけて、安藤による第三営業課の改革が終わった。 若宮が安藤の、そして識学の力を正式に借りることを決めた日から、早くも一週間が過ぎようとしている。 その日の朝、若宮は部署を限らず社員の全員を、オフィス内の同じフロアに集めていた。「若宮社長、なんか大事な話があるって言ってたけど、なんだろうな?」「できれば早めに出社してほしいって言われたけど、まだ眠み ーよ」「まあ、こんなことも珍しいからいいんだけどさ」 突然に集められた社員たちは、どこか落ち着かない様子だ。普段から仲のよい男性社員たちは寄り集まって、これから起こることを勘ぐり、噂話をしていた。 窓の外にはどんよりと重い雨雲が広がっていて、そこから大きな雨粒が大地に降り注いでいた。 今日は一日中、雨の予報らしく、出勤してきた社員たちの着ているスーツもところどころ濡れてしまっている。 若宮が昨日の退勤前に、「できれば、明日は少し早く出勤して集まってほしい」と全社員に社内メールで連絡していたため、皆早めに出勤しているのだ。普段はのんびりと出社してくる面々のなかには、まだ眠そうな顔をしている者も見受けられた。 雨音がオフィスに張られた窓を打ち、彼らの心をざわつかせる。(若宮社長、急にどうしたんだろう?) 集まって噂話をする社員たちから少し離れて、しかし人一倍社長の行動を憂いていたのは、美優だった。 最近の若宮の様子はおかしい。毎週のように連れて行ってくれていた飲み会の回数は極端に減ったし、社内で顔を合わせるときにもそっけなさを感じていた。ときには窓から遠くの景色を眺めて、考え込むような表情を見せることすらある。 そして、今日の急な全社員召集だ。何か、不吉なものを感じざるをえなかった。(やっぱり、あの安藤さんって人のことかな) 美優の脳裏には、安藤の顔が浮かんでいた。 いつもきっちりとしたスーツに身を包みながら、社長である若宮を前にしても物怖じせず、常に毅然と話すあの姿。冷たい表情でメガネを直す仕草にも、美優はあまりよい印象を抱いていなかった。 もしかすると、その安藤によって、若宮は何かよからぬことを吹き込まれているのではないか? いつも優しい表情を向けてくれる若宮の顔と、厳しい表情の安藤の顔のイメージが美優の脳内で交差する。(もし何かがあったら、私もちゃんと意見を言えるようにならないと。私たちの大好きな若宮社長なんだから……) 美優は肩にぐっと力を入れたあと、深呼吸しながら力を抜く。 とにかく、最高の職場であるオールウェイズ・アサインを守りたい気持ちでいっぱいなのだ。「美優ちゃん、おはよう!」 ぽつんと一人でいて、朝から何か悩んだ表情をしている美優を心配したのか、出社してきたばかりの先輩が声をかけにきてくれた。第二営業課で係長を務める秋元陽子だ。少しふっくらとした顔に、満面の笑みをたたえている。「秋元先輩! おはようございます!」 ぼーっとしていた美優は、慌てて挨拶を返した。 いつも元気な後輩が、悩みでも抱えていると思ったのか、秋元は美優の肩を強く叩きながら様子を聞いてきた。「美優ちゃん、どうしたの! なんか元気なくない!?」 パタパタと肩を叩かれて身体を揺らしながら、美優は答える。「いえいえ、大丈夫です! 大丈夫ですよ!」 「『大丈夫』って若い子が言うときは、大丈夫じゃないときなんだから、無理しちゃだめよー? ちゃんと先輩に相談しなさいね!? ほら!」 秋元は自らの存在感のあるお腹をぽんと叩きながら、胸を張った。 彼女は美優よりひと回りほど年上で、若い社員に世話を焼く姉御的な存在だ。 明るくさっぱりとした性格はどこに行っても評判がよく、クレームやクライアントとのトラブルが生じたときには先陣切って対応してくれる、オールウェイズ・アサイン社には欠かせない存在となっている。「ありがとうございます。……なんか、最近社長の様子がおかしいじゃないですか……それで、もしうちの会社に何かあったらどうしようと思って、不安で」 美優が言葉を選ぶように打ち明けると、秋元は「そうねぇ」と頬に手をやった。「安藤さん、だったかしら……? あの人がきてから、社長の様子がおかしいってのは私も思ってたわ。今日だって、急な召集だし。でも、私たちはあくまでも社員だし、社長がやることを止めることはできないからねぇ」「困ったわねぇ」と呟きながら、多くの社員が集まったフロアを見回す秋元。彼女もまた、自社の変化の兆しを感じているのかもしれない。 美優は秋元の言葉に頷きながら、窓の外に視線を移した。 少し前より、さらに暗くなった空からは、雨粒が絶え間なく降り注いでいる。この調子では雨は当分止まないだろう。 七月のまだ訪れたばかりの熱気が、雨の湿度と混ざり合ってねっとりと肌に絡みつく。この感覚は、あまり気持ちのよいものではない。「そう言えば、秋元さん……」 暗い話はやめて、話題を変えようと美優が口を開いたとき、ガチャリと音を立ててフロア入口のドアが開いた。「みんな、おはよう」「若宮社長! おはようございます!」 ドアを開けて入ってきたのは、若宮だった。彼は一人ではなかった。続いて入ってきたのは安藤だ。 若宮はいつもの緩い感じとは違ってピシリとスーツを纏い、落ち着いた雰囲気を漂わせている。その隣に立った安藤は、美優が初めて彼を見たときの印象
と少しも変わらない、どこか冷たくて近寄りがたい空気を漂わせていた。 若宮がスーツのジャケットの襟を少しつまんで正す。どこか厳かな空気が、一瞬でフロア内に張り詰めた。「若宮社長、今日はなんなんす……あ、いや、失礼しました」 いつものように若宮に絡もうとした男性社員は藤川だった。 しかし、途中で普段とは違う若宮の硬い表情を見て取り、言いかけた言葉を飲み込む。 最近入社したばかりの彼は、若さゆえか普段はおちゃらけてばかりなのだが、こういうときは意外なほどに空気の読める男だ。今回も何かを察したのだろう。(若宮社長、どうしたんだろう……) 美優の胸のざわつきはさらにその波を強めた。「よし、ほぼ全員いるな」 若宮はフロア全体をぐるりと見渡しながら、社員たち一人ひとりと目を合わせていく。「急な連絡にも関わらず、忙しいなか集まってくれてありがとう。今日みんなを集めたのは、我が社の今後に関わる重要な報告があるからなんだ」 前置きをして、若宮は一歩後ろに下がり、隣に立っている安藤を前に押し出すようにした。「第三営業課はよく知っていると思うが、改めて紹介する。今回、正式にうちのパートナーとなる、識学の安藤さんだ」 若宮の言葉に、その場が小さくどよめいた。 美優は声を出すのをかろうじて我慢したが、代わりに大きく目を見開いた。 パートナーになる──ついに、あの安藤がオールウェイズ・アサイン社に正式に足を踏み入れることになったのだ。 他の社員たちも、安藤の噂を聞いていたのか、皆、顔を見合わせていた。 しかし、そんな社員たちの様子にもこれといった反応を示さず、安藤は丁寧に頭を下げて挨拶した。「安藤です。よろしくお願いします」 よほど決意を固めてきたのだろう。社員たちのどよめきを耳にしても、若宮は表情一つ変えない。以前の若宮なら、社員たちが不安に思うようなことは極力しないようにしたのだろうが、今はそうは考えていないようだ。 安藤の挨拶に続いて、若宮が説明を始める。「安藤さんには、我が社の業績を向上させるべく、主にマネージャーへの指導をお願いすることになっている。みんな、そう認識しておいてほしい。 我が社を抜本的に変えるために、安藤さんの指導を会社全体に行き渡らせたいんだ。多少苦しいこともあるかもしれないが、各自、理解を頼む」 若宮らしくない発言に、美優は胸が苦しくなった。今までの彼なら、社員たちに寄り添って、新しい社内施策を始めるにしても、事前に社員一人ひとりの意見を吸い上げていたはずなのに。 重くて冷たい何かが、美優の胸のなかをぐるぐると回る。(何か、意見を言わないと) そう思った矢先、「社長、やはり急すぎるんじゃないですかね」 と誰かの声が聞こえた。 声の主は、各部署の責任者だけの緊急会議でも安藤によい顔をしていなかった佐伯だった。 彼は物静かな性格なため、こうやって大勢の前で意見を言うなんてことは珍しかった。「佐伯、それに関してはこの前の会議でも説明しただろう。これも会社のためなんだ」 若宮は佐伯のほうを見ながら、理解を促すように言った。「あんな説明だけでは納得いきません。会社の改革はもちろん必要だと思いますが、まずは社内のマネージャーだけで話し合う機会を作っていただいてもよかったはずです」 佐伯も譲らない様子だった。管理職でただでさえ責任が多い彼にとって、部外者による指導内容の改変やマネージャー育成など御免こうむりたい、といったところだろう。そもそも佐伯自身、最近は思ったように業績を上げられていないことに悩んでいた。これ以上余計な負担は増やしたくない、という思いが強かったのだ。「それは申し訳ないと思ってる。けれど、佐伯も知ってる通り、うちの会社の業績は最近急激に悪化してるだろう。実は、今が状況を変える最後のチャンスなんだ。状況は、みんなが考えているより悪い」 引き下がらない若宮に対し、佐伯は少し眉間にシワを寄せた。二人の間に、わずかな時間、沈黙が生まれる。窓に打ちつける雨の音が、ふいに訪れたその静けさを強調した。「まぁ、オルインっぽくないのはたしかっすよねえ」 沈黙を破ったのは、先ほどは言葉を濁した藤川だった。 社長と執行役員の問答に、最近入ってきたばかりの社員である藤川が意見を加えるなど、命知らずもいいところだ。一方で、その意見は多くの共感を得たらしく、藤川の近くに立っていた社員たち数名が思わず頷いていた。「藤川、ちょっと……」 若宮が藤川に注意しようとすると、意外にも安藤が藤川に返答した。「オルインっぽい、ですか。そういう考え方が、会社を潰すんですよ」 先ほどまで一言も発さずに、ただ静かに聞き役に徹していた安藤が、耐えかねたのか苦言を呈する。 その言葉を聞いた藤川は、あからさまに不機嫌な顔をする。沈黙とともに、冷たい空気が場に舞い戻る。明らかな対立が生じてしまったフロア内で、美優の不安は増幅していくばかりだ。「とにかく、明日からマネージャー研修が始まるから、みんな、よろしく頼む」 そう言い残して、若宮は安藤とともにフロアをあとにした。 その場は冷たい空気に沈んだままだ。「社長、ほんとにどうしちゃったんだろうね……」
誰かが発した言葉が、重く響いた。 美優は自分と同じく、表情に不安の影をにじませた秋元と顔を見合わせ、その日はひとまず業務に戻ることにした。(どうしよう……このままじゃ、仲よしのオルインがバラバラになっちゃう……) 重い空気と湿気に頭痛がしそうな一日だった。 * * * 翌日、オールウェイズ・アサイン社のマネージャーとなっている社員、つまり係長以上の管理職が一人残らず集められ、安藤による「識学マネージャー研修」を受ける運びとなった。 研修場所として指定された、オフィスのなかでもっとも広い第二会議室には、すでに安藤がいて準備を始めている。 美優はまだマネージャーではないが、在籍期間を考えれば近いうちにマネージャーになると予想されたため、「マネージャー見習い」として研修に参加することになった。 会議室に座り、一番端の席で研修が始まるのを待つ。(みんな、やっぱり納得していないんだな……) 朝から第二会議室に集められた社員たちは、これといった不平不満は口にしていないが、どこか不機嫌な空気を醸し出している。以前の親しみやすい若宮の人柄に惹かれていた社員たちのなかには、突然の安藤の登場と急な改革宣言、そして今回の研修への参加指示に不快感を持っている者が多いのだ。 社内では徐々に、若宮と安藤のタッグ対社員たちという、奇妙な対立構造が生まれ始めていた。「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。これより、第一回マネージャー研修を始めます。どうぞ、よろしく」 不機嫌そうなマネージャーたちの様子などもろともせず、安藤は用意されたモニターの前で開会の言葉を述べる。普段と変わらずほとんど無表情の彼は、社員たちの思いなどマネジメントには関係ない、とでも言いたいのかもしれない。 参加者の面々のなかには、昨日、揉めていた佐伯や藤川の姿もあった。佐伯は冷たい目でモニターを見据え、藤川は佐伯から数席離れた場所で、特に興味もなさそうな様子で座っている。 営業部長である佐伯はともかく、藤川に関して言えば最近入社したばかりのためマネージャー権限などまったくないのだが、見込みのある若手を育てるためにと、美優と同じ「マネージャー見習い」として、若宮が半ば無理やり送りこんでいた。「なんなんだよ、あいつ。ほんと偉そうだよな」 藤川は、安藤の泰然自若とした態度が癪に障ったのか、隣に座っている同じ立場の同僚にそう耳打ちした。「まあ、落ち着けって。みんな嫌がってるんだから、どうせ長く続かないだろ。若宮社長も効果がなかったら、すぐにやめるって言ってたし、テキトーにやり過ごそう」「まあ、そうなんだけどさぁ……」 端切れの悪い返事をする藤川も、同僚の言葉には一理あると感じたのか、それから先は黙っていることにしたようだ。「最初に、マネージャーの皆さんに一つ質問をさせてください」 安藤がそう言いながら手もとのリモコンのボタンを押すと、モニターに大きな文字が映し出された。『マネージャーのもっとも重要な仕事とは何か?』 太字で表示された文字を、安藤が読み上げる。「マネージャーにとって、もっとも重要な仕事とはなんだとお考えですか? 何名かの方に、お答えいただきます。では、そこの方」 安藤は、一番前に座っている女性社員を指した。 指定された彼女は、まさか自分が選ばれるとは思っていなかったのか、「うーん」と少し間を置いてから、ボソボソと答えた。「そうですね、やっぱり、部下たちの仕事の進捗管理と、モチベーション管理じゃないですかね。あと業務内容の指導も。私もみんなが気持ちよく仕事に打ち込めるように、そのあたりには何よりも気を遣っています」 安藤は、女性社員の答えに軽く頷き、「では、あなたは?」と今度は藤川を指した。 藤川は、ゲッと明らかにめんどくさそうな顔をしたあと、気だるげに答える。「そうっすねー、さっきの方の答えと同じように、モチベーション管理とかじゃないっすかねぇ? やっぱり、みんなにちゃんと仕事してもらわないといけないし」 間延びした声で話す藤川。安藤はもう一度頷いて、口を開いた。「お二方、ありがとうございます。ここで皆さんに、マネージャーという役職において、もっとも重要な考え方をお伝えします」 安藤はそう言いながら、もう一度手に持っていたリモコンのボタンを押す。 大きな太字で表示されたのは、『理想の上司を捨てる。マネージャーは、会社の業績を上げるために存在する』 という仰々しい言葉だった。「理想の上司を捨てる?」 それまで我関せずと決め込んでいた佐伯が、モニターに映し出された言葉を最後に疑問符をつけて繰り返した。 美優も驚いていた。あまりにも、オールウェイズ・アサイン社らしくない言葉だ。〈理想の上司を捨てる〉というのは、一体どういうことなのだろうか? 安藤は少し間を空けたのち、淡々と説明を始めた。「皆さんの理想の上司とはなんですか? 部下に優しい上司? いつも些細な点に気がつく上司? それとも、落ち込んだ部下を励ます熱い上司でしょうか? たしかに、これらの上司は一見、部下にとって大変ありがたい存在であるように感じられます。ドラマに出てくる、まるで親子のような、よきパートナーのような上司と部下の関係は、多くの人の憧れの対象です。
しかし、それは本当に、会社のためになる上司でしょうか? 答えはノーです。マネージャーとは、部下をしっかりと管理し、会社の業績を上げるためにいる存在です。逆に言えば、その目的を果たすための行動以外は、マネージャー本人の自己満足であり、無駄です」 安藤は躊躇なく「無駄」という言葉を使った。会議室に集められていたマネージャーたちの表情は、安藤が言葉を発するたびにこわばっていく。「部下と過剰に仲よくしたり、愚痴を聞いてあげたり、不満を解消したりすることは、マネージャーの仕事ではありません。それが業務を進めていく上で本当に問題になっていることなのであれば、それを解決するのはマネージャーの仕事ですが、個々の社員が抱える不平不満のすべてに、マネージャーが対応する必要はまったくありません。 マネージャーは、あくまでチームや部下の未来に対してコミットすることが仕事です。それを、今日は覚えていただきたい」 きっぱりと言いきる安藤。 社員たちの脳裏には、自分が今までに行ってきた部下への対応が浮かび上がっていた。また、自分たちが若宮社長から受けてきた、思いやりのある対応も。 オールウェイズ・アサイン社のよさとは、穏やかで優しい人間関係が織りなす、アットホームで居心地のいい社風だったはずだ。それなのに、この突然現れた安藤という男は、今まで会社が、若宮が培ってきた関係性を根本的に覆そうとしているらしい。 マネージャー研修の参加者の誰もが、自社の組織崩壊への危機感を感じ始めていた。「それじゃあ、安藤さん、部下たちのモチベーションが保てないじゃないですか。業績のためだけに動くような、そんなロボットみたいな上司についてくる部下が一体どこにいるんですか?」 会議室の隅から安藤の理論に異を唱えたのは、副社長の添田だった。 彼は、若宮と二人でこのオールウェイズ・アサイン社を立ち上げた創業メンバーで、若宮と同じく、誰よりもこの会社に尽くしてきた自負があった。そんな彼だからこそ、若宮が自分たちの反対を押しきって識学を導入したことに、腹が立っているらしい。 安藤は眼鏡の奥の両目を細め、添田の社員証を確認し、返答する。「添田、さんですね。何か質問やご意見がある際は、まず挙手をお願いします」「だから、それで誰がついてくるって言うんですか? 答えてください」 添田は安藤の注意にも応じようとせず、あからさまに苛立っている口調で重ねて尋ねる。「先ほど申し上げたとおり、マネージャーは、部下のモチベーションを保つためにいるんじゃありません。会社の業績を上げるためにいるんです。 モチベーションを管理することよりも、会社全体の成長に貢献すること。そして、そのためにチームや部下を成長させることこそが、マネージャーの役割です」 安藤は、添田の言葉を真っ向から否定する。「そうですか。それなら、僕はついていけない。オールウェイズ・アサインは、社員の幸せを守ることを第一にしてきたんだ。いきなりやってきたあんたに、それを壊させるわけにはいかない」 添田は苦虫を噛み潰したような顔をしてそう吐き捨て、そのまま足早に会議室を出ていった。(添田さん……) 美優は添田の後ろ姿を見送り、泣きそうになった。以前は最高の職場だったオールウェイズ・アサイン社が、このままではおかしなことになってしまう。「それでは、続けますが……」 安藤は、添田が出ていったことにも顔色一つ変えず、そのまま話を進める。 しかし皆、退席した副社長のことが気になるのか、誰もがどこか落ち着かない様子だった。 そうして四十分ほど安藤の話が続き、一回目のマネージャー研修が終わった。「皆さん、お疲れさまでした。それでは、明日も同じ時間に集まってください。今回話したことを忘れないように」 安藤の締めの言葉を聞くと、皆、心底疲れた顔をして次々に会議室を出ていく。 美優が最後に部屋を出ようとしたとき、藤川が声をかけてきた。「西村さん、お疲れ。なんか、災難だったな」 呆れたように肩をすくめる藤川に、美優も歩きながら眉をハの字にした。「ほんとだよね……これから、うちの会社どうなっちゃうんだろう? このままじゃ、組織が崩壊してもおかしくないよ」 藤川に応じながらも、美優の心はどんどん重くなっていった。「藤川くん、私……」 美優は小さな声で呟く。藤川は聞き取れなかったのか、首をかしげた。「え、何? なんか言った?」 聞き返す藤川に、美優は声を強めて返した。「藤川くん、私、社長に話しに行ってくる!!」 突然、速足になった美優にびっくりして、藤川は呆気にとられる。「話すったって、話してもどうせ意味ないだろ!?」 藤川は慌てて美優を止めようとするが、美優はもう問いかけに応じるつもりがないのか、振り返ることもなくあっという間に社長室のほうへ突進していった。「ほんと、これからどうなるんだよぉ……」 藤川の弱々しい声が、誰もいない廊下にぽつんと落ちた。 数分後、美優は社長室のドアの前にいた。 軽くノックをし、返事も待たずに部屋へ突入する。「社長! 識学ってなんなんですか!? このままじゃ、みんな辞めちゃいますよ!?」 美優がすごい剣幕で入ってきたことで、何かの業務をこなしていた若宮は「わぁ!!」と驚いて、オフィスチェアから落ちそうになった。「西村か? 一体、どうしたっていうんだよ?」恐る恐る聞き返す若宮。
美優は入室時の勢いのまままくし立てた。「どしたもこうしたもないですよ! あんな軍隊みたいな社員教育、我が社には合っていません! 副社長も随分怒ってしまって、途中で研修を出ていかれましたよ」「ああ、添田か……あいつも、さっき西村とおんなじ顔して入ってきたよ」 どうやら添田も若宮に抗議しにきたらしく、若宮は美優に見せるように大きなため息をついた。 識学の導入を決めたはいいが、予想以上に多くの反感の声が上がっている。予想以上というより、今のところほぼ全社員からだ。 安藤は識学が会社の数字を引き上げてくれることを証明した。だから識学の導入を決めたのだが、社員にここまで反対されるとは、若宮は予想していなかった。 結果は出せなかったが不満は出ない、これまでの経営。 結果は出るが、不満だらけの識学。 自分は、どちらを信じればいいのだろうか? * * * 識学の一回目の研修が終わり、安藤は少なからず募る憂いとともに、彼のために用意されたデスクに戻っていた。(オールウェイズ・アサイン社の方々には、識学が受け入れられていないことは明白か……) 先ほどのマネージャー研修の様子を見ても、散々なものだった。 研修の予定は以前から知らせていたにも関わらず、時間に遅れてくる社員があまりにも多かった。人の話を聞く態度も最悪としか言いようがない。 会議室もあまり掃除されていないのであろうが、モニターにホコリが溜まっていた。 そもそも、外部から入ってきたパートナーにあんな口振りで不満を垂れるなど、社会人としていかがなものだろうか? 安藤は、研修中に攻撃的な発言をしてきた藤川や佐伯の顔を思い出し、眉間にシワを寄せた。 オールウェイズ・アサイン社は、あの若宮社長が、副社長の添田とタッグを組んで立ち上げた会社だと聞いている。勢いだけでやってきたベンチャー企業では、社員たちの教育が疎かになっていることはよくある。この会社もそのようなパターンなのだろう。 しかし、社内がそのままでは、一定以上の成長は望めない。 安藤は、初めて対面したときの若宮の顔を思い浮かべた。 寝不足でクマのできた目、シワの寄ったスーツ、不摂生で荒れた肌。きっと日夜、社員たちのためにと気を遣ってきたのだろう。 彼のなかに、会社を変えたいというたしかな熱を感じる。安藤自身も、そんな熱い気持ちを持った社長の会社を、自社の最初のクライアントとして改革したいと思ったのだ。しかし。「熱意だけでは、組織は動かせないんですよ、若宮さん……」 安藤はそう呟きながら、次の研修に向けての資料作りに集中した。 * * * 社内に漂う不穏な空気がさらに濃くなったのは、初めての識学のマネージャー研修が終わって、数日が経ってからのことだった。 皆がいつものように出社し、デスクに向かっていたときだ。 最初の研修の日からずっと天気は崩れがちで、今日も朝から小雨模様である。 オフィス内では、わずかに熱気が立ち込めている。その熱気が煩わしくなったのか、誰かがエアコンをつけると、女性陣から「冷えるからやめてよ」と文句が飛ぶ。 そんなよくあるオフィス風景の片隅で、安藤は一人、フロアに備えつけられたシュレッダーの前で、にわかには信じられない光景に愕然としていた。その手には、切り刻まれた紙の束が握られている。(これは、一体……) 安藤の手に握られていたのは、先日、安藤が二回目のマネージャー研修のためにと作った資料をプリントしたものだった。 それが、何者かによってシュレッダーにかけられ、悲惨な姿に変えられていたのだ。 それも一枚や二枚ではない。プリントし、束ねられた資料のすべてが、シュレッダーのなかでほかの書類と同じように紙クズへと変わっていた。 これだけの量の資料を勝手に処分するなど、社員の勘違いによって引き起こされたミスとは考えにくい。明らかに、誰かの悪意によって資料が切り刻まれている。「まったく……」 安藤は誰にも聞こえないように低い声でそう言うと、もはや紙切れとなってしまった資料をゴミ箱に放り込んだ。あまりに幼稚な嫌がらせに頭を抱えたくなったが、ここで落ち込んだり、焦ったりする姿を見せれば、どこかでこちらの姿をうかがっているであろう「犯人」の思うつぼだろう。とにかく、今は平静でいようと心がけた。(何かしらトラブルは起こると予想していたが、まさか、こんなことをされるとはね……) 安藤は気を取り直して、もう一度資料のデータをプリントアウトし、数枚をまとめて丁寧にホチキスで止める作業をし直すことにした。 感情のない機械のようにその業務をこなす姿は、明るいオールウェイズ・アサイン社のオフィスで、どこか異質の存在感を放っていた。 そんな安藤へと、密かに向けられる冷たい視線に、彼はまだ気がついていなかった。
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