3章言いにくいことも穏やかに伝わる言葉づかい
いわゆる「三K」(きつい・汚い・危険)は、言葉や表現にもある。そのものズバリで表現すると、口にするほうも耳にするほうも不快になる。まわりの人も、口にした人を下品だとか、場をわきまえないなどと非難したりする。かといって、いいたいことを口にせず呑み込んでしまうのも、ストレス要因のひとつになる。そんな場合には、少しピントをぼかした表現にしたり、間接的、婉曲的な表現にしたりすると、印象を変えることができる。あるいは、ユーモラスなタッチを加えるのも、「三K」言葉を聞きやすくし、スマートに切り抜けるテクニックのひとつだ。いろいろな表現方法を覚えておき、相手によって、また、時・所によって、使い分けたい。
先立つもの──◉「お金」というと、えげつないけれど…お金のことをストレートに口にすることは、品がないと考える人は少なくない。ではどう表現する?まさか、指で「○」をつくるわけにもいかないし…。だれがそう言い始めたのか、お金といわずに、「先立つもの」という、言い得て妙な表現がある。何をするにしても、まず、お金が必要だということから、お金イコール「先立つもの」という表現が生まれたのだろう。「貧乏は恥ではない、とはすべての人が口にするが、ほとんどの人は納得していない」ドイツの劇作家コッツェブーのこの言葉に、思わずうなずく人も少なくないだろう。「今日は久しぶりに盛大に飲み会をしようよ」とだれかが言い出した。ところがあいにく、給料前で懐はピンチ。そんなとき、親指と人さし指で○をつくり、「……がねえ」などという人がある。それでも意味は通じるが、少々えげつない印象であることは否めない。こんなとき、「すみません。今日はパスで~す。理由は先立つものの関係で……」といえば明るい響きで、品を損なう心配もない。手元不如意──◉「お金がない」も、こういえばスマートだれにも事情というものがある。今日は持ち合わせがないという状況を、さりげなく、でも、きちんと伝えたい。そんなときに知っておくと重宝な言葉がこれだ。「手元不如意」とは、手元が思うようにならないこと。転じて、「お金がない」ことを遠まわしに伝える言葉として使われる。孫悟空の如意棒をご存じだろう。思いのままに伸びたり縮んだりする、あの棒のことだ。「如意」とは、ものごとが自分の思いのままになる不思議な力をいう、仏教に由来する言葉なのである。如意という言葉からすぐに連想されるのは、如意輪観音像だろう。有名なところでは、奈良・東大寺金堂の如意輪観音像、同じく奈良・室生寺本堂像、三井寺(園城寺)観音堂本尊像などがある。どれも六本の手があり、右第二手に如意宝珠を持ち、人々の悩みを〝思うがままに〟解決する不思議な力を持つ仏と崇められている。「手元不如意」という表現からは、「たまたま如意宝珠を持ち合わせなかったので……」という意味も伝わり、どことなくおかしみも漂ってくる。「これ、気に入ったわ。でも、今日は手元不如意なので」といえば、ATMに走ればお金がないわけではないが、たまたま手元にお金がないのだから今日のところは我慢しよう、というぐらいの〝窮乏感〟を表している。だから、その場に居合わせた人にも、そんなに暗いイメージは与えない。誘いを受けたのだが、あまり気が進まないというような場合、「ごめん、あいにく手元不如意なんだ」といえば、相手もすんなりわかってくれるはず。こうしたニュアンスを解さず、「金なら、オレが貸すよ」と言い出すのは、相手の気持ちを汲み取れない、つまり空気が読めない無粋な行為になってしまう。火の車──◉窮乏状態が長く続いているときに使う言葉手元が苦しく、やりくりに追われながらも、なんとか日々をしのいでいる。「もう、いっぱいいっぱい」という状況を、あまり重くならないように表現したいという場合に。「火の車」といえば、経済状態が苦しいことを意味している。同じ、経済状態が苦しいという表現でも、「手元不如意」は、「今日はたまたまお金の持ち合わせがない」というニュアンスが強い。一方、「火の車」は、会社の資金繰りがきついとか、家計のやりくりが苦しいというように、長期的にお金がない状態をいう。「火の車」とは、仏教用語「火車」を訓読みにしたもの。火車とは文字どおり、火が燃えさかる車のことで、生前に悪行を働いた者を地獄に運ぶときに乗せる乗り物をいう。火が燃えている車で、しかも行く先は地獄とあっては、その苦しさは想像するにあまりある。そうしたことから、経済状態が苦しく、やりくりに追われる家計を「火の車」というようになった。「住宅ローンはあるし、子どもの教育費負担も大きい。わが家は火の車だよ」というと、どことなくユーモラスな感じがあるためか深刻な響きが和らぎ、聞く人にも大きな負担を感じさせずにすむ。聞くほうも、「うちもご同様ですよ。サラリーマンはどこでもそうなんじゃないかなあ」と軽く応じれば、それで終わり。だが、営業トークなどで、「どうぞよろしくお力添えください。わが社もこのところ火の車でして」などというのはいけない。ネガティブなイメージが強すぎ、そんな危なっかしい会社とは取引などできないと、かえって逆効果になってしまう。苦しい内情を伝えたいなら、「わが社もこのところ、ちょっと苦戦しておりまして」ぐらいでとどめておくほうがよい。今回は見送らせてください──◉取引先からの依頼をカドを立てずに断るときにビジネスでは、ときには無理を持ちかけられることもある。そんなとき、相手の感情を害することなく「ノー」がいえたら一人前だ。では、どういえばいいか?日頃、世話になっている取引先から緊急の連絡が入った。すぐに飛んで行くと、これまでの半分の納期でなんとかならないかという依頼。どう考えても無理な話だ。だが、「ご冗談ばっかり。そんな日数では無理なことぐらい、そちらだっておわかりでしょう?」といってしまえばジ・エンド。これでは相手のメンツが丸つぶれだ。こうしたときに重宝なのが、「申し訳ありませんが、今回は見送らせてください」という言葉。この言い方ならば、まず、「申し訳ない」と丁重に謝っているわけであり、「今回は」とわざわざ断ることによって、「今回はたまたま申し出を受けられないが、今後もおつき合いのほど、よろしくお願いします」という思いも十分伝えられる。
無理を承知で引き受ける場合には、「ほかならぬ御社のご依頼とあれば……」「正直に申しますと、かなりきつい日程なのですが、日頃、お世話になっている御社のたってのご依頼なのですから……」といって引き受けると、今回、引き受けるのは特別なのだ、という意味合いを伝えることができる。いたしかねます──◉お客から難題を押しつけられたら顧客本位主義を勘違いしてか、常識を疑うようなクレーマーもいる。だが、「無理です」「できません」といってはカドが立つ。やんわりと、しかし毅然と拒否するなら?接客業の現場などでは、お客から無理難題を押しつけられたり、とんでもないクレームを持ち込まれたりすることもある。そうした〝非常識〟な相手に、「お客さま、それは無理でございます」などというと、かえってお客の気持ちを逆なでしてしまう結果にもなりかねない。「この店では、客のいうことを聞けないのか」とさらにすごまれ、騒ぎが大きくなれば、ほかのお客にも悪い印象を与えることになってしまう。こんなときは、店側も毅然とした態度できっぱりと、「~いたしかねます」と対応するとよい。「~かねます」は、「~するのはむずかしい」という意味で、「いたす」は「する」の丁寧表現。丁重な言葉を選んで、「できない」「(お客の申し出を)受け入れられない」と伝えているわけである。クレームや無理難題に対応するときには、ひたすら低姿勢をとり、「申し訳ありません。お引き受けしかねます」といって頭を下げ、よけいな言葉を発しないようにする。こちらが多くを語らなければ、お客のほうはじれて、あれこれしゃべりだすことが多い。こうしてひとあたり吐き出すと、腹の虫が治まるのか、お客のほうから「できないっていうんじゃ仕方がないや」などといって引き下がることが多い。手がふさがっております──◉依頼を断りたいときの便利な言葉上司から仕事を命じられたが、今、手の離せない仕事を進めている最中だ。そんなとき、上司の命にそむくわけではないが、仕事を受けることはできないと伝えたい。上司から、急な仕事を命じられた。だが、少し前にも別の仕事を頼まれていて、それにかかっている。今は手を離せない──。そんなときには、まず「手がふさがっております」と答えるとよい。ただし、「ただいま、先日、課長がお申しつけになられたAプロジェクトの企画書の原稿作業を進めておりまして、手がふさがっております。ちょうど調子が出てきたところなので、できれば、このまま進めさせていただきたいのですが。それとも、今度の仕事のほうをお急ぎでしょうか」と、優先順位を確認すること。「今、A社の企画書をまとめていますから、ムリで~す」などと答える人があるが、全体を掌握している上司のほうが、仕事の緊急度を的確に判断するはずだ。まずは上司の判断を仰ぎ、指示に従うようにしよう。「手がふさがっております」はセールスマンなど、突然の訪問者に対しても有効な言葉になる。家から家を回るセールスマンは、百戦錬磨のツワモノぞろい。「そうねぇ、少しお話を聞くだけなら」などと答えてしまうと、少しどころか、えんえんとセールストークを聞くはめになる。だからといって、「いりません」「うちは関心がありません」などと切り口上で断れば、相手の感情を害するだけでなく、こちらまで、なんとなく気持ちが波立ってしまう。こういうときに「今、手がふさがっておりますので」というと、やんわりと、今は忙しいから帰ってください、と伝えられる。おしゃべり好きな近所の奥さんを撃退するときにも、「ごめんなさい。今、ちょっと手がふさがっていて……。またにしてくださる?」などといえば、うまく切り抜けられる。潔しとしない──◉良心や誇りにかけて、どうしてもしたくないときは一寸の虫にも五分の魂、という。生きていくことはときに厳しいが、とはいえ、絶対に譲れないものがある。そうしたものを守るために、申し出を断るときは……。「あの企業が……」と驚くような一流企業での不祥事が相次いだ。そのほとんどが、企業内告発をきっかけにして露見しているが、調べてみると、不正はかなり以前から行なわれていたとわかった。つまり、そこで働く人の心は「不正はイヤだ。だが、上からの命令に反発すればクビになるかもしれない」と、大いに揺れていたはずだ。だが、ついに、不正を正そうという方向に振り子が振れた。これ以上不正を続けることを「潔し」とはしなかったのだ。「潔しとしない」は、自分の良心や誇りに照らし合わせると、どうしてもそんなことはできない、という気持ちを端的に表す言葉だ。二日酔いだ。会社をズル休みしたい思いに駆られる。いっそ、田舎の親を急病にしてしまおうか……。だが、やっぱり、出勤することにした。こんな場合にも「親を病気にするのは潔しとしない」と使ったりする。ぞっとしない──◉ほめ言葉ではないので、勘違いしないことセンスがない、感心しないと思っても、それをそのまま口に出すと相手は傷ついてしまう。それとなく相手にそうした印象を伝え、見直しをうながしたいのだが…。社会人にもなって、服装のことまでとやかくいいたくはないのだが、今年入ってきた部下のネクタイは、大きなドクロ模様。これで営業に出られると、会社のイメージにもかかわってくる──。こんなときには、「キミのネクタイ、ぞっとしないね」といってみよう。「ぞっとする」といえば、背筋がゾクッとするような恐ろしい思いをすることをいう。「ぞっとしない」はその反対。だから、「いい思いをする」イコールほめ言葉だと思っている人もいるようだが、それは間違い。
「ぞっとしない」は「ゾクッとするような感動がない」こと。そこから発展し、今では、「つまらない」「くだらない」「センスがない」「よくない」というような意味になっている。たいていは、服装や趣味などのセンスがよくない場合に使われるが、ときには、「キミの企画案はぞっとしないねえ」のように使い、暗に、「企画がつまらない。もうひとひねりしてほしい」という思いを伝えるときにも使われる。曰くつき──◉好ましくない事情や経緯があると伝えたい同僚の交渉相手は、業界ではとかくの噂があると聞くので注意をうながしたい。そんなとき、くわしい事情まで語らなくても、それと知らせる言葉があったら…。過去にトラブルを起こしたなど、よからぬ前歴がある人だと相手に伝えたい。でも、トラブルについてくわしい事情はわからない。あるいは、今さらくわしく話す必要もないというときに、「彼は曰くつきの人間だよ」といえば、ひと言で、ズバリ、そうした趣旨を伝えることができる。「とかくの噂がある人だよ」のようにいう場合もある。気をつけたいのは、いい評判がある人のことを「曰くつき」「とかくの噂……」とはいわないことだ。「曰くつき」も「とかくの噂……」も、必ずネガティブな事情を指す場合に使う。したがって、この言葉は当人の目の前では口にしない。「あなたは曰くつきの人だそうですね」といわれて、腹を立てない人間などいるわけがなく、どんな結果になるかは目に見えている。不動産物件などでは、前の住人がその部屋で不審死を遂げたとか、漏水事故があったなど、瑕疵物件というわけではないのだが、一般的には敬遠されることが多い物件を「曰くつき」物件といったりする。だが、最近は、「曰くつき」物件ならば相場より格安で手に入ると、それなりに借り手や買い手がつくという。世の中、現実的になったものだ。クセのある方──◉「嫌いな人」も、こういうとカドが立たない人の欠点や悪口をあけすけに口にするのは、もっとも品を損なうモノの言い方。遠まわしながらも、いいたいことをちゃんと伝える物言いを身につけたい。品位ある姿勢を貫こうとするなら、どんな場合も、人の悪口や批判は口にしないこと。とはいえ、話の流れで、自分があまり評価していない人について、印象を求められることもある。そんなときには頭を素早く回転させ、あたりさわりのない表現を見つけるようにしたい。「クセのある方」はそのひとつ。自己中心的で、自分の意見にこだわるなど、協調性のない人を指す表現だ。「ご自分の世界を持っておられる」も使い方しだいで、ネガティブ表現になる。服装のセンスがいまひとつ、という人は「個性的なおしゃれを楽しんでいる方」「ユニークな感性の持ち主」といえばよい。自分とはソリが合わず、どうしても仲よくする気持ちになれない人ならば、「彼女とは価値観が違うので……」とか、「ちょっと合わないところがあるようで」といえば、おたがいが傷つかない。優柔不断な人ならば「おっとりしておられる」「万事に慎重な方」、せっかちな人なら、「頭の回転が速い」「決断が速い方」などと言い換えられる。うろん──◉あやしい雰囲気を漂わせた人をこう表現する万引きジーメンは相手の目つきを見ただけで、この人は万引きするな…と看破するそうだ。そんなあやしげな目つきをひと言で表現する決まり言葉。「胡乱」と書いて「うろん」(「う」「ろん」ともに唐音)と読む。昔、胡が中国に侵入したとき、住民があわてふためいて避難したことから生じた言葉という。「胡」は異国のことで、自分たちとは言葉も風俗も異なり、理解不能であることから、怪しい、疑わしい、不誠実だという意味に使われるようになった。「うろんな人」といえば、あやしげで信用ならない人とか、うさんくさい人という意味になるし、「うろんな目つきでそこらを歩きまわっていた」といえば、落ち着きのない目つきでうろうろしている様子をいう。「証拠がなく、うろんだ」というように、根拠が見いだせず、信用できないという場合にも使われる。ほかにも、うろんな口実、うろんな雰囲気、うろんな立ち居振る舞い……とさまざまな状況で使われている。「うろんな人」を見つけ出し、なんとかいいくるめて会場から締め出してしまいたいとキョロキョロ見回していたら、自分のほうが「うろんな目つきの人」だとあやしまれてしまった、というようなことにならないように。したり顔──◉いったい、どんな顔のこと?「態度のデカイ人」はどこにでもいるものだ。だが、ちゃんと実績もあるとなると文句のつけようがない。そんな人が、しばしば浮かべる表情がこれだ。「したり顔」は、「なんでも知っているという顔」ではなく、「してやったり」というときに浮かべる顔。どの業界でも、営業の第一線では、火花を散らすような熾烈な競争をくり広げている。そんななか、正攻法ではなく、人の心理の裏をかくような作戦で成功を収めたとしよう。そんなとき、その営業マンはにんまりと、いかにも「してやったり」という顔をするはずだ。それがしたり顔である。最近は「ドヤ顔」もよく使われる。だが、どんなによい実績をあげても、不用意にしたり顔など浮かべるものではない。いい気になっているとバカにされるだけだ。公の場ではつねに自分を抑制し、平常心を保って淡々と過ごすのがいちばんだ。臆面もない──◉反省や遠慮のかけらもないことをいうこの前、あれほど苦言を呈したのだから、しょげた顔でやってくるかと思っていたら、何事もなかったような平気な顔。無神経な部下のそんな態度を表す言葉。
ちょっと叱るとしゅんとしてしまい、すぐに自信を失い、やる気まで失ってしまう社員と、どんなにきつく叱ったつもりでもまったくこたえず、反省どころか、気後れした様子も見られない社員。自分が上司なら、どちらも扱いに困ってしまうだろう。とくに後者は、「キミ、叱られているのがわからないのか」と思わず声を荒らげたくなってしまう。「臆面」の「臆」は臆病という意味。「面」はいうまでもなく「顔つき」をいう。つまり、臆した顔つきが「臆面」。それがないのだから、苦言を呈されてもオドオドしたり、気後れすることなく、平気の平左。カエルの面に小便。後者の若者が浮かべる表情は、まさに「臆面もない」という表現そのままだ。「彼のミスで長年の得意先を激怒させてしまった。だが、彼は臆面もなく、上司に向かって、部下のミスは上司の責任だといいますよね、といってのけたというから呆れたものだね」などというように、「臆面もない」という場合は、そうした態度をよく思っていないというニュアンスが含まれ、言外に相手の無反省や無思慮を憂える思いが込められている。けっしてほめられているわけではないことだけは、胆に銘じておこう。にべもなく…──◉人間関係が希薄な時代を象徴する言葉同じ「ノー」というのでも、相手に対する温かな心があるか否かで、言い方は微妙に異なる。「にべもなく断られた」といった場合は、どんな断られ方だったのだろうか。愛想がなく、冷たく、つれなくそっけなく、とりつくシマもないような態度を示すことを「にべもなく」という。「思いきって、彼女につき合ってほしいと声をかけてみたんだ」「で、どうだった?」「にべもなく断られてしまったよ」などと使う。「にべ」とは聞き慣れない言葉だが、漢字では「鮸膠」と書く。「鮸」はスズキに似た海水魚で、その浮き袋からつくられるのが「膠」。ねっとりと粘りがあり、強い接着力を持っている。自然の産物だけに、長い年月が経っても狂わない、変質しないなどの特長があり、今でも伝統的な手工芸ではニカワを用いることが多い。熱するとかなり強い独特の臭いを放つので、伝統工芸の職人の家には、「ニカワ」の臭いがしみ込んでいるものだ。このニカワのねばねばした状態から、「にべ」は人間関係の密着度を表す場合にも使われるようになっていった。現在では「にべもない」、つまり、人間関係が疎遠で無愛想だという否定形だけが残っている。「にべもなく」といった場合には、二度とアプローチできないというような、強い拒絶が含まれていることが多い。「B店の開店一〇周年イベントを、競合企業のA社と協力して開催しようと考え、打診をしてみたんだが、にべもない返事だった」といえば、まるっきり関心を持ってもらえず、手応えゼロであったことを示している。「にべもない」は、相手の行為に対して使うのが原則。自分がそっけない返事をしたからといって、「にべもない返事をしておいた」とは使わない。ないがしろにする──◉相手としっかり向き合わないと、こう一喝される「ないがしろにする」は、存在を無視することをいう。その底には、相手を軽蔑し、バカにする感情が見え隠れしている。むしょうに腹が立つのは、そのためだろう。自分の出した企画なのに、いつのまにか提案者の名前が課長になっている。そのうえ、その企画が採用されると、自分はその企画のチームからはずされた──。こんなとき、内心、「まったく、人をないがしろにするにもほどがある」と毒づいた経験を持つ人も少なくないだろう。「ないがしろにする」とは、無視すること。あるいは軽蔑して、きちんと向き合おうとしない態度をいう。「ないがしろ」の語源は「無きが代」。「代」は「身代金」「飲み代」などという言葉からもわかるように、あるものの代わりになるものを指す。「無きが代」とは、代わりさえもない→ないに等しいという意味になる。「ないがしろにされる」とは、存在しないも同じだという態度をとられることを意味している。これに腹が立たないで何に腹が立つだろう。だれだって「ないがしろ」にされれば面白くない。それに気づいたら、自分は相手を無視するような行動をとらないように気をつけよう。自分のとった行動はやがて、自分に返ってくる。そう思い、ひたすらだれに対しても誠実に向き合うようにしていると、やがて「ないがしろにされる」ことはめっきり減ってくるはずだと信じたい。おざなり──◉その場しのぎの言動のツケは、結局、自分に回ってくるやる気がなく、いいかげんな態度が目にあまる。かといって、それを指摘すればむくれてしまう。そんな手を焼く部下を叱るとき、彼らの姿勢をひと言で表すと…。おざなりの「お」は接頭語。「ざ」は座敷。「なり」は形状を表す言葉。江戸時代、座敷(宴会の場)で、その場だけ取りつくろった言動をすることを「座敷成り」「座成り」といった。「おざなり」はその言葉に「御」をつけることによって、意味を強め、さらに皮肉なニュアンスまで加えた言葉。いい加減にものごとをすませたり、その場かぎりの間に合わせでものごとを行なったり、いったりすることを指す。やる気がないのか、明らかな手抜き、気抜きの仕事ぶりが目立つ部下に、「おざなりなやり方をするから、こんな単純なミスをするんだ」と叱るときなどに使う。また、仕事ぶりに感心できない会社や企画書などを称して、「あんなおざなりな態度(企画)ではとうてい信頼はできないね。A社とのコラボは見合わせよう」などと使う。百年の不作──◉「あまり出来のよい女房ではない」という謙遜表現「いい奥さんですね」といわれた場合、相手によっては、謙遜した答えのほうが受け入れられやすい。だからといって「愚妻」という言葉はちょっと…というときに。
多くあるが、フランスの哲学者モンテーニュのこの言葉は、まことに言い得て妙。「百年の不作」とは、農作物の不作が百年も続くということから、一生の不幸・失敗という意味になり、転じて「悪妻は百年の不作」のように、配偶者(なぜか妻を指すことが多い)に恵まれない場合の嘆声として使われる。「いい奥さんですね」と他人からいわれたら、「いえいえ、百年の不作でして……」のように返す。けっして良妻ではないんですよ、という謙遜表現になるが、ちょっとユーモラスな表現であるところから、心底、悪妻だと思っているわけではないというニュアンスも伝わる。相手も、「そんなことをおっしゃって。奥さんにいいつけますよ」などと、ジョークで応じることができる重宝な言葉だ。歴史上もっとも有名な、悪妻の持ち主として知られるギリシャの哲学者ソクラテスは、「結婚したほうがいいのか、しないほうがいいのか」と尋ねられ、「どちらにしても後悔するだろう」という名答を口にしている。離婚がバツ一、バツ二と数えられるようになった現在では、結婚して悪妻だとわかれば別れればいい、と考える人も増えてきた。悪妻もせいぜい「三年の不作」ぐらいというところなのかもしれない。たたけばホコリが出る──◉だれにも欠点や、ミスを犯した過去があるはず完璧なものなど、この世に存在しない。だれにも欠点や弱点はある。それらが露見したとき、だれにもあることだと慰めたいときなどにぴったりの言葉は?一流金融企業で、コンプライアンス(法令遵守)にもとる事件が起こった。こんなニュースを目にしたときなど「どこでも、たたけばホコリが出るんですね」などと使う。どんなに誠実に、真っ正直に生きているつもりでも、相手がその気になって細かく詮索すれば、欠点のひとつやふたつは見つかるものだ。あらためて指摘されると、なるほどとうなずけることも多く、こんなときも「たたけばホコリの出る体」などと、ちょっと自嘲気味に使ったりする。昔は、年末には町内総出で大掃除をしたもの。大掃除名物といえば、たたみを干し、夕方になると棒でたたいてホコリを出す光景だ。パンパンと棒でたたく音は、今年も押しせまってきたことを知らせる年末の風物詩のひとつだった。掃除機の普及により、たたみをたたく光景はすでに消えてなくなったが、今でも、晴れた日にふとんを干し、取り込むときにパンパンたたいてホコリを出す光景を見かけることはある。徹底的にたたいてきれいにしたつもりでも、裏に返してまたたたくと、まだまだホコリが出てくるものだ。「たたけばホコリが出る」とは、そんな光景を彷彿させる言葉である。海千山千──◉「相当したたかな人」という代わりに人を信じる気持ちは失いたくない。だが、うっかり人を信用すると、とんでもない目に遭うこともある。とくに、その世界を知り抜いた人ほど怖いものはない…。「あの人は海千山千だから……」といった場合、経験豊富で大いに評価されていると解釈する人がいるが、これは間違い。実際は「経験が豊かで、その世界の裏の裏までよく知っているしたたかな人。だから、油断は禁物」というマイナスの意味で使われる。したがって、本人の前で「○○さんは、この世界にかけては海千山千ですから」というのはタブー。言葉の意味を熟知している人なら、激怒するに決まっている。「海千山千」は海に千年、山に千年住んだ蛇は竜になるという言い伝えが語源。言い伝え自体は古いものだが、人の形容に「海千山千」が使われるようになったのは意外に最近で、よく使われるようになったのは昭和に入ってからのことだ。半可通──◉知らないなら、知らないといえばいいのだが…ちょっとだけかじったことを、もう熟知しているかのようにいう人がいる。まるっきりのウソつきというわけではないのだが、しかし、正直者というわけでもない…。「彼は半可通だから」といわれると、ほめられたのかけなされたのかわからないという人も多いだろう。「半可通」とは、よく知りもしないのに、その道のことは深く知っている振りをする人をいう。人はだれでも、つい、自分を実物以上に見せたいと背伸びをしてしまいがちだ。だが、「知らないことは知っているふりをしない」勇気を持つほうが、かえって信頼を得ることを知っておこう。「半可」は、可でも不可でもないところから、中途半端という意味を指すという説もあれば、とりとめもない、いい加減なことをいう人を「南華」というところから転じたものという説もある。「半可通」によく似た言葉に「生半可」があるが、これも中途半端でいい加減なこと、未熟なことを意味する言葉。「彼は悪い人間ではないんだが、ときどき、生半可なことを口にする癖がある」などと使ったりする。お小水・お通じ──◉これがなければ一大事だが、口にはしにくい言葉だれでも必ずするものだし、出なければ深刻な事態になるはずなのに、そのものズバリの表現は品を損なう。医者が患者に対して、こう口にすることもある。「お小水」は小便、「お通じ」は大便のこと。どちらかというと女性言葉だが、男性の医師も「お小水をとってきてください」などとよく使う。最近、メタボリックシンドロームが話題になっている。腹囲が男性で八五センチ、女性で九〇センチを超えると生活習慣病の危険領域に入るというのだ。健康の話になれば、排泄に関する話題が出ることもあろう。そんなときには、直接的な表現は避け、「大きいほう」「小さいほう」などということもある。
また、出先でトイレを使いたいときは「お手洗いを拝借します」、女性なら「化粧室を拝借します」というと感じがよい。いうまでもないことだが、大事な商談や会議の前には、自社や自宅でトイレをすませておくことも欠かせない準備のひとつである。それでも、商談中などにどうしてもトイレに行きたくなってしまったら、直接的な表現は使わないで「ちょっと失礼させていただきます」といえば、周囲は事情を察するはずだ。尾籠な話ですが──◉排泄に関する話題をする前の常套句話の展開上、排泄に関する話をしなければならない。そんなとき、これからそうした話題を口にしますが、と断ってからならば失礼には当たらない。「尾籠な話ですが、最近、渋滞の自動車のなかで尿意をもよおしたときに使う簡便なものができたそうですね」など、トイレにまつわる話をする前には「尾籠な話ですが」とひと言、つけ加えるとよい。排泄に関する話題は極力避けたいものだが、話の展開上、どうしても触れる必要がある場合、「尾籠な話ですが」という言葉を前置きする。そうすれば、聞き手はあらかじめ、「そういう話なのだな」と意識するので、結果的に、不快感をなくすことができるのだ。大人の会話をする年代になったら、必要なシチュエーションに応じて使いこなしたい言葉のひとつである。「尾籠」とは、愚かで馬鹿げているという意味の「痴」を「尾籠」と書くようになり、やがて、それが音読されるようになって生まれた言葉。音読するケースが多くなるにつれて、「おこ」と「びろう」は異なる意味に使われるようになっていく。鎌倉時代の『太平記』に「ふるまひ、さこそ尾籠に思召し候ひつらん」とあることから、この時代には、「尾籠」は無礼・不作法だという意味で使われていたとわかる。また、式亭三馬の『浮世風呂』に「食べると、尾籠ながら吐きまする」とあることから、江戸時代ではすでに、人前では口にすべきでない汚い行動、事柄につけて使われるようになっていたことがうかがわれる。
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