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3章目標の領域

目次

3・1ただ一つの目標は企業を危くする

「目標の領域」については、ドラッカーの著書『現代の経営』の中にある「事業目標の八つの領域」に詳細に説明がある。

その一部を引用しながら、筆者なりの解説をしてみることとする。その中で、ドラッカーは、「ただ一つの目標」について、つぎのように述べている。

明確な目標をかかげることによって行う事業経営については今日活発な論議がくり展げられているが、注目すべきことは、多くの論者が事業の目標として何か一つのものを見出そうと努めてきたことである。

かかる努力は「賢者の石」(普通の金属を金に変える力をもっていると信じられた石)を探し求めた錬金術師の空しい努力にもたとえられる。

しかし、こうした努力は単に徒労に終っただけではなく、幾多の害毒を流し、多くの人々を誤り導いてきた。

たとえば、事業の目標として利益だけを強調することは、経営担当者達を誤らせ、遂には事業の存続を危うくすることにもなる。利益だけを強調すると、経営担当者達は往々にして目前の利益のみに意を用いて、事業の将来を無視する。

たとえば、現在苦労なしに売れる製品ばかりに力を入れて、将来の市場に対する配慮を怠ったり、新製品の研究や技術設備の改良、その他、先に延ばせる投資は後廻しにしてしまいやすい。

ことに、利益の計上を困難にするような増資を歓迎しない。このために、設備は危険なほどに老朽化してしまうこともある。

かくて、利益のみを強調することから、最も拙劣な事業経営が生まれてくるのである。(『現代の経営』自由国民社)

利益だけではない。よくあるのが売上高だけを目標にすることである。

こうすると、セールスマンは、やたらと値引きして売上げをふやそうとするし、製造部門では、売上げ目標にたりない部分は、外注で片づけて涼しい顔をしている、ということになる。

事業の目標だけではない。上司の指導においても、ただ一つの目標をかかげることは、まずい結果となる。

ある会社の社長は、「各個撃破主義」と称して、一つの目標を徹底的に攻め、目標を達成するとつぎの目標に移る、という指導方針をとっている。

みんな心得たもので、材料費を攻められると、外注費や型代の名目とし、運賃を攻められると修繕費に計上したり旅費に化けたり、なかなか手ぎわがよいのである。

ただ一つの目標のみをかかげると、このように人びとは逃げ道を探して、その道にそれてしまうものである。

だから、事業の経営とは、事業のさまざまな要求と、そのさまざまな目標との間に、一つのバランスを実現することである。

このためには何よりも、正しい判断が必要である。唯一つの目標を探し求めることは、この判断を不要にする魔法の公式を求めるようなものである。

しかし、正しい判断を一定の方式によって置きかえようとすることは、常に無意味な試みである。

われわれがなしうることは、選択の範囲を狭めて問題の所在を明確にし、意思決定ないし行動の効果に関する正しい測定を可能にすることによって、客観的な判断を可能にすることである。

このためには、企業の本来の性質からして、いくつかの目標がなければならない。(『現代の経営』自由国民社)このいくつかの目標について、ドラッカーはいう。

では、それらの目標はいかなるものであろうか。その答は一つしかない。

それは、事業の存続ないし繁栄に直接かつ重大な影響を与えるような行為が行われるすべての領域において、設定されねばならない目標のことである。

ここでいう重要な領域とは、経営上のいかなる決定によっても影響され、従って経営上のいかなる決定を下す際にも充分考慮にいれられなければならない領域のことである。

それらは、事業経営が具体的に何を意味するかを明らかにするとともに、事業が達成すべき目標と、その目標を達成する方法とを明示している。

これらの重要な領域における諸目標とは、次の五つのことを可能にするものでなければならない。事業の全活動を簡潔な言葉で適確にまとめて表現すること。

実際の経験に照して右に述べたことの適否を判定すること。事業にとり必要な行動を予示すること。決定を下す前に、その決定が健全なものかどうかについて評価すること。

実務にたずさわっている事業家が自分の体験を分析して不充分な点を見付け、将来の指針を得られるようにすること。

最大利潤の追求をもって事業の目標とする説が棄てられなければならないのは、右の五つのどれをも可能にすることができないからである。

ちょっと考えると、重要領域というものは、各事業によってそれぞれ異り、それゆえ、どの事業にも当てはまるような理論は立てられないように思える。

しかし、これは事実に反する。確かにある事業はある重要領域をとくに強調し、他の事業はまた他の重要領域をとくに強調するといった差異はある。また同じ事業においても、発展段階によってそれぞれ強調すべき重要領域が異ってくる。

しかしどのような事業にあっても、またいかなる経済的条件の下に置かれていようと、さらにはまた事業の規模及び発展段階にいかなる相違があろうと、変りのない重要領域というものがある。

つまりこの意味で、どの事業も八つの重要領域をもち、そのそれぞれにおいて、努力の目標を設定しなければならない。

この八つの領域いうのは、市場における地位、革新、生産性、物的並びに財務資産、収益性、経営担当者の能力と育成、労働者の能力と態度、社会的責任である。

(『現代の経営』自由国民社)以上のうち、「事業の全活動を簡潔な言葉で適確にまとめて表現する」ということは特に大切である。

ある会社で、経営計画書が一〇〇ページ以上にもわたって、くわしく記載してあるのを拝見したことがある。

そこで筆者は、上級幹部に向かって、計画書の中から、重要な目標をひろい出して質問したところ、ほとんど答えられなかった、という例にぶつかっている。

あまり細かいことまでやたらと盛りこんでもダメであるばかりか、この例のように、肝心なところまでボヤケてしまうのである。

筆者は重要事項のみを簡潔な言葉で、せいぜい一五ページ以内くらいにまとめることをすすめた。

それ以来、その会社の経営計画は、わかりよくなり、重要事項がよく徹底するようになったのである。

目標の八つの領域のうち、あとの三つの領域について、ドラッカーは、それが量的な目標ではなく、人間に関する質的(原則や価値の問題)な目標であるために、とかくやっかい視され、敬遠されがちであることに警告を発している。

企業は人間による一個の共同体だからこそ、この問題を明確にし、具体化することこそ経営者の任務だというのである。

そして、わが国の大部分の企業の経営者は、どのように具体化するかがわからぬままに、教育課とか研修課とかに任せてしまう傾向が強すぎる。

そこには、経営者としての明確な育成目標がないために、企業の真の必要性とは別のところで、次元の低い観念的形式的な講座を外部の専門団体に委嘱してお茶をにごしている。

これでは、訓練担当者は苦労ばかり多くて、実効のほどは期待できない。

訓練を効果的にするものは、経営者の明確な育成目標であり、これのない訓練はむしろナンセンスではないだろうか。

そして、その訓練で最も大切なものは、外部講師によるものではなくて、本人の仕事それ自体を通じて、上司が行う体験教育でなければおかしいのである。

本人の仕事を通じて教え、職務を通じて鍛える。人間は体で覚えて、はじめて自分のものになる。本を読むことも結構、外部講師の話もよい。

しかし、本人が体験を通じていろいろな疑問や必要性を感じてこそ、それらの教育が本当に役にたつのであって、本人の勉強したい気持ちのないところに、本も講義も効果はない。

3・2市場における地位

一口にいうと「占拠率」のことである。占拠率とは、ある商品が業界の総売上げに占める比率のことである。

似たような言葉に「占有率」というのがある。これは、ある会社の売上げが、その業界に占める比率である。

意味に多少の違いはあっても、考え方はまったく同じなので、以下は「占拠率」一本で筆を進めてゆくことにする

厳密な意味では不備であるが、あらかじめご了承を願うこととする。

「わが社の売上げは伸びている。だからわが社は成長している」という考え方は間違っているのであることを、まずわれわれは知らなければならない。

というのは、売上げが伸びても、それが業界全体の伸びよりも低ければ、占拠率は下がっているのである。

それを、売上げの伸びに目がくらんで、占拠率の低下に気づかないのは危険である。というのは、占拠率こそ会社の死活問題だからである。

占拠率が下がってくると、業界における地位がしだいに下がってくる。ある割合以下の占拠率となった企業を、限界生産者(限界商品)という。

何パーセント以下になったら限界生産者というかはきまっていない。業種により、業態により、地域により違いがある。

しかし、いずれの場合でも、あるパーセンテージ以下は限界生産者なのである。筆者は一般的な基準として一〇パーセントを用いている。

限界生産者になると、まず第一に、商品価格の自主性を失って、優位にある同業者の価格政策にふりまわされるようになる。

つぎに、いろいろな変動に対する抵抗力が弱くなる。

たとえば不景気になると、販売業者は在庫品の切りつめをはじめる。まず買入れを中止するのは、限界生産者の商品である。こうなると限界生産者の売上げは、末端需要の減少以上に低下する。

当然のこととして、収益は極度に悪化し、市場活動さえ思うようにできなくなる。これが売上げをさらに低下させる、という悪循環をくり返すのである。

反対に景気が回復していっても、販売業者はまず大規模なメーカーの商品の仕入れを増加し、限界生産者は後回しになる。

このようにして、不景気を経験するたびに、優位の企業と限界生産者の格差は開いてゆく。そして、限界生産者の行く先は破綻なのである。

不景気以外の変動によっても、限界生産者はつぶれてゆく。

たとえば、マスター万年筆である。マスター万年筆倒産の原因は万年筆の自由化である。

万年筆の自由化によって、モンブランやシェーファーというような有名商品が続々と輸入された。しかし、デパートや文房具店の陳列ケースの大きさは変わらない。

そこで、販売業者はマスター万年筆などの限界生産者の商品を取り除いて場所をつくり、そこにモンブランやシェーファーをならべたのである。

こうして、マスター万年筆は売れなくなり、倒産してしまったのである。この間の事情を法則化したのが、「ランチェスターの法則」である。

いわく、「企業の危険度は、企業規模の二乗に逆比例する」。

つまり、企業規模が半分になると、危険度は四倍になるということなのだ。

強者有利の法則なのだ。戦後、どの業界でも業者が乱立した。それがしだいに淘汰され、寡占化が進んできたのはすでにご存じであろう。

これが、ランチェスターの法則の実証である。そして、いまもなお、寡占化は進んでいるのである。

中小企業の経営者は、占拠率についてあまり考えない人が多い。自社製品の場合には、業界全体の数字がつかみにくい、ということもある。

加工業であれば、それは自分の会社で売るのでなくて、親企業が買ってくれるということもある。

しかし、本当の理由は、経営者が占拠率に関する認識が低いところにある。ここに、中小企業の弱さの重大原因の一つがあるのだ。

占拠率への認識があれば、「マイペースでゆく」というようなのん気なことはいっておられるものではないし、「適正規模は何人ぐらいでしょうか」というような、ピントはずれの質問は出ないはずである。

加工業だからといって、安心しているわけにはいかないのである。加工業の場合に問題なのは、親企業なのである。

親企業が限界生産者か、そうでないまでも、業界のトップクラスでない場合には、遠からず限界生産者に転落するかもしれないことを考えたならば、ノホホンと構えているわけにはいかないのである。

親企業の運命が自分の会社の業績に重大な影響があるのだ。最悪の場合には、親企業とムリ心中させられるかもしれないのである。

だから、占拠率の認識をもてば、たとえ業界の正確な数字はつかめないまでも、なんとかして、大ざっぱな推定数字をつかむことに努力するはずである。

またその努力は、かなり実るものでもあるのだ。

そして、そこからわが社の地位を知り、「このままでいいのか」ということを考えなければならないのである。

いかなる場合にも、占拠率が下がるということは倒産に通ずるのだ。大企業ほど、また優秀な経営者ほど占拠率を重視する。

昭和四〇年に起こった「住金問題」(不況対策として鉄鋼の生産調整を行ったときに、住友金属の日向方齊社長が横車を押した事件)の本質は、たんなる売上高というよりは、占拠率の争いなのである。

当時の業界の大勢は、「前年後期」の実績を基準とするというのに対して、日向氏は「今年の前期」の実績を基準にせよ、というのだ。

後発メーカーである住金は、占拠率向上のために、社運をかけて和歌山製鉄所の大拡張を行い、急速に占拠率を向上させていたその最中に行われた生産調整であったために、住金の占拠率は、「今年の前半期」のほうが相当高かったのである。

そこで、住金とそれ以外のメーカーとの占拠率争いが正面衝突したのである。

住金としたならば、業界の大勢の意見に従ったなら、せっかく手に入れた占拠率を半年も後退させるということは、だれが何といっても、承服するわけにはいかなかったのである。

日向氏は、どのような非難を八方から浴びようと、社長として、あれ以外の行動はとれなかったのである。

鉄鋼業界では、かつて、川崎製鉄の千葉製鉄所の建設にからんで、当時の社長西山弥太郎氏と一万田尚登日銀総裁の間に争いがあり、一万田総裁をして、「千葉にペンペン草を生やしてやる」とまで激怒させたことがあった。

これも後発メーカーの川鉄の必死の占拠率向上政策がその本質なのである。

鉄鋼業界のみならず、家庭電気業界でも、自動車業界でも、その他セメント、食品など、あらゆる業界の設備競争も、その本質は占拠率争いなのである。

この競争に負けた企業は、消え去るしかないのであるから、第三者がどのようにそのムダを批判しようと、経営者を非難しようと、それが占拠率争いであるかぎり、後へは引けないのである。

死に物ぐるいの占拠率争い以外に、生き残る道はないからである。

小売業界においてもまったく同じである。

デパートはデパート同士で占拠率を争い、ビッグストア(スーパーマーケッ卜の大きくなったもの)はビッグストア同士で、火の出るような占拠率争いをやっている。

それだけではない。

デパートとビッグストアの間にも、そして一般の小売商店との間にも、三つどもえ、四つどもえの占拠率争いがくり広げられている。

そして、そこにも「ランチェスターの法則」が働いて、寡占化が進んでいるのである。

製造業界も小売業界も、また問屋業界にも、世はまさに「大戦国時代」なのである。

自分の会社の中のことにしか関心のない企業人は生きる資格に欠けているのである。

激烈な占拠率争いは、マーケッ卜の変貌、消費者の変化、技術革新などと合成されて成長企業と斜陽企業を生み(斜陽企業とは、占拠率の低下してゆく企業のことである)、さらに成長業界と斜陽業界を生む。

いかなる場合にも、斜陽化は破綻に向かってバク進している姿なのだ。

あなたの会社の占拠率はいくらか、それは上昇しているか下降しているのか。あなたの会社の得意先は成長企業か斜陽企業か。

もしも、そこに斜陽の兆候がみえたら一大事である。そのような場合に打つ手は二つしかない。

一つは占拠率向上策であり、もう一つは、斜陽業界または斜陽製品との訣別である。どちらの手が正しいかは、個々のケースによって異なる。

事態を判断し、どのような手を打つか、打たぬかが、あなたの会社の将来をきめるのである。

以上は占拠率低下の危険である。

ところが、「占拠率が高すぎる危険」があることを忘れてはならない。占拠率がある程度以上に高くなると、強敵がないために安心し、その上にあぐらをかいてしまう危険がある。

こうなると、革新的なことは喜ばれず、また顧客へのサービスを忘れてしまう。

かくて顧客の不満はつのってゆき、新しい供給者の出現を望むようになる。そして、いったん新規の競争者が出現したときには、顧客は待ってましたとばかり、これにとびついてしまう。

ある会社の販売部長は、「独占的な商品ほどこれを切りくずすのがやさしい」という意味のことを筆者に語ったのは、この間の事情を物語っているのである。

独占的な企業は、このように新しい競争者にたやすくつけこまれるし、経済変動に対処する能力が弱く、いったん下り坂になると、いっぺんにくずれ去る危険がある。

企業というものは、ある一定の市場地位以下に落ちてもいけないし、一定以上になってもいけないのである。

われわれは、常に市場地位に関心をはらい、市場地位確保のための目標をきめてゆかなければならない。

そこに斜陽の兆候を発見したならば、機を失せず対策をとる必要があるのだ。

つまり市場活動の目標であり、斜陽製品の廃棄の目標であり、あるいは斜陽業界そのものからの脱出の目標なのである。

3・3革新

革新とは、経済的成果を高めることをねらいとした構造的な変革であって、合理化とは違うのである。

合理化とは、いまあるものを能率化し、あるいは低原価化するものである。

合理化はそれ自体大切であって、経営の有力な武器であることは、筆者のかつての専門が生産技術(IE)であっただけに、よく知っている。

しかし、合理化は企業を発展させる「きめ手」ではない。

いな、あまり合理化に熱心になって能率病にかかると、逆に企業にとってマイナスになる。なるほど、能率化すれば工数は減って原価は下がる。

だが、特定製品についての能率化の効果は、しだいに小さくなってゆく、反対に能率化のための投下資本や経費は増大してゆく。

合理化には限界があり、しかもその限界はあまり高いところにはない。

一方、企業の内部費用は確実にふくれ上がってゆく。初めのうちは能率化によってその経費を吸収できる。

しかし、しだいにそれがむずかしくなり、ついには経費を吸収できなくなってしまうのである。

しかも、製品の値下がりがこれに拍車をかける。こうした状態に追い込まれると、会社をあげてさらに能率化に取り組む。

しかし、限界に近づいているだけに効果は上がらず、低い業績に泣く会社を筆者はたくさん知っている。

もっと大きな問題がある。

それは、合理化・能率化には、商品の斜陽化を食いとめる力はないということである。

斜陽化は、企業外の市場の変貌によって起こるものだからである。

企業内の合理化とは無関係な要因によって斜陽化が起こることを、意外なほど認識していないのは、いったいどういうわけなのであろうか。

いかなる製品も必ず斜陽化してゆく。ただ、その寿命に長短があるだけである。

フラフープのように半年という短命もあれば、アスピリンのように七〇年の齢を保っているものもある。

斜陽化の前兆は競争の激化である。競争が激化すれば値下げしなければ売れなくなる。

こうして収益性の低下が始まり、斜陽化に一歩をふみ出す。さらに進むと、売上げの頭打ちから低下に転じ、それに加速度がついてゆく。

昭和四二年の春、世の好況をよそに、斜陽のオートバイ業界は大減産となり、某メーカーのごときは、三カ月間に生産が半分以下に落ちてしまった。

こうなると、もう能率も蜂の頭もないのだ。これが斜陽の現実である。

ところが、現在の経営学と称する(本当は大部分が、組織管理の理論と能率のテクニックであって、経営学ではない)ものは、客観情勢の変化にはぜんぜん関心を示さず、ひたすら内部の合理化に専念し、能率と低原価の実現にうつつをぬかしている。

そして、そうすることが、経営の正道であるかのような教え方をする偉い先生がたがあまりにも多い。

こうして企業体の人びとの考えを間違った方向に向けてしまう罪悪は、能率化の効果を相殺してしまうだけではなく、多くのマイナスをもたらしているのだ。

経営者が内部の能率にのみ目を向けて、外部情勢への注視を怠り、その変化に対応することができないならば、その企業は一巻の終わりである。

経営者としての正しい態度は、常に関心を外部におき、その変化に対処するために、内部態勢をどのようにするか、というのでなければならない。

斜陽化する製品にかわる収益性のよい新製品開発の目標をどのようにきめたらよいか、陳腐化してゆく販売チャネルにとってかわる効率的な新販売チャネルは、どのような目標のもとに選定したらいいか、という構造的な変革こそ革新なのである。

このように考えてくると、革新は攻撃的というよりは、むしろ防御的なものといえそうである。

経営者の仕事というのは、このように常に未来なのである。わが社の優秀な未来を築くために、現在何をしなければならないか、が経営者の正しい関心と態度なのである。

この未来を築く仕事は、とてつもない難事業なのである。これは経営者以外のものにはたやすく理解できるものではない。

企業の幹部の態度として最も大切なものの一つは、経営者の役割は未来事業にあることを理解するとともに、その難事に思いをいたし、経営者にいらざる内部の心配をかけないことである。

これが補佐のまず第一なのである。

従来のマネジメントの思想は、これとは逆に、経営者はもっと内部をよくみなければいけない、というまったく間違った哲学を吹きこんでいる。その罪は万死に値するといえる。

だから、管理者の中から、「もっと内部のめんどうをみてもらいたい」というような声がでてくる。どこへ行ってもきかれる声に、「トップの無理解」というのがある。

筆者にいわせたら、そういう声の大部分は、管理者がトップの立場を理解できないところから起こっているのである。

トップが内部のめんどうをよくみられないからこそ、部長や課長が必要なのだ。そこのところを間違えてはいけないのだ。

幹部の関心は、まずトップに向けるのが本当なのに、従来のマネジメントの思想は、「部下」一本ヤリである。まったくため息がでる。

革新で、とかく忘れられやすいのが、販売の革新である。どのように優れた製品でも、売れなければスクラップなのだ。企業の収益は売れてはじめて生ずる。売れないうちは費用が発生するだけなのだ。

つくりさえすれば、これを売価に換算して資産に計上するという会計理念は、税務署のためのものではあっても、断じて企業体のものではない。

販売力の弱い企業は伸びないだけではなく、斜陽会社になり下がってしまうのだ。

「うちは下請加工だから営業活動に力を注ぐ必要はない」と考えるのは間違いである。

逆に、下請加工なればこそ、なおのこと営業活動を活発化し、有利な仕事をとり、引き合わない仕事は切ってゆかなければならないのである。

ある成長業界の中でいつも黒字と赤字の線を行ったり来たりしている斜陽会社がある。

その会社の人事方針は、優秀なものを生産部門と総務部門に配置し、成績の悪いものは営業部門に左遷するというのだ。

古いノレンと高い技術を誇りながら、当落線上をさまようこの会社が、もしも販売第一主義に変わったなら、たちまちのうちに、業績はまったく変わって、優秀会社の仲間入りをするであろう。

論より証拠、優秀企業は必ず営業に強い、そしてトップ層に販売の神様がいる会社は最高に強い。

松下電器は御大の松下幸之助会長、トヨタ自動車には自販の神谷正太郎社長、ソニーには盛田昭夫副社長、本田技研工業には藤沢武夫副社長がいるのである。

もしも、あなたの会社の業績が上がらないならば、「販売力は弱くないか」という疑問を必ず投げかけてみる必要があろう。

優秀企業の条件は、収益力の高い製品を開発できることと、これを有利に販売できること、この二つに最終的にしぼられてしまうのである。

一口にいえば、製品と販売の革新力である。

だから、革新の目標は、重要なうちでも特に重要な目標であって、これを欠いた企業目標などは、気の抜けたビールみたいなものでしかないといえよう。

革新はごく徐々にしか進まないことを、われわれはよくよく心しておく必要がある。

現に優秀な企業というものは、過去において一〇年あるいは二〇年にもわたる、先輩の革新の努力の賜であって、現在はその遺産で食っているかもしれないのである。

もしも、その上にあぐらをかいて、将来に対する布石を怠れば、やがてその企業は没落してゆく。

現在において、たえ間ない革新の努力を続けるもののみが生き残り、業界の指導的地位につけるのだ。革新の道は遠くけわしい。

ローマは一日にして成らないのだ。

常に三年先と一〇年先を考えて、革新の手を打ってゆく、という心構えこそ肝要なのである。

革新を推進してゆくうえで、特に大切な留意点を三つあげよう。

  1. 第一は、革新業務は独立の部門として他と分離することである。
  2. 第二にはその責任者である。それは絶対に人材かつ適材でなければならないということである。
  3. 第三には、対象をしぼることである。最少数の対象に、資源と努力を集中することである。

第一は、革新業務は独立の部門として他と分離することである。

部門として分離するほどでない場合は、専任者をきめることである。

分離をしないとどうしてもむずかしく、革新がおろそかになり、手なれた仕事に向いてしまう。そのうえ、革新が進まない理由として、「忙しくて革新業務に回らない」という責任のがれに使われるからである。

しかし、本当に大切なのは、トップの姿勢である。

独立させて専任させるという、そのこと自体にトップの決意を見せるのである。場合によったらトップの直属もよい。いや、そのくらいにするのがむしろ本当である。

第二にはその責任者である。

それは絶対に人材かつ適材でなければならないということである。

日常のくり返し仕事ならば、人材と凡材にそれほど大きな差がでない。しかし、革新に関しては人材と凡材では天地の差ができる。

というよりは、凡材に革新を命じたために、その狙いとは逆に、まったくの荷物になってしまっている企業をしばしばみかけるのである。

革新の成否は人によってきまる。

こと革新に関しては、組織で仕事をするというわけにはいかない。あくまでも特定個人の能力にかかっているのだ。

革新部門を組織化することは大切である。

だが、組織化したから、それで革新が進むと思うと間違いである。その中心となる人材を得なければ、革新などできるものではない。

だから、革新部門の責任者は、企業内での最適と思われる人をあてなければならない。たとえ、その人が抜けることによって、その部門がどのような打撃をうけようと、あえて強行することが必要なのだ。

それは苦しい決定である。

その苦しい決定をあえて行わねばならないのがトップであり、その苦しい決定が会社の将来を左右するのだ。

間違った人間関係や温情を、断乎としてはらいのけなければならないのである。

第三には、対象をしぼることである。

最少数の対象に、資源と努力を集中することである。ある会社で、たった一五人ほどの研究員で、なんと八〇のテーマをもっている、という例にぶつかったことがある。

当然のこととして、どれもこれもかじりかけになっていて、成果はほとんど上がっていなかった。その中には、すでに四年前に完成していなければならないものまであった。

そんなものは、もう時期を失して意味がないのであるにもかかわらず、捨て去られていない。もう何をかいわんやである。

責任者がボンクラだとこういうことになる。いや、本当はトップがダメなのである。

この会社は大幅な実質赤字を、土地を売った売却益でカモフラージュしていたばかりか、配当まで行っていたのには、あきれ返るばかりであった。

むろん革新や研究の対象は、候補としてはたくさんなほどよい。しかしそれらを一度に手をつけたってダメにきまっている。

実際活動は、それらの候補からしぼりにしぼって、少数にしてしまうとともに、優先順位をきめるのである。

そして、明確にスケジュールを含めて推進するアメリカの宇宙計画は、スケジュール化の見本である。

いわゆる「スケジュール方式」か、全面責任をとる「プロジェクト・マネジャー方式」かのどちらかにきめるのがよい。

特に、実用化の段階ではスケジュール化が大切である。

集中の原則を貫いて、大きな成功をおさめている好例はソニーである。

「二兎を追うものは一兎をもえず」ということわざは、近代的な企業の革新にも当てはまるのである。

新製品の開発はむずかしく、新販路の開拓もむずかしい。

しかし、何といっても最大の難事は「捨て去るという革新」である。

費用ばかりかかってあまり収益のない製品、陳腐化した販売チャネル、少額の取引しかない得意先、赤信号の出ている親企業などを、思いきって切ってしまうむずかしさである。

これらは、製品に対する愛着、得意先とのクサレ縁、切ることによって失われる収益などがじゃまをして、なかなか切れないものである。

それをあえて切ってゆく決断がなければならない。

トップというものは、常にこのような「苦しい決定」をしなければならないのである。その苦しさをさけようとするトップは、経営者としての資格がないのだ。

そしてまた、企業体の幹部はトップの苦しい立場を理解し、正しい決定を補佐しなければならない。

部下のほうばかり向いている幹部は、幹部の資格がないのだ。革新の目標は大企業には必要であるが、中小企業ではそんなことまでする必要はない、と考えるのは間違いである。

いや、中小企業なればこそなおのこと、革新の目標を明確にする必要がある。資本力、技術力、販売力、人材など、何をとっても劣勢に立つ中小企業の生きる道は、旺盛な企図心による革新である。

革新こそ、中小企業にとって大企業の圧力に対抗する有力な武器なのである。これによって、経営の自主性を保ち、好収益をあげて内容の充実をはかるよりほかに、生き残る道はないのだ。

ところで、革新に関して、中小企業はめんどうなことをせずに革新の企画や推進ができるという、大きな強味をもっている。

身軽で小回りのきく小規模経営の利点をフルに発揮することが大切なのである。市場の変化も要求も、いち早くとらえることができるのであるから、これに対応することも早くできるのである。

3・4生産性

生産性というのは、成果に対する努力の割合いのことである。生産性向上というのは、より少ない努力で、より大きな成果をあげることである。

算式であらわすと、生産性=産出高(アウトプット)÷投入高(インプット)ということになる。

算式はできても、実際にこれを計算し、測定できるのは、量的な生産性だけであって、質的な生産性の測定は、この算式ではできない相談である。その量的な生産性の計算も、けっして完全なものではなく、欠陥もあれば限界もある。

それにもかかわらず、なおわれわれはこの算式をつかって、生産性向上のための方策を発見できるし、生産性の目標をかなり明確に示すことができるのである。

では、企業の産出高とは何であり、投入高とは何であろうか。企業は材料を買い、これを加工して売るという活動をしている。

いま五〇〇万円の材料を買って、これを加工して一、〇〇〇万円で売ったとすると、加工賃が五〇〇万円ということになる。

式にしてみると、材料加工費売上げ500万円+500万円=1000万円ということになる。この加工賃の五〇〇万円が会社の本当の収入なのである。

これこそ、企業が生み出した経済的価値であり、企業の産出高なのである。これを付加価値とよぶ。

企業が、外部の価値(つまり材料)に付け加えた経済的価値だからそうよぶのである。

外部から買入れた材料は、企業の外部でつくられた価値であるから、これを売上げから引いてしまわなければ、ほんとうに企業が生み出した価値はわからないのである。

商社の場合には、売上げと仕入値との差額が付加価値である。粗利益とか差益という言葉が一般につかわれている。

材料費といったのは、説明の都合上外部価値を代表させたのであって、外部価値というのは、材料費、購入品費のようなものと、外注費などのサービスを合わせたものである。

ひっくるめて、「外部価値」という。

前の例にもどって、五〇〇万円の付加価値をうるために、人件費二〇〇万円と経費二〇〇万円を費したとするならば、付加価値人件費経費利益500万円-(200万円+200万円)=100万円となる。

この人件費と経費は、会社の内部で費されたものなので、「内部費用」という。この内部費用が、「企業努力の原価」なのである。これが総投入高である。

付加価値を文章によって定義づけすると、「付加価値とは、企業が製品またはサービスを売って得た総売上額から、その売上げのために外部から買入れた原材料またはサービスの総買入額を引き去った額である」となる。

ところで、外部価値と内部費用は特性が違う。この特性を知っておくことが、生産性向上に大切なのである。

外部価値は、売上げに正比例して増減するという特性をもっている。売上げが三割増せば外部価値も三割多くなり、売上げが二割減少すれば外部価値も二割少なくなる。

このために、外部価値のことを「変動費」または「比例費」という。内部費用は売上げの増減に比例して増減しない。

売上げが二割上がっても、三割下がっても、内部費用はごくわずかの増減はあっても、ほぼ一定の額である。そのかわり、期間に比例して増減する。

期間が二倍になれば内部費用もほぼ二倍かかる。

このように、売上げの増減に比例して増減せず、期間に比例して固定的に発生する費用なので、「固定費」または「非比例費」という。

ここで前掲の生産性の算式にもどろう。企業の生産性はつぎのように表現できる。

生産性=(産出高÷投入高)=(付加価値÷固定費)この算式は割算である。

だから答えを大きく、つまり生産性を向上させるには、一分子を大きくする……付加価値を大きくする二分母を小さくする……固定費を小さくするようにすればよいのだ。

まず第一に、付加価値を大きくすることについて考えてみよう。

その方策として、一売上げを伸ばす二材料を安く買う三材料の歩留りを向上する四VAなど、設計変更や標準化による材料費率の低下五外注単価をたたくというようなことがあげられる。

しかし、これらの方策は、初めのうちは効果があっても、すぐに限界にぶつかってしまう。

たちまちのうちに増大する内部費用をまかなうことができなくなるのは目にみえている。

それにもかかわらず、従来の能率学は、この現実に目を向けようとしない。というよりは、ぜんぜん気がついていないのだ。

そして、馬車馬みたいに能率化にうつつをぬかし、低収益に泣く。その低収益の原因は能率化がたりないのだ、というわけで能率化に熱中する。

このような、まったくの誤った考え方にこり固まっている。いや、こり固まらせた能率の先生がたに対して、筆者はかぎりない公憤を覚えるのである。

能率化によって継続的に必要付加価値を生み出すことは、もともとできない相談なのである。

継続的に必要付加価値を確保する道は、たえず収益性のよい製品をとり入れるとともに、収益性の悪い製品を切ってゆくという、構造的な変革なのである。

あえて革新の項との重複をもかえりみず、ここでも同じ主張をするのは、正しい考え方があまりにも理解されず、能率のとりこになって、泥沼にはまりこんでしまっていながら、なおもその誤りに気がつかない企業が多すぎるからなのである。

第二に、内部費用を小さくすることである。

ところが、これの絶対額を小さくすることは、きわめてむずかしい問題である。

それどころか、非常な勢いで増加してゆくのが普通である。そこで、何とかしてこれを食いとめようと、いろいろな手が打たれる。

いわく「経費節減」、いわく「直間比率の改善」などである。

しかし、ほんの一部の企業を除いて、それらの手がほとんど功を奏していない。その原因は何であろうか。

一つは費用の実態をよく知らないことと、打つ手が技術的すぎるというところであろうか。

まず、費用というものは、費用の絶対額うんぬんではなく、成果対費用の比率が大切だということである。

経費をいくら少なくしても、それが付加価値増大を阻害するようなことになれば、何にもならないのである。この意味で、まず重視しなければならないのは、未来事業費である。

未来事業にたずさわる人間と経費は、革新の目標に対してうんぬんされるべきであって、たんなる経費節減という考え方で処理してはいけないのである。

不用意な未来事業費の節減は、企業の将来を危くする。ところが、現実には随所でこの危険な経費節減が行われているのだ。

ここにも指導理念の欠陥がみられるのだ。まったくやりきれない気持ちになる。マネジメントの指導理念には、なんとしても欠陥が多すぎるのである。

本当は、他の経費を極力節約して、浮いた費用を未来事業に投入する、という態度でなければならないのである。

未来事業費以外の経費をどのように考えたらいいだろうか、経費には統制可能な費用と統制不能な費用がある。家賃・地代とか、公租公課などの統制不能費は節約のしようがない。

しかも統制不能費は、経費のうちの相当の部分を占めているのである。残る統制可能費は、費目の数が多く、一つひとつの費目の金額はあまり多くない。

したがって、節約してもたいした金額にはならない。だから、「経費一割節減」なんて目標を気安く打ち出してみても、とてもできる相談ではないのだ。

ある倒産会社で、倒産二年前に社長が打ち出した「業績回復計画」はほとんど一〇〇%経費節減で、鉛筆一本までうるさく節約を説き、封筒を裏返して使うというキメの細かいものであった。

しかし、肝心の付加価値増加のほうは何もなかったのである。

こんな会社は倒産しないほうが不思議なのである。本気で経費節減による経済的成果を期待するやつはバカだ。

経費節減というものは、日常の「しつけ」としてやるものなのだ。不景気になると経費節減が流行する。

しかし、そんなものは人のうわさと同じで、七五日すぎたら、だれも気にかけなくなるのだ。

経費は節減するものではなくて、「削減」するものなのだ。削り取ってしまわなければダメなのである。

削り取るというのは、ある活動そのものをやめてしまうということである。むろん、これによる経費の節約額それ自体は、たいしたものではない。

それよりも、むしろ、つぎに述べる間接人員の削減に密接に関連し、その面で大きな成果を期待できるがゆえに大切なのである。

幸か不幸か、企業体には削り取ってもさしつかえない、というよりは削り取ってしまったほうがよい活動がたくさんある。

日常業務の中の相当な部分は、事後処理業務である。

事後処理業務は、どのようにりっぱに処理しようと、すでにつくられた数字を、ただの一円でも変えることはできないのだ。

そんなことよりも、われわれは、よい数字をつくり出す活動にこそ精力を注ぐべきなのだ。

そのほか、統計、報告書など、不必要なものや用途の不明なもの、ごくまれにしか起こらない誤りをチェックするためのものなど、なぜこんなつまらない記録をとっているのかわからないものが、驚くほどたくさんあるものだ。

中には、「責任のがれのための記録」もある。しかも意外に多いのだ。

もう一つ、「上役が要求しない報告書」がある。

これは相当念入りにつくられているのが普通である。いかに念を入れてつくろうと、相手が見てくれないのでは、ないのと同じではないか。

とにかく、削り取ってもいい活動は、想像以上に多いのだ。これにメスを入れるのだ。

この場合に、技術的なアプローチは厳禁である。伝票、帳簿、報告書、統計表、管理図などを集めて、ながめながら考え、要不要を判定してゆくのが最もよい。こうして、不要なものをバサバサ切ってゆくのだ。

これができないような幹部は、その資格を疑われても仕方がないであろう。

もっともらしい近代的管理手法や制度と称するものほど、不要なものが多く含まれている公算が多いことを心得ておくべきであろう。

不要な活動の削減は、間接人員の削減に通ずる。わが国の企業は、なんといっても間接人員が多すぎる。

これが、アメリカからきたマネジメントの手法を導入したことによる場合が多いのだから、何のためのマネジメントなのかわからない。

いりもしない制度や統制を、もっともらしい理由をつけて導入し、導入しすぎて間接人員が多すぎてしまったから、それを削るのに、こんどは「職務分析をやれ」というのだ。

まったくあきれかえった話である。

職務分析をやっても、九〇%まで間接人員の削減は失敗するのだ。職務分析をやっても、人員を節減できるというデータはまず出てこない。

本人が自分の仕事を調査表に書くかぎり、自分に都合のよい書き方をするにきまっている。

つまり、勤務時間いっぱいに仕事がある、という書き方をするのだ。調査の専門屋さんは、まず第一に、ここで人間の心理を知らずに誤りをおかす。

つぎに、それを分析し、改善して少数の人間ですませる計画をたてれば、当事者から猛反対を食うにきまっている。

それを黙ってのむことは、いままで非能率な仕事のやり方をしていて、余分な人間をかかえこんでいた、ということを自分で認めたことになるからだ。

これが人間の心理として当然なことなのだ。このへんのところになると、能率屋も考えなければ、人間関係論者もふれていない。まったくの空白地帯になっているのだ。

これだけでなく、人間の心理を無視した空白地帯が、現在のマネジメント論の中には、随所にみられるのだ。そして、それがいろいろな混乱をひき起こしているのだ。

間違いだらけ、欠陥だらけ、空白、矛盾、そのようなものに満ちているマネジメント論を、われわれは無批判に信用しすぎる。

そして、うまくいかないのは、当事者や上司に理解がない、というのだから困ったものである(拙著『マネジメントへの挑戦』はこれをついているのだ)。

マネジメントの理論は、その本質は経験の理論なのだ。すぐれた結果を生んだ理論のみが正しいのであって、学問の体系なんかどうでもよいのだ。

ましてや、現在のマネジメントの理論の大勢を占める観念論では絶対にないのである。

いまや、伝統的なマネジメント論は、変転する客観情勢に対処してゆかなければならない企業体にとって、むしろ、じゃまになってきた。

全面的に再検討というよりは、すて去る時期にきているのだ。そして、真に経営のためになる、新しいマネジメントの理論を築きあげるものは、実践家以外にはないのだ。

幸いなことに、そのすぐれた理論が、実践家によって着々と築かれつつあるのは心強いことである。

話を本題にもどそう。……間接人員の削減の目標は、人件費の目標からきまるのであって、職能の分析からきめるのではないのだ(第4章で詳述)。

きびしい現実は、相当なムリを要求する。ムリでもなんでも、それでやらなければならないのだ。

ムリな目標人員で、必要な仕事をするにはどうしたらいいかについて、考え抜き、やり抜かなければならないのだ。当然のこととして、「やめてしまう活動」が出てくる。

これが経費削減のところで述べたことなのである。

トップまたは幹部は、これを部下にやらせるときに、「これはもともとムリなのだ。しかし、ムリであろうとなかろうと、これをやらなければ生き残れないのだ。そして、君ならばこれができると思っている」という説得をするのだ。

上司がムリだと自ら認めているのだから、下のものはムリだとはいえない。

そして、それをやりとげることは理屈ではないのだし、ムリをやりとげたら、それは当人の努力の賜ということになるのである。

これが人使いのコツの一つなのだ。

そして、これはたくさんの実績に裏づけられている説得法なのである。

筆者は自分のコンサルティングの場合には、「もしも、その人数でできなければ、私のところへ申し出てもらいたい。どうしたらできるかを、いっしょに考えましょう」ということにしている。

その結果は、私のところへ申し出る人はほとんどいないのである。

生産性の目標を設定し、測定するときに、細分していろいろな尺度を使うほうが便利である。

その主なものをあげると、・総資本生産性=付加価値÷総資本・有形固定資産生産性=付加価値÷有形固定資産(建物、装置、設備などに分けられる)・労働生産性=付加価値÷人員または労働時間(全員、直接員、間接員などに分けられる)・賃金生産性=付加価値÷賃金(全員、直接員、間接員などに分けられる)というところであろうか。

もしも、右記以外の生産性を測定したい場合には、測定したいものを分母にすればよい。

右記のうち、有形固定資産については問題がある。有形固定資産には減価償却がある。そのためにいろいろの説が出てくる。

簿価にするのか、取得価格にするのか、それとも時価が正しいのか、ということである。これを論議していると際限がない。

そこで生産性という面から考えて、取得原価をあてるのが比較的無難であろう。固定資産の利用価値は、減価償却額ほどは減少しないし、時価の算定はなかなかむずかしいからである。

むろん、取得原価にも欠陥がある。一〇年前の一万円と現在の一万円では、実質価値が違うからである。だから、あまり古いものについてはやはり矛盾が出てくるからである。

有形固定資産は、その総額だけでなく、設備額を入れれば設備生産性の測定ができる。労働生産性や賃金生産性についても、直接員や間接員に分けて測定すると、いろいろな情報が得られる。

たとえば、労働生産性について、直接員と間接員を分けてみると、直接員の生産性は上昇しているけれども、間接員の生産性は落ちている、という現象をよく見かけるのである。

いろいろな管理手法を導入しても、それが生産性上昇にあまり貢献しないと、こういう現象が起こるわけである。

いわゆる管理過剰症である。管理は密度を高めればそれでよい、というものではない。

少なくとも従業員一人当りの生産性を、賃金上昇の半分くらいはまかなえるのでなければ、管理などはやらないほうがよいのだ。

さらにそのうえに、間接員の生産性自体が上がるのが本当なのである。

そこで、これらの生産性は、たんなる絶対値だけの分析だけでなく、三年間くらい行ってそれを指数化し、傾向をみることが必要なのだ。

絶対値は、他社との優劣比較はできても、たんにそれだけである。大切なことは、それがどのような傾向にあるかということであるはずである。

絶対値は悪くとも、それが上昇傾向にあれば心配はないし、絶対値は良くとも、下降傾向ならば危険なのである。

最近の企業の生産性を、前掲の四つについて分析してみると、労働生産性のみ上昇して、総資本、有形固定資産、賃金の三つの生産性は下がっているという場合が多いことに気がつく。

これは、主として設備投資によって労働生産性が上昇しているということであり、それにもかかわらず、賃金の上昇を吸収するだけの生産性上昇は実現していないということである。

これは、おそろしいことである。賃金生産性が下降してゆく傾向を食いとめなければ、それは倒産に通ずるからである。

労働生産性のうち、最もよく使われるのは賃率(chargerate)である。

賃率とは、直接工があげる単位時間当りの付加価値である。賃率は、つぎの三つについて考える必要がある。

  • ・損益分岐賃率=単位期間に必要とする内部費用÷分子の期間の直接工の実際総工数
  • ・必要賃率=(単位期間に必要とする内部費用+必要利益)÷分子の期間の実際総工数
  • ・実際賃率=特定期間(または特定製品)に上げた付加価値÷分子の付加価値を上げるために投入された工数

右の算式について、若干気をつけなければならない点をあげよう。

まず、たんに「賃率」というだけでは、三つの賃率のうちのどれを意味しているのかわからない。

他人、特に他社の人びとと話をする場合には、「どの賃率なのか」をあらかじめ確かめてから話を進めないと混乱する。

さらに、内部費用の定義づけについても、具体的に費目をあげて確認をする必要がある。

分母の投入工数についても、生産性測定の場合は、無操業、無稼働時間を含む、つまり賃金支払いの対象となる時間とし、工賃見積りの場合は稼働時間のみとしたほうがよい。

これは稼働時間を稼働率で割って工数を出すという二段計算にするという意味である。

賃率は、従来は主として工賃見積りに使用されている。

そして、いろいろな混乱を起こしているのである(拙著『マネジメントへの挑戦』参照されたし)。

しかし、本当の使い方は、前向きに生産性の目標を設定し、あるいは測定して、付加価値増大のための道具として使うことなのである。

これには、製品別、部門別、そして間接部門の生産性についての分析を行うのがよい。まず、製品別の生産性分析である。

これは〈表1〉のような形にまとめるのがよいだろう。この分析表から、われわれは製品混成の目標を設定するための情報を得ることができるのである。

まず、付加価値の絶対額とその順位をみて、企業への貢献の度合いを知ることができる。さらに、その貢献の効率を知るために、

一必要賃率以上をあげている健康製品

二損益分岐賃率以上だが、必要賃率に満たない貧血製品

三損益分岐賃率以下の出血製品

に分けてみるのである。

そして、付加価値の絶対額とその伸び率、賃率とにらみ合わせて、捨ててゆく製品を考えるのである。とはいえ、この問題の考え方を間違うとたいへんである。

出血製品を切り捨てるだけでは、かえってマイナスになる。それに代わる製品とのかね合いで判定しなければならないのである。

基本的な考え方としては、「会社全体でどうなるか」ということである。

つまり、どのような収益の増減と費用の増減があるか、という「増分計算」をしなければわからないということである(くわしくは、拙著『あなたの会社は原価計算で損をする』参照されたし)。

つぎに部門別の生産性分析である。

〈表2〉がその一例である。これは絶対額でみるのではなくて、傾向でみるのが本当である。というのは、製品の生産性のよしあしは、受注価格できまってしまうのであって、部門の長の責任ではない。

それを、絶対額でみると、はじめから収益性のよい製品を割り当てられた部門は、成績がよいような評価を受け、割りの悪い製品を受け持っている部門は、いくら努力してもそれを認めてもらうことはできないであろう。

傾向評価とし、指数化してしまえば、合理化の結果をそのまま反映することになるから誤りない判定ができるのである。

この場合に、「前月比」というのはよくない。基準が毎月違うからである。必ず、ある時点を一〇〇とし、一期間はそれを基準とすべきである。

工程が横割りになっている場合は、製品の単位当り付加価値を、各部門の工数比(設備を加味してもよい)によって、その部門の単位当り付加価値を算出しておけばよい。

その割りふりには、あまり神経を使う必要はない。傾向評価をするかぎり、割りふりの誤りは消えてしまうからである。最後に間接部門の生産性の分析である。

これは〈表3〉のようなものをいう。

間接部門は、もともと付加価値獲得のための、現業部門へのサービスであるから、この算式が成立する。

会社の付加価値がふえないのに、間接部門の人員がふえれば、たちまちその部門の生産性が下がる仕組みになっているところに、注目していただきたい。

たとえどのような理由があろうと、この生産性が目だって下がるような増員は疑問であろう。部門生産性の測定は、なかなか重要な問題であり、そのうえ業績評価とも関連がある。そこで、第6章でもう一度この問題にふれることにする。

3・5収益性

利益という言葉ほど、たくさんの論議をよんでいる言葉はない。

それを、ここであれこれいうつもりもないが、ただ、利益は企業経営にとって、どのようなはたらき(機能)をもっているものであるか、ということをここで確認したい。

というのは、この分野はあまり論じられていないからではなく、正しい考え方が意外なほど理解されていないからである。

利益の機能についてドラッカーは、つぎのように述べている。

利益は三つの機能をもっている。

第一の機能は、経営努力の有効性と健全性との測定である。つまりそれは、経営の良否を最終的に判定する役目を担っている。

第二に、利益は、事業の存続に必要な諸経費──設備の更新費、市場における危険と不測の事態に対する準備金等──をカバーする資金という機能をもっている。

この観点に立つと「利益」なるものは存在しない。あるものは「事業維持費」ないしは「事業継続費」とか呼ばれるものだけである。

事業の役割は適当な利益をあげて、このいわゆる「事業維持費」または「継続費」を生み出すことである。この役割は決して生易しいものではなく、また、どの会社もこの役割を充分に果しているとはいえない。

最後に利益は、事業の革新および拡大に必要な資本の調達を確実にする機能を有している。

それは、直接的には、社内留保を増大することによって自己金融の道を開き、間接的には、外部資本が事業目標の達成に最も適した形態で流入する誘因をつくり出す。(『現代の経営』自由国民社)

利益の機能のうち、第一と第三については、人びとの理解を得ることができる。

問題は第二の「事業継続費」という考え方である。これについて若干の補足説明をしよう。

企業というものは、事業を継続してゆくためには、常にいろいろな危険にさらされている。

まず第一にあげられるのは、老朽した設備を更新する費用である。

これをやらなければ事業を継続できないのであるから、その本質は最も基本的な事業継続費であることは、だれの目にも明らかである。

しかし、税法上では、あくまでも利益に計上されるのである。

たとえその取得金額については減価償却として損金で落とすことはできても、それでは取替え費用をまかなうことはできない。

常に新たな資金を必要とするのである。そして取替えは、設備だけでなく、人的資源のスクラップ・アンド・ビルドにもまた、費用がかかるのである。

つぎは、旧式化の危険である。旧式な設備や技術では、他社にたち打ちできないことは、わかりきっている。

しかし、この旧式化は、予測がむずかしいところに危険がひそんでいる。しかし、それが予測がむずかしいために、それに対する準備金もほとんど用意されていないのである。

旧式化の好例が、小野田セメントの「改良焼成法」である。

画期的といわれた改良焼成炉も、それが完成したつぎの瞬間に、さらにコスト安の新技術が開発され、一挙に「旧式化」してしまったのである。

完成したばかりの設備を廃棄することは、大損害である。不利と知りつつ「新しい設備による旧式の製法」による操業を続けなければならなかったのである。

あなたの会社の設備も、いつ新鋭機や新技術の開発によって一挙に旧式化するかわからないのである。あるいは、知らない間にジリジリと旧式化しているかもしれないのだ。

このような危険に対処するためには、利益という準備金を必要とするのである。

そのつぎには、製品またはサービスが、いつ斜陽化し、陳腐化してしまうかを予測することができないために起こる危険である。

これは市場の変化によって起こるものである。

そのようなときに、売上低下による収益低下に耐え、巻き返しのための諸活動も、利益が蓄積されておればの話であって、もしも利益の蓄積がなければ、たちまちに破綻してしまうであろう。

そのつぎは、将来のことを正確に予測することができない危険である。

その主なものは、現在開発中の新製品や、計画中の新事業が、いつ成功するかわからないためであり、それが予測する収益をあげないかもしれないのである。

しかも、この不確実性は将来ますます増大してゆくのである。以上は自分の企業自体の危険である。

ところが、企業体の危険はそれだけではなく、他の企業の危険までも負担しなければならないことがある。売掛金がこげついたり、約手のサイトを延ばされたりする。

その最大のものは、得意先の倒産である。その他材料相場の高騰もあれば、不況による金利上昇もある。まさに内外のもろもろの危険の中で、企業は生きてゆかなければならないのだ。

それらの危険に対処したり、耐え抜いたりするものは、会計上は利益として計上される「事業継続費」なのだ。もしも、利益がなければ、なんらかの変動による危険によって、倒産するかもしれないのである。

このように考えてくると、利益とは「もうけ」ではなくて、不測の危険にそなえるための「貯金」であり「保険」なのである。個人の貯金や保険も、できるだけたくさんがいいにきまっている。

しかし現実の問題として、まず考えるのは、「少なくともこれだけの貯金は」ということである。利益についても、まったく同じことがいえる。

できるだけ大きな利益より先に、「最小限度これだけは」という、最小限利益をまず考えなければならないのである。収益性の目標は、「あげ得る最大の利益」ではなくて、「なんとしても生みださなければならない最小限の利益」なのである。

それでは、必要最小限の利益はいくらなのか、ということはたやすく計算ででるものではない。個人の必要最小限の貯金はいくらかを簡単にきめられないのと同じである。

それでも、個人の場合でも不測の事態にそなえて、「収入の一割を貯金する」というような目標をきめるのと同様に、企業の場合にも、ある基準によって、目標利益をきめるのである。

利益目標をきめる最も簡単な方法は、投下資本に対する利子率をもってくる方法である。

松下電器の関連会社は、「二割配当できない会社は一人前ではない」という思想が、その配当を可能にする利益ということになるかもしれない。

二割配当というのは、一割は利子負担分、一割は投資報酬だという考え方である。

別の計算法として、配当、役員賞与、内部留保金のそれぞれの目標金額を出し、それを合計して税引利益を出し、それを税率で割って税込利益を出す、という積算法である。

いろいろな計算法はそれとして、ズバリとわかりやすい目標のきめ方があれば便利なのだが、と思われるかたに、簡単な方法をご紹介することとしよう。

それは、従業員一人当り年間税込利益目標としてメーカー商社最低限二〇万円三〇万円普通三〇万円五〇万円優秀四〇万円以上七〇万円というようにきめればよい。

前にあげた三つの計算法でやっても、ほぼこのくらいになるのである。

とにかく、非常に簡単な方法なので、実用にはきわめて便利なのである。商社がメーカーより高額なのは、それだけ危険率が高いからである。

利益は、何年にもわたって継続的にあげなければならないのだ。目前の利益にのみ心をうばわれて、将来に対する配慮を忘れたらなんにもならない。

未来事業を犠牲にして、当期利益をあげることはできる。

しかし、こうしたやり方は企業の将来を危くする。

継続的に利益をあげ、企業を存続させるための未来事業費は、税法上は経費で落ちる「事業継続費」である。利益目標や実績を公表することをきらう経営者が、まだまだかなりいる。

これを公表すると、賃上げ要求が高くなるというのだ。そんなことをおそれていたら経営はできない。そんな経営者は、必ずといっていいくらい、他社より低い賃金しか払っていないのだ。

積極的に収益源である付加価値増大の手は打たずに、賃金を低くおさえて収益をあげようとする考え方自体、もう古すぎる。

他社なみ、あるいはそれ以上の賃金を払って、なおかつ高収益をあげるための目標を設定し、方針をきめ、これを全社に公表し、ガラス張り経理で実績を知らせ、全社一丸となって企業の存続をはかる時代である。

というよりは、こうしなければ存続がむずかしい時代になっているのである。こうすれば、従業員も必ず協力する。

会社の利益が多いことは、これを知った従業員は、喜び、安心こそすれ、これによって、ムチャな賃上げ要求などはしないものであることについて、筆者はいくつもの実証をもっている。

枝葉末節の労務管理や、ご機げんとりの福利厚生施設など何もせず、定着率一〇〇%、出勤率九九%という会社を筆者は知っている。

社宅も寮もなく、購買組合もなければ社員の旅行もない、給食さえもやっていないのだ。この会社は常に一〇年先を想定し、明確な目標のもとに、積極的な革新を行っている。

もちろん、労務管理の基本として、賞与を含めた給与は、同地域のトップを目標として設定し実現している。そして、二〇年間、常に二割配当を続けているという超優良会社である。

この会社は、いまだに「求人難」という言葉を知らない。そして、この会社の労務管理上の悩みは、やめてもらいたい従業員さえもやめない、というゼイタクきわまるものなのである。

3・6物的資源と財源

物的資源には、原材料などの生産資源と、建物・設備などの物的施設がある。

生産資源については、それが企業の死命を制するし、特殊な情況におかれている企業は、慎重な、あるいは独自の対策をたてている。

林業会社やパルプ会社のように、五〇年を一サイクルとしての長期計画もあれば、地下資源の開発に社運がかかっている企業もある。

アラビア石油などはこの典型である。

大豆、綿花、ゴムなどの国際商品は、ニューヨークや、シカゴや、シンガポールの商品取引所で相場を張りながら、原料手当をしている。

それらの、むしろ特殊ともいえる会社以外は、原材料の確保について、あまり重要視していない会社が多い。

しかし、ある中堅紡績会社の社長が豪州の気象とニラメッコしながら、水ぎわだった羊毛の買いつけをしている、というような実例を見せつけられると、原材料について明確な政策をもつ必要性を強調せざるをえないのだ。

同程度のゴム会社で、一方は商社から原料を買入れ、他方は自ら相場を張って、原料面でも収益をあげているという例もある。

相場だけではない。

技術革新による原料革命は、新原材料をつぎつぎと生み出し、しかも、わずかの期間に急ピッチの値下がりをするものも珍しくない。

この面への注視も怠れないし、特約か競争見積りかも考慮する必要がある。

中小企業で、商社の口車にのせられて、材料を「ひもつき」にしようとしているのを、筆者が危くやめさせたこともある。

「利はもとにあり」という平凡な真理も、現実は実にさまざまなあらわれ方をするのである。買入部品もまた物的資源である。

その供給源についての明確な方針をたてている会社もまた少ない。系列化とか育成とかいっても、たぶんに、ご都合主義的なところがある。

利用するだけ利用して、というよりは、絞り取るだけ絞り取って、あとはボロ切れでも捨てるように、捨ててかえりみない会社には義憤を感ずる。

もっとも、捨てられる会社もあまりほめられることではないのだが……。目先だけの利用や、浪花節的忠誠心を要求するのではなくて、明確な育成方針を打ち出すべきである。

それが結局は自社に利益をもたらすことになるのだ。とはいっても、これはきわめてむずかしいことだ。これには、系列下の企業の経営指導が必要である。

だが、経営指導などできる人間は、めったにいないからである。それだからこそ、筆者はなおのこと、なんとかならないか、と思うのである。

そして、「松下連邦経営」という生きたお手本があるのだ。物的施設は、大きな資金を長期間固定してしまうだけに、物的資源とは別の意味で非常に重要である。

かつて、「優等生の落第」だといわれた、あるバルブメーカーの倒産は、不況期に工場用地を買って、運転資金を固定化させてしまったのが、倒産の直接の原因だといわれている。

山陽特殊製鋼の、あのムチャクチャな設備投資に、企業を破綻に追いやる経営者の経営態度があらわれている。(*1)

好況に気が大きくなり、身分不相応な拡張や設備投資を計画し、それが完成したときには不況になっていて、稼動しないばかりか、建設費の支払いにも窮する。

このような例は多い。

「設備投資は不況時に行え」というのは、一理も二理もあるのだ。

ある会社で厚生寮の計画をしていた。その会社はここ数年、業績は低下し続け、赤字の一歩手前なのだ。

厚生寮どころの話ではないはずである。

理由をきいてみると、「無利子の金が借りられるから」というのだ。

どうもわが国の経営者は、貸してくれるものはなんでも借りなければ損だと思いこんでいる人が多すぎる。

そこで、借りる金は無利子でも、それだけですむはずがない。

それが収益を生む投資であれば話は違うが、厚生寮では収益は生まない。いや逆に維持費がかかってゆくのだ。

無利子といっても、返済するときは利子のついている金で返済をするのだ、やめたほうがよい。

いま、あなたの会社では厚生寮をつくることよりも、業績を回復して、一日も早く世間なみの賃金とボーナスを従業員に出すことのほうが先なのだ、と説得してやめさせたことがある。

また、これも業績不振のある会社である。

ある年から、固定資産の生産性がガタ落ちしたので、その原因を調べてみたら、デラックスな海の家を買い、社宅をたくさん建てている。

海の家は、ライバル会社がそうしたので、それに対抗するためだという。妙な対抗意識もあるものだ。そのうえ、さらに本社ビルの新築を計画しているというのだ。

経営者は何を考えているのかサッパリわからない。

「本社ビルを建てると会社はつぶれる」という、パーキンソンの法則(*2)は、この会社にりっぱに生きていたのだ。

つぎに登場する、これも業績のあまりよくない会社の、新設工場を見学したときのことである。りっぱな食堂ができていて、将来工場がフル稼動したときの人員を全部一度に収容できるというのだ。

それまでは半分遊んでいるわけであり、逆に維持費はかかるのである。いささかムダである。だいいち、なぜ従業員を一度に全部収容しなければならないのか。

筆者は、生産や研究には、惜しげもなく金を投じながら、食堂のような収益を生まない施設は最小限度にとどめて、時差利用をしている優良会社を知っている。

ずいぶん経営者の考え方が違うものである。

もう一つ。

やはり業績の悪い三〇〇人たらずの小企業である。

社長は車で五分くらいの通勤用に外車を使い、電話の交換機を入れて専属の交換手を二名おき、守衛所を建て、りっぱな広接間を二つもつくり、ロッカー室と厚生寮をいま計画中だというのだ。

工場や生産設備に関する計画をきいたら、何もないという。「どこかがくるっている」としかいいようがない。

せめて昼間だけでも、二人いる交換手が受付をかねて、守衛は夜間だけとし、ほとんどお客用には使わない社長の乗用車は、国産の中型車にできないものかと、ため息をついたのである。

それにつけても、りっぱなのは松下電器である。

設備投資のタイミングのよさは、販売のうまさからきているから、ここでは論じないことにして、設備投資の規模である。

……岩戸景気とさわがれた昭和三四~三六年のころ、同業者は、時流にのって、大規模な工場を建設した。東芝など、このときにつくった重電機工場の負担が、その後の悲劇を生んだという。

そして、ようやくフル操業が可能になったときには、もはや最新鋭ではなくなっていたのである。

このころ松下は、フル操業を前提にしないと、事業部は投下資本に対する利益率が悪化するので、従業員三百人から五百人の小工場を分散して建設した。

結果的には、これが従業員の現地採用度をたかめ、寮、社宅などの福利厚生設備を少なくし、その建設費、維持費の分だけ賃金の支払能力を増したのである。

労働力不足時代を先見したようなかたちになったわけだ(『松下イズム』清水一行著)。

常に「設備のフル操業をねらう」という方針は、それ自体だけでなく、連鎖的に好結果をもたらしているのだ。

世の中なんてこんなものである。何かよいと好循環を起こし、何かがわるいと悪循環が始まるのである。

松下電器は設備のフル操業だけをねらっているのではない。設備そのものにも、きわめてきびしい態度でのぞんでいるのである。

それを、九州松下電器の佐賀工場の建設にみよう。

九松は、昭和三九年に乾電池工場の新設を決定した。

その際、高橋(筆者注──松下電器副社長・九松社長)が青沼(筆者注──九松専務)に指示した基本事項は──▼画期的な輸出専門工場、国内生産はやらない。

▼きびしい国際競争に勝つため、製造コスト、金利コスト、品質とくに管理コストを徹底的に追究する。

▼そのかわり、場所も青沼のかって、スケールも自由。──ただしはじめからいっておくが、〝建設もコスト〟だよ。

建設勘定は、バランスシートのうえでは資産になるが、すべてコストにかかってくる。それゆえ建築も生産設備と考え、当事者がみずからやれ!と命じられた。

予算総額は、概算一億五、〇〇〇万円だったが、高橋は松下会長に「徹底的にキビしい建設をやらせてみたい。

もしかすると切り詰めすぎて失敗するかもしれないが、そのときは九松の経営者を育成する授業料として、認めてやってほしい」と所信をのべ、了承を得た。

青沼は、敷地を佐賀に選定、秘密裡に買収交渉を進めながら工場建築を業者に見積もらせた。

相当切り詰めた見積書だったが、高橋は承知しなかった。市価の半値で建てろ!という。

これだったらだれでもできる。できないことをやるのがほんとうの仕事だ」と譲らない。

青沼は、工場長候補の平井と若い技術者の山田を呼び、図面と仕様書の自作を命じた。構造はアーチ式、部材はH型鋼、壁体はブロック、窓は熱線吸収ガラス、屋根はカラー鉄板にした。

普通の亜鉛引鉄板だと一年にいっぺんの塗替えが必要だが、メラミン焼付けのカラー鉄板ならイニシァルコストは張るが、一〇年保証付である。

使用材料はすべて自社購入、材料支給で請け負わせ、ついに市価の半額の建築に成功した。

高橋佐賀工場の場合「建設から製造コストだ」という考えに立つと、まず建設費のコスト切下げに成功しなければならない。

同じ乾電池をつくっている久留米工場は償却が進んでいるから、帳簿価格はもうわずかです。こちらは、当面単三乾電池、三〇〇万個の計画……建設費は一億五、〇〇〇万円が限度。

そうすると、通常の建築と考えておったらとても……。そのかわり、会長・社長の決裁で本社の施設に関する規定は、全部取りはずした。

ただし、四国の寿電工の稲井社長にはよく教えてもらうように……。それだけが私の具体的な要求でした。

問半額で建つという見通しはありましたか?高橋名古屋でもう三〇年以上も使っている工場ですが、わたしは坪二三円で建てた。

バラックでも三五円かかった時代です。真中にコンベアを二本通すため柱が立てられない。勢い梁が太くなる。それを板材とボルトで解決した。

わたしがやったとおりいまやれるかどうかわからないが、これだけしか金がかけられないということになれば、そこに新しい創意が生れてくる。

……結局、途中で二、〇〇〇万円だけ認めてくれという。

当初、鉄サッシュの予定だったが、補修費を考えるとアルミサッシュのほうがはるかに原価的に有利だという結論になったらしい。

「それなら結構だ」と──。最終的には期待どおりでした。

青沼は建設過程で一回だけ高橋にしかられている。グリーン・ベルトの幅を一・五メートルにしたときである。高橋はメジャーで実測し「一・ニメートルでいいのと違うか」といった。

これで青沼は二時間しぼられた。高橋佐賀工場の前庭には芝生の大きなのがある。しかし、あそこは後で工場を建てるから、いずれなくなる。

ところがグリーン・ベルトは永久に維持費がかかるから、建設費だけではすまない。これもコストの一部です。(『松下連邦経営』石山四郎著より)

なんと徹底したコスト感覚であろうか、なんときびしい経営態度ではないか。

「できないことをやるのがほんとうの仕事だ」とはまさに名言中の名言ではないか。

できないことをやれと要求するほうも偉ければ、それをやりとげたほうもりっぱである。「不況を知らぬ企業」の秘密の一端がここにあるのだ。

なお一言付言しておけば、その工場にはホワイト・カラーが五人しかいない。

工場長と経理一名、資材一名、女子二名である。従業員は一二〇名だが、将来五〇〇人になっても絶対増員しない方針だということである。

あなたの会社で、営業と設計部門を除いたホワイト・カラーが何人いるかをみて、考えていただきたい。もっともらしい、そしていらない仕事をどれだけしているか。思い半ばにすぎよう。そして、やればここまでできるのだ。

設備についても、ハッキリとした、しかも効果的な計画をもっているところは意外に少ない。

あまり能率的でない汎用機や、稼動率の低い高価な自動機や専用機の購入計画はあっても、わずかな投資で大きな効果を期待できる補助作業機や、治工具、アタッチメントなどにはほとんど予算がとってなかったりする。

一台の予備機械があれば、順番に計画的なオーバー・ホールができるのに、それをやらずに精度の落ちた機械で、苦労して低品質品をつくっている会社があった。

筆者の強引な勧告で、予備機を買って計画的オーバー・ホールをやった結果、製品の精度がまったく違ってしまったという例もある。

いくら設備が生産性向上の武器だからといって、修理工場や個別生産工場で、やたらと高価な機械を入れてみても、稼動率が低ければ必ずしも有利だとはかぎらない。外注したほうが安上がりの場合も多いのだ。

多量生産工場では、また別の危険が待ち受けている。

不用意に自動化、専用化をすすめたりすると、それが高度であればあるほど、いったん製品が変わってしまったときには融通がきかず、極端な場合にはスクラップ同然になってしまう。

ある会社で、大きな塗装プラントを設置したが、製品の総数は多量になったが、市場の要求によって、塗色が多様化し、かえって非能率になってしまったという例がある。

このような危険は、市場の変貌によって、これからますます高まっているのだ。生産性をあげようとすれば、変化に対する弾力性が下がり、弾力性をもたせようとすれば、生産性が上がりにくい。

あちら立てればこちらが立たず、むずかしい世の中になってきたものである。とにかく、設備の問題はむずかしくなる一方である。

なおのこと、明確な方針と、それに基づく計画がどうしても必要なのである。企業経営に必要な資本の調達計画の重要性は、いまさらいうまでもない。

それにもかかわらず、この問題も意外なほど関心がうすいのは、なぜだろうか。

とにかく、わが国の場合には「借金政策」が非常に多い。これはもともと資本力のない企業が多いからであり、それでもやれるような金融政策や行政指導があるからでもある。

そのうえ、配当は税引利益の中から支払わなければならないのに、借金の利子は経費で落とせるという税法がある。

インフレも借金有利説の味方だ。

このような条件がそろえば、短期的には借金のほうが有利なので、あまり深く考えずに借金に走る。自己資本充実など、どうでもよいようになる。

これが資本力の弱少の原因になるという堂々めぐりをしているのである。これではいつまでたっても不況抵抗力はつかず、一年の大半を金融機関のために働くことになるのである。

ほとんど大部分の会社では、材料費、外注費、人件費のつぎに大きな金額になるのが金利なのをみても、これがうなずけると思う。

借金といっても、おのずから限度があり、資本金にも最低の基準をもつべきである。

借金については、利子割引料率が付加価値の五%以内を目標にすべきであろう。

簡単な指標としては、売上高に対してメーカー三%、下請加工業二%、商社一%ということになると思う。

それ以上の金利負担は、銀行のために仕事をしていると思えばよいのだ。

だから、よほどの目算がないかぎり、限度以上の借金をするのは危険である。

何よりも企業体質の強化をこそ先にする必要があるのだ。資本金については、一応のメドとして、月商額と同額の資本金ということであろう。

大日本インキは、「月商額が資本金に追いつくと増資する」という方針をとっている。明快で、だれにもよくわかる方針である。

われわれは、もっと自己資本充実と真剣に取り組む必要がありそうだ。そのためには、まず、その方針をハッキリと打ちたてることであろう。

そして、それは心構え次第でできるもので、比較的たやすい方法がある。

それは、「税金として社外に流出する資金」を合法的に資本にふりかえる方法をみつけ出すことである。

つまり、節税である。やり方によって、これはバカにならない額になるのである。筆者の知っているある会社の実績が、このことを実証しているのである。

3・7その他の領域

その他の領域、つまり「経営担当者の能力および育成」「労働者の能力および態度」「社会的責任」の三つは、ともに人間の問題であり、量的な尺度で測ることのできない領域であるといえよう。

まず、経営担当者の能力および育成である。

これは、現在の組織論の重要部分を占め、企業内訓練の中心をなしている。

ところが、それらは経営を知らず、企業の実態に暗い観念論者や心理学者によって、職能中心、人間関係優先という、企業の要求とは別の方向に、人びとの態度と関心を向けてしまうという罪悪をおかしてしまったのである。

そこには、きびしい客観情勢の認識などはミジンもなく、次元の低い合理性ばかり追求し、変化に対応する革新力もバイタリティも失わせてしまうという、まったくの間違った方向に人びとを導こうとしているのだ。

いまやわれわれは、従来の考え方をまったく捨てて企業の真の要求に基づいて、経営担当者の育成をはからなければならないときにきているのだ。

それは、企業の目標達成に焦点を合わせ、革新と変化への対応を基本的態度とし、自己統制を通じて全社の力を一つに結集するものでなければならないのだ。

そしてそこには、すでに述べたところの精神革命を必要とするのである。

労働者の能力および態度は(経営担当者をも含めて)労働者によってきまるのではなく、経営者の人生観、使命感によってきまってしまうことは、数かぎりない実例が示すところである。

いかにキメの細かい労務管理をし、人間関係に気をくばり、福利厚生施設を完備しようと、経営者の人生観・使命感がおかしなものであるかぎり、労働者はけっして心から生産性向上につとめようとはしないであろう。

労働組合に対してもまったく同じことがいえる。

労働組合をいたずらにおそれたり、敬遠したりするのは、百害あって一利もない。経営者の態度によって、対組合関係はどうにでもなることは、これまた幾多の実例が教えるところである。

社会的責任については、あまりに広範すぎて、ここで論じてはいられない。ただ、いかなる企業も例外なく負わなければならない、基本的な社会的責任がある。

それは、まず、一定の利益をあげて企業を運営し、存続させてゆくことであり、つぎに、事業を発展させてゆくことである。

企業の任務は社会の富をつくりだすことであるから、活動にともなう危険を補う利益をあげることによって、企業を維持しなければならない。

また、富を生み出す能力を高めることによって、社会の富を増大させなければならないのである。

3・8目標は必ず明文化すべし

第一話……「目標を明文化する必要なんかありませんよ。私は機会あるごとに話してきかせていますから。みんなよく承知していますよ」という社長さんがあった。

そこで、社内の人びとに、社長の考えをきいてみると、「社長は何を考えているのかさっぱりわかりません。そのたびに、いろいろのことをいわれますが、さっぱり一貫性がありません」という答えであった。

これは、ある会社を調査したときの一コマ。

第二話……S社の重役は社長以下四人で、しかも実の兄弟である。

その会社で目標の明文化はできているかどうか質問したところ、そのうちの一人が、「そんな必要は、ぜんぜんありませんよ。われわれは一つ腹から生まれ、一つ釜のメシを食って大きくなった。いまもこうして、一つの会社で毎日顔を合わせている。ツーといえばカーですよ」という返事である。

それにはさからわずに、「皆様がたはいいとして、部長以下にはそうはいかないでしょう。誤りなく皆様がたの意図を伝えるために明文化しましょう」というと、もっともだ、ということになり、明文化することになった。

そこで、その「考え」なるものを、一人ずついってもらって、要点を黒板に書いていった。

すると、「おまえは、そんなことを考えていたのか」「いや、おれの考えは違う」ということになってしまった。

第三話……O社で、短期経営計画の樹立のお手伝いをしたときのことである。それが終わったときに、社長はつぎのような感想を筆者に語った。

「短期経営計画をたてる段階で、実にいろいろなことを学んだ。その中で最も思いがけないことは、社内の意志伝達が、トップ層の間でさえ、こんなにもできていなかったのか、ということの発見である。

営業部長が、あんなことを考えていようとは、私は思ってもみなかったし、専務は、私の意図をよく理解していない点がたくさんあることを発見した。

毎日顔を合わせていながらこれである。まったく意志伝達とはむずかしいものだ。会社の中が、私の意図どおり動いていないのはあたりまえなのだ。

それにしても、今度はトップ層の意志統一が本当にできた。これは本当によかった。

そしてまた、社内に私の考えを伝達し、徹底させることに自信がもてたような気がする」

口頭による意志伝達とは、このようにむずかしいのだ。

コミュニケーションの専門家や人間関係論者は、口を開きさえすれば、「上下の話合いをせよ」という。

しかし、話合ったから必ずうまくいくものではない。

口頭で話合うと、上司が何気なくいったことも、それが相手の関心事や得意な分野であると、それが上司の方針である、あるいは重視している、というような受け取り方をされる危険が常にある。

人間とはそのようなものなのである。これが、部下を誤った行動にかりたてることになる。

また、人間は何か難問に取り組んでいたり、悩み事があれば、上司のいうことを話合っているときはきいていても、話合いがすめば心の隅に押しやってしまうかもしれない。

人によって、重要な事柄についての見解も違えば、ウエイトづけも同じとはかぎらない。何よりも困ることは、上司の要求は驚くほど一貫性に欠けていることである。

あるときは強調しながら、あるときはあまり重要でないようなことをいう。

言葉というものは、その場だけで消えてしまうものだけに、何か事が起こったときに、いった、いわないの水かけ論になる。

だから、毎日いっているからとか、毎日会って話合っているといっても、なかなか誤りない意志伝達はできず、したがって意志統一ができないのである。

明文化をすると、そのときには当然のこととして、用語の定義づけをきめたり、解釈について論議されることになる。

目標が数量化されれば、具体的に意志が表現され、数字と数字との間の相関関係やバランスが検討されるだけでなく、それの達成を困難にする制限条件や障害が明らかにされる。

優先順位の決定によって、ウエイトづけや緩急の度合いが明確に示されることになる。

このようにして、いままで頭の中にあったことが具体的になり、整理されてゆく、この効果は、われわれが考えているよりも、はるかに大きいのだ。

われわれは、明文化の効果について、過小評価しすぎるという誤りをおかしているのである。

目標・方針は、会社の方向づけをするものであり、会社の中のすべての人びとの行動は、ここから出発し、ここに帰ってくるべきである。

全社の活動を基本的にきめてしまう目標・方針を明文化しないという法はない。

筆者は、明文化しないものは、目標でもなければ方針でもない、という考えをもっている。明文化によって、はじめてトップの意志が基本的に誤りなく社内に浸透する。

これこそ最も重要なコミュニケーションなのである。明文化なきコミュニケーションは、空回りや混乱をひき起こすだけなのである。

3・9目標には測定するモノサシが必要

あちらこちらの会社に行って、しばしばお目にかかるものに、「売上げ増大」「経費節約」「品質向上」というような、うたい文句がある。これらはスローガンであって、目標ではない。

たんに売上げ増大では、いくら増大したらいいか、だれにもわからない。経費節約というのは、経費をいくらに抑えたらいいか、だれも知らない。のん気なものである。

このような会社では、「その趣旨にそって努力します」としかいいようがない。これでは成果のほどは、あやしいものである。

このような会社では、測定のモノサシは、前年比、前年同月比というのを使っている。前年比はわかっても、それでいいか、わるいかはわからない。もっとひどいのは、前期比、前月比というモノサシである。

季節的変動があるかぎり、このようなモノサシは意味がないばかりか、事態の判定を誤らせるおそれがたぶんにあるのだ。

有価証券報告書が前期比をやっている。

前年比とか前期比という考え方は、会計学者の企業分析の世界で行われることであって、企業体のとるべき考え方ではないのだ。

企業体でこの考え方をとると、「なりゆき経営」になってしまうからなのだ。企業は、「なりゆき経営」ではなく、「目標による経営」でなければならないのである。

目標とは、「手に入れたい結果」である。したがって、それに向かって努力を重ねても、それを手に入れたかどうか、わからないのでは困る。

それをわからせるためには、それぞれの目標では、何が測定され、そのモノサシは何かということを、はっきりさせておかなければならないのだ。そして、これが業績の評価につながってゆくのだ。

たとえば、売上げ目標では、金額なのか、伸び率なのか、占拠率なのか、何を測定するのかを明らかにする必要があるのだ。

品質目標では、不良率なのか、不良金額なのかということである。

出勤率向上の目標として、九八%としたならば、これは有給休暇を含んだ計算か、含まない計算かをきめておかなければならないのだ。

モノサシとしては、絶対値、特に金額で示せるものは、これを使ったほうがよい。

たとえば売上げは、伸び率や占拠率から計算した売上げ金額を表示すれば、伸び率や占拠率は示さなくともさしつかえないであろう。

これの代表的なものが「予算」である。

しかし、予算に絶対額を示すのはよいとして、「予算差異」……つまり、予算と実績との差になると、絶対額だけではいかなくなる。

その点になると、予算統制の先生は、「予算ごとに差異の基準をあらかじめ設定することがのぞましい。

しかし、これは一応の基準であり、かつこれに対する弾力的解釈がなされなければならないのである」というような、無責任きわまることをおっしゃる。

そのくせ、それを追及すれば、ちゃんと逃げ道のあるいい回しを使っているのだから腹がたつ。

われわれが知りたいのは、先生がたのおっしゃるような抽象論ではなくて、「差異の基準を、どのようなものにきめたらいいか」であり、「そのモノサシには何がいいか」なのである。

それにはぜんぜん答えてくれないのが専門家なのだ。

実践家は、「ここにどのような橋をかけたらいいか」が知りたいのに、それを専門家に質問しても、将来の交通量の増大を見込む必要があるとか、地震や洪水に耐えられるものでなければならない、などという抽象的な答えしか得られないとしたら、実践家は失望するばかりである。

予算統制の理論ばかりでなく、経営学と称する管理論のほとんど大部分は、このような抽象論で埋めつくされているといってよい。

しょせん、それらのものは、「頭のよい素人がつくりあげた観念論」なのである。

理路は整然としており、論旨は間違っていないだろうけれども、実践家の切実な要求には、ほど遠いものといわなければならないのである。

多くの会社で、予算差異を絶対額でみている。

そのためにおかしなことになってゆく。

たとえば、「売上げ予算を約一〇〇万円上回った。はなはだ結構である。しかし、材料費は予算を五〇万円超過した」という見方をしているところが多い。

これは間違いである。

売上げに対する材料費率が五〇%であったとするならば、この例では、材料費は予算どおりなのである。

材料費は、売上げの増減に比例して増減する、いわゆる比例費(変動費)なのである。

だから、材料費は売上げに対する比率でみないと混乱をする。

「売上げ一〇%増加に対して、材料費は一二%増加している、二%超過である」という見方をしなければならないのである。

また、セールスマンの個人売上げになると、経営的には絶対額でみなければならないが、個人の業績評価には伸び率でみなければならないという使い分けが必要になってくる。

受持ち区域や得意先に条件の違いがあるのだから、こうしないと個人業績の評価にならないのだ。

そうかと思うと、売上げに対する人件費率をみるという、まったく間違いというわけではないけれども、不適切なモノサシを使う人もいる。

人件費というのは、付加価値に対してみるのが正しいのである。

このように測定の基準とそのモノサシは、正しいものでないと、いろいろな点で問題を起こすから、十分注意し、慎重にきめなければならない。

その一般的な基準は、

○売上げ……絶対額で(必要があれば伸び率や占拠率も併記する)。ただし、個々についての業績は、伸び率でみるほうが適切な場合がある。

○変動費……売上げに対する比率。

○付加価値…絶対額と売上げに対する比率。

○固定費……一カ月の絶対額でみる。

○生産性……付加価値に対する比率でみる。

このように、一つの目標について、測定のモノサシはいくつもあり、それぞれの目的に応じてこれを使い分けなければならない。

そして、それをやれるものは、あなたの会社については、あなたがたの努力にまつよりほかにないのである。

要は、事業の要請に合致した、わかりやすい基準であれば、どんなものでもよいのだ。

そして、それを前向きの姿勢で使いこなすことが大切なのである。

ここに、すぐれた実例がある。

松下電器の「BUシステム」(予算統制制度)である。

(*3)これを松下電子工業にみよう。

同社の予算統制の測定基準は「変動費レートと固定費額とは拘束性をもち、変動費額は確認のための合計にすぎない」というのだ。

わかりやすくいえば、「予算は事業活動を拘束しない。

しかし、予算のレートは事業活動をチェックする」ということである。

だから、予算を超過しても一向にさしつかえないのである。

いや、積極的に予算以上使いなさい、大切なことは費用と成果の比率である、というのだ。

二倍のインプットを費しても、二倍以上のアウトプットをあげれば、そのほうがよいというのだ。

「予算額は、その比率を算定するための数字であって、絶対額を示すものではない」という考え方なのである。

この考え方こそ、完全な生産性の考え方なのである。

すぐれた企業の、すぐれた考え方を、われわれはよく研究してみる必要があるのだ。

*1山陽特殊製鋼は1965年に会社更生法を申請し、倒産。

負債額の大きさ、粉飾決算の発覚、連鎖倒産の拡大などにより、社会問題に発展した。

その後、会社は再生を果たす。

*21957年にC・N・パーキンソンが発表した『パーキンソンの法則』では組織が肥大化する理由などを鋭く指摘した。

*3バゼット・システム(BUシステム)とは、もとはオランダのフィリップス社が取り入れていた経営管理手法。

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