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3章《いかにして「人望」を磨くか》人を動かすための、10の心得

「後進」を育て上げる「部下のため」が「自分のため」になる「過去に生きる人になるな」四十代の人に、そう強くいいたい。四十代は、五十代以降にさらに高いステージで生きていくための「準備のとき」というふうにとらえることができます。今日までにつくり上げてきた、いわゆる「過去の栄光」にしがみついていては、「過去に生きる人」になってしまいます。過去を捨てるためには、「後進を育てる」ことが必要条件になります。たとえば、能力が認められて、役員昇進の話が出たときに、もしいまの自分の〝後釜〟となる人材がいなかったら、どうなりますか?上はおそらく、「後進が育つまで、役員昇進は三年ほど見送るか」などと判断するでしょう。こういうケースは、現実によくあります。しかも、昇進を見送られた本人は、それが後進を育てることを怠った自分の責任だということに気づかないことが多いのです。その状態で三年も現職に留めおかれると、「俺はこんなに頑張っているのに、認めてもらえない」と悶々とします。なかには、腐り切って、つい悪魔の誘惑にかられて不祥事を起こしてしまうような人もいます。そうならないよう、いまより一つ上のポジション――課長なら部長、部長なら取締役、取締役なら社長といった具合に、その役職に就いたと仮定すること。そして、いまの仕事に取り組む一方で、次に自分のいまのポジションを担うのにふさわしい後進を育てておかなくてはいけません。さらに機会を見つけてはさり気なく、「彼はすぐにでも自分の後継者になれる」と上にアピールしておくといいでしょう。その意味では、部下の手柄を横取りしたり、自分の仕事を部下に取られまいと抱え込んだりするなど、とんでもないことです。逆に、自分の手柄でも部下のおかげとし、自分にいまある権限はどんどん部下に委譲していくくらいの度量がないと、結局は上に、「あいつのところは若手が育たない」と思われ、自分の評価を下げることになるのです。「功成り名遂げて身退くは天の道なり」これは『老子』にある有名な言葉です。この前段で、老子は、「器をいっぱいに満たし続けようとするのはよくない。刀をギリギリまで鋭く鍛えても、その状態を長く保てない。家に金銀財宝がたくさんあっても、守り切れない。財産と地位ができても、傲慢になって自分で破滅を招く」ということを例に挙げています。仕事も似たようなものでしょう。精いっぱいやり続けて成功を遂げても、その状態を高いレベルで維持していくのは至難の業。「のぼり詰めたら、あとは下がるしかない」状況になる場合がほとんどです。そこで「もっと、もっと」と望み続けたところで、同じ道における「過去の栄光」は戻ってきません。そうなると、五十代もしくは六十代以降の人生、仕事は、もう「出がらしのお茶」のようなもの。うまみがなくなってしまうでしょう。だから、一応の成功を見たら、そこを「成功の臨界点」と見極めて、さっさと身を退く。そのうえで、すぐに次の新しい挑戦課題を見つけるのがベストです。「退いたら、それで終わりじゃないか」と思う人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。古い例で恐縮ですが、松尾芭蕉が本格的に俳句の道に進んだのは三十六歳くらいのことです。それまでは四年ほど、神田上水の水道工事に携わっていたとも伝えられています。その収入の道を絶ち、家族さえも捨てて、俳句一本に絞った人生を再スタート。幕府御用の魚問屋を営む弟子の杉風の援助を得て、番小屋に芭蕉庵を結んだわけです。また、よく知られているところでは、伊能忠敬もそう。酒造業を営む家の家督を長男に譲り、江戸に出たのは五十歳のときのことです。そこから、日本全国を測量して地図を完成させるという偉業を成し遂げたのです。「人生五十年」の時代にあって、晩年ともいえる年齢で過去を捨て、自分が本当にやりたかったことを本格始動させたのですから、たいしたものです。そういう人は数え上げれば、たくさんいます。現代のビジネスパーソンも負けていられないではありませんか(もちろん、芭蕉のように家族を捨てるのは反対です)。「定年まで無難に勤め上げ、あとはのんびり年金暮らしをしよう」などとは考えないこと。忙しいいまはそんな生活にある種のあこがれを感じるかもしれませんが、そうなってごらんなさい。つまらないですよ。それに、「過去の栄光を捨てる」といっても、自分が経験してきたことや、積み上げてきた知識、親交を結んだ人たちなどのすべてがなくなるわけではありません。直接の関わりはなくとも、その後の人生に有形・無形に生きてきます。一度手放したからこそ、見えてくるものが必ずあるのです。

「言行一致」でゆく確かなことしか「いわない」「やらない」あなたには、「人望」があるでしょうか。三十代までは、実務能力があればある程度、頭角を現すことが可能です。しかし、四十代以降は、プラスマネジメント能力が問われてきます。部下たちから信頼される、人望のある存在でないと、成長が頭打ちになってしまうのです。「人として信無くんば、其の可なるを知らざるなり」『論語』にこうあるように、組織を動かすには、リーダーに人望のあることが第一条件です。ここで注目すべきは、孔子が、信頼のもとになるものは「言行一致」である、としていることです。たとえば、指示がころころ変わる上司を、あなたは信用できますか?自分の考えがないために、さらに上の人の意向に左右されたり、部下の反発に右往左往したりする。もしくは、上との意思疎通ができていないから、的外れな指示を出しては上に「違うだろ」と指摘されて、訂正せざるをえない。そんな上司では、部下としてはとてもついていく気持ちにはなれません。大事なのは、自分の考えをしっかり持っていて、それが上の意思と部下の心情をくんで形成されたものであることです。そうであれば、上からは「あいつは会社のことがわかっているから、任せておいて大丈夫」、下からは「現場のことがよくわかっている上司だから、安心してついていける」と信頼されるのです。また、「いうことは立派だが、行動がそれにともなっていない。パフォーマンスばかりで実がない」ようでは、やはり上からも下からも信頼されません。そんな底の浅い言動に終始していると、最初のうちは買いかぶられることがあったとしても、やがてメッキがはがれます。自分を大きく見せたいがために、虚言を弄したり、パフォーマンスに走ったりすることは、逆に自分は小物だと白状しているようなものなのです。同じく『論語』で、弟子の「どのようにして就職先を求めればよいか」という問いに対して、孔子が答えたこの言葉は信頼を得るのに重要なことを示唆しています。「多く聞きて疑わしきを闕き、慎みて其の餘を言えば、則ち尤寡し。多く見て殆きを闕き、慎みて其の餘を行えば、則ち悔寡し。言に尤寡く、行いに悔寡ければ、禄其の中に在り」訳してみましょう。「多くを見聞きし、学習したうえで、その中の確かなことだけをいいなさい。疑わしいことや危険なことをいわず、確かなことだけを慎重に実行すれば、人からとがめられることは少ないし、自分自身も後悔することが少ない。結果的に社会から信頼されて、就職の道も自然と開けるものだよ」孔子の言葉は職に就くことに関して述べたものですが、人望のあるリーダーとなるためにも重要なことです。たとえば、ちょっと聞きかじっただけのことを、真偽を確かめもせずに話す。聞かれたことに答えるだけの知識も経験もないのに、知ったかぶりをする。メディアが流す情報をなんでもかんでも鵜呑みにして、判断を誤る。そういったことは、背伸びをしたがる若者ならいざ知らず、四十歳を過ぎたベテランがしてはいけません。「軽口を叩く人だな」「情報に踊らされているばかりで、自分の頭で考えない人だな」「偉そうにしていても、ちょっと突っ込むと、うすっぺらいのがわかるな」といった誹りを免れず、人望のある人物とはほど遠い、リーダーの器のない人間にしかなれないのです。

「徳」を積む「運」を呼び込むための仕事のルール四十代は、二十代や三十代の部下を率いる立場ですから、いってみれば〝リトル帝王〟のようなものです。つまり、これから本物の〝ビッグ帝王〟になっていく、その途上にあります。その成否のカギを握るのは、前項でも述べたように「人望を得られるかどうか」。これに尽きます。これは、言い換えれば、どれだけ「徳」を積んだかにかかっています。「徳」とは、一言でいえば、「自己の最善を他者のために尽くし切る」ことです。自分のためになんの欲得もなく最善を尽くしてくれた人に対して、誰が悪い感情を抱くでしょうか?「ありがとう」と感謝こそすれ、反感を抱いたり、「イヤなヤツだ」と思ったりすることはけっしてありません。だから、孤立しないし、周囲の人たちが自然と寄り添ってくれる、人望のある人間になれるのです。『論語』にある、「徳孤ならず、必ず隣有り」という言葉は、まさにこのことを表しています。江戸時代の親たちが子どもに幼少期から中国古典を学ばせたのも、「徳」を身につけてほしい一心からです。「自分勝手な人間に育つと、嫌われ者になってしまう。人々から孤立し、自分が困ったときに誰からも手が差し伸べられないようでは、ろくな人生を歩めない」そう強く思っていたからこそ、中国古典を学ばせる一方で、口を酸っぱくして「徳だよ、徳が大事だよ」といって育てたのです。逆にいえば、江戸の親たちは「学校の成績がよくても、嫌われ者になったら人生は苦しい」という教育の本質を熟知していたということです。残念ながら、最近は「徳」に関する意識が希薄になってきました。「四十代は『徳』を積み上げることによって、人望を得る時代」と再認識していただきたいところです。ちなみに、私が三十五歳の頃にお会いした松下幸之助さんは、「経営者の条件はなんですか?」という質問に対して、こうお答えになりました。「運が強いことだね。人生には二度や三度、絶体絶命のピンチに立たされることがあるものだ。そういうときに助け舟がくるかどうかが、運の強い・弱いを決める。だから、徳を尽くさなければいけないんだよ」徳を積むことは、自分の心がけ一つでできること。いまからでも遅くないので、自己の最善を他者のために尽くすことを心がけましょう。「徳」と聞くと、抽象的に感じるかもしれません。「わかるけど、実際に何をしたらいいのか」と戸惑う人もいるでしょう。しかし、そんなに難しいことではありません。何事も「ていねい」にやる。それが「徳を尽くす」ということです。たとえば、「リンゴをむいてあげるから、そこの包丁を取ってくれる?」といわれたとき、取手のほうを向けて「はい、お願い」と渡す。たったそれだけのことでも、「徳を尽くす」ことになります。それは「相手にケガをさせちゃいけないな」という気持ちの表れだからです。ポーンと投げてよこしたり、刃先を向けて渡したりする人は、動作がていねいとはいえないし、相手に対する思いやりがない。だから、徳の薄い人なのです。「そんな簡単なこと?」と肩すかしを食ったように思うかもしれませんが、一事が万事、一つひとつの動作をていねいにやることが「徳」につながるのです。実際、前に禅寺の導師に「普通に庭を掃くのと、修行として庭を掃くのとでは、どう違うのですか?」と尋ねたところ、「ていねいに掃くのが修行なのです」という答えが返ってきました。ですから、どうか今日のいまこのときから、「ていねい」をキーワードに仕事を進めてください。人に会う、電話をする、メールを送る、会議で発言する、部下に指示を出す、お茶をいれる、食事をつくる、掃除・洗濯をする……仕事も日常も、あらゆる場面で「ていねい」を心がける。ある意味でこれは、「修行」に通じるものです。「なんのために仕事をしているのですか?」と問われたら、「生活費を稼ぐため」などといわずに、こう答えてください。「人格形成の修行として、業務をやっております」道元に由来するこの考え方は、日本人が古来持っていた「勤労観」でもあります。大事にしましょう。また、行動指針として心に留めていただきたいのは、『論語』にある有名なこの言葉。「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」――これは、「自分がされたくないことは人にもしない」という、シンプルな教えですが、孔子が、「生涯行なう価値のあること」としたもの。この心を持つことが「徳」であり、また人として強く生きる極意でもあるのです。

「ここぞ」の場面で輝く四十歳を過ぎたら「才気走らない」「四十にもなって、才気走っているのはみっともないよ」私はよくこういいます。二十代や三十代の若い頃は「自分を大きく見せたい」「才能をアピールしたい」などと気持ちがはやり、まだそれほどの実力もないのに派手なパフォーマンスに走る傾向があります。それはそれで、いいでしょう。若い頃は、それが仕事のエネルギー、行動のエネルギーになるものです。また周囲のベテランたちも、「ずいぶん突っ張ってるじゃないか、若造」という感じで、苦笑いしながらも、さほどイヤな印象は受けないでしょう。少々生意気で、背伸びしようとしている姿がかわいらしく映るものです。しかし、四十代にもなって同じように突っ張っていたら、どうでしょうか?いい歳をして、「俺は優秀だ」「誰にも負けない」といわんばかりに才気走ったところを見せつけたり、自分の成果をことさらに吹聴して回ったりしているのは、みっともないことといえます。「四十も過ぎて、何をいきがっているんだ。誰にも評価されないから、自分でいって回るしかないんだろうな。情けない」と意地悪な見方をする人もいれば、「たしかに優秀かもしれないけど、その才をひけらかすところが鼻につく。つき合いたくない人種だね」と敬遠する人もいるでしょう。その結果、どう転んでも、浮いた存在になって人望を得られないか、反感を買って足を引っ張られるか。いずれにしても、いい結果にならないことは目に見えています。「知る者は言わず、言う者は知らず。其の兌を塞ぎて、其の門を閉し、其の鋭を挫いて、其の紛を解き、其の光を和らげて、其の塵に同ず」これは『老子』にある言葉です。訳すと、「本当にものをわかっている人はしゃべらない。よくしゃべる人はわかっていない。真の知者は知識の出入り口を塞ぎ、鋭さをなくし、その鋭さゆえに起こるもつれを解きほぐし、きらびやかに目立たないようにして、すべての塵と同化している」という意味です。「其の光を和らげて、其の塵に同ず」の部分は、「和光同塵」という言葉として知られていますね。老子がいうように、本当に優秀な人というのは知識をひけらかしたり、不確かな情報を鵜呑みにしたりしないし、才気走ったふうもなければ、目立とうともしない。本当の実力者というのは、淡々と、でも心から楽しみながら仕事をし、為すべきことを為し、いい結果を出しているのです。だから、周囲から信頼され、愛されるのです。彼らは、望むと望まざるとにかかわらず人望を得て、次々と大きな仕事を任され、そして、いわゆる出世をしていくのです。実際、私はこれまで「大物」と称される人物にお会いする機会が多くありましたが、みなさん、一様に「つかみどころがない」という印象でした。それでいて、「ここぞ」のときには切れ味のいい言動が光るのです。圧倒的な存在感を放つのです。逆にパフォーマンスだけがうまい人は、私にいわせれば、ただの〝小秀才〟です。たいして力もないのに目立つことをしようとして滑稽に映るし、敵もたくさんつくってしまいます。つまり、人望が得られないのです。四十歳を過ぎたら、自分の才能をうまく隠すこと。四十代からは、「俗世間にまぎれて、目立たずに淡々と、黙々と仕事をしているけど、じつはすごい実力者」といわれるのが本懐というものです。

部下に「主役を譲る」「自分でやる」から「人を動かす」働き方へ「もはや現場仕事の主役は、自分ではない。部下である」四十代のリーダー、あるいはリーダー的な立場にいる人間がまず認識すべきは、このことです。つまり、部下のやるべき仕事まで、自分で抱え込むようではいけません。たしかに部下より自分のほうが経験豊富なぶん、見ていて歯がゆくなることもあるかもしれません。でも、じっと我慢です。「自分でやったほうが早いし、うまくいく」などと思わないことです。「君は舟なり、庶人は水なり。水は則ち舟を載せ、水は則ち舟を覆す」これは『荀子』に出てくる有名な言葉。上司は舟で、部下は水。水があるから舟が浮かぶ。しかし、舟を転覆させるのも水だ、といいます。「上に立つ者は、下の者に『この人の力になりたい』と思われなければいけない。専横的な振る舞いが過ぎれば、部下の心はどんどん離れてしまうよ」と警告しています。仕事を部下に任せずに自分で抱え込む行為だって、一種の専横です。部下は「上司は自分を信じていないんだな」と思い、腐ってしまうでしょう。いうまでもなく、リーダーの重要な仕事は、「部下に指示を出すこと」です。そのときに何も考えずに割り振ればいいというものではありません。部下の能力や性格などをきっちり把握し、それをフルに生かしてもらう方向で仕事を選んでやることが大切です。以前、サーカスで動物に芸を仕込む人に話を聞いたことがありますが、彼はその仕事のポイントをこんなふうにいっていました。「たとえばトラだって、一頭一頭性格が違います。せっかちなのもいれば、のんびり屋もいる。せっかちなトラに『もっとゆっくり動け』と命令しても、こちらの思いどおりには動きません。だから、せっかちなトラにしかできない芸を選んでやるのです。性格に合った動きであれば、彼らも喜んで従ってくれます」人を動かすのも同じです。リーダーは、部下が得意とすることを引き出してやらなければなりません。そうしないと、チーム全体のパフォーマンスが落ちるだけです。その結果、リーダーである自分自身の評価も落とすことになるのです。中国・唐王朝の二代皇帝である太宗の言行録である書物『貞観政要』に、次の言葉があります。「理を致すの本は、惟だ審かに才を量り職を授け、務めて官員を省くに在り」「理にかなったマネジメントを行なう根本は、登用する人材をよく吟味し、その能力に応じた仕事を与えなさい。ポストが余っているからと、それにふさわしい能力のない人間を配置してはいけない。場合によっては、優秀な人間に二、三の仕事を兼務させたほうがよい」というふうに読めます。ここでドキッとさせられるのは、「無駄なポジションをつくらない」という考え方です。注目すべきは「省く」ということ。日本の官庁にもさまざまな「省」がありますが、これはもともと「不要な人員を省いて、適正な人数で組織を構成する」という意味です。企業では往々にして、「組織図に人を当てはめる」方式で人事を決めがちですが、ふさわしい人材がいないならそのポストをなくしてもいい、というのです。それよりも「兼務」という形で、能力本位で仕事を割り振る。自分の率いる部隊を少数精鋭集団にしていくためには、管理職にそのくらいの厳しさが求められるのです。四十代ではまだここまでの人事権はないかもしれません。でも、来たる将来のため、「トップマネジメントの模範形」としての「能力や性格に応じた仕事の割り振り+実力本位の人材登用」をぜひ心に留めておいてください。

「信頼」を勝ち取る「いまは、社長より君の話が優先だ」部下を動かすうえで、もっとも重要なのは「信頼関係」を築くことです。根底にこれがないと、部下から敬遠されるか、なめられるか、いずれにしても良好な関係を築くことはできません。『孫子』に、こんな言葉があります。「卒未だ親附せずして之を罰すれば、則ち服せず。服せざれば則ち用い難し。卒已に親附して罰行わざれば、則ち用う可からず」訳してみましょう。「部下とまだ信頼関係ができていない時期に、上司が頭ごなしに叱っても指示に従いはしない。逆に、すでに信頼関係ができているのに、指示に従わない部下を叱れないようでは、部下になめられるだけだ」まったくもって、そのとおりです。では、部下が上司を信頼し、指示に対して「聞く耳」を持つようにするにはどうすればよいのか。それは、上司のほうから部下の話に真摯に耳を傾ける、つまり「傾聴」に徹することがポイントです。そのときに、ただ聞けばいいというものではありません。ほかの仕事をしながら、聞いているフリをしても、必ず部下にバレます。「なんだ、上の空で、ちっとも聞いてくれないじゃないか」と、部下はもう話す気もなくなるでしょう。そういう気持ちが、私には痛いほどわかります。子どもの頃、『易経』の大家であった母が口では「聞いてるわよ、何?」といいながら、気持ちは仕事のほうにいっていた、なんてことがよくありましたから。何度、母の顔を無理矢理、私のほうに向かせ、「聞いてくれっていってるじゃないか!」といったかしれません。だから、上司に話を聞いてもらえない部下のむなしさがよくわかるのです。上司にとって一番重要なのは、部下に対して「ちゃんと君の話を聞いているよ」と態度で示すことです。あいづちを打つだけではなく、部下の目をまっすぐ見て、随所で質問を投げかけるといいでしょう。たとえば、「そうか。で、君はどうしたいと考えている?」「なるほど、もっともな意見だけど、この観点から考えてみたらどうだろうか?」「それはいいけど、もしこういうことが起きたら、どうするつもりかな?」「いまのところ、周囲の反応はどう?」「それ、私にはよくわからないから、詳しく教えてくれる?」といった具合に。いやでも、部下の話を真剣に聞いていることが伝わります。あと、とっておきの裏技をもう一つ、伝授しましょう。部下の話を聞く場を、あえて社長や重役たちがよく通りかかるところなどに設定するのです。「よし、静かなところで君の話を聞こう」などといって、その場に誘うといいでしょう。そうして、話を聞いている最中は、誰が通ろうと「眼中になし」という態度を貫くのです。たとえば社長が「あ、○○君(あなたの名前)」と話しかけてきても、「社長、すみません。この話が終わったら、すぐにまいりますから」などという。部下は「社長よりも私の話を優先してくれるんだ」と感動するではありませんか。社長にしたって、「お、部下を大事にしているんだな。なかなかのヤツだ」と感心してくれるはずです。ちょっと小賢しいような感じがするかもしれません。しかし、部下の全幅の信頼を勝ち取るには、ときには大仰なくらいのパフォーマンスをしてもいい。私はそう思います。そういう場面では、大半が部下を置き去りにして、偉い人にくっついていくので、なおさら効果的です。また、私はよく、「部下に説教したくなったら、雑談まじりにチクリとやるのがいいよ。『話があるから、ここに座りなさい』とやるより、説教が効果的に部下の心に響くよ」といっています。説教というのは部下にとって、「聞きたくないもの」の筆頭でしょう。上司から「ここに座れ」とか「ちょっと会議室に来てくれ」などといわれると、その瞬間に身構えてしまいます。あとは早く逃げたい気持ちが勝って、神妙にしていながらも、上司の話の内容はほとんど耳に入らないものです。上司にしたって、嫌われるとわかっている説教をするのは気が重いもの。「できればしたくない」と思うのが正直なところでしょう。そこで推奨したいのが、「ふだんの会話の中の〝ついで話〟として、短く注意を与える」というやり方です。佐藤一斎の『言志耊録』に、このことがズバッと書かれています。「平常の話中に就きて、偶警戒を寓すれば、則ち彼れに於て益有り。我れも亦煩瀆に至らじ」「ちょっと小言をいったり、苦言を呈したりしたい場合は、ふだんの会話の中でさりげなくやればいい」ということです。たとえば、一緒に外出し、移動している電車の中や、たまたますれ違った廊下、居合わせたエレベーターの中などを利用して、「そういえば君、このあいだね……」と軽く話しかける。そういうときなら、部下も身構えることなく、上司のいうことに意外と素直に耳を傾けます。一斎の面白いところは、「そのほうが、説教をするこちらも手間が省けるじゃないか」としていること。合理的な考え方といえるのではないでしょうか。この「ついで話」というのは、上司・部下の互いが「素」になれるのもいいところ。部下との会話に限らず、とくに対立関係にある人との話し合いにおいても、「素」になって話すことで事がスムーズに運ぶ場合が多いのです。「素」でぶつかり合って初めて、人間は本音で理解し合えるし、そこから解決の糸口が見えてくるものなのです。

「全体最適」を優先する四十代には、非情に徹すべきときがある「泣いて馬謖を斬る」という有名な言葉があります。出典は『三国志』です。三国時代、蜀の諸葛孔明が魏と戦ったとき、親友にして腹心の部下であった馬謖が、命令に背いて戦略を誤り、大敗を喫しました。孔明は軍法に則り、涙ながらに馬謖を斬罪に処したと伝えられています。その故事に基づくこの言葉が転じて、「リーダーは規律を守るためには私情を捨て、愛する部下をも処分しなければならないときがある」場合に使われるようになりました。四十代ともなれば、ときに非情さも求められます。実際、上司が部下をかわいがるあまり、あるいは部下の心情を気にしすぎて、失敗を見逃してしまうようなことは少なくありません。「本当は怒るべきところだけれど、厳しく責任を追及すると、傷つくだろうな。せっかく築いたキャリアに汚点を残すことにもなりかねない。ひょっとしたら、もう立ち直れなくなってしまうかもしれない」などと考えてしまうのです。しかし、リーダーがそんな〝甘ちゃん〟では困ります。その場で叱って、軌道修正するのを怠ったために、組織に大きなダメージを与えないとも限らないし、部下本人のためにもなりません。大事なのは、「ここでバシッと叱っておかなければ、あとで大変なことになる」かどうかを的確に判断し、〝叱りどき〟をはずさないことです。「応機と云う事あり肝要也。物事何によらず後の機は前に見ゆるもの也。其機の動き方を察して、是に従うべし。物に拘りたる時は、後に及でとんと行き支えて難渋あるものなり」これは、『重職心得箇条』の第五条にある言葉です。佐藤一斎はまず、「物事には応機がある」としています。「応機」とは、たとえば弓に矢をつがえてキリキリと引き絞り、ここぞというタイミングでパッと手を放すように、もっともいいタイミングで行動を起こすことの重要性を意味します。そのときに重要なのは、「後の機を事前に察知する」こと。常に「このまま放っておくと、あとでどうなるか」だけを考える。そしてタイミングよく先手、先手を打っていく。「そのとき何か物事に拘泥してしまうと、あとでもっともっと困ったことになるよ」と、一斎は警告を発しています。私情を優先して部分最適に陥ることなく、常に全体最適――つまり、組織やチームにとっての利益となることを優先する。リーダーには、その能力が求められます。これは、かわいい部下を叱ったり、処分したりするときだけではなく、あらゆる場面で求められるリーダーの能力です。たとえば、救急病院を想像してみてください。「いま、救急車が向かっています。約何分で到着します。患者さんはこういう状態です」と連絡を受けたら、救急救命医はただちに準備にかかりますよね?搬送されてきたら、玄関で待ち構えて、ざっと患者の容態を診断し、すぐに処置に入ります。「後の機」を察知し、段取りをつけて迅速に動かなければ、人命に関わります。そのとき、たとえば、「そうするとA君を困らせることになる」などとこだわっていると、あとでそれが支障となり、後悔する事態に陥ってしまう。いま、チームや組織にとって何がもっとも重要か。どうするのがベストか――。そこに「私情」の入り込む隙はありません。リーダーは、そのくらいの危機感と緊張感を持って仕事に臨まなければなりません。なぜなら、一つの判断ミスが組織全体の命運と部下のその後を揺るがす可能性があるからです。そう心得て、何かに拘泥することなく、しっかりと「後の機」を見ることが肝要です。

「下の者」からよく学ぶ「後生おそるべし」という孔子の教えアメリカの生産性が非常に落ちた十数年前、「一番の原因はフローズン・ミドルにある」と断じられました。どういうことか。ミドル、つまり中間管理職の人たちが上からは押さえつけられ、下からは突き上げられ、身動きが取れずに固まってしまったこと(フローズン)が問題視されたのです。四十代のみなさんには、身に沁みて感じられることでしょう。しかし本来、中間管理職の人というのは上層部にとっても、部下たち若年層にとっても、とても頼りにしたい存在です。上の人間は中間管理職に対して、一般社員が会社に対して何を望んでいるかなどの情報を上げてくれることを期待しています。一方、下の人間は中間管理職に対して、トップが何を考え、会社をどう動かそうとしていて、一般社員に何を期待しているかの情報を示してくれることを望んでいます。だからこそ中間管理職の人間には、上と下の風通しをよくすると同時に、上の人間も下の人間も両方を動かしていく能力が求められるのです。「上と下のサンドイッチになって、苦しい」と考えるとフローズン――固まってしまいますが、思考をそっちに向けてはいけません。「自分は上も下も動かす戦略的ポジションにある」と考え、フレキシブルに立ち回ってやろうという方向に考え方をシフトしましょう。たとえば、上の指示に対して、「いや、一般社員はそういうことを望んでいません。彼らはいま、こういう仕事に情熱を燃やしています。その炎は消さないほうがいいでしょう」などとご注進する。また、部下が「上のやり方に納得がいかない」といってきたら、「いや、会社としてはこういう方針なんだ。君たちにはこんなふうに頑張ってほしいとすごく期待しているんだよ」と説得する。もちろん、「上にも下にもへつらいなさい」というのではありません。中間管理職としての自分が「戦略的に正しい」「戦略的に正しくない」という判断をしたうえで行動することが前提です。感覚的には、問屋業と同じ。問屋の存在価値は、メーカー情報を小売店に、小売店情報をメーカーに流すことにあります。小売店は、メーカーの新製品や生産体制、在庫状況などの情報を得て、消費者ニーズに合う品ぞろえができます。メーカーは小売店の売れ行きや消費者ニーズなどの情報を開発に結びつけることが可能になります。問屋業はそのポジションで、メーカーにも小売店にも価値ある存在になれるのです。企業にあっても上層部と一般社員の中間にいる立場の四十代は、自分にはそういった役割があることを自覚することが大切です。最悪なのは、上に媚びたり、上の人の持つ知識・経験を学んだりすることばかり考えて立ち回る中間管理職の人間です。中間管理職の人間は、もっと「下からも学ぶ」意識を持ったほうがいい。『論語』では、その重要性を説いています。「後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや」「若者をあなどってはいけない。年長者が若者より優れているとは限らないではないか」というのです。これに続けて孔子は、「四十、五十になっても、まだその名が聞こえてこないようなら、尊敬に値しない」とまでいっています。下の者から学ぶ姿勢がなければ、信頼される人間になれず、五十代、六十代になってからみじめな思いをすると自戒しましょう。

誰かの「いいなり」にならない「卑屈な人間」にならないための鉄則四十代にもなって誰かに「依存」している。そんな甘ったれがいます。誰かに「協力」してもらうことと、誰かに「依存」することは、まったく異なります。前者は自分が中心になって事を進めるのに対して、後者は事を他人任せにして自分は何もしない、もしくは誰かのいいなりになって動くことを意味します。四十代は、リーダーとして、あるいはリーダー的な立場として、部下に指示を出して仕事に当たらせる立場ですから、部下に気持ちよく働いてもらうよう心を砕くことがポイントになります。それなのに、まだ〝依存体質〟が抜けないのでは情けないといえます。というと、「いや、依存じゃない。部下を信頼して全面的に任せているんですよ」などという人もいるでしょう。それが本当ならいい。なかなかできた上司だ、という見方もできます。しかし、一見かっこいいその言葉が、「部下に頼り切りで、方針を示したり、ポイント、ポイントで的確なアドバイスをしたりすることができない自分を認めたくないための逃げ口上」であったとしたら、それは四十代にふさわしい能力を発揮しているとは言い難いでしょう。ましてや、四十代になってもなお、誰かの方針・指示のもとでしか行動できないとしたら、まことに情けない限りです。人望など集まるわけがありません。ここはしっかりと、「誰かに依存した瞬間に、自分は奴隷になる」と自覚してください。「依存」とは、自分の存在を誰かに託すことですから、自分で自分を〝無き者〟にしているに等しいのです。『韓非子』にある次の言葉を嚙みしめてください。「人を恃むは自ら恃むに如かず」これは、「魯の宰相・公儀休が大変な魚好きなのに、国中の人がせっかく送ってきてくれた魚を受け取らなかった」という話の中に出てきます。なぜ大好物を受け取らないのか。それは、「誰かに頼り、もらい物をすると、相手にお世辞の一つもいわなければならなくなり、そういうことが続くと、やがてその相手のために法を曲げることにもなりかねない。それで免職になったら、誰も魚を届けてくれないし、自分で買うお金もなくなってしまう」からです。受け取りさえしなければ、免職の危険もなく、いつまでも好きな魚を自分のお金で買って食える、というわけです。そこから「人間は誰かに依存せず、自分自身を頼りにして努力するべきだ」という教えが導かれています。ちなみに、韓非子という人は「性悪説」で知られていますが、「人間はどうしようもないヤツだ、悪だ」といっているわけではありません。「性善説」のように自分で自分を制御するのは難しいから法(ルール)を整備しよう、という考え方の人です。そこをお間違いなく。もっとも、「私は誰にも依存しない」と言い続けるのは立派なことではありますが、過ぎると「かわいげのないヤツ」と、人から嫌われる場合もあります。ときには、ふところで信長の草履を温めた秀吉よろしく、かわいげのあるところを発揮してもよいでしょう。そのあたりのさじ加減ができるのが、四十代に必要な賢さだと思います。

「有事」に強くなるできるリーダーほど「悲観的に準備する」何事に対しても無防備。弱点だらけ。そういう四十代は、まず間違いなく頭角を現すことなどできないでしょう。人の上に立つ能力などないからです。「余裕」を持つことの大切さについては、別の項でも触れましたが、余裕のなさはまた、「準備不足」からも生じます。とくに事が順調に運んでいるときは要注意。思わぬアクシデントが起こることを想像しにくく、いまの安穏な状況がずっと続くような錯覚をしてしまうため、いざそうなったときにたちまちパニックに陥ってしまうのです。私は常々、こういっています。「リーダーというのは、どこまでも悲観的に準備しておくことが大切だよ」天災にしろ、事故にしろ、何かしらの障害、困難、問題にしろ、いつ起こるかは誰にもわかりません。「ああ、平和だな」「何もかも順調だな」と思った次の瞬間に、想定外の問題が起こる可能性があります。前にも述べましたが、私は、二十五歳のときに思わぬ事故に見舞われました。タイ国のバンコク市郊外の水田の中で、巨大な水牛二頭に串刺しにされたのです。まさか自分にそんなことが起ころうとは、夢にも思っていませんでした。重傷を負い、生死の境をさまよう中で、「自分の身にいつ、何が起こっても不思議はないのだ」ということを痛感しました。と同時に、この先に待ち受けているかもしれない危険に対して、あまりにも無防備であったことを思い知らされました。四十代からは、「あらゆる事態」に備えて準備し、想定外の出来事が起こらないようにしておくことが必要です。ただし、うまくいく予測のもとに準備をしても意味がありません。それでは事態を「万が一にもこんなことが起きるわけがない」などと楽観的にとらえているにすぎないからです。そうではなく、どこまでも悲観的に、「いつだって想定外のことは起きるものなのだ」と考えておく。それに対するできる限りの準備をしておかなければならないのです。たとえば、何かプロジェクトを進めるとき、もし仕事の材料が期日どおり入ってこなかったら――と想定し、送り出しを業者任せにしないで自社社員が確認する。もし生産が間に合わなかったら――と想定して、安全を確保できる分量だけを別の工場に依頼し、早急な生産体制を整えておく。もしトラブルが起きてしまったら――と想定して、腕利きの専門家(弁護士など)をあらかじめ用意しておく。そうすれば「想定外のこと」はなくなっていきます。何が起ころうと準備したとおりに行動すればいいだけ。そこに「余裕」が生まれるのです。四十代のみなさんは、部下を持つ中間管理職として、あるいはマネジメント層の一人として、組織の中核を担っている人が多いと思いますが、その立場の人間が、ちょっとした問題が起きるたびにパニックに陥るのでは困ります。リーダーとして部下に的確な指示が出せないばかりか、リーダーの動揺が部下に伝染し、事態をますます悪化させてしまいます。『中庸』に、こんな言葉があります。「事予めすれば則ち立ち、予めせざれば則ち廃す」「何事も準備をすればうまくいくし、準備をしなければ必ず失敗するよ」という意味です。中国古典思想を極めた英傑、佐藤一斎も『言志耊録』でこの言葉を引用し、「道理にかなった言葉である」としています。何事も入念かつ悲観的な準備をして取り組む。それが人の上に立つ人間の役割であり、人望を集め、頭角を現していく人間の条件といえるでしょう。

 

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