MENU

2  奇跡

 いつものように出勤した若宮は、そのまま社長室には行かずに、社員たちのいるフロアを訪れていた。  二日酔いで出勤することが多かった若宮だが、最近は不安のためか、一人になりたいからと早く自宅に帰ることが増え、必然的に飲み会の頻度も減っていた。なんとなく、騒いで遊ぶ気分にはなれなかったのだ。  初夏の日差しが差し込むオフィスには、淹れたてのコーヒーの香りが漂っていた。  オフィスには、誰でもタダで利用できるコーヒーマシンを設置しており、これがけっこう美味い。多くの社員が、仕事中の憩いとしてデスクにコーヒーカップを置いている。このコーヒーマシンも、コーヒー好きの社員の要望で若宮が用意したものだ。  オールウェイズ・アサイン社は、ウェブを通したインフラサービスの販売が主な業務であるため、基本的にはパソコンの前に一日中座りっぱなしの社員がほとんどだ。  そんな社員たちに、少しでも快適なオフィスで過ごしてもらおうと、若宮はできるだけ彼らの要望に応えるようにしている。ほかにも、腰が悪い社員のために、腰に負担をかけないと聞いたバランスボールを椅子代わりに用意したり、仕事中に目が疲れないようにと、ブルーライトカットのメガネを配布したり、社長自らが率先して仕事環境の改善に努めていた。(今日も、みんな元気そうだな)  会社を設立してからだんだんと増えた社員は、もう一二〇人近くになる。家族のように大事にしてきた社員たちが、いつも一生懸命仕事に励んでくれている姿を見るのが、若宮の日課の一つなのだ。今日も変わらぬ彼らの様子を見回して、若宮は束の間の安堵に浸っていた。「社長!  おはようございます!」  若宮がフロアに入ってきたのに気づいて、最初に声をかけてきたのは美優だった。いつも元気な美優は若宮のことを随分と慕ってくれているらしく、彼女らしい人懐っこい笑顔をこちらに向けてきた。彼女の明るい声で、他の社員たちも若宮の存在に気がついたようで、皆口々に挨拶をする。「おお、みんな、おはよう」  若宮は挨拶を返しながら、美優に手招きをした。「西村さん、ちょっとこっちに」  社内のことで少し気になることがあり、こういう場合、多くの部署の人間に可愛がられている美優のような部下に聞くのが一番だろうと思ったのだ。「え?  なんですか ー?」  小首をかしげながら駆け寄ってきた美優に、若宮はほかの社員の会話の邪魔にならないよう、少し声のトーンを落として尋ねる。「第三営業課は、今どういう感じかわかるか?」  そう、若宮が気にしていたのは、安藤の動きについてだった。三ヶ月間好きにさせてくれという主張を承諾したのはいいものの、定期的に安藤からもらう報告書では詳しい動きがわからない。いきなり入ってきた安藤に、部下たちがどんな反応をしているのか気がかりでならなかったのだ。  第三営業課という言葉を聞いて、美優ははっとした表情になるも、「安藤さんが担当されたっていう部署ですよね。すみません、私はあんまり関わりがないので、わからなくて」  と、両手の指先をこすり合わせるようにしながら、申し訳なさそうな顔をした。「いやいや、いいんだ。ほかに知ってそうなヤツはいないかな?」  若宮が首を振りながら聞くと、「そうですね、彼だったら知ってるかもです。平林くん。第三営業課の人と仲よさそうにしてた気がします」  と部屋の端のほうのデスクを指差した。美優が指し示した先には、この前のカラオケで若宮が仕事の相談に乗っていた男性社員が座っているのが見えた。真面目そうな彼は、今日も真剣に業務に向かっている様子だ。「おお、そうか。ありがとう。ちょっと聞いてくるよ」  若宮が美優のもとを去ろうとすると、美優は「あの……」と若宮を引き止めた。「えーと……第三営業課、大丈夫そうですかね?  安藤さん、厳しそうな人ですし」  心配そうに眉をハの字にする美優に、若宮は少し肩をすくめてみせる。「うーん、それが俺にもよくわからないんだよな」  安藤に第三営業課を任せてから、もうすぐ三ヶ月が経とうとしていた。  契約を交わしてからというもの、彼は毎日オフィスを訪れるようになっている。  安藤の提案に従って、第三営業課に彼専用のデスクを用意したところ、毎朝社員の誰よりも早く出勤し、その日のスケジュールや仕事の進捗状況を細かく管理しているらしい。  どうやら、例の「識学」の理念に基づいてマネジメント業務を行っているらしいが、若宮にはその内情はいまいちわからなかった。  安藤と顔を合わせたときに、若宮は何度か、部署の状況を聞こうと試みたことがある。  しかし、安藤の返答はと言えば、「まずは三ヶ月任せてください。結果で証明してみせますから」  という一点張りで、明確な状況を教えようとすることはなかった。(何があるか、わからないんだ。今回も今までと同じ結果なら、すぐに契約はなかったことにしよう)  いまだ拭い去れない識学と安藤への不信感は、若宮の悩みの種となっていた。  だから社員の誰かから、安藤のしていることや部署の様子を聞き出せないかと考えたのだ。  不安を胸に、若宮は美優に教えられた男性社員のもとへ向かった。(平林くん、ね……)  若宮がデスクの隣に立つと、彼は気配を感じたのか、若宮を見上げる。「あ!  若宮社長、おはようございます!  すみません、僕、気がつかなくて」

急な社長の登場に驚いたのか、平林はかけているメガネを何度も直すような仕草をした。「驚かせたか?  仕事中にごめんな。ちょっと聞きたいことがあって」  慌てる平林を落ち着かせるよう笑顔で聞く若宮に、平林は少し肩の力が抜けたのか、「え?  聞きたいことですか?  なんでしょうか?」とデスクに向けていた身体を、若宮のほうに向け直した。「うん。安藤さんがきてから、第三営業課のみんなの様子はどうかと思って。それが聞きたかったんだよ」「うーん、そうですね……人によりけりって感じですね。すごく頑張ってる人もいれば、かなり不満を感じてる人もいそうです」  平林は顎に手を当てながら、思い出すようにして答える。「なるほどなぁ。平林が、第三営業課に仲のよい同僚がいるって聞いたから、ちょっと教えてもらおうと思ったんだけど」「そういうことだったんですね。僕の仲のよい同僚が話してたのは、かなり規則が厳しくなったってことくらいですかね」「規則が厳しくなった?」  若宮は聞き返す。報告書にそんな内容は書いていなかったはずだが、一体どういうことだろう。「はい。うちの会社って、そこまで厳しいほうではないじゃないですか?  遅刻とか、身だしなみについても厳しく言われることはなかったと思うんです。そこを安藤さんは、ルールを取り決めて、徹底して教育してるって聞きました。社員証のつけ方とか、スーツの着方とか、言葉遣いまで怒られるって」「そうなのか」「仲よくしてる同僚は、ちょっとめんどくさがって、僕といるときは愚痴ってましたけどね」  同僚の顔を思い出したのか、平林は軽く笑った。「そうか、なんとなくわかったよ。ありがとう」若宮が礼を言うと、平林は「いえいえ!  お役に立ててよかったです!  また何かあったら、いつでも!」  と、若宮がデスクに訪れたときとは打って変わって明るい笑顔で答えた。  若宮は平林のもとを離れ、そのまま社長室に向かった。  やはり安藤のことが気がかりで、もう一度、安藤から提出された報告書を読み返そうと決意する。あまりに問題が起こりそうであれば、文句の一つでも言ってやろうかと思ったのだ。  社長室に着くと、デスクに座り、真っ先に報告書の束を開いた。毎日毎日、ご丁寧に報告書を提出してくる安藤のおかげで、もはや一冊の本でもできるんじゃないかというくらい束は厚みを増している。  ひと通り報告書を確認するも、特に変わったことは発見できない。  若宮は、散らかった社長室をぼーっと眺めた。(そろそろ、掃除しないとなぁ)  そこらじゅうに積み重なった本や書類の束、領収書らしき紙切れを見て、ため息をつく。  若宮のいる社長室は、比較的簡素な造りをしている。  社員たちのいるフロアと同じ白を基調とした内装に、気に入っているグレーのデスクを置いて、この部屋にいるときはだいたい、そこに座っている。部屋の中央にはローテーブルとソファを置いて、急な来客があったときはここに通すこともある。  もっとも、若宮は社員たちに困ったことやトラブルがあればすぐに対応できるよう、社員たちと同じフロアにいることが多い上に、その他の時間は毎日怒涛のように組まれるミーティングで埋まっていたため、社長室にこもっているようなことは滅多になかった。  だから、余計に社長室の整理整頓や掃除には手が回らず、散らかり放題なのだ。  本当は社員の誰かに掃除を頼みたいところなのだが、こんな状態を片づけさせるのは申し訳ない上に、あまり人の目には触れさせたくないような重要書類も混じっているものだから、迂闊な行動はとれない。  若宮がそんなことを考えていると、デスクに置いていたスマートフォンが鳴った。通知欄にカレンダーアプリからの予定の通知が入っていた。いつもこのアプリを使って、仕事や会食などの予定を一括管理しているのだが、重要な予定はこうやって通知で教えてくれるのも便利な機能だ。(そうだ、今日は昼から取引先と打ち合わせだな)  アプリを見ながら、今日は火曜日、明日は水曜日、と予定の確認を行っていくと、金曜日の欄で視線が止まった。いつもは部下との飲み会の予定が入っている金曜日のスケジュールだが、今週は違う。  画面には「安藤結果報告」の文字が表示されていた。(今週末か……)  若宮は期待と不安の入り混じったため息をついた。  安藤が第三営業課の変革に必要だと提示してきた期間は、三ヶ月。  今週末には、その三ヶ月を終えた結果報告が控えているのだ。  今回の結果報告で、もし目立った成果が出ていなければ、若宮はすぐにでも安藤との契約を切るつもりでいた。今までのコンサルタント同様、結果は出さず費用だけ吸い取られることを、若宮は依然として警戒していたのだ。  加えて、安藤の対応や姿勢は、いささかオールウェイズ・アサイン社の社風には合わないようにも感じる。  先ほど平林から聞いたことが本当だとしたら、安藤の方針に嫌気が差している社員も少なくないだろう。(大事な社員たちに辞められたら困るしな……)  若宮は、数ヶ月前に安藤を連れて行ったとき、第三営業課の皆が見せた反応を思い出す。「社長、ほんとに三ヶ月も、あの安藤って人に私たちの部署を任せるって言うんですか?」「さすがに、ちょっと不安です……」  安藤を紹介したあと、一番最初に不安の色を見せたのは、女性社員の二人組だった。  彼女らは安藤が去ったあと、若宮のもとへ直接訪れたのだ。「不安な思いをさせてごめんな。三ヶ月だから、安藤さんとどうか頑張ってみてほしい。な?」「社長が言うなら、そうしますけど……。うちの部署、みんな不安がってましたよ」  必死の励ましにも表情を暗くしたままの二人に、若宮は心を痛めずにはいられなかった。他の社員も若宮や安藤の手前、表立って不満を口にしてはいなかったが、やはり動揺していたことは間違いないだろう。

一方の安藤はといえば、社員たちの不安に気がついていないはずはないだろうに、眉一つ動かすことなく毎日、淡々と業務に向かっていた。  彼のそのひたむきな姿勢は、識学への多少の疑わしさを感じている若宮でさえ、感心するほどだった。  第三営業課には比較的、生真面目な社員が多い。しかし、その真面目さゆえの主張の少なさや消極的な姿勢が、彼らの業績の足を引っ張る原因だとも若宮は踏んでいた。  だからこそ、見方によっては冷血とも言えるような性格の安藤を「劇薬」として投入する決断をした面があったのだが、やはり根本的に反りが合わないのではないか?  という考えが徐々に募り、若宮を後悔させていた。  唇の端を噛みながら、スケジュールをもう一度見直す。変わらず表示されている「安藤」の文字がどこか暗くなって見えた。(ただでさえ気弱な社員が多い第三営業課を彼に任せたのは、俺の判断ミスだったかもしれないな……早く金曜日になればいいが……)  安藤のことを考えれば考えるほど、なぜだか胃が重くなるのを感じて、若宮は椅子に座り直した。パソコンを立ち上げる。胸のつかえを一時でも忘れるため、いつも以上に張りきって業務に取り組んだ。 *     *      *  そして、金曜日の朝。  若宮は安藤からメールで提出された報告書の数字を前にして、驚きのあまり目を見開いていた。「ど、どういうことだ……?  たった三ヶ月だぞ……?」  若宮の目に映っているのは、想像もしていなかった数字だった。  安藤に任せた第三営業課の営業成約率が、格段に跳ね上がっているのだ。売上の増加に伴い、利益率も最近のオールウェイズ・アサイン社では見たこともない高い数字を叩き出している。  若宮は安藤の言葉を思い出す。『三ヶ月でかならず、結果を出します』  安藤は、あの宣言通りに結果を出したのだ。(しかし、どうやって?)  平林に聞いた話や日々の報告書からは、それほど変わったことをしている様子はなかった。  ルールを正したり、スーツの着方を変えるだけで、これだけの結果を出せるものだろうか?  若宮がさらに巡らせようとした思考を、甲高い着信音が遮った。  スマートフォンの画面には「安藤」の文字。若宮は驚きつつも、すぐに持ち上げて耳に当てる。「お疲れさまです。安藤です」  初めて会ったときと変わらない、平坦な声がスマートフォンのスピーカーを揺らす。「はい、若宮です。お疲れさまです」「お忙しいなか、すみません。先ほど送った報告書の件ですが」「見ました、報告書。拝見しました」  安藤が詳しく話し出す前に、若宮は言葉を遮るように言った。「たった三ヶ月でこれだけの数字を出されるなんて、思ってもみませんでした!」  若宮はそう言いながら、スマートフォンを持つ右手に力を込めた。「そうですか、ありがとうございます」  興奮を隠しきれない若宮に対し、安藤は至って冷静だ。これくらい当然だとでも言いそうな感じすらある。「安藤さん、今はどちらにいらっしゃいますか?」「私ですか?  今は第三営業課にいますが、三ヶ月の期間が終わったので、今日はこのまま自社に戻ろうかと思っていました。若宮さんは社長室でお忙しくされていると、あの西村さん?  と言っていた女性社員の方からお聞きしたので、取り急ぎお電話だけした次第です」「そうですか。お急ぎでなければ、一度会社にお戻りになる前にお話しできませんか?  今回の報告内容の件で、お聞きしたいことがたくさんあるんです」  若宮は安藤を社長室に呼びだすことにした。安藤は自分の会社に帰るつもりだったらしいが、このままではいられない。一体何をしたのか、一刻も早く知りたかったのだ。「わかりました。では、社長室まで伺います」  安藤の承諾を取りつけ、若宮は通話を切った。  スマートフォンをデスクに置き、若宮は安藤がやってくるまでの少しばかりの時間、半分だけ閉じられたブラインドの隙間から窓の外を眺めていた。空はまぶしいほどに晴れ渡っている。若宮は、会社の再建について一筋の光明を見つけたような気がしていた。  ほどなくして、安藤が社長室のドアを叩いた。若宮は安藤を部屋へ通し、ソファへ座らせた。そして自分も安藤の真正面の位置に腰かける。  お互いの身体がソファに沈み込み、若宮がこれから始まる会話の準備のように、ゆっくりと息を吐いた。さて、と喋り始めようとしたところで、最初に口を開いたのは、意外にも安藤のほうだった。「それで、いかがでしたか?  報告書のほうは」  安藤の声が小さな社長室に響く。  若宮は、その問いに答える前に、少し前のめりになった。「正直、驚きました。あそこまでよい結果を出されるなんて」  若宮が驚きを隠さずに伝えると、何も言わずに安藤は、若宮の次の言葉を待った。「けれど、安藤さんがどうしてあんな結果を出すことができたのか、僕には見当もつかないんです。第三営業課を見ていても、そんなに特別なことをしていたとは思えないし、むしろ、不満の声すら上がっていた。それなのに、今までとは比べ物にならない数字を出すことができた。その理由を教えていただきたかったんです。それで、お呼びした次第です」  若宮は完敗だと言わんばかりに安藤への称賛の言葉を並べ、率直に聞いた。「そうでしたか」

安藤はメガネを直しながら軽く頷くと、話し始めた。「若宮さんはね、〈よい社長〉を目指しすぎていたんですよ」  予想外の言葉が投げかけられる。いや、安藤が口にする言葉は、いつも予想を外れるものばかりだ。「それは、どういうことですか?」  できるだけ平静を装いつつ尋ねた若宮だったが、内心では、心あたりがありすぎた。  〈よい社長〉というのは抽象的な言葉だが、若宮がこれまで会社経営で理想としてきたものを表すのに、これ以上ピッタリの言葉はなかった。「会社という組織において、トップである社長は部下一人ひとりの細かいところまで面倒を見てはいけないんです。そうすることで、部下は成果を上げなくても承認された気になり、成長しなくなる。さらには中間管理職も、自らの部下育成という仕事が奪われ、育たなくなるからです」  若宮は安藤の言葉にさらに引き込まれた。  安藤が提唱する理論は、今まで若宮がやってきたこととはまったくの逆方向にあるものだ。「ですが、それだと部下から不満に思われませんか?  部下の面倒はできるだけ見てやりたいです。私は、常に社員たちに寄り添った経営を目指してきたのですが?」 「……若宮さんのその考え方こそが、会社の存続を危うくしているんですよ」  自身にはっきりと向けられた鋭い指摘に、若宮は言葉を詰まらせた。  そんな当たり前のことが、会社自体を傾ける根本的な理由になりうるのだろうか?「若宮さん、その考え方は誰のためにあるものでしょう?」「え?」若宮には、安藤が何を聞いているのか意味がわからなかった。  その様子に気がついたのか、安藤はもう一度言い直す。「部下に寄り添って、面倒を見てやる、という考え方です。それは、誰のためのものですか?」「それは、もちろん会社と社員のためです。社員にのびのびと働いてもらうためには、重要なことじゃないですか?」  当たり前だ。今まで、そうやって頑張ってきた。若宮は、自らのこれまでの過去が否定される危険を感じ始めていた。奥歯に力が入る。これ以上、この話が続けば、自分が不快な思いをすることは容易に予測できた。それでも、その先を聞かなければならないという確信があった。  安藤は言葉を続ける。「違いますよ。それは、会社のためでも、社員のためでもない」  そして、最後の追い打ちがかけられた。 「……若宮さん、それはあなた自身のためです。社員に嫌われたくない、好かれる社長でいたいという思いを、若宮さん自身がかなえるためでしか、ないんですよ」  安藤の痛烈な言葉に、若宮は頭を殴られたかのような気分になった。  会社と社員たちのためにと思い、自分が今までやってきたことは、すべてが自分のためだったと言われたのだ。言いようのない羞恥心が彼を襲った。  ゆっくりと冷えていく思考回路のなかで、若宮は自身の今までの行動や記憶を反芻していた。  安藤から投げかけられた言葉は、恐らく事実だ。よい社長として振る舞い、部下の悩みをすべて自分が解決しようするあまり、社長である自分がこの組織の土台を崩していたのかもしれない。よかれと思ってしていた行動が、結果的に自社の首を締めていたのだ。「そう、だったかもしれません……」  若宮は呟くように、声を落とす。  ひどく落ち込む若宮の頭のなかでは、同時にある決意が固まっていた。  若宮は安藤をまっすぐに見つめて、口を開く。「安藤さん、先に謝らせてください。私は、識学を侮っていました。どうせ、ほかのコンサルと変わらないと思って。でも、こうして結果を見せていただきました。私自身の間違いも」「お願いします」と若宮は続けた。「私たちのオールウェイズ・アサインに識学の力を貸してください。私は、この会社を変えなければならない」  若宮の心はすでに決まっていた。識学を正式に導入する。そして、会社を建て直す。「もちろんです。最初から、そのつもりできていますから」  安藤の目が、眼鏡のレンズの向こう側で光った。どちらからともなく、二人は固い握手を交わした。  オールウェイズ・アサイン社が、新たなステージへとステップを登った瞬間だった。 *     *      *  安藤の結果報告の翌日、若宮は全部署の責任者を集め、緊急会議を開いた。  この結果をいち早く社員たちに伝え、識学を正式に全社へ導入することを発表しなくては、と考えたのだ。  急に集められた各部署の責任者たちは、何事かとどこかソワソワした様子で、第一会議室のテーブルを囲んだ。オールウェイズ・アサイン社のオフィスには、第一会議室・第二会議室の二つの会議室があり、第一会議室は数人での小規模なミーティングに、そして第二会議室は大人数を集めた大規模なミーティングを行えるだけの広さがある。  全部署の責任者が全員集まるには少し狭い第一会議室には、張り詰めた空気が流れていた。 「……あの人が安藤さんですよね?」  集まっていたうちの一人、山岸紗安佳が隣に座っている同僚に小さな声で聞く。  山岸の視線の先には、テーブルの端のほうで何か資料のようなものを確認する安藤の姿があった。今回の緊急会議に安藤も参加するのだと知って、皆が余計に動揺しているのだろう。  山岸は第二営業課の課長で、彼女の課もあまり成績が芳しくない。そのため、次に安藤の手が加わるとすれば、自分の部署であろうと思い、怯えにも似た心持ちでいた。安藤が厳しいという噂は、親しい第三営業課の者からすでに耳に入っていた。

営業職の課長という役職を務めているにも関わらず、山岸はあまり自己主張が得意な性格ではない。厳しい態度の人との付き合いは、昔から苦手だった。  皆が隣の者同士ヒソヒソと話し始めたところで、今回の緊急会議を開いた張本人、若宮が会議室に入ってきた。「みんな、集まってくれてありがとう」  そう声をかける若宮は、いつもよりずっと静かな佇まいだ。いつもは緩んでいるネクタイも今日はきっちりと締められており、スーツにもシワ一つない、どこか固い印象を与える姿がそこにはあった。その雰囲気に違和感を覚えたのか、誰かがゴクリと唾を飲み込んだ音がする。  そんな緊迫感に気がついているのかいないのか、若宮は冷静な声で、会議の本題について語り始めた。「すでにみんなの耳にも入っているかもしれないが、今回、識学の安藤さんをお呼びして、三ヶ月の間、第三営業課の担当をしてもらった。第三営業課の成績が思わしくなかったことを知らない社員は、ここにはいないはずだ。  先日、約束の三ヶ月の期間が終了した。その結果をみんなにも見てもらおうと、今日は集まってもらった。じゃあ、ここからは安藤さん、お願いします」  若宮がそう言うと、安藤はおもむろに立ち上がってモニターの電源を入れた。  映し出されたのは、第三営業課における三ヶ月前までの成績の推移と、直近三ヶ月間の成績を比較した表のようだが、まだその表には数字が入っていない。  そんな空欄の表を見せながら、安藤は静かな声で説明を始めた。「皆さん、初めまして。安藤と申します。  今回皆さんにご説明したいのは、我々が提供する識学を実際に利用した際の、御社の業績の変化についてです。私は三ヶ月前から、こちらのオフィスに通わせていただきながら、第三営業課の皆さんに業務上での指導を行ってまいりました。それについては、皆さんのなかにもご存知の方が多いかと存じます。  そして、実際に三ヶ月が経って、これまでの結果を皆さんにもお伝えさせていただければと思い、今回はこのような会議に参加いたしました。  まずは、こちらの表をご覧ください。こちらが、私が御社に関わる直前の四月までの数値です」  安藤がそう言いながら手に持ったリモコンを操作すると、縦に二分割された表の左側に四月までの成績が映し出された。  皆が食い入るようにモニターを見つめるが、その四月までの数値は、社内の誰が見てもよいとは言えないことが明らかだった。営業課だというのに、そもそもアポがとれておらず、成約率も非常に低い。  ため息をつきたくなるような表を見て、もともと安藤の関与に怯えていた山岸は、自分の課も最近は業績が振るわないのを改めて思い出し、さらに強い不安を感じる。  室内に重い空気が充満したところで、安藤は再度口を開いた。「皆さんもご覧になってわかる通り、以前の第三営業課の業績は決していいものとは言えませんでした。一方、私が識学のメソッドで指導を加えてからの数値が、こちらです」  安藤がもう一度リモコンのボタンを押すと、今度は表の右側の数値が映し出された。「え、まじか……」  その数値を見て、誰かが本音を隠しきれずに心の声をそのまま漏らした。  なんと、あの第三営業課が、業績を二倍にまで伸ばしていたのだ。「ご覧いただける通り、業績は三ヶ月前の一〇〇%増。数値だけではなく、たくさんのクライアントさまから、好印象の評価もいただいております」  安藤が至極当然のことように報告する内容に、一同は目を見開いた。  並大抵の努力じゃ、こんな数字は叩き出せない。(どうやって、こんな結果を実現させたんだろう?)  誰もが感じた疑問を最初に口にしたのは、安藤の一番近くに座っていた、執行役員で営業部長の佐伯航平だった。 「……どうして、そんなことができたんですか?」  信じられないという様子で尋ねる佐伯に、安藤はリモコンのボタンを押して、さらなる資料を映し出しながら答える。「なぜ?  というご質問に一言でお答えするなら、まずはルールを徹底させたことでしょう。  今までの御社は、一人ひとりの自由な行動や考え方に重きを置きすぎていたために、社員の統率がとれていなかった。誰もが思い思いに行動するから、誰も正しい行動ができていなかったのです。個人としてはよくても、それでは会社は伸びていきません。個を重視するよりも、組織としていかに利益を追求できるかが、会社においては重要だと社員の方々に教育いたしました」  そんな安藤の説明に熱心に耳を傾け、頷く者がいる一方で、不満をあらわにしている者もいる。  若宮の隣に座っていた副社長の添田だった。  彼は安藤を睨むように見据え、「業績が上がったとしても、あまりに軍隊的というか強制的すぎるんじゃないですかね?  それで社員たちのストレスを増やしすぎるのも、いかがなものかと。そもそも急にやってきた部外者に会社の方針を決めさせるなんて、創業メンバーとしては黙っていられませんね」  と言い放った。営業部長の佐伯も同意見なのか、小さく頷いている。  口論を避けるためか、安藤はその場では何も言わなかった。しかし、二人の間に対立が生じているのは火を見るより明らかだ。  さらに添田は、安藤を採用しようとしている若宮にも厳しい目線を向けるが、若宮としても簡単には引き下がれない。いくら創業メンバーの意見といえども、会社の厳しい現状を放置するわけにはいかないのだ。「たしかに難しい部分もあるが、そこは安藤さんもプロなのだから、少しずつ適用していけばいいんじゃないかな。とにかく、識学を全社に導入する形で改革を進めていきたいと思う」  若宮はそう言って、一歩も譲ることがなかった。そうしてピリついた空気のなか、その日の緊急会議は終わりを迎えた。(添田や佐伯は、やっぱり賛成してくれないのか……)  添田は会社をともに立ち上げた仲間であり、そんな彼が猛反対しているという事実は、いくら決意を固めた若宮でもこたえた。  肩を落としてトボトボと社長室に戻る途中で、ポケットに入れていたスマートフォンが振動する。取り出して画面を確認すると、財前からの着信だった。  こんなときに声を聞きたい相手ではないのだが、無視すれば後々面倒なことになるとわかっているので、仕方なく応答ボタンを押す。

「はい、もしもし」  こちらの心情を悟られないように軽い声で応えると、財前はいつもの調子で話し始めた。「ああ、若宮社長、最近はいかがですかぁ?  あの話から三ヶ月経ちましたけれど、会社、うまくいきそうですかぁ?」  まるで、うまくいくわけがないと確信しているような、こちらを小馬鹿にしたような間延びした声が若宮の神経を逆なでし、年甲斐もなくムキになりそうになった。「財前さんでしたか。随分とご心配いただいているようで、痛み入ります。……ですけどね、うちにもよいコンサルが入りまして、業績もぐんぐん上がっていますから。どうぞ、ご安心を」  若宮はイライラしながらも、安藤のことを思い出して少し胸を張って答える。  財前は、以前とは違う自信ありげな若宮の様子が面白くなかったのだろう。「へぇ、それは素晴らしい。期待しておりますよ」  とつまらなそうな声とともに、手短に電話が切られた。  通話が終了すると、若宮は足早に社長室に戻り、バタリと音を立ててドアを閉める。「クッソ、絶対あいつの好きにはさせないからなぁぁぁ!!!」  若宮の怒りのこもった声は、部屋の壁に吸い込まれ、誰の耳にも届くことはなかった。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次