質問と疑問は違う
質問するためには、「これでいいのかな?」とか、「なにか変だな」「なにか嫌だな」とモヤモヤ感じていることを、具体的につかまなければなりません。
質問と似たようなものには、疑問があります。同じようなものに見えますが、ここでは、疑問と質問をハッキリと区別します。
- 疑問:世界に対するあいまいな違和感、ひっかかり
- 質問:具体性があり、解決に導くと定義するなら、あいまいな疑問を具体的な質問に変えることが重要です。
- 疑問:感情力(モヤモヤと違和感を感じる力)
- 質問:論理力(具体的に解決につながるように提案する力)
と言えるのかもしれません。
あいまいな違和感は、どうしたらいい質問に変わるのでしょうか。これには、感情と論理の橋渡しができるようにならなければなりません。そこでカギになるのは「メタ認知」です。
「メタ認知」とは、自分の感情を冷静に観察し、「今、自分の状態はこうだ」「自分はこんな感情を持っている」と気づく力のことです。
なんとなくモヤモヤしたり、イライラしたりしていても、「自分はこんな感情でいるのだな」と言葉で認識することなく過ごしている人が多いようです。
自分が「なにかイヤだと思っている」とまずしっかりと把握しないと、「変えよう」という気持ちになることはできません。
いい質問は、自分の感情を常にメタ認知していないとできないものです。
感情力。メタ認知力。論理力。これがいい質問を生む「三つのステップ」です。
詳しく説明していきましょう。
自分の中の違和感に気づく
『ウェブ進化論』(ちくま新書)を書かれた梅田望夫さんと対談したとき、こんなお話を聞きました。
昔、梅田さんの先生にあたる人のところへフロッピーディスクが届いたそうです。まだCDすら開発されていなかったころのことです。そのフロッピーディスクは大事なものなので、厳重に梱包されていました。
その包みを見て先生は、梅田さんの目の前で猛烈に怒り出し、ビリビリと破り始めたのだそうです。
「俺に必要なのは、このフロッピーディスクの中身だけなのに、なぜこんなにも余計なものがついているのだ!どうしてこんなに回りくどいのか!」彼はそう叫んだそうです。
大事なデータを守るために何重にも梱包するという「常識」に強烈な違和感を抱いたのです。考えてみれば、必要なのはデータだけで、その周りについている梱包は余計ではあります。
現在では、インターネットでソフトをダウンロードすることが常識になりました。
梱包どころか、データの周りについていた物理的な「モノ」は、ドンドン削られてきています。
しかし、当時の人たちからすれば、大切なデータの入ったフロッピーディスクを保護するために梱包したのに、「なぜ怒られるのか」と困惑したに違いありません。「なにか変だ!」「イヤだ!」その梱包に違和感を持つことのほうが、難しかったはずです。
「データが届くと、いつも梱包をほどかなければならないのは面倒くさい」「もっと違うやり方があるはずだ」「これは私が望んでいるものだろうか」こうしたモヤモヤする気持ちを「『こんなものはいらない』と私は感じている」とメタ認知ができたとき、論理の力で次のように質問することができるようになります。
「どうしたらデータだけを届けられるのだろうか?」おそらくこうした質問があったからこそ、フロッピーディスクから、ソフトのダウンロードへの進化が起こってきました。
日常生活でも、コンビニエンスストアで、賞味期限切れのお弁当が大量に廃棄されていることについて、違和感を持っている人はたくさんいるのではないでしょうか。
その違和感をモヤモヤのまま終わらせないで、ハッキリと「私はこれがイヤなのだな」とメタ認識して、「では、どうしたらムダをなくせるか?」と質問をしていく。
こうして論理の力で一つ一つ具体的に解決できる質問に書き換えることができます。
現状へ違和感を持つ感情力。それに気づくメタ認知力。「どうするか」考える論理の力。これらが一体となっていい質問が生まれます。
感情が、質問のスターティング・ポイントです。
感情と論理の橋渡しをする
どうしても「質問力」を考えるのに、感情とはどういうものか、論理とはどういうものか、を説明しておかなければなりません。
現代の脳科学で明らかになってきた「感情」「論理」は、日常言語で使われているそれらとは少々意味が異なります。
みなさんは、「感情的になってはいけない」と思ってはいませんか?あるいは、「論理」に、ちょっと非道で、冷たいイメージを持っていませんか?現代の脳科学では、感情と理性とは一体のものだと考えられています。
感情なしで理性は存在しないのです。
私たちが、「これが理性だ」「これが論理だ」「これが正解だ」と考えているものこそ、実は感情に支配されています。
イソップ童話の『すっぱい葡萄』がいい例です。
キツネが、高いところになっているぶどうを「おいしそうだなあ」「食べたいなあ」と眺めています。
キツネは木に登ろうとしてみたり、ジャンプしてみたり、自分にできることを試してみますが、ぶどうを取ることができません。そのうちにこう信じ込むようになります。
「なんだ、あんなぶどう、おいしくないに決まっている」「どうしても食べたい」のに、どうしても取ることができない。
自分の強い欲求が実現できない居心地の悪さを解消するために、人間は、無意識のうちに信念(つまり「あのぶどうはおいしいに違いない」というもともとの確信)を書き換えてしまうことがよくあります。
キツネは、「おいしそうだ」と思ったくせに、自分が取ることができないと分かった途端に「おいしくないに違いない」と非難するようになってしまいました。
ぶどうはなんにも変わっていないのにもかかわらず……。このように人間は、自分の感情をもとにして、信念をつくっています。
》感情をごまかさない
実際に、アメリカの心理学者、レオン・フェスティンガー博士により、こんな実験が行われました。
それは、単純でつまらない作業を長い時間させたのちに報酬を与えるというものです。ある人たちには低い報酬が渡され、別のある人たちには高い報酬が渡されます。
その後、「この仕事はどのくらい楽しかったか」というアンケートに答えてもらいます。
驚くべきことに、同じ作業をしたにもかかわらず、低い報酬をもらった人たちは、高い報酬をもらった人たちよりも、「楽しい仕事」だったと答えました。
単純な作業で苦痛が大きい仕事のうえに、低い報酬しかもらえなかったとしたら、「最悪な仕事じゃないか!」と、人は思うものです。
しかし、面白くない仕事で、お金も少ないとなったら、当人にしてみれば、自分がなんのために時間とエネルギーを費やしたのか、分からなくなります。
だからこそ、その居心地の悪さを解消するために、「自分がやったのは、本当は意味のある、楽しい仕事だったのかもしれない」と信じ込むようになってしまうのです。
居心地の悪さを解消しようとして、ムリに正当化をしてしまう。これを「認知的不協和」と呼びます。
みなさんにも思い当たることがありませんか。
たとえば、とても大好きで「いいところばっかり」の人がいたのに、フラれてしまった途端に、「あんなヤツ最低だ!」と思い込むようになってしまう。
キツネが「あのぶどうはすっぱいに違いない」と信念をすり替えたのと同じです。
自分が「こうだ」と信じ込んでいることは、実は感情をベースにつくられた偏見にすぎません。
「あいつは最低なヤツだ」という自分の信念は、根拠のある「事実」だと思い込んでいますが、実は、「手に入れることができなくて悔しい」という感情からつくられているものです。
「感情」から「自分の中の真実」がつくられます。自分の世界の見方は、感情に左右されています。
だからこそ、自分の感情をごまかさないで、ありのままに気づくこと、すなわち自分の感情を素直にメタ認知することがとても大事なのです。
居心地の悪さを正当化してしまうのではなく、「自分は今これが悔しいのだな」「これで傷ついて悲しいのだな」とそのままにメタ認知して、「ではどうしたらいいだろう?」というポジティブな方向へ進む。
そうするのが、質問なのです。
誰の人生にも偏りがある
一番広い意味での感情は、こんなふうに定義することができます。
「どういう答えでもいいのだけれど、なぜかその答えを選んでいる」さまざまな職業があるのに、私はなぜだか科学者を選んでいます。
もしかしたら編集者だったかもしれないし、記者だったかもしれない、あるいは看護師や主夫だったかもしれません。
私は、子どものころから、蝶を捕るのが好きで、アインシュタインの本が好きで、物理学が好きで、ロジャー・ペンローズの本が好きになった……。
そのときどきに自分が出合うものの中で、「こっちのほうがいいな」「今はなんとなくこっちをやってみよう」と選んできた結果、科学者になりました。
つまり、感情が職業を決めたのです。
子どもを観察していると、「これイヤ!」とポイッとおもちゃを放ったり、「これスキ!」と手放さなかったり、初めから好き嫌いがあります。それには別に理由はありません。
根拠があって好きなわけではなくて、その子の生まれ持った性質がそうさせています。
「どんな仕事を選ぶか」なんて大事な問題は、熟慮したうえで(つまり論理で)決めているように見えますが、絶対にそうではありません。なぜかと言えば、正解のない問題だからです。
科学者でも編集者でも野球選手でも電気屋でも、その人が楽しいと思って打ち込めるのならどれも素晴らしいのであって、「どういう仕事がいいか」など誰にも決定できません。論理的には1位は決まらない。だから好き嫌いで決めているのです。
正解がないから、どうすればいいか論理では決められないところに、感情が「なんとなくこっちが好きだな」と偏りをつけてくれる。
感情によって誰もが今いる場所へ導かれてきたのです。生きることは、偏りがあるということです。
神様ではないのだし、人はみな偏っていて、その偏りが「自分」を表すと言っていい。
誰もが偏っていて、独自の特徴を持っています。
だからこそ正直にそれをメタ認知するべきで、そうすれば自分の道を拓くことができます。
偏っていることは悪いことだと思われがちですが、そうではありません。
人生の問題について論理的な正解はいつまでも出ないし、感情が偏りをつけてくれなければ、私たちは行動できなくなってしまいます。
問題なのは偏りがあることではなくて、偏っていることに気づかないことです。
認知的不協和で見たように、自分が持っている世界の見方が偏見であると気づかず、正当化してしまう。そうしてしまうと、自分らしい道を知らずに生きることになります。
》論理の力で解決する
それでは、論理とはなんでしょうか。
メタ認知を通して気づいた自分の偏りを修正し、実行、失敗を繰り返し、新しい世界に導く力のことです。論理は、メタ認知して言葉にしたものに対して働きます。
つまり、あいまいな感情を「カギとなるいい質問」にする最後のひと手間にすぎません。
実際に感情は生まれつきのものですが、論理力は、人間の発達の段階としても最後に身につくものと言われています。
感情がすべての基本です。
こんな感情を持っていて恥ずかしいと邪険にしたり、ムリな正当化をしたりすることなく、ありのままにメタ認知して自分の育つ種にすることが必要なのです。
自分の感情に気づくレッスン
自分がどんな偏りをもった人間かを知るレッスンをしてみましょう。
レッスン1あなたが人生の中でした重要な決断を一つ思い浮かべてください。
たとえば、進学先、就職先をそこに決めたとき。この人に告白しようと決めたとき。会社を辞めようと決めたときなど。
決め手になったと思う理由をできる限り多く書き出してみてください。あなたはなにを大事にする人なのでしょうか。
自分が論理で決めたと思っているその理由のほかに、考えられる理由はありませんか?自分が今まで気づかなかった、ものごとを動かしていた大事な理由が見えてくるかもしれません。
レッスン2あなたが今、心の中でついつい批判してしまう人がいるとしたら、なにがイヤなのか、なにが原因なのか、書き出してみてください。
本当にその人が原因であることもあれば、あなたが原因であることもあるでしょう。
たとえば、執拗に誰かの行動が気になって非難してしまうとき。
その誰かが悪いのではなくて、その人が持っているポジションにあなたが嫉妬しているだけなのかもしれません。
質問とは自分との対話
私のライフワークは、「クオリア」です。
赤い色を見ているときの、その赤い質感。好きな人の前にいるときの、そのドキドキする感覚。冷たい飲み物の入った透明なグラスについた、汗をかいているかのような、その水滴の質感。
私たちが心の中で感じているありとあらゆる「質感」をクオリアと呼びます。
このクオリアが脳の中でどのように生み出されているのかは、まだ誰も解いていない、ノーベル賞100個分にも相当する、難しい質問です。
なぜそんなに難しいかといえば、これが問題であるということすら気づきにくいからです。
赤い光という物理刺激が、目に入って細胞を刺激して、電気信号に変換されて、脳の中を駆け巡る。
そうして、赤い色が見えるわけです。
その物理的な過程をすべて書き下すことができれば、「赤い色が見えるときになにが起こっているか」が説明されたことになります。
ほとんどの科学者がそう思っていたし、今でもそう思っている人たちは多いようです。
けれども、どうして700ナノメートルの波長の光、脳の中の電気信号が私たちの心の中の「赤い質感」に変わるのでしょうか。
「質感」とはいったいなんなのでしょうか。
物理的な脳に起こる過程とはどう対応しているのでしょうか。
私は、31歳のとき、電車の中で揺られながら、いつものように考えごとをしてノートにたくさん難しい計算式を書きつけていました。
すると突然「ガタン、ゴトン」と、電車の立てる音が耳の奥に響いてきたのです。
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
「この音は何ヘルツ、それが耳のこの細胞をこう刺激して、脳の領域を、このようにして伝わる」「それはそうだろうけれど、その物理的過程がどうしてこんな音の質感に変わるのだろうか?」「私の感じているこの音は、そんな説明には回収されない、独特の質感を持っているのではないだろうか?」
啓示のようにそうハッキリと感じて、鳥肌が立ってしまいました。
私は、この問題に気づいたことによって、「クオリアの人」として仕事をいただけるようになりましたし、なにより一生飽きずに考え続けられる自分のテーマを得ることができました。
外から問題を与えられるのではなく、自分の問題を見つけると自立して生きていけるようにもなるのです。
このような自分を一生支えてくれる発見や、ひらめきは、どのようにして起こるのかと言えば、それはやはり、自分の感情との対話、つまりメタ認知を通して起こります。
私は、同じ業界の人たちの論文を読んだり、学会発表を聞いたり、彼らと議論したりしていて、物理的な説明で満足するような発言にずっと違和感を覚えていました。
しかし、モヤモヤしながらも、同じようなアプローチで研究していたし、その違和感がそれほど明確になってはいませんでした。
長年「なにか違う」「どうしてなんだろう?」「なにがイヤなのだろう?」と自分に問い続けて、ようやくこの電車に乗っている瞬間に、ハッキリとメタ認知できました。
自分自身をメタ認知する
自分自身を知るのは、本当に難しいことです。性格についても同じで、他人から見れば一目瞭然でも、自分では気づいていないことがあります。他人が見るように自分のことを見るのがメタ認知なわけですが、それには練習が必要です。
私は50歳まで、自分に落ち着きがないことに気づきませんでした。
何度も他人からは「落ち着きがない」と指摘されていたにもかかわらず、です。
小学校に入学した最初のホームルームのときに、ソワソワしていたのか、「ボク、飽きちゃったかな?」と先生に声をかけられて、真っ赤になった思い出があります。
以来、成績表には常に「落ち着きがない」と書かれていました。
それなのに、そういう言葉を自分で聞いて本当に納得するまでには、とても時間がかかりました。
私は、小学校や、中学・高校で、講演会をやらせていただくときに、メタ認知の練習をしてもらうことがあります。
生徒を壇上に呼んで、自分の欠点を話してもらいます。
次に、その友人たちも呼んで、その子についての意見を聞きます。
自分が見ている自分と、他人が見ている自分がどれだけ違うのか、言葉にして体験してもらうためです。
あるとき、こんなことがありました。
ある生徒の欠点について、友人が「話が長い」と指摘しました。
私が「彼は、『君は話が長い』と言っているけれど、自分で気づいていた?」と聞くと、本人は「気づいていなかった」と言います。
その友人に、「今、初めて言ったの?」と私が聞くと、「何度も『話が長いぞ』って肩をたたいたり、ふざけたりしてきた」と言うではないですか。
他人は、自分についてさまざまなシグナルを送ってくれています。
直接的に言葉で指摘することもあれば、顔の表情に出していることもあります。
それなのに、どうしてか気づかずに過ごしてしまいます。
ときには、こうして明確に、自分自身を厳しく見る機会があっていいと思います。
》欠点と長所は表裏一体
欠点を他人に指摘させるなんて、「ひどい講師だ」と思われるかもしれません。
しかし、「欠点は長所と一体となっている」というのが、脳科学の常識です。
私自身は「落ち着きがない」という欠点を持っているわけですが、それは裏を返せば「切り替えが早い」という長所でもあります。
この落ち着きのなさのおかげで、研究をしたり、文章を書いたり、テレビに出たりと、複数の仕事をかけもちすることができています。
自分で欠点を自覚できた後のほうが、それを長所として活かすことができるようになりました。
欠点とは「直さなければならないところ」を言うのではなく、その人の大切な個性です。
他人が見るようにちゃんと認識することで、自分をより活かせるようになります。他人の言葉は、拾おうと努めれば、恵みになります。
私自身、これまで他人からかなりの批判を受けてきました。
「なんでも屋だ」「科学者なのにテレビに出て不真面目だ」「あんなにテレビに出ていたら、ろくに研究ができていないに違いない」「うさんくさい」初めはどうしてそういうことを言われるのかよく理解できませんでした。
しかし、好意的な意見から批判的なものまで、人の言うことをたくさん聞いているうちに分かったことがあります。
「自分は本当に落ち着きがないおかげで、多種多様な仕事がやれているんだな」「批判はもっともで、そう見えるのは仕方がないけれど、どの仕事をやるときも、自分なりのベストは尽くしているからこれでいい」そうやって生き方について納得できるようになりました。
自分の問題を明確にすることは、とても勇気と練習のいることですが、よりよく生きるためには絶対に不可欠なことです。
いい質問ができれば、答えは半分出たようなもの
私は、最近LINEブログで『脳なんでも相談室』を開設して、読者の方に自由に相談ごとを書き込んでもらっています。
ここに寄せられる質問を見ても、「自分の問題をちゃんと把握できていないな」と感じることがよくあります。
たとえば、入試が終わったばかりの3月には、こんな質問がありました。
「大学受験に落ちてしまいました。浪人する気がありません。でも科学者になりたいと思っています。大学に行かなくても科学者になる方法はありますか?」余談ですが、受験関連の質問は本当によく寄せられます。
偏差値重視の「受験」というものが、どれだけ子どもたちの負担になっているかが見えるので、私は憤りを感じます。
私が「世界を変えたい」と思うことの一つは、日本の偏差値入試です。
この質問をした人の中核にある気持ちは、次のようなものではないでしょうか。
「大学受験に疲れてしまった。今はもう努力する気になれない」だから本当は「大学に行かなくても科学者になる方法」が聞きたいのではなく、次のことが聞きたいのではないでしょうか。
「どうしたらもう一度勇気を振り絞って困難に立ち向かっていけますか?」自分で自分自身の中核にある感情に気がついて、このように質問することができたなら、「ああ、今は疲れているのだな。少し休むことが先決だ」という解が出てくるはずです。
自分自身をごまかさず、自分がとらわれている感情に気がつくことが重要なのです。
もしも本当に大学に行かずに科学者になることを考えるならば、次の質問もすべきです。
「大学に行かないで科学者になるのと、大学に行って科学者になるのとでは、どちらのほうがより努力や才能を必要としますか?」
この質問ができれば、大学に行かないで科学者になることは可能ですが、ほとんどの人にとっては「大学に行かないで科学者になるほうが才能と努力が必要だろう」ということが明らかに見えてきます。
疲れていることが今問題なのに、大学に行かないで科学者になろうとしたら、もっと大変なことになってしまいます。
疲れていると自覚できたら、「浪人したほうがいい」という解に至るかもしれません。
「いい質問ができれば、答えは出ているものだ」とよく言われますが、それはこの意味で本当なのです。
何が問題かが正確につかめていれば、自ずと解は出てきます。自分の状態を正確に把握するのは難しいことです。人はたいてい、自分の感情をごまかして、あいまいに把握しています。
もしも「疲れてしまった」と感情を正確に把握することができたなら、その瞬間に「じゃあ、休もうか?」と論理の力で答えを導けます。
自分の状態をごまかさなければ、瞬時に解決に導くような「いい質問」ができるようになります。
人生の選択肢を広げるツール
質問することがなぜ大事なのでしょうか。
ここまでお話ししてきて、なんとなく理解できたのではないでしょうか。世の中には、本当の答え、正解があるわけではありません。
またあるとしても、一つとは限りません。
私たちが答えだと思っているものは、多くの人が「なんとなくこれが正しい」「このへんが妥当だろう」と勝手に思い込んでいたり、信じ込まされたりしているものです。
いわゆる常識とか道徳、しきたり・作法、ノウハウ、過去の成功体験などが、それに相当します。しかし、それが今も、そしてこれからも通用するとは限りません。
また、誰にでも当てはまるものでもありません。
99人には有効でも、たった一人には不便このうえないことがあります。
不便に感じている人が、「99人がいい」と言っているからといって、自分だけ我慢する必要はないはずです。もっとほかのもの、ほかのやり方、自分にピッタリ合うものに変える自由はあります。
誰もが自分にとっての気持ちのいい生き方を模索する自由を持っています。その選択肢をつくり出すツール。それが、質問です。
答えがあるかないかも分からない。もしあっても、たくさんある中から選ぶのは大変。だったら、質問なんてしなくてもいい……。その考えは一理あるように見えますが、違います。それは、「思考停止」です。
答えがあるかどうか分からない、そしていくつもあるかもしれないからこそ、質問していきます。本来、工夫するのは楽しいことです。
あなた自身、困ったとき、「どうしたらいいだろうか」「どんなことをすればいいのかな」と無意識に自分や周りにいる誰かに問いかけているはずです。
それをもっと自覚的に、結果に結びつくようにしていけばいいのです。
一気に大きな前進を求めるから、質問することがもどかしく見えてしまうのかもしれません。
みんなが言う「正解」、みんなが言う「ベスト」ではなく、今の状況がほんのちょっとでも快適になる、自分ができること。
それを実際にやってみるだけでいいのです。
改めて言いますが、質問とはなんでしょうか。
質問とは、現状を少しずつ、しかし結果的には大きく変えていく力。自分にとってのいい生き方・行動・思考を導き出す力。質問によって、自分が快適に生きるための新しい選択肢ができます。
世の中には三つのタイプがいる
カテゴリー分けはあまり好きではありませんが、大まかに言って、世の中には2種類の人間がいます。
ここまで読んだあなたなら、もうお分かりになるかもしれません。
それは、「質問ができる人」と「質問ができない人」です。
質問ができるかできないか──。
それは、人生において大きな差をもたらすと言っても、過言ではありません。質問によって得られるものはなんでしょうか。一つは、問題解決。質問することで、具体的に取り組むことが可能になり、結果が出る。結果が見えれば、自信もつくものです。
そして、自分自身を知ること。自分のことはたいていよく理解できていないものです。本当はこういうことがしたかった。あのときはこんなふうに思っていた。嫌いだと思っていたものが実は好きだった……。
質問は、そうした自分自身が気づいていない本当の自分に気づかせてくれます。質問とは、極めてクリエイティブな行為です。
質問をしていくことで、自分の人生を変えていく。質問で自分の人生を自由につくっていくと言っても、決して大げさではありません。質問をしなければ、自分で自分の人生をつくり出すことはできません。
ある意味では、他人がつくったルールや常識、やり方に従って、唯々諾々と人生を送ることになります。
創造性も自由もない。そんな人生を送ることになりかねません。
世間体や常識、誰かがつくったルールの範囲内で人生を送るのですから、本当の意味で自分の人生を充実させることが難しくなります。
それは、決して居心地のいいものではないはずです。自分の人生を無為にすることにつながっていきます。
》質問する人の二つのタイプ
質問ができる人と質問ができない人。この二つのタイプがいると申し上げました。より正確に言うと、質問ができる人も、さらに二つに分けることができます。それは、「いい質問ができる人」と「悪い質問をする人」です。
従って、世の中には三つのタイプがいます。「いい質問ができる人」と「悪い質問をする人」そして「質問ができない人」です。
質問は、むやみにできればいいというものではありません。
「いい/悪い」の境界線は、ハッキリとありますが、多くの人はそのことに気づいていません。
自分がいい質問をしていると思っていても、実は悪い質問をしているケースは多く見られます。残念ながら、ほとんどの人が、このケースに当てはまります。
いい質問をすれば、行動することでモヤモヤが解消できるし、結果も出せるようになります。
悪い質問をすると、どうなるのでしょうか。モヤモヤを一時的には解消できますが、根本的には解決していないので、何度も同じ問題に遭遇することになります。
自分自身が成長していないので、何度も同じモヤモヤを抱えてしまいます。
いい質問と悪い質問──。そこには、どんな違いがあるのでしょうか。
それを次章でお話ししていきます。
2章のポイント
- 疑問とは、曖昧な違和感。質問とは具体性があり、解決に導くもの。両者は根本的に異なる。
- いい質問をするためには、感情と論理の橋渡しをしなければならない。
- 居心地の悪さを解消しようとして、ムリに自分自身を納得させることを「認知的不協和」といい、多くの人が無意識にしている。
- 感情から自分の中の真実がつくられる。
- 誰もが偏りを持っていて、独自の特徴を持っている。
- 発見やひらめきは、メタ認知を通じて起こる。
- 自分自身をメタ認知することは、本当に難しい。
- 世の中には、「いい質問ができる人」「悪い質問をする人」「質問ができない人」の3タイプがいる。
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